説教や聖書研究をする人ための聖書注解
マタイ25:31-40
概要
マタイ25章31–40節は、終末における「人の子」の再臨と最後の審判を描く場面である。ここでは、栄光の座に着くキリストが、すべての民族を前にして羊と山羊を分けるように人々を区別し、右に置かれた者には創世以前から備えられた神の国の相続が宣言される。その基準として示されるのは、飢えた者、渇いた者、よそ者、裸の者、病人、囚人といった「最も小さい者」への具体的な愛の行為である。
本段落の中心的主題は、隣人愛の実践がキリストへの奉仕と同一視されるという点にある。行為者は、自らの行為がキリストに向けられたものであることを自覚していないが、キリストは「最も小さい者」と自らを同一化し、その愛の行為を「わたしにした」と宣言する。ここに、終末の審判における基準が、単なる宗教的知識や形式ではなく、日常の中で行われる具体的な愛の実践にあることが明確に示されている。
注解
- 原文:Ὅταν δὲ ἔλθῃ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἐν τῇ δόξῃ αὐτοῦ καὶ πάντες οἱ ἄγγελοι μετ’ αὐτοῦ, τότε καθίσει ἐπὶ θρόνου δόξης αὐτοῦ·
- 私訳:しかし、人の子がその栄光の中に来るとき、そしてすべての天使たちが彼と共にいる時、その時彼はその栄光の座に座るであろう。
- 新共同訳:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
文法解析
- Ὅταν(接続詞)「〜するとき」(時を表す接続法)
- ἔλθῃ(動詞・アオリスト接続法能動3単)←ἔρχομαι「来る」
- καθίσει(動詞・未来能動3単)←καθίζω「座る」
注解
- 終末におけるキリストの再臨(パルーシア)が描かれている。
- 「人の子」:ダニエル書の7章を背景にしており、世に審判をもたらす王的存在として降臨する。
- 「栄光」:神の本質が光として表されていること。神の本質とは、例えば完全性、聖性、義、永遠性。キリストが神的栄光を帯びていることは、キリストが神的存在であることを示す。
- 天使:キリストの随伴者。
マタイ25:32
- 原文:καὶ συναχθήσονται ἔμπροσθεν αὐτοῦ πάντα τὰ ἔθνη, καὶ ἀφοριεῖ αὐτοὺς ἀπ’ ἀλλήλων ὥσπερ ὁ ποιμὴν ἀφορίζει τὰ πρόβατα ἀπὸ τῶν ἐρίφων,
- 私訳:そしてすべての諸国民が彼の前に集められ、彼は彼らを互いから分けることになる。ちょうど羊飼いが羊を山羊から分けるように。
- 新共同訳:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
文法解析
- συναχθήσονται(未来受動3複)←συνάγω「集める」
- ἀφοριεῖ(未来能動3単)←ἀφορίζω「分ける」
- ποιμήν「羊飼い」
注解
- 「すべての民族」:審判の世界性、普遍性。イスラエルに限定されない。
- 羊と山羊の区別はパレスチナの牧畜文化に由来する。それまで混合した状態から、その時が来れば分離が為されることは不可避ということ。
- 「羊を山羊から分けるように」:新共同訳では羊と山羊を分けるとあるが、原文では表示の通り。大勢の山羊の中に羊は紛れているというニュアンス。
マタイ25:33
- 原文:καὶ στήσει τὰ μὲν πρόβατα ἐκ δεξιῶν αὐτοῦ τὰ δὲ ἐρίφια ἐξ εὐωνύμων.
- 私訳:そして彼は羊をその右に、山羊を左に置くことになる。
- 新共同訳:羊を右に、山羊を左に置く。
文法解析
- στήσει(未来能動3単)←ἵστημι「立たせる/置く」
注解
- 右は祝福・名誉を、左は不利・拒否を象徴する。
- 羊と山羊の分離は、祝福と呪いへの分離。
マタイ25:34
- 原文:τότε ἐρεῖ ὁ βασιλεὺς τοῖς ἐκ δεξιῶν αὐτοῦ· Δεῦτε οἱ εὐλογημένοι τοῦ πατρός μου, κληρονομήσατε τὴν ἡτοιμασμένην ὑμῖν βασιλείαν ἀπὸ καταβολῆς κόσμου·
- 私訳:そのとき王は彼の右の者たちに言うことになる、「来なさい、わたしの父に祝福された者たちよ、あなたがたのために世界の基から備えられた王国を受け継ぎなさい。」
- 新共同訳:そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
文法解析
- ἐρεῖ:動詞λέγω(未来能動)「言う」
- Δεῦτε:(命令)「来なさい」
- εὐλογημένοι:εὐλογέω(完了受動分詞)「祝福する」
- κληρονομήσατε:κληρονομέω(アオリスト命令)「相続する」
注解
- 神が王として示され、祝福と救済も王からの褒章的に描かれ、委ねられるものは「王国」と表現されている。それは、天地創造以前から定められ、用意されているもの。
マタイ25:35
- 原文:ἐπείνασα γὰρ καὶ ἐδώκατέ μοι φαγεῖν, ἐδίψησα καὶ ἐποτίσατέ με, ξένος ἤμην καὶ συνηγάγετέ με,
- 私訳:なぜなら、わたしは飢えていた、そしてあなたがたは私に食べるものを与えた。渇いていた、そして飲ませた。よそ者であった、そして迎え入れた。
- 新共同訳:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
文法解析
- ἐπείνασα:πεινάω(アオリスト)「飢える」
- ἐδώκατε(アオリスト)←δίδωμι「与える」
- ἐδίψησα←διψάω「渇く」
- συνηγάγετε←συνάγω「迎え入れる」
注解
- 挙げられている慈善的行為は、律法の中心であり、イエスも重視した隣人愛の実践項目。
マタイ25:36
- 新共同訳:γυμνὸς καὶ περιεβάλετέ με, ἠσθένησα καὶ ἐπεσκέψασθέ με, ἐν φυλακῇ ἤμην καὶ ἤλθατε πρός με.
- 私訳:裸であった、そしてあなたがたは着せた。病気であった、そして見舞った。牢にいた、そしてあなたがたは私のもとに来た。
- 新共同訳:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
文法解析
- περιεβάλετε:περιβάλλω「着せる」
- ἠσθένησα:ἀσθενέω「弱る/病む」
- ἐπεσκέψασθε:ἐπισκέπτομαι「訪ねる」
- ἤλθατε:ἔρχομαι「来る」
注解
- 本節での隣人愛の実践項目は、訪問系が中心。対象人物との関係性が持続されている。当時、収監された者と会うことは容易で、関係者が囚人の世話をすることはよく行われていた。
マタイ25:37
- 原文:τότε ἀποκριθήσονται αὐτῷ οἱ δίκαιοι λέγοντες· Κύριε, πότε σε εἴδομεν πεινῶντα καὶ ἐθρέψαμεν, ἢ διψῶντα καὶ ἐποτίσαμεν;
- 私訳:そのとき義人たちは彼に答えて言うであろう、「主よ、いつ私たちはあなたが飢えているのを見て養ったでしょうか、また渇いているのを見て飲ませたでしょうか。」
- 新共同訳:すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
文法解析
- ἀποκριθήσονται:ἀποκρίνομαι(未来受動)「答える」
- εἴδομεν:ὁράω(アオリスト)「見る」
注解
- 祝福される側の羊たちが、「義人」と呼ばれている。
- 善行が無意識的に行われたことが焦点であるが、無意識かどうかというよりも、行為の対象がキリストと同化していることを気づかないという構図。あるいは、自己目的なのかそうではないか、ということも重要だろう。相手をキリストと思って善行せよ、というメッセージに繋がる。
マタイ25:38
- 原文:πότε δέ σε εἴδομεν ξένον καὶ συνηγάγομεν, ἢ γυμνὸν καὶ περιεβάλομεν;
- 私訳:いつあなたをよそ者として見て迎え入れたでしょうか、また裸で見て着せたでしょうか。
- 新共同訳:いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
文法解析
- συνηγάγομεν:συνάγω(アオリスト)
注解
- 隣人愛の対象がキリストと同化されている。行為する側は、相手がキリストであることに気づいてないという構図。
マタイ25:39
- 原文:πότε δέ σε εἴδομεν ἀσθενοῦντα ἢ ἐν φυλακῇ καὶ ἤλθομεν πρός σε;
- 私訳:いつあなたが病気であるのを、あるいは牢にいるのを見て、あなたのもとに行ったでしょうか。
- 新共同訳:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
文法解析
- ἀσθενοῦντα(現在分詞)←ἀσθενέω
- ἤλθομεν←ἔρχομαι
マタイ25:40
- 原文:καὶ ἀποκριθεὶς ὁ βασιλεὺς ἐρεῖ αὐτοῖς· Ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ἐφ’ ὅσον ἐποιήσατε ἑνὶ τούτων τῶν ἀδελφῶν μου τῶν ἐλαχίστων, ἐμοὶ ἐποιήσατε.
- 私訳:そして王は答えて彼らに言うであろう、「まことにあなたがたに言う、これらの最も小さいわたしの兄弟の一人にしたことは、わたしにしたのである。」
- 新共同訳:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
文法解析
- ἐποιήσατε:ποιέω(アオリスト)「する」
- ἐλαχίστων:(最上級)「最も小さい」
注解
- キリストは「最も小さい者」と同化されている。
「最も小さい者」とは誰か:
- 「兄弟」=弟子(教会内部)
- 「すべての貧しい者」とする普遍的倫理説
いずれか特定し難いが、終末時に重視されることは、それまでの隣人愛の実践であることが明示されている。
<ここまでの注解に基づいた説教の結びの言葉として>
主イエスは、終わりの日にご自身の栄光の座に着き、すべての民を前にして羊と山羊を分けると語られました。そこでは、私たちがどれほど大きな業を成し遂げたかではなく、どれほど静かに、どれほど自然に、隣人に愛を示したかが問われます。
飢えた者に食べ物を与え、渇いた者に飲み物を与え、よそ者を迎え入れ、裸の者に衣を与え、病む者や囚われた者を訪ねる――これらは決して特別な行為ではありません。むしろ、日常の中で見過ごされがちな、小さな愛の実践です。しかし主は、その「最も小さい者」に向けられた愛を、「わたしにしてくれた」と言われます。
つまり、私たちが出会う一人ひとりのうちに、主ご自身が隠れておられるのです。私たちが気づかぬままに行った愛の行為は、主の前では決して忘れられることがありません。終末の審判とは、恐れの場ではなく、主が私たちの中に働かれた愛を明らかにする場なのです。
だからこそ、私たちは今日も、目の前に置かれた小さな隣人愛を大切にして歩みたい。相手が誰であれ、その人のうちに主がおられると信じて仕えるとき、私たちはすでに神の国を生き始めています。
「これらの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
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