説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ福音書
23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)
4:1以降、「蒔かれた種」の例えに始まり、「例えで話す理由」「『蒔かれた種』の解説」と続き、その後に「秤の例え」「ともし火の例え」が記されている。本箇所は、その流れを受けて、新たに「神の国」を主題とする例え話が展開されていく。
「26 また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」
26 Καὶ ἔλεγεν· Οὕτως ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ὡς ἄνθρωπος βάλλῃ τὸν σπόρον ἐπὶ τῆς γῆς,
27 καὶ καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν, καὶ ὁ σπόρος βλαστᾷ καὶ μηκύνηται, ὡς οὐκ οἶδεν αὐτός.
すなわち、種を蒔いた人間側の介入なしに、種が自力で芽を出し、勝手に成長していくことが強調されている。人の関与は種蒔きまでであり、その後の種の自発的な成長──すなわち人知れず進む「神の国」の成長・進展・進行──こそが本箇所の主題である。それゆえ、「蒔かれた種」の例えのように受け取り側の問題ではなく、神の働きの神秘がここでは強調されている。
「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」
αὐτομάτη ἡ γῆ καρποφορεῖ, πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα πλήρη σῖτον ἐν τῷ στάχυϊ.
神の国の自律的な成長について、植物の豊かな表現とともに語られている。核心となる語は「ひとりでに」(αὐτομάτη)である。植物の自律的な成長に例えられてはいるが、その本質は、神が成長を実現するということであり、別の言葉でいえば、人の手を介さずに行われる神の主権的な働きである。
「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
ὅταν δὲ παραδῷ ὁ καρπός, εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον, ὅτι παρέστηκεν ὁ θερισμός.
「早速、鎌を入れる(εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:新共同訳の「早速」は、マルコが好んで使用する「すぐに」(εὐθύς)に対応する語である。マルコ福音書では、事態が待ったなしに進行するため、人が即時の決断を迫られることがしばしば示されている。
ここまでの文脈は「神の国の成長」であるが、本節では、神による収穫、すなわち神の審判、あるいは救済の到来、神の支配の完成といった側面が暗示されている。
今日の「成長する種」のたとえは、私たちに二つの大切な真理を示しています。
一つは、神の国の成長は人の理解や努力を超えて進むということです。人は種を蒔くことはできますが、その後の芽吹きや成長そのものは、人の手によるものではありません。神の国も同じように、人知れず、しかし確実に、神の御業によって進展していきます。私たちが見えないところで神は働いておられるのです。それゆえ、私たちには「待つこと」が求められます。成長や進展が見えなくても、背後に神の働きがあることを信じ、信仰的な忍耐が必要です。
もう一つは、神の国の成長には段階があるということです。茎が出て、穂ができ、やがて実が熟すように、神の国も一足飛びではなく、時を経て完成へと向かいます。私たちはその過程を待ち望み、やはり先と同様に、忍耐をもって歩むよう招かれています。
そして最後に、収穫の時は必ず来るということです。神の国の完成、すなわち神の裁きと救いの時は、突然に、しかし確実に訪れます。その時、神は「すぐに」鎌を入れられるのです。だからこそ、私たちは今の時を大切にし、神の国のために備え、信仰をもって歩むことが求められています。
「パウロの全体教会政治学」(2024年)
【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?
『信徒の友』2018年10月号所収、「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」
タイトル:イエスに香油を注いだ女性
聖句:「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12:3)
絵画のデータ:シャンパーニュ「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」、1656年頃、musée des beaux arts de nantes。
今回のエピソードは、ある一人の女性がイエスに香油を注ぎかけた出来事です。この物語は、マタイ26・6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12・1-8において記されています。また、ルカ7・36-50には、女性がイエスに香油を注ぐという点で共通するこのエピソードによく似た記事が見られますが、場面設定や物語の背後に秘められたメッセージ等、相違点も多く認められ、マタイやマルコの記事とは別物として扱われることが多いです。ルカについては後ほどまとめて触れるとして、まずはマタイ、マルコ、ヨハネそれぞれの記述を追っていきましょう。
マタイ、マルコ、ヨハネは、このエピソードの場所をエルサレムにほど近い「ベタニア」としている点で一致しています。このことから、この逸話は「ベタニアでの香油注ぎ」というように呼び習わされています。ただし、マタイとマルコは香油注ぎの舞台となった家を「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26・6、マルコ14・3-9)とし、この出来事が生じたタイミングをエルサレム入城以後の受難が間近い頃としている一方で、ヨハネは「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ」とその姉妹であるマリアとマルタが住んでいた村という説明を加え、その時期を「過越祭の六日前」と設定しています(ヨハネ12・1)。ヨハネではエルサレム入城はヨハネ12・12-19に書かれていますから、マタイ、マルコと相違してこの出来事はエルサレム入城“以前”ということになります。さらに、マタイとマルコは香油を注いだ女性のことを「一人の女」と呼んでいますが、ヨハネでは上記の「マリア」と明記しています。
読者の多くの方々は、今回のエピソードについて「女性がイエスに香油を注いだあの物語・・・」といったように記憶されているでしょう。ところが実は、福音書をそれぞれ見比べてみると、場面設定だけでもこんなにも違うのです。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。簡単に言えば、福音書に記されている物語の背後に“伝承”と呼ばれるものがあって、それが異なった場所や時代において流布していく過程で、様々に変化を遂げていったためでしょう。このことを踏まえて、物語の先を読んでいきましょう。
イエスが家の中にいると(マルコとヨハネは「食事の席に着いて」いた時としています)、かの女性が「高価」な「香油」を携えて近づいてきました。マルコとヨハネはこの香油について、「純粋」「ナルドの香油」と説明しています(マルコ14・3、ヨハネ12・3)。「ナルド」はインド産の植物で、その根茎からは香料が採取され当時の世界で珍重された他、富裕なユダヤ人女性も愛用したことで知られています。彼女はイエスに香油を捧げるのですが、福音書ごとに香油を注いだ(塗った)箇所が異なります。マタイとマルコは「イエスの頭に(香油を)注ぎかけた」と記している一方、ヨハネは「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)と書いています。頭に香油を注ぐシーンは、後述の受難死の暗示だけではなく、古代のイスラエルにおける王の任職式の際の油注ぎをも想起させます。“王の王”という暗示的なメッセージと、受難死という対極的な主題との間に、激烈なコントラストが秘められています。他方、足に香油を塗って自分の髪で拭う場面は、足の塵を払う仕事は奴隷でさえも負わなかったという慣習と合わせて考えると、謙遜の極みの姿勢を意味すると同時に、“謙遜”や“親愛”といった単体の言葉では表現できない、愛も悲しみも何もかも入り混じったような複雑で劇的な叙情性をもたらしています。特に、「家は香油の香りでいっぱいになった」という言葉ほど芳しい(かぐわしい)香り立つ表現は、世界中どこを探しても見つけることはできないでしょう。
ところが、そんな激しいまでの情愛と思慕の世界を粉々に打ち砕く展開が続きます。マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこにいた人の何人か」、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と難癖をつけます。マルコとヨハネで述べられている彼(彼ら)の言葉は正論です。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14・5、マタイはこれを要約し「売って、貧しい人々に施すことができたのに」)。上述の通り、ヨハネにおいてこの言葉はイスカリオテのユダによって発せられており、彼の魂胆もまた詳らかにされています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12・6)。
イエスは、こうした批判から彼女をかばいます。「なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ26・11、マルコ14・6)。そして、マタイ、マルコ、ヨハネは一致して、彼女の香油注ぎを、埋葬時に遺体に塗油する習慣と自身の受難死の予告とに巧みに結び合せています。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26・12)。
マルコ福音書を参考にして自分の福音書を書いたと考えられているルカは、本来ならルカ22章2節と3節の間に配置されるはずの香油注ぎの記事を採用していません。その代わりに彼は、これと似ている別の記事を、イエスのガリラヤでの活動期に相当する7章に置いています。その記事は、女性がイエスに香油を塗り、居合わせた人が不満を抱くという点では香油注ぎと共通しているものの、場所もタイミングもまるで違う物語となっています(場所は「ファリサイ派の人」の「家」、時期はガリラヤでの宣教活動時代というエルサレム入城より遙か以前)。
マタイ、マルコ、ヨハネでは、受難を目前にしたタイミングということも相まって、受難死の予兆としての色彩が強い一方で、ルカではこれら三書にはない“愛と赦しの相関関係”という主題が展開されています(ルカ7・47「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」)。また、彼女は「罪深い女」(娼婦を意味するのでしょう)と表記され、ヨハネと同様にイエスの頭ではなく足に塗油して、自らの髪の毛で拭っています。そうして、“多く赦された者は、より深く主を愛する”というテーマが鮮烈に示されています。
後代、この「罪深い女」は、ルカ8・2の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と同一視されるようになりました。実際のところ、「罪深い女」がマグダラのマリアである根拠は何もありません。しかし、いつしかそのような見方が定着し、マグダラのマリアは長い髪を持つ美しい女性というイメージが形成され、やがて荒れ野の女性修道士その他の伝説とも結合して、最終的には、本誌4月号の特集で紹介されたようなマグダラのマリアをモティーフとした多くの絵画が生み出されていったのです。
今回ご紹介する絵画は、17世紀のフランス古典主義時代における画家シャンパーニュが描いた「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」です。4月号で紹介した「エマオの食事」以来、シャンパーニュは2回目となります。彼はエレガントで艶っぽい人物表現を得意とし、マグダラのマリアやヨハネ福音書4章の“サマリアの女性”も描いており、この絵でもその才能が遺憾なく発揮されています。イエスとシモンが向き合う構図と明瞭な色彩、そして、それを際立たせるボンヤリとした後景の人物描写が巧みです。
「エマオの食事」の絵画中には猫が書き込まれていたのですが、こちらの絵では猫ばかりか犬も登場しています。一般的な解釈として、犬は忠実の証で、猫は疑念の象徴です。よって、すがりつく犬はイエスに対する信頼を表し、物陰から顔を覗かせる猫は、愛の欠如と不満の思いを象徴すると解釈されます。ただ、個人的な印象としては、彼自身は犬や猫を素朴に愛していて、こうした象徴論は犬や猫を自分の絵画に描き込むための口実に近く、遊び心の表れのように感じます。他人の真摯な言動に腹を立てぬよう、遊び心を大切にしたいものです。
文脈としては、4:1–20「種蒔く人」の例え話の続きであり、「聞く者」「理解する者」について強調された直後。この箇所では、神の国の秘儀は隠されるべきものではなく、明らかにされるためにあるという主題が提示される。
全7個の「あなたがたは不幸だ」(Οὐαὶ ὑμῖν)宣言の6個目である。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι παρομοιάζετε τάφοις κεκονιαμένοις, οἵτινες ἔξωθεν μὲν φαίνονται ὡραῖοι, ἔσωθεν δὲ μεστοί εἰσιν ὀστέων νεκρῶν καὶ πάσης ἀκαθαρσίας.
「白く塗った墓(τάφοις κεκονιαμένοις)」:葬りの時期(アダルの月の15日)に墓跡を石灰で白く塗る習慣があった。これは、巡礼者が墓に触れて穢れを受けることを避けるためである。「白く塗る」という意味の κονιάω という動詞が用いられている。
穢れた墓を白く塗って外観を美しく整える様をもって、ファリサイ派が内面の醜さを隠し、外面のみを装う滑稽さが痛烈に皮肉られている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
οὕτως καὶ ὑμεῖς, ἔξωθεν μὲν φαίνεσθε τοῖς ἀνθρώποις δίκαιοι, ἔσωθεν δὲ ἐστε μεστοὶ ὑποκρίσεως καὶ ἀνομίας.
ファリサイ派や律法学者すべてが偽善的であったわけではない。しかし、イエスに批判的・敵対的であった彼らの多くが、外側だけの美しさを保ちながら、内面を顧みることなく細部や外面ばかりに注力していた。その皮肉な様が、白く塗られた墓という強烈なイメージをもって示されている。明示されてはいないが、この皮肉・滑稽さを決定的にしている要素は、彼ら自身がそのことを自覚していない点にある。
今日の箇所で語られている主イエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではありません。白く塗られた墓の譬えは、私たち自身の心を映す鏡でもあります。外側を整え、正しく見せることは容易ですが、主なる神が見ておられるのは、その内側です。そこに偽善や不法が満ちているなら、いえ、それらが私たちの内面にあるのは必然であるとしても、その事実に自分が気づいていないのならば、どれほど外見を飾っても意味はありませんし、滑稽でしかありません。
イエスは私たちに、外側の美しさではなく、内側の真実を求めておられます。その真実さ、あるいは誠実さとは、自分のありのままの姿を自覚し、それでも神が愛してくださることを感謝する思いに他なりません。それこそが、真の「正しさ」、すなわち「義」を生み出します。律法を教える者であっても、信仰を語る者であっても、まず自らの内を主に照らしていただくことが必要です。
ですから、この御言葉は私たちに問いかけます。私たちは人の目にどう見えるかを気にして歩んでいないでしょうか。主の前に正しくあることを第一とし、心の奥にまで福音を染み込ませているでしょうか。
白く塗られた墓ではなく、内も外も主にあって清められた器として歩む者となりましょう。偽善ではなく誠実を、不法ではなく神の義を、外側の飾りではなく内側の真実を求めるとき、私たちは主に喜ばれる生き方をすることができます。
旧約聖書には、「人は外の姿を見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉あります。そのように、私たちの日々の営みを主の光に照らしていただきつつ、真実な信仰者として生きる者となりましょう。
新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.
7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。
「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。
「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。
新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.
「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。
「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。
「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。
主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。
私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。
イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。
ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。
第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。
一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。
エフェソの信徒への手紙
コロサイの信徒への手紙
テサロニケの信徒への手紙二
テモテへの手紙一
テモテへの手紙二
テトスへの手紙
第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
並行箇所 マタイ13:10-17、ルカ8:9-10
4:10-12は、「蒔かれた種の例え」の後に続く位置にあり、イエスが例えを用いて話す理由を内容上の中心とする。場面は、イエスが群衆から離れて「ひとりになられたとき」(4:10)でありつつも、周囲には弟子たちがいて、彼らだけに語られた「神の国の秘密」(4:11)とされている。すなわち、イエスのここでの言葉は、群衆に対して公になされた説教ではなく、弟子たちに限定して語られた言葉であることを念頭に置きたい。すなわち、奇跡目当てに集まっている、必ずしもイエスの言葉を聞くつもりのない人も含む群衆ではなく、聞く耳のある弟子たち、言い換えれば、聞く意志のある人たちを対象とした言葉である。
イエスが例えをもって語る目的は、端的に言えば、聞こうとする耳を持ち、理解しようとする心を持つ人には神の真理は開かれるが、それを望まない人には閉ざされるということである。この二重性が、イザヤ6:9-10の引用をもって宣言されている。
新共同訳 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
Καὶ ὅτε ἐγένετο κατὰ μόνας, ἠρώτων αὐτὸν οἱ περὶ αὐτὸν σὺν τοῖς δώδεκα τὰς παραβολάς.
「ひとりに」(κατὰ μόνας)
公の場面から、私的な場面への転換を示す。マルコでは他に、9:28にも同様の場面転換が見られる。
「十二人と一緒にイエスの周りにいた人」
十二人の使徒たち以外の弟子たちも含む。イエスの一行は、使徒たち以外の弟子たちもいる集団であった。あるいは、使徒たち以外の弟子=マルコの読者をも含む広い弟子共同体を意識しているのかもしれない。
「たとえ(τὰς παραβολάς、複数形)」
単に4:3–9における蒔かれた種の例えを指すのではなく、イエスの語った他の譬え全体を網羅する。
新共同訳 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Ὑμῖν τὸ μυστήριον δέδοται τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ· ἐκείνοις δὲ τοῖς ἔξω ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται,
「(神の国の)秘密」μυστήριον:奥義とも。ヘレニズム的には秘儀宗教の「秘儀」を指す語。ユダヤ教では神の計画や啓示を意味する(参照、ダニエル2:18-19など)。
「外の人々には」(τοῖς ἔξω)
先行箇所の3:31-32では、家の「外」と内とが意識され、家の中でイエスを囲んで教えに耳を傾ける人々が、家族として呼ばれていた(3:34)。初期教会時代では、教会の信徒以外の一般社会を指す用語として定着した(参照、コロサイ4:5)。
「すべてがたとえで示される」
原語の直訳では「すべてが例えによって生じる」(ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται)。
新共同訳 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。
ἵνα βλέποντες βλέπωσιν καὶ μὴ ἴδωσιν, καὶ ἀκούοντες ἀκούωσιν καὶ μὴ συνιῶσιν, μήποτε ἐπιστρέψωσιν καὶ ἀφεθῇ αὐτοῖς.
イザヤ書の七十人訳聖書6:9-10からの引用句。ἵνα... μήποτε 構文が使用されていて、通常は<〜するために〜してはならない>という意味だが、ここでは、「してはならない」が結果節として用いられている。
「彼らは見るには見るが、認めず」
直訳では、「彼らは見るには見て、認識せず」。見ても認識するに至らずという結果に終わるということ。平たく言えば、もしやる気がないならば、その結果がはっきりと出る結果になるということ。私たちにおいても、「聞く気がないなら分かるわけがない」と思うだろう。分からないという結末が、よりはっきりと出るというニュアンス。
「聞くには聞くが、理解できず」
「見るには見るが」と同様で、繰り返しによって意味合いが強調されている。
「『立ち帰って赦されることがない』ようになるため」
「立ち帰って」と訳されている語は、「悔い改める」(ἐπιστρέφω)とも翻訳される語。罪の赦しの主題は、マルコ1:4、2:5などにも現れる。
文字通りに読むと意味不明となるが、私たちにおいても、「聞く気がないならもういい」との思いを抱くことがあるだろう。本人がそのように望んでいるのだから、赦しを得たくなければ赦されない結果となれ、というニュアンス。
聞く意志のない人たちは、当人が聞くことを望まないのだから、望み通り、理解せずに終わる結果となれ、という趣旨のこの宣言は、一種の神の審判の告知である。積極的な審判ではなく、消極的な裁きであると言える。同時に、語られ、聞かれず、理解や信仰に至らず、という一連のプロセスが、神の意志に基づく神の計画として示されていることにも留意するべきである。
主イエスの教えや言葉は、すべての人に語られ、同時に、理解と信仰へと開かれています。イエスはその際、例えを用いてお語りになりました。それは、「聞きたい」「もっと知りたい」「理解したい」「そうして信仰を持つようになりたい」、そう願う人たちが、真理へと導かれるようになるためです。
そして同時に、聞く耳を持たない人、分かろうと望まない人、そうした人たちが、自分たちの望む末路へと至るようになるためです。一言で言えば、白黒がはっきりと出るため、とも言えます。
しかし、主イエスが今日、このように語られたのは、単にそのように自業自得の結末で終わるためではありません。たとえ聞く気のない人でも、そこで何事かを思い、聞く耳を持つようにと願われてのことです。
すべての人は招かれており、すべての人に扉は開かれています。しかし、そこを通る人は一部です。通らない人も、神のご計画と相応しい時が来れば、通るようになることも現実にあります。そのように願われ、すべての人に招きの言葉を語られています。
イエスは今日も、私たちに語りかけておられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9)。