説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ23:37-39
概要
7個連続の災い宣言と共に、律法学者、ファリサイ派への痛烈な皮肉を伴う批判が展開された。これを受けての本箇所においては、イスラエルを象徴する首都エルサレムの崩壊という神的審判が、預言的に宣告されている。
注解
37節
新共同訳
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
原文
Ἰερουσαλήμ Ἰερουσαλήμ, ἡ ἀποκτείνουσα τοὺς προφήτας καὶ λιθοβολοῦσα τοὺς ἀπεσταλμένους πρὸς αὐτήν, ποσάκις ἠθέλησα ἐπισυναγαγεῖν τὰ τέκνα σου, ὃν τρόπον ὄρνις ἐπισυνάγει τὰ νοσσία ἑαυτῆς ὑπὸ τὰς πτέρυγας, καὶ οὐκ ἠθελήσατε.
内容的には、マタイ21:33-26における「『ぶどう園と農夫』の例え」と共通している。神の憐れみ、招き、しかし拒絶という、神の招きとイスラエルの拒絶という、マタイの中心的テーマの一つを主題としている。
- ἠθέλησα:θέλω(望む、願う) のアオリスト能動直説法1人称単数
- ὃν τρόπον:「〜のように」という比較節を導入している。
- 「エルサレム、エルサレム」:二重の呼びかけとなっている。聖書における二重呼びかけは、愛、嘆き、警告など、強い感情を示す修辞的表現。ルカ10:41「マルタ、マルタ」では、親密さと切迫感を伴う。ここは審判の宣告ではあるが、叱責や怒りというよりも、審判によって滅びるエルサレムに対する愛情に裏打ちされた嘆きである。哀歌1-5章やイザヤ1:21、エレミヤ7:21などの哀歌調の嘆きが踏襲されている。エルサレムの悲劇の責任は、彼ら律法学者たちが代表しているという主旨。
- 「預言者たちを殺し……石で撃ち殺す者よ」:先の23:29-36における預言者殺しの歴史総括と繋がっている。ここはそのクライマックスとも言えるが、審判は物語内で未来のこととして語られてはいるものの、決定事項として扱われている。おそらく、マタイ執筆時、紀元70年におけるエルサレム崩壊の出来事は、規制の事実であった。
- 「めん鳥(ὄρνις)が雛を羽の下に集めるように」:神が雌鶏として母性的に喩えられている。父なる神が父性的にではなく、母性的に表現される例は、非常に珍しい。母鳥の比喩として他に、申命記32:11、詩編91:4が挙げられる。
- 「何度(集めようと)したことか(ποσάκις)」:これまでのイスラエルの歴史において、神が預言者を何度も遣わしたが、拒絶されたという繰り返しを指している。
- この主語であるイエスを指す1人称の「わたし」と、これまでの歴史において悔い改めを願った神が、同一化されている。
38-39節
新共同訳
38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」
原文
38 Ἰδοὺ ἀφίεται ὑμῖν ὁ οἶκος ὑμῶν. 39 λέγω γὰρ ὑμῖν, οὐ μὴ με ἴδητε ἀπ’ ἄρτι ἕως ἂν εἴπητε· Εὐλογημένος ὁ ἐρχόμενος ἐν ὀνόματι Κυρίου.
- ἀφίεται:現在・受動/中間・直説・3単。ἀφίημι「去らせる、放棄する、許す」。放棄する、の受動態で、「捨てられる」。神が見捨て、そこから離れることこそ、審判の究極である。
- ἕως ἂν εἴπητε:「あなたがたが〜と言うまでは」。条件節。 将来の時制を指すアオリスト接続法(εἴπητε)を伴っている。
- 「見よ(Ἰδοὺ)」:預言者的宣言の典型的な導入句の一つ。
- 「あなたたちの家(ὁ οἶκος ὑμῶν)」:首都エルサレム、またはエルサレム神殿、もしくはその両方を指す。イスラエル全体を象徴する語。
- 「見捨てられ(ἀφίεται ὑμῖν)」:エゼキエル11章における、神の栄光が神殿を去る主題と共通。神の栄光が去るとは、神の臨在が去ることと同義。
- 「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで」:詩118:26の引用。イエスをメシアとして迎える時の歓呼の声、エルサレム入城時の21:9でも引用されていた。キリストの再臨時を指していると考えられる。
- 「わたしを見ることがない」:先の「見捨てられる」、そして神と神の栄光が去ることと対応関係にある。
総括
この箇所は全体として、神の最終審判の宣告となってはいるが、エルサレム崩壊からキリストの再臨までの期間、彼ら(ユダヤ人)が悔い改める可能性は低いものの、それでも猶予の期間は残されており、彼らが喜びと共に再臨のキリストを迎えることが願われている。ユダヤ人に厳しいマタイではあるが、これがマタイの本心であろう。
説教の結びの言葉として
私たちが神から離れている時、エルサレムに対する主の嘆きは、私たちに対する嘆きともなります。神は何度も私たちを招き、守ろうとされています。しかし私たちは、しばしばその招きを拒みます。拒絶の結果は裁きですが、裁きの中にもなお希望が残されています。『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と告白するその日まで、神は忍耐をもって待っておられる。その神の忍耐と慈しみに応えて、主なる神に応答する者でありたいと願います。
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