2026年3月31日火曜日

【キリスト教解説】「イースター」(復活祭)—意味、名称由来、移動祝祭日

 


1. 意味、概要

 イースターは、キリストの復活を記念して祝われるキリスト教の重要な祭日。

2. 名称の由来

 名称の由来についてはゲルマン神話の春の女神(元来は夜明けの女神)「エオストレ(Ēostre)」に由来するという説が主流。

 8世紀のイングランドの修道士・歴史家 ベーダ(Bede) が著書『自然の計算(De temporum ratione)』の中で、 4月は春の女神エオストレの名に因んで古英語でエオストル月と呼ばれ、 キリスト教徒はこの時期の祭りを「Easter」と呼ぶようになったと述べている。
 要するに、ゲルマン民族における異教の春祭りの名称が、キリスト教の復活祭に転用されたということになる。

3. イースターの日付の設定法と移動祝祭日

 クリスマスが毎年12月25日と固定されているのに対し、イースターは 春分(教会暦では3月21日と固定され、天文学的な春分とは一致しない)以降に訪れる最初の満月の次の日曜日 と定められており、毎年日付が変動する。
 この規定は、325年に開催されたキリスト教史上初の全教会会議である ニカイア公会議 において取り決められたもので、当時、地域によって異なっていたイースターの日付を統一することが目的であった(14日に祝う習慣の地域もあった)。
 この日付決定には、太陽暦(春分)と太陰暦(満月)という異なる暦体系が組み合わされている。これは、イエスの受難と復活がユダヤ教の過越祭(Pesach)の時期と深く結びついているためである。過越祭はユダヤ暦(太陰太陽暦)に基づいており、その伝統を部分的に継承したキリスト教は、太陽暦と太陰暦の双方を参照する独自の計算方法を必要とした。この複雑な暦法的・天文学的計算は コンプトゥス(Computus) と呼ばれる。
 移動するイースターの日付の振れ幅は以下の通り。
  • 最も早い日付:3月22日
  • 最も遅い日付:4月25日

 イースターのように日付が毎年変動する祝日は 移動祝日(movable feast) と呼ばれる。イースターはその代表例であり、さらにイースターを基準として、受難日や聖霊降臨祭(ペンテコステ)など、多くの教会暦上の祝日が連動して動くため、教会暦全体の中心軸の役割を果たしている。
  • 灰の水曜日(イースターの46日前)
  • 受難日(Good Friday)(直前の金曜日)
  • 昇天日(39日後)
  • 聖霊降臨祭(ペンテコステ)(49日後)

4. 西方教会と東方教会で日付が異なる理由

イースターの日付は、西方、東方、それと連動しての教派によって異なる。
  •  西方教会(カトリック・プロテスタント):グレゴリオ暦
  • 東方教会(正教会):ユリウス暦を基準に計算
暦法の違いにより、「春分」や「満月」の取り扱い法が異なるため、日付がずれることがある。

5. イースターの象徴—卵とウサギ

  • 卵=「イースターエッグ」:命の象徴として、中世時代のヨーロッパで広まった。
  • ウサギ=「イースターバニー」:ゲルマン系民俗では多産のために生命の象徴とされていたウサギがイースターに転用され、これがアメリカに伝わり流通した。これもまた、異教文化がキリスト教文化と融合した一例である。

【宗教学解説動画】デーモン(Demon)とサタン(Satan)の違い—悪魔学と悪魔論の違い

 

ーーーレジュメーーー

【宗教学】デーモン(Demon)とサタン(Satan)の違い


1 用語の問題

・用語上、「悪魔」と呼ばれて、一緒くたにされて使われている場合も多いが…

  デーモンは、Demon  広く悪魔的、魔物的、悪霊的存在

  サタンは、   Satan   聖書に登場するサタン

       サタン=神に敵対(シャイターン)する元・天使とよくされる

 →サタンは旧約、新約聖書で言及 ーキリスト教概念

      旧約聖書に登場    ー旧約を共有するユダヤ教、イスラム概念


・これに伴い、その「学」の呼称、内容についても相違あり

  悪魔「学」  Demonology ー広く悪魔的、魔物的存在

  悪魔「論」  Satanology  

    ーキリスト教、ユダヤ教、イスラムにおける「サタン」

 *使い分けが意識されていないケースもあり。


2 悪魔(Demon)

・ざっくり、魔物、悪霊、霊的存在、神的存在もろもろ。


・ギリシャ語の「ダイモーン」(神的、霊的存在の意)に由来。

 必ずしも人間にとって悪の存在とは限らない。善の働きも。

 同様に、天狗も悪的な妖怪的存在である一方、中立的。


・初期キリスト教時代

 キリスト教が、ローマや欧州、東方の多様な多神教的世界観の魔物を取り込む。

 悪魔の意味合いが、悪的存在へと傾斜していく。

 =ラテン語におけるDaemonのニュアンス


・古代時代から中世時代にかけて

 聖書的な絶対悪としての存在であるサタンと、デーモンが融合していく。

 意味合いの変遷例:1 上級サタンの手下が、下級デーモン

      神学者により、悪魔界の序列という世界観形成が進む

       →悪魔に関する説を研究する学=狭義の「悪魔論」


3 サタン(悪魔、Satan)

・聖書(旧約聖書、新約聖書)で言及される「サタン」

 ヘブライ語で、神に敵対的な意味を持つ「シャイターン」が語源

 キリスト教、および旧約聖書を共有するユダヤ教、イスラムに必然的に限定。


・聖書におけるサタン、神学者などの論 =×悪魔「学」 ⚪︎悪魔「論」

 神学者の例:エイレナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、

       アウグスティヌスなど

・上述のように、サタンとデーモンの意味合いの用例的な融合が進む。

 サタンがデーモンであったり、デーモンが悪霊であったり…。


4 サタンと悪魔の性質上の違い

・悪魔は基本的には、魔物的で恐怖の存在となっていったが、絶対悪でもない

・サタンは基本、絶対悪。(上記の天狗のように例外的な伝承があるかも)

 神に敵対し、人間に誘いをかけ、神から引き離していく存在。絶対悪。

・魔物的な悪魔や悪霊は、人間に直接的(物理的・精神的)な危害を加える

 他方、サタンは人間を唆して神から引き離すため、原則、危害は加えない。

 ただし、後代の伝承過程で、デーモンとサタンが融合してくと、その限りでなし

【目次】キリスト教史(教会史)関連

【解説動画】

【キリスト教史解説】ヒッポリュトス ー教父、対立教皇、サベリウス主義批判

【キリスト教史解説】古代教会時代の修道院運動

【キリスト教史解説】ヒエラポリスのパピアス

【キリスト教史解説】ドナティスト論争

【キリスト教史解説】聖遺物、聖遺物崇敬ー「聖人の遺物をゲットだぜ」

【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖

【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定

【キリスト教史解説】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争

【キリスト教史解説】ヒエラポリスのパピアス 2世紀頃

【キリスト教史解説】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス


ーー初期キリスト教時代ーー

コイネー・ギリシャ語                

前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス        

後30-101年 ローマのクレメンス    



ー古代教会時代ーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス(動画)

(古代教会における聖書)「正典」の確定        信条の形成        シモニア(聖職売買)

70/82-156/168年 ポリュカルポス        2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書

100頃-163/167年 ユスティノス

120-173年 タティアノス(タチアノス)(動画)

?-170 霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム(動画)

2世紀頃 ヒエラポリスのパピアス

?-258 ラウレンティウス        

2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義        Montanism / Montanus

2世紀中葉 マルキオン

160頃-220年以降 テルトゥリアヌス        130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス

200頃-258年 キプリアヌス        293頃-373年 アタナシオス

240頃-320頃 ラクタンティウス        

3世紀前半から中葉 モナルキアニズム

3世紀後半-4世紀 ミュラのニコラウス

312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)

325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条

カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)

330頃-379 バシレイオス        342頃-420年 ヒエロニムス

381年 第1コンスタンティにポリス公会議/ニカイア信条


ーー中世時代ーー

テーマ的項目

【キリスト教】異端審問 ーーその歴史的経緯


675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス        

1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

11世紀-15世紀中葉 十字軍        


ーー宗教改革時代ーー

15世紀  人文主義        

1482-1531年 エコランパディウス        

1483-1546年 マルティン・ルター    

1491-1551年 マルティン・ブツァー        

1500年代前半以降 再洗礼派        

1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー        

1509-64年 カルヴァン        

1511-53年 セルヴェトゥス        

1515-63年 カステリヨン        

1524-25年 ドイツ農民戦争        

1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)                

1545年- 対抗宗教改革        1555年 アウクスブルク宗教和議        

16世紀 改革派教会        Reformed Church        

1618-48年 三十年戦争        

1618-9 ドルトレヒト会議

1635-1705年 シュペーナー        

1705年- ソッツィーニ主義        Sozzinism        

1836- ディアコニッセ        

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ25:1-13

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ25:1-13


マタイ25:1

  • 原文: Τότε ὁμοιωθήσεται ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν δέκα παρθένοις, αἵτινες λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας ἑαυτῶν ἐξῆλθον εἰς ἀπάντησιν τοῦ νυμφίου.
  • 私訳:そのとき、天の国は十人の処女たちに似せられるであろう。彼女たちは自分たちのともしびを取って、花婿を迎えに出て行った。
  • 新共同訳: 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

注解

  • ὁμοιωθήσεται(似せられるであろう):未来受動。
  • 「おとめ」: παρθένοι:未婚の若い女性。ギリシャ語のこの語は純潔的な意味を持つが、元々のユダヤ的背景では、未婚・結婚前の女性の意。
  • 「ともしび」( λαμπάδες):松明型のともしび。油補充が必要。小型オイルランプ( λύχνος)とは別物。
  • εἰς ἀπάντησιν:名詞 ἀπάντησις(女性名詞)の対格単数形。語源は ἀντάω/ἀπαντάω(出会う、迎える)。

マタイ25:2

  • πέντε δὲ ἐξ αὐτῶν ἦσαν μωραί καὶ πέντε φρόνιμοι.
  • 私訳:そのうち5人は愚かであり、5人は賢かった。
  • 新共同訳: そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

注解

  • 「愚かさ」(μωραί):信仰的な鈍感さ(土台の上の家の例え、7:26を参照)。
  • 「賢い」( φρόνιμοι):思慮深い者(7:24を参照)。
  • マタイ特有の「賢い/愚か」の対比。未来の予見、日頃の準備が焦点。

マタイ25:3–4

  • 原文: αἱ γὰρ μωραὶ λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας αὐτῶν, οὐκ ἔλαβον μεθ’ ἑαυτῶν ἔλαιον· αἱ δὲ φρόνιμοι ἔλαβον ἔλαιον ἐν τοῖς ἀγγείοις μετὰ τῶν λαμπάδων αὐτῶν.
  • 私訳:愚かな者たちは、ともしびを取ったが、自分たちと共に油を取らなかった。しかし賢い者たちは、ともしびと共に予備器の中に油を取った。
  • 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

注解

  • 「油」(ἔλαιον):これが何を象徴しているかは複数考えられ、信仰、信仰に基づく生活、聖霊などを挙げ得る。前述の通り、焦点は日頃の備え「いつ来てもいいように」。
  • ἀγγεῖον:油の予備容器。

マタイ25:5

  • 原文: χρονίζοντος δὲ τοῦ νυμφίου ἐνύσταξαν πᾶσαι καὶ ἐκάθευδον.
  • 私訳:花婿が遅れている時、皆はうとうとし、眠った。
  • 新共同訳: ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

注解

  • χρονίζοντος: 動詞: χρονίζω(遅れる、長引く) 現在分詞・能動態・属格・単数・男性。
  • νυμφίος(花婿):属格・単数・男性。 χρονίζοντος と共に独立属格を形成。
  • 初期キリスト教時代における再臨遅延問題を反映。
  • 全員眠る点が重要で、皆が同じ状況に置かれている中で、決定的な差が生じるという展開。

マタイ25:6

  • 原文:μέσης δὲ νυκτὸς κραυγὴ γέγονεν· ἰδοὺ ὁ νυμφίος, ἐξέρχεσθε εἰς ἀπάντησιν αὐτοῦ.
  • 私訳:真夜中に叫びが起こった。「見よ、花婿だ。迎えに出よ。」
  • 新共同訳:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

注解

  • 「叫ぶ声」(κραυγή):「叫び声」主格・単数・女性 → 主語
  • γέγονεν:動詞 γίγνομαι(起こる、生じる)完了形・能動態・直説法・三人称単数。
  • 「真夜中」(μέσης νυκτός):夜の只中。予期しない時の突然性を表す。終末の突然性を強調(24:44)。

マタイ25:7–8

  • 原文: τότε ἠγέρθησαν πᾶσαι αἱ παρθένοι ἐκεῖναι καὶ ἐκόσμησαν τὰς λαμπάδας ἑαυτῶν. αἱ δὲ μωραὶ ταῖς φρονίμοις εἶπαν· Δότε ἡμῖν ἐκ τοῦ ἐλαίου ὑμῶν, ὅτι αἱ λαμπάδες ἡμῶν σβέννυνται.
  • 私訳:そこでそのおとめたちは皆起きて、自分のともしびを整えた。愚かな者たちは賢い者たちに言った。「あなたがたのオリーブ油を少し私たちにください。私たちのともしびは消えかけています。」
  • 新共同訳: そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

注解

  • ἠγέρθησαν: 動詞ἐγείρω(起こす)。直説法・受動態・アオリスト・3人称複数。
  • ἐκόσμησαν: 動詞κοσμέω(整える、飾る)。直説法・能動態・アオリスト・3人称複数。
  • σβέννυνται: 動詞σβέννυμι(消す)。直説法・受動態(または中動態)・現在。現在形は現在進行中の意味が強いから「消えつつある」という意。⠀

マタイ25:9

  • 原文:ἀπεκρίθησαν δὲ αἱ φρόνιμοι λέγουσαι· Μήποτε οὐ μὴ ἀρκέσῃ ἡμῖν καὶ ὑμῖν· πορεύεσθε μᾶλλον πρὸς τοὺς πωλοῦντας καὶ ἀγοράσατε ἑαυταῖς.
  • 私訳: しかし賢い者たちは答えて言った。「私たちにもあなたがたにも足りなくなるかもしれません。売る人のところへ行って、自分たちのために買いなさい。」
  • 新共同訳:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

注解

  • Μήποτε:「もしかすると〜しない」否定の可能性の副詞。
  • ἀρκέσῃ: 動詞ἀρκέω。接続法・能動態・アオリスト・3人称単数。
  • 「オリーブ油」の代理は不可能。再臨を見据えた営みは、人に分け与えることはできない。

マタイ25:10

  • 原文:ἀπερχομένων δὲ αὐτῶν ἀγοράσαι
ἦλθεν ὁ νυμφίος,
καὶ αἱ ἕτοιμοι εἰσῆλθον μετ’ αὐτοῦ εἰς τοὺς γάμους,
καὶ ἐκλείσθη ἡ θύρα.
  • 私訳:彼女たちが買いに行っている間に、花婿が来た。準備のできていた者たちは彼と共に婚宴に入り、そして戸は閉ざされた。
  • 新共同訳:愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

注解

  • ἀπερχομένων: 動詞ἀπέρχομαι(去る、離れて行く)。分詞。現在・中動態・属格・女性・複数。
  • ἀγοράσαι: 動詞ἀγοράζω(買う)。不定詞・アオリスト・能動態。
  • ἐκλείσθη: 動詞κλείω(閉める)。直説法・受動態・アオリスト・3人称単数。受動態なので「戸は閉められた。」時がくれば、自分で開け閉めはできない。終末の不可逆性。

マタイ25:11–12

  • 原文:ὕστερον δὲ ἔρχονται καὶ αἱ λοιπαὶ παρθένοι λέγουσαι·
Κύριε κύριε, ἄνοιξον ἡμῖν.
ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν·
Ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐκ οἶδα ὑμᾶς.
  • 私訳:後になって他の処女たちも来て言った。「主よ、主よ、私たちに開けてください。」
しかし彼は答えて言った。「アーメン、私はあなたがたに言う。
私はあなたがたを知らない。」
  • 新共同訳:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

注解

  • ὕστερον:副詞。「後で」「その後」。
  • ἄνοιξον:動詞ἀνοίγω(開ける)。命令法・能動態・アオリスト・2人称単数。
  • Κύριε κύριε:7:21「主よ、主よ、と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と対応関係。物語中の愚かな女たちと、教会における備えのなかった者が重ね合わせられている。
  • οὐκ οἶδα ὑμᾶς:「あなたがたを知らない」関係性の否定。「あなたがたとは関係ない」
  • 物語中の「ご主人様」「主」は、再臨のキリストを表している。新共同訳のように「ご主人様」と訳すと、対応関係が見えにくくなる。

マタイ25:13

原文:γρηγορεῖτε οὖν,
ὅτι οὐκ οἴδατε τὴν ἡμέραν οὐδὲ τὴν ὥραν.
直訳:だから目を覚ましていなさい。あなたがたはその日もその時も知らないのだから。
新共同訳:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

注解

  • γρηγορεῖτε:命令形・現在。継続的覚醒。24:42と対応。終末講話全体の中心主題。
  • 「その日、その時を知らない」:これも中心的主題。「時の予知」は不可能、だからこそ、いつ来てもいいように備えを。メッセージ内容は、単純至極。

<この注解に基づく説教の結びの言葉の一例>

 愚かなおとめたちのともしびは、ギリシア語の現在形が示すように「消えつつありました」。信仰のともし火は、一瞬で消えるのではなく、気づかぬうちに弱まり、やがて光を失っていきます。そして、それを他の人が代行することはできません。自分自身と神との関係の問題だからです。だからこそ、賢いおとめたちは油を分けることができませんでした。
 そして、彼女たちが油を買いに行っている「その間に」、花婿は到着しました。準備のできていた者たちは婚宴に入り、「戸は閉められた」。この一語が告げるのは、終末の時が持つ不可逆性です。私たちが開け閉めできる扉ではありません。与えられた時が終われば、ただ静かに、神ご自身によって閉じられる扉です。
 遅れて戻ってきたおとめたちは叫びます。「主よ、主よ、開けてください」。しかし返ってきたのは、「私はあなたがたを知らない」という関係の否定でした。ここで語られる「主」は、単なる物語上の主人ではなく、再臨のキリストその方です。だからこそ、この言葉は私たちの胸に重く響きます。神の愛は深いものですが、それに甘えてしまう、「愛ゆえの甘え」には注意したいものです。
 イエスは最後にこう命じられました。「だから、目を覚ましていなさい」。これは一時的な緊張ではなく、継続的な覚醒の姿勢です。私たちは「その日、その時」を知りません。だからこそ、今日という日を、与えられたこの瞬間を、主の前に整えながら、その状態を継続して歩むのです。
 油を分けてもらうことはできません。しかし、油を備える道は、今、開かれています。まだ間に合うのです。恐れるのでもなく、今、どうするか。問題の核は、単純なこの一事です。祈り、神の言葉に聞き、隣人を愛し、主の前に心を整える。その一つひとつが、私たちのともし火に火を灯す油となります。
 主が来られる時、私たちのともしびが消えかけているのではなく、静かに、しかし確かに輝いているように。その光が、主を迎える喜びの光となるように。今日もまた、目を覚まして歩み続けたいと思います。

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 マタイ24:45-51「忠実な僕と悪い僕」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解

マタイ24:45-51「忠実な僕と悪い僕」


概要

 本段落(24:45–51)は、終末的講話(24–25章)の警告部(24:36以下)の中に置かれた譬えであり、「目覚めて備えること」の具体的内容を示す箇所である。ここでは、終末的備えの本質として、主の再臨の時を知ることではなく、委ねられた務めに忠実であり続けることが提示されている。  構造的には、「忠実で思慮深いしもべ」(45–47節)と「悪いしもべ」(48–51節)の対比によって展開される二部構成で、前半では管理を任された僕の忠実さが再臨時の祝福と更なる委任へと繋がり、後半では主人の到着の遅れを「まだ来ない、まだ大丈夫」と捉えた僕が放縦に走り、結果、予期せぬ帰還による審判を受ける。  この箇所の中心的主題は、「再臨の遅延」に対する内面的態度である。遅延がこのまま続くと思う「油断」を問う警告である。  ここで提示される文字通り「油断なき」忠実性は、直後の25章(十人の乙女・タラント・最後の審判)へと展開する主題的前奏となる。

マタイ24:45

  • 原文: Τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος, ὃν κατέστησεν ὁ κύριος ἐπὶ τῆς οἰκετείας αὐτοῦ, τοῦ διδόναι αὐτοῖς τὴν τροφὴν ἐν καιρῷ;
  • 私訳: それでは、誰が忠実で思慮深い僕であるか?それは、主人が自分の家の使用人たちの上に任命した、時間で彼らに食物を与える者である。
  • 新共同訳: 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。

注解

  • πιστός::信仰と訳される語であるが、本来は忠実、信頼を表す語。
  • πιστόςと φρόνιμος(思慮深い):この組み合わせは、マタイ10:16「蛇のように賢く、鳩のように純真でありなさい」と似ている。無用に深く考えすぎずに委ねる姿勢と、そうでありながらも思慮深いという、場合によっては矛盾する事柄同士の組み合わせ。
  • 「僕(使用人)」:奴隷とも訳される。教会では、「神の僕」という意味から転じて、教会の指導的立場を表す場合もある。
  • 「時間で」:「適切な時に」とも訳されるが、ここではおそらく「時間で」一定期間ごとに給料が支払われることを意味すると思われる。
  • 「家の使用人たち」:この箇所では、教会指導者によって運営される教会共同体を指すのだろう。
  • 教会を表す比喩とすれば、「食物」は霊的な食物、すなわち神の言葉を教えることを表すことになる。

マタイ24:46

  • 原文: μακάριος ὁ δοῦλος ἐκεῖνος ὃν ἐλθὼν ὁ κύριος αὐτοῦ εὑρήσει οὕτως ποιοῦντα.
  • 私訳:幸いなるかな、そのしもべは。その主人が来た時、そのようにしているのを見出されることになる者は。
  • 新共同訳: 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

注解

  • μακάριος:山上の説教(5章)の祝福宣言に繋がる言い回し。
  • 「来た時」(帰ってきた時):主の再臨の時を表す。その時がいつかは分からないことが繰り返し強調されてきた。それがいつかを知るよりも、「まだ大丈夫」と思うことなく、いつも「忠実」であるべきことが強調されている。

マタイ24:47

原文:ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι ἐπὶ πᾶσιν τοῖς ὑπάρχουσιν αὐτοῦ καταστήσει αὐτόν. 私訳:アーメン、私はあなたがたに言う。彼の所有物すべての上に、彼を任命することになる。 新共同訳: はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

注解

  • καταστήσει:動詞 καθίστημι(任命する)の未来・3単
  • 忠実さは、より大きな委任へと導く。25章のタラント譬えと主題的に繋がる。

マタイ24:48

  • 原文: ἐὰν δὲ εἴπῃ ὁ κακὸς δοῦλος ἐκεῖνος ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ· Χρονίζει μου ὁ κύριος,
  • 私訳:しかし、もしその悪い僕がその心の中で言うならば——「わたしの主人は遅れている」と。
  • 新共同訳: しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
注解
  • κακὸς δοῦλος:悪い僕。「忠実な僕」と対比されている。
  • Χρονίζει:「彼は遅れている。」マタイ福音書執筆時の再臨遅延問題を反映している可能性が高い。

マタイ24:49

  • 原文:: καὶ ἄρξηται τύπτειν τοὺς συνδούλους αὐτοῦ, ἐσθίῃ δὲ καὶ πίνῃ μετὰ τῶν μεθυόντων,
  • 私訳:そして、自分の共なる僕たちを打ち始め、また酔う者たちと共に食べ、かつ飲むならば。
  • 新共同訳: 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。

注解

  • ἄρξηται(~し始める):堕落が始まっていく転換点。
  • τύπτειν:「打つ」ことで、暴力行為を示す。教会であれば、支配権を濫用し始めることか。
  • ἐσθίῃ:動詞 ἐσθίω(食べる)現在接続法・3単
  • πίνῃ:動詞 πίνω(飲む)現在接続法・3単
  • τῶν μεθυόντων:μεθύω(酔う)の現在分詞・属格複数

マタイ24:50

  • 原文:ἥξει ὁ κύριος τοῦ δούλου ἐκείνου ἐν ἡμέρᾳ ᾗ οὐ προσδοκᾷ καὶ ἐν ὥρᾳ ᾗ οὐ γινώσκει,
  • 私訳:そのしもべの主人は、彼が予期していない日に、彼が知らない時刻に来ることになる。
  • 新共同訳:もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、

注解

  • ἥξει:動詞 ἥκω(来る、到着する)未来・3人称単数
  • 予期しない時・知らない時は、マタイ24:36「その日、その時は誰も知らない」と対応関係にある。

マタイ24:51

  • 原文: καὶ διχοτομήσει αὐτόν καὶ τὸ μέρος αὐτοῦ μετὰ τῶν ὑποκριτῶν θήσει· ἐκεῖ ἔσται ὁ κλαυθμὸς καὶ ὁ βρυγμὸς τῶν ὀδόντων.
  • 私訳:そして彼を二つに切り裂き、その分け前を偽善者たちと共に置くであろう。そこでは泣くことと歯の歯ぎしりがあるであろう。
  • 新共同訳: 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

注解

  • διχοτομήσει:動詞 διχοτομέω(切り裂く、二つに分ける)未来・3単。「厳罰に処す」の比喩的表現。
  • ὑποκριταί:偽善者。マタイに特徴的な用語の一つ。
  • ὁ κλαυθμός:名詞「泣き叫び」
  • ὁ βρυγμός:名詞「歯ぎしり」、 τῶν ὀδόντων:属格複数「歯の」。マタイ8:12、13:42など、マタイが描く終末的表現。
  • 忠実な僕の任命(祝福)と悪い僕の断罪(呪い)の対比で締めくくられる。

<この注解に基づく説教の結びの言葉として>

 主は、私たちに「いつ来られるか」を知らせることよりも、「任された務めに忠実であること」を求めておられます。再臨が遅れているように見える時こそ、私たちの心は試されます。油断は静かに忍び寄り、忠実さを侵食し、やがて「悪い僕」の道へと導きます。しかし、主は「忠実で思慮深い僕」を探しておられます。誰か特別な人ではなく、日々の小さな務めを誠実に果たす者を、主は祝福し、さらに大きな委任へと招かれます。
 主が思いがけない時に来られるという事実は、恐れではなく、希望と励ましです。なぜなら、主は私たちの忠実を決して見逃されないからです。だからこそ、私たちは今日も、与えられた場所で、与えられた人々に、与えられた務めをもって仕えていくのです。
主が来られるその日、私たちが「そのようにしている」のを見出されますように。

2026年3月30日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ6:1-6a

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ6:1-6a

概要

 マルコ福音書は、イエスの十字架の死という悲劇を中心に据え、人々によって無力に追いやられたその姿こそ真のメシアであるという逆説的メッセージを語る物語である。全体は、ガリラヤでの活動を描く前半と、エルサレムへ向かい受難へと進む後半に大きく分けられる。 群衆は、癒しや悪霊追放といった「力ある業」を行うイエスをメシアと期待する。しかし物語は、その期待とは裏腹に、イエスが拒絶され、受難へと静かに歩みを進める姿を描く。直前の悪霊に憑かれた男の癒しの場面でも、イエスは地元住民から恐れられ、追放されている。  本段落では、イエスが故郷に戻るが、そこで待っていたのは歓迎ではなく批判と拒絶であった。イエスはほとんど何もできないまま故郷を後にする。この逸話は、預言者や神に仕える者がしばしば排斥される運命にあるという、受難の予兆を示す物語でもある。

注解

マル⁠コ6:1

  • 私訳:そして、彼はそこから出て行った、そして彼は彼の故郷へ来る、そして彼の弟子たちが彼に従っている。
  • 新共同訳:イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 ⠀
  • ἀκολουθοῦσιν:原形:ἀκολουθέω 現在能動直説法3複「彼らは従っている」
  • πατρίδα:名詞πατρίς 対格単数「故郷」
  • 新共同訳の小見出しでは「ナザレの村」と記されているが、本文はイエスの故郷がナザレの村とは表記しない。イエスを「ナザレのイエス」と呼ぶ伝承から、故郷=ナザレと推定されているにすぎない。ナザレが実在した村かどうかも議論があり、「ナジル人(神に誓願した者)」を指すとする説もある。
  • いずれにせよ、ここはイエスが故郷に戻る場面である。名声を得たイエスが故郷に帰るが、そこで起こるのは歓迎ではなく「拒絶」というのが主題である。

マルコ6:2

  • 私訳:そして、安息日が起こったとき、彼は会堂の中で教え始めた。そして多くの者たちは、聞きながら驚かされて言っていた、「どこから、この人に、これらは(来たのか)。そして何であるか、この、この人に与えられた知恵は。また、このような力ある業が、彼の手を通して起こっている(とは)。」
  • 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 ⠀
  • γενομένου(原形:γίνομαι):アオリスト中動分詞(絶対属格)「〜が起こったとき」
  • ἀκούοντες(原形:ἀκούω):現在能動分詞・主格複数「聞いている者たち」
  • ἐξεπλήσσοντο(原形:ἐκπλήσσω):未完了中動直説法3複「彼らは驚かされていた」
  • 安息日、イエスは会堂で教え始める。ナザレの人々は、教えを語るイエスの知恵(σοφία)と奇跡(δυνάμεις)に驚嘆するが、その反応は信仰に至らない。「どこから(πόθεν)」という問いは、神的起源を認めるのではなく、むしろ疑念を示す。

マルコ6:3

  • 私訳:この人は大工ではないか、この、マリアの子であり、ヤコブとヨセとユダとシモンの兄弟ではないか。そして彼の姉妹たちは、ここに、私たちのもとに、いないのではないか。そして彼らは彼においてつまずいていた。
  • 新共同訳:この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 ⠀
  • ἐσκανδαλίζοντο(原形:σκανδαλίζω):未完了中動直説法3複「彼らはつまずいていた」
  • τέκτων:主格単数「大工・職人」
  • 「この人は大工ではないか」:マルコを参考にして書かれたマタイ福音書では、「この人は大工の子ではないのか」と言い換えている。おそらく、マルコの時代よりイエスの神性が定着してきたマタイの時代にあって、マタイは神の子イエスを大工とする直裁な表現に躊躇し、婉曲的な表現に切り替えたのだろう。
  • 故郷の人々は、イエスの家系や出自、成長の過程などを知っているだけに、これが拒絶の原因となっている。過去の知識、既存のイメージが邪魔をして、新しく起こされた出来事が、素直に見られない人の弱さが露呈している。
  • 「マリアの子」という表現は父系ではなく母系で呼ぶ表現であり、当時は圧倒的な父系社会であるから、非常に異例である。イエスの十字架死と復活以降、原始教会に後から母マリアとイエスの兄弟が加わり、対して父ヨセフの存在の痕跡はなく、その事実を前提とした見方からの表現。
  • おそらくイエスの父ヨセフは、ある段階で既に亡くなっていた。このことから、ヨセフは高齢でマリアと結婚して寿命に達していたのではないかという推測が生まれ、その後のクリスマスの美術画などでは、ヨセフを高齢の男性として描く慣習が成立していった。
  • 「つまずく(σκανδαλίζω)」:信仰的拒絶を意味し、メシア理解の典型的障害を示す。
<これまでの注解を元にしての説教の結びの言葉として>  イエスが故郷に戻られたとき、人々はその知恵と力ある業に驚きながらも、信じようとはしませんでした。彼らはイエスを「よく知っている」と思い込み、過去のイメージに縛られ、神が今まさに行おうとしている新しい働きを受け入れることができなかったのです。  しかし、この物語は単なる過去の出来事ではありません。私たち自身もまた、同じつまずきを抱えています。自分の思い込み。それは絶対というわけでもないのに、私たちの頑固な思い込みが、神の恵みを閉ざしてしまうことがあります。  イエスは故郷で拒絶されましたが、それでも歩みを止められませんでした。理解されず、受け入れられず、つまずかれながらも、なお人々のもとへと向かい続け、ついには十字架へと進んでいかれました。 その道こそ、神の愛が貫かれる道でした。 私たちが心を閉ざすとき、神の働きは見えなくなります。 しかし、心を開くなら、どれほど小さな場所にも、どれほど平凡な日常にも、神は新しい命を吹き込んでくださいます。故郷で拒絶されたイエスは、今日も私たちのもとに来られます。 「あなたの中に、あなたの隣人の中に、神の働きを見ようとするか」  その問いを、静かに、しかし確かに投げかけておられます。

<ここまでのまとめ>
  1. 身近さが信仰を妨げる:故郷の人々はイエスを「よく知っている」と思い込んでいた。その思い込みが、神の新しい働きを拒む原因となった。 ・過去の情報により、新たな認識に影響を与えること。=アンカリング ・確証バイアス:自分の信念に合う情報だけを集める傾向
  2.  過去のデータが現在の神の働きを曇らせる:人は過去の経験に縛られ、神が新しく行われる業を見逃すことがある。
  3.  イエスの受難はすでにガリラヤで始まっている:拒絶はエルサレムだけではない。イエスの道は最初から「理解されない道」であった。

マルコ6:4

  • 原文:Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς ὅτι Οὐκ ἔστιν προφήτης ἄτιμος εἰ μὴ ἐν τῇ πατρίδι αὐτοῦ καὶ ἐν τοῖς συγγενεῦσιν αὐτοῦ καὶ ἐν τῇ οἰκίᾳ αὐτοῦ.
  • 私訳:そしてイエスは彼らに言っていた、「預言者は、尊ばれない者ではない。彼の故郷において、また彼の親族たちの中で、また彼の家においてを除いては」
  • 新共同訳:イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

注解

  • ἄτιμος:形容詞「尊ばれない」
  • 旧約時代の預言者に関する格言的な言葉。「故郷・親族・家」という、本来なら血縁関係やふるさと関係にある親しみの籠った場所が、拒絶という反対の結果になるという痛みのある運命。
  • 社会や人に対して、真に貢献しようと望む者もまた、覚悟しておくべき事柄。

マルコ6:5

  • 原文:Καὶ οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν, εἰ μὴ ὀλίγοις ἀρρώστοις ἐπιθεὶς τὰς χεῖρας ἐθεράπευσεν.
  • 私訳:そして彼はそこで、何一つの力ある業を行うことができなかった、ただ少数の病人に、手を置いて、癒したのであった。
  • 新共同訳:そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

注解

  • ἐδύνατο:原形δύναμαι 未完了中動直説法3単「彼はできた」
  • ἐπιθεὶς:原形ἐπιτίθημι アオリスト能動分詞「置いて」
  • οὐδεμίαν:否定強調「何一つ〜ない」
  • 「奇跡を行うことができなかった」:イエスを御子なる神、全能なる神とする後代のキリスト教神学から見て、神の不可能性という解釈上の問題を伴う箇所。イエスは人々の信仰心がなければ業を行えないのか?という疑問。イエスの悪霊払い、癒しの業を、霊能力と考えればあり得る現象。周囲の人々の疑念や悪意といったネガティブな念が、能力者の力の発揮に作用してしまうというもの。
  • この問題を神学的に整理するならば、神の存在や働きについて、疑いではなく信じる信頼をもって、諦めではなく期待をもって、不平不満ではなく感謝をもって待ち望むべき、とすると教会のような文脈では収まりが良い。

マルコ6:6a

  • 原文:Καὶ ἐθαύμαζεν διὰ τὴν ἀπιστίαν αὐτῶν.
  • 私訳:そして彼は彼らの不信仰のゆえに驚いていた。
  • 新共同訳:そして、人々の不信仰に驚かれた。

注解

  • ἐθαύμαζεν(原形:θαυμάζω)未完了能動直説法3単「驚いていた」
  • 通常の展開では、イエスの教えや業に人々が驚くという構図。ここではそれが逆転している。
  • 不信仰(ἀπιστία)はマルコにおいて繰り返される主題。信仰、すなわち、神やイエスに対する人格的な信頼、期待、希望は、より神の働きを大きくする一方、不信仰は阻害するものさえなる。
  • この箇所は切ない結末に終わっているが、 一方、宣教活動が拡張されていく橋渡しとなる。それは、イエスや使徒たちの同胞であるユダヤ人への宣教に失敗したが故に、世界宣教、世界の民族への宣教へと繋がっていったように。

<以上の注解を元にしての説教の結びの言葉として> 
 イエスが故郷で拒まれた物語は、単なる過去の出来事ではありません。それは、私たち自身の心の姿を映す鏡でもあります。人は、よく知っていると思い込んだ瞬間に、耳を閉ざしてしまうことがあります。過去の経験や固定観念が、神の新しい語りかけを曇らせてしまうことがあります。そして、信頼よりも疑いが勝るとき、神の働きは私たちの中で力を発揮しにくくなる。マルコが描くのは、まさにその痛ましい現実です。
  しかし同時に、この出来事は福音が広がる転機ともなりました。故郷で拒まれたイエスは、そこからさらに歩みを進め、やがてユダヤの境界を越え、世界へと福音が広がっていきました。人の拒絶さえも、神は新しい道を開くために用いられる。 だからこそ私たちは、「もう知っている」「どうせ変わらない」そんな思い込みを手放し、今日も新しく働かれる神に心を開く者でありたい。信じる者のうちに、神は今も働かれます。 期待をもって、感謝をもって、信頼をもって、神が私たちの人生に行おうとしておられる新しい業を受け取っていきましょう。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:36-44

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」


概説(マタイ24:36–44)

 マタイ福音書24章後半は、いわゆる「終末論的説話(オリーブ山上の説教)」の中核を成す部分であり、特に36節以降は、それまで語られてきた終末の徴や出来事の列挙(24:4–35)から明確に転調し、「終末の時の不可知性」と、それに基づく信徒の生き方へと焦点が移されている。  本段落(24:36–44)においてイエスによって強調されているのは、「終末がいつ起こるのか」という知識ではなく、「終末が必ず来るという確かさのもとで、いかに生きるのか」という倫理的・霊的姿勢である。ここでは、時を計算し、予測しようとする人間の欲求は明確に否定される一方で、「目を覚ましていること」「備えていること」という、継続的で日常的な信仰の態度が強く要請されている。  ノアの時代の比喩(24:37–39)、畑と臼の二人の譬え(24:40–41)、そして夜の盗人の譬え(24:43)は、いずれも終末の突然性と不可逆性、そしてその到来が日常生活のただ中で起こるという現実を際立たせる。ここで問題とされているのは、罪深い放縦や明白な背信ではなく、むしろ「何事も起こらないかのように続く日常」に安住し、神の言葉に心を向けなくなる鈍麻である。  したがって、「目を覚ましていなさい」(γρηγορεῖτε)、「備えていなさい」(γίνεσθε ἕτοιμοι)という命令は、終末的恐怖を煽る警告ではなく、主の来臨を希望として待ち望む者に求められる、信仰の基本姿勢を指し示す言葉として理解されるべきである。本箇所は、終末論を「未来の出来事の説明」から、「現在の生の在り方を問い直す言葉」へと転換させる決定的なテキストである。


マタイ24:36

  • 原文: Περὶ δὲ τῆς ἡμέρας ἐκείνης καὶ ὥρας οὐδεὶς οἶδεν, οὐδὲ οἱ ἄγγελοι τῶν οὐρανῶν, οὐδὲ ὁ υἱός, εἰ μὴ ὁ πατὴρ μόνος.
  • 私訳: しかし、その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも知らず、子も知らない。ただ父のみが(知っている)。
  • 新共同訳: 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

注解

  • 「しかし、〜については」( Περὶ δὲ):ここは話題の転換点で、24:4–35の「徴の列挙」から、「時の不可知性」へと主題が移行している。
  • 「その日」:終末、人の子の再臨が起こる日。
  • 「誰も知らない」:再臨の時の不可知性を表す。同時に、実現の時を語る偽預言者や惑わす人がいれば、それは虚偽であることを示す。
  • 「子も(知らない)」: 子はキリストを指す。父なる神だけが知る権威があるという、父なる神の主権が強調されている。ただし、「神なるキリストでさえ知り得ないとはどうこうことか?」というキリスト論神学上の問題が生じる箇所で、「受肉した子の知の自己制限」として処理されることが多い。


マタイ24:37

  • 原文:ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:なぜなら、ノアの日々がそうであったように、人の子の来臨もそのようになるからである。
  • 新共同訳: 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

注解

  • ノアの洪水の出来事が、人の子の再臨の時の訪れと対比されている。
  • 対比の視点は、洪水という事象ではなく、突然に到来するという点。
  • 「来臨」(ἡ παρουσία):元々は王の訪問を指す語。この文脈では、キリストの再臨が起こり、神の権威をもっての審判と統治の始まりを指して使われ、後にこの語はキリスト教専門用語として定着した。


マタイ24:38

  • 原文:ὥσπερ γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν,
  • 私訳:というのも、洪水の前のあの日々において、彼らが食べ、飲み、娶り、嫁がせていたように、ノアが箱舟に入るその日まで。
  • 新共同訳: 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

注解

  • τρώγοντες:動詞 τρώγω(食べる)現在・能動・分詞・男性・複数・主格
  • γαμοῦντες:動詞 γαμέω現在分詞「(男が)妻をめとる」、 γαμίζοντες:動詞 γαμίζω「(娘を)嫁がせる」 現在分詞なので、この行動をとり続けていたことを含意する。
  • 列挙される行為はすべて日常生活上の行為。ノアを通しての警告を無視しての日常生活内の自己完結。
  • 「ノアが方舟に入るその日まで」:洪水が始まって手遅れになるまで、彼らが気づくような兆候はなかったということ。
<黙想> 多くの人は、「本当に危機が迫ったら、その時こそ改めよう」と考えがちである。だが実際には、自分が思い描く「いよいよ」という瞬間が訪れた時には、すでに手遅れで、残るのは後悔だけ──それが人生の常である。 だからこそ、「今、この瞬間にその時が来てもよいように」心を整え、希望を抱いて日々を歩むことこそ、キリストの再臨を待ち望む者にとって欠かせない姿勢である。


マタイ24:39

  • 原文: καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας· οὕτως ἔσται καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:そして彼らは悟らなかった、洪水が来て、すべてをさらうまで。人の子の来臨もまた、そのようである。
  • そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
注解
  • ἦρεν:動詞 αἴρω (持ち上げる、攫う(拐う))のアオリスト能動直説三人称単数
  • 「悟らなかった」「気づかなかった (新共同訳)」(οὐκ ἔγνωσαν):逆に言えば、その時になって「悟った」。無知というよりも、理解することを拒絶し続けた結果である。
  • 「すべてをさらうまで」:審判の徹底性を表す。その強調的表現。
  • 「人の子の来臨もまた」:再臨時の審判がノアの時と同様ということ。すなわち、その突然性と、誰も逃れられない全面性について。

<説教の結びの言葉として>  ノアの時代の人々は、日々の生活に心を奪われ、神が語られる警告に耳を傾けようとしませんでした。彼らは「悟らなかった」のではなく、「悟ろうとしなかった」のです。自分の生活の安定や楽しみを優先し、神の言葉が入り込む余地を失っていたのです。  主イエスは、再臨の時も同じであると語られます。それは突然であり、誰も逃れることのできない現実として訪れます。ですから、私たちに求められているのは、「いつ来るのか」を知ることではなく、「いつ来てもよい者として生きること」です。  「目を覚ましていなさい」という主の招きは、恐れに身構えることではありません。今日という日を神の前に誠実に生きること、与えられた務めを果たし、隣人を愛し、悔い改めと信仰の歩みを続けることです。主が来られるその時、慌てて取り繕う必要がないように、今を整えて歩むことが求められています。  主は必ず来られます。その時は父なる神だけがご存じです。しかし、その確かさゆえに、私たちは今日を希望をもって生きることができます。

マタイ24:40

原文: τότε δύο ἔσονται ἐν τῷ ἀγρῷ, εἷς παραλαμβάνεται καὶ εἷς ἀφίεται· 私訳: そのとき、二人が畑にいて、一人は取られ、そして一人は残される。 新共同訳: そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

注解

  • 「取られ……残され」(παραλαμβάνεται / ἀφίεται):受動態。行為の主体は神。すなわち、神が選んだ人を取り、一方でそのままに残す(ほおっておく)。二人は、同時にその場に居合わせるという同一状況にありながら、その時までに「(終末への)備え」があるか否かによって、劇的な差となって現れる。それが露見する時が、再臨であり終末の時。

マタイ24:41

原文: δύο ἀλήθουσαι ἐν τῷ μύλῳ, μία παραλαμβάνεται καὶ μία ἀφίεται. 私訳: 二人の女が臼を挽いていると、一人は取られ、一人は残される。 新共同訳: 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
注解
  • ἀλήθουσαι: 動詞 ἀλήθω(「挽く、粉をひく」)の現在能動分詞
  • 前節の畑の二人と同じ主旨の例え。畑も臼も、なにげない日常生活のひとこま。いつまでもそれが続くと思われる生活が、突如寸断される。また、畑は男性の労働、臼は女性の労働という男女それぞれの在り方が意識されているかもしれない。いずれにせよ、生活の場・時で、終末は到来するということ。


マタイ24:42

  • 原文: γρηγορεῖτε οὖν, ὅτι οὐκ οἴδατε ποία ἡμέρα ὁ κύριος ὑμῶν ἔρχεται.
  • 私訳: それゆえ、目を覚ましていなさい。あなたがたは、主がどの日に来られるのか知らないからである。
  • 新共同訳: だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

注解

  • γρηγορεῖτε:動詞 γρηγορέω(「目を覚ましている」「警戒している」)現在・能動・命令法・2人称複数。「目を覚ましなさい」という一回的な命令ではなく、「目を覚ましていなさい」という継続性を求める命令。


マタイ24:43

  • 原文: ἐκεῖνο δὲ γινώσκετε, ὅτι εἰ ᾔδει ὁ οἰκοδεσπότης ποίᾳ φυλακῇ ὁ κλέπτης ἔρχεται, ἐγρηγόρησεν ἂν καὶ οὐκ ἂν εἴασεν διορυχθῆναι τὴν οἰκίαν αὐτοῦ.
  • 私訳: もし、家の主人が、どの見張りの時に泥棒が来るのを知っていたら、目を覚まして、彼の家に穴を開けさせることは許さなかっただろう。
  • 新共同訳: このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
注解
  • εἰ ᾔδειεἰ: 条件節を導く。「もし〜なら」ᾔδει: 動詞 οἶδα(「知っている」)の過去完了・3人称単数。反実仮想(事実に反する仮定) を表し、「もし知っていならば」という意。
  • ὁ οἰκοδεσπότης: 名詞「家の主人、家主」
  • φυλακῇ: 名詞「見張りの時刻、番の時間」女性・与格・単数
  • εἴασεν: 動詞 ἐάω(「許す、放任する」)アオリスト・能動・3人称単数
  • 要は、大丈夫だろうと油断して、目を覚さない状態でいるところを突かれることが大変多いから気をつけなさい、ということ。

マタイ24:44

  • 原文: διὰ τοῦτο καὶ ὑμεῖς γίνεσθε ἕτοιμοι, ὅτι ᾗ οὐ δοκεῖτε ὥρᾳ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἔρχεται.
  • 私訳: こういうわけで、”あなたがた”(強調形)もまた、備えているようにしなさい。あながたが思いもしない時、人の子は来るからである。
  • 新共同訳: だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

注解

  • γίνεσθε: 動詞 γίνομαι(「〜になる」)現在・中動態(意味は能動)・命令法・2人称複数。「〜であり続けなさい」「〜になりなさい」
  • ἕτοιμοι: 形容詞「準備のできた」男性・主格・複数。
  • 「思いもしない時」「思いがけない時」:「いつ」というピンポイント予想は不可能ということの一側面で、予想外の時に来るから、常に「用意していない」ということ。結局、予測ではなく、まして油断的な弛緩でもなく、主末を希望とするキリスト者としての基本的な生きる姿勢を、いつもブレずに保っていなさいということ。


説教の結びの言葉と祈り

 今日の主イエスの言葉は、時に油断してしまう私たちの信仰の歩みを、再び目覚めへと呼び戻す招きです。畑で働く二人の男も、臼を挽く二人の女も、どちらも日常のただ中に置かれていました。しかし、その平凡な日々に突然、神の時が差し込むのです。それまでの歩みに油断や驕りがなかったかどうかは、その瞬間に初めて、白日のもとに明らかにされます。  主が求めておられる「備え」とは、特別な行いでも、張りつめた緊張でもありません。主を待ち望む者として、日々を誠実に、基本に忠実に生きる姿勢そのものです。それを難しいと感じるとき、実は私たち自身が、そうした生活から目をそらし、言い訳をしてしまっているのかもしれません。  「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」という主の命令は、私たちを縛るためではなく、むしろ自由へと、そして希望へと導く言葉です。私たちは、主がいつ来られるかを知りません。けれども、主が必ず来られることを知っています。それを希望として受け取れないときがあるとすれば、それは今の自分があまりにも「満ち足りている」と感じ、心が緩んでしまっているからかもしれません。  しかし、主の確かな約束があるゆえに、私たちは今日という一日を、主に向かって整えながら歩むことができます。思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の光の中を歩み続ける者とされたいと願います。

祈り

どうか、私たち一人ひとりが、思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の再び来られる日を希望をもって待ち望むことができますように。  主が与えてくださる光の中で、目を覚まして歩み続ける者とされますように。  アーメン。

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