使徒教父文書と四福音書との関係
序論
本章の目的は、いわゆる使徒教父文書が四福音書といかなる関係に立っているのかを検討することにある。具体的には、引用・言及・修正の可能性を有する用例を分析し、その文献的依存関係および神学的方向性を明らかにすることを目指す。
もっとも、使徒教父文書が福音書本文に直接依拠していることを確実に証明できる事例は必ずしも多くはない。語句や主題の一致が認められる場合であっても、それが福音書への依拠によるのか、あるいは共通のイエス伝承、典型的定式、あるいは初期キリスト教界に広範囲に流通していた口伝資料に由来するのかは、慎重に区別されねばならない。
本章では、(1) 明示的引用、(2) 語句的一致、(3) 構造的対応、(4) 共通伝承の可能性、という分析類型を区別しつつ、文脈的・語彙的・構造的観察に基づいて検討を行う。
なお、「使徒教父文書」に分類される文書の範囲および章節区分は版により異なるが、本稿では Michael W. Holmes編 The
Apostolic Fathers 第3版[1]に準拠し、日本語訳は荒井献編『使徒教父文書』[2]を参照する。
対象文書の範囲
以下の十文書(うち一つは書簡群)を検討対象とする。
1 ディダケー(十二使徒の教訓)
2 バルナバの手紙
3 クレメンスの手紙一
4 クレメンスの手紙二
5 イグナティオスの手紙(書簡群)(エフェソ、マグネシア、トラレス、ローマ、フィラデルフィア、スミルナ各教会宛およびポリュカルポス宛)
6 ポリュカルポスの手紙
7 ポリュカルポスの殉教
8 パピアスの断片
9 ディオグネートスへの手紙
10 ヘルマスの牧者
これらの文書は、紀元90年頃から150年頃にかけて成立したと推定される。成立年代は確定的ではないが、その多くは新約聖書文書の中でも比較的後期に位置づけられる諸文書と時期的に重なり合う。たとえば、第一ペテロ書、ヨハネ福音書、ヨハネ書簡、ヨハネ黙示録、ヤコブ書、牧会書簡、第二ペトロ書などである[3]。
したがって、使徒教父文書は、新約正典が固定化される以前の、なお境界が流動的であった初期キリスト教文書空間に属していると理解される。この歴史的位置づけを踏まえることは、四福音書の受容と権威化の過程を考察する上で不可欠である。
1. 使徒教父文書の分析
1. ディダケー
『ディダケー』(Didache, Διδαχὴ τῶν δώδεκα ἀποστόλων)は、初期キリスト教史研究において特異な位置を占める文書で、単一著者による体系的著作というよりも、複数の伝承素材を編集的に結合した複合文書であり、「二つの道」の倫理教訓、洗礼・断食・祈祷・感謝祈祷の指示、巡回教師・預言者規定などによって構成された構造的多層性は、初期共同体の実践と組織形成の過程を反映する資料としての価値を高めている[4]。
成立年代は一般に1世紀末から2世紀初頭と推定されるが、構成要素の一部はより古い教会状況を想起させる。特にディダケー15の役職者選出規定は、単一司教制が未確立である段階を示し、2世紀初頭という位置づけを支持する有力な根拠となっている[5]。成立地は確定しないが、シリアが主要候補とされる。
本書は『マタイによる福音書』との顕著な類似を示す。特にディダケー8:2 の主の祈りはマタイ版に近似し[6]、1:3b–2:1a には共観福音書との並行が認められる(マルコ12:30-31; マタイ5:329, 41, 44, 46, 47,48, 7:12など)。かつては両者の直接的な文献依存を認める説[7]と、文献依存はなく並行伝承が使用されているとする説で議論された[8]。近年は、福音書本文への直接依存や直線的発展よりも、両者が共通の神学的潮流や環境(Milieu)にあったための伝承共有を想定する見解が優勢である[9]。
本書は1875年に発見された コンスタンティノポリス写本(後にエルサレム写本、Codex
Hierosolymitanusと呼称、推定成立年代は11世紀)のみによって完全なギリシャ語訳が伝えられている[10]。他、ラテン語訳やコプト語断片が知られている。
以上より、ディダケーは正典形成以前のキリスト教共同体における倫理・典礼・組織・終末信仰の交差点を示す文書であり、福音書成立前後の伝承環境を復元する上で不可欠の資料である。
ディダケーにおける εὐαγγέλιονは「福音」か「福音書」か
ディダケーと福音書との関係性を検討する上で重要な箇所は、8:2「主が彼の福音/福音書で命じたように」、11:3「使徒と預言者については、福音/福音書の教義に則って」、15:3「福音/福音書に記されているように」、15:4「主の福音/福音書に記されているように」であり、これらにおける
εὐαγγέλιονが、「福音」と「福音書」のどちらを指すのかについて議論がある[11]。
本問題は少なくとも三つの次元に分けて考察される。第一に語義の問題として、
εὐαγγέλιον が口頭伝承を意味するのか、文書化された伝承を意味するのか。第二に、仮に文書を指すとすれば、それは四福音書の一部あるいは全部を指すのか、それとも特に
マタイ福音書を指示する用例なのかという指示対象の問題である。第三に、ディダケーがマタイに依存しているのか、それとも両者が共通の伝承環境を共有しているにすぎないのかという依存関係の問題である。
研究史においては立場が分かれる。文書依存に消極的な立場としてはHelmut Köster[12]が挙げられ、彼はディダケーを福音書以前あるいは福音書とは独立した伝承の流れに位置づける。他方、ディダケーのマタイ依存を積極的に主張するのが Édouard Massaux であり、日本語訳において 8:2 および 11:3 を「福音書」と訳す 佐竹明 も、一定の文書性を想定していると見なし得る。もっとも近年の研究においては、両者を直接的な文書依存関係に置くよりも、共通の神学的・伝承的環境(Milieu)に属していたと見る見解が有力である。
そのように仮定すれば、ディダケーにおける εὐαγγέλιον は、書名として固定化された「福音書」という概念を前提とするものというよりも、規範的イエス伝承の総体を指す語として理解するのが妥当であろう。すなわち、福音書を「福音」と呼ぶ呼称はなお流動的段階にあり、2世紀前後において必ずしも書名として定着していたとは言い難い。
このことは、後述する「パウロ書簡集成」との対比においていっそう明確となる。パウロ書簡が比較的早期から準正典的権威を帯びつつあったのに対し、福音書はなおそのような集成的・書物的権威を確立していなかった可能性が高い。したがって、ディダケーにおいて福音書的伝承が参照される場合、その権威の根拠は文書としての固定化にあるのではなく、「主の言葉」すなわちキリストの語りに由来する権威にあったと考えられる。
2. バルナバの手紙
本書は伝統的に使徒行伝に登場するバルナバ(使徒)に帰せられてきたが、今日ではその可能性は極めて低いと見なされている。内容的にも、著者は使徒世代ではなく、神殿崩壊後の状況を前提としている。したがって、現在では匿名のキリスト者著者による著作と理解するのが一般的である。
成立年代については、内部証拠に基づき一定の範囲が推測されている。terminus post quemとしては、バルナバ16:4-5で神殿崩壊後の状況を前提としつつ、「再建」への期待や不安が示唆されることから、紀元70年のエルサレム神殿崩壊以後が下限とされる。terminus ante quemとしては、同箇所における異邦人による再建の可能性への言及の背景として、しばしば想定されるのがハドリアヌス帝によるエルサレム再建計画で、彼は神殿跡地にユピテル神殿を建設し、都市をアエリア・カピトリナとして再建した(132–135年)。この歴史的対応から、多くの研究者は 70年以後、132–135年以前 を成立年代の範囲と推測する。概ね 90年代から130年代初頭に位置づける見解が有力である。
執筆場所として最も有力視されるのがアレクサンドリアである。その理由は以下のとおり。最初期に本書を明確に引用しているのはアレクサンドリアのクレメンスで、彼は本書を権威ある文書として扱っていること[13]。割礼などのユダヤ教的事項のアレゴリー解釈が、アレクサンドリア・ユダヤ教と整合すること。
バルナバの手紙と四福音書との関係
上述のユダヤ教神学との対話から、旧約聖書全体から幅広く引用されている。他方、バルナバ4:14(「召された者は多いが選ばれた者は少ない」)において、マタイの編集句の可能性が高いマタイ22:14が、旧約引用と同様の導入句を伴って引用されていることから、タイセンはこれを旧約的に引用されるようになった新約用例の端緒とするが[14]、青野はこの見方に懐疑的である[15]。
他、バルナバ5:9//マタイ9:13; マルコ2:17、バルナバ7:3//マタイ27:48; マルコ15:36など、受難物語や黙示文学的箇所での近似性が認められるが、これらが福音書からの直接引用なのか、共通伝承に由来するのかは判断し難い。結論として、マタイ福音書が権威ある書として引用され始めているとしても、未だその萌芽状態にあると考えられる。
3. クレメンスの手紙一
本書は全体にわたって文体的統一性が顕著であり、一人の著者による執筆と推定される。書簡自体には著者名は記されていないが、フィリピ4:3に言及される「クレメンス」を著者と同定する伝承が古くから存在する。この理解は、エウセビオス『教会史』3.15.1[16]をはじめとする教父的証言に支持されており、近年の研究においても一定の支持を得ている[17]。
成立年代については、5−6章における紀元64−68年のネロ帝による迫害への回顧、
さらに1:1、7:1に見られる迫害に関する言及が、ドミティアヌス帝晩年(在位:81−96年)、もしくはネルウァ帝治下の迫害を想起させる点から、95-97年を想定する説が主流である[18]。
著者は、教会内の非難すべき行動を戒め、秩序と服従を回復するための模範を提示するに際し、七十人訳聖書を広範に引用している。また、偽典的文書や、出典不明の伝承資料にも言及している(8:3; 17:6; 23:3; 46:2)。さらに、パウロは名指しで言及され、その書簡、とりわけ第一コリント書が明確に引用・参照されている(5:5、47:1「幸いなる使徒パウロの手紙を取りなさい」(Ἀναλάβετε τὴν ἐπιστολὴν τοῦ μακαρίου Παύλου τοῦ ἀποστόλου)。加えて、ヘブライ書(1クレメンス36:2//ヘブライ1:3-4、1クレメンス36:3//ヘブライ1:7)との間に高度な語彙的・構文的類似が認められることから、同書もまた当時すでに流布していた可能性が高いと考えられる。
福音書との関連が観察される箇所
* 1クレメンス13:1「特に主イエスが語った言葉を思い起こしながら」(μάλιστα μεμνημένοι τῶν λόγων τοῦ κυρίου Ἰησοῦ):後続の言葉の導入句として機能しており、「主イエスの言葉」が福音書からの引用なのかが焦点となるが、その気配はない。一定の伝承として共有されていたイエスの言葉伝承に由来すると推察される。
* 1クレメンス13:2「憐れめ、あなたがたが憐れまれるために。赦せ、あなたがたが赦されるために……」:マタイ7:1-2、ルカ6:36-38と類似するが、逐語的引用ではなく、正典福音書に含まれない語句も含まれている。ポリュカルポス書簡2:3との類似から、福音書とは別系統のイエス語録伝承に由来する可能性が高い。
* 1クレメンス24:5「種蒔く人が出て行った。そして各々の種を地に蒔いた」:マルコ4:1-9、マタイ13:1-9、ルカ8:4-8の「種蒔きの例え」と部分的に一致するが、要約的・解釈的再述であり、直接引用とは言い難い。
* 1クレメンス46:8「一人をつまづかせるよりも、生まれなかった方が良かった……挽き臼をつけられて海に……」:マタイ26:24など複数のイエス語録が組み回された形となっており、福音書への依存と想定することは困難である。
* 1クレメンス47:2「その福音の初めに彼はあなたがたに何と書いたか?」(τί πρῶτον ὑμῖν ἐν ἀρχῇ τοῦ εὐαγγελίου ἔγραψεν;):ここで用いられている「福音」は「福音書」を指すものではなく、パウロが書簡において宣べ伝えた内容を意味している。「福音」が必ずしも「福音書」を指すわけではないことを示す用例の一つとして重要である。
第一クレメンス書においては、パウロ書簡が著者と読者の間で共有された権威的文書として前提されており、パウロの名は明示的に挙げられ、その書簡内容への直接的言及が確認される(47:1「使徒なる至福者パウロの手紙を取り上げよう」)。この点は、1世紀末の段階で Corpus Paulinum(パウロ書簡集成)が既に権威ある文書群として流布していたことを示す有力な証左である。
これに対して、福音書については、いずれの箇所においても著者名や書名が特定されることはなく、直接引用と断定し得る用例も認められない。むしろ、共観福音書と重なり合うイエス語録伝承が、独立した形で用いられていると理解する方が妥当である。したがって、第一クレメンスの成立時期の段階で、福音書がパウロ書簡と同様に権威ある「書」として定着していたとはいえない。
4. クレメンスの手紙二
本書はローマのクレメンスの名のもとに伝承されたが、すでに4世紀後半の
ヒエロニムス
は『著名人について(De viris illustribus)』15章において、本書がクレメンス真正作ではないことを明言している[19]。成立は2世紀中頃、場所はローマまたはコリントと推定される。文体・構成上、書簡というよりも説教(ホミリア)と理解されるのが通説であり、1875年に公刊された Codex Hierosolymitanus の研究以降、その見解は一層有力となった。
福音書との関連が観察される箇所
第二クレメンス書において注目されるのは、イエス語録の比較的明瞭な引用が複数箇所に見られる点である。特に重要なのは以下の箇所である。
・2クレメンス 5:2–4
// ルカ10:3(// マタイ10:16)
// ルカ12:4–5(// マタイ10:28)
・2クレメンス 6:1
// ルカ16:13(// マタイ6:24)
・2クレメンス 8:5
// ルカ16:10–11
これらの箇所と共観福音書、特にマタイおよびルカとの間には、比較的高い語彙的一致が認められる。さらに8:5では「主は福音において言う」という導入句が用いられているが、本書全体を総合的に考慮すれば、ここでの「福音」は特定の「福音書」を指すというより、「福音」(救済の宣言)という内容的概念を指すと理解するのが妥当であろう。
もっとも、これらの引用は共観福音書本文との相違も含んでおり、特定の正典福音書への直接的依存を確定することは困難である。可能性としては、
・共観福音書本文への直接依存
・共通する口承イエス伝承の利用
・文書化されたイエス語録集の利用
・口承伝承が徐々に固定化されつつある過程の反映
などが考えられる。2世紀中葉という成立時期を考慮すれば、マタイやルカの現物を通じて記憶された表現が用いられた可能性も十分に想定し得る。青野は、これらの引用の背後に「書かれた福音書」としての福音の存在を想定している[20]。
また、12:2の伝承は『トマスによる福音書』22章との並行が指摘されるなど、共観福音書に限定されない広範なイエス伝承の流通を示唆している。
「聖書」としてのイエス語録
第二クレメンス書の最大の特徴は、イエスの言葉を旧約と同様に正典的形式で引用している点にある。たとえば2:4では、「(別の)書はこう言っている」(γραφή λέγει)という旧約引用時と同様の導入句が用いられ、マルコ2:17(// マタイ9:13、ルカ5:32)系統の語録が引用されている。
ここで用いられている「γραφή」という語は、本来旧約聖書を指す用語である。しかし第二クレメンス書では、この語がイエスの言葉に適用されている。この事実は、2世紀前半の段階において、少なくともイエス語録が旧約と並ぶ権威的文書として理解され始めていたことを示唆する。
もっとも、この「γραφή」が特定の正典福音書を指すのか、それともより広義の「主の言葉の文書化された伝承」を意味するのかについては、なお慎重な検討を要する。
パウロ書簡との関連
第一クレメンス書が明確にパウロ書簡、とくにコリント書簡に依拠しているのに対し、第二クレメンス書では非常に弱い。明確な引用形式、たとえば「〜と書いてある」などの導入句は見られない。以上の理由はおそらく、本書が説教型ないし朗読型の文書であり、書面化されたイエス語録の朗読に徹する性質の書であるためと考えられる。
ヨハネ文書の不在
二クレメンス書には、ロゴス神学、真理の二元論的強調、光と闇の対比といったヨハネ的神学用語・思想構造はほとんど見られない。すなわち、ヨハネによる福音書やヨハネ書簡への明確な依存は確認されない。このことは、二クレメンス成立段階において、ヨハネ文書がなお限定的な受容段階にあった可能性を示唆する。
総括
以上を総合すると、第二クレメンス書の文献史的位置は次のように整理できる。
・イエスの言葉が明確に「聖書」として引用されている
・引用内容は共観福音書、とくにマタイ・ルカ系統に近い
・しかし特定の正典福音書への直接依存を断定することは困難
・パウロ書簡は思想的影響にとどまり、明示的引用はない
・ヨハネ文書の使用は認められない
これらは、第二クレメンス書が新約正典成立以前の過渡期に位置していることを示している。すなわち、イエスの言葉の権威化はすでに進行している一方で、「四福音書」という固定的かつ権威的集成はなお確立途上にあった段階である。
2世紀中葉のローマ周辺における福音書受容の実態を知る上で、本書はきわめて重要な証言資料である。
5. イグナティオスの手紙
本書簡群の成立事情は、書簡そのものが伝える状況から比較的明確に推定することができる。アンティオキアの司教であったイグナティオスは、ローマにおいて処刑されるため護送される途上で各地の教会と接触し、その過程で複数の書簡を執筆した。スミュルナ滞在中には、エフェソ、マグネシア、トラレス、ローマの各教会に宛てた書簡を書き、さらにトロアスに移動した後、フィラデルフィア、スミルナ、そして友人であるスミルナ司教ポリュカルポスに書簡を送っている。その後、ネアポリスおよびフィリピを経てローマへ到達し、コロッセウムにおいて殉教したと考えられている[21]。年代については、エウセビオス『教会史』III.36の証言に基づき、トラヤヌス帝の治世(98–117年)の出来事と理解することが学界の一般的なコンセンサスである。
新約文書との関連
イグナティオス書簡における旧約聖書の明確な引用は多くはなく、数例にとどまる。他方で、新約文書、とりわけパウロ書簡との思想的・語彙的近接性は顕著である。例えば、「エペソのキリスト者へ」5:2は第一コリント6:9などと並行関係が指摘され、「マグネシアのキリスト者へ」7:1はエフェソ4:3–6と類似した表現を含む。また、「エペソのキリスト者へ」10:3には第一・第二テモテ書簡との関連が想定される表現が見られる。さらに、ローマ、ガラテヤ、フィリピ、第一テサロニケなどのパウロ書簡とエコーする語彙や思想も散見される。ただし、これらの並行関係が直接的な文献依存によるものか、あるいはパウロ的伝承を共有する教会的伝統に基づくものかについては、慎重な判断が必要である。
福音書との関連については、特にマタイ福音書との並行がしばしば指摘される。例えば、「エペソのキリスト者へ」14:2はマタイ12:33と、「トラレスのキリスト者へ」11:1はマタイ15:13と内容的・語彙的に近接している。これらの点から、イグナティオスがマタイ福音書、あるいはそれと共通のイエス伝承を知っていた可能性は高いと考えられる。他方で、マルコ福音書およびルカ福音書の影響は比較的限定的であり、明確な依存関係を示す証拠は乏しい。
ヨハネ福音書との関係についても議論がある[22]。一般に、ヨハネ福音書への直接的依存を確定することは困難であると考えられているが、父と子の一致を強調する表現など、ヨハネ的神学と響き合う思想が見られることも指摘されている。例えば「マグネシアのキリスト者へ」7:1には、ヨハネ5:19、8:28、10:30などに見られる父子関係の思想との近接性が認められる。したがって、ヨハネ文書との関係については、直接的な文献依存というよりも、初期キリスト教に広く共有されていた神学的伝統の反映として理解するのが妥当であろう。
このように、イグナティオス書簡は初期キリスト教文献に関する広い知識を示しているが、特定の文書を明確に引用する例は多くない。むしろ、既存の使徒的伝承を前提としつつ、それを教会の一致と司教中心の教会秩序の擁護という文脈において再解釈している点に、本書簡群の特徴が認められる。
6. ポリュカルポスの手紙
本書は、スミルナの司教であったポリュカルポスがフィリピの教会に宛てて書いた書簡である。14:1によれば、この書簡はクレメンスによって運ばれたと伝えられている。内容は多様であり、一般的な倫理的勧告(2章)、家庭および教会生活に関する訓戒(4–6章)のほか、ドケティズム的傾向をもつ教師たちに対する批判、さらに長老ヴァレンスに対する批判(11章)などが含まれている。このような構成は、当時の教会共同体における倫理的秩序の維持と正統的教義の確保という二つの関心を反映している。
新約文書との関連
本書において旧約聖書は「聖なる文書」(12:1)として明確に言及されているが、新約文書については、旧約と同様の意味での権威的文書として直接言及されることはない。ただし、パウロ個人に対する言及が見られ(3:2; 11:3)、彼の模範が読者に提示されている点は注目される。
四福音書との関係については、特に
マタイに近い表現がいくつか認められる。例えば、2章にはマタイ5:3, 10および7:1–2に類似する言葉が見られ、また6:2にはマタイ6:12に近い表現が含まれている。しかし、これらがマタイ福音書本文への直接的依存によるものなのか、それとも当時広く共有されていたイエス伝承に由来するのかについては、確定的に判断することは困難である。
さらに、他の新約文書との関連として、第一ペトロ(1:3//1ペトロ1:8、2章//1ペトロ1:13, 21; 3:9)や、第一テモテ(4章//1テモテ6:7, 10)との類似も指摘されている。これらの箇所においても、逐語的引用というよりは、直接引用か、あるいは共通の伝承的言語の共有による一致である可能性が考えられる。
以上のように、本書は旧約聖書を明確な権威文書として位置づけつつも、新約文書についてはまだ固定された「正典」として引用しているわけではなく、むしろ使徒的伝承や倫理的教訓として受容している段階を反映していると理解することができる。これは、2世紀前半における新約文書受容の過渡的状況を示す資料として重要である。
7. ポリュカルポスの殉教
本書はその表題が示す通り、書簡形式で記された殉教記録であり、スミルナの教会から他地域の教会へ送られた書として構成されている。したがって、その成立年代は当然ながらポリュカルポスの殉教以後に位置づけられる。18:1において「ポリュカルポスの殉教の日を……記念することになる」と述べられていることから、本書は彼の死からそれほど隔たらない時期に執筆されたと推測される。
ポリュカルポスの殉教年については、研究者の間で見解が分かれている。一般的には155年または156年とする年代が広く受け入れられているが、Eusebius of Caesarea が『教会史』において本書を再録していること(IV.15)などを踏まえ、より遅い年代、すなわち167年あるいは177年頃とする説も提案されている[23]。なお、本書の終結部にあたる20–21章は、文体や内容の観点から後代の加筆とみなされることが多い。
新約文書との関連
本書はポリュカルポスの殉教の経緯を報告し、その出来事の神学的意義を示すことを主目的としているため、旧約聖書や新約文書からの明確な逐語引用は多くない。しかしながら、叙述の構成や表現には福音書、とりわけ受難物語との顕著な類似が認められる。
特に6–8章では、ポリュカルポスの受難がイエスの受難の模範に従うものとして描写されている。例えば、逮捕の場面における自発的な受容、迫害者に対する穏やかな態度、処刑に至る過程の叙述などにおいて、福音書におけるイエスの受難叙述と共通するモチーフが見出される。このような叙述構造は、殉教者の死をキリストの受難に参与する出来事として理解する初期キリスト教の神学的枠組みを反映するものであり、本書が福音書伝承の影響下に成立したことを示唆している。
もっとも、これらの一致は必ずしも特定の福音書本文への直接的依存を意味するものではなく、むしろ初期教会に広く共有されていた受難伝承の枠組みが反映されている可能性も考慮する必要がある。したがって、本書と福音書との関係は、逐語的引用よりも、叙述形式および神学的モチーフの共有という観点から理解するのが適切であろう。
8. パピアスの断片
2世紀前半、小アジアのフリギア地方ヒエラポリスの監督であったパピアスは、長老ヨハネに師事し、またポリュカルポスとも交流があったと伝えられている(エイレナイオス『異端反駁』V.33.4)。彼は130~140年頃に『主の言葉の説明』と題する五巻本の著作を執筆したとされるが(パピアス断片2:1; 11:1参照)、その原本は失われており、今日では他者の著作に引用された断片を通してのみ内容を知ることができる[24]。
新約文書との関連
パピアスは、マルコおよびマタイに関する伝承を伝えており、一般にそれぞれマルコ福音書とマタイ福音書の成立事情を示す証言と理解されている。
・2:15「長老(=ヨハネ)は次のように述べた。マルコはペテロの通訳者であり、主によって語られ、あるいは行われた事柄を、記憶した限り、順序立ててではないが正確に記した。」
・2:16「マタイはヘブライ語で(主の)言葉を集成し、各人がそれを能力に応じて解釈した。」
ヨハネ福音書については、第2断片および第13断片に関連する叙述が見られる。
・2:5–7「第一のヨハネは、ペテロ、ヤコブ、マタイおよび他の使徒たちと共に言及されており、それが福音書記者であることを十分に示している。他方のヨハネは……彼は長老と呼ばれる。」
・13:1「ヨハネ福音書は……パピアスが述べたように……ヨハネによって諸教会に明らかにされ、かつ与えられた。」
一方、ルカ福音書への明確な言及や引用は確認されないが、使徒言行録への言及は見られる。
・2:10「この点については、使徒言行録が報告している(=使徒言行録1:23–24)。」
これらの断片については、どの程度までパピアス自身の真筆と認め得るかという問題が残る。しかしながら、少なくともこれらの証言は、2世紀前半の小アジア南西部において四福音書が流通し、地域教会の中で用いられていた可能性を示唆するものと考えられる。
9. ディオグネートスへの手紙
本書は、ディオグネートスという人物宛に書かれた書簡の形式をとっている。11:1で執筆者は自らを「使徒たちの弟子」「異邦人の教師」としている。最後の2章(11-12章)は、用語、文体、内容の観点から、別人の手によるものと推定されている[25]。
成立年代については、本書に関する外証は見出されない。内証の点でも年代特定の材料は乏しく、一般には、2世紀終盤から3世紀初頭とする見方が妥当とされている[26]。
10. ヘルマスの牧者
本書は使徒教父の一人とされるヘルマスの著作で、エイレナイオス、テルトゥリアヌス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスなどの教父によって権威ある書として引用されている。またムラトリ正典目録も、本書が「つい最近、ローマ司教ピウスの時代にローマでヘルマスによって記された」と言及している。ローマ司教ピウスの在位は一般に140年頃〜155年頃 とされるため、多くの研究者は本書の成立を 2世紀中葉(140年頃) と考えている[27]。ただし本文の構造分析から、全体が一度に成立したのではなく複数段階で形成された可能性も指摘される。特に、五つの幻、十二の戒め、十の譬えという三部は成立時期が異なる可能性があり、110年頃〜140年頃 というやや広い年代を想定する説も有力である。
新約文書との関連
本書において、旧約聖書のように新約文書が明確な権威文書として引用されることはほとんどない。しかし、思想や表現には新約文書と共通する伝承が認められる。福音書と共通要素を持つイエスの語録の用例は多くはないし、明確な逐語的引用も見られない(第6の戒め4//マタイ7:16、第5の例え5.2//マタイ13:18、第5の例え6.3//ヨハネ10:18、第5の例え7.3//マタイ28:18、第9の例え20.1//マタイ13:22、第9の例え20.2//マタイ19:23など)。また幻視や象徴的存在などのモチーフは、黙示文学的伝統に属し、ヨハネ黙示録と形式的類似を示す。
以上のように、本書は新約文書を明確な正典として引用する段階には至っていない。しかし福音書伝承や書簡と多くの共通点をもち、新約正典が固定化される以前の教会における伝承受容の状況を示すと判断される。
2. 総合
2.1. 使徒教父文書の成立年代と四福音書受容のスペクトラム進行
本章では、使徒教父文書において四福音書およびイエス伝承がどのように受容されているのかを、引用形式・語彙的一致・構造的対応・共通伝承という観点から検討した。その結果、これらの文書群は、新約正典成立以前における福音書受容の過程を段階的に示す資料であることが明らかとなる。すなわち、使徒教父文書は、福音書が主の言葉の伝承として徐々に権威化していく過程を反映している。
まず、1世紀末に位置づけられる文書であるディダケー、第一クレメンスでは(成立年代特定の困難は上述の通りだが)、イエスの言葉伝承は確かに重要な権威として参照されているが、それが特定の「福音書」という書物として明確に意識されている形跡は乏しい。『ディダケー』において用いられるεὐαγγέλιονも、書名としての「福音書」ではなく、主によって伝えられた規範的教えの総体を意味する語として理解するのが妥当である。また第一クレメンス書では、イエス語録は引用されるものの、その多くは共観福音書本文とは逐語的に一致せず、独立した伝承形態を保持している。他方で、同書においてはパウロ書簡が明確な権威的文書として言及されており、1世紀末の段階では、パウロ書簡集成の方が福音書よりも先に文書的権威を確立しつつあった可能性が示唆される。
次に、2世紀初頭の文書であるイグナティオス書簡、ポリュカルポスの手紙においては、共観福音書、とりわけマタイ福音書に近い表現が散見されるようになる。もっとも、これらの用例も明確な逐語引用というよりは、教会内で共有されていたイエス伝承の反映と理解される場合が多い。すなわち、この段階では福音書本文が既に存在し流通していた可能性は高いものの、それが「権威ある書」として明示的に引用される段階にはまだ至っていない。
さらに、2世紀前半から中葉の文書である第二クレメンス書、パピアスの断片になると、状況はやや変化する。第二クレメンス書では、イエスの言葉が「γραφή(聖書)」という語を用いて引用される例が現れ、イエス語録が旧約聖書と類似した権威的形式で扱われていることが確認される。またパピアスの証言は、マルコおよびマタイの成立事情に関する伝承を伝えており、この時期までには福音書が特定の著者名と結びついた文書として認識され始めていた可能性を示している。
その後、2世紀中葉以降の文書の『ポリュカルポスの殉教』『ヘルマスの牧者』などでは、福音書の逐語的引用は依然として限定的であるものの、受難叙述や倫理的教訓の構造において福音書的枠組みが強く反映されている。すなわち、福音書伝承は教会的記憶の中に深く組み込まれ、殉教神学や倫理教訓の基盤として機能していることが確認される。
以上を総合すると、使徒教父文書における福音書受容は、次のような歴史的スペクトラムとして理解することができる。
1. 伝承段階(1世紀末)
イエスの言葉は権威を有するが、文書化された福音書への明確な依存は見られない。
2. 共有伝承段階(2世紀初頭)
共観福音書に近い語句や思想が広く共有されるが、直接引用は稀である。
3. 文書認識段階(2世紀前半)
福音書が特定の著者名と結びついた文書として認識され始める。
4. 権威化進行段階(2世紀中葉)
イエス語録が「聖書」と同様の形式で引用され、教会的権威を帯び始める。
このように、使徒教父文書は、四福音書が成立してから直ちに正典的権威を獲得したのではなく、イエス伝承の権威
→
文書化された伝承の共有
→
福音書文書の認識
→
正典的権威化という漸進的過程を経て受容されていったことを示している。
したがって、使徒教父文書は単に新約聖書成立後の周辺文献ではなく、むしろ福音書伝承が教会においてどのように理解され、使用され、権威化していったのかを示す中間的証言資料として重要な意味をもつ。四福音書が後に形成される新約正典の中心を占めるに至る過程を理解する上で、これらの文書群は不可欠の歴史的証拠である。
3. 使徒教父文書と四福音書受容の地域的相違
1 問題設定
初期キリスト教における福音書の受容は、単純に年代順に進行したのではなく、各地域の教会的・神学的状況に応じて多様な形で展開したと考えられる。すなわち福音書は、地域ごとの伝承状況の中で徐々に受容されていったのである。
本節では、これらの文書を成立地域と成立年代の観点から整理し、福音書伝承の受容がどのような地域的特徴を示しているかを検討する。
2 シリア圏における福音書受容
シリア地域に由来すると考えられる文書としては、主にディダケーと、イグナティオスの手紙が挙げられる。
ディダケーは一世紀末から二世紀初頭頃に成立したと考えられる教会規範文書であり、その倫理的教訓や教会秩序の規定には、特にマタイ福音書に類似する表現が多く見られる。例えば「主の祈り」や断食・施し・祈りに関する教えなどは、マタイ福音書六章の教訓と顕著な対応を示している。
同様に、イグナティオスの手紙にもマタイ福音書に近い語句や思想が見られる。さらに彼の書簡には、イエスの受肉や神性を強調する表現が現れ、これらはしばしばヨハネ福音書の神学と比較される。
このような資料から判断すると、シリア圏では比較的早い段階からマタイ福音書が広く用いられていた可能性が高い。マタイ福音書が律法解釈、倫理教訓、教会秩序などの要素を豊富に含んでいることは、ユダヤ的背景を強く保持するシリアの教会環境とよく適合していたと考えられる。
3 小アジアにおける福音書受容
小アジア地域では、福音書伝承の状況はより複雑である。この地域の主要資料としては、パピアスの断片およびポリュカルポスの手紙がある。
パピアスの断片は、後にカエサリアのエウセビオスによって引用されており、そこにはマルコ福音書およびマタイ福音書に関する有名な証言が含まれている。
この証言は、二世紀初頭の段階でマルコ福音書とマタイ福音書が明確に認識されていたことを示している。また、この地域は伝統的にヨハネ文書の成立地と関連づけられることが多く、ヨハネ福音書の伝承も比較的早くから存在していた可能性がある。
したがって、小アジア地域では複数の福音書伝承が並行して伝えられていたと考えられる。
4 ローマ教会における福音書受容
ローマの教会に関係する文書としては、第一クレメンス、第2クレメンス、
ヘルマスの牧者がある。
第一クレメンス書簡(紀元96年頃)は、旧約聖書やパウロ書簡を頻繁に引用しているが、四福音書からの明確な引用は確認されない。しかしながら、イエスの語録に類似する表現がいくつか見られることから、共観福音書に近い伝承が知られていた可能性は高い。
2世紀に入ると状況はやや変化する。第二クレメンスにはイエスの語録が「聖書(γραφή)」として引用される箇所があり、ここでは福音書的伝承がすでに権威ある言葉として扱われ始めていることが示唆される。
また『ヘルマスの牧者』には四福音書の明確な引用は見られないが、倫理教訓や悔い改めの主題には共観福音書と共通する伝承が反映されていると考えられる。
これらの資料から判断すると、ローマ教会では福音書文書の明確な引用は比較的遅れて現れる。むしろこの地域では、パウロ書簡が早くから権威ある文書として受容されていた可能性が指摘される。
5 地域的相違の意義
以上の資料を総合すると、初期教会における福音書受容には明確な地域差が存在していたことが明らかになる。
まず、シリア地域ではマタイ福音書が比較的早くから広く利用されていた可能性が高い。これに対し、小アジアではマルコ福音書やマタイ福音書、さらにヨハネ伝承など、複数の福音書伝統が並存していたと考えられる。一方、ローマではイエス伝承自体は知られていたものの、福音書文書の明確な引用は比較的遅れて現れる。
このような状況は、四福音書が最初から一つの固定されたコレクションとして存在していたわけではないことを示している。むしろ二世紀初頭までの教会では、福音書は地域ごとの伝承ネットワークの中で徐々に広がり、後に統合されていったと考えられる。
6 結論
使徒教父文書の証言を検討すると、福音書受容の過程は単純な年代的進展ではなく、地域的要因によって大きく影響されていたことが明らかになる。
シリア圏ではマタイ福音書が早期に受容され、小アジアでは複数の福音書伝承が並存し、ローマではイエス伝承が存在しながらも福音書文書の明確な引用は比較的遅れて現れる。このような地域的多様性は、福音書が二世紀後半に至ってようやく教会全体で共有される正典的コレクションへと発展していく過程を理解するうえで重要な手がかりとなる。
[1] Michael W Holmes, ed., The Apostolic Fathers: Greek Texts and
English Translations, 3rd ed. (Grand Rapids, MI: Baker Academic), 2007.
[2] 荒井献編, 『使徒教父文書』(講談社学芸文庫、東京: 講談社), 1998年.
[3] 荒井献編, 『使徒教父文書』, 9.
[4] Andreas Lindemann, and Henning Paulsen, eds. Die
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Griechisch-deutsche Parallelausgabe auf der Grundlage der Ausgaben von Franz
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[5] Holmes, The Apostolic Fathers, 337-338. 「紀元100年前後」。Lindemann, Die
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[7] Edouard Massaux, Influence de
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Bibliotheca Ephemeridum theologicarum Lovaniensium 75 (Leuven: Leuven
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John S. Kloppenborg, “The Use of the
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Huub van Sandt (Assen : Royal Van Gorcum, 2005) , 105-129. マタイがディダケーに依存しているという逆パターンの仮説を提唱する研究者は次のとおり。Alan J. P. Garrow, The Gospel
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Supplement Series 254, (London: T&T Clark International, 2004), 244-245. Garrowは、従来の後期成立説を否定し、マタイ福音書が『ディダケー』を主要な資料として直接利用したという「ディダケー依存説」を提唱している。
[8] Clayton N Jefford, “The Milieu of Matthew, the Didache, and
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[9] Van de Sandt, Huub, ed., Matthew
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[10] Holmes, The Apostolic Fathers, 338-339. 佐竹明「『十二使徒の教訓』解説」, 荒井献編, 『使徒教父文書』(講談社学芸文庫、東京: 講談社), 1998年), 456-457.
[11] 研究史については、次の論稿でまとめられている。澤村雅史「ディダケーにおける『福音』に関する予備的考察」『広島女学院大学人文学部紀要 2022』.
[12] Helmut Köster, Ancient
Christian Gospels: Their History and Development (Harrisburg, PA: Trinity
Press International, 1990), 16-17. ディダケー8:2のそれは書かれたドキュメントではないとし、11:3; 15:3は文書を指すとするが、マタイ福音書からの引用とすることについては消極的。
[13] クレメンスは『ストロマテイス』(Στρωματεῖς)II巻およびV巻において、「バルナバが言う(ὁ Βαρνάβας λέγει)」という形で本書を引用している。Stromata II.6, 15;
V.10. 英語翻訳は、"New Advent" (https://www.newadvent.org/fathers/)に拠った。
[14] タイセン, 『新約聖書』, 260.
[15] 青野太潮, 「新約聖書正典成立史」, 449-450.
[16] 「同じ治世の第十二年に、アネンクレトゥスがローマ教会の監督として十二年間その職にあった後、クレメンスがその後を継いだ。使徒パウロは、フィリピ人への手紙の中で、このクレメンスが自分の協力者であったことを伝えている。彼の言葉は次のとおりである。」
[17] Holmes, Apostolic Fathers, 34–35.
[18] Holmes, Apostolic Fathers, 36.
[19] "Secunda quae sub nomine eius fertur, ab omnibus repudiatur."(「彼の名で伝えられている第二の手紙は、すべての人によって退けられている」)
[20] 青野太潮「新約聖書正典成立史」, 449.
[21] Holmes, The Apostlic Fathers,
167.
[22] 青野太潮, 「新約聖書正典成立史」, 451.
[23] Lindemann / Paulsen, Die
Apostolischen Väter, 258.
[24] 佐竹明, 「『パピアスの断片』解説」, 476. 口伝への強い関心を示す点から、Lindemann と Paulsen は、おおよそ110年頃とする Körtner の説を紹介しているLindemann / Paulsen, Die Apostolischen Väter, 286.
[27] レベル, 『新約外典・使徒教父文書概説』, 352-353.
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