2026年3月31日火曜日

【宗教学解説動画】デーモン(Demon)とサタン(Satan)の違い—悪魔学と悪魔論の違い

 

ーーーレジュメーーー

【宗教学】デーモン(Demon)とサタン(Satan)の違い


1 用語の問題

・用語上、「悪魔」と呼ばれて、一緒くたにされて使われている場合も多いが…

  デーモンは、Demon  広く悪魔的、魔物的、悪霊的存在

  サタンは、   Satan   聖書に登場するサタン

       サタン=神に敵対(シャイターン)する元・天使とよくされる

 →サタンは旧約、新約聖書で言及 ーキリスト教概念

      旧約聖書に登場    ー旧約を共有するユダヤ教、イスラム概念


・これに伴い、その「学」の呼称、内容についても相違あり

  悪魔「学」  Demonology ー広く悪魔的、魔物的存在

  悪魔「論」  Satanology  

    ーキリスト教、ユダヤ教、イスラムにおける「サタン」

 *使い分けが意識されていないケースもあり。


2 悪魔(Demon)

・ざっくり、魔物、悪霊、霊的存在、神的存在もろもろ。


・ギリシャ語の「ダイモーン」(神的、霊的存在の意)に由来。

 必ずしも人間にとって悪の存在とは限らない。善の働きも。

 同様に、天狗も悪的な妖怪的存在である一方、中立的。


・初期キリスト教時代

 キリスト教が、ローマや欧州、東方の多様な多神教的世界観の魔物を取り込む。

 悪魔の意味合いが、悪的存在へと傾斜していく。

 =ラテン語におけるDaemonのニュアンス


・古代時代から中世時代にかけて

 聖書的な絶対悪としての存在であるサタンと、デーモンが融合していく。

 意味合いの変遷例:1 上級サタンの手下が、下級デーモン

      神学者により、悪魔界の序列という世界観形成が進む

       →悪魔に関する説を研究する学=狭義の「悪魔論」


3 サタン(悪魔、Satan)

・聖書(旧約聖書、新約聖書)で言及される「サタン」

 ヘブライ語で、神に敵対的な意味を持つ「シャイターン」が語源

 キリスト教、および旧約聖書を共有するユダヤ教、イスラムに必然的に限定。


・聖書におけるサタン、神学者などの論 =×悪魔「学」 ⚪︎悪魔「論」

 神学者の例:エイレナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、

       アウグスティヌスなど

・上述のように、サタンとデーモンの意味合いの用例的な融合が進む。

 サタンがデーモンであったり、デーモンが悪霊であったり…。


4 サタンと悪魔の性質上の違い

・悪魔は基本的には、魔物的で恐怖の存在となっていったが、絶対悪でもない

・サタンは基本、絶対悪。(上記の天狗のように例外的な伝承があるかも)

 神に敵対し、人間に誘いをかけ、神から引き離していく存在。絶対悪。

・魔物的な悪魔や悪霊は、人間に直接的(物理的・精神的)な危害を加える

 他方、サタンは人間を唆して神から引き離すため、原則、危害は加えない。

 ただし、後代の伝承過程で、デーモンとサタンが融合してくと、その限りでなし

【目次】キリスト教史(教会史)関連

【解説動画】

【キリスト教史解説】ヒッポリュトス ー教父、対立教皇、サベリウス主義批判

【キリスト教史解説】古代教会時代の修道院運動

【キリスト教史解説】ヒエラポリスのパピアス

【キリスト教史解説】ドナティスト論争

【キリスト教史解説】聖遺物、聖遺物崇敬ー「聖人の遺物をゲットだぜ」

【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖

【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定

【キリスト教史解説】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争

【キリスト教史解説】ヒエラポリスのパピアス 2世紀頃

【キリスト教史解説】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス


ーー初期キリスト教時代ーー

コイネー・ギリシャ語                

前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス        

後30-101年 ローマのクレメンス    



ー古代教会時代ーー

【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス(動画)

(古代教会における聖書)「正典」の確定        信条の形成        シモニア(聖職売買)

70/82-156/168年 ポリュカルポス        2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書

100頃-163/167年 ユスティノス

120-173年 タティアノス(タチアノス)(動画)

?-170 霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム(動画)

2世紀頃 ヒエラポリスのパピアス

?-258 ラウレンティウス        

2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義        Montanism / Montanus

2世紀中葉 マルキオン

160頃-220年以降 テルトゥリアヌス        130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス

200頃-258年 キプリアヌス        293頃-373年 アタナシオス

240頃-320頃 ラクタンティウス        

3世紀前半から中葉 モナルキアニズム

3世紀後半-4世紀 ミュラのニコラウス

312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)

325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条

カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)

330頃-379 バシレイオス        342頃-420年 ヒエロニムス

381年 第1コンスタンティにポリス公会議/ニカイア信条


ーー中世時代ーー

テーマ的項目

【キリスト教】異端審問 ーーその歴史的経緯


675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス        

1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

11世紀-15世紀中葉 十字軍        


ーー宗教改革時代ーー

15世紀  人文主義        

1482-1531年 エコランパディウス        

1483-1546年 マルティン・ルター    

1491-1551年 マルティン・ブツァー        

1500年代前半以降 再洗礼派        

1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー        

1509-64年 カルヴァン        

1511-53年 セルヴェトゥス        

1515-63年 カステリヨン        

1524-25年 ドイツ農民戦争        

1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)                

1545年- 対抗宗教改革        1555年 アウクスブルク宗教和議        

16世紀 改革派教会        Reformed Church        

1618-48年 三十年戦争        

1618-9 ドルトレヒト会議

1635-1705年 シュペーナー        

1705年- ソッツィーニ主義        Sozzinism        

1836- ディアコニッセ        

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ25:1-13

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ25:1-13


マタイ25:1

  • 原文: Τότε ὁμοιωθήσεται ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν δέκα παρθένοις, αἵτινες λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας ἑαυτῶν ἐξῆλθον εἰς ἀπάντησιν τοῦ νυμφίου.
  • 私訳:そのとき、天の国は十人の処女たちに似せられるであろう。彼女たちは自分たちのともしびを取って、花婿を迎えに出て行った。
  • 新共同訳: 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。

注解

  • ὁμοιωθήσεται(似せられるであろう):未来受動。
  • 「おとめ」: παρθένοι:未婚の若い女性。ギリシャ語のこの語は純潔的な意味を持つが、元々のユダヤ的背景では、未婚・結婚前の女性の意。
  • 「ともしび」( λαμπάδες):松明型のともしび。油補充が必要。小型オイルランプ( λύχνος)とは別物。
  • εἰς ἀπάντησιν:名詞 ἀπάντησις(女性名詞)の対格単数形。語源は ἀντάω/ἀπαντάω(出会う、迎える)。

マタイ25:2

  • πέντε δὲ ἐξ αὐτῶν ἦσαν μωραί καὶ πέντε φρόνιμοι.
  • 私訳:そのうち5人は愚かであり、5人は賢かった。
  • 新共同訳: そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

注解

  • 「愚かさ」(μωραί):信仰的な鈍感さ(土台の上の家の例え、7:26を参照)。
  • 「賢い」( φρόνιμοι):思慮深い者(7:24を参照)。
  • マタイ特有の「賢い/愚か」の対比。未来の予見、日頃の準備が焦点。

マタイ25:3–4

  • 原文: αἱ γὰρ μωραὶ λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας αὐτῶν, οὐκ ἔλαβον μεθ’ ἑαυτῶν ἔλαιον· αἱ δὲ φρόνιμοι ἔλαβον ἔλαιον ἐν τοῖς ἀγγείοις μετὰ τῶν λαμπάδων αὐτῶν.
  • 私訳:愚かな者たちは、ともしびを取ったが、自分たちと共に油を取らなかった。しかし賢い者たちは、ともしびと共に予備器の中に油を取った。
  • 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。

注解

  • 「油」(ἔλαιον):これが何を象徴しているかは複数考えられ、信仰、信仰に基づく生活、聖霊などを挙げ得る。前述の通り、焦点は日頃の備え「いつ来てもいいように」。
  • ἀγγεῖον:油の予備容器。

マタイ25:5

  • 原文: χρονίζοντος δὲ τοῦ νυμφίου ἐνύσταξαν πᾶσαι καὶ ἐκάθευδον.
  • 私訳:花婿が遅れている時、皆はうとうとし、眠った。
  • 新共同訳: ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。

注解

  • χρονίζοντος: 動詞: χρονίζω(遅れる、長引く) 現在分詞・能動態・属格・単数・男性。
  • νυμφίος(花婿):属格・単数・男性。 χρονίζοντος と共に独立属格を形成。
  • 初期キリスト教時代における再臨遅延問題を反映。
  • 全員眠る点が重要で、皆が同じ状況に置かれている中で、決定的な差が生じるという展開。

マタイ25:6

  • 原文:μέσης δὲ νυκτὸς κραυγὴ γέγονεν· ἰδοὺ ὁ νυμφίος, ἐξέρχεσθε εἰς ἀπάντησιν αὐτοῦ.
  • 私訳:真夜中に叫びが起こった。「見よ、花婿だ。迎えに出よ。」
  • 新共同訳:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。

注解

  • 「叫ぶ声」(κραυγή):「叫び声」主格・単数・女性 → 主語
  • γέγονεν:動詞 γίγνομαι(起こる、生じる)完了形・能動態・直説法・三人称単数。
  • 「真夜中」(μέσης νυκτός):夜の只中。予期しない時の突然性を表す。終末の突然性を強調(24:44)。

マタイ25:7–8

  • 原文: τότε ἠγέρθησαν πᾶσαι αἱ παρθένοι ἐκεῖναι καὶ ἐκόσμησαν τὰς λαμπάδας ἑαυτῶν. αἱ δὲ μωραὶ ταῖς φρονίμοις εἶπαν· Δότε ἡμῖν ἐκ τοῦ ἐλαίου ὑμῶν, ὅτι αἱ λαμπάδες ἡμῶν σβέννυνται.
  • 私訳:そこでそのおとめたちは皆起きて、自分のともしびを整えた。愚かな者たちは賢い者たちに言った。「あなたがたのオリーブ油を少し私たちにください。私たちのともしびは消えかけています。」
  • 新共同訳: そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』

注解

  • ἠγέρθησαν: 動詞ἐγείρω(起こす)。直説法・受動態・アオリスト・3人称複数。
  • ἐκόσμησαν: 動詞κοσμέω(整える、飾る)。直説法・能動態・アオリスト・3人称複数。
  • σβέννυνται: 動詞σβέννυμι(消す)。直説法・受動態(または中動態)・現在。現在形は現在進行中の意味が強いから「消えつつある」という意。⠀

マタイ25:9

  • 原文:ἀπεκρίθησαν δὲ αἱ φρόνιμοι λέγουσαι· Μήποτε οὐ μὴ ἀρκέσῃ ἡμῖν καὶ ὑμῖν· πορεύεσθε μᾶλλον πρὸς τοὺς πωλοῦντας καὶ ἀγοράσατε ἑαυταῖς.
  • 私訳: しかし賢い者たちは答えて言った。「私たちにもあなたがたにも足りなくなるかもしれません。売る人のところへ行って、自分たちのために買いなさい。」
  • 新共同訳:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』

注解

  • Μήποτε:「もしかすると〜しない」否定の可能性の副詞。
  • ἀρκέσῃ: 動詞ἀρκέω。接続法・能動態・アオリスト・3人称単数。
  • 「オリーブ油」の代理は不可能。再臨を見据えた営みは、人に分け与えることはできない。

マタイ25:10

  • 原文:ἀπερχομένων δὲ αὐτῶν ἀγοράσαι
ἦλθεν ὁ νυμφίος,
καὶ αἱ ἕτοιμοι εἰσῆλθον μετ’ αὐτοῦ εἰς τοὺς γάμους,
καὶ ἐκλείσθη ἡ θύρα.
  • 私訳:彼女たちが買いに行っている間に、花婿が来た。準備のできていた者たちは彼と共に婚宴に入り、そして戸は閉ざされた。
  • 新共同訳:愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。

注解

  • ἀπερχομένων: 動詞ἀπέρχομαι(去る、離れて行く)。分詞。現在・中動態・属格・女性・複数。
  • ἀγοράσαι: 動詞ἀγοράζω(買う)。不定詞・アオリスト・能動態。
  • ἐκλείσθη: 動詞κλείω(閉める)。直説法・受動態・アオリスト・3人称単数。受動態なので「戸は閉められた。」時がくれば、自分で開け閉めはできない。終末の不可逆性。

マタイ25:11–12

  • 原文:ὕστερον δὲ ἔρχονται καὶ αἱ λοιπαὶ παρθένοι λέγουσαι·
Κύριε κύριε, ἄνοιξον ἡμῖν.
ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν·
Ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐκ οἶδα ὑμᾶς.
  • 私訳:後になって他の処女たちも来て言った。「主よ、主よ、私たちに開けてください。」
しかし彼は答えて言った。「アーメン、私はあなたがたに言う。
私はあなたがたを知らない。」
  • 新共同訳:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。

注解

  • ὕστερον:副詞。「後で」「その後」。
  • ἄνοιξον:動詞ἀνοίγω(開ける)。命令法・能動態・アオリスト・2人称単数。
  • Κύριε κύριε:7:21「主よ、主よ、と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と対応関係。物語中の愚かな女たちと、教会における備えのなかった者が重ね合わせられている。
  • οὐκ οἶδα ὑμᾶς:「あなたがたを知らない」関係性の否定。「あなたがたとは関係ない」
  • 物語中の「ご主人様」「主」は、再臨のキリストを表している。新共同訳のように「ご主人様」と訳すと、対応関係が見えにくくなる。

マタイ25:13

原文:γρηγορεῖτε οὖν,
ὅτι οὐκ οἴδατε τὴν ἡμέραν οὐδὲ τὴν ὥραν.
直訳:だから目を覚ましていなさい。あなたがたはその日もその時も知らないのだから。
新共同訳:だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

注解

  • γρηγορεῖτε:命令形・現在。継続的覚醒。24:42と対応。終末講話全体の中心主題。
  • 「その日、その時を知らない」:これも中心的主題。「時の予知」は不可能、だからこそ、いつ来てもいいように備えを。メッセージ内容は、単純至極。

<この注解に基づく説教の結びの言葉の一例>

 愚かなおとめたちのともしびは、ギリシア語の現在形が示すように「消えつつありました」。信仰のともし火は、一瞬で消えるのではなく、気づかぬうちに弱まり、やがて光を失っていきます。そして、それを他の人が代行することはできません。自分自身と神との関係の問題だからです。だからこそ、賢いおとめたちは油を分けることができませんでした。
 そして、彼女たちが油を買いに行っている「その間に」、花婿は到着しました。準備のできていた者たちは婚宴に入り、「戸は閉められた」。この一語が告げるのは、終末の時が持つ不可逆性です。私たちが開け閉めできる扉ではありません。与えられた時が終われば、ただ静かに、神ご自身によって閉じられる扉です。
 遅れて戻ってきたおとめたちは叫びます。「主よ、主よ、開けてください」。しかし返ってきたのは、「私はあなたがたを知らない」という関係の否定でした。ここで語られる「主」は、単なる物語上の主人ではなく、再臨のキリストその方です。だからこそ、この言葉は私たちの胸に重く響きます。神の愛は深いものですが、それに甘えてしまう、「愛ゆえの甘え」には注意したいものです。
 イエスは最後にこう命じられました。「だから、目を覚ましていなさい」。これは一時的な緊張ではなく、継続的な覚醒の姿勢です。私たちは「その日、その時」を知りません。だからこそ、今日という日を、与えられたこの瞬間を、主の前に整えながら、その状態を継続して歩むのです。
 油を分けてもらうことはできません。しかし、油を備える道は、今、開かれています。まだ間に合うのです。恐れるのでもなく、今、どうするか。問題の核は、単純なこの一事です。祈り、神の言葉に聞き、隣人を愛し、主の前に心を整える。その一つひとつが、私たちのともし火に火を灯す油となります。
 主が来られる時、私たちのともしびが消えかけているのではなく、静かに、しかし確かに輝いているように。その光が、主を迎える喜びの光となるように。今日もまた、目を覚まして歩み続けたいと思います。

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 マタイ24:45-51「忠実な僕と悪い僕」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解

マタイ24:45-51「忠実な僕と悪い僕」


概要

 本段落(24:45–51)は、終末的講話(24–25章)の警告部(24:36以下)の中に置かれた譬えであり、「目覚めて備えること」の具体的内容を示す箇所である。ここでは、終末的備えの本質として、主の再臨の時を知ることではなく、委ねられた務めに忠実であり続けることが提示されている。  構造的には、「忠実で思慮深いしもべ」(45–47節)と「悪いしもべ」(48–51節)の対比によって展開される二部構成で、前半では管理を任された僕の忠実さが再臨時の祝福と更なる委任へと繋がり、後半では主人の到着の遅れを「まだ来ない、まだ大丈夫」と捉えた僕が放縦に走り、結果、予期せぬ帰還による審判を受ける。  この箇所の中心的主題は、「再臨の遅延」に対する内面的態度である。遅延がこのまま続くと思う「油断」を問う警告である。  ここで提示される文字通り「油断なき」忠実性は、直後の25章(十人の乙女・タラント・最後の審判)へと展開する主題的前奏となる。

マタイ24:45

  • 原文: Τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος, ὃν κατέστησεν ὁ κύριος ἐπὶ τῆς οἰκετείας αὐτοῦ, τοῦ διδόναι αὐτοῖς τὴν τροφὴν ἐν καιρῷ;
  • 私訳: それでは、誰が忠実で思慮深い僕であるか?それは、主人が自分の家の使用人たちの上に任命した、時間で彼らに食物を与える者である。
  • 新共同訳: 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。

注解

  • πιστός::信仰と訳される語であるが、本来は忠実、信頼を表す語。
  • πιστόςと φρόνιμος(思慮深い):この組み合わせは、マタイ10:16「蛇のように賢く、鳩のように純真でありなさい」と似ている。無用に深く考えすぎずに委ねる姿勢と、そうでありながらも思慮深いという、場合によっては矛盾する事柄同士の組み合わせ。
  • 「僕(使用人)」:奴隷とも訳される。教会では、「神の僕」という意味から転じて、教会の指導的立場を表す場合もある。
  • 「時間で」:「適切な時に」とも訳されるが、ここではおそらく「時間で」一定期間ごとに給料が支払われることを意味すると思われる。
  • 「家の使用人たち」:この箇所では、教会指導者によって運営される教会共同体を指すのだろう。
  • 教会を表す比喩とすれば、「食物」は霊的な食物、すなわち神の言葉を教えることを表すことになる。

マタイ24:46

  • 原文: μακάριος ὁ δοῦλος ἐκεῖνος ὃν ἐλθὼν ὁ κύριος αὐτοῦ εὑρήσει οὕτως ποιοῦντα.
  • 私訳:幸いなるかな、そのしもべは。その主人が来た時、そのようにしているのを見出されることになる者は。
  • 新共同訳: 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。

注解

  • μακάριος:山上の説教(5章)の祝福宣言に繋がる言い回し。
  • 「来た時」(帰ってきた時):主の再臨の時を表す。その時がいつかは分からないことが繰り返し強調されてきた。それがいつかを知るよりも、「まだ大丈夫」と思うことなく、いつも「忠実」であるべきことが強調されている。

マタイ24:47

原文:ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι ἐπὶ πᾶσιν τοῖς ὑπάρχουσιν αὐτοῦ καταστήσει αὐτόν. 私訳:アーメン、私はあなたがたに言う。彼の所有物すべての上に、彼を任命することになる。 新共同訳: はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

注解

  • καταστήσει:動詞 καθίστημι(任命する)の未来・3単
  • 忠実さは、より大きな委任へと導く。25章のタラント譬えと主題的に繋がる。

マタイ24:48

  • 原文: ἐὰν δὲ εἴπῃ ὁ κακὸς δοῦλος ἐκεῖνος ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ· Χρονίζει μου ὁ κύριος,
  • 私訳:しかし、もしその悪い僕がその心の中で言うならば——「わたしの主人は遅れている」と。
  • 新共同訳: しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
注解
  • κακὸς δοῦλος:悪い僕。「忠実な僕」と対比されている。
  • Χρονίζει:「彼は遅れている。」マタイ福音書執筆時の再臨遅延問題を反映している可能性が高い。

マタイ24:49

  • 原文:: καὶ ἄρξηται τύπτειν τοὺς συνδούλους αὐτοῦ, ἐσθίῃ δὲ καὶ πίνῃ μετὰ τῶν μεθυόντων,
  • 私訳:そして、自分の共なる僕たちを打ち始め、また酔う者たちと共に食べ、かつ飲むならば。
  • 新共同訳: 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。

注解

  • ἄρξηται(~し始める):堕落が始まっていく転換点。
  • τύπτειν:「打つ」ことで、暴力行為を示す。教会であれば、支配権を濫用し始めることか。
  • ἐσθίῃ:動詞 ἐσθίω(食べる)現在接続法・3単
  • πίνῃ:動詞 πίνω(飲む)現在接続法・3単
  • τῶν μεθυόντων:μεθύω(酔う)の現在分詞・属格複数

マタイ24:50

  • 原文:ἥξει ὁ κύριος τοῦ δούλου ἐκείνου ἐν ἡμέρᾳ ᾗ οὐ προσδοκᾷ καὶ ἐν ὥρᾳ ᾗ οὐ γινώσκει,
  • 私訳:そのしもべの主人は、彼が予期していない日に、彼が知らない時刻に来ることになる。
  • 新共同訳:もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、

注解

  • ἥξει:動詞 ἥκω(来る、到着する)未来・3人称単数
  • 予期しない時・知らない時は、マタイ24:36「その日、その時は誰も知らない」と対応関係にある。

マタイ24:51

  • 原文: καὶ διχοτομήσει αὐτόν καὶ τὸ μέρος αὐτοῦ μετὰ τῶν ὑποκριτῶν θήσει· ἐκεῖ ἔσται ὁ κλαυθμὸς καὶ ὁ βρυγμὸς τῶν ὀδόντων.
  • 私訳:そして彼を二つに切り裂き、その分け前を偽善者たちと共に置くであろう。そこでは泣くことと歯の歯ぎしりがあるであろう。
  • 新共同訳: 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

注解

  • διχοτομήσει:動詞 διχοτομέω(切り裂く、二つに分ける)未来・3単。「厳罰に処す」の比喩的表現。
  • ὑποκριταί:偽善者。マタイに特徴的な用語の一つ。
  • ὁ κλαυθμός:名詞「泣き叫び」
  • ὁ βρυγμός:名詞「歯ぎしり」、 τῶν ὀδόντων:属格複数「歯の」。マタイ8:12、13:42など、マタイが描く終末的表現。
  • 忠実な僕の任命(祝福)と悪い僕の断罪(呪い)の対比で締めくくられる。

<この注解に基づく説教の結びの言葉として>

 主は、私たちに「いつ来られるか」を知らせることよりも、「任された務めに忠実であること」を求めておられます。再臨が遅れているように見える時こそ、私たちの心は試されます。油断は静かに忍び寄り、忠実さを侵食し、やがて「悪い僕」の道へと導きます。しかし、主は「忠実で思慮深い僕」を探しておられます。誰か特別な人ではなく、日々の小さな務めを誠実に果たす者を、主は祝福し、さらに大きな委任へと招かれます。
 主が思いがけない時に来られるという事実は、恐れではなく、希望と励ましです。なぜなら、主は私たちの忠実を決して見逃されないからです。だからこそ、私たちは今日も、与えられた場所で、与えられた人々に、与えられた務めをもって仕えていくのです。
主が来られるその日、私たちが「そのようにしている」のを見出されますように。

2026年3月30日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ6:1-6a

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ6:1-6a

概要

 マルコ福音書は、イエスの十字架の死という悲劇を中心に据え、人々によって無力に追いやられたその姿こそ真のメシアであるという逆説的メッセージを語る物語である。全体は、ガリラヤでの活動を描く前半と、エルサレムへ向かい受難へと進む後半に大きく分けられる。 群衆は、癒しや悪霊追放といった「力ある業」を行うイエスをメシアと期待する。しかし物語は、その期待とは裏腹に、イエスが拒絶され、受難へと静かに歩みを進める姿を描く。直前の悪霊に憑かれた男の癒しの場面でも、イエスは地元住民から恐れられ、追放されている。  本段落では、イエスが故郷に戻るが、そこで待っていたのは歓迎ではなく批判と拒絶であった。イエスはほとんど何もできないまま故郷を後にする。この逸話は、預言者や神に仕える者がしばしば排斥される運命にあるという、受難の予兆を示す物語でもある。

注解

マル⁠コ6:1

  • 私訳:そして、彼はそこから出て行った、そして彼は彼の故郷へ来る、そして彼の弟子たちが彼に従っている。
  • 新共同訳:イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 ⠀
  • ἀκολουθοῦσιν:原形:ἀκολουθέω 現在能動直説法3複「彼らは従っている」
  • πατρίδα:名詞πατρίς 対格単数「故郷」
  • 新共同訳の小見出しでは「ナザレの村」と記されているが、本文はイエスの故郷がナザレの村とは表記しない。イエスを「ナザレのイエス」と呼ぶ伝承から、故郷=ナザレと推定されているにすぎない。ナザレが実在した村かどうかも議論があり、「ナジル人(神に誓願した者)」を指すとする説もある。
  • いずれにせよ、ここはイエスが故郷に戻る場面である。名声を得たイエスが故郷に帰るが、そこで起こるのは歓迎ではなく「拒絶」というのが主題である。

マルコ6:2

  • 私訳:そして、安息日が起こったとき、彼は会堂の中で教え始めた。そして多くの者たちは、聞きながら驚かされて言っていた、「どこから、この人に、これらは(来たのか)。そして何であるか、この、この人に与えられた知恵は。また、このような力ある業が、彼の手を通して起こっている(とは)。」
  • 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 ⠀
  • γενομένου(原形:γίνομαι):アオリスト中動分詞(絶対属格)「〜が起こったとき」
  • ἀκούοντες(原形:ἀκούω):現在能動分詞・主格複数「聞いている者たち」
  • ἐξεπλήσσοντο(原形:ἐκπλήσσω):未完了中動直説法3複「彼らは驚かされていた」
  • 安息日、イエスは会堂で教え始める。ナザレの人々は、教えを語るイエスの知恵(σοφία)と奇跡(δυνάμεις)に驚嘆するが、その反応は信仰に至らない。「どこから(πόθεν)」という問いは、神的起源を認めるのではなく、むしろ疑念を示す。

マルコ6:3

  • 私訳:この人は大工ではないか、この、マリアの子であり、ヤコブとヨセとユダとシモンの兄弟ではないか。そして彼の姉妹たちは、ここに、私たちのもとに、いないのではないか。そして彼らは彼においてつまずいていた。
  • 新共同訳:この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 ⠀
  • ἐσκανδαλίζοντο(原形:σκανδαλίζω):未完了中動直説法3複「彼らはつまずいていた」
  • τέκτων:主格単数「大工・職人」
  • 「この人は大工ではないか」:マルコを参考にして書かれたマタイ福音書では、「この人は大工の子ではないのか」と言い換えている。おそらく、マルコの時代よりイエスの神性が定着してきたマタイの時代にあって、マタイは神の子イエスを大工とする直裁な表現に躊躇し、婉曲的な表現に切り替えたのだろう。
  • 故郷の人々は、イエスの家系や出自、成長の過程などを知っているだけに、これが拒絶の原因となっている。過去の知識、既存のイメージが邪魔をして、新しく起こされた出来事が、素直に見られない人の弱さが露呈している。
  • 「マリアの子」という表現は父系ではなく母系で呼ぶ表現であり、当時は圧倒的な父系社会であるから、非常に異例である。イエスの十字架死と復活以降、原始教会に後から母マリアとイエスの兄弟が加わり、対して父ヨセフの存在の痕跡はなく、その事実を前提とした見方からの表現。
  • おそらくイエスの父ヨセフは、ある段階で既に亡くなっていた。このことから、ヨセフは高齢でマリアと結婚して寿命に達していたのではないかという推測が生まれ、その後のクリスマスの美術画などでは、ヨセフを高齢の男性として描く慣習が成立していった。
  • 「つまずく(σκανδαλίζω)」:信仰的拒絶を意味し、メシア理解の典型的障害を示す。
<これまでの注解を元にしての説教の結びの言葉として>  イエスが故郷に戻られたとき、人々はその知恵と力ある業に驚きながらも、信じようとはしませんでした。彼らはイエスを「よく知っている」と思い込み、過去のイメージに縛られ、神が今まさに行おうとしている新しい働きを受け入れることができなかったのです。  しかし、この物語は単なる過去の出来事ではありません。私たち自身もまた、同じつまずきを抱えています。自分の思い込み。それは絶対というわけでもないのに、私たちの頑固な思い込みが、神の恵みを閉ざしてしまうことがあります。  イエスは故郷で拒絶されましたが、それでも歩みを止められませんでした。理解されず、受け入れられず、つまずかれながらも、なお人々のもとへと向かい続け、ついには十字架へと進んでいかれました。 その道こそ、神の愛が貫かれる道でした。 私たちが心を閉ざすとき、神の働きは見えなくなります。 しかし、心を開くなら、どれほど小さな場所にも、どれほど平凡な日常にも、神は新しい命を吹き込んでくださいます。故郷で拒絶されたイエスは、今日も私たちのもとに来られます。 「あなたの中に、あなたの隣人の中に、神の働きを見ようとするか」  その問いを、静かに、しかし確かに投げかけておられます。

<ここまでのまとめ>
  1. 身近さが信仰を妨げる:故郷の人々はイエスを「よく知っている」と思い込んでいた。その思い込みが、神の新しい働きを拒む原因となった。 ・過去の情報により、新たな認識に影響を与えること。=アンカリング ・確証バイアス:自分の信念に合う情報だけを集める傾向
  2.  過去のデータが現在の神の働きを曇らせる:人は過去の経験に縛られ、神が新しく行われる業を見逃すことがある。
  3.  イエスの受難はすでにガリラヤで始まっている:拒絶はエルサレムだけではない。イエスの道は最初から「理解されない道」であった。

マルコ6:4

  • 原文:Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς ὅτι Οὐκ ἔστιν προφήτης ἄτιμος εἰ μὴ ἐν τῇ πατρίδι αὐτοῦ καὶ ἐν τοῖς συγγενεῦσιν αὐτοῦ καὶ ἐν τῇ οἰκίᾳ αὐτοῦ.
  • 私訳:そしてイエスは彼らに言っていた、「預言者は、尊ばれない者ではない。彼の故郷において、また彼の親族たちの中で、また彼の家においてを除いては」
  • 新共同訳:イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

注解

  • ἄτιμος:形容詞「尊ばれない」
  • 旧約時代の預言者に関する格言的な言葉。「故郷・親族・家」という、本来なら血縁関係やふるさと関係にある親しみの籠った場所が、拒絶という反対の結果になるという痛みのある運命。
  • 社会や人に対して、真に貢献しようと望む者もまた、覚悟しておくべき事柄。

マルコ6:5

  • 原文:Καὶ οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν, εἰ μὴ ὀλίγοις ἀρρώστοις ἐπιθεὶς τὰς χεῖρας ἐθεράπευσεν.
  • 私訳:そして彼はそこで、何一つの力ある業を行うことができなかった、ただ少数の病人に、手を置いて、癒したのであった。
  • 新共同訳:そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。

注解

  • ἐδύνατο:原形δύναμαι 未完了中動直説法3単「彼はできた」
  • ἐπιθεὶς:原形ἐπιτίθημι アオリスト能動分詞「置いて」
  • οὐδεμίαν:否定強調「何一つ〜ない」
  • 「奇跡を行うことができなかった」:イエスを御子なる神、全能なる神とする後代のキリスト教神学から見て、神の不可能性という解釈上の問題を伴う箇所。イエスは人々の信仰心がなければ業を行えないのか?という疑問。イエスの悪霊払い、癒しの業を、霊能力と考えればあり得る現象。周囲の人々の疑念や悪意といったネガティブな念が、能力者の力の発揮に作用してしまうというもの。
  • この問題を神学的に整理するならば、神の存在や働きについて、疑いではなく信じる信頼をもって、諦めではなく期待をもって、不平不満ではなく感謝をもって待ち望むべき、とすると教会のような文脈では収まりが良い。

マルコ6:6a

  • 原文:Καὶ ἐθαύμαζεν διὰ τὴν ἀπιστίαν αὐτῶν.
  • 私訳:そして彼は彼らの不信仰のゆえに驚いていた。
  • 新共同訳:そして、人々の不信仰に驚かれた。

注解

  • ἐθαύμαζεν(原形:θαυμάζω)未完了能動直説法3単「驚いていた」
  • 通常の展開では、イエスの教えや業に人々が驚くという構図。ここではそれが逆転している。
  • 不信仰(ἀπιστία)はマルコにおいて繰り返される主題。信仰、すなわち、神やイエスに対する人格的な信頼、期待、希望は、より神の働きを大きくする一方、不信仰は阻害するものさえなる。
  • この箇所は切ない結末に終わっているが、 一方、宣教活動が拡張されていく橋渡しとなる。それは、イエスや使徒たちの同胞であるユダヤ人への宣教に失敗したが故に、世界宣教、世界の民族への宣教へと繋がっていったように。

<以上の注解を元にしての説教の結びの言葉として> 
 イエスが故郷で拒まれた物語は、単なる過去の出来事ではありません。それは、私たち自身の心の姿を映す鏡でもあります。人は、よく知っていると思い込んだ瞬間に、耳を閉ざしてしまうことがあります。過去の経験や固定観念が、神の新しい語りかけを曇らせてしまうことがあります。そして、信頼よりも疑いが勝るとき、神の働きは私たちの中で力を発揮しにくくなる。マルコが描くのは、まさにその痛ましい現実です。
  しかし同時に、この出来事は福音が広がる転機ともなりました。故郷で拒まれたイエスは、そこからさらに歩みを進め、やがてユダヤの境界を越え、世界へと福音が広がっていきました。人の拒絶さえも、神は新しい道を開くために用いられる。 だからこそ私たちは、「もう知っている」「どうせ変わらない」そんな思い込みを手放し、今日も新しく働かれる神に心を開く者でありたい。信じる者のうちに、神は今も働かれます。 期待をもって、感謝をもって、信頼をもって、神が私たちの人生に行おうとしておられる新しい業を受け取っていきましょう。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:36-44

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」


概説(マタイ24:36–44)

 マタイ福音書24章後半は、いわゆる「終末論的説話(オリーブ山上の説教)」の中核を成す部分であり、特に36節以降は、それまで語られてきた終末の徴や出来事の列挙(24:4–35)から明確に転調し、「終末の時の不可知性」と、それに基づく信徒の生き方へと焦点が移されている。  本段落(24:36–44)においてイエスによって強調されているのは、「終末がいつ起こるのか」という知識ではなく、「終末が必ず来るという確かさのもとで、いかに生きるのか」という倫理的・霊的姿勢である。ここでは、時を計算し、予測しようとする人間の欲求は明確に否定される一方で、「目を覚ましていること」「備えていること」という、継続的で日常的な信仰の態度が強く要請されている。  ノアの時代の比喩(24:37–39)、畑と臼の二人の譬え(24:40–41)、そして夜の盗人の譬え(24:43)は、いずれも終末の突然性と不可逆性、そしてその到来が日常生活のただ中で起こるという現実を際立たせる。ここで問題とされているのは、罪深い放縦や明白な背信ではなく、むしろ「何事も起こらないかのように続く日常」に安住し、神の言葉に心を向けなくなる鈍麻である。  したがって、「目を覚ましていなさい」(γρηγορεῖτε)、「備えていなさい」(γίνεσθε ἕτοιμοι)という命令は、終末的恐怖を煽る警告ではなく、主の来臨を希望として待ち望む者に求められる、信仰の基本姿勢を指し示す言葉として理解されるべきである。本箇所は、終末論を「未来の出来事の説明」から、「現在の生の在り方を問い直す言葉」へと転換させる決定的なテキストである。


マタイ24:36

  • 原文: Περὶ δὲ τῆς ἡμέρας ἐκείνης καὶ ὥρας οὐδεὶς οἶδεν, οὐδὲ οἱ ἄγγελοι τῶν οὐρανῶν, οὐδὲ ὁ υἱός, εἰ μὴ ὁ πατὴρ μόνος.
  • 私訳: しかし、その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも知らず、子も知らない。ただ父のみが(知っている)。
  • 新共同訳: 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

注解

  • 「しかし、〜については」( Περὶ δὲ):ここは話題の転換点で、24:4–35の「徴の列挙」から、「時の不可知性」へと主題が移行している。
  • 「その日」:終末、人の子の再臨が起こる日。
  • 「誰も知らない」:再臨の時の不可知性を表す。同時に、実現の時を語る偽預言者や惑わす人がいれば、それは虚偽であることを示す。
  • 「子も(知らない)」: 子はキリストを指す。父なる神だけが知る権威があるという、父なる神の主権が強調されている。ただし、「神なるキリストでさえ知り得ないとはどうこうことか?」というキリスト論神学上の問題が生じる箇所で、「受肉した子の知の自己制限」として処理されることが多い。


マタイ24:37

  • 原文:ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:なぜなら、ノアの日々がそうであったように、人の子の来臨もそのようになるからである。
  • 新共同訳: 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。

注解

  • ノアの洪水の出来事が、人の子の再臨の時の訪れと対比されている。
  • 対比の視点は、洪水という事象ではなく、突然に到来するという点。
  • 「来臨」(ἡ παρουσία):元々は王の訪問を指す語。この文脈では、キリストの再臨が起こり、神の権威をもっての審判と統治の始まりを指して使われ、後にこの語はキリスト教専門用語として定着した。


マタイ24:38

  • 原文:ὥσπερ γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν,
  • 私訳:というのも、洪水の前のあの日々において、彼らが食べ、飲み、娶り、嫁がせていたように、ノアが箱舟に入るその日まで。
  • 新共同訳: 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

注解

  • τρώγοντες:動詞 τρώγω(食べる)現在・能動・分詞・男性・複数・主格
  • γαμοῦντες:動詞 γαμέω現在分詞「(男が)妻をめとる」、 γαμίζοντες:動詞 γαμίζω「(娘を)嫁がせる」 現在分詞なので、この行動をとり続けていたことを含意する。
  • 列挙される行為はすべて日常生活上の行為。ノアを通しての警告を無視しての日常生活内の自己完結。
  • 「ノアが方舟に入るその日まで」:洪水が始まって手遅れになるまで、彼らが気づくような兆候はなかったということ。
<黙想> 多くの人は、「本当に危機が迫ったら、その時こそ改めよう」と考えがちである。だが実際には、自分が思い描く「いよいよ」という瞬間が訪れた時には、すでに手遅れで、残るのは後悔だけ──それが人生の常である。 だからこそ、「今、この瞬間にその時が来てもよいように」心を整え、希望を抱いて日々を歩むことこそ、キリストの再臨を待ち望む者にとって欠かせない姿勢である。


マタイ24:39

  • 原文: καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας· οὕτως ἔσται καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
  • 私訳:そして彼らは悟らなかった、洪水が来て、すべてをさらうまで。人の子の来臨もまた、そのようである。
  • そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
注解
  • ἦρεν:動詞 αἴρω (持ち上げる、攫う(拐う))のアオリスト能動直説三人称単数
  • 「悟らなかった」「気づかなかった (新共同訳)」(οὐκ ἔγνωσαν):逆に言えば、その時になって「悟った」。無知というよりも、理解することを拒絶し続けた結果である。
  • 「すべてをさらうまで」:審判の徹底性を表す。その強調的表現。
  • 「人の子の来臨もまた」:再臨時の審判がノアの時と同様ということ。すなわち、その突然性と、誰も逃れられない全面性について。

<説教の結びの言葉として>  ノアの時代の人々は、日々の生活に心を奪われ、神が語られる警告に耳を傾けようとしませんでした。彼らは「悟らなかった」のではなく、「悟ろうとしなかった」のです。自分の生活の安定や楽しみを優先し、神の言葉が入り込む余地を失っていたのです。  主イエスは、再臨の時も同じであると語られます。それは突然であり、誰も逃れることのできない現実として訪れます。ですから、私たちに求められているのは、「いつ来るのか」を知ることではなく、「いつ来てもよい者として生きること」です。  「目を覚ましていなさい」という主の招きは、恐れに身構えることではありません。今日という日を神の前に誠実に生きること、与えられた務めを果たし、隣人を愛し、悔い改めと信仰の歩みを続けることです。主が来られるその時、慌てて取り繕う必要がないように、今を整えて歩むことが求められています。  主は必ず来られます。その時は父なる神だけがご存じです。しかし、その確かさゆえに、私たちは今日を希望をもって生きることができます。

マタイ24:40

原文: τότε δύο ἔσονται ἐν τῷ ἀγρῷ, εἷς παραλαμβάνεται καὶ εἷς ἀφίεται· 私訳: そのとき、二人が畑にいて、一人は取られ、そして一人は残される。 新共同訳: そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

注解

  • 「取られ……残され」(παραλαμβάνεται / ἀφίεται):受動態。行為の主体は神。すなわち、神が選んだ人を取り、一方でそのままに残す(ほおっておく)。二人は、同時にその場に居合わせるという同一状況にありながら、その時までに「(終末への)備え」があるか否かによって、劇的な差となって現れる。それが露見する時が、再臨であり終末の時。

マタイ24:41

原文: δύο ἀλήθουσαι ἐν τῷ μύλῳ, μία παραλαμβάνεται καὶ μία ἀφίεται. 私訳: 二人の女が臼を挽いていると、一人は取られ、一人は残される。 新共同訳: 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
注解
  • ἀλήθουσαι: 動詞 ἀλήθω(「挽く、粉をひく」)の現在能動分詞
  • 前節の畑の二人と同じ主旨の例え。畑も臼も、なにげない日常生活のひとこま。いつまでもそれが続くと思われる生活が、突如寸断される。また、畑は男性の労働、臼は女性の労働という男女それぞれの在り方が意識されているかもしれない。いずれにせよ、生活の場・時で、終末は到来するということ。


マタイ24:42

  • 原文: γρηγορεῖτε οὖν, ὅτι οὐκ οἴδατε ποία ἡμέρα ὁ κύριος ὑμῶν ἔρχεται.
  • 私訳: それゆえ、目を覚ましていなさい。あなたがたは、主がどの日に来られるのか知らないからである。
  • 新共同訳: だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

注解

  • γρηγορεῖτε:動詞 γρηγορέω(「目を覚ましている」「警戒している」)現在・能動・命令法・2人称複数。「目を覚ましなさい」という一回的な命令ではなく、「目を覚ましていなさい」という継続性を求める命令。


マタイ24:43

  • 原文: ἐκεῖνο δὲ γινώσκετε, ὅτι εἰ ᾔδει ὁ οἰκοδεσπότης ποίᾳ φυλακῇ ὁ κλέπτης ἔρχεται, ἐγρηγόρησεν ἂν καὶ οὐκ ἂν εἴασεν διορυχθῆναι τὴν οἰκίαν αὐτοῦ.
  • 私訳: もし、家の主人が、どの見張りの時に泥棒が来るのを知っていたら、目を覚まして、彼の家に穴を開けさせることは許さなかっただろう。
  • 新共同訳: このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
注解
  • εἰ ᾔδειεἰ: 条件節を導く。「もし〜なら」ᾔδει: 動詞 οἶδα(「知っている」)の過去完了・3人称単数。反実仮想(事実に反する仮定) を表し、「もし知っていならば」という意。
  • ὁ οἰκοδεσπότης: 名詞「家の主人、家主」
  • φυλακῇ: 名詞「見張りの時刻、番の時間」女性・与格・単数
  • εἴασεν: 動詞 ἐάω(「許す、放任する」)アオリスト・能動・3人称単数
  • 要は、大丈夫だろうと油断して、目を覚さない状態でいるところを突かれることが大変多いから気をつけなさい、ということ。

マタイ24:44

  • 原文: διὰ τοῦτο καὶ ὑμεῖς γίνεσθε ἕτοιμοι, ὅτι ᾗ οὐ δοκεῖτε ὥρᾳ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἔρχεται.
  • 私訳: こういうわけで、”あなたがた”(強調形)もまた、備えているようにしなさい。あながたが思いもしない時、人の子は来るからである。
  • 新共同訳: だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。

注解

  • γίνεσθε: 動詞 γίνομαι(「〜になる」)現在・中動態(意味は能動)・命令法・2人称複数。「〜であり続けなさい」「〜になりなさい」
  • ἕτοιμοι: 形容詞「準備のできた」男性・主格・複数。
  • 「思いもしない時」「思いがけない時」:「いつ」というピンポイント予想は不可能ということの一側面で、予想外の時に来るから、常に「用意していない」ということ。結局、予測ではなく、まして油断的な弛緩でもなく、主末を希望とするキリスト者としての基本的な生きる姿勢を、いつもブレずに保っていなさいということ。


説教の結びの言葉と祈り

 今日の主イエスの言葉は、時に油断してしまう私たちの信仰の歩みを、再び目覚めへと呼び戻す招きです。畑で働く二人の男も、臼を挽く二人の女も、どちらも日常のただ中に置かれていました。しかし、その平凡な日々に突然、神の時が差し込むのです。それまでの歩みに油断や驕りがなかったかどうかは、その瞬間に初めて、白日のもとに明らかにされます。  主が求めておられる「備え」とは、特別な行いでも、張りつめた緊張でもありません。主を待ち望む者として、日々を誠実に、基本に忠実に生きる姿勢そのものです。それを難しいと感じるとき、実は私たち自身が、そうした生活から目をそらし、言い訳をしてしまっているのかもしれません。  「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」という主の命令は、私たちを縛るためではなく、むしろ自由へと、そして希望へと導く言葉です。私たちは、主がいつ来られるかを知りません。けれども、主が必ず来られることを知っています。それを希望として受け取れないときがあるとすれば、それは今の自分があまりにも「満ち足りている」と感じ、心が緩んでしまっているからかもしれません。  しかし、主の確かな約束があるゆえに、私たちは今日という一日を、主に向かって整えながら歩むことができます。思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の光の中を歩み続ける者とされたいと願います。

祈り

どうか、私たち一人ひとりが、思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の再び来られる日を希望をもって待ち望むことができますように。  主が与えてくださる光の中で、目を覚まして歩み続ける者とされますように。  アーメン。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ5:1-20

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ5:1-20「悪霊に取り憑かれたゲラサの人をいやす」


概要

 マルコによる福音書5章1–20節は、「ゲラサ人の地の悪霊憑きの癒し」の物語であり、イエス・キリストの権威が悪霊の力、異邦の地、そして社会的疎外の現実を超えて及ぶことを示す重要な箇所である。  本段落は三つの場面に分けられる。  第一に、1–5節は悪霊に取りつかれた男の悲惨な状態を描写する。舞台は「ゲラサ人の地方」という異邦地域であり、墓場に住み、自傷し、鎖をも引きちぎる彼の姿は、霊的・社会的・身体的に完全に崩壊した人間像を示す。これは悪霊の支配の深刻さを強調する導入部である。  第二に、6–13節はイエスと悪霊との対決である。悪霊は自らを「レギオン」と名乗り、多数であることを示す。これはローマ軍団を想起させる語であり、圧倒的支配力の象徴でもある。イエスは命令によって彼らを追い出し、悪霊は豚の群れに入り、豚は湖に突進して溺死する。この出来事はイエスの絶対的権威を劇的に示すと同時に、汚れた霊と汚れた動物という象徴的対応を含む。  第三に、14–20節は出来事への人々の反応である。町の人々は恐れ、イエスに去るよう願う。一方、癒された男はイエスに従うことを願うが、イエスは彼を故郷に遣わし、「主がどんなに大きなことをしてくださったか」を語らせる。ここに、異邦地における宣教の萌芽が見られる。彼はデカポリス地方で証し人となる。恐れによって救いを拒む人々と、恵みによって証し人へと変えられる人との対比も重要な主題である。

注解

マルコ5:1

原文:Καὶ ἦλθον εἰς τὸ πέραν τῆς θαλάσσης εἰς τὴν χώραν τῶν Γερασηνῶν. 私訳:そして彼らは、湖の向こう岸、ゲラサ人の地方に来た。 新共同訳:一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
注解 ・「湖の向こう岸」:直前の記事で、ガリラヤ湖の向こう岸へと渡って、途中で嵐に遭うエピソードがあったことを踏まえている。 ・「ゲラサ人の地方に」(εἰς τὴν χώραν τῶν Γερασηνῶν):写本に「ゲラサ人」「ガダラ人」などの異同がある。ここでの意図は、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人以外の民族、言い換えれば異邦人の地域に来たということ。基本的に、ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教。後々、ユダヤ教から派生して誕生することになるキリスト教が、民族宗教を越えて世界宗教となっていく先駆けの出来事として読める。
黙想  「向こう岸」は、象徴的に「秩序の外」「(ユダヤ人から見て)汚れの地」を暗示。そのような地を目指し、嵐の中を通って来たことは、新たな地を目指し困難を越えての営みを象徴する。

マルコ5:2

原文:καὶ ἐξελθόντος αὐτοῦ ἐκ τοῦ πλοίου εὐθὺς ὑπήντησεν αὐτῷ ἐκ τῶν μνημείων ἄνθρωπος ἐν πνεύματι ἀκαθάρτῳ, 私訳:彼が舟から出るとすぐに、汚れた霊につかれた一人の人が墓場から来て、彼に出会った。 新共同訳:イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
注解
  • ἐξελθόντος:分詞・属格絶対構文。「彼が出ると」
  • εὐθύς:マルコが多用する強調副詞「すぐに」
  • 「すぐに」:“到着したばかりなのだから”といった甘いことなく、“待ったなし”で事は起きていく。
  • 「汚れた霊」:言い換えれば、不浄な霊。禍々しく、触れた者に悪影響を起こす存在に成り下がった霊。日本風土における「穢れ」の概念を思い起こすと理解しやすいが、ユダヤ人の思考においては、汚れとは、神の秩序にそぐわないものとされる。
  • 「墓場から」(ἐκ τῶν μνημείων):民数記19章にあるように、ユダヤ人の律法において、墓場は最大級の穢れの場所とされている。
黙想 日本を中心に世界各地の心霊的な民間伝承を見てきて、私なりに感じることがある。 人間は物理世界に属する存在であり、霊や神といった存在は、悪霊を含めて「見えざる世界」「霊的世界」に属すると語られてきた。両者の間には断絶がある一方で、完全に切り離されているわけでもなく、どこかでつながっている。  ただし、人間はそのまま霊的世界に生きることはできず、霊的存在もまた、物理世界に長く留まり続けることはできない。だからこそ、霊がこの世界に影響を及ぼすためには、人間や動物といった“生きた器”に取り憑くという形が最も安定すると考えられてきたのだろう。  一方で、物理世界と霊的世界の境界が緩み、混じり合う瞬間があるとされる。人間にとってそれは望ましいものではなく、一般に「穢れ」と呼ばれる現象として理解されてきた。 特に顕著なのが生と死に関わる場面である。人が死んだ時はもちろん、出産や水子のような出来事も、日本では不思議と同じく「穢れ」の範疇に置かれてきた。これは、どちらも“境界が開く瞬間”として捉えられていたからかもしれない。  また日本には、地鎮祭のように、土地にたまった穢れを祓い清める風習がある。墓地や事故現場といった場所が、浄化や供養を必要とする場所と見なされるのも、そこに境界の乱れや霊的な痕跡が残りやすいと考えられてきたためだろう。

マルコ5:3

原文:ὃς τὴν κατοίκησιν εἶχεν ἐν τοῖς μνήμασιν, καὶ οὐδὲ ἁλύσει οὐκέτι οὐδεὶς ἐδύνατο αὐτὸν δῆσαι, 私訳:彼は墓場を住まいとしており、鎖をもっても、誰も彼を縛ることができなかった。 新共同訳:この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
注解 ・ὃς:関係代名詞。前節の男を受けている。 ・ἐδύνατο:δύναμαιの未完了過去。 ・「墓場を住まいとして」:彼が、人間社会に居場所がなく、最大級に穢された場所とされているところしか居場所がないという、彼の悲惨な状況を表している。 ・「鎖を用いてさえ繋ぎ止めておくことはできない」:鎖は、人間の力、知恵、営みなどを暗示する。超自然的な力の前では、文明力を持つ人でさえも、結局は無力である。つまり、人間の無力さを示す。

マルコ5:4

原文:διὰ τὸ αὐτὸν πολλάκις πέδαις καὶ ἁλύσεσιν δεδέσθαι, καὶ διεσπάσθαι ὑπ’ αὐτοῦ τὰς ἁλύσεις καὶ τὰς πέδας συντετρῖφθαι, καὶ οὐδεὶς ἴσχυεν αὐτὸν δαμάσαι· 私訳:彼はたびたび足枷や鎖で縛られていたが、鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまい、誰も彼を制御できなかった。 新共同訳:これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
注解 πέδαις καὶ ἁλύσεσιν:手段を意味する与格。「足枷や鎖によって」 ・δεδέσθαι(δέω(縛る)) / διεσπάσθαι / συντετρῖφθαι:完了不定詞。状態の持続を意味する。 ・「足枷」前節の「鎖」における人間の無力さが、改めて述べられている。悪霊に取り憑かれた人間の強力さ、凶暴さ以上に、これをどうやっても制御できない人間の側の無力さが強調されている。取り憑かれている本人も、自分ではどうしようもない。すなわち、悪霊によって人みな支配され、その状態が継続している。
黙想
 人間の文明、科学力は特筆すべきものはあるにせよ、霊的存在の前に、あるいは自然などの前に、人間は無力な存在であるという謙虚さを持つべきである。

マルコ5:5

原文:καὶ διὰ παντὸς νυκτὸς καὶ ἡμέρας ἐν τοῖς μνήμασιν καὶ ἐν τοῖς ὄρεσιν ἦν κράζων καὶ κατακόπτων ἑαυτὸν λίθοις. 私訳:そして夜も昼も絶えず、墓場や山で叫び声を上げ、石で自分を傷つけていた。 新共同訳:彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
注解 ・ἦν κράζων:未完了過去+現在分詞。行為の 継続・反復・習慣化を意味する。κράζω:叫ぶ。ἦν:εἰμί 未完了過去。 ・κατακόπτω:打ち切る・切り刻む ・未完了過去+現在分詞が使われているので、反復行為を表す。叫ぶ、自分を傷つける行為(自傷行為)、反復的、継続的に行うという、自分にも誰にも止められない物悲しさが滲み出る。だからこそ、そこに救済が必要とされる。
黙想  自傷行為とは、自己破壊行為。自己破壊とは、自分の一部または全部を、自分から疎外・排除しようとすること。自分を受け入れることができない分裂状態、現実を受け止めることのできない矛盾状態が、その原因であることが多いようにも思う。現実の自分を受け入れる重要さを思う。

マルコ5:6

原文:καὶ ἰδὼν τὸν Ἰησοῦν ἀπὸ μακρόθεν ἔδραμεν καὶ προσεκύνησεν αὐτῷ, 私訳:そして、彼は遠くからイエスを見ると、走り寄って、彼のもとにひれ伏した。 新共同訳:イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
注解 ・「ひれ伏した」:礼拝行為を象徴する代表的所作。悪霊もしくは悪霊に取り憑かれた男が、イエスの神的な権威を察し、他方、弟子たちも含め、普通の人々がそれを認識できないという、皮肉の構図。

マルコ5:7

原文:καὶ κράξας φωνῇ μεγάλῃ λέγει· Τί ἐμοὶ καὶ σοί, Ἰησοῦ, υἱὲ τοῦ θεοῦ τοῦ ὑψίστου; ὁρκίζω σε τὸν θεόν, μή με βασανίσῃς. 私訳:そして彼は大声で叫んで言った。「私とあなたに何の関わりが、イエスよ、いと高き神の子よ?神かけてあなたに願う、私を苦しめないでくれ」 新共同訳:大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
注解 ・Τί ἐμοὶ καὶ σοί:セム的表現。「何の関係が?」という意味。 ・μή+接続法:禁止や懇願を意味する。 ・この会話は、男とのものではなく、彼に取り憑いている悪霊とのやり取り。あ ・マルコ福音書の最も根幹にあるメッセージは、受難と十字架にかけられたイエスを神の子と告白すること。これを、この福音書の中で弟子たちよりも誰よりも先んじて行っているという皮肉の図式がある。我々も含めて、人は得てしてイエスがどのような方であるのかを悟っていないという、文学的な暗示が埋め込まれている。 ・「私を苦しめないでくれ」:神的な審判によって、浄化あるいは滅せられるのを恐れている。

マルコ5:8節

原文:ἔλεγεν γὰρ αὐτῷ· Ἔξελθε, τὸ πνεῦμα τὸ ἀκάθαρτον, ἐκ τοῦ ἀνθρώπου. 私訳:というのも、イエスが彼に「出ていけ、汚れた霊よ、この人から」と言っていたからである。 新共同訳:イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言ったからである。
注解 ἔλεγεν:未完了過去。過去における反復・継続を意味する。

マルコ5:9

原文:καὶ ἐπηρώτα αὐτόν· Τί ὄνομά σοι; καὶ λέγει αὐτῷ· Λεγιὼν ὄνομά μοι, ὅτι πολλοί ἐσμεν. 私訳:イエスが彼に尋ねた。「あなたの名は何か」。すると彼は言った。「私の名はレギオン、私たちは多数だから」 新共同訳:そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
注解
  • 「レギオン(Λεγιών)」:ローマの6000千人規模の大隊兵団に割り当てらてられる名称。原語は、「集まる」という意のギリシャ語。軍隊は占領、支配を象徴するから、制圧された状態を暗示するのかもしれない。
  • 「大勢だから」:古今東西の世界各地の心霊的な民間伝承などでは、霊体が複数より集まって一つの集合体を作り、一つの人格体を形成している例がたびたび見られる。現に、次の10節で「自分たち」と複数形で翻訳されているところは、原文では単数形の「彼」であり、複数の集合体と個体とが切り替わる。

マルコ5:10

原文:καὶ παρεκάλει αὐτὸν πολλὰ ἵνα μὴ αὐτὰ ἀποστείλῃ ἔξω τῆς χώρας. 私訳:そして、彼は彼にしきりに懇願した、自分たちをこの地方から外に追い出さないようにと。 新共同訳:そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
注解
黙想 ・人間社会から完全に阻害され、自分ではないものに自分を支配されてしまった者の末路と、なおそうした人を救おうというイエスの姿勢が、この箇所には顕著である。霊に取り憑かれる取り憑かれないは別として、自分が自分として生き、神と自分以外のものに自分が支配されることなく、できることなら神が我が主となって、しっかりと自分を保って生きる人生姿勢が求められる。

説教の結びの言葉として

 ゲラサの地で出会った一人の男は、もはや自分では自分をどうすることもできず、社会からも切り離され、墓場という「死」の象徴の中で孤独に叫び続けていました。彼を縛る鎖は切れましたが、彼自身を縛る「見えない鎖」は誰にも断ち切れませんでした。しかし、その鎖を断ち切ることのできる方が、ただ一人、彼のもとに来られました。イエス・キリストです。  イエスは、ユダヤ人から見れば「汚れた地」である向こう岸へと、嵐を越えてまで渡って来られました。そこにいたのは、誰からも見放され、自分自身さえ見失っていた一人の人でした。イエスは、その一人のために向こう岸へ行かれたのです。  私たちもまた、時に自分を見失い、心の中で叫び、誰にも届かない痛みを抱えることがあります。自分ではどうにもできない力に押しつぶされそうになることがあります。そんな私たちの「向こう岸」に、主は今日も来てくださいます。私たちが踏み込むことをためらう場所、誰にも知られたくない心の墓場のような場所にさえ、主は足を運び、私たちを名指しで呼び、解き放ち、立ち上がらせてくださいます。  だからこそ、私たちは恐れずに、主の前に自分を差し出してよいのです。どれほど深い闇であっても、どれほど長く続いた叫びであっても、主はそのただ中に光を差し込み、「あなたはもう一人ではない」と告げてくださいます。  ゲラサの男がそうであったように、私たちもまた、主によって「正気に返り」、本来の自分を取り戻し、再び人々の中へと送り出されていきます。主が私たちの主であるとき、どんな力も私たちを支配することはできません。  どうか、私たち一人ひとりが、主に出会い、主に癒やされ、主によって新しい歩みへと招かれていることを、今日もう一度心に刻むことができますように。主は、あなたの向こう岸にも来てくださいます。あなたを救うために。

1-10節までの要点

  • 嵐の湖を渡り切って辿り着いた場所は、ユダヤ人ではない、すなわち異邦人が居住する地域。そこに、悪霊に取りつかれた人がいた。
  • 彼は、共同体の外に設けられた墓場を棲み処としていた。社会から疎外された状況を暗示する。
  • 人々は彼を鎖で繋ぎとめようとしたが、鎖も足かせも引きちぎられた。超自然的、霊的力の前の、人間の無力さを象徴する。
  • 彼はまた、自ら自分の体を傷つけていた。自分で自分をコントロールできず、自分を破壊するという、倒錯した悲惨な状況を示す。
  • 彼に取り憑いていたレギオンと名乗る悪霊の群れは、霊的存在であるがゆえに、人は気づくことのないイエスの神的な権威を悟り、イエスに自分たちを滅ぼさず、その地域から追放されないことを願い出る。

マルコ5:11-12

  • 原文:11 ἦν δὲ ἐκεῖ πρὸς τῷ ὄρει ἀγέλη χοίρων μεγάλη βοσκομένη· 12 καὶ παρεκάλεσαν αὐτὸν λέγοντες· Πέμψον ἡμᾶς εἰς τοὺς χοίρους, ἵνα εἰς αὐτοὺς εἰσέλθωμεν.
  • 私訳:11 そこで、その山の近くに、放牧されている大きな豚の群れがあった。そして彼らは彼に願い求めて言った。12 「我々を豚の中へ送ってください。そこに入るためです。」
  • 新共同訳:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
注解
  • χοίρων:χοῖρος(豚)の複数形
  • ἀγέλη:ἀγέλη(群れ)
  • βοσκομένη:動詞 βόσκω(養う、放牧する)の現在分詞・中間/受動態・主格・女性・単数
  • 「大きな豚の群れ」(ἀγέλη χοίρων μεγάλη):異邦地域(デカポリス)であることを暗示。
  • 「懇願した」(παρεκάλεσαν):マルコの展開のこの段階で、イエスを「神の子」と認識しているのは、悪霊たちのみ。イエスの神的権威を弁えた上で、戦うのではなく服従的に懇願しているということ。彼らの懇願は、霊的世界でのイエスの権威を暗示する。
  • 「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」:ユダヤ教において豚は「不浄の動物」とされ、人間が食べることも触れることも避けられていた。そのため、悪霊が豚を“器”として選んだという描写は、「不浄な存在は不浄な器に宿る」という象徴的な意味を帯びる。「悪霊がふさわしい場所へ戻される」という宗教的メッセージとしても読める。
⠀ <悪霊たちはなぜ豚の中に送られることを願ったのか>  種々の心霊的な民間伝承を参考にすると、霊は我々の物理的世界に、そのままの状態では存在し続けることができない、というような世界観が共有されていることが多い。他方、そのような世界観にあっては、霊の種類によっては他の場所に移動することができない場合もある。よって霊は、なんらかの物、最適なものとしては生きている動物、人間に憑りつく必要がある。そうすると、他所への移動が可能になることもある。  これを総合すると、イエスは住民のために他の地域に彼らを追放しようとしたものの、それでは彼らが存在できなくなるので、豚に乗り移ることを願い出たと推測することも可能である。

マルコ5:13

原文:καὶ ἐπέτρεψεν αὐτοῖς· καὶ ἐξελθόντα τὰ πνεύματα τὰ ἀκάθαρτα εἰσῆλθον εἰς τοὺς χοίρους, καὶ ὥρμησεν ἡ ἀγέλη κατὰ τοῦ κρημνοῦ εἰς τὴν θάλασσαν, ὡς δισχίλιοι, καὶ ἐπνίγοντο ἐν τῇ θαλάσσῃ. 私訳:そこで彼は彼らに許可した。そして汚れた霊どもは出て行き、豚の中に入った。するとその群れは崖から海へと突進した。およそ二千匹であり、海で溺れ死んだ。 新共同訳:イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。

注解

  • ἐπέτρεψεν ἐπιτρέπω アオリスト・能動態・直説法・3単 許した
  • ὥρμησεν:ὁρμάω(突進する、急ぐ)アオリスト・能動態・直説法・3単
  • ἐπνίγοντοπνίγω未完了過去・受動態・直説法・3複溺死した、窒息した
  • 「イエスがお許しになった」:「許す」というのは、単に「いいよいいよ」と流すことではなく、権威をもって許可するということ。イエスの神的権威を暗示する。
  • 「豚の群れが崖を下って湖になだれ込み」:悪霊の破壊的衝動性、自傷性を表していると読める。それまで男に取り憑いていた悪霊たちが、せっかく見つけた自分の居場所に自ら自傷行為へと至らせたように、今度は豚に取り憑いてレミングのような集団自殺へと至らせるという流れは、倒錯と混乱という点で、整合性は取れている。
⠀<黙想>  私たちは、こうした悪霊たちの倒錯と混乱を、一笑に付すことはできない。なぜなら、私たち人間もまた、自由に意志し行動できるという存在でありながら、自ら自分の健康を損ない、自分の未来を自分で放棄し、時に人生を台無しに、そうして自らの自由を持て余して自らを破壊するからである。自由だからこそ、人は自分の生き方の中心軸を持たなければならない。自分を上から導く「主」を必要とする。

ここまでの流れをふまえ、14節以降へと続いていく説教風のまとめ

 イエスと弟子たちは、嵐を越えて「向こう岸」へと渡りました。そこはユダヤ人にとって“汚れた地”、避けるべき異邦の地域でした。しかしイエスは、あえてその境界を越えて行かれます。そこに、一人の男がいたからです。墓場を住処とし、社会からも自分自身からも切り離され、叫び続け、自らを傷つけるしかなかった男。誰も彼を救うことができず、鎖も足枷も役に立たず、彼自身もどうすることもできない。人間の力では届かない深い闇の中に、彼は取り残されていました。  しかし、その闇のただ中にイエスが来られました。悪霊はイエスの権威を知り、服従し、名を問われると「レギオン」と答えます。多数の霊に支配され、人格の内側が占領されていた男。その支配を断ち切ることができるのは、ただ一人、イエスだけでした。  悪霊たちは追放を恐れ、豚の群れに入ることを願い出ます。イエスが許すと、豚は崖を下って海へと突進し、溺れ死にました。破壊と混乱は、悪霊の本質そのものです。男を苦しめていた力が、今度は豚を破壊へと導いたのです。  この出来事を見た豚飼いたちは恐れ、町や村に知らせに走りました。人々は何が起こったのかを確かめるために集まってきます。しかし彼らの関心は、癒された男よりも、失われた豚の群れに向けられていました。ここに、神の救いと人間の価値観のすれ違いが浮かび上がります。

注解

マルコ 5:14

  • 原文: καὶ οἱ βόσκοντες αὐτοὺς ἔφυγον, καὶ ἀπήγγειλαν εἰς τὴν πόλιν καὶ εἰς τοὺς ἀγρούς· καὶ ἦλθον ἰδεῖν τί ἐστιν τὸ γεγονός.
  • 私訳: それらを飼っていた者たちは逃げ、町々や村々(原語は「畑」)に報告した。人々は何が起こったのかを見るために来た。
  • 新共同訳: 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。

注解

  • βόσκοντες: βόσκω「牧する、飼う」の現在能動分詞・男性・複数・主格
  • 近隣の町や村の人々が、イエスと悪霊払いを受けた者との対面を果たすという流れ。

マルコ 5:15

  • 原文: καὶ ἔρχονται πρὸς τὸν Ἰησοῦν καὶ θεωροῦσιν τὸν δαιμονιζόμενον καθήμενον ἱματισμένον καὶ σωφρονοῦντα, τὸν ἐσχηκότα τὸν λεγιῶνα· καὶ ἐφοβήθησαν.
  • 私訳: 彼らはイエスのもとに来て、悪霊につかれていた者が座り、服を着、正気になっているのを見る。あの「レギオン」を宿していた者を。そして彼らは恐れた。
  • 新共同訳: 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。

注解

  • καθήμενον / ἱματισμένον / σωφρονοῦνταという三重の分詞で「回復」を描写。すなわち、「座る」「服を着る」「正気になっている」であり、「座る」は日常の行為・生活を、「服を着る」は社会性を、「正気になっている」は自己コントロールの回復・正常化を表す。
  • 「(彼らは)恐ろしくなった」:本来なら喜ばしい出来事だが、自分たちの理解の範囲を超える出来事であったためか、恐怖が先行した。 ⠀

マルコ 5:16

  • 原文: καὶ διηγήσαντο αὐτοῖς οἱ ἰδόντες πῶς ἐγένετο τῷ δαιμονιζομένῳ καὶ περὶ τῶν χοίρων.
  • 私訳: そして、見ていた人たちは、悪霊に憑かれた人がどうなったのかについてと、豚のことについて、彼らに説明した。
  • 新共同訳: 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。

注解

  • διηγήσαντο:動詞 διηγέομαι(詳しく語る、説明する)アオリスト・中動態・直説法・3人称複数。
  • 見ていた人たちの関心は、悪霊に取り憑かれた人の回復と、豚の死についてであった。

マルコ 5:17

  • 原文: καὶ ἤρξαντο παρακαλεῖν αὐτὸν ἀπελθεῖν ἀπὸ τῶν ὁρίων αὐτῶν.
  • 私訳: すると彼らは、イエスにその地方から去ることを願い始めた。
  • 新共同訳: そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

注解

  • παρακαλεῖν: 12節で、悪霊がイエスに願っている時と同じ動詞。悪霊も人間もイエスに願い出るが、両者、まったく質が違うという皮肉が現れている。
  • イエスが共にいてくださることがまったく理解されず、あまつさえ「出て行ってくれ」と頼む始末。この対応は、後にイエスを十字架につけて殺せと叫ぶ群衆の姿を先取りしている。同時に、人間のさが。真に人を救う人の辿る運命。

マルコ 5:18

  • 原文: καὶ ἐμβαίνοντος αὐτοῦ εἰς τὸ πλοῖον παρεκάλει αὐτὸν ὁ δαιμονισθεὶς ἵνα μετ’ αὐτοῦ ᾖ.
  • 私訳: そこで彼が船に乗ろうとすると、悪霊に取り憑かれていた人が、彼と共にいたいことを願った。
  • 新共同訳: イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。

注解

  • ᾖ: εἰμί の接続法・現在・3単。
  • 「願った」: 前節で人々がイエスに願ったのと同じ動詞。一方で、イエスがいなくなることを願う人々、もう一方で、イエスと共にいることを願う人々、という皮肉な対照的構図。
  • 「一緒に行きたいと願った」: 事実上の弟子志願。 ⠀

マルコ 5:19

  • καὶ οὐκ ἀφῆκεν αὐτόν, ἀλλὰ λέγει αὐτῷ· Ὕπαγε εἰς τὸν οἶκόν σου πρὸς τοὺς σοὺς καὶ ἀπάγγειλον αὐτοῖς ὅσα ὁ κύριός σοι πεποίηκεν
καὶ ἠλέησέν σε.
  • 私訳: しかし、彼は彼に許さず、彼に言った。「あなたの家へひけ、彼らに、主があなたにしたことと、あなたを憐れんだことを告げ知らせるために」
  • 新共同訳: イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

注解

  • 彼の願いの単純な拒絶ではなく、むしろ弟子のような存在として、彼なりの務めに就かせる招きの言葉。
  • ここでの「主」は、直接的には「父なる神」を指すが、「主イエス」も暗示的に含まれると思われる。
  • 事実上、異邦人の地における最初の宣教者。

マルコ 5:20

  • 原文: καὶ ἀπῆλθεν καὶ ἤρξατο κηρύσσειν ἐν τῇ Δεκαπόλει ὅσα ἐποίησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, καὶ πάντες ἐθαύμαζον.
  • 私訳: そうして彼は去り、デカポリス地方で宣教し始めた、イエスが彼にしたことを。すると皆が驚嘆した。

注解

  • κηρύσσειν: 教会の宣教を指す動詞が使われている。
  • 追い出されたイエスの代わりとなるように、彼がその場で神のことを宣べ伝えるという構図。

<黙想>

 イエスの代わりとなるというと、「いやいや、自分などは」と言いながら、実はその責務を荷が重いと感じて避けようとすることがよくある。しかし、イエス自身から神の務めとして、イエスの代わりのように生きることが委ねられている幸いを思いたい。

<説教の結びの言葉として>

⠀ゲラサの地で悪霊から解放された男は、イエスと共にいたいと願いました。それは当然の願いでした。長い間、孤独と混乱の中で叫び続け、誰にも理解されず、誰にも助けられなかった彼にとって、イエスこそが初めて自分を見つけ、名指しで呼び、闇から引き上げてくださった方だったからです。  彼は、救われた者としての自然な反応として、「この方と共に生きたい」と願ったのです。しかしイエスは、彼の願いをそのまま受け入れませんでした。代わりにこう言われました。 「自分の家に帰りなさい。そして、主があなたにしてくださったことを知らせなさい。」  イエスは彼を拒んだのではありません。むしろ、彼を遣わされたのです。イエスと共に舟に乗ることは許されませんでしたが、イエスの代わりに語る者として、イエスの働きを担う者として、彼は自分の地に戻っていきました。  そして彼は、デカポリス全域で語り始めました。「イエスが自分にしてくださったこと」を。それは、異邦人の地における最初の宣教者の誕生でした。イエスを追い出した人々の中で、イエスの福音を語る者が一人だけ残されたのです。  私たちもまた、同じ招きを受けています。イエスと共にいたいという願いは尊いものです。しかしイエスはしばしば、私たちを「戻し」、私たちの家庭へ、職場へ、地域へと遣わされます。そこで、私たちが経験した主の憐れみと救いを語るためです。  ゲラサの男がそうであったように、私たちもまた、主によって癒やされ、主によって立ち上がらされ、主によって遣わされていきます。  どうか私たちが、「主が私にしてくださったこと」を語る者として、それぞれの場所で主の光を証しする者となれますように。主は今日も、私たちの向こう岸に来てくださり、私たちを救い、そして遣わしてくださいます。

【目次】説教や聖書研究をする人のための聖書注解

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ福音書 22 :15-22    22:23-33    22:34-40   22:41-46 23章 23:1-12    23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)    23:13-36(④...