説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」
概要
本箇所は、マタイにおける終末論的講話、時に「小黙示録」とも称されるマタイ24-25章の導入部分に相当する。イエスが神殿を離れることを起点として、弟子たちの神殿に向かっての指差しが後に続く。この行為には、壮麗な建築物への弟子たちの感嘆が込められており、その直後の神殿崩壊予告が、これと鮮烈なコントラストを作り出している。
イエスによる神殿崩壊予告は、第一次ユダヤ戦争によって紀元70年に実際に生じたエルサレム陥落、並びに神殿崩壊の出来事と結びついている。おそらくマタイは、これを踏まえてこの箇所を編集している。ユダヤにおける神殿中心の制度、体制の終焉を暗示しつつ、将来における終末論的な審判の到来、人の子の来臨に備える姿勢の勧告が、この箇所により導入されている。
1節
- 原文 Καὶ ἐξελθὼν ὁ Ἰησοῦς ἀπὸ τοῦ ἱεροῦ ἐπορεύετο· καὶ προσῆλθον οἱ μαθηταὶ αὐτοῦ ἐπιδεῖξαι αὐτῷ τὰς οἰκοδομὰς τοῦ ἱεροῦ.
- 私訳 そして、イエスは神殿を出て進んでいった。すると、彼の弟子たちが近づいて、彼に神殿の建物群を指し示した。
- 新共同訳 イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。
文法解説と注解
- ἐξελθὼν:ἐξέρχομαι(出て行く)のアオリスト分詞・能動・男性単数主格
- ἐπιδεῖξαι:ἐπιδείκνυμι(見せる、示す)のアオリスト不定法
- 「イエスが神殿の境内を出て行かれると(ἐξελθών… ἀπὸ τοῦ ἱεροῦ)」:象徴的、暗示的行動。当時のイスラエルのユダヤ教を見捨てて、神の審判に委ねるという態度の現れ。これまで述べられたユダヤ教指導者層に対する批判が、ここでは神の審判として結実している。23:38「見よ、お前たちの家は見捨てられて…」という伏線的な章句の伏線回収となっている。イエスが立ち去ることをエゼキエル10章における神の臨在が神殿を離れるくだりとかけて、イエスという神的存在の見捨てが暗示されている。
- 「イエスに神殿の建物を指さした」:ヘロデ大王により改築中であった神殿に当たる。改築工事は、ヨセフス『ユダヤ古代誌』15.380–425によれば、紀元前20/19年頃に開始された。壮麗な神殿建築に感嘆し、イエスにも「指さして」見せているという場面。
- 「建物(τὰς οἰκοδομὰς)」:単数形ではなく複数形。本体部分のみならず、回廊や門、中庭など、周辺建築物を網羅する。
2節
- 原文 ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν αὐτοῖς· Οὐ βλέπετε ταῦτα πάντα; ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐ μὴ ἀφεθῇ ὧδε λίθος ἐπὶ λίθον, ὃς οὐ καταλυθήσεται.
- 私訳 そこでイエスは彼らに答えて言った。「あなたがたはこれら全てを見ていないのか。アーメン、あなたがたに言っておく。ここで石の上に崩されずに残される石は決してない」
- 新共同訳 そこで、イエスは言われた。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。
文法解説と注解
- ἀποκριθείς:動詞 ἀποκρίνομαι のアオリスト受動分詞。能動的:中動的意味を持つ受動態
- Οὐ βλέπετε;:「あなたがたは見ていないのか?」反語的疑問文
- ἀμὴν λέγω ὑμῖν:イエスに特徴的な宣言形式。講話を導く導入節として多用されている。
οὐ μὴ ἀφεθῇ:「残されることは決していない」:接続法の動詞を伴って、〜することはないという否定の強調となる。否定の強調としては最高度。
紀元70年、3年近くに渡る包囲網の後、ティトゥス将軍率いるローマ軍が突入し、神殿は炎上、完全崩壊した。マタイの執筆時においては、この出来事は事後であったと推定される。神殿崩壊は、象徴的意味としても、事実上の意味としても、それまでのユダヤ教における神殿中心体制の終焉をもたらした。
コラム 「ヘロデにより改築されたエルサレム神殿に対する感嘆の言葉 用例集」
- 「聖所を見ずして美を見たと言うな」(バビロニア・タルムード、ババ・バトラ 4a)
- 「ヘロデ神殿を見たことがない者は、美しい建造物を見たことがない」(上記の派生型)
- 「朝日に輝く神殿は、雪より白く、金の光は遠くからでも目を射るほどであった」
- 「巡礼者はその巨大さと美しさに圧倒された」
注:神殿の外装には、白い石灰岩や純金が使用されていた。
- 「ヘロデの建てた宮ほど美しいものはなかった」
- 「その石材は青白く、海の波のように輝いていた」
(タルムード・スッカ 51b–52a)
- 「もしエルサレムに美があるなら、それは神殿である」
- 「その白い大理石は、遠くから見ると山に積もる雪のようだった」
- 「神殿を見た者は、この世の栄華の頂点を見たのである」
民間伝承として言い習わされてきた言葉。
説教の黙想として
弟子たちは神殿の壮麗さに目と心を奪われた。彼らは外的な面だけを見て、この壮麗さが永遠に続くものと思ったことだろう。しかし、イエスはその深層、内実を見ていた。これまでの箇所で示された通り、ユダヤ教は指導者層からして既に腐敗していた。神の審判、体制の終わりは、もはや避けられないものになっていた。弟子たちが見ているものと、イエスが見ているものとの間に、著しいコントラストが形成されている。
ここでの弟子たちの姿は、表面的な現実を見て、全てを理解したような気になる私たちに対する反面教師である。同時に、それに捕らわれず、神の相を見通すイエスの姿は、教師である。一喜一憂という言葉がある。楽観的に喜ぶにせよ、なにかと憂いに沈むにせよ、外面だけを見てそうなっていないか、我が身を振り返るべきである。
永遠に続く体制はない。人が作ったもので、永遠に残るものはない。残るとしても、それはキリストの再臨までである。その時、全てが神の意志のもとに新たにされる。それで失い、絶望する人ではなく、キリストの訪れを喜ぶ者でありたいと願う。
説教の結びの言葉として
弟子たちは神殿の壮麗さに心を奪われました。白い石灰岩と金の輝きに包まれたその姿は、まさに人間の技と栄華の結晶でした。彼らはその美しさをイエスに示し、永遠に続くかのような確かさをそこに見出そうとしました。しかし、主はその外面の輝きではなく、内に潜む腐敗と終焉を見抜いておられました。
イエスの言葉は厳しくも真実にして現実です。「一つの石も残らない」。この宣告は、紀元70年のエルサレム神殿崩壊によって現実のものとなりました。人間が築いた最も壮麗な建造物でさえ、時の流れと神の審判の前には崩れ去るのです。ここに私たちは、永遠に続くものと続かないものの違いを学びます。
私たちの人生もまた、弟子たちの姿に重なります。私たちは目に見える繁栄や成功に心を奪われ、そこに安心を置こうとします。仕事の成果、財産、社会的地位、あるいは人間関係の安定。それらは確かに美しく、価値あるものです。しかし、それらはすべて「石の建物」にすぎません。やがて崩れ去り、残らないものです。
では、何が残るのでしょうか。残るものは、神の言葉です。残るものは、キリストにある信仰です。残るものは、神の国に向かう希望です。弟子たちが見たものは「石の建物」でしたが、イエスが見ていたものは「永遠の神の計画」でした。私たちもまた、目に見えるものに心を奪われるのではなく、目に見えない永遠のものに目を向けるべきです。
この世の体制は必ず移ろい、国も制度も文化も変わります。けれども、神の国は揺るがず、キリストの再臨によってすべてが新しくされます。その時、私たちは失望する者ではなく、喜び迎える者でありたいのです。
ですから、今日の御言葉は私たちに問いかけます。私たちは何を見ているでしょうか。弟子たちのように外面の栄華に心を奪われてはいないでしょうか。それとも、イエスのように神の御心を見抜き、永遠に残るものに心を寄せているでしょうか。
私たち、崩れ去るものに心を置くのではなく、永遠に残るものに望みを置きましょう。主の言葉に立ち、主の再臨を待ち望み、喜び迎える者となりましょう。
「一つの石も残らない」と語られた方こそ、永遠の礎であり、私たちの救いの岩です。 この方に望みを置き、日々の歩みを整え、主の来臨を喜び迎える者となりましょう。
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