2026年2月28日土曜日

【新約聖書学小論】ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的再構成

【新約聖書学小論】ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的再構成
 
序論
 1. ヨハネ福音書と共観福音書の文献的関係――五つのモデルと研究史的展開
 本題の考察を進めるにあたり、まずヨハネ福音書と共観福音書の文献的関係を整理する必要がある。この問題は新約学において困難な課題の一つとされ、今日に至るまで決定的な定説はない。
 両者の関係をめぐる議論は、研究史上、おおむね次の五つのモデルに整理することができる[1]
 (1) 独立モデル
 本モデルは、ヨハネ福音書の著者自身も、その背後に想定される伝承層も、共観福音書を一切知らなかったとする立場である。両者の類似点は、初期キリスト教世界に広く分散して存在していた口頭伝承に由来すると説明される。この立場は20世紀初頭のヨハネ研究において支配的であり、ヨハネ福音書の独自性を強調する傾向と結びついていた。
 (2) 伝承層レベルでの共観福音書的影響モデル
 この立場では、ヨハネ福音書の最終的著者は共観福音書を前提としていないが、ヨハネ福音書成立以前の伝承資料の段階において、すでに共観福音書的伝承、あるいはそれと重なり合う伝承が存在していたと想定する[2]
 (3) 二次的口承伝承モデル
 本モデルは、初期ヨハネ共同体において、礼拝などの場で共観福音書が朗読され、その内容が再び口頭伝承化されたと想定する。こうして形成された「口頭化された共観福音書伝承」が、ヨハネ福音書の成立に間接的影響を与えたと理解される。この立場では、ヨハネは共観福音書を文書として直接参照したのではなく、礼拝での朗読などの共同体的実践を通して媒介された形で認識されていたと想定する。
 (4) 最終編集段階での共観使用モデル
 本モデルは、ヨハネ福音書の最終編纂段階、特にヨハネ21章を含む編集過程において、編纂者が共観福音書を知り、それを部分的に利用したとする立場である。ヨハネ福音書の初期層に共観福音書的影響を想定する説とは異なり、文献的依存を最終編集段階に限定する点に特徴がある。
 (5) 著者自身による共観福音書の認識モデル
 本モデルでは、ヨハネ1-20章の著者が、マルコ福音書およびルカ福音書を知っていたと想定する。ただし、それは逐語的・機械的な文献依存ではなく、共観福音書を参照しつつ、独自の神学的構想に基づいて意識的に再構成したと理解される。この方向性を示した研究者として、Raymond E. Brown、大貫隆、田川建三[3]、ゲルト・タイセン[4]、Mark W. G. Stibbe などが挙げられる[5]。Brown は、ヨハネ福音書の著者(あるいは共同体)が共観福音書、もしくはそれに極めて近い伝承形態を部分的に知っていた可能性を否定せず、ヨハネ福音書を共同体史的展開の中で理解した[6]。大貫は、マタイとルカにおけるマルコに対する編集句が、ヨハネ福音書の受難物語に観察されることを理由に、直接的にであれ間接的にであれ、ヨハネは共観福音書を前提としていると述べている[7]。Stibbe は、物語論的分析を通して、ヨハネ福音書が共観福音書の物語世界を前提としつつ、それを神学的に再語りしていると主張した[8]。同様にFrancis J. Moloneyも、ヨハネ福音書を共観的イエス伝承の神学的再解釈として位置づけている[9]
 以上の五つのモデルとそれに対応する研究史は、ヨハネ福音書と共観福音書の関係を、単純な文献的依存の有無ではなく、伝承の共有、媒介、再構成という多層的プロセスとして理解する視座を提供している。近年の研究動向では、ヨハネ福音書が共観福音書に直接依存していることを証明することは困難であるとの認識が広がっている。しかし、物語構造、語彙、主題などの共通性と相違性を総合的に検討するならば、ヨハネが共観福音書をまったく知らずに福音書という文学形式を独自に創出したと想定することもまた困難である。よって、ヨハネは何らかの形で共観福音書を認識していたとする立場が、現在では比較的有力である[10]
 
2. 本章の目的
 本章の目的は、ヨハネ福音書が共観福音書の物語および神学を意識的に再構成している可能性を明らかにすることにある。すなわち、ヨハネの共観福音書に対する態度が、単なる対抗や排除ではなく、自らの地域教会の状況に即して福音書を再提示しようとする「協働的」姿勢であったことを論証する。
 すなわち、ヨハネ福音書は共観福音書を前提としつつ、それを否定するのではなく、独自の神学的深化と再定位を通して再解釈し、当該共同体にふさわしい形で再提示している。本章の主眼は、この再構成の具体的様態とその神学的意図を明らかにすることにある。
 この目的のため、本章では、ヨハネ福音書が共観福音書の存在を前提として意図的な修正を施していると考えられる箇所を取り上げ、その意図と神学的方向性を分析する。検討は、以下の四つの観点から行う。
1. 物語配置の修正
 出来事の時系列・位置づけを変更、また、記事自体を変更することで、物語全体の神学的焦点を再構成している点を扱う。
2. 神学的用語・神学的焦点の修正
 共観福音書の概念(例、「神の国」)を別のもの(例、「永遠の命」)に置換するなど、神学的枠組みの再構成を検討する。
3. 人物像の修正
 主要人物の描かれ方の違いを通して、ヨハネ独自の神学的意図を探る。
4. 受難物語の再神学化
 受難叙述における時間構成、王権モチーフ、十字架理解の相違を通して、ヨハネが共観的受難理解をどのように神学的に深化させたかを検討する。
 以上の分析を通して、ヨハネ福音書を共観福音書との対立的関係に置くのではなく、相互参照的かつ神学的対話の中で形成された文書として位置づけることを試みたい。
 
1. 物語配置の修正
 まず、物語配置の修正という観点から検討する。
1.1. 宮清め(マタイ21:12-17、マルコ11:15-18、ルカ19:45-48 // ヨハネ2:13-22
1.1.1 配置の相違——終盤から冒頭へ
 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)において、宮清めはエルサレム入城直後に配置され、宗教指導者との対立を決定的にし、神殿体制との緊張を頂点に導く出来事として描かれている。物語構造上、それは受難へと至る決定的契機として機能している。
 これに対し、ヨハネ福音書では同じ出来事が公生涯の最初期(2章)に置かれている。もしヨハネが共観福音書の伝承を何らかの形で認識していたとすれば、この配置転換は単なる編集上の偶然ではなく、意図的な神学的再構成と理解すべきである。以下では、この配置転換の意図を検討する。
1.1.2 ヨハネが配置を変更した理由:主要な学説
1.1.2.1 宮清めの史実的位置づけ
 かつては「宮清めは二度行われた」とする調和的解釈も提唱された。しかし、現在ではほとんど支持されていない。宮清めは一度限りの出来事であり、受難直前に起こったとする見立てが一般的である。その主な理由は以下の通り。
・ヨハネ福音書は成立時期において後発の可能性が高く、先行する先行する共観福音書の伝承を知った上で再配置したと理解するのが合理的である。
・もし宮清めが公生涯の初期に起こったと仮定すれば、神殿体制との対立は即座に深刻化し、その後のエルサレムでの活動が継続できたとは現実的ではないと考えられる。
 以上を踏まえるならば、宮清めは史実としては受難直前に位置づけられる出来事であり、ヨハネが神学的意図に基づいて物語冒頭へと移動させたと考える方が合理的である。
1.1.2.2. ヨハネの神学的意図——イエスを「真の神殿」として提示する
 現在有力な解釈によれば、ヨハネが宮清めを冒頭に配置した理由は、イエスこそが真の神殿であるという神学的主張を、福音書の序盤で提示するためである。共観福音書では、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直す」という言葉は、受難物語において敵対者の発言として提示される(マルコ14:58他)。しかしヨハネでは、この言葉が公生涯の初期にイエス自身の発言として提示され(ヨハネ2:19)、さらに「それは自分のからだの神殿を指して言った」と注釈が加えられる(2:21)。すなわち、共観福音書においては歪曲された証言として現れる言葉が、ヨハネにおいては啓示的発言として再構成されている。
 ヨハネ福音書は、物語の初頭からイエスのアイデンティティを明示的に提示する傾向を持つ。冒頭の「言(ロゴス)」宣言(1:1)に始まり、「神の子」(1:34)、「世の光」(1:9)といった称号が早期に提示される構造はその典型である。宮清めもまた、その延長線上において、イエスの本質を象徴的に示す出来事として配置されていると理解できる。
 これに対しマルコ福音書では、イエスの正体は十字架に至るまで段階的に明らかにされる構造を持つ(いわゆる「メシアの秘密」)。ヨハネはこの物語構造を意図的に反転させ、イエスの本質を早期に開示する神学的構成を採用していると考えられる。 このように、ヨハネは宮清めを単なる「受難の原因」としてではなく、福音書全体のキリスト論的主題を先取りする象徴的出来事として再構成している。
 ヨハネがマルコの構成を知っていたとすれば、ヨハネはマルコの「メシアの秘密」には競合的な位置に立つ一方、洗礼者ヨハネから始まり十字架へと向かう全体の物語構成は継承しているので、その態度は「協働的」と表現すべきだろう。
 
1.2. 受難死の日付の変更
1.2.1. 受難死の日付をめぐる共観福音書とヨハネ福音書の相違
 共観福音書は、イエスが弟子たちと共に過越の食事をとった後に逮捕され、十字架刑に処されたと報告している。この叙述に従えば、イエスの死はニサン月15日に位置づけられる。
 これに対してヨハネ福音書は、イエスの十字架刑を「過越祭の準備の日(ニサン月14日)」に置いている(ヨハネ19:14)。この設定によれば、過越の小羊が屠られる時刻にイエスが死を迎えるという構図が成立する。ヨハネはすでに冒頭においてイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29, 36)と宣言しており、この日付設定はそのキリスト論的宣言と密接に結びついている。また、19:36において引用される「その骨は一本も折られない」という記述は、出エジプト記12:46における過越の小羊の規定を想起させるものであり、イエスの死が過越祭儀の成就として理解されていることを示唆する。
 このようにヨハネは、小羊の屠殺とイエスの死とを重ね合わせることによって、神殿祭儀の完成とその超克とをキリストの受難に見ている。
1.2.2. 史実的観点からの検討
 史実の問題に関しては、ヨハネ福音書の時間設定(ニサン月14日)をより妥当と見る見解も有力である。その主な理由として、以下の点が挙げられる。
 第一に、過越祭当日に死刑が執行された可能性は低いと考えられることである。過越祭はユダヤにおける最重要の祝祭であり、エルサレムには多数の巡礼者が集まっていた。そのような状況下で公然と死刑を執行することは、治安上の観点からも慎重を要したと推測される。
 第二に、最後の晩餐を過越の食事として描く共観福音書の叙述は、イエスの死を新しい契約の制定と結びつける意図を反映している。しかしながら、このことは共観福音書の伝承を否定することを意味しない。ヨハネ福音書は最後の晩餐の制定記事を明示的には伝えないが、第6章のパンの説教において、「命のパン」(6:35、48)、「天から降って来たパン」(6:41、50)という表現を通して、イエス自身が与えられる食物であるという主題を展開している。とりわけ「わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉である」(6:51)との宣言は、犠牲と食事の主題を統合する神学的表現と見ることができる。
 したがって、共観福音書が「過越の食事」の枠組みの中で十字架を解釈しているのに対し、ヨハネ福音書は「屠られる小羊」という象徴のもとで同じ出来事を再解釈していると整理できる。両者は相互に排他的というよりも、同一の受難伝承を異なる神学的焦点から展開しているのであり、その意味でヨハネの再配置は対立ではなく再構成として理解されるべきである。
 
1.3. 最後の晩餐における聖餐制定語の欠如と洗足記事による置換
1.3.1. 共観福音書における聖餐制定記事
 共観福音書――マタイによる福音書(26:26–29)、マルコによる福音書(14:22–25)、ルカによる福音書(22:14–20)――は、最後の晩餐の場面において聖餐制定語を伝えている。この叙述は、過越の食事を背景としつつ、イエスの死を救済史的転換点として再定位し、共同体の儀礼的中心に聖餐を据える神学的構成を形成している。
 これに対しヨハネによる福音書は、最後の晩餐における聖餐制定語を伝えない。ヨハネ13章は最後の晩餐に相当する場面であるにもかかわらず、パンと杯に関する言及は存在せず、その代わりに洗足記事(13:1–20)が配置されている。
 13:1において場面は「過越祭の前」と設定され、さらに受難日は「過越祭の準備の日」(19:14)とされるため、物語構造上、イエスは過越の食事そのものを祝っていないことになる。したがってヨハネにおいては、「過越の食事=最後の晩餐=聖餐制定」という共観福音書的構図は成立しない。
1.3.2. 洗足記事の導入と神学的意図
 ヨハネが聖餐制定語を欠き、代わりに洗足記事を配置した理由は、単なる伝承の偶然的差異ではなく、神学的再構成の結果と理解されるべきである。その要因は、少なくとも次の三点に整理できる。
(1)物語構造上の必然性
 前節で論じたように、ヨハネはイエスの死を過越の小羊の屠殺日(ニサン14日)に一致させる構図を採用している(19:14)。この時間設定においては、イエスが過越の食事を祝う余地はない。ゆえに、共観福音書のような聖餐制定記事をそのまま組み込むことは、物語構造上困難である。
(2)独自伝承の採用
 洗足記事(13:1–20)は共観福音書には見られない独自伝承である。ヨハネはこれを最後の晩餐の中心的行為として据えることで、共観福音書とは異なる象徴的焦点を提示している。イエスが弟子たちの足を洗うという叙述が提示していることは、犠牲の祭儀的解釈ではなく、自己贈与としての愛の具体的実践である。
(3)儀礼中心から倫理中心への再定位
 洗足記事は、単なる象徴的行為にとどまらず、共同体倫理の基礎づけを伴う。
 ここでは、聖餐制定語が象徴する「契約の血」という祭儀的枠組みの代わりに、愛と奉仕という倫理的実践が強調される。ヨハネはこの場面において、受難死を共同体の礼拝的中心としてではなく、共同体倫理の根拠として再解釈している。
 もっとも、これはヨハネが聖餐神学そのものを否定していることを意味しない。第6章における「命のパン」説教(6:35, 51)は、イエスの肉を食べるという表現を通して、犠牲と参与の主題を展開している。したがってヨハネは聖餐的象徴を別の文脈へ移動させ、晩餐叙述から切り離したと理解すべきである。
1.3.3. 結論
 以上の検討から明らかなように、ヨハネ福音書は共観福音書に見られる聖餐制定語を意図的に削除し、その代わりに洗足記事を配置することによって、最後の晩餐の神学的意味を再構成している。
その背景には、
・過越の食事を欠く時間構造
・独自伝承の積極的採用
・儀礼中心から倫理中心への神学的再定位
という複合的要因が存在する。
 この編集方針は、ヨハネ福音書がイエスの死を過越の小羊の犠牲として描きつつも、共同体における愛と奉仕の倫理を決定的中心に据えるという、ヨハネ的キリスト論および教会論を形成するものである。
 したがってここでも、ヨハネは共観福音書に対して対抗的に振る舞っているというよりは、むしろ同一の受難伝承を別の象徴軸において再神学化していると理解すべきである。
 
2. 神学的用語・焦点の修正
2.1. 共観福音書の例え話の不採用――「聞く者」から「信じる者」への転換
 共観福音書に特徴的なπαραβολή(例え話)は、「聞く者」に理解と識別を促す教育的装置として機能している。特にマルコ4章において典型的に見られるように、例え話は「聞く者」と「悟る者」を分ける選別的構造を持ち、理解の可否が救済史的参与の指標となっている。
 これに対し、ヨハネによる福音書は、共観福音書的意味での例え話を基本的に採用しない。もっとも、比喩的表現そのものが排除されているわけではない。ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)などに見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的講話が導入されている。10:6ではこれをπαροιμίαと呼んでおり、形式的にも共観的παραβολήとは区別されている。
 この相違は単なる文体的差異ではなく、受容構造そのものの転換を示している。共観福音書において中心となるのは「聞いて悟る」主体であるが、ヨハネにおいて中心化されるのは「信じる」主体である。すなわち、段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。
こうした重点の移動は、福音書全体に体系的に配置されている。
・1:12 信じる者に「神の子となる権利」が与えられる。
・3:16–18 信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。
・3:36 信仰の有無が命の有無に直結する。
・6:29 「神の業」は「遣わされた者を信じること」と定義される。
・20:31 本書執筆の目的は「あなたがたが信じるため」であると総括される。
 さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」神学も理解より信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。
 この構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群において顕著である。
・サマリアの女(4:39–42)
・生まれつきの盲人(9:35–38)
・マルタの告白(11:27)
・トマスの告白(20:28)
 これらは理解の深化よりも、人格的出会いを通した信仰告白へと収斂していく物語である。
 同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において比較的強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリアやトマスなど、個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び付けられている。
 以上を総合すれば、ヨハネ福音書は
・例え話(聞く/悟る)から象徴的講話(信じる)へ
・弟子の無理解から信じる/信じないの二分法へ
・集団的顕現から個人的顕現へ
という神学的再構成を行っていると言える。理解のモティーフは後景化され、信仰的決断が全体を規定する原理として前景化されている。
2.2. 共観福音書の「神の国」からヨハネ福音書の「永遠の命」への転換
 共観福音書、とりわけマルコによる福音書において、イエス宣教の中心概念は「神の国」である(1:15)。この概念は、終末論的かつ歴史的次元における神の支配の到来を指し、「既に―未だ」の時間構造を特徴としている。
 これに対し、ヨハネ福音書において「神の国」という語は3:3および3:5の二箇所に限られる[11]。その代わりに、「永遠の命」(ζωὴ αἰώνιος)および「命」(ζωή)が神学的中心語として機能している。
 「永遠の命」は17回以上現れ、「命」も極めて頻出する。これは共観福音書における用例数と比較して顕著な差異を示している。この語彙的偏重は、神学的焦点が「神の国の支配」から「命への参与」へと移行していることを示唆する[12]
 さらに重要なのは、その時間理解である。ヨハネ5:24では、ἔχει ζωὴν αἰώνιον(永遠の命を持つ)が現在形で用いられ、信じる者はすでに命に参与していると描かれる。永遠の命は未来的報酬ではなく、現在的実在である。
 この理解は3:16に示される神の愛と自己贈与に基礎づけられている。17:3では永遠の命が「唯一のまことの神と、その遣わされたイエスを知ること」と定義され、関係論的に把握されている。
 ヨハネ3:3, 5の「神の国」も、終末的支配の到来というより、「新生」という主題のもとで再解釈されている。したがって「神の国」は必ずしも否定されているわけではなく、「永遠の命」という中心概念に吸収され、信仰による存在変容の言語へと再定位されているのである。
 結論として、ヨハネ福音書は共観的終末論を単純に継承するのではなく、それを関係論的・存在論的枠組みにおいて再構成している[13]。歴史的介入としての神の支配は後景化され、神との関係性としての命が前景化される。
 
3. 人物像の修正
3.1.「十二人」像の相対化
 共観福音書において「十二人」は、イエスによって選任された権威的集団として強調される(マルコ3:13–19ほか)。彼らは宣教・悪霊払い・治癒を担う代理的存在として描かれ、歴史的・象徴的・制度的意義を有している。同時に、「弟子の無理解」や逃亡(マルコ14:50)が描かれる。
 これに対し、ヨハネ福音書では「十二人」への言及は限定的で(6:67, 70–71; 20:24)、制度的集団としての描写は後退している。代わって、個々の弟子が物語的に前景化される。
3.2.個別の弟子の物語化
 ヨハネでは、共観福音書で周縁的であった弟子たちが具体的役割を担う。
・アンデレ:仲介者としての役割(1:40–42; 6:8–9; 12:22)
・フィリポ:理解の限界を示しつつ導き手となる(1:43–46; 14:8–9)
・トマス:疑いから最高度の告白へ(20:28)
・ナタナエル:初期の信仰告白者(1:49)
 特に「イエスの愛しておられた弟子」は、証言者としての権威を担う存在として描かれ、ペトロと対比される(21:20–24)。
3.3.ペトロ中心の権威構図の相対化
 ペトロは依然重要である(21:15–17)が、トマスの告白(20:28)や「愛しておられた弟子」の優位的描写(20:8)によって、その中心性は相対化されている。
 また、マグダラのマリアは最初の復活証人として描かれ(20:17)、宣教の起点が使徒集団から個人へと再配置されている
 このようにヨハネは、制度的権威から人格的証言へと重心を移動させている。
 
4. 結論
 本章の検討から明らかになったのは、ヨハネ福音書が共観福音書を否定するのでも単純に補完するのでもなく、それらを前提としつつ再配置・再定義することによって独自の神学的総合を提示しているという点である。
 
・宮清めの配置転換
・受難日の再構成
・聖餐制定語の不採用と洗足記事の導入
・「神の国」から「永遠の命」への転換
・集団的権威から人格的証言への移動
 これらはいずれも、史実の改変ではなく、キリスト論的・教会論的再神学化である。ヨハネ福音書は共観福音書と緊張関係を保ちつつ、それを排除せず、多声的伝承の中でキリスト理解を深化させる協働的営みとして成立している。その意味で、本書は初期キリスト教における正典形成過程――分散的証言の協同的収斂――を高度に体現する文書の一つであると結論づけることができる。


[1] Schnelle, Einleitung, 531
[2] ルドルフ ブルトマン, 『新約聖書神学 II――パウロとヨハネの神学』, 川端純四郎訳 (東京: 新教出版社, 1966年), 239-242.ヨハネが共観福音書のすべて、あるいはいずれかを知っているかについて証明は困難とし、他方で「しるし資料」など、独自の資料仮説を展開した。伝承上の一部の共通性は認めている。
D. M. スミス, 『ヨハネ福音書の神学』松永希久夫訳, 叢書 新約聖書神学 3,東京: 新教出版社, 2002年, 28-30頁.
[3] 田川建三, 『新約聖書——訳と註5(東京: 作品社, 2013年), 776-779頁. 田川は、ヨハネ2:4の「両替する者」と次節の「両替人」という二語の用例その他から、ヨハネは確実にマルコ福音書を元にヨハネ福音書を執筆したと主張する。
[4] ゲルト・タイセン, 『新約聖書——歴史・文学・宗教』(東京: 教文館, 2003), 220. 「少なくとも口承されたマルコ福音書を知っていなければ、説明がつかない。」
[5] John S. Kloppenborg, “The Use of the Synoptics or Q in Did. 1:3b-2:1,” in Matthew and the Didache ——Two Documents from the Same Jewish—Christian Milieu?, ed. Huub van Sandt (Assen : Royal Van Gorcum, 2005) , 105-129. 田川建三, 『書物としての新約聖書』(東京: 勁草書房, 1997), 350. 「ヨハネは福音書記者の著作をおそらくはその弟子たちがかなり修正して仕上げた。」
[6] Raymond E. Brown, The Gospel According to John I-XII, Anchor Bible 29 (New York: Doubleday, 1966), xxxiv-xxxviii; lxxx-lxxxv.
[7] 大貫隆『ヨハネによる福音書』(「福音書のイエス・キリスト」4), 東京: 日本基督教団出版局, 1996年, 27-28頁。
[8] Mark W. G. Stibbe, John as Storyteller: Narrative Criticism and the Fourth Gospel (Cambridge: Cambridge University Press, 1992), 23?41, 159-170. 神学部図書室              226.4:158 0000892760
[9] Francis J. Moloney, The Gospel of John, Sacra Pagina 4 (Collegeville, MN: Liturgical Press, 1998), 4-11, 27-30.
[10] この立場の最近の論考は次のとおり。Corin Mahǎilia, “John and the Synoptic Gospels: What John Knew and What John Used,” Perochoresis: The Theological Journal of Emanuel University, 22 (2024): 31-56.
[11] ルドルフ・ブルトマン, 『新約聖書神学 II――パウロとヨハネの神学』, 川端純四郎訳(東京: 新教出版社, 1966.), 241. 「律法の妥当性の問題、神の国の到来の問題およびその到来の遅延の問題など、原始教団の特徴をなす問題については、ここでは黙して語られない。」
[12] 同様に、ヨハネ福音書が神の国の主題を欠き、奇跡物語が少なく、代わりに永遠の命、光と真理、父と子の関係論が中心に据えられていることが指摘されている。R. E. Brown, An Introduction to the New Testament, Anchor Bible Reference Library, New York: Doubleday, 1997, 364-365.
[13] イェルク・フライは、ヨハネ福音書の終末論を従来のC. H. ドッドのように「実現された終末論」とはせず、実現された終末論と未来的終末論の双方によって意図的に二重の時間構造が保持されており、イエスは過去・現在・未来のすべての時間における全時的存在とされていると主張する。大貫隆は彼の説を評価し、同意している。大貫隆「ヨハネによる福音書」『新版 総説 新約聖書』、152頁。


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