2026年1月12日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:35-41「突風を静める」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:35-41「突風を静める」


35節

  • 原文:Καὶ λέγει αὐτοῖς ἐν ἐκείνῃ τῇ ἡμέρᾳ ὀψίας γενομένης· Διέλθωμεν εἰς τὸ πέραν.
  • 私訳:そして、その日の夕方になって、彼は彼らに言った。「私たちは向こう岸へ渡ろうではないか」
  • 新共同訳:その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

注解

  • ὀψίας γενομένης:「夕方になって」。独立属格。
  • Διέλθωμεν: διέρχομαι(「向こうへ行く、渡って行く)の接続法・1人称・複数。「〜しよう」という勧誘の意味。
  • 「その日」:イエスが群衆に例えをもってお語りになった日。その内容は、4:1-35に記載されている。
  • 「向こう岸に渡ろう」:勧誘を意味する接続法なので、命令形ではない。向こう岸とは、この文脈では、ガリラヤ湖の向こう岸のこと。向こう岸に行く目的は、過密なスケジュールから逃れて、休息を得るためかもしれない。一方、向こう岸がガリラヤ湖の東側とすれば、ユダヤ人から見て異邦人が多く居住する地域。イエスの運動はキリスト教の創始ではなく、この時代にはまだユダヤ教の内部の改革運動に留まっていたから、異邦人への宣教はまだ射程外であった。よって、イエスのこの提案は、新天地・新展開を求めての新たな旅でもあり、同時に、後のキリスト教の世界宣教を暗示するものでもある。

黙想

 種々の物事はおよそ、神の意志、神の言葉、神の働きから動き出すものである。異邦人伝道もまた、イエスのこの一言から始まった(神の主導性、キリストの主導性)。
 イエスのこの誘いを、個々人における新たな挑戦や展開と理解するのも良いだろう。未知の領域に向けて志をもって挑戦しようと、イエスが促されていると提案されていると受け止めるのは、信仰的な解釈である。

36節

  • 原文: καὶ ἀφέντες τὸν ὄχλον παραλαμβάνουσιν αὐτὸν ὡς ἦν ἐν τῷ πλοίῳ, καὶ ἄλλα πλοῖα ἦν μετ’ αὐτοῦ.
  • 私訳:そこで、彼らは群衆を残し、彼を舟に乗せたままで漕ぎ出し、別の舟もその船と共にあった。
  • 新共同訳:そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
  • 「船に乗せたまま」「まま」(ὡς ἦν):物語の流れとしては、先ほどまで船の上からイエスが群衆に例えを語っていた。その状態からの継続を示す。
  • 別の船:これらがペトロを初めとした弟子たちの船であれば、他の弟子たちも船を出していたことになる。


37節
  • 原文: καὶ γίνεται λαῖλαψ μεγάλη ἀνέμου, καὶ τὰ κύματα ἐπέβαλλεν εἰς τὸ πλοῖον, ὥστε ἤδη γεμίζεσθαι τὸ πλοῖον.
  • 私訳:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、浸水しそうになった。
  • 新共同訳:激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
  • λαῖλαψ:突風、激しい暴風雨を表す。
  • ガリラヤ湖は海面下約200メートルに位置し、特に日中の気温が低下する夕方、周囲の山々から冷たい空気が流れ落ちてくるため、突然の激しい嵐が起こることでよく知られている。ベテランの漁師はそのことを熟知しているだけに、この時の嵐が転覆に及ぶ可能性の高いものであると悟り、狼狽したのだろう。
  • ὥστε ἤδη γεμίζεσθαι:「その結果、すでに船は満たされつつあった。」水で満たされつつあるということで、その原因は波と雨であろう。危機的な状態。

38節

  • 原文: καὶ αὐτὸς ἦν ἐν τῇ πρύμνῃ ἐπὶ τὸ προσκεφάλαιον καθεύδων· καὶ ἐγείρουσιν αὐτὸν καὶ λέγουσιν αὐτῷ· Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;
  • 私訳:すると、彼は船尾で、その枕の上で眠っていた。弟子たちは彼を起こして、彼に言った。「先生、わたしたちが溺れ死んでも構わないのですか?」
  • 新共同訳:しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
  • ἐπὶ τὸ προσκεφάλαι(その枕の上で):枕には定冠詞が付いているから、船の構造物をまくらに見立てて眠っていたわけではない。用意されていた枕を意味する。
  • 危機的事態にあって、悠々と眠っているイエス。狼狽する弟子たちと、著しい対照的な構図を作り出している。
  • 「構わないのですか?」:οὐ μέλει σοι ὅτι...:「あなたは〜について関心がないのですか?」救いを求める懇願というより、自分たちに死にそうであることに無関心に見えるイエスへの批判の文言。
  • 突風の中で眠るイエスは、神への揺るぎなき信頼を象徴する。対照的に弟子たちは、「神に見捨てられた」という神への不信と混乱を象徴する。二つの対極的な図式。

39節

原文: καὶ διεγερθεὶς ἐπετίμησεν τῷ ἀνέμῳ καὶ εἶπεν τῇ θαλάσσῃ· Σιώπα, πεφίμωσο. καὶ ἐκόπασεν ὁ ἄνεμος, καὶ ἐγένετο γαλήνη μεγάλη.
私訳:すると、彼は起き上がって、風を叱り、海に言った。「黙れ。静まれ。」すると、風はやみ、すっかり凪になった。
新共同訳:イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。

注解

  • πεφίμωσο:「口を塞いだ状態でおれ」という、持続的な沈黙の命令。
  • 「風を叱り」(ἐπετίμησεν):「叱責した」。悪霊を追い出す際にも使われている語。意志を持たない風や湖が、擬人的に扱われている。当時、嵐や海には魔物が潜んでいるとも信じられていたから、それらに対して厳しく命じる所作。さらに、そうしたものを制御できるのは、神のみと考えられていた(詩編107:29など)。魔物であれ、自然の脅威であれ、これを抑える力は、天地創造の力を持つ神のみ。よってこの場面は、イエスが天地創造の力を持つ神的存在、あるいはその権威を授けられた存在ということを暗示する。

40節

  • 原文: καὶ εἶπεν αὐτοῖς· Τί δειλοί ἐστε; οὔπω ἔχετε πίστιν;
  • 私訳:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
  • 新共同訳:イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

注解

  • δειλοί:「臆病な」「卑怯な」というニュアンスを持つ。よって、単純な恐れ以上に、忠実さがなく、逃げ腰の態度を表す。
  • οὔπω:「いまだ〜ない」。これまで幾つもの奇跡を目にしながらも、それを学習せず、悟らず、その結果、狼狽する弟子たちへの嘆きの言葉。

黙想

 信仰とは、困難がないことではない。嵐に遭わないことでもない。そうした困難にあって、それまでの恵み、それまで聞いた神の言葉・約束を思い起こし、神への信頼に踏みとどまることである。


41節

  • 原文: καὶ ἐφοβήθησαν φόβον μέγαν, καὶ ἔλεγον πρὸς ἀλλήλους· Τίς ἄρα οὗτός ἐστιν ὅτι καὶ ὁ ἄνεμος καὶ ἡ θάλασσα ὑπακούει αὐτῷ;
  • 私訳:彼らは大いに恐れて、「一体、この人は誰か、風と海を彼に従わせるとは?」
  • 新共同訳:弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

注解

  • ἐφοβήθησαν φόβον μέγαν:「大きな恐怖を恐れた」。同族目的語を用いた強調表現。神的なものに触れた時の「畏怖」を表す。
  • 弟子たちは、嵐という自然の脅威への恐れから、イエスという存在の神性に触れての畏敬へと変化した。「この人は誰か?」という問いは、マルコ福音書の中心主題であり、文学的な技法で、最終的に、その答えが十字架上で壮絶な死を遂げるイエスの姿において示される。

説教の結びの言葉として

 ガリラヤ湖の嵐のただ中で、弟子たちは自分たちの力ではどうにもならない現実に直面しました。水は船に入り込み、経験豊かな漁師でさえ恐れおののくほどの危機。しかし、その同じ船の中で、主イエスは静かに眠っておられました。弟子たちの不安と、イエスの平安。この対照の中に、信仰とは何かという問いが鋭く突きつけられています。
 イエスは弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」これは、恐れること自体を責める言葉ではありません。むしろ、これまでに与えられた恵み、語られた言葉、示された御業を思い起こし、それに立ち返るよう促す招きです。信仰とは、嵐がない人生ではなく、嵐の中でなお主の言葉にとどまる歩みだからです。
 そして、弟子たちは嵐そのものよりも、嵐を従わせるイエスの権威に触れて「大いに恐れた」と記されています。彼らは初めて、イエスが単なる教師ではなく、天地を治める神の力を帯びた方であることを悟り始めたのです。「この方は一体誰なのか。」この問いこそ、私たちの信仰の中心に据えられるべき問いです。
 主は今日も、私たちに向かって「向こう岸へ渡ろう」と語りかけておられます。それは、未知の領域への招きであり、恐れを超えて歩み出すよう促す言葉です。私たちの人生にも嵐は起こります。しかし、その船には主が共におられます。嵐を静める方が、私たちと同じ舟に乗ってくださっているのです。
 どうか私たちが、状況の激しさではなく、共におられる主の確かさに目を向ける者となりますように。恐れの中で叫ぶ弟子たちの声を、主は聞かれました。同じように、私たちの叫びも、主は決して見捨てず、必ず応えてくださいます。
 向こう岸へと導かれる主に信頼し、嵐の中でも主の平安にとどまる歩みを続けていきましょう。

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