2026年1月2日金曜日

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 マルコ4:33-34

説教や聖書注解をする人のための聖書注解

マルコ4:33-34

概要

 4:33-34は、例え話を基調とした4:1-34までのブロックにおける結語としての機能を持つ。イエスが例えを用いて人々に語ったこと、そして、弟子たちにはすべてを説明したことが述べられている。また、「ご自分の弟子たち」とあるので、「十二人」(4:10)のみならず、広く弟子たちにも説明が為されたことになる。これを読む我々読者は、この広い弟子たちの中に、自分を置いてこの箇所を味わうことが許されるだろう。


33節

  • 原文:Καὶ τοιαύταις πολλαῖς παραβολαῖς ἐλάλει αὐτοῖς τὸν λόγον καθὼς ἠδύναντο ἀκούειν·
  • 私訳:そして、このような多くの例えによって、彼らに言葉を語った、彼らが聞くことができる力に応じて。
  • 新共同訳:イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。

注解

  • 「聞く力に応じて」(καθὼς ἠδύναντο ἀκούειν)とは、直訳すれば「彼らが聞くことのできる力に応じて」という意味である。イエスは神の真理を一方的に押しつけるのではなく、聞き手の理解の度合いに合わせて語られた。そこには一種の謙遜の姿勢が見て取れる。そしてこの謙遜は、御子なる神――本来は無限の存在である方が、有限である人間の姿を取られた「受肉」の出来事に通じるものであろう。無限が有限に降りてくるという深い自己謙下の精神が、イエスの語り方そのものにも表れていると言える。
  • 4:10-12節では、聞く耳を持たない人たちには真理が隠され、聞こうとする耳を持つ人には真理が明らかにされる旨が述べられていた。端的に一言で言えば、聞く気があるかないか。聞く力、頭が良いか悪いか、ではない。その気があるのか、ないのか。それをイエスは求めている。聞いて理解する力、頭が悪いとしても、あなたが聞けるように、自分が話するから、ということが、「聞く力に応じて」という文言に滲み出ている。

黙想

 人は物事を“論理”によって理解しているように見えて、実際には“感情”や“感覚”によって理解していることが多い。たとえ筋道立てて説明され、内容としては納得できるものであっても、「言っていることは分かるけれど、どうも腑に落ちない」と感じることがある。一方で、論理をすべて把握していなくても、「なんとなく分かった」「ああ、そういうことか」と心が動く瞬間もある。
つまり、理解の中心には“腑に落ちる”という感覚的な納得がある。

 神の真理は特に、この性質が顕著である。神的な真理は、論理的整合性だけでは伝わりきらない部分が多い。「腑に落ちる」「目から鱗が落ちる」「豁然大悟」といった表現が示すように、体験や気づきを通して、感覚的に悟られるものだからである。

 こうした“腑に落ちる”理解は、しばしば比喩によって引き起こされる。日常生活の出来事に置き換えられた例え話を聞いたとき、突然「ああ、そういうことか」と理解が開ける経験がそれである。

 イエスが語りの中で意識的に比喩を用いたのは、まさにこの“腑に落ちる”体験を聞き手にもたらすためであったと言える。

34節

  • 原文:χωρὶς δὲ παραβολῆς οὐκ ἐλάλει αὐτοῖς, κατ’ ἰδίαν δὲ τοῖς ἰδίοις μαθηταῖς ἐπέλυεν πάντα.
  • 私訳:例えなしに彼は彼らに話すことはなかったが、自分の弟子たちには、個人的にすべてを説明した。
  • 新共同訳:たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

  • τοιαύταις πολλαῖς παραβολαῖς:女性・与格・複数。手段の与格。「そのように多くの例えによって」という意味。
  • 現代で言えば YouTube の発信者のスタイルに近い。すなわち、一般向けにはキャッチーな言葉や分かりやすい話題で関心を引きつけ、ある程度まで内容を提示する。しかし、その中でさらに深く学びたい、もっと詳しく知りたいという人がいれば、「専用サロンで一から十まで丁寧に話し、双方向のやり取りをする」という形をとる。この比喩における「サロン」に相当するのが、当時の弟子たちの集団である。イエスは群衆には例えを用いて語り、弟子たちにはその奥義を直接解き明かしたという構造が、まさにこの関係性を示している。
  • 「たとえを用いずに語ることはなかったが」:ἐλάλει(語る)の未完了過去・能動動詞。この未完了は、いわゆる「継続的過去」。よって、「語り続けていた」というニュアンスを持つ。一般の人々であれ、弟子たちであれ、一回や二回語ったところで、理解へと至らせることは難しい。継続的に、かつ回を重ねて、ようやく神の真理というものは、人に伝わる。

黙想

 一般の生活においても、一度の説明で理解が完成することはほとんどない。山本五十六が述べたように、「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ。話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。」

 この言葉が示す通り、人は繰り返し教えられ、段階を踏んで導かれることで初めて理解し、行動へと至る。同じように、神の真理も一度聞いただけで悟られるものではない。だからこそイエスは、ἐλάλει の未完了形が示すように、継続して語り続けられたのである。イエスでさえも、そのようにする必要があったし、実際、そのようにされた。ここに、イエスの身をかがめて教えようとする、謙遜の姿がある。


説教の結びの言葉として

 主イエスは、人々の「聞く力に応じて」語られました。それは、真理を押しつけるためではなく、私たちが受け取れるだけの形で、私たちの高さにまで身をかがめてくださるためでした。無限の神が、有限の私たちの理解に合わせてくださる――そこに、受肉の謙遜と同じ深い愛が流れています。

 そしてイエスは、一度だけ語って終わりにされませんでした。未完了形で記されるように、「語り続けて」くださったのです。弟子たちがすぐに理解できなかったように、私たちもまた、一度聞いただけでは分からない者です。けれど主は、その弱さを責めるのではなく、何度でも、繰り返し、私たちの歩幅に合わせて語り続けてくださるお方です。

 山本五十六が言ったように、「やってみせ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」。人は繰り返し導かれて初めて理解し、育っていきます。主イエスはまさにそのように、私たちを育ててくださる教師であり、牧者であり、救い主です。

 ですから私たちは、今日この御言葉の前に立つとき、「聞く力が足りない」と嘆く必要はありません。主は、私たちが聞けるように、分かるように、心に届くように、今日も語り続けてくださるからです。

 大切なのは、ただ一つ。聞く気があるかどうか。聞こうとする心を差し出すこと。  その小さな願いに応じて、主は私たちの中に真理を育て、悟りを与え、実を結ばせてくださいます。


 どうか私たちが、主の語りかけに耳を開き、「聞く気のある者」として歩むことができますように。そして、主が今日も語り続けてくださる恵みに、心から感謝を捧げる者でありますように。アーメン。


 学術的ノート

4:33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。

  • 元来の例え話集の結句とする説:川島貞雄『マルコによる福音書』、104-105。
4:34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

  • 譬え話論と弟子たちに対する説明の付加を考慮して、マルコが付加したとする説。非マルコ的な用語として、「用いずに」choris、「ご自分の弟子たち」hoi idioi mathetai、「説明する」epilyeimを含むが、これらはマルコ以前の伝承にも見られないことを考慮すべき。田川建三『マルコ福音書』、336-337頁。

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