2026年1月30日金曜日

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」

(『信徒の友』2018年11月号所収)

 

 今回のエピソードは、エルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を、イエスが激しい振る舞いをもって追い散らしたというショッキングな出来事です(マタイ21・12-13、マルコ11・15-19、ルカ19・45-48、ヨハネ2・13-22)。神殿は、神が礼拝される場所であり、祈りが捧げられるところであって、利得を求める場所ではありません。しかし、神聖な場所でさえも、後述のように金が動くところともなれば、自己利益のために知らず知らずのうちに利用してしまうのが、人間の性分というものです。この腐敗を暴き、罪を指摘し、不正を正し、そうして神殿を清めるのは、預言者の使命でありました(参照、イザヤ20・1-6、エレミヤ13・1-11)。今回のイエスの行動は、そうした預言者と重なると言えるでしょう。  当時のエルサレム神殿は、エルサレムに居住する人々の礼拝の場であっただけでなく、遠方に居住するユダヤ人にとっての巡礼地でもありました。ルカ2:41-52には、少年時代のイエスが両親や同郷の人たちと共に、エルサレム神殿を訪れる物語が綴られています。ここには、当時のユダヤ人の典型的な巡礼の様子が描かれていると言えるでしょう。ユダヤ三大祭りとして数えられ、最大の祭事とされていた過越祭ともなれば、普段のエルサレムの人口を優に越える人々が集まり、大いに賑わいを見せたと言われています。その過越祭を目前に控えた時期に、突如として今回の事件が起こりました。  場面設定については、過越祭の直前という点で四福音書の記述は一致しています。ところが、マタイとルカにおいては、イエスがエルサレム入りした(いわゆる「エルサレム入城」)当日のこととして語られている一方で、マルコにおいては、エルサレム入城の翌日という設定になっています(マルコ11・11)。イエスの公生涯の末期に宮清めがある共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と対照的なのがヨハネで、このエピソードが2章にあることから明らかな通り、イエスの活動期の序盤に配置されています。また、共観福音書ではイエスがエルサレムを訪れるのは基本的に1回のみですが、ヨハネにおいては3度訪れています(ヨハネ2・13、5・1、11・55)。こうした相違の詳細は不明ですが、ひょっとするとヨハネは、共観福音書の記載とは異なるけれども自分が正しいと考えている情報を提供しようとしているのかも知れません。
 「神殿の境内」とは、神殿の敷地内にある「異邦人の庭」と呼ばれている前庭を指します。この領域での商売は禁止されていて不可能だったという主張もありますが、少なくともその外れか一角では、神殿への捧げ物を販売する商人と両替商が陣取って商売をしていたと考えられています(参照、ゼカリヤ書14・21)。巡礼者にとって、神殿に捧げる犠牲の動物を持参することは困難なため、現地でそれを購入することは律法でも奨励されていました(参照、申命記14・24ー26)。「鳩を売る者」(マタイ21・12、マルコ11・15)とは、彼らを相手に犠牲の動物を売る商人を指しています。「鳩」は、規定の捧げ物である小羊等を用意するのが経済的に厳しい人々のために、代わりとして定められている犠牲です(参照、レビ記12・8、ルカ2・24)。こうした背景を受けて、ヨハネは「鳩を売る者」だけではなく、「牛や羊や鳩を売っている者たち」と表記しています(ヨハネ2・14)。また、神殿税として納める金銭として、ユダヤ人にとっては汚れた異教の民の貨幣をもって捧げることは一種のタブーです。そのために、諸外国からやって来ている巡礼者は、外国通貨を両替する必要があったのです。
 イエスが、そこで商売をしていた人々を追い出し始めたという点で、四つの福音書の記述は一致しています。マタイとマルコでは「そこで売り買いしていた人々」と書かれていて、売っていた人たちだけではなく、買っていた人たちをも含んでいます(「そこで売り買いしていた人々」マタイ21・12、マルコ11・15ー19)。なぜ買う側の人たちも追い出されたのかは分かりませんが、巡礼者たちをも標的としたというよりも、商売人たちの追い散らしの巻き添えを食った、ということでしょうか。この疑問点を解消するためなのか、ルカは「そこで商売をしていた人々」(ルカ19・45)と簡略に書くことで、神殿を商売の場所とした商売人の不義を強調しています。 共観福音書には見られないヨハネ2・15の記述は衝撃的です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた」。神殿境内での武器の携行は禁止されていますから、恐らくこの鞭はパフォーマンスのためか、動物を追い散らすためのものでしょう。それでも、事前に黙々と鞭を作っているイエスの姿を想像すると、彼の内面に隠されたマグマのような怒りに触れるような思いがします。
 マルコはさらに、「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」(11・16)と書き加えています。この場所は厳密には神聖な場所とはされていない場であったようですが、かといって神殿の境内ですからまったくの世俗の場というわけでもなく、近道をするための前庭の通り抜けは神殿を汚す行為として禁じられていました。それを人々に守らせることは本来、祭司や神殿警備員の務めであって、それをなし崩しにしていることは彼らの責任でもありました。イエスの批判の眼差しは、こういったところに注がれていたのだと想像します。近道すらも許されないことを厳しいと考える方も多いでしょうが、「聖」という概念は、神事を日常の些事から別にすることを意味します。例えば、何かのついでとか、別の目的があるから礼拝に参加すると聞いたとしたら、きっとおかしなことだと思われるでしょう。礼拝はそれ自体が目的であって、他のための手段ではありません。自分の用事を済ませるために神事を利用する人間の厚かましさを、イエスは鋭く見抜いています。共観福音書がほぼ一致して記している次の言葉には、以上のことが集約されています。
「こう書いていある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 「祈りの家」の方はイザヤ56・6ー7、「強盗の巣」の方はエレミヤ7・11からの引用です。礼拝の場が人間の利得追求の場とされることで汚されることに対する憤怒を表しています。ヨハネはこの言葉ではなく、次の詩篇69編10節を引用しています。 「弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ2・17)。  詩篇69編は、イエスの受難を預言する詩篇として受容されてきました。祈りと礼拝の場を思うイエスの熱情を示すと共に、イエスがメシアであることを暗示しています。  物語の結びとして、マルコとルカにおいては、祭司長たちや律法学者たちがイエス殺害を謀りながらも、「群衆」(ルカでは「民衆」)がイエスに行為的であったために手出しできずにいたことが報告されています(マルコ11・18、ルカ19・47ー48)。また、ヨハネの方は、「ユダヤ人」との「神殿」を巡っての論争を記載しています。イエスが次世代の神殿として復活を遂げることで、神殿制度は終わりを告げることが示唆されています。  最後に これはわたしの推測ですが、その場で犠牲の動物や両替をしていた商売人たちもそれほど裕福ではなく、場所代、陣取り、元締め、元締めと金で繋がっている神殿の指導者層、そして、癒着、収賄、汚職等、複雑に絡み合い、腐敗の度合いは頂点に達していたのではないかと思います。イエスの行動に暴力的な要素も含まれ、それがいかなる理由であれ許容されるのかという問題も残されていると思います。ただ、イエスはこういった社会悪に対する憤怒を、信仰に生きようとする人たちのために、あらわされたということは間違いありません。

 主と共に歩む絵画

 今回、紹介する絵画は、レンブラントの『神殿から両替人を追い出すキリスト』です(1626年)。レンブラントと言えば、絵画が経年劣化して変色したために誤って「夜警」と呼称された作品や、『キリスト昇架』の傑作で知られる、オランダ絵画黄金時代の巨匠です。  眉間にしわを寄せ、カッと目を見開き、鞭を振り上げる様子には、底知れぬ怒りが滲み出ています。これとは対照的に、ある者は両手で我が身をかばい、またある者は恐れをなして退散しようとしている商売人たちが描き出されています。




2026年1月28日水曜日

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」『信徒の友』2018年4月ー2019年3月所収【目次】

『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」




説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

22:34-40

22:41-46「ダビデの子についての問答」

23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」

23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

23:13-36(④23:23-24)

23:13-36(⑤23:25-26)

23:13-36(⑥23:27-28)

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

マタイ23:37-39「エルサレムのために嘆く」

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

マタイ24:3-14「終末の徴」

マタイ24:15-28「大きな苦難を予告する」

マタイ24:29-31「人の子が来る」

マタイ24:32-35「いちじくの木の教え」

28:1-10「復活する」


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35

4:1-9

4:10-12「例えで語る理由」

4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

4:21-25「『ともし火』と『秤り』の例え」

4:26-29「『成長する種』の例え」

4:30-32「『からし種』の例え」

マルコ4:33-34

マルコ4:35-41「突風を静める」


ヨハネ福音書

15:26-27


ペトロの手紙二

1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」


説教者聖書注解をする人ための聖書注解 マタイ24:32-35

説教者聖書注解をする人ための聖書注解

マタイ24:32-35「いちじくの木の教え」


2026年1月24日土曜日

説教や聖書研究をする人ための聖書注解 マルコ2:23-28「安息日に麦の穂を摘む」

説教や聖書研究をする人ための聖書注解

マルコ2:23-28「安息日に麦の穂を摘む」


光の教会【ひとこと説教】




光の教会【ひとこと説教 27】

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」
ヨハネによる福音書 7章37節

 「渇き」は恐ろしいことではありません。渇くからこそ、人は神を求めるからです。
 それよりも恐ろしいのは、渇きを感じなくなるほど慣れきってしまった“惰性の信仰”です。求める心が鈍り、満たされたいという願いすら薄れてしまう時、信仰は静かに力を失っていきます。


光の教会【ひとこと説教 26】
「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ること…人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物」
コヘレトの言葉 3章12-13節

 キリスト教では、「(酒を)飲み、食う」ことにネガティブな向きもあります。しかし、“「神の賜物」として楽しめ”、というメッセージもあります。
 ただし、ハメを外すのは、また別の話ですが。


光の教会【ひとこと説教 25】
「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。」
詩編31編8節

 主なる神が私の悩みを知っていてくださる。
 苦しみそのものは無くならないとしても、それだけで人は救われるものです。

光の教会【ひとこと説教 24】
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」マタイによる福音書 1章23節

 「インマヌエル」──「神は私たちと共におられる」という意味です。神は離れたところにおいでになるのではなく、わたしたちと共にいてくださいます。私たちの弱さ、恐れ、苦しみの中に、神は共にいてくださいます。

 光の教会【ひとこと説教 23】
「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます」詩編56編4節

 私たちの心には、恐れと神への信頼が同時に存在することがあります。 信仰に生きる人とは、恐れを知らない人ではありません。 むしろ、自分の中にある恐れを認め、それでもなお神に依り頼む人です。
 信仰とは、揺るぎない確信ではなく、揺れ動く心を抱えながらも神に向かう姿勢です。 不信や不安を抱えていることを自覚することこそ、神との真の関係の始まりです。 恐れの中でこそ、私たちは神の力と慰めを深く知るのです。


 光の教会【ひとこと説教 22】 
「しかし、風の中にも…地震の中にも…火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」列王記上 19章11–12節

 神の存在は、決して派手な現象によって証明されるものではありません。それはむしろ、心の奥に静かに響く、ささやくような声によって感じ取られるものです。





 光の教会【ひとこと説教 9】
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」
マタイによる福音書 26章38節

 いわゆる「ゲツセマネの祈り」における、弟子たちに対する主イエスの言葉です。主イエスから離れず、共にいること。それが、弟子に最も求められることです。


 光の教会【ひとこと説教 8】老いて失いながら、旅立ちの装いを整え
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る」
コヘレトの言葉5章14節

 老いていき、すべてを失っていくこと、それは必然ではあるものの、底知れない痛みを伴います。
 ただ、そうして失いながら人は、生まれた姿に戻り、旅立ちの装いを整えます。


 光の教会【ひとこと説教 7】
「神に従う人の道を主は知っていて下さる」詩編1章6節

 その道は辛く、平坦ではありません。
 ただ、茨の道を歩くあなたの辛い気持ちは、神が心に留めてくださっています。


 光の教会【ひとこと説教 6】
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」ヘブライ人への手紙 11章8節

 信仰とは、「行き先も知らずに出発」することです。


 光の教会【ひとこと説教 5】
「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため」コヘレトの言葉 10章19節

 食事や酒は、人と語り合い、共に良き時を過ごすためのもの。
 そこで笑うことは、生きることの原動力です。


 光の教会【ひとこと説教 4】
「指導者に英知が欠けると、搾取が増す。」 箴言28章16節

 二千数百年前の言葉ですが、今も寸分違わず、その通りです。


 光の教会【ひとこと説教 3】
「打ち砕かれた心を包み……」イザヤ書 61章1節

 私たちの心が、時に「砕かれて」散ってしまうようなことが起こります。そんな時、私たちは「なぜこんなことが」と思わずにはいられません。
 しかし神の真意は、砕け散った私たちの思いを一つ一つ拾い上げて、再び一つとなるよう、繋ぎ合わせて下さることです。


 光の教会【ひとこと説教 2】
「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」「これを聞いた者は、年長者から始まって…一人また一人と立ち去って…」ヨハネによる福音書 8章7-8節

 これこそ、年長者のリーダーシップではないでしょうか。



 光の教会【ひとこと説教 1】
「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」コヘレトの言葉 9章7節

 羽目を外しすぎて悪いことにならない限り、食べて飲むくらいは許されています。むしろ、推奨されています。

【解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)概説 要約  『ユダ福音書』は、1970年代に発見された通称「チャコス写本」に含まれる福音書の一つであり、グノーシス主義的キリスト教の一派によって著された文書である。本書は、正典福音書においてイエスを裏切った人物として描かれるユダの行為を、イエス...