2026年10月2日金曜日

1-1 新宗教・新興宗教解説

─あ行─


─か行─

幸福の科学 教祖・大川隆法

─さ行─

世界救世教 教祖・岡田茂吉


─た行─

天理教 教祖・中山みき

─な行─

─は行─

─ら行─


─その他─









1-3-1 マタイによる福音書

22章

 22:15-22  22:23-33  22:34-40  22:41-46

23章

23:1-12  23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)  23:13-36(④23:23-24)  23:13-36(⑤23:25-26)  23:13-36(⑥23:27-28)  23:13-36(⑦23:29–36)  23:37-39

24章

24:1-2  24:3-14  24:15-28  24:29-31  24:32-35  24:36-44  24:45-51

25章

25:1-13  25:31-46

26章

26:1-5  26:6-13

26:36-46  26:47-56

28章

28:1-10

2026年10月1日木曜日

1-3 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

新約聖書

1-3-1 マタイによる福音書

1-3-2 マルコによる福音書

1-3-3 ルカによる福音書

1-3-4 ヨハネによる福音書




マタイ福音書

22:15-22  22:23-33  22:34-40  22:41-46

23章

23:1-12  23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)  23:13-36(④23:23-24)  23:13-36(⑤23:25-26)  23:13-36(⑥23:27-28)  23:13-36(⑦23:29–36)  23:37-39

24章

24:1-2  24:3-14  24:15-28  24:29-31  24:32-35  24:36-44  24:45-51

25章

25:1-13  25:31-46

26章

26:1-5  26:6-13

26:36-46  26:47-56

28章

28:1-10


マルコ福音書

1章

1:2-8  

2章


3章

3:20-30  3:31-35

4章

4:1-9  4:10-12  4:13-20  4:21-25  4:26-29

4:30-32  4:33-34  4:35-41

5章

5:1-20

6章

6:1-6a  6:6b-13  6:14-20  6:14-29  6:30-44  6:45-52  6:53-56

7章

7:1-23  

使徒言行録



ヨハネ福音書

15:26-27


ペトロの手紙二

1:16–21


2026年9月30日水曜日

【仏教解説】日蓮宗と日蓮正宗 ――同じ日蓮を仰ぐ二つの宗派は何が違うのか

 

【仏教解説】日蓮宗と日蓮正宗

――同じ日蓮を仰ぐ二つの宗派は何が違うのか

レジュメ

 

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0. この回のねらい

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創価学会など日蓮系の新宗教を理解する前提として、日蓮宗と日蓮正宗の違いを整理します。次の三つの問いに答えます。

 

(1) 何が同じで、何が違うのか

(2) なぜ別々の宗派になったのか

(3) 「日興門流=日蓮正宗」という図式は正しいのか

 

※凡例

[公式] 各宗派の公式サイト・宗憲で確認

[教団の立場] 教団の自己理解。他門流や研究者に異論がある

 

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1. 基本データ

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日蓮宗 日蓮正宗

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総本山 身延山久遠寺 大石寺

(山梨県身延町) (静岡県富士宮市)

宗務機関 日蓮宗宗務院 ―― (東京都大田区池上)

寺院数 5,077か寺 ―― (令和8年1月1日現在)[公式]

法人 宗教法人日蓮宗 宗教法人日蓮正宗

 

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2. 共通点

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・宗祖は日蓮(1222〜1282)

・法華経を最高の経典とする

・「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることを信仰の中心とする

 

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3. 違い① 日蓮は「菩薩」か「本仏」か(最も根本的な違い)

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日蓮宗

・日蓮聖人を、釈尊から法華経の末法弘通を託された

「本化上行菩薩の応現」とする(宗憲第一条)[公式]

・信仰の究極の対象は久遠実成の本師釈迦牟尼仏

 

日蓮正宗

・日蓮を末法の御本仏とする(日蓮本仏論)[教団の立場]

 

呼び名の違い

・日蓮宗:日蓮聖人

・日蓮正宗:日蓮大聖人

→ 「大」は丁寧さの違いではなく、本仏とする教義の表れ

 

 

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4. 違い② 本尊

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日蓮宗

・本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇の「三大秘法」を宗旨とする

(宗憲第二条)[公式]

・大曼荼羅は重要な本尊。ただし寺院の本尊の形式は一つではなく、

釈迦像や一尊四士を祀る寺院もある

 

日蓮正宗

・「本門戒壇の大御本尊」を根本とする

・弘安2年(1279年)に日蓮が図顕したとする[教団の立場]

・大石寺に安置

※成立時期については、後世の作とする見解が他門流・研究者にある

 

 

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5. なぜ別々の宗派になったのか――略年表

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1282年 日蓮、死去。生前に六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・

日持)を定める。没後、弟子ごとに門流が形成される

1289年 日興、身延を離れる(身延離山)

1290年 日興、富士に大石寺を開く

→ 日蓮正宗は日興を「第二祖」とし、歴代法主への

「唯授一人の血脈相承」を根幹とする[教団の立場]

 

*日興門流(富士門流)は大石寺だけではない。

北山本門寺・西山本門寺など複数の本山に分かれた(興門八本山)

 

1872年 一宗一管長制により、日蓮門下の諸門流が「日蓮宗」に一括

1874年 一致派・勝劣派に分かれて管長を置く。富士門流は勝劣派

1876年 富士門流の八本山が「日蓮宗興門派」を結成

1899年 興門派が「本門宗」と改称

1900年 大石寺とその末寺が本門宗から独立、「日蓮宗富士派」を公称

1912年 「日蓮正宗」に改称(明治45年6月7日)

1941年 宗教団体法のもと、日蓮宗・顕本法華宗・本門宗が合同し、

新しい「日蓮宗」となる

日蓮正宗は同年3月に合同拒否を決議し、単独で存続

 

 

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6. 系譜の整理

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日蓮

├─ 身延・池上などの諸門流(一致派中心)─────────┐

│ ├→ 日蓮宗(1941年合同)

└─ 日興門流(富士門流・勝劣派) │

├─ 北山本門寺など(本門宗)─────────────┘

└─ 大石寺 → 1900年 日蓮宗富士派 → 1912年 日蓮正宗

 

ポイント

・「身延系=日蓮宗、日興門流=日蓮正宗」という二分法は不正確

・正確には「日興門流のうち、大石寺の系統が日蓮正宗になった」

・どちらかが一方から分かれた、という単純な関係ではない

 

 

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7. 違い③ 法華経の読み方

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・日蓮門下では、法華経の前半「迹門」と後半「本門」の関係をめぐり、両者を一体と見る「一致派」と、本門を優位とする「勝劣派」に分かれた

・日蓮宗:一致派の流れが中心

・日蓮正宗:勝劣派に属し、寿量品の「文底」に秘された法を重視

 

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8. 違い④ 他宗との関係

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日蓮宗

・公式Q&Aで、他宗の寺院や神社への参拝を「問題ありません」と回答[公式]

・理由:大曼荼羅には他宗の開祖や神々の名も書かれている

・ただし、信仰の中心はお題目であることを忘れないように、と付言

 

日蓮正宗

・誤った教えへの帰依を「謗法」として厳しく戒める

・「神天上の法門」に基づき、神社には参拝しない[教団の立場]

・大石寺の堂内への入場は、信徒またはその同伴者に限られる[公式]

 

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9. 補足――創価学会との関係(創価学会回への接続)

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・創価学会は日蓮正宗の在家信徒団体として出発

・1970年代後半 最初の対立(第一次宗門問題)

・1990〜91年 対立が再燃

・1991年11月 日蓮正宗が創価学会を破門

※破門の日付(11月28日とされる)は未確認。創価学会回で一次資料を確認

 

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10. まとめ

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日蓮宗 日蓮正宗

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日蓮 上行菩薩の応現 末法の御本仏

継承 門流を広く含む 大石寺の唯授一人の血脈

本尊 多様な形式 本門戒壇の大御本尊

他宗 寺社参拝は問題なし 謗法として戒める

 

同じ日蓮を源流としながら、上の四点で分かれた別個の宗派である。

 

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12. 出典

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公式

・日蓮宗ポータルサイト「基本情報」(宗憲第一〜三条)

https://www.nichiren.or.jp/activity/basic/

・日蓮宗ポータルサイト「仏教・仏事のQ&A」

https://www.nichiren.or.jp/qa/

・日蓮正宗公式ホームページ「総本山大石寺 よくあるご質問」

https://www.nichirenshoshu.or.jp/jpn/taisekiji-faq.html

 

寺院の説明(宗派の立場を示す資料)

・日蓮正宗 妙通寺「なぜ、神社にお参りしてはいけないのですか?」

https://www.myotsuuji.info/

 

沿革

・Wikipedia「日蓮正宗」「富士門流」「本門宗」「日蓮宗」

(脚注の事典類で裏づけられる範囲で参照)

 

※Wikipedia「本門宗」項は1900年を「明治34年」と表記するが、

1900年は明治33年。本レジュメは明治33年を採る。

【新宗教ニュース解説】2026:9:15 旧統一教会、真如苑、天理教、創価学会

 


チャプター目次
00:00 オープニング・今回のテーマ(3つの問い)
01:00 前提:岡田光玉と真光の教え
01:55 後継者問題の始まり(ヨの御霊の継承)
02:57 法廷闘争と「崇教真光」の設立・和解
05:06 飛騨高山・世界総本山の建立と国際活動
05:57 三代教え主への継承と晩年
06:21 まとめ(3つの問いへの回答)
07:01 補足:両教団の体制や人柄に関するエピソード
08:26 参考文献・エンディング

【キリスト教史解説】マルティン・ブツァー──ストラスブールの宗教改革者;ルターとカルヴァンを架橋した「融和の神学者」

 


要約

 シュトラスブール(ストラスブール)の宗教改革者。Bucer とも綴る。ドミニコ会士としてハイデルベルクで学ぶ中、エラスムスの人文主義とルターの教説に触れてプロテスタントに転じ、1523年よりシュトラスブールの教会改革に尽力した。教会規律・学校教育の整備を通じて南ドイツからフランスにまで影響を及ぼし、亡命中のカルヴァンを庇護して、その後の改革派教会形成にも影響を与えた。1548年のアウクスブルク仮信条協定に反対したためイギリスに亡命し、ケンブリッジ大学教授として、エドワード6世治下の英国教会改革に貢献した。


本文

 南部エルザスのシュレットシュタット(セレスタ)に生まれる。1506年(1507年とする説もある)、ドミニコ会に入会し、ハイデルベルクの同会修道院で神学を学ぶ。1517年にはハイデルベルク大学に籍を置き、翌1518年のハイデルベルク討論でルター本人と出会う。もとよりエラスムスの人文主義に傾倒していたブツァーは、この出会いを機にルターの教説に共鳴し、まもなくプロテスタントに転向した。

 1523年、ジッキンゲンの騎士戦争の敗北と破門を機にシュトラスブールへ逃れ、同地の宗教改革に参与。マタイス・ツェル、ヴォルフガング・カピト、カスパル・ヘディオらと共に教会規律の整備にあたる一方、聖餐論をめぐるルターとツヴィングリの対立の調停に努めるなど、教会全体が抗争状態になることを好まず、融和的・妥協的立場をとることが多かった(1529年マールブルク会談、1536年ヴィッテンベルク協約など)。この時期、宗教改革を教会制度の刷新にとどめず国家や学校教育の改革にも及ぼそうとし、ヨハネス・シュトゥルムと共にシュトラスブール・ギムナジウムの設立に関わるなど、その指導的立場は1530年の四都市信仰告白を通じ南ドイツからフランスにまで及んだ。1538年にはジュネーブを追われたカルヴァンをシュトラスブールに招いて庇護し、後年のジュネーブにおける改革派的教会形成の多くは、このシュトラスブール時代にカルヴァンが得た経験に由来するとされる。

 1548年、アウクスブルク仮信条協定に反対の意を示す(一時は圧力下で署名させられたが、帰郷後もカトリック儀礼への抵抗を続けた)。これにより身の置き所を失ったところへ、イングランド国教会大主教トマス・クランマーの招きもあり、1549年にイギリスへ亡命。ケンブリッジ大学の欽定神学教授(Regius Professor of Divinity)に任ぜられ、エドワード6世治下におけるイングランド教会改革(祈祷書改訂など)に尽力した。同地で『キリスト王国論』(De Regno Christi、1550年起草、没後1557年バーゼル刊)を執筆したほか、『真の魂の配慮について』(牧者論、1538年)をはじめ多数の聖書注解を残し、1551年ケンブリッジで没した。

【キリスト教史解説】スイス・チューリヒの宗教改革者ツヴィングリ

 

ーーーレジュメーーー
【キリスト教史解説】スイス・チューリヒの宗教改革者ツヴィングリ

[生] 1484年1月1日 ザンクト・ガレン州トッゲンブルク地方ヴィルトハウス
[没] 1531年10月11日 カッペル(第2次カッペルの戦いで戦死)

 スイス宗教改革の指導者。改革派系の人文主義的な宗教改革者の一人として数えられる。
 地元の有力な農家に生まれ、ベルンで人文主義者ハインリヒ・ヴェルフリン(通称ルプルス)に古典を学んだのち、ウィーン大学、バーゼル大学で人文学・哲学・神学を修めた。バーゼル在学中はエラスムス流の聖書中心的人文主義に強く影響を受け、後年エラスムス本人とも文通した。

 ハインリヒ・ヴェルフリン(Heinrich Wölflin, 1470頃–1534頃)は、ラテン名をHeinrich Lupulus(ルプルス)といい、スイスの人文主義者です。「Wölflin(小さな狼)」をラテン語化したものが Lupulus です。彼はベルンを中心に活動し、若きフルドリヒ・ツヴィングリに古典語・古典文学を教えました。ツヴィングリが後に聖書原典、とりわけギリシア語新約聖書を重視するようになる背景には、こうしたルネサンス人文主義の教育がありました。

 1506年、グラールスの教区司祭に叙任され、その後1516年から巡礼地アインジーデルンの司牧司祭を務める。1519年1月、チューリヒのグロースミュンスター(大聖堂)の司牧司祭に就任し、聖書の逐語的講解説教を開始した。同年ペストに罹患して瀕死の重病を経験し、これを機に改革運動への専心を強めたとされる。

アインジーデルン(Einsiedeln)はスイス中部の有名な巡礼地で、ベネディクト会修道院を中心に発展しました。ツヴィングリは1516年から1518年までアインジーデルンで司祭として活動しました。この時期、エラスムスの人文主義から強い影響を受け、新約聖書のギリシア語本文を研究しています。また、多くの巡礼者と接するなかで、巡礼や聖人崇敬など当時の教会の信仰実践に対する批判的視点も形成されていきました。そのためアインジーデルン時代は、1519年にチューリヒへ移って本格的な宗教改革を始める直前の思想形成期として重要です。


 1523年、チューリヒ市当局主催の公開討論会(チューリヒ討論)を経て、市と教会の新教化に成功。これはその後のスイス諸都市・州における改革運動のモデルとなった。以後、新教化する都市・州が相次ぎ、1527年にはチューリヒとコンスタンツの間で「キリスト教市民同盟(Christliches Burgrecht)」が結ばれ、1528年頃までにベルンなど他都市も加わり拡大した。

 スイスの新教同盟とドイツのルター派との協調の必要性を認識していたが、聖餐(聖体)の理解をめぐりルターと対立。ツヴィングリは聖餐を象徴的な記念行為とみなす立場(象徴説)を取り、実体的な現臨を説くルターとは相容れなかった。1529年のマールブルク会談、1530年のアウクスブルク国会でも和解には至らず、チューリヒは政治的・宗教的に孤立を深めた。

1530年のアウクスブルク国会

神聖ローマ皇帝カール5世が、帝国内の宗教的分裂を収拾するために招集した帝国議会。メランヒトンが起草した「アウクスブルク信仰告白」がルター派諸侯・都市によって提出され、ルター派の教義的基盤を確立する文書となった。一方、ツヴィングリ派に近い立場をとる南ドイツの都市(ストラスブルクなど)は、これとは別に「四都市信仰告白(テトラポリターナ信仰告白)」を提出し、ルター派とツヴィングリ派の神学的立場の相違が表面化。皇帝側はこれらの告白を拒絶し、プロテスタント側にカトリック信仰への回帰を求めたため、対立はむしろ先鋭化した。

 こうした緊張の中、カトリック側の森林諸州との間で1531年に第2次カッペルの戦いが勃発。ツヴィングリは従軍司祭として同行し、戦闘の中で命を落とした。

1531年の第2次カッペルの戦い

アウクスブルク国会での対立を経て、宗教改革を受け入れたチューリヒなど都市部のプロテスタント諸邦と、旧来のカトリック信仰を維持した「森林諸州(ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンなど)」との緊張が高まり、武力衝突に至った戦い。チューリヒ軍は準備不足のまま出陣し、カッペル・アム・アルビスで森林諸州側に敗北した。この戦闘でツヴィングリ自身が従軍牧師として同行しており、戦死している。この敗北により、スイス国内における改革派の拡大は停滞し、スイス各邦がそれぞれの信仰を選択する体制(邦ごとの信仰の自由)が固定化されることになった。

 人文主義の影響を色濃く受けつつ、聖書のみを信仰と実践の規範とする厳格な聖書中心主義(聖書主義)を貫いた点に思想的特徴がある。その改革は宗教儀礼の刷新にとどまらず、都市の道徳・社会秩序の再編にも及び、後のカルヴァンによるジュネーヴ改革にも道を開いたとされる。

1-0 トップページ(目次)

1-1 新宗教・新興宗教解説 1-2 キリスト教解説 1-3 説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解