2025年10月9日木曜日

論文 「パウロの全体教会政治学」

 「パウロの全体教会政治学」


 序 「全体教会政治学」とは

 「教会政治学」とは通例、教会の統治や運営方法、または統治が為される組織の構造に関する学を指す用語である。そして、その統治形態として長老制や監督制、会衆制などが挙げられ、それぞれの教会政治の仕組みが他の教会政治と比較されながら議論されるといった形が多い。また、国家という既存の支配体制、そしてそれが行う政治の状況にあって、教会政治がいかに行われてきたのかを考察する学として、教会政治学が位置づけられているのが通例だ。

 しかし本稿では、単に「パウロの教会政治学」とはせず、「全体教会政治学」とした。この名称は二重の意味合いを含む。まず一つ、例えば一方で異邦人教会、他方でエルサレム教会という、両者統治形態も文化も神学も異なる教会群を包括する全体を一つの教会として捉え、一つの全体教会としての統合を企図したグランド構想が、パウロの全体教会観には観察される。さらに、例えば異邦人教会とエルサレム教会との関係について、分裂しかねない両者の関係性を維持するために採用された経済支援策といった、パウロの政治的手法が観察される。ここには、「政治」という語が持つニュアンスの一つ、すなわち指導的存在が統治する対象全体に施す施策という意味が含まれている。そしてもう一つ、一方の果てはスペイン宣教に象徴される異邦人宣教、もう一方の果てはエルサレム教会を足がかりにしてのユダヤ人伝道という、パウロが抱いていた壮大な宣教・伝道の全体構想には、当時の文化やローマ皇帝による政治を見据えつつ、その支配の影響圏にある政治的状況・社会環境にこれを最適化させようという戦略性が認められる。こうした国家の権力作用の影響範囲においては、国家の利害と福音の原理が衝突することは必然である。こうした軋轢を未然に調整しようという意味での政治という意味もまた、「全体教会政治学」に含まれる。こうした理由から上記の二つを総合し、本稿のタイトルを「パウロの全体教会政治学」とした。

 

 1. 初めから共同体として存在していた「家」の教会

 教会の草創期からして既に、教会は複数名の者たちによって共同で信仰生活が営まれていた。これこそ教会の原初の姿であるという認識を、ルカも述べている(使徒2:46「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし……」)。パウロがフィレモン個人に宛てた書簡を見ても、彼が「家」の教会に連なっていたことは明らかだ(フィレ1:1-2「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」)。教会史においては、例えばアントニオスによって個別修道制が考案されたが、彼は終生弟子たちの指導に努めて105歳を生き切った、とアタナシオスは伝えている(Vita S. Antoni『アントニオスの生涯』)。厳格な個別修道制でさえ、共同性は決して失われていなかったのだ。マタイがイエスの言葉として語っている通り、信仰生活とは一人で営むものではなく、共同で営むものであり、その中にキリストが立つものとして認識されていたのである(マタイ18:20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」)。

 そうした複数名の弟子たちによってコミュニティが形成されて営まれ、礼拝も捧げられていた。但しその場所は、建築物としての教会でも礼拝堂でもない。初期のキリスト教会は、古代時代に現れるカテドラル(司教座聖堂)のような巨大な専用建築物を持たず、有力な信徒たちの「家」において、礼拝、祈り、聖餐式の原型的な儀式、会議など、教会として機能するための必要な営みを為していたというのが定説である。また、そうした「家の教会」の多くは、フィオレンツァが指摘しているように、女性が指導的役割を担っていたことも興味深い(「クロエの家の人たち」(一コリ一・一一)、「ニンファと彼女の家にある教会」(コロ四・一五))。


 2. 初期段階から地域教会として存在していた教会

 教会の最初期時代に誕生した最初にして単一の教会共同体は、やがてその規模を大きくしていく。単一の家の教会は、「家」という建築上の制限、すなわち収容人員の制限を伴う。よって、信徒の数が増すにつれ、当該地域に複数の家の教会が形成されていくことは必然である。例えばローマの教会は、パウロがスペイン伝道の橋頭堡にしようと考えていたことから推測して、それを実現するに足る規模、人員、そして経済力を有していたことになる。この点の他、巨大な都市人口を誇るローマという地理的要因を考慮しても、ローマの教会がたった一つの「家の教会」であったとは考えにくい。現にローマの信徒への手紙16章を見ても、プリスカとアキラ、そしてその家に集まる信徒たちに挨拶した後、彼らと並ぶような関係者の名前を次々と挙げ、それぞれの家の指導者に挨拶をしていっている。つまり、「家の教会」が複数あったということだ。その数はパウロによる他の真正書簡における言及数と比しても相当多く、さすがはローマといった感がある。まとめると、地域に誕生した単一の教会は、やがて地域に複数の教会を展開することになり、それらはネットワークを保ちつつ、「地域教会」として存在していった。


 3. 地域教会から複数地域間教会へ

 「家の教会」が単一教会より始まり、その地域での伝道活動の種蒔きが実りを結び、やがて地域に複数の家の教会を展開するようになった。そうして成立した地域教会共同体は、遠隔地に出向いての宣教活動によってその地に単一教会を生み出し、その単一教会がまた増加しつつ各個教会同士でネットワークが構築され、同地で地域教会を形成していった。こうした連鎖反応が地域から地域へと及び、初期キリスト教会はその勢力を拡大していった。そして、複数の地域教会同士が互いに繋がり合うことにより、そこに「複数地域間教会」というインターリージョナルな大ネットワークが誕生する。

 こうした複数地域間教会の具体的モデルとして、ヨハネ系統のそれを挙げ得る。ヨハネ黙示録は、「アジア州にある七つの教会」(黙1:4)、つまり広域地域に含まれる複数の地域教会へ送られたものであり、各地域における基幹的な教会を拠点に、さらに周辺の各個教会へと回覧されたものと推定される。本書が複数地域を含む広域地域レベルで共有されていたことは、「七つの教会」において広大なネットワークが構築されていたことの証左である。そこでは、共通のヨハネ系統の神学や福音理解が共有されていたということになる。

 複数地域間教会が生まれていくムーブメントは、パウロおいてはさらに明瞭に認められる。パウロの最初の伝道旅行は、バルナバと共にアンティオキア教会によって派遣される形で着手された。ルカの証言によれば、その二人に対し礼拝時に聖霊によって神意が示された後、教会に祈られ、手を置かれ、そうして任職されて出発したという(使徒13:1-3)。第二次宣教旅行もまた、使徒言行録の記述ではパウロの発案という形にはなっているものの(使徒15:36以下)、アンティオキア教会の同意と協力があったことは、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて」(使徒15:40)という記述から明らかだ。パウロが従事した宣教・伝道は、決してパウロの独壇場ではなかったのである。

 当初、第二次宣教旅行の目的は、第一次宣教旅行の際に建てられた諸教会の様子を見るためのものであった(使徒15:36)。第一次の際に形成された諸教会の相互で自発的に連携がとられていたかどうかまでは定かではないが、他の教会の営為を別の地域の教会でも称賛するのが常であったパウロの行動から推察して、”彼を介して”それらの教会が繋がりを保っていた可能性は高い。少なくとも、パウロを仲介しつつアンティオキア教会をセンター教会として、ある程度の教会間ネットワークが構築されていたことは間違いない。

 第二次伝道旅行においてパウロは、既に創設されたデルベ、リストラを訪問し、その過程でテモテもメンバーに加えられた。ところが、当初の計画と想定外の事態が生じた。著名な「聖霊による禁止」である。これによりに宣教旅行は変更を余儀なくされ、ガラテヤ、フリギアを経由して、マケドニア州に到達することになった。そうして、第二次並びに第三次宣教旅行が、キリキア、ガラテヤ、フリギア、マケドニア、アカイアという、長径千キロは越えるであろう楕円形の領域で展開されることになったのだ。各地域では、創設された単一教会を拠点に伝道が為され、周辺に複数の教会が誕生して地域教会が形成され、これが別の地域でも生じることにより、各地域に地域教会が複数形成されるに至った。その後、各地の教会、地域教会は、後述するように互いに情報共有や支援を交わし合うことにより、複数の地域教会同士が連携し合うようになっていく。複数地域間教会という、インターリージョナルな教会の成立である。

 ここまでの結論として、表題の通り、教会はその初期時代より複数地域間教会として存在していた。情報共有があれば、そこには互いの状況を思い巡らしての祈りが生まれる。祈りはまた、愛に根ざす行動を生み出す。実際、祈りと献金を中心にしての愛の働きがもたらされた。


 4. 地域教会・複数地域間教会のネットワーク化

 これまで、単一教会から地域教会、そして複数地域間教会へという拡大のプロセスを見てきた。この実現には、既に幾度か本稿に現れているキーワードである「ネットワーク化」が必須である。本パートでは、パウロがいかなる方法によって地域教会並びに複数地域間教会の実質化を推し進め、教会間のネットワーク化が形作られていったのかについて、パウロの全体教会政治的な戦術も含めて述べたい。焦点は主に以下の三つに絞られる。1、訪問・派遣と書簡を通じての指導と助言。2、励ましと祈りを通しての教会間の結束強化。3、献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築。


 4.1. 訪問・派遣と書簡を通じての指導

 4.1.1. 自らの訪問と弟子の派遣による指導

 パウロが自ら現地の教会に出向き、顔と顔とを合わせての指導に努めていたことは、先に述べたところの第二次宣教旅行における当初の目的からも明らかである(使徒言行録一五・三六)。自らが赴くことができない場合には、彼は弟子たちを地域教会に派遣した。実例としてはテモテ(一コリ四・一七、一テサ三・二、フィリ二・一九)、テトス(フィリ二・二二、テト一・五)が挙げられる。パウロが派遣するのとは逆に、教会側がパウロに助け手を派遣し、その人をまた返すというケースもある(エパフロディト、フィリ二・二五以下)。以上、訪問と派遣による指導が、人を仲介としての人と教会、並びに教会間、地域教会間のネットーワーク化に寄与したことは確かである。


 4.1.2. 書簡を通しての共通福音理解の指導

 次は書簡を通じての指導である。ローマ、コリント、ガラテヤ、フィリピなど、パウロが複数の地域教会に書簡を送り、福音理解、生活上の指導、勧告、励ましを行なったことは、パウロ書簡が一様に物語っていることである。一般に書簡とは、特定の個人または集団に対して、特定の事情を背景に特定の目的をもって書き送られるものである。しかし、回覧されるスタイルの書簡となると事情は違ってくる。例えばフィレモン書のようにフィレモン個人とその関係者、さらにフィレモンが所属する家の教会にも宛てて書かれた書簡もそうなるが、ある地域教会に送られた書簡がその地域に点在する各個教会にも回覧されていたであろうことは、かねてより有力な説として知られている。古くはシカゴ学派の新約聖書学者であるジョン・ノックスにより”Philemon Among the Letters of Paul”において、フィレモン書がフィレモン個人にのみ宛てたものではなく、彼の家の教会で読まれ、複数の教会で回覧されることを前提に執筆されたものであることが提唱された。パウロの真正七書簡には含まれない「偽名書簡」になるものの、コロサイの信徒への手紙にはオネシモに言及されている点から、諸説あるがフィレモン書とコロサイの教会との関係性が示唆されている。加えて、コロサイ四・一六には「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」と記されている。したがって、少なくともパウロの書簡が模倣されるようになった時期には、パウロ書簡が複数教会で回覧されるようになっていたことは確実であり、上述のパウロ真正書簡のフィレモン書から推測しても、おそらくはパウロの時代から書簡の回覧が行われ始め、パウロもまたある程度それを前提に手紙をしたためたということになる。ということは、書簡を通じての指示や指導によって、複数の教会に共通の指示、あるいは共通の福音理解を根付かせようという全体教会政治的戦術が認められることになる。そう考えると、パウロがガラテヤやテサロニケの教会、コリントの教会に対して、時に懇切丁寧に、時に手厳しく福音理解の修正を指導したのも、教会間で共通の福音理解が保持されるようにとの意図から執られた行動であるとの洞察が導かれる。


 4.1.3. ロマ書における全体教会政治の戦略性

 パウロのこのような戦略に基づく行動は、彼の管轄下にある教会だけに留まらない。その代表例が、既に2Aで触れているところのローマの教会である。ローマ一五・二二に「イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います……イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」と書かれている通り、パウロはローマをスペイン宣教の足がかりとしたいと考えていた。察するに彼は、ガラテヤやコリントの教会における福音理解の齟齬という苦い経験から、それまでの書簡における福音に関する論述を綜合させ、一つの書でもって福音の全容を提示しようと企図したのであろう。従来の書簡の中でも最大規模にして、なおかつ最も内容的に整備された大書簡を完成させた。それこそ、ローマの信徒への手紙である。その論述は深遠ではあるものの、順序立てて整然と整えられたその様は、さながら「福音入門書」である。この「入門書」という体裁こそ、個別の教会への指導における各個教会という限定範囲を越えた、地域教会レベル、複数地域間教会レベルでの共通の福音理解を目指す戦略性の表れであろう。


 4.2. 励ましと祈りを通しての教会間の結束強化

 パウロは自らの訪問、弟子の派遣によって、あるいは書簡によって、他の教会の情報を別の教会へと知らせ、教会の信仰と愛の業に関する情報共有を行なった。例えば、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」(一テサ一・六-八)とあるように、テサロニケの教会の奮闘がパウロを介して諸教会に知らされることにより、祈りと励まし、信仰と愛と希望(一テサ一・三)とによる教会間の結束が強化された。


 4.3. 支援や献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築

 フィリピの教会は、パウロの宣教活動を支援することを介して結果的に諸教会を支援した(フィリピ四・一五-一六「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会……テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして……」)。エフェソの教会は、同地におけるパウロの二年以上に及ぶ長期滞在活動を支援した(使徒一九・一以下)。ガラテヤの教会もまた、パウロが病を患っていた時、彼を手厚く看病した(ガラテヤ四・一三-一四)。これらの地域教会は、パウロの活動を支えることを通じて持てる力を他の教会に捧げ、教会相互の愛の交わりに自身を置いていたのだ。教会のこうした支援を書簡の中で言及することによって、各個教会、地域教会、複数地域間教会の全てを一つの教会として繋げようとするパウロの全体教会構想と、それを達成するための全体教会政治的戦略を読み取ることができる。

 地域教会や複数地域間教会が他系統の地域教会を献金によって支えようとする実例は、何と言ってもエルサレム教会支援プロジェクトであろう。パウロはマケドニア州やアカイア州の地域教会群に働きかけ、エルサレム教会のための献金を実に積極的に促した(二コリ八・一以下「自分から進んで聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」、ローマ一五・二六-二七「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」)。このプロジェクトについてパウロは、「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ一五・二七)と述べてはいるものの、この理由だけに留まるものではあるまい。パウロの全体教会のグランド構想において、エルサレム教会は決して欠くことのできないものであり、それゆえに、無理にでも異邦人教会とエルサレム教会との関係性を維持しようと努めたのだろう。このテーマについては、後述の5Aで個別に扱うものとする。


 5. エルサレム教会

 パウロがエルサレム教会のために、広域の複数地域間教会に献金を呼びかけたことは彼の書簡が物語るところである。その目的として当然、災害や飢饉、あるいは恒常的な貧困といった困難の渦中に、エルサレム教会がおかれていたからであろう。ただ、それだけでもないように思われる。先ほど引用したロマ書の箇所には、エルサレム教会が霊的なものをもたらし、異邦人教会が肉のものをもって応えるという主旨の文言が綴られていた。ここから察するに、彼はエルサレム教会を全教会の霊的なルーツ、歴史的なレガシーとして、なくてはならないものと見なしていたという見方が導かれる。

 それでいて、ファリサイ派のエリートであったあのパウロが、紙数に限りがあるため詳述は避けるが、おそらくは今後の異邦人宣教・伝道を熟慮してのことにしても、その大きな障害となると予測される割礼を、異邦人の律法遵守事項から外したことは衝撃だ。その着想には、非ユダヤ人にとどまりながらもユダヤ教信仰を持つ、通称「神を恐れるものたち」、ゴッドフィアラーの現状を見ての経験則と、割礼が今後の異邦人宣教にとって大きな障害となるだろうとの予測が影響した可能性がある。律法の最重要事項にしてユダヤ人のアイデンティティであり気高き誇りである割礼を、メンバーシップ必要要件から除外するなど、私でさえ信じがたい大ナタ捌き、入会規定に関する神学上のコペルニクス的転回である。なおかつエルサレム教会に乗り込み、いわゆる「エルサレム会議」で合意を取りつけようなど、無謀にも程がある。それでも彼は、その場で合意をもぎ取ったのも驚きだ。その会議の際にも多額の献金をエルサレム会議の議員たちの目の前に積み上げ、政治的豪腕でもって交渉を成功させたのではあるまいか、とさえ下衆の勘ぐりをしてしまう。さすがにそれはないとしても、異邦人伝道というビジョンを抱き、これほどまでの信仰的・神学的豹変ぶり、そしてその大胆な行動、政治的駆け引きには、尋常ならざるものがある。

 こうしたパウロの一連の言動が、彼の全体教会のグランドビジョンに起因するというのが私のテーゼである。エルサレム教会の少なくとも一部からは、強烈に嫌われもし、反対もされもし、嫌がらせまで受けもしていたパウロであれば、早々にエルサレム教会に見切りをつけてもいいはずである。にもかかわらず、彼はエルサレム教会と是が非でも関係を維持しようと粉骨砕身し、文字通り複数の州を股にかけて東奔西走して支援プロジェクトを達成しようとしたのだ。 

 特筆すべきは、彼の奔走と祈りは、エルサレム教会というユダヤ人キリスト教徒のみに向けられてはいないという点である。ロマ書の九-一一章において、パウロは長々と非キリスト教徒のユダヤ人の救済を論じているし、終生、ユダヤ教徒の救済を諦めることはなかった。パウロの全体構想において、ユダヤ人の救済もまた欠かすことのできないものであったのだ。推測の域を出ないが、異邦人伝道の橋頭堡にローマの教会を選んだように、ユダヤ人伝道のために、ユダヤ人には定評のあったエルサレム教会を足がかりとしようと企図していたのではないか。これを失えば、元よりユダヤ人から迫害を受けていたパウロは、ユダヤ人伝道の取っ掛かりを完全に失うことになる。よって、ユダヤ人キリスト教徒との一体のためにも、そしてユダヤ人伝道の展開のためにも、エルサレム教会は彼にとって必要不可欠なものだった可能性がある。とすると、パウロの全体教会のグランド構想は、異邦人を果てしなく教会に抱き込み、かつ、全イスラエル(ユダヤ教シナゴーグ)を包含するものである。発想の実像としては、ユダヤ教から完全分離して独自存在となったキリスト教が、ユダヤ教に伝道のモーションをかけていくという一般的構図よりも、むしろユダヤ教の正統後継者となるべきユダヤ教の亜種であった教会が、旧来のユダヤ教をも巻き込むことで、イスラエル全体の刷新が図られるというものだ。この構想は、自らの教会こそイスラエルの真の正統継承者という自己理解を持つマタイと似ている。尤もマタイは、パウロの時代よりもユダヤ教からのキリスト教会の分離が進行した時代にあったし、パウロ系とは若干の距離を置いているようにも見えるが。

 もう一つ、彼のグランド構想で特筆すべき点は、既にエルサレム会議に持ちかけた彼の提案に示されているように、入会必要要件として、一方で異邦人は割礼なしとし、他方でユダヤ人の割礼文化は否定せず、というダブルスタンダードを導入していることだ。ダブルスタンダードが、律法に関する彼の神学と馴染んでいるとは思えない。その理由は、双方の文化上の特性を考慮し、グランド全体教会の中で双方の住み分けを保とうという全体教会政治的判断があるからではないか。住み分けの乱立はカオスを招来するから、住み分けに伴うダブルスタンダードの背後には、グランド全体教会を貫く公同的な基準を必要とする。

 以上が、「パウロの全体教会政治学」という主題に関する私のテーゼである。この5章については詳細を書き切れず、私としても論述の組み立て途上にあるが、この視点をもって改めてパウロの宣教・伝道活動の意図を再構築する学問的余地はあるように思える。


【新約聖書学関連】

論文

「パウロの全体教会政治学」(2024年)


『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」



史的イエス研究史        

マタイ福音書緒論        マタイ福音書神学           

イスカリオテのユダとは何者か(大学講義レジュメ)

【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

猫にもわかる「マタイ福音書」入門


『教会学校教案』の元原稿の改訂版

創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


ガラテヤの信徒への手紙        

ヘロデ派    マグダラのマリア    

エルンスト・ケーゼマン        ゲツセマネ(ゲッセマネ)        ゴルゴタ       

サドカイ派    サマリア人        


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 今回取り上げている福音書の場面は、イエスのエルサレム入城の際に多くの人々が迎え出て歓呼の声を上げたという出来事です。四つの福音書すべてにおいて記されている共通のエピソードの数は限られていますが、今回の記事はそうした数少ない中の1つです(マタイ21・1-11、マルコ11・1-11、ルカ19・28-40、ヨハネ12・12-19)。また、今日の教会では、復活祭の1週前、エルサレム入城の出来事を記念する礼拝が行われるのが通例です(多くのプロテスタント教会では「棕櫚の主日」、教派によって「枝の主日」「受難の主日」「聖枝祭」と呼ばれています)。


 ガリラヤからついにエルサレムへ

 ガリラヤを中心に、時には周辺の異邦人世界にまで足を延ばして活動されたイエスと弟子たちは、ついに十字架と復活の場所となるエルサレム入りを果たします。互いに共通している点が多いために”共観福音書”と呼ばれているマタイ、マルコ、ルカにおいては、イエスの活動はガリラヤから始まってエルサレムに至るという流れになっていて、エルサレム入りする回数は1回限りです。ところがヨハネにおいては、イエスがエルサレムに上って行ったことが3回記されています(ヨハネ2・13、5・1、11・55)。多くの研究者は、イエスは実際には数回に渡ってエルサレムへと赴いたであろうと考え、ヨハネの記述の方が史実を反映していると見なしています。マタイとルカはマルコを参考にしてそれぞれ自分の福音書を執筆したというのが定説ですから、ガリラヤからエルサレムへの1回限りの旅程はマルコに由来するということになりますが、その動機については様々に議論されています。筆者自身は、エルサレムへと至る道、すなわち受難死へと繋がる道をイエスが決意をもって歩んでいったことを劇的に描き出すために、マルコがそのような物語構成にしたのではないかと考えています。


 真の王として即位したイエス

 物語の進行順に従って見ていくと、まず、マタイ、マルコ、ルカが、「オリーブ山」のふもとにある「ベトファゲとベタニア」に一行が差し掛かった時のことを述べています(マタイ21・1-6、マルコ11・1-6、ルカ19・28-34)。その後の展開である「子ロバ」のエピソードに目が行きがちですが、オリーブ山からエルサレムへと近づいていく行程は重要です。その理由は、旧約時代、エルサレムで即位する新王は、オリーブ山からキドロンの谷を下ってギホンの泉で王となる油注ぎを受けて、そこからまた上ってエルサレムへ入っていったからです(参照、列王記上1・28-40)。

 エルサレム入城には、かつてのダビデを想起させるような戦勝後の凱旋をイメージすることが多いでしょうし、実際、このエピソードはエルサレムへの勝利の入城とも呼び習わされています。これと共に、この物語のルーツとして考えられるもう一つの主題が、王の即位です。イエスは即位した王としてエルサレム入りを果たされたということが、エルサレム入城の物語に被せられていると思われます。


 「子ろば」の意味

 マタイ、マルコ、ルカは一致して、「二人の弟子」がイエスによって派遣され、「ろば」を連れて来るよう命じられたことを記しています。「子ろば」についても一致しており、ゼカリヤ書9・9の記述が意識されています。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」


 「子ろば」には預言の成就も意図されていますが、やって来る新しき「王」が「高ぶる」ことのない柔和な方であることも暗示されています。他方、マルコとルカには「だれも乗ったことのない(子ろば)」、「なぜ、そんなことをするのか」(マルコ)、「なぜほどくのか」(ルカ)等の言葉が含まれていますが、自分が主張したい以外の事は物語からカットする傾向のあるマタイでは省かれ、その代わりに、マルコとルカが書いていない預言の言葉を明記しています(ヨハネ12・15でも引用されています)。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(マタイ21・4)

この言葉は基本的には先ほどのゼカリヤ書9・9の引用ですが、イザヤ62・11等と混合されて内容が改変されています。さらにマタイは、ゼカリヤ書の引用に符合するように、「雌ろば」を登場させています(マタイ21・7)。こうした旧約聖書における預言との一致を強調する点は、マタイに見られる顕著な特徴です。

 また、「荷を負うろばの子」という表現に、勇壮な軍馬が象徴する戦いや勝利ではなく、平和のイメージを感じ取ることが出来ます。戦いでの勝利の凱旋と聞くと、凱旋門を思い起こすのではないでしょうか。著名な凱旋門の1つ、パリのエトワール凱旋門は、ナポレオン・ボナパルトの命により建築されましたが、彼が生きてその門をくぐることはありませんでした。それが実現したのは、彼の死後、パリに移葬された時でした。ナポレオンとは対照的に、イエスは勇猛と勝利に代えて、平和を実現する柔和な王であることが示されています。

 エルサレム入城の際、イエスを迎えた多くの人々が採った行動は、各福音書で小さな相違はあるものの、概ね一致しています。すなわち、「自分の服を道に敷き」(マタイ、マルコ、ルカ)、「枝を切って道に敷き」(マタイ、マルコ)、人々は「ダビデの子にホサナ」(マタイ)、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マルコ)と叫びました。人々が棕櫚の葉を振っているイメージは、ヨハネ12・13における「なつめやしの枝を持って迎えに出た」という言葉に由来しています。


 ヨハネとルカの独自部分

 ヨハネの後半部分では、後に弟子たちがエルサレム入城をゼカリヤ書9・9の預言の成就として悟ったという事後談が付記され、群衆が参集した理由がラザロの甦りと結び付けられて説明されています(ヨハネ12・16-19)。この箇所には、「栄光」「しるし」「証し」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。同時に、この箇所には、「栄光」 「証し」「しるし」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。ヨハネ福音書の読者に復活の出来事を改めて想起させることで、イエスが復活の力を持つ、神と等しい方として入城を果たしたことを「証し」しているのでしょう。

 ルカにのみ見られる記述が、「お弟子たちを叱ってください」というファリサイ派からの要求に対してイエスが返答した「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」という言葉と(ルカ19・39-40)、エルサレム神殿崩壊預言です(ルカ19・41-44)。前者は、主を褒めたたえる声を誰も封じることはできないということです。後者は、紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事を指しています。当時、イエスを王として迎えて歓喜に沸いた美しき都エルサレムが、40年後には破壊の限りを尽くされたことを思うたびに、運命の悲哀を感じてやみません。


 絵画紹介

 今回紹介する一枚は、19世紀のフランスの画家ジャン=イッポリ・フランドラン(1809ー64)による『エルサレム入城』(1842年)です。彼はフランスの新古典主義の継承者であるジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの弟子で、彼自身も新古典主義の道を踏襲しています。フランドリンは肖像画や宗教画を多く手掛け、アングルが裸婦像を多く描いたのとは対照的に、男性の裸体画を好む傾向があります。

 『エルサレム入城』を一見して驚くのは、とても19世紀の絵画とは思えないことです。平面的な構図とフレスコ画のような配色、そして真横からのイエスの描画が特徴的で、まるでゴシック時代の絵画を見ているかのようです。“新古典主義”の彼はルネサンスやバロック風の宗教画も描いているので、ゴシック画を意識していることは明らかで、また、イエスの真横からのアングルは、彼の手による男性の裸体画や肖像画にも見られる手法です。静謐で一見単調な絵の中には、ひざまづく者、手を合わせて祈りの姿勢を取る者、乳児を高く挙げる者といった歓迎する人々が画面の右側に展開している一方で、左側のやや暗い空間は、いぶかしげな表情で隣の人に意思表示する者や硬い表情を浮かべている人等、歓迎ムードとは程遠い様相を呈しています。これぞまさに、イエスを囲む人々の“群像”と言えます。


『エルサレム入城』1842年 ヒポリット・フランドリン Entry into Jerusalem, Hippolyte Flandrin

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第4回「五千人の供食」

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第4回「五千人の供食」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 はじめに

 今回の場面は、主イエスを通して備えられたパンによって、数千人が恵みに満ち足りたという供食の奇跡物語です。ここで描き出されている“群像”は、この大いなる出来事を目撃した弟子たち、群衆、そして、ヨハネ福音書だけが記している「五つのパンと二匹の魚を持つ少年」です。四福音書のすべてが書き留めているエピソードは大変限られているのですが、これはその一つです(マタイ14・13-21、マルコ6・30-44、ルカ9・10-17、ヨハネ6・1-14)。


 定説では、マルコ福音書が一番先に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にして自分たちの福音書を執筆したとされています。マルコは一行が船に乗ってやって来た場所を「人里離れた所」と記し(マルコ6・32)、マタイもそれを踏襲して「(イエスは)人里離れた所に退かれた」と述べています(マタイ14・13)。マルコとマタイが書き留めた「人里離れた所」と訳されている語はとても滋味豊かな苦みのある言葉で、元の原語は「荒れ野」です。そう、かつてモーセが神からの召命を受けた場所であり(出エジプト記3・1)、モーセに率いられたイスラエルの民が神から与えられたマナを口に含んだ地であり(出エジプト記16・1)、主イエスの到来を叫ぶ洗礼者ヨハネの声が響き渡った所、それが「荒れ野」に他なりません。荒れ野は人が生きることを拒む場所ですが、同時に、神がご自身と恵みを示される聖なる所でもあります。

 今、読者の皆さんが立たされている場所は、人生の「荒れ野」であるかも知れません。それが、生きる力を根こそぎ奪い取るものであることに変わりはありませんが、しかし、その荒れ野こそはまた、神からのマナ、そして、キリストからのパンと魚を味わい知る所に他ならないと、聖書はあなたにささやいています。

 殺到する群衆としばし距離を取るために「退いた」と明記しているのがマタイとルカです。そんな一行を群衆がなおも追ってきた事実について、四福音書は口をそろえて証言しています。殺到する群衆は確かに危険な凶器とさえなり得ますが、我が身を振り返るならば、助けを一途に求めるゆえの彼らの必死な行動を責めることはできません。ヨハネはそうした事情について「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と説明しています(ヨハネ6・2)。

 渇き切った大地にうるおいをもたらす清水のような一言を、マルコとマタイが書き残しています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を“深く憐れみ”、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)。「深く憐れみ」と訳されている語は、我が身をふるわすような激情の湧きいずる場所と考えられていた内臓に由来します。五臓六腑で感じるほどの「飼い主のいない羊」に対する愛情のほとばしりは、今回の大いなる奇跡の源泉にほかなりません。実に神の愛は、不可能を可能にします。


 状況を冷静に見ていた弟子たちはイエスに、群衆が各自で食料を調達できるよう彼らをすぐに解散させることを提案します。ところがイエスは、何のためらいもなく弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物(原語では「パン」)を与えなさい」と言い放ちました(マタイ14・16、マルコ6・37、ルカ9・13)。弟子たちは人の世界を見ていましたが、イエスは神の世界を見ていたのです。マタイだけが述べている「行かせることはない(直訳では、「彼らが立ち去る必要はない」)」というイエスの片言隻句には、身も心もしびれてしまいます。信仰が現実の壁を跳躍していくような突き抜けた世界が示されているからです。

  これと対照的なのが、なお目に見える現実に縛られ続ける弟子たちの言葉です。「わたしたちには、パン五つと、魚二匹しかありません」(ルカ9・13)。私たちの普段の営みの中で、これと同じ次元の言葉を、いったい何千回唱えていることでしょうか。確かに、「男が五千人」(マルコ6・44)とあっては、そんなものなど「何の役にも」(ヨハネ6・9)立ちません。けれども、イエスはわずかなパンを手にしつつ「天を仰いで」「賛美の祈り」(マタイ、マルコ、ルカ)または「感謝の祈り」(ヨハネ)をささげました。ここでも、イエスの眼差しは天という神の世界に注がれています。

 四福音書間で細かい記述の違いはあるものの、「パン屑」が最初にあったパンの量よりも遙かに多くなっていること、しかも「十二の籠(十二使徒の「十二」と合致)」という点で一致しています。加えて、パンと魚がどのようにして増えたのかについても、四福音書は口を閉ざしています。なぜ何も語らないのでしょう。誰もが抱くこの不可思議について、一言だけ述べておきます。パンに象徴される“必要”が満たされる方法は色々あります。方法が奇跡的かどうかは大した問題ではありません。何であれ必要が満たされたという事実と、そのことを感謝することこそ肝要です。


 供食の奇跡が二つあるマタイとマルコ

 マタイとマルコには、この供食の奇跡物語とよく似た記事がもう一つ書かれています(マタイ15・32-39、マルコ8・1-10)。前者の「五千人の供食」に対して、後者は「四千人の供食」と呼ばれることもあります(ただし、これらの数字は男性だけの数ですので適切な言い方ではありません)。マルコを参考にして書いたマタイは、それほど気にすることなくマルコが書いている通りを踏襲したように見えます。一方、ルカはマルコにおける2回の供食を不要と思ったのか、1回に省略しています。何よりマルコの個性が際立っていて、8・1の「また」という言葉添えの他(「また」同じ状況なのに弟子たちは同じ失敗を繰り返す)、詳述は紙幅の関係でできませんが、弟子たちが何度奇跡を目の当たりにしても、いくらイエスから特別な教えを受けても、少しも向上のきざしさえ見られないという、弟子の無理解があらわにされています。その意図については無数の学説が出されていて未だ決着はついていません。ただ言えることは、人知を越える大きな奇跡を見たところで信仰の足しには必ずしもならない、ということです。海が割れるところやマナの奇跡を体験したイスラエルの民もそうでした。よって、信仰的な体験がないことを恥じる必要なまったくありません。恥じるべきは、信じて一歩を踏み出すことをためらうことです。


 ヨハネ福音書における少年の存在

 ヨハネの方に含まれているたった1節の言葉が、このパンと魚の奇跡を不動の物語として確立させたと言っても過言ではありません。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、何の役に立たないでしょう」(ヨハネ6・9)。アンデレに「役に立たない」とバッサリ評されながらも、恐らくは持てるものすべてをイエスに差し出した少年の行動。後代のキリスト者たちは、この小さき少年の決意に、信仰者として踏み出すべき無限に大きな一歩を見て取りました。自分がどれだけ持っているかというメンツなど捨ててしまいましょう。大切なことは、持っているものをすべて、主なる神にささげられるかどうかです。


 ー 絵画紹介 ー

 今回ご紹介する絵画は、ティツィアーノやヴェロネーゼと共にヴェネチア派を代表するイタリアの画家ティントレットの『パンと魚の奇跡』(1545-50年)です。供食の奇跡物語を題材とした絵画は、聖母子像やキリストの十字架、あるいは聖人たちを主題としたものと比べると、かなり数は限られています。しかし、例えばイエスが行った種々の癒しの奇跡物語やカナの婚礼などといった福音書でお馴染みのエピソードの一つとして描かれることは、古代教会時代からたびたびありました。例として、イタリアのラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂にあるモザイク画(6世紀後半)や中世時代の修道院の壁画、近代では、ルネサンス期のオランダの画家ランバート・ロンバード、そして、彼の孫弟子であるブルーマールトの作品を挙げることができます。

 ティントレットは、少なくとも1545-50年と1580年頃に、同じ主題で二枚描いています。いずれの絵にも、パンと魚をイエスにささげた少年の姿が描き込まれています。現実に捕らわれてイエスに抗弁する弟子の姿も見られます。これらがどんなメッセージを持っているか、改めてここで語るまでもないでしょう。

2025年10月8日水曜日

【旧約聖書学関連】

ミカ書        バルク書    


ルツ記緒論  





ルツ記緒論

ルツ記緒論


 概要

 旧約聖書の〈諸書〉に分類される書の一つ。士師時代のベツレヘムの一家族に光を当てた物語。ルツ記は一見すると一家族の小さな物語であり、信仰者の側面を映し出してはいるものの、神や天使、預言者が現れるわけではなく、あくまで信仰者の物語である。それ故に、旧約を正典化する際に、ルツ記を聖書に含めるか議論されたという。しかし、一つの家族の信仰の物語、しかも元々モアブという異邦人であるルツがダビデの血筋へと繋がっていくという点で普遍性を保持していることが理由になり、最終的に正典に組み入れられた。

 ルツ記は、十二小預言書を除いて、最も短い書でもある。



 ストーリー

 一家の主人のエリメレクは飢饉のため、異教の地であるモアブに移住するが、2人の息子を残して死ぬ。彼らはモアブの女と結婚するが、彼らも子をもうけぬまま世を去る。エリメレクの妻ナオミはベツレヘムに帰る決意する。息子の嫁の一人であるルツは、ナオミからモアブでの再婚の承認を与えられながらも、イスラエルの神の信仰と習慣を受け入れる決心を抱いてナオミと共にベツレヘムへ赴く。

 ルツがエリメレクの有力な親戚であるボアズの畑で落ち穂を拾っていたところ、それがボアズの目に留まる。貧しい者が刈り入れの際の落ち穂を拾うことは認められていたことだが、彼女のナオミへの献身的姿勢を伺い知ったボアズは、ルツに厚意を示す。その後ナオミは、ボアズが親戚であり、同時にエリメレクの家系と不動産を絶やさぬ法的な能力と責任を持つ人物であることを悟り、ルツにボアズの床に入るよう勧める。夜半にルツの訪問を受けたボアズもまた一連の事情を悟り、自分以上に先の法的責任が優先される親戚と交渉する約束をし、ルツをそのまま帰宅させる。

 翌日、ボアズは長老会の場で当の親戚と交渉し、ルツを嫁に迎えること、そしてエリメレク家が所有していた土地を買い戻す法的権利を得る。こうしてルツはボアズと結婚し、子を授かり、やがてその血筋はダビデへと至ることになった。ルツはダビデの曾祖母に当たる(ボアズ→オベド→エッサイ→ダビデ)。



 レビラート婚

 ある夫が死亡し寡婦を残し、かつその寡婦が子を持たない場合、その一族の血筋を存続させ、一族から不動産を初めとした財産の流出を避けるため、夫の兄弟がその寡婦を妻に迎えることをレビラート婚と言う。ユダヤ民族他、他民族や他部族との婚姻が推奨されていない強固な民族的結びつきを持つ世界各地の民族において、同様の慣習が見られる。

 参照、申命記25章5-10節

「5兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、6彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。7もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」8町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、9義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。10彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。」



 成立時期

 1,ベツレヘムを「ユダのベツレヘム」と称する表現、また言語上の共通から判断して、『ルツ記』は『士師記』とほぼ同時代に成立したと考える説。

 2,ペルシャによるバビロン補囚からの解放後、エズラは非ユダヤ人との婚姻の解消を命じる政策を採った。一方で、本書においては異邦人との婚姻が好意的に描かれており、これがエズラに対し非ユダヤ人との婚姻を容認する立場を表していると仮定すると、本書はペルシャ時代に書かれたとも考えられる。


説教や聖書研究をする人のための聖書注解 ヨハネ15:26-27

ヨハネ15:26-27


 注解

 26節

新共同訳「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

Ὅταν ἔλθῃ ὁ Παράκλητος, ὃν ἐγὼ πέμψω ὑμῖν παρὰ τοῦ Πατρός, τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείας, ὃ παρὰ τοῦ Πατρὸς ἐκπορεύεται, ἐκεῖνος μαρτυρήσει περὶ ἐμοῦ.


「弁護者」:「Παράκλητος」(パラクレートス)。「傍に」「呼ぶ」という語が組み合わさったもの。傍に呼ばれる存在、ということで、「弁護者」「助け主」「慰め主」などと訳される。ヨハネ福音書の文脈では聖霊を指す。父なる神からキリストを通して信徒に派遣され、信徒の神理解を深め、真理を人々に「証し」して悟らせる存在。


「父のもとから出る真理の霊」:「真理の霊」は、聖霊についての別の呼び方。この箇所以外の用例については下記の通り。

14:17「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

16:13「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」


 聖霊の父からの発出という教義ーフィリオクエ問題

「父のもとから出る」:聖霊の起源が父なる神にあることが強調され、ニカイア・コンスタンティノポリス信条においては、聖霊が父から発出することが明記された。

6世紀、スペインのトレド公会議において、従来の文言である「父から」(qui ex Patre)に加えて、「子からも」(Filioque)語が西方教会で付加され始め、9世紀のカール大帝時代にはこのバージョンが西方で広く使われるようになった。1054年における東西教会分裂(Great Schism)は、西方側のこの追加が一因となった。


「その方がわたしについて証をなさる」:証するの原語は、μαρτυρέωで、証言するの意。ヨハネ福音書の神学を象徴する用語の一つ。イエスの神性や使命を人々に証言するという意味で使用され、その語の主語は、洗礼者ヨハネ(1:7)、イエス自身(5:31-32)、聖霊(15:26)、弟子たち(15:27)があり、イエスの十字架や復活の目撃者もまた、証をする主体とされている(19:35)。

 つまり、聖霊がイエスを人に証をすることで真理へと導かれ、聖霊の働きにより人はイエスを証する主体ともなる、ということである。



 27節

新共同訳「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

καὶ ὑμεῖς δὲ μαρτυρεῖτε, ὅτι ἀπ’ ἀρχῆς μετ’ ἐμοῦ ἐστε.


「あなたがたも……証しをする」:弟子たちもイエスの生涯と教えの目撃者であり、聖霊の働きによって、聖霊と共に証人とされていく。

「初めからわたしと一緒にいた」:弟子たちがイエスの公生涯の最初期から同行し、イエスの活動を体験してきたことを指す。彼らの経験、目撃体験は、「証」の真実性を裏打ちする。