説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」
■ 概要
文脈としては、4:1–20「種蒔く人」の例え話の続きであり、「聞く者」「理解する者」について強調された直後。この箇所では、神の国の秘儀は隠されるべきものではなく、明らかにされるためにあるという主題が提示される。
■ 注解
● 21節
新共同訳
また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
原文
Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Μὴ ὁ λύχνος ἔρχεται ἵνα ὑπὸ τὸν μόδιον τεθῇ ἢ ὑπὸ τὴν κλίνην; οὐχὶ ἵνα ἐπὶ τὴν λυχνίαν τεθῇ;
解説
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「ともし火(λύχνος)」:屋内で明かり取りに使われるもの。素焼きの陶器にオリーブオイルを満たし、灯心を垂らしたものが一般的。神の言葉、神の真理、神の国の奥義、イエスの教えなど、そういったものを網羅するものが例えられている。ともし火のように暗い世を照らすもの。ちなみに、ろうそくは当時のユダヤにもローマ社会にもほぼ皆無で、中世初期のヨーロッパになって普及し始めたが、非常に高価であった。
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「ともし火を持って来る」:翻訳ではこうだが、原文では「ともし火が来る」。ともし火が擬人化されている。この表現が、光を内に持つ人がどうあるべきかという主題につながる。あるいはイエス自身を示唆しているとも考えられる。
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「升(μόδιος)」:1モディオス=約8.75リットル。「寝台」と共に、ともし火を置くべきでない場所。光を遮るため。「そんな馬鹿げたことをする人はいない」という皮肉のニュアンスを帯びた反語の疑問文。
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「燭台(λυχνία)」:ともし火を置く台。日本語の「ロウソクの燭台」と異なる点に注意。ここでは、ともし火が置かれる“べき”場所。
イエスの弟子たち、信仰者は、神の言葉・教え・真理・光を内に持つ者である。それらは迫害などの理由で隠すべきものではなく、世に現されていくべきものである。
● 22節
新共同訳
隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
原文
οὐ γάρ ἐστιν τι κρυπτὸν ἐὰν μὴ ἵνα φανερωθῇ, οὐδὲ ἐγένετο ἀπόκρυφον ἀλλ’ ἵνα εἰς φανερὸν ἔλθῃ.
解説
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「隠れているもの(κρυπτόν)」:「隠されているもの」。
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「あらわにならないものはなく」:二重否定で「必ず明らかにされる」という強調。「φανερωθῇ」(アオリスト受動接続法)には「神によって明らかにされる」という含意がある。
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「秘められたもの(ἀπόκρυφον)」:秘儀・奥義的な語。人がみだりに触れて穢さないよう、秘蔵されている教えや物を指す。
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「公になる(εἰς φανερὸν ἔλθῃ)」:直訳「明るみの中に来る」。日本語の「白日のもとに晒される」に近い。
本節は、4:11の「神の国の秘密」を念頭に、今は隠されているものが時が来れば必ず明らかにされることを述べる。
● 23節
新共同訳
「聞く耳のある者は聞きなさい。」
原文
ἐάν τις ἔχει ὦτα ἀκούειν, ἀκουέτω.
解説
4:9の例えの結びでも用いられた、イエス独特の警告句。
聞ける・聞けないよりも、聞こうとする意志が問われる。
聞く気のない者は去ってよく、聞こうとする者は理解が追いつかなくても近づき続けよ、という招きでもある。
これは4:1–34全体に流れる主題と一致する。
● 24節
新共同訳
「また、言われた。『聞くことに注意しなさい。あなたがたが量るその秤で、自分にも量り与えられ、さらにつけ加えられる。』」
原文
Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Βλέπετε τί ἀκούετε· ἐν ᾧ μέτρῳ μετρεῖτε μετρηθήσεται ὑμῖν καὶ προστεθήσεται ὑμῖν.
解説
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「聞くことに注意しなさい(τί ἀκούετε)」:聞く姿勢の重要性を強調。
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「量るその秤(μέτρον)」:神の言葉をどう受け取るかという姿勢の比喩。
その尺度によって、与えられる理解・知識・啓示の深さが決まっていく。
● 25節
新共同訳
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」
原文
ὃς γὰρ ἔχει, δοθήσεται αὐτῷ· καὶ ὃς οὐκ ἔχει, καὶ ὃ ἔχει ἀρθήσεται ἀπ’ αὐτοῦ.
解説
この知恵文学的・逆説的格言は、マルコではここだけだが、マタイとルカでは2回ずつ現れる。旧約に完全一致はないが、箴言9:9など類似表現がある。
一見難しいようでいて、実は普遍的:
意欲ある者は伸び、意欲なき者は失う。
聞こう・理解しよう・信仰を深めようとする姿勢が問われている。
■ 説教の結びの言葉として
今日、主イエスが語られた「ともし火」と「秤」の譬えは、私たちの信仰生活に深い問いを投げかけています。ともし火は隠されるためではなく、暗い世を光で照らすためにあります。神の言葉もまた、心の奥にしまい込むためではなく、私たちの人生を照らし、周囲を照らすために与えられています。さらに、私たちは世の中の他の人々に光をもたらすために立てられた者でもあります。
秤の譬えは、私たちがどのような姿勢で御言葉を聞くかを問います。耳を傾け、心を開き、真理を受け取ろうとする者には、さらに豊かに与えられます。その反対に、聞こうとしない人は、持っているものさえ失ってしまうでしょう。
ですから、私たちは「聞く耳」を持ち続けたいのです。理解できない時も、疑問が残る時も、神の言葉に向かって歩み続ける者に、神は必ず光を与えてくださいます。
今日の御言葉を心に刻みましょう。「持っている人は更に与えられる」――信仰の火を隠さず、聞く耳を持ち続ける者に、神の国の豊かさはますます注がれるのです。
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