説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マルコ5:1-20「悪霊に取り憑かれたゲラサの人をいやす」
概要
マルコ5:1
- 原文:Καὶ ἦλθον εἰς τὸ πέραν τῆς θαλάσσης εἰς τὴν χώραν τῶν Γερασηνῶν.
- 私訳:そして彼らは、湖の向こう岸、ゲラサ人の地方に来た。
- 新共同訳:一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
注解
- 「湖の向こう岸」:直前の記事で、ガリラヤ湖の向こう岸へと渡って、途中で嵐に遭うエピソードがあったことを踏まえている。
- 「ゲラサ人の地方に」(εἰς τὴν χώραν τῶν Γερασηνῶν):写本に「ゲラサ人」「ガダラ人」などの異同がある。ここでの意図は、ユダヤ人ではなく、ユダヤ人以外の民族、言い換えれば異邦人の地域に来たということ。基本的に、ユダヤ教はユダヤ人の民族宗教。後々、ユダヤ教から派生して誕生することになるキリスト教が、民族宗教を越えて世界宗教となっていく先駆けの出来事として読める。
黙想
「向こう岸」は、象徴的に「秩序の外」「(ユダヤ人から見て)汚れの地」を暗示。そのような地を目指し、嵐の中を通って来たことは、新たな地を目指し困難を越えての営みを象徴する。
マルコ5:2
原文:καὶ ἐξελθόντος αὐτοῦ ἐκ τοῦ πλοίου εὐθὺς ὑπήντησεν αὐτῷ ἐκ τῶν μνημείων ἄνθρωπος ἐν πνεύματι ἀκαθάρτῳ,
私訳:彼が舟から出るとすぐに、汚れた霊につかれた一人の人が墓場から来て、彼に出会った。
新共同訳:イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
注解
- ἐξελθόντος:分詞・属格絶対構文。「彼が出ると」
- εὐθύς:マルコが多用する強調副詞「すぐに」
- 「すぐに」:“到着したばかりなのだから”といった甘いことなく、“待ったなし”で事は起きていく。
- 「汚れた霊」:言い換えれば、不浄な霊。禍々しく、触れた者に悪影響を起こす存在に成り下がった霊。日本風土における「穢れ」の概念を思い起こすと理解しやすいが、ユダヤ人の思考においては、汚れとは、神の秩序にそぐわないものとされる。
- 「墓場から」(ἐκ τῶν μνημείων):民数記19章にあるように、ユダヤ人の律法において、墓場は最大級の穢れの場所とされている。
⠀黙想
日本を中心に世界各地の心霊的な民間伝承を見てきて、私なりに感じることがある。 人間は物理世界に属する存在であり、霊や神といった存在は、悪霊を含めて「見えざる世界」「霊的世界」に属すると語られてきた。両者の間には断絶がある一方で、完全に切り離されているわけでもなく、どこかでつながっている。 ただし、人間はそのまま霊的世界に生きることはできず、霊的存在もまた、物理世界に長く留まり続けることはできない。だからこそ、霊がこの世界に影響を及ぼすためには、人間や動物といった“生きた器”に取り憑くという形が最も安定すると考えられてきたのだろう。 一方で、物理世界と霊的世界の境界が緩み、混じり合う瞬間があるとされる。人間にとってそれは望ましいものではなく、一般に「穢れ」と呼ばれる現象として理解されてきた。 特に顕著なのが生と死に関わる場面である。人が死んだ時はもちろん、出産や水子のような出来事も、日本では不思議と同じく「穢れ」の範疇に置かれてきた。これは、どちらも“境界が開く瞬間”として捉えられていたからかもしれない。 また日本には、地鎮祭のように、土地にたまった穢れを祓い清める風習がある。墓地や事故現場といった場所が、浄化や供養を必要とする場所と見なされるのも、そこに境界の乱れや霊的な痕跡が残りやすいと考えられてきたためだろう。
マルコ5:3
原文:ὃς τὴν κατοίκησιν εἶχεν ἐν τοῖς μνήμασιν, καὶ οὐδὲ ἁλύσει οὐκέτι οὐδεὶς ἐδύνατο αὐτὸν δῆσαι, 私訳:彼は墓場を住まいとしており、鎖をもっても、誰も彼を縛ることができなかった。 新共同訳:この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
注解 ・ὃς:関係代名詞。前節の男を受けている。 ・ἐδύνατο:δύναμαιの未完了過去。 ・「墓場を住まいとして」:彼が、人間社会に居場所がなく、最大級に穢された場所とされているところしか居場所がないという、彼の悲惨な状況を表している。 ・「鎖を用いてさえ繋ぎ止めておくことはできない」:鎖は、人間の力、知恵、営みなどを暗示する。超自然的な力の前では、文明力を持つ人でさえも、結局は無力である。つまり、人間の無力さを示す。
マルコ5:4
- 原文:διὰ τὸ αὐτὸν πολλάκις πέδαις καὶ ἁλύσεσιν δεδέσθαι, καὶ διεσπάσθαι ὑπ’ αὐτοῦ τὰς ἁλύσεις καὶ τὰς πέδας συντετρῖφθαι, καὶ οὐδεὶς ἴσχυεν αὐτὸν δαμάσαι·
- 私訳:彼はたびたび足枷や鎖で縛られていたが、鎖を引きちぎり、足枷を砕いてしまい、誰も彼を制御できなかった。
- 新共同訳:これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
注解 πέδαις καὶ ἁλύσεσιν:手段を意味する与格。「足枷や鎖によって」 ・δεδέσθαι(δέω(縛る)) / διεσπάσθαι / συντετρῖφθαι:完了不定詞。状態の持続を意味する。 ・「足枷」前節の「鎖」における人間の無力さが、改めて述べられている。悪霊に取り憑かれた人間の強力さ、凶暴さ以上に、これをどうやっても制御できない人間の側の無力さが強調されている。取り憑かれている本人も、自分ではどうしようもない。すなわち、悪霊によって人みな支配され、その状態が継続している。
黙想 人間の文明、科学力は特筆すべきものはあるにせよ、霊的存在の前に、あるいは自然などの前に、人間は無力な存在であるという謙虚さを持つべきである。
マルコ5:5
- 原文:καὶ διὰ παντὸς νυκτὸς καὶ ἡμέρας ἐν τοῖς μνήμασιν καὶ ἐν τοῖς ὄρεσιν ἦν κράζων καὶ κατακόπτων ἑαυτὸν λίθοις.
- 私訳:そして夜も昼も絶えず、墓場や山で叫び声を上げ、石で自分を傷つけていた。
- 新共同訳:彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
注解
- ἦν κράζων:未完了過去+現在分詞。行為の 継続・反復・習慣化を意味する。
- κράζω:叫ぶ。
- ἦν:εἰμί 未完了過去。
- κατακόπτω:打ち切る・切り刻む ・未完了過去+現在分詞が使われているので、反復行為を表す。叫ぶ、自分を傷つける行為(自傷行為)、反復的、継続的に行うという、自分にも誰にも止められない物悲しさが滲み出る。だからこそ、そこに救済が必要とされる。
黙想
自傷行為とは、自己破壊行為。自己破壊とは、自分の一部または全部を、自分から疎外・排除しようとすること。自分を受け入れることができない分裂状態、現実を受け止めることのできない矛盾状態が、その原因であることが多いようにも思う。現実の自分を受け入れる重要さを思う。
マルコ5:6
原文:καὶ ἰδὼν τὸν Ἰησοῦν ἀπὸ μακρόθεν ἔδραμεν καὶ προσεκύνησεν αὐτῷ, 私訳:そして、彼は遠くからイエスを見ると、走り寄って、彼のもとにひれ伏した。 新共同訳:イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
注解 ・「ひれ伏した」:礼拝行為を象徴する代表的所作。悪霊もしくは悪霊に取り憑かれた男が、イエスの神的な権威を察し、他方、弟子たちも含め、普通の人々がそれを認識できないという、皮肉の構図。
マルコ5:7
- 原文:καὶ κράξας φωνῇ μεγάλῃ λέγει· Τί ἐμοὶ καὶ σοί, Ἰησοῦ, υἱὲ τοῦ θεοῦ τοῦ ὑψίστου; ὁρκίζω σε τὸν θεόν, μή με βασανίσῃς.
- 私訳:そして彼は大声で叫んで言った。「私とあなたに何の関わりが、イエスよ、いと高き神の子よ?神かけてあなたに願う、私を苦しめないでくれ」
- 新共同訳:大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
注解
- Τί ἐμοὶ καὶ σοί:セム的表現。「何の関係が?」という意味。
- μή+接続法:禁止や懇願を意味する。
- この会話は、男とのものではなく、彼に取り憑いている悪霊とのやり取り。
- マルコ福音書の最も根幹にあるメッセージは、受難と十字架にかけられたイエスを神の子と告白すること。これを、この福音書の中で弟子たちよりも誰よりも先んじて行っているという皮肉の図式がある。我々も含めて、人は得てしてイエスがどのような方であるのかを悟っていないという、文学的な暗示が埋め込まれている。
- 「私を苦しめないでくれ」:神的な審判によって、浄化あるいは滅せられるのを恐れている。
マルコ5:8節
- 原文:ἔλεγεν γὰρ αὐτῷ· Ἔξελθε, τὸ πνεῦμα τὸ ἀκάθαρτον, ἐκ τοῦ ἀνθρώπου.
- 私訳:というのも、イエスが彼に「出ていけ、汚れた霊よ、この人から」と言っていたからである。
- 新共同訳:イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言ったからである。
注解
- ἔλεγεν:未完了過去。過去における反復・継続を意味する。
マルコ5:9
- 原文:καὶ ἐπηρώτα αὐτόν· Τί ὄνομά σοι; καὶ λέγει αὐτῷ· Λεγιὼν ὄνομά μοι, ὅτι πολλοί ἐσμεν.
- 私訳:イエスが彼に尋ねた。「あなたの名は何か」。すると彼は言った。「私の名はレギオン、私たちは多数だから」
- 新共同訳:そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
注解
- 「レギオン(Λεγιών)」:ローマの6000千人規模の大隊兵団に割り当てらてられる名称。原語は、「集まる」という意のギリシャ語。軍隊は占領、支配を象徴するから、制圧された状態を暗示するのかもしれない。
- 「大勢だから」:古今東西の世界各地の心霊的な民間伝承などでは、霊体が複数より集まって一つの集合体を作り、一つの人格体を形成している例がたびたび見られる。現に、次の10節で「自分たち」と複数形で翻訳されているところは、原文では単数形の「彼」であり、複数の集合体と個体とが切り替わる。
マルコ5:10
- 原文:καὶ παρεκάλει αὐτὸν πολλὰ ἵνα μὴ αὐτὰ ἀποστείλῃ ἔξω τῆς χώρας.
- 私訳:そして、彼は彼にしきりに懇願した、自分たちをこの地方から外に追い出さないようにと。
- 新共同訳:そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
黙想 ・人間社会から完全に阻害され、自分ではないものに自分を支配されてしまった者の末路と、なおそうした人を救おうというイエスの姿勢が、この箇所には顕著である。霊に取り憑かれる取り憑かれないは別として、自分が自分として生き、神と自分以外のものに自分が支配されることなく、できることなら神が我が主となって、しっかりと自分を保って生きる人生姿勢が求められる。
ここまでの注解に基づく説教の結びの言葉として
ゲラサの地で出会った一人の男は、もはや自分では自分をどうすることもできず、社会からも切り離され、墓場という「死」の象徴の中で孤独に叫び続けていました。彼を縛る鎖は切れましたが、彼自身を縛る「見えない鎖」は誰にも断ち切れませんでした。しかし、その鎖を断ち切ることのできる方が、ただ一人、彼のもとに来られました。イエス・キリストです。 イエスは、ユダヤ人から見れば「汚れた地」である向こう岸へと、嵐を越えてまで渡って来られました。そこにいたのは、誰からも見放され、自分自身さえ見失っていた一人の人でした。イエスは、その一人のために向こう岸へ行かれたのです。 私たちもまた、時に自分を見失い、心の中で叫び、誰にも届かない痛みを抱えることがあります。自分ではどうにもできない力に押しつぶされそうになることがあります。そんな私たちの「向こう岸」に、主は今日も来てくださいます。私たちが踏み込むことをためらう場所、誰にも知られたくない心の墓場のような場所にさえ、主は足を運び、私たちを名指しで呼び、解き放ち、立ち上がらせてくださいます。 だからこそ、私たちは恐れずに、主の前に自分を差し出してよいのです。どれほど深い闇であっても、どれほど長く続いた叫びであっても、主はそのただ中に光を差し込み、「あなたはもう一人ではない」と告げてくださいます。 ゲラサの男がそうであったように、私たちもまた、主によって「正気に返り」、本来の自分を取り戻し、再び人々の中へと送り出されていきます。主が私たちの主であるとき、どんな力も私たちを支配することはできません。 どうか、私たち一人ひとりが、主に出会い、主に癒やされ、主によって新しい歩みへと招かれていることを、今日もう一度心に刻むことができますように。主は、あなたの向こう岸にも来てくださいます。あなたを救うために。
1-10節までの要点
- 嵐の湖を渡り切って辿り着いた場所は、ユダヤ人ではない、すなわち異邦人が居住する地域。そこに、悪霊に取りつかれた人がいた。
- 彼は、共同体の外に設けられた墓場を棲み処としていた。社会から疎外された状況を暗示する。
- 人々は彼を鎖で繋ぎとめようとしたが、鎖も足かせも引きちぎられた。超自然的、霊的力の前の、人間の無力さを象徴する。
- 彼はまた、自ら自分の体を傷つけていた。自分で自分をコントロールできず、自分を破壊するという、倒錯した悲惨な状況を示す。
- 彼に取り憑いていたレギオンと名乗る悪霊の群れは、霊的存在であるがゆえに、人は気づくことのないイエスの神的な権威を悟り、イエスに自分たちを滅ぼさず、その地域から追放されないことを願い出る。
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マルコ5:11-12
- 原文:11 ἦν δὲ ἐκεῖ πρὸς τῷ ὄρει ἀγέλη χοίρων μεγάλη βοσκομένη· 12 καὶ παρεκάλεσαν αὐτὸν λέγοντες· Πέμψον ἡμᾶς εἰς τοὺς χοίρους, ἵνα εἰς αὐτοὺς εἰσέλθωμεν.
- 私訳:11 そこで、その山の近くに、放牧されている大きな豚の群れがあった。そして彼らは彼に願い求めて言った。12 「我々を豚の中へ送ってください。そこに入るためです。」
- 新共同訳:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
注解
- χοίρων:χοῖρος(豚)の複数形
- ἀγέλη:ἀγέλη(群れ)
- βοσκομένη:動詞 βόσκω(養う、放牧する)の現在分詞・中間/受動態・主格・女性・単数
- 「大きな豚の群れ」(ἀγέλη χοίρων μεγάλη):異邦地域(デカポリス)であることを暗示。
- 「懇願した」(παρεκάλεσαν):マルコの展開のこの段階で、イエスを「神の子」と認識しているのは、悪霊たちのみ。イエスの神的権威を弁えた上で、戦うのではなく服従的に懇願しているということ。彼らの懇願は、霊的世界でのイエスの権威を暗示する。
- 「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」:ユダヤ教において豚は「不浄の動物」とされ、人間が食べることも触れることも避けられていた。そのため、悪霊が豚を“器”として選んだという描写は、「不浄な存在は不浄な器に宿る」という象徴的な意味を帯びる。「悪霊がふさわしい場所へ戻される」という宗教的メッセージとしても読める。
⠀ <悪霊たちはなぜ豚の中に送られることを願ったのか>
種々の心霊的な民間伝承を参考にすると、霊は我々の物理的世界に、そのままの状態では存在し続けることができない、というような世界観が共有されていることが多い。他方、そのような世界観にあっては、霊の種類によっては他の場所に移動することができない場合もある。よって霊は、なんらかの物、最適なものとしては生きている動物、人間に憑りつく必要がある。そうすると、他所への移動が可能になることもある。 これを総合すると、イエスは住民のために他の地域に彼らを追放しようとしたものの、それでは彼らが存在できなくなるので、豚に乗り移ることを願い出たと推測することも可能である。
マルコ5:13
- 原文:καὶ ἐπέτρεψεν αὐτοῖς· καὶ ἐξελθόντα τὰ πνεύματα τὰ ἀκάθαρτα εἰσῆλθον εἰς τοὺς χοίρους, καὶ ὥρμησεν ἡ ἀγέλη κατὰ τοῦ κρημνοῦ εἰς τὴν θάλασσαν, ὡς δισχίλιοι, καὶ ἐπνίγοντο ἐν τῇ θαλάσσῃ.
- 私訳:そこで彼は彼らに許可した。そして汚れた霊どもは出て行き、豚の中に入った。するとその群れは崖から海へと突進した。およそ二千匹であり、海で溺れ死んだ。
- 新共同訳:イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
注解
- ἐπέτρεψεν ἐπιτρέπω アオリスト・能動態・直説法・3単 許した
- ὥρμησεν:ὁρμάω(突進する、急ぐ)アオリスト・能動態・直説法・3単
- ἐπνίγοντοπνίγω未完了過去・受動態・直説法・3複溺死した、窒息した
- 「イエスがお許しになった」:「許す」というのは、単に「いいよいいよ」と流すことではなく、権威をもって許可するということ。イエスの神的権威を暗示する。
- 「豚の群れが崖を下って湖になだれ込み」:悪霊の破壊的衝動性、自傷性を表していると読める。それまで男に取り憑いていた悪霊たちが、せっかく見つけた自分の居場所に自ら自傷行為へと至らせたように、今度は豚に取り憑いてレミングのような集団自殺へと至らせるという流れは、倒錯と混乱という点で、整合性は取れている。
<黙想>
私たちは、こうした悪霊たちの倒錯と混乱を、一笑に付すことはできない。なぜなら、私たち人間もまた、自由に意志し行動できるという存在でありながら、自ら自分の健康を損ない、自分の未来を自分で放棄し、時に人生を台無しに、そうして自らの自由を持て余して自らを破壊するからである。自由だからこそ、人は自分の生き方の中心軸を持たなければならない。自分を上から導く「主」を必要とする。
ここまでの流れをふまえ、14節以降へと続いていく説教風のまとめ
イエスと弟子たちは、嵐を越えて「向こう岸」へと渡りました。そこはユダヤ人にとって“汚れた地”、避けるべき異邦の地域でした。しかしイエスは、あえてその境界を越えて行かれます。そこに、一人の男がいたからです。墓場を住処とし、社会からも自分自身からも切り離され、叫び続け、自らを傷つけるしかなかった男。誰も彼を救うことができず、鎖も足枷も役に立たず、彼自身もどうすることもできない。人間の力では届かない深い闇の中に、彼は取り残されていました。 しかし、その闇のただ中にイエスが来られました。悪霊はイエスの権威を知り、服従し、名を問われると「レギオン」と答えます。多数の霊に支配され、人格の内側が占領されていた男。その支配を断ち切ることができるのは、ただ一人、イエスだけでした。 悪霊たちは追放を恐れ、豚の群れに入ることを願い出ます。イエスが許すと、豚は崖を下って海へと突進し、溺れ死にました。破壊と混乱は、悪霊の本質そのものです。男を苦しめていた力が、今度は豚を破壊へと導いたのです。 この出来事を見た豚飼いたちは恐れ、町や村に知らせに走りました。人々は何が起こったのかを確かめるために集まってきます。しかし彼らの関心は、癒された男よりも、失われた豚の群れに向けられていました。ここに、神の救いと人間の価値観のすれ違いが浮かび上がります。
注解
マルコ 5:14
- 原文: καὶ οἱ βόσκοντες αὐτοὺς ἔφυγον, καὶ ἀπήγγειλαν εἰς τὴν πόλιν καὶ εἰς τοὺς ἀγρούς· καὶ ἦλθον ἰδεῖν τί ἐστιν τὸ γεγονός.
- 私訳: それらを飼っていた者たちは逃げ、町々や村々(原語は「畑」)に報告した。人々は何が起こったのかを見るために来た。
- 新共同訳: 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
注解
- βόσκοντες: βόσκω「牧する、飼う」の現在能動分詞・男性・複数・主格
- 近隣の町や村の人々が、イエスと悪霊払いを受けた者との対面を果たすという流れ。
マルコ 5:15
- 原文: καὶ ἔρχονται πρὸς τὸν Ἰησοῦν καὶ θεωροῦσιν τὸν δαιμονιζόμενον καθήμενον ἱματισμένον καὶ σωφρονοῦντα, τὸν ἐσχηκότα τὸν λεγιῶνα· καὶ ἐφοβήθησαν.
- 私訳: 彼らはイエスのもとに来て、悪霊につかれていた者が座り、服を着、正気になっているのを見る。あの「レギオン」を宿していた者を。そして彼らは恐れた。
- 新共同訳: 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
注解
- καθήμενον / ἱματισμένον / σωφρονοῦνταという三重の分詞で「回復」を描写。すなわち、「座る」「服を着る」「正気になっている」であり、「座る」は日常の行為・生活を、「服を着る」は社会性を、「正気になっている」は自己コントロールの回復・正常化を表す。
- 「(彼らは)恐ろしくなった」:本来なら喜ばしい出来事だが、自分たちの理解の範囲を超える出来事であったためか、恐怖が先行した。
⠀
マルコ 5:16
- 原文: καὶ διηγήσαντο αὐτοῖς οἱ ἰδόντες πῶς ἐγένετο τῷ δαιμονιζομένῳ καὶ περὶ τῶν χοίρων.
- 私訳: そして、見ていた人たちは、悪霊に憑かれた人がどうなったのかについてと、豚のことについて、彼らに説明した。
- 新共同訳: 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
注解
- διηγήσαντο:動詞 διηγέομαι(詳しく語る、説明する)アオリスト・中動態・直説法・3人称複数。
- 見ていた人たちの関心は、悪霊に取り憑かれた人の回復と、豚の死についてであった。
マルコ 5:17
- 原文: καὶ ἤρξαντο παρακαλεῖν αὐτὸν ἀπελθεῖν ἀπὸ τῶν ὁρίων αὐτῶν.
- 私訳: すると彼らは、イエスにその地方から去ることを願い始めた。
- 新共同訳: そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
注解
- παρακαλεῖν: 12節で、悪霊がイエスに願っている時と同じ動詞。悪霊も人間もイエスに願い出るが、両者、まったく質が違うという皮肉が現れている。
- イエスが共にいてくださることがまったく理解されず、あまつさえ「出て行ってくれ」と頼む始末。この対応は、後にイエスを十字架につけて殺せと叫ぶ群衆の姿を先取りしている。同時に、人間のさが。真に人を救う人の辿る運命。
マルコ 5:18
- 原文: καὶ ἐμβαίνοντος αὐτοῦ εἰς τὸ πλοῖον παρεκάλει αὐτὸν ὁ δαιμονισθεὶς ἵνα μετ’ αὐτοῦ ᾖ.
- 私訳: そこで彼が船に乗ろうとすると、悪霊に取り憑かれていた人が、彼と共にいたいことを願った。
- 新共同訳: イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
注解
- ᾖ: εἰμί の接続法・現在・3単。
- 「願った」: 前節で人々がイエスに願ったのと同じ動詞。一方で、イエスがいなくなることを願う人々、もう一方で、イエスと共にいることを願う人々、という皮肉な対照的構図。
- 「一緒に行きたいと願った」: 事実上の弟子志願。
⠀
マルコ 5:19
- καὶ οὐκ ἀφῆκεν αὐτόν, ἀλλὰ λέγει αὐτῷ· Ὕπαγε εἰς τὸν οἶκόν σου πρὸς τοὺς σοὺς καὶ ἀπάγγειλον αὐτοῖς ὅσα ὁ κύριός σοι πεποίηκεν καὶ ἠλέησέν σε.
- 私訳: しかし、彼は彼に許さず、彼に言った。「あなたの家へひけ、彼らに、主があなたにしたことと、あなたを憐れんだことを告げ知らせるために」
- 新共同訳: イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
注解
- 彼の願いの単純な拒絶ではなく、むしろ弟子のような存在として、彼なりの務めに就かせる招きの言葉。
- ここでの「主」は、直接的には「父なる神」を指すが、「主イエス」も暗示的に含まれると思われる。
- 事実上、異邦人の地における最初の宣教者。
マルコ 5:20
- 原文: καὶ ἀπῆλθεν καὶ ἤρξατο κηρύσσειν ἐν τῇ Δεκαπόλει ὅσα ἐποίησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, καὶ πάντες ἐθαύμαζον.
- 私訳: そうして彼は去り、デカポリス地方で宣教し始めた、イエスが彼にしたことを。すると皆が驚嘆した。
注解
- κηρύσσειν: 教会の宣教を指す動詞が使われている。
- 追い出されたイエスの代わりとなるように、彼がその場で神のことを宣べ伝えるという構図。
<黙想>
イエスの代わりとなるというと、「いやいや、自分などは」と言いながら、実はその責務を荷が重いと感じて避けようとすることがよくある。しかし、イエス自身から神の務めとして、イエスの代わりのように生きることが委ねられている幸いを思いたい。
<説教の結びの言葉として>
⠀ゲラサの地で悪霊から解放された男は、イエスと共にいたいと願いました。それは当然の願いでした。長い間、孤独と混乱の中で叫び続け、誰にも理解されず、誰にも助けられなかった彼にとって、イエスこそが初めて自分を見つけ、名指しで呼び、闇から引き上げてくださった方だったからです。
彼は、救われた者としての自然な反応として、「この方と共に生きたい」と願ったのです。しかしイエスは、彼の願いをそのまま受け入れませんでした。代わりにこう言われました。 「自分の家に帰りなさい。そして、主があなたにしてくださったことを知らせなさい。」 イエスは彼を拒んだのではありません。むしろ、彼を遣わされたのです。イエスと共に舟に乗ることは許されませんでしたが、イエスの代わりに語る者として、イエスの働きを担う者として、彼は自分の地に戻っていきました。
そして彼は、デカポリス全域で語り始めました。「イエスが自分にしてくださったこと」を。それは、異邦人の地における最初の宣教者の誕生でした。イエスを追い出した人々の中で、イエスの福音を語る者が一人だけ残されたのです。
私たちもまた、同じ招きを受けています。イエスと共にいたいという願いは尊いものです。しかしイエスはしばしば、私たちを「戻し」、私たちの家庭へ、職場へ、地域へと遣わされます。そこで、私たちが経験した主の憐れみと救いを語るためです。 ゲラサの男がそうであったように、私たちもまた、主によって癒やされ、主によって立ち上がらされ、主によって遣わされていきます。
どうか私たちが、「主が私にしてくださったこと」を語る者として、それぞれの場所で主の光を証しする者となれますように。主は今日も、私たちの向こう岸に来てくださり、私たちを救い、そして遣わしてくださいます。
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