2026年3月30日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ6:1-6a

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ6:1-6a

概要

 マルコ福音書は、イエスの十字架の死という悲劇を中心に据え、人々によって無力に追いやられたその姿こそ真のメシアであるという逆説的メッセージを語る物語である。全体は、ガリラヤでの活動を描く前半と、エルサレムへ向かい受難へと進む後半に大きく分けられる。 群衆は、癒しや悪霊追放といった「力ある業」を行うイエスをメシアと期待する。しかし物語は、その期待とは裏腹に、イエスが拒絶され、受難へと静かに歩みを進める姿を描く。直前の悪霊に憑かれた男の癒しの場面でも、イエスは地元住民から恐れられ、追放されている。  本段落では、イエスが故郷に戻るが、そこで待っていたのは歓迎ではなく批判と拒絶であった。イエスはほとんど何もできないまま故郷を後にする。この逸話は、真に人々に仕える者がしばしば排斥されるという、受難の予兆を示す物語でもある。

注解

マル⁠コ6:1

  • 私訳:そして、彼はそこから出て行った、そして彼は彼の故郷へ来る、そして彼の弟子たちが彼に従っている。
  • 新共同訳:エスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 ⠀
  • ἀκολουθοῦσιν:原形:ἀκολουθέω 現在能動直説法3複「彼らは従っている」
  • πατρίδα:名詞πατρίς 対格単数「故郷」
  • 新共同訳の小見出しでは「ナザレの村」と記されているが、本文はイエスの故郷がナザレの村とは表記しない。イエスを「ナザレのイエス」と呼ぶ伝承から、故郷=ナザレと推定されているにすぎない。ナザレが実在した村かどうかも議論があり、「ナジル人(神に誓願した者)」を指すとする説もある。
  • いずれにせよ、ここはイエスが故郷に戻る場面である。名声を得たイエスが故郷に帰るが、そこで起こるのは「拒絶」というのが主題である。

マルコ6:2

  • 私訳:そして、安息日が起こったとき、彼は会堂の中で教え始めた。そして多くの者たちは、聞きながら驚かされて言っていた、「どこから、この人に、これらは(来たのか)。そして何であるか、この、この人に与えられた知恵は。また、このような力ある業が、彼の手を通して起こっている(とは)。」
  • 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 ⠀
  • γενομένου(原形:γίνομαι):アオリスト中動分詞(絶対属格)「〜が起こったとき」
  • ἀκούοντες(原形:ἀκούω):現在能動分詞・主格複数「聞いている者たち」
  • ἐξεπλήσσοντο(原形:ἐκπλήσσω):未完了中動直説法3複「彼らは驚かされていた」
  • 安息日、イエスは会堂で教え始める。ナザレの人々は、教えを語るイエスの知恵(σοφία)と奇跡(δυνάμεις)に驚嘆するが、その反応は信仰に至らない。「どこから(πόθεν)」という問いは、神的起源を認めるのではなく、むしろ疑念を示す。

マルコ6:3

  • 私訳:この人は大工ではないか、この、マリアの子であり、ヤコブとヨセとユダとシモンの兄弟ではないか。そして彼の姉妹たちは、ここに、私たちのもとに、いないのではないか。そして彼らは彼においてつまずいていた。
  • 新共同訳:この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 ⠀
  • ἐσκανδαλίζοντο(原形:σκανδαλίζω):未完了中動直説法3複「彼らはつまずいていた」
  • τέκτων:主格単数「大工・職人」
  • 「この人は大工ではないか」:マルコを参考にして書かれたマタイ福音書では、「この人は大工の子ではないのか」と言い換えている。おそらく、マルコの時代よりイエスの神性が定着してきたマタイの時代にあって、マタイは神の子イエスを大工とする直裁な表現に躊躇し、婉曲的な表現に切り替えたのだろう。
  • 故郷の人々は、イエスの家系や出自、成長の過程などを知っているだけに、これが拒絶の原因となっている。過去の知識、既存のイメージが邪魔をして、新しく起こされた出来事が、素直に見られない人の弱さが露呈している。
  • 「マリアの子」という表現は父系ではなく母系で呼ぶ表現であり、当時は圧倒的な父系社会であるから、非常に異例である。イエスの十字架死と復活以降、原始教会に後から母マリアとイエスの兄弟が加わり、対して父ヨセフの存在の痕跡はなく、その事実を前提とした見方からの表現。
  • おそらくイエスの父ヨセフは、ある段階で既に亡くなっていた。このことから、ヨセフは高齢でマリアと結婚して寿命に達していたのではないかという推測が生まれ、その後のクリスマスの美術画などでは、ヨセフを高齢の男性として描く慣習が成立していった。
  • 「つまずく(σκανδαλίζω)」:信仰的拒絶を意味し、メシア理解の典型的障害を示す。
<これまでの注解を元にしての説教の結びの言葉として>  イエスが故郷に戻られたとき、人々はその知恵と力ある業に驚きながらも、信じようとはしませんでした。彼らはイエスを「よく知っている」と思い込み、過去のイメージに縛られ、神が今まさに行おうとしている新しい働きを受け入れることができなかったのです。  しかし、この物語は単なる過去の出来事ではありません。私たち自身もまた、同じつまずきを抱えています。自分の思い込み。それは絶対というわけでもないのに、私たちの頑固な思い込みが、神の恵みを閉ざしてしまうことがあります。  イエスは故郷で拒絶されましたが、それでも歩みを止められませんでした。理解されず、受け入れられず、つまずかれながらも、なお人々のもとへと向かい続け、ついには十字架へと進んでいかれました。 その道こそ、神の愛が貫かれる道でした。 私たちが心を閉ざすとき、神の働きは見えなくなります。 しかし、心を開くなら、どれほど小さな場所にも、どれほど平凡な日常にも、神は新しい命を吹き込んでくださいます。故郷で拒絶されたイエスは、今日も私たちのもとに来られます。 「あなたの中に、あなたの隣人の中に、神の働きを見ようとするか」  その問いを、静かに、しかし確かに投げかけておられます。

<ここまでのまとめ>
  1. 身近さが信仰を妨げる:故郷の人々はイエスを「よく知っている」と思い込んでいた。その思い込みが、神の新しい働きを拒む原因となった。 ・過去の情報により、新たな認識に影響を与えること。=アンカリング ・確証バイアス:自分の信念に合う情報だけを集める傾向
  2.  過去のデータが現在の神の働きを曇らせる:人は過去の経験に縛られ、神が新しく行われる業を見逃すことがある。
  3.  イエスの受難はすでにガリラヤで始まっている:拒絶はエルサレムだけではない。イエスの道は最初から「理解されない道」であった。

マルコ6:4

  • 原文:Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς ὅτι Οὐκ ἔστιν προφήτης ἄτιμος εἰ μὴ ἐν τῇ πατρίδι αὐτοῦ καὶ ἐν τοῖς συγγενεῦσιν αὐτοῦ καὶ ἐν τῇ οἰκίᾳ αὐτοῦ.
  • 私訳:そしてイエスは彼らに言っていた、「預言者は、尊ばれない者ではない。彼の故郷において、また彼の親族たちの中で、また彼の家においてを除いては」
  • 新共同訳:イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

注解

  • ἄτιμος:形容詞「尊ばれない」
  • 旧約時代の預言者に関する格言的な言葉。「故郷・親族・家」という、本来なら血縁関係やふるさと関係にある親しみの籠った場所が、拒絶という反対の結果になるという痛みのある運命。
  • 社会や人に対して、真に貢献しようと望む者もまた、覚悟しておくべき事柄。

マルコ6:5

  • 原文:Καὶ οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν, εἰ μὴ ὀλίγοις ἀρρώστοις ἐπιθεὶς τὰς χεῖρας ἐθεράπευσεν.
  • 私訳:そして彼はそこで、何一つの力ある業を行うことができなかった、ただ少数の病人に、手を置いて、癒したのであった。
  • 新共同訳:そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

注解

  • ἐδύνατο:原形δύναμαι 未完了中動直説法3単「彼はできた」
  • ἐπιθεὶς:原形ἐπιτίθημι アオリスト能動分詞「置いて」
  • οὐδεμίαν:否定強調「何一つ〜ない」
  • 「奇跡を行うことができなかった」:イエスを御子なる神、全能なる神とする後代のキリスト教神学から見て、神の不可能性という解釈上の問題を伴う箇所。イエスは人々の信仰心がなければ業を行えないのか?という疑問。イエスの悪霊払い、癒しの業を、霊能力と考えればあり得る現象。周囲の人々の疑念や悪意といったネガティブな念が、能力者の力の発揮に作用してしまうというもの。
  • この問題を神学的に整理するならば、神の存在や働きについて、疑いではなく信じる信頼をもって、諦めではなく期待をもって、不平不満ではなく感謝をもって待ち望むべき、とすると教会のような文脈では収まりが良い。

マルコ6:6a

  • 原文:Καὶ ἐθαύμαζεν διὰ τὴν ἀπιστίαν αὐτῶν.
  • 私訳:そして彼は彼らの不信仰のゆえに驚いていた。
  • 新共同訳:そして、人々の不信仰に驚かれた。

注解

  • ἐθαύμαζεν(原形:θαυμάζω)未完了能動直説法3単「驚いていた」
  • 通常の展開では、イエスの教えや業に人々が驚くという構図。ここではそれが逆転している。
  • 不信仰(ἀπιστία)はマルコにおいて繰り返される主題。信仰、すなわち、神やイエスに対する人格的な信頼、期待、希望は、より神の働きを大きくする一方、不信仰は阻害するものさえなる。
  • この箇所は切ない結末に終わっているが、 一方、宣教活動が拡張されていく橋渡しとなる。それは、イエスや使徒たちの同胞であるユダヤ人への宣教に失敗したが故に、世界宣教、世界の民族への宣教へと繋がっていったように。

<以上の注解を元にしての説教の結びの言葉として> 
 イエスが故郷で拒まれた物語は、単なる過去の出来事ではありません。それは、私たち自身の心の姿を映す鏡でもあります。人は、よく知っていると思い込んだ瞬間に、耳を閉ざしてしまうことがあります。過去の経験や固定観念が、神の新しい語りかけを曇らせてしまうことがあります。そして、信頼よりも疑いが勝るとき、神の働きは私たちの中で力を発揮しにくくなる。マルコが描くのは、まさにその痛ましい現実です。
  しかし同時に、この出来事は福音が広がる転機ともなりました。故郷で拒まれたイエスは、そこからさらに歩みを進め、やがてユダヤの境界を越え、世界へと福音が広がっていきました。人の拒絶さえも、神は新しい道を開くために用いられる。 だからこそ私たちは、「もう知っている」「どうせ変わらない」そんな思い込みを手放し、今日も新しく働かれる神に心を開く者でありたい。信じる者のうちに、神は今も働かれます。 期待をもって、感謝をもって、信頼をもって、神が私たちの人生に行おうとしておられる新しい業を受け取っていきましょう。

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説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ福音書 22 :15-22    22:23-33    22:34-40   22:41-46    23:1-12 23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)    23:13-36(④23:2...