2024年1月20日土曜日

ヤコブの手紙緒論

ヤコブの手紙緒論 


  ヤコブ書は、7つある公同書簡の中の一つである(公同書簡:ヤコブ、1ペトロ、2ペトロ、1ヨハネ、2ヨハネ、3ヨハネ、ユダ)。公同書簡の「公同」は「普遍」を意味する。その「普遍」とは、書簡の送り先が特定の限定された個教会や地域の教会ではなく、もっと広く一般的に読まれるよう意図されて書かれていることを表している。なお、公同書簡は、パウロ書簡及びヘブライ人への手紙を除いた書簡群に相当する。


 執筆者

 著者については、「主イエス・キリストの僕であるヤコブ」(1:1)と記されているが、ヤコブと名のつく人物は新約では4名存在し、いずれを指すのかが問題となる(使徒ヨハネの兄弟でゼベダイの子ヤコブ、アルファイの子ヤコブ、使徒タダイの父ヤコブ、主イエスの兄弟ヤコブ)。ゼベダイの子ヤコブは紀元44年と早い時代に殉教しているので想定し難い。アルファイの子ヤコブ、使徒タダイの父ヤコブは、1:1のような漠然とした書き方でもって執筆者が誰であるかが自明であるような知名度を持っていない。そのため、古代教会時代の教父たちはこのヤコブを、イエスの兄弟ヤコブと見なしてきた(パウロは彼を、「主の兄弟」「教会の主だった三人の一人」と呼んでいる。ガラテヤ1:19、2:9)。

 それ以降の時代においても殆どの人々が同様に主張してきたが、ルターは勘違いから使徒ヤコブと見なし、カルヴァンはアルファイの子ヤコブと主の兄弟ヤコブの双方の可能性を指摘している。


 他方、今日の研究者の多くは、執筆者が主の兄弟ヤコブであるとの見解を否定している。その理由は、第一に、ヤコブの手紙のギリシア語が、これを母語としている者ではなければ書けない高いレベルを保持していることであり、同語を母語としない主の兄弟ヤコブが書けたとは思えない。別人が口述筆記をしたとか、後から編集されて語句が整えられたとする説があるが、いずれも本書の著者を主の兄弟ヤコブと同定しようという意図から出された仮説に過ぎない。


 第二に、本書に見られる教会の職制に関する記述から、「長老」という用語の定着以降、「監督」以前の時代、すなわち紀元70年から80年にかけて成立したと推測され、これが主の兄弟ヤコブの推定死亡年である紀元62年頃とかけ離れていることである。


 受容史

 古代教会時代における本書の受容は遅く、4世紀後半から5世紀に活動したヒエロニムス、アウグスティヌスに至るまで、明瞭な言及は見られない。その理由は恐らく、本書の真筆性、すなわち、主の兄弟ヤコブによって執筆されたということが古代教会時代から疑われていたことが関与している。オリゲネスは「ヤコブの手紙であると見なされている」という断定を避ける書き方をしているし、エウセビオスは、本書を公同書簡の最初のものと述べつつも、これが偽書であると見なされていることを指摘している。


 また、内容的にも、ヤコブ書が展開している<行いを伴う信仰>という主題が、パウロ神学における信仰義認論と矛盾しかねない関係にあることも理由として挙げられるだろう。実際、アウグスティヌスは、パウロの行いを信仰以前のもの、ヤコブの行いを信仰以後のものとして、両者を調停させている。


 宗教改革時代、パウロの信仰義認論から着想を得て「信仰のみ」を唱えたルターは、ヤコブ書において主張されている信仰義認論に対する批判的な文言及び実践の重視が彼の論に合わなかったため、「藁の書」と呼んで軽視した。また、福音的なものは何ら本書に含まれていないとさえ述べた。


 成立場所

 成立場所の特定は非常に困難である。ディアスポラのユダヤ人や異邦人が読者として推定されること、そして、本書がパウロ神学を部分的に批判の対象としていることから、パウロが袂を分かったアンティオキア教会の可能性を指摘する研究者もいる。

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