2025年6月5日木曜日

【キリスト教史解説】信条・信条の形成 ー使徒信条、原ニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条


信条・信条の形成 ー使徒信条、使徒信条、原ニカイア信条、ニカイア・コンスタンティノポリス信条、カルケドン信条


【要約】

信仰告白とも。元来は古代教会の洗礼式を座として形成。讃美頌栄的な言葉が特色。公会議にて信条をもって教理が制定された。使徒信条、原ニカイア信条(325)ニカイア・コンスタンティノポリス信条(ニカイア信条、381)、カルケドン信条(451)が著名。


本文

 信仰告白は元来、古代教会の洗礼式をSitz im Lebenとして形成、制定されたもので、讃美頌栄的な言葉をその特色としている。第一コリント15:3以下等、既に聖書の中に信仰告白的な伝承が存在しており、その多くは洗礼式と結合している。1世紀から2世紀にかけての使徒教父や、2世紀から3世紀の弁証家であるヒッポリュトス、テルトゥリアヌスらの文書中にも、信条の形成の萌芽を確認することが出来る。313年のミラノ勅令によるキリスト教公認以後、教会内部において幾つもの教理論争が生じ、そうした内部での混乱を収拾すべく開催された公会議において、信条が制定されていった。


 その最初の公会議と信条は、325年に開催されたニカイア公会議と原ニカエア信条である。御子を御父よりも劣る存在とし(異なった存在:ヘテロウシオス)、御子の被造性と、御子が存在しなかった原初の時があったとするアレイオス派の主張は、当時の教会全体を大きな混乱に陥れたが、本公会議において正統派の教理が認められ、御子と御父の同質性(ホモウシオス)を宣言する条項が盛り込まれた原ニカイア信条が採択された。またこの会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席している。


 ニカイア・コンスタンティノポリス信条

 いわゆる「ニカイア信条」と呼ばれるニカイア・コンスタンティノポリス信条は、一般には381年のコンスタンティノポリス公会議において成立したとされているが、実際にはそれ以前の年代である4世紀中葉から後半には原型が完成していたと推測される。4世紀のキリスト教会全体に混乱を生じさせたアレイオス論争を終結させるため、皇帝テオドシウス1世により招集された。本信条は、三一論定式が明確に定められ、御父と御子の同質性と本質、聖霊の発出に関する条項を内包する。なお、聖霊の発出に関するFilioqueの挿入については、これを認めない東方教会との間で長らく対立が生じたことで知られている。


 カルケドン信条

 451年のカルケドン公会議において制定されたカルケドン信条では、キリスト論に関する教理的問題の解決が図られた。キリストの神性と人性との関係が「混ざらず、変わらず、分かれず、離れず」という否定表現によって明記されている。その背景には、単性論主張者と、神性と人性の明確な区分を説いた(と見なされた)ネストリウスの主張を退ける目的があった。


【キリスト教史解説】第1ニカイア公会議・原ニカイア信条


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史解説】第1ニカイア公会議 原ニカイア信条


 1 第1ニカイア公会議

 【要約】

325年ニカイアにて開催されたキリスト教会初の公会議。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世により招集。アレイオス派の従属的キリスト論を退け、父なる神と子なる神(キリスト)の同質性、子なる神の非被造物性を盛り込んだ原ニカイア信条を採択。


 【本文】

・小アジアのニカイア(現トルコ領イズニク)にて開催

・カトリックにおける第1回公会議

 公認後、最初の公会議

・ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集

・伝承によれば318名、現実にはおそらく250名ほどの司教が参加

・この会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席。


・アレイオス派の<御子の御父に対する従属説>が台頭

・御子と御父は対等だとするアタナシオス派が反論展開

・1「父と子のホモウーシオス」

 2「御子は被造物ではなく永遠の昔から存在」

 以上をパレスティナ洗礼信条に盛り込み、

 「原ニカイア信条」を採択

・アレイオス派の異端認定、追放が決議


・その他の決議事項

 復活祭日の算定基準

 20条の教会規定の取り決め

 ローマ司教と総大司教の管区分割および設定

 ローマ司教の他総大司教区に対する監督的役割


 2 原ニカイア信条

 まとめ

 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集による公認後最初の公会議である第一ニカイア公会議(325年)で採択された信条。アレイオス派の御子・従属説を退けて、御子と御父との同質性(ホモウシオス)、非被造物性と「永遠の昔」からの存在が承認された。


ーーー解説テキストーーー

第1ニカイア公会議(325 CE)、原ニカイア信条


 第1ニカイア公会議

 【要約】

325年ニカイアにて開催されたキリスト教会初の公会議。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世により招集。アレイオス派の従属的キリスト論を退け、父と子の同質性、子の非被造物性を盛り込んだ原ニカイア信条を採択。


 【本文】

 小アジアのニカイア(現トルコ領イズニク)にて開催された公会議。キリスト教公認後最初の公会議でもある。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集。伝承によれば318名、実際には250名ほどの司教が参加。


 アレイオス派における御子の父に対する従属的理解を巡る論争を受けて、「父と子のホモウーシオス」「御子は被造物ではなく永遠の昔から存在」という主張をパレスティナ洗礼信条に盛り込んだ原ニカイア信条を採択。アレイオス派の追放が決議された。


 御子を御父よりも劣る存在とし(異なった存在:ヘテロウシオス)、御子の被造性と、御子が存在しなかった原初の時があったとするアレイオス派の主張は、当時の教会全体を大きな混乱に陥れた。本公会議において正統派の教理が認められ、御子と御父の同質性(ホモウシオス)を宣言する条項が盛り込まれた原ニカイア信条が採択された。またこの会議には、生涯アレイオス派との論争に従事したアタナシオスが、アレクサンドリア司教アレクサンドロスの司教秘書として列席している。


 他、復活祭日の算定基準、および20条の教会規定の取り決めが為され、ローマ司教と総大司教の管区分割および設定、ローマ司教の他総大司教区に対する監督的役割も決められた。



 原ニカイア信条 325年


 ローマ皇帝コンスタンティヌス1世招集による公認後最初の公会議である第一ニカイア公会議(325年)で採択された信条。アレイオス派の御子・従属説を退けて、御子と御父との同質性(ホモウシオス)、非被造物性と「永遠の昔」からの存在が承認された。


 原ニカイア信条の本文

 われらは信ず。唯一の神、全能の父、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。われらは信ず。唯一の主、イエス・キリストを。主は神の御子、御父よりただ独り生まれ、すなわち御父の本質より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質なる御方を。その主によって万物、すなわち天にあるもの地にあるものは成れり。主はわれら人類のため、またわれらの救いのために降り、肉をとり、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ねる者とを審くために来り給う。われらは信ず。聖霊を。


 御子が存在しなかったときがあったとか、御子は生まれる前には存在しなかったとか、存在しないものから造られたとか、他の実体または本質から造られたものであるとか、もしくは造られた者であるとか、神の御子は変化し異質になりうる者であると主張するものを、公同かつ使徒的な教会は呪うものである。



Πιστεύομεν εις ΄ενα Θεον Πατερα παντοκράτορα, πάντων ορατων τε και αοράτων ποιητήν.


Πιστεύομεν εισ ΄ενα κύριον `Ιησουν Χριστον, τον υ΄ιον του θεου, γεννηζέντα εκ του πατρος μονογενη, τουτέστιν εκ της ουσίας του πατρός, θεον εκ θεου αληθινου, γεννηθέντα, ου ποιηθέντα, ΄ομοούσιον τωι πατρί δι οϋ τα πάντα εγένετο, τα τε εν τωι ουρανωι και τα επι της γης τον δι ΄ημας τους ανθρώπους και δα την ΄ημετέραν σωτηρίαν κατελθόντα και σαρκωθέντα και ενανθρωπήσαντα, παθόντα, και αναστάντα τηι τριτηι ΄ημέραι, και ανελθοντα εις τους οθρανούς, και ερχόμενον κριναι ζωντασ και νεκρούς.


Και εις το ΄Αγιον Πνευμα.


Τους δε λέγοντας, ΄οτι ΄ην ποτε ΄ότε οθκ ΄ην, και πριν γεννηθηναι ουκ ΄ην, και ΄οτι εξ ΄ετερας ΄υποστάσεως η ουσιας φάσκοντας ειναι, [η κτιστόν,] τρεπτον η αλλοιωτον τον υ΄ιον του θεου, [τούτους] αναθεματίζει ΄η καθολικη [και αποστολικη] εκκλησία.


関連事項

 第2ニカイア公会議(787年)

2025年6月4日水曜日

【宗教学関連】リスト

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【その他】





【その他の事項】
ーあ行ー

ーか行ー
クリスマスツリー (動画)       交霊会


ーさ行ー

ま行
マクドゥーガル(魂の重量計測)


【新宗教・新興宗教解説】オウム真理教 ー麻原彰晃

 

大学講義用動画

「宗教学」 2021年度秋学期 第14回

<再生リスト>

「新宗教・新興宗教」

https://www.youtube.com/playlist?list=PL_EWMPQGAoVSRBehjZKZPUKG7Ea9AhKd0


ーーーレジュメーーー

オウム真理教


 麻原彰晃(本名:松本智津夫、1955-2018(63歳)、配偶者:松本知子)を教祖として発足した新興宗教団体(新宗教)。


 麻原彰晃

 1955年、熊本県八代に生まれる。視覚障害のため、小学1年より熊本県立盲学校に転校し、20歳まで過ごす。エリートを志し、熊本大学医学部や東京大学を受験したが失敗。

 卒業後、1978年に千葉県船橋市にて鍼灸院と薬局を開業。この頃より、東洋医学に関する学習を進めると共に、ヨガの修行を開始する。宗教教団GLA(1969年開祖、高橋信次)の高橋信次の著作を愛読する。1980年、阿含宗(1978年、開祖:桐山靖雄)に入信し、3年間修行を積む。同年、保険料不正請求発覚。1982年、薬事法違反で逮捕される。

 1983年、東洋医学とヨガを組み合わせた能力開発の塾を渋谷に開業。「麻原彰晃」と名乗り始める。1984年、同塾を、ヒンドゥ教で創造や破壊を意味する「オウム」を採り入れた「オウムの会」と改称し、ヨガ道場に変更する。

 1985年、空中浮遊の成功を主張したことがメディアで取り上げられる。1985年にオカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載された文章によれば、2006年に核戦争が起こり、日本に死の灰が降ると予言されている。「神仙の民」と呼ばれる者だけが生き残り、超能力者たちの王国「シャンバラ」が築かれるという。

 1986年、麻原彰晃、最初の著作『超能力「秘密の開発法」—すべてがおもいのままになる!』を公刊。1987年、三冊目の著作『イニシエーション』が公刊され、師(グル)である麻原彰晃への徹底的な帰依の必要性が説かれるようになる。

 1987年、「オウム真理教」へ名称変更され、全財産を教団にお布施しての出家制度が開始される。同年、日本をシャンバラ化する「シャンバラ化計画」発表、主要都市に支部、道場を開設が目標とされた。

 1988年、静岡県富士宮市に「富士山総本部道場」が開設される。

 1988年9月、「極限の集中修行」において信徒の一人が死亡したが公表せずに遺体を処分。1989年2月、脱会を申し出た信徒を殺害する事件が起こる(発覚まで非公表)。

 出家制度や激しい修行が話題となり、社会との摩擦も表面化する。1989年11月、オウム真理教の社会問題に関わる坂本弁護士一家が殺害され、遺体が山中に埋められる。

 1989年8月、日本の支配を目指して「真理党」が結成され、衆議院選挙に麻原含む25名が立候補、全員落選。このことを契機として、麻原は国家陰謀論を繰り返し主張し始める。

 1990年3月、ボツリヌス菌と風船爆弾を開発開始。その他の化学兵器の研究も行う。1993年、マシンガンの密造に着手。亀戸の道場で炭疽菌を培養。異臭騒ぎが起こる。1993年4月、サリンの開発に着手、8月に生成実験成功。山梨県上九一色村の第7サティアンにプラントを建築する計画が立てられる。1994年、省庁制導入、憲法「真理国基本律」考案。

 1995年元旦、サリンの残留物が検出されたことが報じられ、計画を一時中止。1995年3月20日、警察の強制捜査 及び、公証役場の仮谷清志事務長拉致事件の捜査を攪乱するため、霞ヶ関の地下鉄を中心に各所でサリンを散布、「地下鉄サリン事件」が起こる。死者11人、重軽傷者約5500人。

 3月22日、警察による強制捜査、麻原氏の身柄拘束。同年5月16日、逮捕。


 1995年12月、宗教法人解散命令。1997年1月、破壊活動防止法適用。

 2018年7月6日、松本智津夫含む7人の死刑囚に死刑執行


【新宗教・新興宗教解説】辯天宗(弁天宗) ー宗祖大森智辯、智弁学園の母体

 

ーーーレジュメーーー

【新宗教・新興宗教解説】辯天宗 ー智弁学園の母体


 1 基本データ

所在地:大阪府茨木市

総本山:如意寺(奈良県五條市)

創始者(宗祖):大森智辯(おおもりちべん) 智辯尊女

        旧名:大森清子、昭和42年逝去

後継者:大森智祥(おおもりちしょう)

    昭和62年逝去、「第一世管長」

信徒数:63800人程度 (1990年代後半は30万人)

宗教法人:昭和32年、宗教法人法による法人化

本尊:大辯才天女尊(だいべんざいてんにょそん、辯才天)

*但し、インドや日本における弁財天とは本体して同じとしつつも、一般の弁財天とは区別して辯才天としている。


 2 大森智辯と教団の歩み

1909年 奈良県吉野郡吉野村飯貝にて、

 吉井家の長女として誕生。名は清子。

 13歳の時、紡績女工となる。


1929年 高野山真言宗の僧だった大森智祥と結婚

 奈良県五條市、高野山真言宗十輪寺(じゅうりんじ) 住職

 2児の母となるが、原因不明の病に悩む。

 民間宗教者の指示で辯財天像を発掘

 寺内に祀ったところ、→病気が快癒


1934年 寺の庭で草むしり中に気絶し、大辯才天女尊より天啓を受ける。

 「身代わりとなって、現世にあって、人の苦しみ、悩みを救うがよい」


1934年 霊的な予言により悩みを解決していく。

 人々から「辯天さま」「神代さん」などと呼ばれる。


1939年 大阪の太融寺(たいゆうじ、高野山真言宗)

 にて修行


1948年 十輪寺内に辯天講の本部を設ける。


1952年、辯天宗を立教。

 本尊を大辯才天女尊、自らを宗祖智辯尊女とする。


1955年 茨木桔梗殿落慶祭典、御本尊分霊遷座式執行


1962年 辯天宗東京本部、東京都墨田区向島に設置


1963年 五條本部を「大和本部」、茨木本部を「大阪本部」と改称


1964年 大阪本部(冥應寺)本殿落慶大祭典


1965年 智辯学園高等学校(現 智辯学園中学校・高等学校)開校


1967年 2月15日 宗祖智辯、御遷神(逝去、享年57歳)


1987年 大森智祥第一世管長、遷化(逝去)


1988年 大森慈祥(長男)副管長、第二世管長に就任


2018年 大森慈祥(じしょう)第二世管長、逝去

     長男の光祥宗務総長が第3世管長に推戴、

     光祥氏長男の寛祥・新統を宗務総長に任命

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解05「洗礼者ヨハネの現れ その2」2025年5月18日分

 

撮影場所:茨木春日丘教会 礼拝堂(光の教会)

礼拝説教実施日:2025年5月18日

聖書箇所:マルコによる福音書 1章2-8節

説教題:「洗礼者ヨハネの現れ 2」マルコによる福音書講解説教 第5回


ーーー聖書本文ーーー

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。

3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、

4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。

5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。

8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


ーーー説教テキストーーー

 マルコ福音書講解の5回目になります。内容についていけないような時も、きっとおありのことと思いますが、それまで謎だった聖書の文言が、説き解されてわかっていく感覚を味わっていただけたらと願っています。説教聞きたいというよりも、その背後にある聖書の言葉が聞きたいという気持ちを、味わっていただけたらと。


 さて、前回は洗礼者ヨハネのその1ということで、今回は続きのその2となります。4節から、改めて読んでみましょう。


4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 先週にも述べた通り、洗礼者ヨハネという人物が、ヨルダン側のほとりに突如として現れて、一つ、来るべき神の審判と、特にマルコではもう一つ、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。今回、こういう新約聖書の福音書の分野を専門で学術研究してきた私でさえ、改めて気づいたことになります。それは、洗礼者ヨハネというと、他の福音書では「神の審判」や「神の怒り」が、ここよりもっと前面に出されています。ところがマルコの方では、それらが後退していて、真っ先に「罪の赦し」が出されている。洗礼者ヨハネといえば、まずは神の審判と違うのか!という感じです。その理由まではよくわかりませんが、私が先週述べたこと、すなわち、厳しい審判を告げているようで、本当は、赦しなのだと。赦しの背後にある愛なのだと。私はそれを、故・星野仙一さんに因んで、厳しさ7割、愛情3割と述べたことでした。

 洗礼者ヨハネの言動が、多くの人々の心に響いた理由として、まさにこの点、厳しい裁きに対する恐れよりも、むしろ、「赦し」ということが、大きかったのではないかと思います。我々の世界で思い巡らしてみても、力で人を押さえつけるというのに、大した効果はありません。反発が生じるだけで、出たら出たで、それをさらに押さえつけなければならない、イタチごっこ。あるいは、その押さえつけに耐えかねて、その人が潰れてしまうか。やはり、赦しというものがあって、その背後にある愛というものを知って、そうして人は、やり直そうと心から思うものです。

 洗礼者ヨハネが行った洗礼というのは、当時のそれとは、根本的に違っていました。当時の普通の洗礼は、いわば清めの儀式です。そうして、何度も繰り返し受けるもの。対して洗礼者ヨハネのそれは、一回きりの洗礼です。イエスの説いた教えでもそうですが、自分で決めることが大切です。そして、それを先送りにしない。腹括って、自ら決断して、自分の生き方を変える。人生という道の方向を転換する。「悔い改め」という語自体の元の意味も、実はそういうものです。先がありますので、次に参りましょう。6節。


6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

 まず、これは当時の禁欲生活者のスタイルです。荒地などに一人で赴き、そこで一人で修道生活をするといったもの、これを「隠修士」と呼んだりもします。もう一つは、旧約聖書の預言者、わけても、預言者エリヤのような、預言者の初期時代の代表的預言者、先駆的なエリヤ、またはエリシャを思い起こさせるものです。

 まあ、一言で言えば、「その風貌が、その人の体(たい)を表す」といったところになるでしょうか。次の7節。


7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 先ほど私は、神の審判が控えめで、ということを述べましたが、マタイやルカといった他の福音書ですと、洗礼者ヨハネの語った言葉を書くなりなんなりで、ヨハネのボリュームが多めなのです。ところが、それらと比べると、マルコは抑えめでギュッと絞っている感がある。じゃあ、絞ることで濃く出している要素が何かというと、一言、「洗礼者ヨハネとイエスとの関係」、もう一歩進めていえば「洗礼者ヨハネと、イエスとの序列の関係」、つまり、出現の順序としては、「洗礼者ヨハネが先、イエスは後」でありますが、序列としては「イエスが一番、洗礼者ヨハネ(自分)は二番」ということです。これが、この箇所のメッセージの中核に他なりません。なお、「履き物の紐を解く」仕事は当時の奴隷の仕事で、そこから、ヨハネは自分をキリストに仕えるものとして認識している、などといったことは、しばしば指摘されることです。

 8節に「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とあります。今日は、聖霊が何かについて述べませんけれども、水の洗礼は本人の心がけの次元だけに対して、聖霊の洗礼は、人間の内的な力が神によってもたらされることを意味していると思われます。それはそれとして、

聖霊での洗礼がなにかというと、時代の転換、物事の転換を意味しています。すなわち、ヨハネまでは例えればガソリン車で走る時代だったけれども、今日の私たち教会の洗礼は、水で洗礼しつつ、そこに聖霊の洗礼もある。ということで、いわば、ヨハネとイエスの複合体、ガソリン車だけど電気で動くハイブリッド車なのだと。まあ、ヨハネの流れからイエスへの流れを継承しているわけです。時代の転換を意味しているというのは、このようなことになるわけです。


 最後に、これは、私がマルコ福音書で研究してきて学会発表も何回もしてきて30年、そんな私の仮説をつい述べたくなってしまうのですが、今から述べることは、あくまで仮説であり推測です。

 イエスはある時期、洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、弟子の一人であったのではないか。そうしてある時期、洗礼者ヨハネの逮捕の直後か、もしくはその直前くらいのタイミングで、双方、別の歩みを取ったのではないか。実際、実はイエスと洗礼者ヨハネの関係って、よくよく聖書を調べると複雑でありまして、新約聖書のそこかしこで、双方の弟子たちのやり取りや発言、はたまた、お互いの緊張関係にさえ、いくつも触れられています。また、ペトロ、アンデレといった弟子たち、マタイやマルコでは述べられていませんが、ヨハネ福音書では、彼らは洗礼者ヨハネの元・弟子となっています。実は各福音書を紐解いてみると、「これはなに?」というミステリーが広がっているのです。そのミステリーの真相は何?ということで、差し当たりの私の回答が、以上のものです。

 まあ、こういう大人の事情というべきか、秘めたる歴史のミステリーというべきか、それらを今一度整理して、本質のみを抽出して、最終的に「イエスが一番、洗礼者ヨハネは二番」となったのではないか、ということです。

 次回は、キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた場面です。本日はここまでといたしましょう。


【キリスト教史解説】リヨンのエイレナイオス ー正統主義、『異端駁論』

 

<関連動画>

【キリスト教史解説】ポリュカルポス(使徒教父)について

https://youtu.be/rsatoZ4oIPE


【キリスト教史解説】モンタヌス(モンタノス)とモンタニズムー霊的な熱狂的終末論者

https://youtu.be/SoC66n3YVLk


ーーーレジュメーーー

【キリスト教史解説】リヨンのエイレナイオス Irenaeus, ca. 130-ca. 202 CE


 1 要約

130年頃-202年頃。リヨンの司教。ポリュカルポスに師事。使徒権の継承、ローマ首位権など、正統主義神学を確立。グノーシス主義、モンタヌス主義を論駁。対グノーシスの書『異端駁論』。


 2 概要

*小アジアのスミルナ(スミュルナ)に生まれる。


*少年時代、使徒教父ポリュカルポスに接し、使徒ヨハネについてやヨハネが語ったイエスの話を聞かされたという(エウセビオス『教会史』、第5巻20章)。


*使徒ヨハネの弟子とされるポリュカルポスに師事。その後、リヨン(現在のフランス南東部)の司教に就任。


*1世紀後半以降の時代における異端との戦いで、正統主義神学を確立。使徒教父を重んじ、聖職における使徒権の継承と、ローマ首位権を主張した。

 ・ローマと対立的だったポリュカルポスとは異なる


*ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの統治時代、リヨンでキリスト教徒が迫害され、処刑された時期と重なったものの、たまたまエイレナイオスはこの時ローマに滞在していたため、難を免れた。


*最後は殉教したと言われているが、詳細は不明。


*エイレナイオスの正統主義は、異端に対する徹底した攻撃にも表されている。

 a グノーシス主義に対抗して、『異端駁論』を執筆

  (『異端反駁』『対異端駁論』)全5巻、 180年頃成立


・ワレンティヌスやバシレイデスなど、2世紀のグノーシス主義者に対して為された論争書

・正式名称:『不当にもグノーシスと呼ばれているものの罪状立証と反駁』


  b 熱狂的終末論や千年王国説を展開したモンタヌス主義とも対立


 3 イエスの公生涯に関するエイレナイオスによる議論

*グノーシス主義のプトレマイオス派によれば、イエスは30歳で公生涯を開始、12ヶ月後にユダの裏切りにより十字架刑に処せられたとされている。

*これに対しエイレナイオスは、イエスの30歳での宣教開始について否定しないが、活動期間を10年以上とする。すなわち、イエスは40代で亡くなったという仮説を本書の中で論じている。


参考箇所:Adversus Haereses, 2.22.5-6.   異端駁論の第2巻第22章5節から6節 英訳は以下のアドレスを参照。

http://www.newadvent.org/fathers/index.html


ーーーテキストーーー

リヨンのエイレナイオス Irenaeus, ca. 130-ca. 202 CE


 【要約】

130年頃-202年頃。リヨンの司教。ポリュカルポスに師事。使徒権の継承、ローマ首位権等、正統主義神学を確立。グノーシス主義、モンタヌス主義を論駁。対グノーシスの書『異端駁論』。


 【本文】

 小アジアのスミルナ(スミュルナ)に生まれる。


 少年時代、使徒教父ポリュカルポスに接し、ヨハネやヨハネが語るイエスの話を聞いたという(エウセビオス『教会史』、第5巻20章)。


 ヨハネの弟子とされるポリュカルポスに師事。その後、リヨンの司教となった。1世紀後半以降の時代における異端との戦いで、正統主義神学を確立。使徒教父を重んじ、聖職における使徒権の継承と、ローマ首位権を主張した。


 ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの統治時代、リヨンでキリスト教徒が迫害され、処刑された時期と重なるが、エイレナイオスはこの時ローマに滞在していたため、難を免れた。


 最後は殉教したと言われているが、詳細は不明。


 エイレナイオスの正統主義は、異端に対する徹底した攻撃にも表されており、グノーシス主義に対抗して、『異端駁論』を執筆した他、熱狂的終末論や千年王国説を展開したモンタヌス主義と対立した(対モンタヌス主義)。


 主要著作

『異端反駁』(『対異端駁論』)全5巻、 180年頃。ワレンティヌスやバシレイデスといった、2世紀におけるグノーシス主義者に対して為された論争書。正式名称:『不当にもグノーシスと呼ばれているものの罪状立証と反駁』。プトレマイオス派によれば、イエスは30歳で公生涯を開始、12ヶ月後にユダの裏切りにより十字架刑に処せられたとされている。エイレナイオスは30歳について否定しないが、活動期間を10年以上としている。


 その他

イエスの公生涯に関するエイレナイオスによる議論

Adversus Haereses, 2.22.5-6.   異端駁論の第2巻第22章5節から6節の引用です(英訳)。


5. They, however, that they may establish their false opinion regarding that which is written, to proclaim the acceptable year of the Lord, maintain that He preached for one year only, and then suffered in the twelfth month. [In speaking thus,] they are forgetful to their own disadvantage, destroying His whole work, and robbing Him of that age which is both more necessary and more honourable than any other; that more advanced age, I mean, during which also as a teacher He excelled all others. For how could He have had disciples, if He did not teach? And how could He have taught, unless He had reached the age of a Master? For when He came to be baptized, He had not yet completed His thirtieth year, but was beginning to be about thirty years of age (for thus Luke, who has mentioned His years, has expressed it: Now Jesus was, as it were, beginning to be thirty years old, Luke 3:23 when He came to receive baptism); and, [according to these men,] He preached only one year reckoning from His baptism. On completing His thirtieth year He suffered, being in fact still a young man, and who had by no means attained to advanced age. Now, that the first stage of early life embraces thirty years, and that this extends onwards to the fortieth year, every one will admit; but from the fortieth and fiftieth year a man begins to decline towards old age, which our Lord possessed while He still fulfilled the office of a Teacher, even as the Gospel and all the elders testify; those who were conversant in Asia with John, the disciple of the Lord, [affirming] that John conveyed to them that information. And he remained among them up to the times of Trajan. Some of them, moreover, saw not only John, but the other apostles also, and heard the very same account from them, and bear testimony as to the [validity of] the statement. Whom then should we rather believe? Whether such men as these, or Ptolemaus, who never saw the apostles, and who never even in his dreams attained to the slightest trace of an apostle?


6. But, besides this, those very Jews who then disputed with the Lord Jesus Christ have most clearly indicated the same thing. For when the Lord said to them, Your father Abraham rejoiced to see My day; and he saw it, and was glad, they answered Him, You are not yet fifty years old, and have You seen Abraham? John 8:56-57 Now, such language is fittingly applied to one who has already passed the age of forty, without having as yet reached his fiftieth year, yet is not far from this latter period. But to one who is only thirty years old it would unquestionably be said, You are not yet forty years old. For those who wished to convict Him of falsehood would certainly not extend the number of His years far beyond the age which they saw He had attained; but they mentioned a period near His real age, whether they had truly ascertained this out of the entry in the public register, or simply made a conjecture from what they observed that He was above forty years old, and that He certainly was not one of only thirty years of age. For it is altogether unreasonable to suppose that they were mistaken by twenty years, when they wished to prove Him younger than the times of Abraham. For what they saw, that they also expressed; and He whom they beheld was not a mere phantasm, but an actual being of flesh and blood. He did not then want much of being fifty years old; and, in accordance with that fact, they said to Him, You are not yet fifty years old, and have You seen Abraham? He did not therefore preach only for one year, nor did He suffer in the twelfth month of the year. For the period included between the thirtieth and the fiftieth year can never be regarded as one year, unless indeed, among their Aons, there be so long years assigned to those who sit in their ranks with Bythus in the Pleroma; of which beings Homer the poet, too, has spoken, doubtless being inspired by the Mother of their [system of] error:?

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