2026年1月28日水曜日
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】
2026年1月24日土曜日
光の教会【ひとこと説教】
光の教会【ひとこと説教 27】
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」
ヨハネによる福音書 7章37節
「渇き」は恐ろしいことではありません。渇くからこそ、人は神を求めるからです。
それよりも恐ろしいのは、渇きを感じなくなるほど慣れきってしまった“惰性の信仰”です。求める心が鈍り、満たされたいという願いすら薄れてしまう時、信仰は静かに力を失っていきます。
光の教会【ひとこと説教 26】
「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ること…人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物」
コヘレトの言葉 3章12-13節
キリスト教では、「(酒を)飲み、食う」ことにネガティブな向きもあります。しかし、“「神の賜物」として楽しめ”、というメッセージもあります。
ただし、ハメを外すのは、また別の話ですが。
光の教会【ひとこと説教 25】
「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。」
詩編31編8節
主なる神が私の悩みを知っていてくださる。
苦しみそのものは無くならないとしても、それだけで人は救われるものです。
光の教会【ひとこと説教 24】
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」マタイによる福音書 1章23節
「インマヌエル」──「神は私たちと共におられる」という意味です。神は離れたところにおいでになるのではなく、わたしたちと共にいてくださいます。私たちの弱さ、恐れ、苦しみの中に、神は共にいてくださいます。
光の教会【ひとこと説教 23】
「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます」詩編56編4節
私たちの心には、恐れと神への信頼が同時に存在することがあります。 信仰に生きる人とは、恐れを知らない人ではありません。 むしろ、自分の中にある恐れを認め、それでもなお神に依り頼む人です。
信仰とは、揺るぎない確信ではなく、揺れ動く心を抱えながらも神に向かう姿勢です。 不信や不安を抱えていることを自覚することこそ、神との真の関係の始まりです。 恐れの中でこそ、私たちは神の力と慰めを深く知るのです。
光の教会【ひとこと説教 22】
「しかし、風の中にも…地震の中にも…火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」列王記上 19章11–12節
神の存在は、決して派手な現象によって証明されるものではありません。それはむしろ、心の奥に静かに響く、ささやくような声によって感じ取られるものです。
光の教会【ひとこと説教 9】
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」
マタイによる福音書 26章38節
いわゆる「ゲツセマネの祈り」における、弟子たちに対する主イエスの言葉です。主イエスから離れず、共にいること。それが、弟子に最も求められることです。
光の教会【ひとこと説教 8】老いて失いながら、旅立ちの装いを整え
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る」
コヘレトの言葉5章14節
老いていき、すべてを失っていくこと、それは必然ではあるものの、底知れない痛みを伴います。
ただ、そうして失いながら人は、生まれた姿に戻り、旅立ちの装いを整えます。
光の教会【ひとこと説教 7】
「神に従う人の道を主は知っていて下さる」詩編1章6節
その道は辛く、平坦ではありません。
ただ、茨の道を歩くあなたの辛い気持ちは、神が心に留めてくださっています。
光の教会【ひとこと説教 6】
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」ヘブライ人への手紙 11章8節
信仰とは、「行き先も知らずに出発」することです。
光の教会【ひとこと説教 5】
「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため」コヘレトの言葉 10章19節
食事や酒は、人と語り合い、共に良き時を過ごすためのもの。
そこで笑うことは、生きることの原動力です。
光の教会【ひとこと説教 4】
「指導者に英知が欠けると、搾取が増す。」 箴言28章16節
二千数百年前の言葉ですが、今も寸分違わず、その通りです。
光の教会【ひとこと説教 3】
「打ち砕かれた心を包み……」イザヤ書 61章1節
私たちの心が、時に「砕かれて」散ってしまうようなことが起こります。そんな時、私たちは「なぜこんなことが」と思わずにはいられません。
しかし神の真意は、砕け散った私たちの思いを一つ一つ拾い上げて、再び一つとなるよう、繋ぎ合わせて下さることです。
光の教会【ひとこと説教 2】
「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」「これを聞いた者は、年長者から始まって…一人また一人と立ち去って…」ヨハネによる福音書 8章7-8節
これこそ、年長者のリーダーシップではないでしょうか。
光の教会【ひとこと説教 1】
「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」コヘレトの言葉 9章7節
羽目を外しすぎて悪いことにならない限り、食べて飲むくらいは許されています。むしろ、推奨されています。
2026年1月21日水曜日
【小論】「マルコ福音書に対するマタイ福音書の主な修正・改変」
1. マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集意図と神学的修正——律法理解・イエス像・弟子像を中心に
序論
マタイ福音書がマルコ福音書を主要資料として用いていることは、資料仮説の枠組みにおいて広く合意されている。しかしながら、マタイはマルコ資料を単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、語彙・文体の修正、さらには神学的観点に基づく取捨選択と再構成を通して、自身の福音書を構築している。
本章は、マルコ福音書に対するマタイの編集操作を詳細に検討することにより、マタイ福音書がいかなる神学的要請のもとでマルコ神学を再解釈し、再構成したのかを明らかにすることを目的とする。とりわけ、律法理解、イエス像、弟子像の三点に注目し、両福音書の神学的方向性の差異を検討する。
マルコに対するマタイの編集方針は、概ね以下の六点に整理できる。
1. 記事内容の簡潔化および文体・表現の修正
2. 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調
3. ユダヤ教指導者批判の強化
4. イエス像の修正・補足
5. 弟子像の修正・補足
6. 律法理解の修正・補足
このうち2はマタイ独自の神学的付加を最も端的に示す要素であり、3以下は主にマルコ神学の調整・修正に関わるものである
1. 記事内容の簡潔化および文体や表現の修正(改善、省略、簡略化など)
マタイは、マルコに特徴的な冗長な描写や感情表現を削減し、叙述を整理する傾向を示す。語彙選択や文法構造の調整を通して、物語の焦点を明確化し、全体として秩序だった叙述を志向している。
1.1. 詳細表現の簡略化
例えば、マルコ1:32における
「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」(ἔφερον πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους)
という包括的表現は、マタイ8:16では
「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」(προσήνεγκαν αὐτῷ δαιμονιζομένους πολλούς)
と簡略化され、叙述の焦点が整理されている。
1.2. 感情表現の簡略化、冗長表現の簡素化
マルコ4:38における弟子たちの問い
「先生、私たちが滅びても構わないのですか」(Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;)
は、マタイ8:25では
「主よ、救ってください」(Κύριε, σῶσον)
という祈願文形式へと転換され、感情的訴えよりも信仰告白的表現が前景化されている。
同様に、マルコ1:41の「深く憐れんで」という感情描写は、マタイ8:3では削除されている。
1.3. 物語的説明の整理
マルコに5:8におけるγὰρを伴っての理由説明の挿入は、マタイ8:29では省略され、叙述の流れが単純化されている。また、マルコ5:35–36に見られる会堂長の娘の治癒奇跡における二段階的展開も、マタイ9:23では簡潔に処理されている。他、説明句の削除(マルコ5:23 // マタイ9:18)、場面描写の簡素化(マルコ6:48 // マタイ14:24)などが挙げられる。
1.4. 「εὐθύς」「εὐθέως」の削減
マルコ福音書において頻出する副詞 εὐθύς/εὐθέως は、神の国の切迫性と即時的応答を強調する重要な語彙である 。しかしマタイは、これらの語を大幅に削減し(マルコ41回に対しマタイ18回)、物語の緊迫性を緩和している。
例えば、マルコ1:12の
「そしてすぐに霊が彼を追いやった」(καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει)
は、マタイ4:1において
「その時、イエスは導かれて」(τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη)
と書き換えられ、即時性よりも秩序だった導きが強調されている。
その他の例として、マルコ1:10 //マタイ3:16、マルコ1:30 //マタイ8:14などが挙げられる。他方、εὐθύςを保持している箇所としては、例えば弟子たちの召命記事がある(マルコ1:18 // マタイ4:20、マルコ1:20 //マタイ4:22)。
1.5. 供食の記事の削減
マルコにおける2回の供食の記事(6:30–44, 8:1–10)を、マタイはルカのように1回に削減することなく、双方を保持している(14:13–21, 15:32–39)。しかし、マルコに顕著な弟子の無理解と叱責のモティーフを弱化している 。
2. 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調
マタイ福音書の最も顕著な特徴の一つは、旧約聖書の引用と「~が成就するためであった」という成就句の反復的使用である。これにより、イエスの生と働きはイスラエルの救済史の連続線上に明確に位置づけられる。
2.1. 旧約引用の付加・長文化・改変
誕生物語(1-2章)から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を多数付加している。これらは、イエス理解を「聖書の成就」という枠組みに統合する進学的意図を示している 。
マタイがマルコに対して独自に付加した旧約引用、また、マルコに記載されている旧約引用を長文化、もしくは改変している用例は、以下の通り。
マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。
2.2. 家系や表現などのユダヤ的要素の強化
系図(マタイ1:1–17)の付加、イエスのベツレヘム誕生の強調(2:1-12)などは、イエスをダビデ的メシアとして位置づけ、教会のユダヤ的正統性を主張する機能を果たしている。
3. ユダヤ教批判の強化
マタイ23章における律法学者・ファリサイ派への「不幸だ」宣告は、彼らに対するマルコ福音書以上の批判の度合いを示す。また、27:25における群衆の発言(「その血の責任は、我々と子孫にある」)は、イエス殺害の責任をユダヤ人側に集約する叙述となっている。
これらは、シナゴーグとの緊張関係の中で形成されたマタイ教会の自己規定を反映する論争的言説として理解されるべきである 。
4. イエス像の修正
4.1. 否定的描写の削除
マルコ3:21における「身内が取り押さえに来た」「正気を失ったと思われた」という記述は、マタイ12:46–50では完全に削除されている。
4.2. 能力制限表現の修正
マルコ6:5の
「力ある業を何一つ行うことができなかった」(οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν)
という表現は、マタイ13:58において
「多くの力ある業をしなかった」(οὐκ ἐποίησεν ἐκεῖ δυνάμεις πολλὰς)
へ修正され、イエスの能力に起因するものではなく、意志的選択として再解釈されている。
4.3. 職業表現の修正
マルコ6:3におけるイエスを「職人(τέκτων)」と同定する表現は、マタイ13:55では「職人の息子」とされ、イエスの社会的身分に関する直裁な表現があえて避けられている。
5. 弟子像の修正
マタイは、マルコに顕著な弟子の無理解モティーフを一貫して緩和または削除する。
マルコ4:13の厳しい二重修辞疑問文(「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」)は、マタイ13:18では削除されている。
マルコ6:52の「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」という評価も、マタイ14:33では信仰告白へと置換されている。
さらに、マタイ16:17–19におけるペトロへの祝福と教会建立宣言は、ペトロと弟子団の肯定的再定位を象徴する付加である。
6. 律法観の修正、律法破棄に見える記述の削除
マルコ7:19における、食物規定を無意味化しかねない急進的発言
「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」(καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται…καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα)
は、マタイでは回避されている 。
また、マルコ2:27
「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない」(Τὸ σάββατον διὰ τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο, καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον)
という安息日論争の核心的な言葉を、マタイは物語構造を維持しつつも意図的に削除している。
一方、離婚規定(マルコ10:11–12)には、「不定の場合を除いて」という例外条項(マタイ5:32; 19:9)が付加されている。この付加は、単に律法の厳格さを緩和するためではなく、むしろ現実的な運用可能性を高めることで、律法遵守を持続させる意図を示唆している。
決定的なのは、マタイ5:17–20の追加である。
「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない」
ここで律法は廃されるものではなく、成就されるべきものとして、明瞭に再定義される。律法を既に廃棄されたもののように扱うマルコの神学的方向性を修正し、律法の有効性を強調している。
7. 結論
マタイ福音書は、マルコ福音書を主要な資料として用いながらも、叙述の整理・簡潔化と神学的再構成を通して、独自の方向性を明確に打ち出している。とりわけ、旧約聖書引用および成就句の反復的配置は、教会のユダヤ的正統性を強調する機能を担っており、またイエス像および弟子像の修正は、マタイ共同体が志向する権威理解および共同体秩序を神学的に裏づける役割を果たしていると考えられる。律法理解に関しても、マタイはマルコに見られる律法相対化の傾向を一定程度修正し、律法を廃棄の対象ではなく、「成就」という枠組みの中で再定位している。
このように、マルコ福音書に対するマタイの修正は決して限定的なものではない。しかしながら、マタイが全体構造においてマルコ福音書を基本的に踏襲している以上、その態度をマルコに対する全面的な拒絶と理解することは困難である。仮にマタイが、マルコに類似した福音書を新たに提示することによってマルコの権威を上書き的に消去しようとしたのであれば、マルコの叙述や神学を明示的に否定する表現が、より多く含まれていて然るべきであろう。
一方で、マタイがマルコ福音書の部分的編集や補足にとどまらず、独立した福音書の執筆に踏み切った理由は、自身の神学的構想のもとでマルコ福音書全体を再構成する必要性を認識していた点に求められる。マタイは部分的にはマルコと競合的な立場を示しつつも、その基盤を維持したまま包括的な改訂を試みており、この点において両者の関係は、対立ではなく「協働的」関係の範疇に位置づけられると結論づけることができる。
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