「猫にもわかるマルコ福音書」
緒論
マルコ1:1
「猫にもわかる四福音書」
(元原稿『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」)
第4回「」
【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?
「猫にもわかるマルコ福音書」
緒論
マルコ1:1
「猫にもわかる四福音書」
(元原稿『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」)
第4回「」
【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?
1970年代にエジプトのミニヤー県で発見された、通称「チャコス写本」(言語はコプト語)に含まれる福音書で、グノーシス主義的キリスト教の一派により書かれた文書。グノーシス主義的な関心に基づき、イエスを裏切り死へと引き渡したユダの所業が、イエスにより高く評価されているという、正統的な新約文書とは真逆の内容を含む。この内容と相俟って、2006年に一般公開されたことで一時話題となった。
1.「チャコス写本」に含まれる四文書
1.『フィリポに送ったペトロの手紙』 ナグ・ハマディ文書のものとほぼ同じ内容
2.『ヤコブ』 ナグ・ハマディ文書の『ヤコブの黙示録』とほぼ同じ内容
3.『ユダの福音書』
4.『アロゲネース』
*いずれも、グノーシス主義の影響を受けた文書で、チャコス写本もまた、グノーシス主義的キリスト教の一派により生み出されたもの。
2.グノーシス主義的思想に基づいて書かれた『ユダの福音書』
要点:肉体=悪、霊=善。”肉体は魂の牢獄”、”死は肉体からの解放”
至高神の他に、創造神デミウルゴス(グノーシス主義にとっては悪神)が存在する。デミウルゴスは人間を創造し、この人間に「ソフィア(知恵)」を通じて至高神より「霊」を与えられたが、「肉体」はこの「霊」を閉じ込める、「肉体の牢獄」である。それ故、「肉体」から「霊」を解放することが人間の救済となる。
この観点に基づき、イエスを裏切ったユダの所業が、イエスにより高い評価を受けている。なぜなら、ユダはイエスを死に引き渡すことにより、彼の魂を肉体の牢獄から解放することになるからである。
3.“反”異端文書における『ユダの福音書』に関する証言
3.1.リヨンの司教エイレナイオス『不当にもそう呼ばれている「グノーシス」の罪状立証とその反駁』(通称『異端駁論』)による証言
「さらに他の人々が言っている、カインは上なる権威から来たのだと。・・・そして、このことを裏切り者ユダもよく知っていた。そして(他の弟子たちの中で)彼のみが真理を知っていたので、裏切りの秘儀を為し遂げた。彼によって天上のものと地上のものが解消されたのである、と言われる。彼らはこの種の虚構を作り上げて、それを『ユダの福音書』と呼んでいる。」(1.31.1)
*エイレナイオスが言及している『ユダの福音書』と、発見された『ユダの福音書』との間には相違点もあり、必ずしも同一文書とは限らないが、文書名が逐語的に一致していることと共通点を考慮すれば、両書は同じ書である可能性が高い。
3.2.「カイン派」に関する証言
エイレナイオス証言に言及し、そのグノーシス主義的キリスト教異端セクトを「カイン派」(グノーシス派の一派)と呼ぶ、反異端論者は以下の通り。
テオドレトス『異端者たちの作り話要綱』(1.15)、偽テルトゥリアヌス『全異端反駁』(2.5-6)、エピファニオス『薬籠』(38.1.15)。
4.成立年代
先のエイレナイオス証言を含む『異端駁論』の成立年代が180年頃であるから、これが成立年代の下限となる。他方、『ユダの福音書』は『使徒言行録』の補欠選挙の記事(1:15-26)を知っているから、『使徒言行録』の成立年代である90年代が上限となる。
また、チャコス写本の成立年代に関しては、放射性炭素年代測定によれば、280年プラス・マイナス60年と推定される。この年代は、コプト語の書体や装丁等の年代と概ね一致する。
5.発見、公開に至るまでの経緯
1970年代 エジプト中部ミニヤー県にて、『ユダ福音書』(または『ユダの福音書』)を含む写本が発見される。恐らく盗掘による。
1980年 カイロの古美術商に売却されるが、盗難により紛失。
1982年 カイロの古美術商、ジュネーブにて写本を取り返す。
1983年 カイロの古美術商、大学研究者に300万ドルでの売却を持ちかける。交渉は決裂。
1984年 カイロの古美術商、写本をニューヨークのシティバンク貸金庫に16年間に渡り保管し、写本は劣化。
1999年 古美術商フリーダー・チャコス、カイロの古美術商より300万ドルで写本を購入。エール大学に調査を依頼。『ユダ福音書』と判明。
2000年 アメリカの古美術商ブルース・フェリーニ、写本を購入。一部を売却。残りを冷凍保存。
2001年 フェリーニ、代金支払いができず、チャコスに返却。チャコスにより、マエケナス古美術財団(スイス)に引き渡される。
2006年4月 ナショナルジオグラフィック協会の援助によりコプト語本文と英訳、インターネットで公開。その後公刊。
2006年6月 公刊本の邦訳『原典 ユダ福音書』(R. カッセル、M. マイヤー、G. ウルスト、B. D. アーマン編著)、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年)発刊。
参考文献
『原典 ユダ福音書』(R. カッセル、M. マイヤー、G. ウルスト、B. D. アーマン編著)、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年。
荒井献『ユダとは誰か——原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』(講談社学術文庫)、講談社、2015年。
【要約】
信仰告白とも。元来は古代教会の洗礼式を座として形成。讃美頌栄的な言葉が特色。公会議にて信条をもって教理が制定された。使徒信条、原ニカイア信条(325)ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニカイア信条、381)、カルケドン信条(451)が著名。
本文
信仰告白は元来、古代教会の洗礼式をSitz im Lebenとして形成、制定されたもので、讃美頌栄的な言葉をその特色としている。第一コリント15:3以下等、既に聖書の中に信仰告白的な伝承が存在しており、その多くは洗礼式と結合している。1世紀から2世紀にかけての使徒教父や、2世紀から3世紀の弁証家であるヒッポリュトス、テルトゥリアヌスらの文書中にも、信条の形成の萌芽を確認することが出来る。313年のミラノ勅令によるキリスト教公認以後、教会内部において幾つもの教理論争が生じ、そうした内部での混乱を収拾すべく開催された公会議において、信条が制定されていった。
その最初の公会議と信条は、325年に開催されたニカイア公会議と原ニカエア信条である。御子を御父よりも劣る存在とし(異なった存在:ヘテロウシオス)、御子の被造性と、御子が存在しなかった原初の時があったとするアレイオス派の主張は、当時の教会全体を大きな混乱に陥れたが、本公会議において正統派の教理が認められ、御子と御父の同質性(ホモウシオス)を宣言する条項が盛り込まれた原ニカイア信条が採択された。またこの会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席している。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条
いわゆる「ニカイア信条」と呼ばれるニカイア・コンスタンティノポリス信条は、一般には381年のコンスタンティノポリス公会議において成立したとされているが、実際にはそれ以前の年代である4世紀中葉から後半には原型が完成していたと推測される。4世紀のキリスト教会全体に混乱を生じさせたアレイオス論争を終結させるため、皇帝テオドシウス1世により招集された。本信条は、三一論定式が明確に定められ、御父と御子の同質性と本質、聖霊の発出に関する条項を内包する。なお、聖霊の発出に関するFilioqueの挿入については、これを認めない東方教会との間で長らく対立が生じたことで知られている。
451年のカルケドン公会議において制定されたカルケドン信条では、キリスト論に関する教理的問題の解決が図られた。キリストの神性と人性との関係が「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」という否定表現によって明記されている。その背景には、単性論主張者と、神性と人性の明確な区分を説いた(と見なされた)ネストリウスの主張を退ける目的があった。
【キリスト教史解説】第1ニカイア公会議 原ニカイア信条
1 第1ニカイア公会議
【要約】
325年ニカイアにて開催されたキリスト教会初の公会議。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世により招集。アレイオス派の従属的キリスト論を退け、父なる神と子なる神(キリスト)の同質性、子なる神の非被造物性を盛り込んだ原ニカイア信条を採択。
【本文】
・小アジアのニカイア(現トルコ領イズニク)にて開催
・カトリックにおける第1回公会議
公認後、最初の公会議
・ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集
・伝承によれば318名、現実にはおそらく250名ほどの司教が参加
・この会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席。
・アレイオス派の<御子の御父に対する従属説>が台頭
・御子と御父は対等だとするアタナシオス派が反論展開
・1「父と子のホモウーシオス」
2「御子は被造物ではなく永遠の昔から存在」
以上をパレスティナ洗礼信条に盛り込み、
「原ニカイア信条」を採択
・アレイオス派の異端認定、追放が決議
・その他の決議事項
復活祭日の算定基準
20条の教会規定の取り決め
ローマ司教と総大司教の管区分割および設定
ローマ司教の他総大司教区に対する監督的役割
2 原ニカイア信条
まとめ
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集による公認後最初の公会議である第一ニカイア公会議(325年)で採択された信条。アレイオス派の御子・従属説を退けて、御子と御父との同質性(ホモウシオス)、非被造物性と「永遠の昔」からの存在が承認された。
ーーー解説テキストーーー
第1ニカイア公会議(325 CE)、原ニカイア信条
第1ニカイア公会議
【要約】
325年ニカイアにて開催されたキリスト教会初の公会議。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世により招集。アレイオス派の従属的キリスト論を退け、父と子の同質性、子の非被造物性を盛り込んだ原ニカイア信条を採択。
【本文】
小アジアのニカイア(現トルコ領イズニク)にて開催された公会議。キリスト教公認後最初の公会議でもある。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集。伝承によれば318名、実際には250名ほどの司教が参加。
アレイオス派における御子の父に対する従属的理解を巡る論争を受けて、「父と子のホモウーシオス」「御子は被造物ではなく永遠の昔から存在」という主張をパレスティナ洗礼信条に盛り込んだ原ニカイア信条を採択。アレイオス派の追放が決議された。
御子を御父よりも劣る存在とし(異なった存在:ヘテロウシオス)、御子の被造性と、御子が存在しなかった原初の時があったとするアレイオス派の主張は、当時の教会全体を大きな混乱に陥れた。本公会議において正統派の教理が認められ、御子と御父の同質性(ホモウシオス)を宣言する条項が盛り込まれた原ニカイア信条が採択された。またこの会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席している。
他、復活祭日の算定基準、および20条の教会規定の取り決めが為され、ローマ司教と総大司教の管区分割および設定、ローマ司教の他総大司教区に対する監督的役割も決められた。
原ニカイア信条 325年
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集による公認後最初の公会議である第一ニカイア公会議(325年)で採択された信条。アレイオス派の御子・従属説を退けて、御子と御父との同質性(ホモウシオス)、非被造物性と「永遠の昔」からの存在が承認された。
原ニカイア信条の本文
われらは信ず。唯一の神、全能の父、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。われらは信ず。唯一の主、イエス・キリストを。主は神の御子、御父よりただ独り生まれ、すなわち御父の本質より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質なる御方を。その主によって万物、すなわち天にあるもの地にあるものは成れり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために降り、肉をとり、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ねる者とを審くために来り給う。われらは信ず。聖霊を。
御子が存在しなかったときがあったとか、御子は生まれる前には存在しなかったとか、存在しないものから造られたとか、他の実体または本質から造られたものであるとか、もしくは造られた者であるとか、神の御子は変化し異質になりうる者であると主張するものを、公同かつ使徒的な教会は呪うものである。
Πιστεύομεν εις ΄ενα Θεον Πατερα παντοκράτορα, πάντων ορατων τε και αοράτων ποιητήν.
Πιστεύομεν εισ ΄ενα κύριον `Ιησουν Χριστον, τον υ΄ιον του θεου, γεννηζέντα εκ του πατρος μονογενη, τουτέστιν εκ της ουσίας του πατρός, θεον εκ θεου αληθινου, γεννηθέντα, ου ποιηθέντα, ΄ομοούσιον τωι πατρί δι οϋ τα πάντα εγένετο, τα τε εν τωι ουρανωι και τα επι της γης τον δι ΄ημας τους ανθρώπους και δα την ΄ημετέραν σωτηρίαν κατελθόντα και σαρκωθέντα και ενανθρωπήσαντα, παθόντα, και αναστάντα τηι τριτηι ΄ημέραι, και ανελθοντα εις τους οθρανούς, και ερχόμενον κριναι ζωντασ και νεκρούς.
Και εις το ΄Αγιον Πνευμα.
Τους δε λέγοντας, ΄οτι ΄ην ποτε ΄ότε οθκ ΄ην, και πριν γεννηθηναι ουκ ΄ην, και ΄οτι εξ ΄ετερας ΄υποστάσεως η ουσιας φάσκοντας ειναι, [η κτιστόν,] τρεπτον η αλλοιωτον τον υ΄ιον του θεου, [τούτους] αναθεματίζει ΄η καθολικη [και αποστολικη] εκκλησία.
関連事項
第2ニカイア公会議(787年)
大学講義用動画
「宗教学」 2021年度秋学期 第14回
<再生リスト>
「新宗教・新興宗教」
https://www.youtube.com/playlist?list=PL_EWMPQGAoVSRBehjZKZPUKG7Ea9AhKd0
ーーーレジュメーーー
オウム真理教
麻原彰晃(本名:松本智津夫、1955-2018(63歳)、配偶者:松本知子)を教祖として発足した新興宗教団体(新宗教)。
麻原彰晃
1955年、熊本県八代に生まれる。視覚障害のため、小学1年より熊本県立盲学校に転校し、20歳まで過ごす。エリートを志し、熊本大学医学部や東京大学を受験したが失敗。
卒業後、1978年に千葉県船橋市にて鍼灸院と薬局を開業。この頃より、東洋医学に関する学習を進めると共に、ヨガの修行を開始する。宗教教団GLA(1969年開祖、高橋信次)の高橋信次の著作を愛読する。1980年、阿含宗(1978年、開祖:桐山靖雄)に入信し、3年間修行を積む。同年、保険料不正請求発覚。1982年、薬事法違反で逮捕される。
1983年、東洋医学とヨガを組み合わせた能力開発の塾を渋谷に開業。「麻原彰晃」と名乗り始める。1984年、同塾を、ヒンドゥ教で創造や破壊を意味する「オウム」を採り入れた「オウムの会」と改称し、ヨガ道場に変更する。
1985年、空中浮遊の成功を主張したことがメディアで取り上げられる。1985年にオカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載された文章によれば、2006年に核戦争が起こり、日本に死の灰が降ると予言されている。「神仙の民」と呼ばれる者だけが生き残り、超能力者たちの王国「シャンバラ」が築かれるという。
1986年、麻原彰晃、最初の著作『超能力「秘密の開発法」—すべてがおもいのままになる!』を公刊。1987年、三冊目の著作『イニシエーション』が公刊され、師(グル)である麻原彰晃への徹底的な帰依の必要性が説かれるようになる。
1987年、「オウム真理教」へ名称変更され、全財産を教団にお布施しての出家制度が開始される。同年、日本をシャンバラ化する「シャンバラ化計画」発表、主要都市に支部、道場を開設が目標とされた。
1988年、静岡県富士宮市に「富士山総本部道場」が開設される。
1988年9月、「極限の集中修行」において信徒の一人が死亡したが公表せずに遺体を処分。1989年2月、脱会を申し出た信徒を殺害する事件が起こる(発覚まで非公表)。
出家制度や激しい修行が話題となり、社会との摩擦も表面化する。1989年11月、オウム真理教の社会問題に関わる坂本弁護士一家が殺害され、遺体が山中に埋められる。
1989年8月、日本の支配を目指して「真理党」が結成され、衆議院選挙に麻原含む25名が立候補、全員落選。このことを契機として、麻原は国家陰謀論を繰り返し主張し始める。
1990年3月、ボツリヌス菌と風船爆弾を開発開始。その他の化学兵器の研究も行う。1993年、マシンガンの密造に着手。亀戸の道場で炭疽菌を培養。異臭騒ぎが起こる。1993年4月、サリンの開発に着手、8月に生成実験成功。山梨県上九一色村の第7サティアンにプラントを建築する計画が立てられる。1994年、省庁制導入、憲法「真理国基本律」考案。
1995年元旦、サリンの残留物が検出されたことが報じられ、計画を一時中止。1995年3月20日、警察の強制捜査 及び、公証役場の仮谷清志事務長拉致事件の捜査を攪乱するため、霞ヶ関の地下鉄を中心に各所でサリンを散布、「地下鉄サリン事件」が起こる。死者11人、重軽傷者約5500人。
3月22日、警察による強制捜査、麻原氏の身柄拘束。同年5月16日、逮捕。
1995年12月、宗教法人解散命令。1997年1月、破壊活動防止法適用。
2018年7月6日、松本智津夫含む7人の死刑囚に死刑執行
ーーーレジュメーーー
【新宗教・新興宗教解説】辯天宗 ー智弁学園の母体
1 基本データ
所在地:大阪府茨木市
総本山:如意寺(奈良県五條市)
創始者(宗祖):大森智辯(おおもりちべん) 智辯尊女
旧名:大森清子、昭和42年逝去
後継者:大森智祥(おおもりちしょう)
昭和62年逝去、「第一世管長」
信徒数:63800人程度 (1990年代後半は30万人)
宗教法人:昭和32年、宗教法人法による法人化
本尊:大辯才天女尊(だいべんざいてんにょそん、辯才天)
*但し、インドや日本における弁財天とは本体して同じとしつつも、一般の弁財天とは区別して辯才天としている。
2 大森智辯と教団の歩み
1909年 奈良県吉野郡吉野村飯貝にて、
吉井家の長女として誕生。名は清子。
13歳の時、紡績女工となる。
1929年 高野山真言宗の僧だった大森智祥と結婚
奈良県五條市、高野山真言宗十輪寺(じゅうりんじ) 住職
2児の母となるが、原因不明の病に悩む。
民間宗教者の指示で辯財天像を発掘
寺内に祀ったところ、→病気が快癒
1934年 寺の庭で草むしり中に気絶し、大辯才天女尊より天啓を受ける。
「身代わりとなって、現世にあって、人の苦しみ、悩みを救うがよい」
1934年 霊的な予言により悩みを解決していく。
人々から「辯天さま」「神代さん」などと呼ばれる。
1939年 大阪の太融寺(たいゆうじ、高野山真言宗)
にて修行
1948年 十輪寺内に辯天講の本部を設ける。
1952年、辯天宗を立教。
本尊を大辯才天女尊、自らを宗祖智辯尊女とする。
1955年 茨木桔梗殿落慶祭典、御本尊分霊遷座式執行
1962年 辯天宗東京本部、東京都墨田区向島に設置
1963年 五條本部を「大和本部」、茨木本部を「大阪本部」と改称
1964年 大阪本部(冥應寺)本殿落慶大祭典
1965年 智辯学園高等学校(現 智辯学園中学校・高等学校)開校
1967年 2月15日 宗祖智辯、御遷神(逝去、享年57歳)
1987年 大森智祥第一世管長、遷化(逝去)
1988年 大森慈祥(長男)副管長、第二世管長に就任
2018年 大森慈祥(じしょう)第二世管長、逝去
長男の光祥宗務総長が第3世管長に推戴、
光祥氏長男の寛祥・新統を宗務総長に任命