マルコ福音書に対するマタイ福音書の主な修正・改変
序
マタイ福音書は、共観福音書の中でもとりわけマルコ福音書を主要資料として用いていると広く認識されている。しかしマタイは、マルコを単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、神学的観点に基づく修正、物語構造の再編成を加えながら、自身の福音書を構築している。本章では、マルコに対するマタイの修正・改変の主要な特徴を整理し、そこに見られる神学的方向性(特に律法理解とイエス像・弟子像)を明らかにする。
マルコに対するマタイの編集方針は、概ね以下の六点に集約できる。
マルコに対するマタイの修正は多岐に及ぶが、概ね以下の通りに集約される。
1 記事内容の簡潔化および文体・表現の修正
2 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調
3 ユダヤ教指導者批判の強化
4 イエス像の修正・補足
5 弟子像の修正・補足
6 律法理解の修正・補足
*2はマタイ独自の神学的要素の付加。3以下は主にマルコ神学の調整・修正に関わる。
1. 記事内容の簡潔化および文体や表現の修正(改善、省略、簡略化など)
マタイは、マルコに比べて冗長な表現や物語展開を削ぎ落とし、文体を整える傾向を示す。語彙選択や文法構造を調整し、論点が明確に伝わるよう再構成している。以下、その代表的な用例を抽出する。
1.1. 詳細表現の簡略化
・マルコ1:32 // マタイ8:16
ἔφερον πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους
「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」
→ προσήνεγκαν αὐτῷ δαιμονιζομένους πολλούς·
「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」
1.2. 感情表現の簡略化、冗長表現の簡素化
・マルコ4:38 // マタイ8:25
Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;
「先生、私たちが滅びても構わないのですか?」
→Κύριε, σῶσον, ἀπολλύμεθα.「主よ、救ってください、滅びそうです」
弟子たちの不安表現を、祈願文形式へと転換。
・マルコ2:10-11 // マタイ9:6
冗長な命令文が、マタイ9:6では簡素化されている。
・マルコ1:41 // マタイ8:3
「深く憐れんで」という感情描写を削除。
1.3. 物語的説明の整理
・マルコ5:8 // マタイ8:29
ἔλεγεν γὰρ αὐτῷ· Ἔξελθε τὸ πνεῦμα τὸ ἀκάθαρτον ἐκ τοῦ ἀνθρώπου
「彼(イエス)は彼(悪霊)に言っていた(からである)。出て行け、穢れた霊よ、その人から」
→マタイ8:29。削除。
・マルコ5:23 // マタイ9:18
ἵνα σωθῇ καὶ ζήσῃ(彼女が救われ、生きるように)の削除。
・マルコ5:35-36 // マタイ9:23
二段階描写の削除
・マルコ6:48 // マタイ14:24
場面描写の簡素化など。
1.4. マルコの頻出語「εὐθύς(すぐに)」「εὐθέως(同義の別形)」の削減
マルコ福音書において εὐθύς(27回)および εὐθέως(14回)は合計41回使用されており、マタイでは18回、ルカ14回、ヨハネ6回と比較しても際立って多い。これらの語は、マルコ1:15 における「神の国の接近」を受け、物語が急展開していくことを示す機能を担っている。そのため、読者および登場人物へ向けて、即時の決断と行動が求められる状況を強調する語彙として働くものであり、マルコ神学を特徴づける重要な語の一つと位置づけられる。だが、マタイは上述のマルコ的意味合いをある程度は保持しながらも、不必要と思われるものについては大幅にカットしている。
・マルコ1:12 //マタイ4:1
καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει 「そしてすぐに霊が彼を追いやった」
→Τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη… 「その時、イエスは導かれて」
その他に、マルコ1:10 //マタイ3:16、マルコ1:30 //マタイ8:14などがある。他方、保持している箇所としては、例えば弟子たちの召命記事が挙げられる(マルコ1:18 // マタイ4:20、マルコ1:20 //マタイ4:22)。
1.5. 供食の記事の削減
マルコ福音書における五千人の供食(6:30–44)と四千人の供食(8:1–10)を、マタイは 14:13–21 と 15:32–39において保持している。しかしマタイは、マルコに顕著に見られる弟子叱責のモティーフを削除し、両記事に共通のテンプレートを与えることで、同じような出来事が二度あったにすぎないとの印象を読者に与える編集を行っている。
マルコが示す強い弟子批判の動機づけを、この処理によってマタイは弱化していると見なすことができる。また、この用例は「マルコにおける弟子像の変更(マタイによる弟子像の穏当化)」という視点からも重要である。
2. 旧約引用・成就の明記、ユダヤ的要素の強化、教会のユダヤ的正統性の強調
マタイの特徴的神学要素として、旧約聖書の引用および「〜が成就するためであった」という成就句の頻繁な挿入が挙げられる。これにより、イエスの生涯と行為とを、イスラエルの救済史の連続線上に明確に位置づけ、イスラエル史における教会の正統性が主張されている。
2.1. 旧約引用の付加・長文化・改変
誕生物語から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を加えている。
マタイがマルコに対して独自に付加した旧約引用、また、マルコに記載されている旧約引用を長文化、もしくは改変している用例は、以下の通り。
マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。
2.2. 家系や表現など、ユダヤ的要素の強化
・マタイ1:1-17での系図の付加。
・イエスの出生地をベツレヘムとする誕生関連記事の追加(2:1-12)。
3. ユダヤ教批判の強化
・マタイ23章における、ファリサイ派と律法学者への「不幸だ」宣言の追加。
・イエス殺害のユダヤ人の責任を明確化(27:25)。
4. イエス像の修正
4.1. イエスに関する悪い表現を修正
・マルコ3:21 「身内が取り押さえに来た」「気が変になっていると思った」
→マタイ12:46-50において削除
4.2. イエスの不能に関する記述の修正
・マルコ6:5 // マタイ13:58
οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν「力ある業を何一つ行うことができなかった」
→οὐκ ἐποίησεν ἐκεῖ δυνάμεις πολλὰς
「多くの力ある業をしなかった」へ修正
イエスの万能性に疑義が生じる記述を、マタイはイエスの意志として書き換えている。
4.3. イエスの職業に関する記述を修正
マルコ6:3 // マタイ13:55
οὐχ οὗτός ἐστιν ὁ τέκτων 「この人は職人ではないか?」
→οὐχ οὗτός ἐστιν ὁ τοῦ τέκτονος υἱός; 「この人は職人の息子ではないか?」
イエスを労働者階級の人間とするマルコの表現を、マタイは父親がそうであったと変更している。神格化が進む過程で、マタイはマルコの表現を直裁過ぎると判断したと考えられる。
5. 弟子像の修正
5.1. 弟子批判のモティーフを弱化または削除
・マルコ4:13 // マタイ13:18
Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」
→マタイ13:18では、二重の修辞疑問文による激しい批判を、全削除している。
・マルコ6:52 // マタイ14:33
οὐ γὰρ συνῆκαν ἐπὶ τοῖς ἄρτοις, ἀλλ᾽ ἦν αὐτῶν ἡ καρδία πεπωρωμένη.
「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」
→マタイはマルコの無理解モティーフを削除し、神の子礼拝に置換している。
・マルコ8:17-21 // マタイ16:8-12
マルコにおける弟子の無理解のモティーフ→マタイは大幅に緩和。
・マルコ8:29-30 // マタイ16:17-23
ペトロに対する「この岩の上に私の教会を建てる」宣言が新規に付加されている。
6. 律法観の修正、律法破棄に見える記述の削除
・マルコ7:19
καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται…καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα
「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」
→食物規定を無意味化しかねないこの文言を、マタイは削除。
・マルコ2:27 // マタイ12:1-8
Τὸ σάββατον διὰ τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο, καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον·
「安息日は人のために生じた、人が安息日のためではない」
→安息日論争は保持しつつも、マタイはこれを削除。
・マルコ10:11-12 // マタイ5:32, 19:9
「自分の妻を離縁し、他の女性と結婚する者は誰でも、彼女に対して姦淫を犯す」
→παρεκτὸς λόγου πορνείας(「不貞の場合を除いて」)を付加
マルコにおける無条件的な離婚禁止を、「不貞」場合の例外を加えて実用的に。
・マルコ1:40-45 // マタイ8:1-4 「重い皮膚病を患っている人の癒し」
祭司による完治チェックと清めの献げ物の遵守を指示した後、患者が言い広める
→言い広めの展開を削除し、遵守規定の指示をもって整然と結ぶ。
・マタイ5:17-20の追加
マタイは、マルコにはない同箇所を追加している。
「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない」
上述のマルコにおけるマタイの反応から見て、律法を既に廃棄されたもののように扱うマルコの神学的方向性を修正し、律法の一点一画の有効性を強調している。
まとめ
マルコにおける律法の神学的方向性に対する、マタイの修正点は下記のとおり。
マタイは、マルコに見られる律法の相対化・境界越境的傾向を調整し、律法の有効性と継続性を明示的に肯定する神学を打ち出している。その結果、
・律法は廃されるのではなく成就されるべきこと。
・イエスは律法破壊者ではなく完成者として描かれる。・
教会はイスラエル信仰の正統継承者として位置づけられる。
以上の点において、マタイ福音書は、マルコ神学を継承しつつも、明確な修正と再解釈を施した神学的再構成と評価できる。
結論
マタイ福音書はマルコ福音書を主要資料としつつ、叙述の簡潔化と神学的再構成を通して独自の方向性を打ち出している。とくに旧約引用と成就句の付加によって教会のユダヤ的正統性を強調し、イエス像・弟子像を整え、律法の相対化に見えるマルコ的傾向を修正した。律法は廃されるのではなく成就されるものとされ、イエスは律法破壊者ではなく完成者として描かれる。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。