2026年1月10日土曜日

【小論】共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用――「聞く者」から「信じる者」への転換

共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用――「聞く者」から「信じる者」への転換


 ヨハネ福音書は、共観福音書に特徴的な例え話(παραβολή)、すなわち農業など日常的事象を素材とする比喩的教説を、基本的には採用していない。もっとも、比喩表現そのものが完全に排除されているわけではなく、ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)、8:12(世の光)、11:25(復活と命)に見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的・象徴的講話(παροιμία、10:6)を独自に導入している点は注目に値する。

 以上の不採用と導入は、共観福音書、特にマルコ4章に典型的に見られる「聞く者/悟る者」という例え話の受容構造からの意図的転換を示している。ヨハネにおいて一転して中心化されるのは、教えを「理解する」主体ではなく、イエスを「信じる」主体である。すなわち、例え話を通した段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。

 この神学的重点の移動は、「信じる/信じない」という二分法的構図として福音書全体に体系的に配置されている。ヨハネ1:12では、信じる者に「神の子となる権利」が与えられ、3:16–18では信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。3:36においては、信仰の有無が命の有無に直結することが明言される。さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」の神学も、理解よりも信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。6:29においては、「神の業」が明確に「遣わされた者を信じること」と定義される。これらは20:31――「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスを信じるためである」――において、福音書全体の目的として総括される。

 この信仰中心の構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群においても顕著である。サマリアの女(4:39–42)、生まれつきの盲人(9:35–38)、マルタの信仰告白(11:25–27)、そしてトマスの告白(20:24–29、とりわけ20:28「わたしの主、わたしの神」)は、いずれも理解の深化ではなく、イエスの人格的な出会いを経て、人格的応答としての信仰告白へと導かれる物語である。

 同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリア、トマスといった個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び合わせられている。

 以上を総合すると、ヨハネ福音書は、

・例え話(聞く/悟る)から、象徴的講話(信じる)へ

・弟子の無理解から、信じる/信じないの二分法へ

・集団への顕現から、個人への顕現へ

という一連の神学的再構成を行っていると言える。結果として、理解と無理解のモティーフは後景化され、信じることと信仰の決断そのものが、ヨハネ福音書全体を規定する原理として前景化されている。

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