2026年10月14日水曜日

日蓮正宗と創価学会――「破門」に至る20年(1977〜1997年)

 

日蓮正宗と創価学会――「破門」に至る20年(1977〜1997年)


今回の三つの問い

  1. 創価学会は、もともと日蓮正宗とどういう関係にあったのか
  2. 対立はどのように始まり、どう深まっていったのか
  3. 双方はこの出来事を、それぞれどう語っているのか

前提:信徒団体としての創価学会

  • 日蓮正宗(にちれんしょうしゅう):静岡県・大石寺(たいせきじ)を総本山とする宗派(以下「宗門」)
    • ※日蓮宗(にちれんしゅう)とは別の宗派
  • 創価学会:日蓮正宗の在家の信徒団体として発展

宗教法人化にあたっての三原則(1951年、宗門側資料による)

第2代会長・戸田城聖(とだ じょうせい)が約束

  1. 折伏(しゃくぶく)した人は、信徒として各寺院に所属させる
  2. 日蓮正宗の教義を守る
  3. 三宝(さんぼう)=仏・法・僧を守る

→ 1952年、学会は宗教法人の認証を受ける


全体の流れ

時期呼び方(本レジュメ)主な出来事
1970年代後半第1次宗門問題昭和52年路線 → 謝罪 → 池田会長辞任 → 収束
1990年代第2次宗門問題文書の応酬 → 宗規改正 → 破門 → 会員の資格喪失
  • ※呼び方は資料によって揺れがある
  • 1991年の破門=対立の原因ではなく、積み重なった対立が組織の分離として形になった地点

第1次宗門問題(1977〜1979年)

1977年:「昭和52年路線」

  • 1月、池田大作(いけだ だいさく)会長が教学部大会で講演
  • 宗門側はこれを「昭和52年路線」が表に出たきっかけと位置づけ
  • 宗門側が問題視した点(宗門側の整理)
    • 寺院を軽く見る考え方
    • 会長を中心とする指導
    • 法主(ほっす)が受け継ぐ血脈(けちみゃく)を経ずに、日蓮に直接つながるという考え方

1978年:訂正と謝罪

日付出来事
6月宗門が教義に関する34項目の質問書を送付
6月30日学会が聖教新聞に「教学上の基本問題について」を掲載、教義上の表現を改める
11月7日大石寺での会合で、池田会長が一連の問題について謝罪

1979年:会長辞任と収束

日付出来事
4月24日池田氏が会長を辞任し、名誉会長に
4月26日法華講(ほっけこう)総講頭(そうこうとう)も辞任
5月3日第66世法主・細井日達(ほそい にったつ)が問題の収束を表明
7月日達が死去、阿部日顕(あべ にっけん)が第67世法主に
  • 1984年:池田氏が総講頭に再任 → 後の展開で意味を持つ

第2次宗門問題(1990年〜)

1990年7月:連絡会議

  • 7月17日、宗門と学会の連絡会議 → 双方の説明が食い違う
宗門側の説明学会側の説明
学会側が法主・宗門を一方的に批判して席を立った宗門に綱紀粛正を求めた

「C作戦」【学会側の主張】

  • 7月16日・18日に宗門上層部が会議を開き、学会との分離を狙う計画(いわゆる「C作戦」)を話し合った、とする主張
  • 根拠:法主の側近だった僧侶のメモなど
  • 宗門の公式年表には記載なし

※あくまで学会側の主張として紹介

1990年11〜12月:文書の応酬

時期出来事
11月16日学会本部幹部会で池田名誉会長がスピーチ
12月宗門側:法主・僧侶を軽んじる発言と受け止め、「お尋ね」文書を送付
〃学会側:問題とされた発言はしていないと反論、9項目の「お伺い」文書を返送

→ 文書のやり取りは話し合いにつながらず

1990年12月27日:宗規の改正

  • 臨時の宗会(しゅうかい)で宗規(しゅうき)の一部を改正
  • 池田氏 → 総講頭の資格を喪失
  • 秋谷栄之助(あきや えいのすけ)会長ら → 大講頭(だいこうとう)の資格を喪失
宗門側の説明学会側の見方
以前から必要だった規則の整備池田氏らを一方的に役職から外す措置

1991年:対立の激化

時期出来事
1月〜学会の機関紙で宗門批判が始まる(宗門側の年表による)
3月海外信徒の指導を、SGIに任せず宗門が直接行うことに
7月大石寺参拝を、各寺院の紹介状「添書」(てんしょ)による方式に変更
この年学会が僧侶を呼ばない葬儀を開始(宗門側の年表による)→ のちの「友人葬」

二つの争点

争点宗門側学会側
葬儀宗門の儀礼=化儀(けぎ)に反する信徒の自主的な宗教活動
法主の権威唯一人に受け継がれる血脈を受けた法主に従うことは信仰の根本僧侶による行き過ぎた権威化

1991年11月:解散勧告と破門

日付出来事
11月7日宗門が「解散勧告書」を送付、信徒団体として自ら解散するよう求める
11月28日学会が従わず、宗門が創価学会とSGIに「破門通告書」を送付
  • 解散勧告の理由:三宝を壊した/伝統の教えを変えた/宗門を攻撃した など
  • 宗門側の表現では「およそ60年に及んだ関係」が終わる

破門をめぐる二つの見方

宗門側学会側
学会自身が宗門から離れていったことを正式に確認したもの宗門による一方的な切り捨て
「魂の独立」と呼び、11月28日を記念日に
日顕法主の退座を求める署名が全世界で1600万人超と発表(学会側の発表)

破門後の分離

1992年:池田氏の除名

  • 8月、宗門が池田氏を信徒から除名

1993年:本尊の問題

  • 本尊(ほんぞん)=信仰の中心として拝む対象
  • 破門により、学会は宗門から本尊を受けられなくなる
  • 9月、学会が江戸時代の法主・日寛(にちかん)書写の本尊を複製し、会員に授与すると発表
    • 原本:宗門を離れた栃木県の寺院・淨圓寺(じょうえんじ)所蔵
宗門側学会側
正統ではない本尊日寛の書写による正当な本尊

1997年:会員個人の資格喪失

  • 破門後もしばらく、宗門は学会員個人を日蓮正宗の信徒として扱う
  • 9月、学会に所属したままの会員の信徒資格を失わせることを決定
  • 12月1日に実施
  • → 組織だけでなく、会員個人の単位でも関係が切れる

まとめ

① 広がった争点

教義 → 法主の権威 → 組織のあり方 → 葬儀などの儀礼 → 本尊 → 信徒の資格

  • ※争点は重なり合っており、はっきりした段階を順に踏んだわけではない

② 二つの物語

日蓮正宗創価学会
「学会が宗門から逸脱した」「宗門が学会を切り捨てた」
  • 同じ出来事でも、呼び方からして違う
  • → 一度の処分ではなく、どちらが正統かをめぐる争いだった

年表(総括)

年出来事
1951戸田城聖が三原則を約束(宗門側資料)
1952創価学会、宗教法人に
1977池田会長の講演(「昭和52年路線」)
197834項目の質問書/教義表現の訂正/池田会長の謝罪
1979池田会長辞任・総講頭辞任/日達が収束表明/日顕が法主に
1984池田氏、総講頭に再任
1990連絡会議(7月)/池田スピーチ(11月)/「お尋ね」「お伺い」(12月)/宗規改正(12月27日)
1991海外信徒の直接指導(3月)/添書方式(7月)/解散勧告(11月7日)/破門(11月28日)
1992池田氏を除名(8月)
1993学会が日寛書写本尊の授与を発表(9月)
1997学会員の信徒資格喪失(12月1日実施)

出典

日蓮正宗側の資料

創価学会側の資料

補助資料

  • Wikipedia「創価学会」
  • 東洋経済オンライン「極秘資料からたどる『創価学会』の黒歴史③」

※日蓮正宗・創価学会の資料は、いずれも当事者による説明です。

1-2 キリスト教解説

1-2-1 キリスト教史(教会史)(目次)

1-2-2 新約聖書(目次)


1-2-x キリスト教学(目次)



【宗教学 講義】②呪術と科学と宗教──フレーザー、マレット、マリノフスキーの説を軸に

 

宗教学講義「呪術と科学と宗教」レジュメ

――フレーザー・マレット・マリノフスキー――


今日の流れ

  1. 呪術とは何か
  2. フレーザーの呪術論
  3. 呪術の類型
  4. マレットの批判
  5. マリノフスキーの理論
  6. 呪術と宗教の違い

序 「呪術」とは?

  • 呪術=まじない、呪い、占い、魔法など
  • 「呪い」は「まじない」とも読む
  • 英語 magic の語源は「マギ」
    • マギ=古代ペルシアの祭司階級(ゾロアスター教。占星術・夢解きでも知られる)

呪術とマナ

  • マナ=人や物に宿る超自然的な力
  • 呪術=マナを得るための儀礼的行為(前回学んだマレットの見方)
  • 「マナ」はコドリントンがメラネシアから紹介した言葉

※フレーザー自身の定義ではない点に注意


1. フレーザーの呪術論

  • J. G. フレーザー:スコットランド出身の社会人類学者
  • 主著『金枝篇』――世界中の呪術・儀礼の事例を比較した大著

1.1 呪術の二つの原理

原理呪術考え方例
類似の原理類感呪術(模倣呪術)似たものは似たものを生む雨乞い――口で霧を吹く、濡れた枝を振って雨を表す
接触の原理感染呪術(伝染呪術)一度触れたものは、離れても影響し合う獲物の足跡に槍を突き刺す/髪の毛・爪・へその緒を呪いに使う
  • 髪の毛・爪・へその緒 → 粗末に扱うこと自体がタブーになる
  • ※感染呪術にも類似・連想の要素が含まれる(へその緒―命―死)
  • 二つをまとめて「共感呪術」と呼ぶ

1.2 積極的呪術と消極的呪術

  • 積極的呪術:「〜せよ」=妖術
  • 消極的呪術:「〜するな」=タブー
  • 類感呪術・感染呪術のどちらにも両方がある

1.3 共感作用

  • 呪術行為=期待する出来事を「共感的に」呼び起こす
  • 例:蠱毒(こどく)/中国――毒虫を甕に入れ、呪いの毒を作る

1.4 観念連合の法則

  • 類似による連合 → 類感呪術
  • 接触による連合 → 感染呪術
  • 観念連合を正しく使えば → 科学
  • 観念連合を誤って使えば → 呪術

例:憎い相手を傷つけたいとき

  • 科学的 → 直接、物理的に損傷を与える
  • 呪術的 → 藁人形に釘を打つ(類感呪術+感染呪術)

1.5 呪術と科学の共通点

  • どちらも「自然は不変の法則で機械的に動く」と考える
  • 同じ原因からは、いつも同じ結果が生まれる
  • ただし呪術は、法則の理解を誤っている
  • 呪術=「科学の私生児」(フレーザーの表現)

1.6 宗教は何が違うのか(教科書で紹介されているフレーザーの説)

対象自然観
宗教人格をもつ超自然的存在に願う自然の運行は可変的で、変えてもらえる
呪術非人格的な力を、法則どおり機械的に操る自然は不変の法則で動く
  • この点で、呪術はむしろ科学に近く、宗教と対立する

1.7 呪術と宗教、どちらが先か

  • フレーザーの発展図式:呪術 → 宗教 → 科学
    1. 呪術が効かない → 虚無感・無力感
    2. 超自然的存在にへりくだる → 宗教が体系化
    3. 呪術・宗教の限界に気づく → 科学へ

※現在では単純すぎると批判されるが、部分的にはうなずける点もある


2. 呪術の類型(フレーザー以後の分類)

2.1 反復呪術

  • 同じ所作をくり返す
  • 例:洞窟壁画の重ね描き
  • おまじないの定型化 → マニュアル化と再現性

2.2 直接的呪術と間接的呪術(ファン・ヘネップ『通過儀礼』による区分)

  • 直接的呪術:力が自動的に働く
    • 例:槍に「飛べ」と命じる、ハリー・ポッターの呪文
  • 間接的呪術:悪魔・精霊など、人格的な力を介す

2.3 何もしなくても災いが?

  • 13日の金曜日、日本の数字「4」
  • 連想による呪術的・共感的な発想
  • 出会うだけで自動的に災い=「パッシブスキル」的

2.4 白魔術と黒魔術

  • 白魔術:社会や個人に有益
  • 黒魔術:社会や個人に危害を及ぼす

※後付けの分類であることに注意


3. マレットの批判

  • 宗教起源論:タイラーを主知主義的(合理主義的)と批判
  • 情緒・感情を重視
  • 呪術は原始社会の「疑似科学」ではない(フレーザー批判)
  • 呪術=知的な誤りではなく、衝動・激情の表れ

原型的呪術と慣習的呪術

  • 原型的呪術:衝動をそのまま表す行動
  • 慣習的呪術:定型化した呪術行為
    • → やがて呪術儀礼の体系化へ

4. マリノフスキーの理論

  • ポーランド出身、イギリスの人類学者
  • 物理学・哲学を学ぶ → 『金枝篇』に感銘を受け人類学へ
  • 論文「呪術・科学・宗教」(1925)

4.1 生活の二つの領域

領域対応するもの
世俗の領域科学(経験的・合理的な知識)
聖なる領域呪術・宗教
  • 呪術は科学ではない(フレーザー批判)
  • 未開社会の人々も、科学的な知識を持っている
  • 例:現代の科学社会でも、宗教的信仰は科学と同居している

4.2 いつ聖なる領域へ向かうのか

  • 平穏な日常:科学的に考える(世俗の領域)
  • 危機のとき:自分の力の限界 → 聖なる領域へ
  • 例:トロブリアンド諸島の漁
    • 穏やかな礁湖での漁 → 呪術なし
    • 危険な外洋での漁 → 念入りな呪術

5. 呪術と宗教

5.1 手段か、目的か(聖なる領域の中での違い)

性格例
呪術儀礼目的のための手段。現世利益的金儲けのまじない
宗教儀礼儀礼を行うこと自体が目的礼拝

5.2 実際には区別しきれない

  • フレーザー、マリノフスキーの問題点:現実には完全に区別できない
  • 一般的な「傾向」として見る
    • 呪術寄り:雨乞い、病気の癒し
    • 宗教寄り:世界平和、人類愛(道徳的)
  • 仏教では説法(教えを説くこと)が重視される
  • 神道は、体系化された教義・経典を持たない

まとめ

論者呪術の捉え方
フレーザー呪術は誤った科学(「科学の私生児」)
マレット呪術は感情・衝動の表れ
マリノフスキー呪術は危機に働く、聖なる領域のもの

  • 呪術と宗教は、理論上は区別されるが、現実には連続している

【宗教学 講義】①宗教の始まり――その原初形態 #アニミズム説 #プレアニミズム説 #文化人類学 #原始一神教説 #多神教説

 

【宗教学 講義】① 宗教の始まり――その原初形態

今日の問い

  • 動物は神を信じない。しかし人間は古くから神的なものを信じてきた
  • 時代・地域を問わず、人間の営みのあるところには宗教的営みがある
  • 宗教はどのようにして始まったのか?

2つの手がかり

方法内容
考古学遺跡・墓・道具・壁画などの遺物から、古代人類の心を推し量る
民族学伝統的な暮らしを続ける先住民族の宗教から、宗教の古い形を考える

第1部 考古学から探る

登場する2つの人類

ネアンデルタール人クロマニヨン人
区分旧人新人(ホモ・サピエンス)
時代約40万年前〜4万年前約4万年前〜1万年前(後期旧石器時代)
地域ヨーロッパ〜西アジアヨーロッパ
備考1868年、フランスの鉄道工事で人骨発見

1. 死をめぐる宗教性(ネアンデルタール人の埋葬)

  • 伸展葬・屈葬の姿勢で埋葬
    • 屈葬=胎児の姿勢 → 死と再生の観念か
  • 石器・動物の骨の副葬、赤い顔料(血を連想)の例
    • 死後にも意味のある世界があると考えていた可能性
  • ※意図的な副葬かどうかは研究者間で議論あり

2. 誕生をめぐる宗教性(クロマニヨン人の女性像)

  • ヴィレンドルフのヴィーナス(オーストリア、約3万年前・彫像)
  • ローセルのヴィーナス(フランス、約2万5千年前・浮き彫り)
  • 胸・腹・腰など女性の身体の特徴を強調
  • → 命を生み出す力への憧れ・畏れ/誕生は神秘そのもの

3. 狩猟をめぐる宗教性(洞窟壁画)

  • ラスコー(フランス、約1万7千年前)、アルタミラ(スペイン)
  • 描かれた対象:馬・鹿・野牛・マンモスなど狩りの獲物
  • レ・トロワ・フレールの「踊る呪術師」(フランス、約1万3千年前)
    • 鹿の角をもつ半人半獣の姿 → 毛皮・角をまとった儀礼者か

壁画から何が言えるか

  • 特徴
    1. 洞窟の奥深く、光の届かない秘められた場所に描かれる
    2. 同じ場所に何度も重ねて描かれる
    3. 地域の壁画に共通する構造的特徴
  • → 鑑賞用ではなく、狩りの成功を願う繰り返しの儀礼=狩猟儀礼の跡
  • → マニュアル化された儀礼の背後に、共有された宗教的・神話的世界観

第2部 民族学から探る

19世紀末〜20世紀初頭、先住民族の宗教から宗教の起源を説明しようとする学説が登場

1. アニミズム説(E. タイラー)

  • イギリス、「文化人類学の父」、主著『原始文化』(1871年)
  • アニミズム:ラテン語「アニマ(魂)」から。万物に魂が宿るという考え
  • 霊的存在への信仰こそ宗教の最も基本的な形
  • 魂の観念の発生
    • 死:同じ体なのに動かなくなる → 命のもとは何か
    • 夢:体はここにあるのに遠くへ行き、死者に会う
    • → 肉体とは別の「第二の自己」=魂
    • → 動植物・山川など森羅万象へ拡大

2. プレアニミズム説(R. マレット)

  • イギリス、1900年の論文
  • タイラー批判:死や夢から魂の観念を導くのは知的すぎる
  • 宗教の根は感情的なもの、アニミズム以前の段階(=プレ)
  • マナ(メラネシア語):人格をもたない不可解な力 → 畏敬の念
  • タブー(ポリネシア語、禁忌):その力に不用意に触れてはならない禁止
  • 「タブー・マナ公式」=宗教の最も基本的な形

3. 原始一神教説(W. シュミット)

  • ドイツ出身・オーストリアで活動、カトリック司祭、ウィーン学派の中心
  • 方法論の整備を重視:グレープナーらの文化圏説を発展
    • 原文化 → 第1次文化 → 第2次文化 → 第3次文化
  • 原文化の例:ピグミー、サン(アフリカ)、アンダマン諸島民、イヌイット
  • 原文化に共通するのは唯一の至高神への信仰
  • 新しい段階ほどアニミズム・多神教が増える
  • → 一神教から多神教へ(タイラーと正反対)
  • 批判:文化圏の分け方が恣意的
  • 先駆者:A. ラング(イギリス)― 未開社会の至高神に注目

コラム:学説も「自分」に引き寄せられる

  • 進化論型:多神教 → 唯一神教 → ヨーロッパ文明(自分たちが最も進化した形)
  • 退化論型:一神教が原初 → 多神教へ崩れる(自分たちこそ本来の姿)
  • 方向は正反対でも、自分の立場を中心に据える点は同じ
  • → 自分に都合よく論を組み立てる危険を常に意識する

4. 三要素の総合(N. ゼーデルブロム)

  • スウェーデンの宗教史学者、ウプサラ大司教、1930年ノーベル平和賞
  • アニミズムだけでは説明できない/シュミットは唯一神に引き寄せすぎ
  • 宗教発生の三要素
    1. 魂の観念(アニミズム)
    2. 不可解な力(マナ)
    3. 世界を造った「起因者」(至高の存在)
  • → 三者の組み合わせで神信仰が発展

その他の宗教形態

形態内容
フェティシズム呪物・護符など力の宿る物の崇拝。ポルトガル語「フェイティソ」。18世紀ド・ブロスが原初形態として論じる(のち心理学で別義)
トーテミズム集団と特定の動植物を結びつける制度。北米先住民オジブワの「親族・氏族」を意味する語に由来
祖先崇拝亡くなった祖先の霊を崇める
自然崇拝山・岩・太陽・月など、力や霊が宿るとされる自然物を崇める(例:日本の「霊峰」)

まとめ

学説提唱者宗教の原初形態
アニミズム説タイラー(1871)霊的存在(魂)への信仰
プレアニミズム説マレット(1900)非人格的な力(マナ)への畏敬とタブー
原始一神教説シュミット唯一の至高神への信仰
三要素の総合ゼーデルブロム魂・マナ・起因者の組み合わせ

【キリスト教史解説】殉教者ユスティノス ― ギリシア哲学とキリスト教の対話

 

殉教者ユスティノス ― ギリシア哲学とキリスト教の対話

キリスト教史解説 レジュメ

問い:哲学とキリスト教は対立するのか、それともつながっているのか。


1. 基本データ

項目内容
生没年100年頃 ― 165年頃
出身サマリア地方フラウィア・ネオポリス(現パレスチナ・ナブルス)
活動の中心ローマ
呼び名「殉教者ユスティノス」「哲学者ユスティノス」
主著『第一護教論』『第二護教論』『ユダヤ人トリュフォンとの対話』(いずれもギリシア語)
位置づけギリシア教父の一人/2世紀を代表する護教家

護教家(アポロジスト)とは

  • 2世紀、周囲の社会からの批判・誤解に対し、哲学的・論理的にキリスト教を擁護した思想家たち
  • ギリシア語:アリステイデス、タティアノス(ユスティノスの弟子)、アテナゴラス など
  • ラテン語(やや後代):テルトゥリアヌス
  • ユスティノスはその中で最重要の一人

2. 生涯

(1) 哲学の遍歴(『トリュフォンとの対話』冒頭)

順学派結果
①ストア派神について何も教えてくれない
②逍遥学派(アリストテレス派)すぐに授業料の話を持ち出す
③ピタゴラス派先に音楽・天文学・幾何学を学べと言われる
④プラトン派強く惹かれる ― しかし、これで終わらない

(2) 回心

  • 海辺で一人の老人と出会い、問答を重ねる
  • 哲学だけでは神を知りえないこと、哲学者より古く真理を語った預言者たちを示される
  • 「心に火がともった」 → キリスト教こそ「確かで有益な、ただ一つの哲学」
  • キリスト教 = 哲学を捨てて入るものではなく、「本当の哲学」
  • 回心の場所は本文に記載なし(エフェソス説が多いが不確実)
  • 『第二護教論』:死を恐れないキリスト教徒の姿にも心を動かされたと述懐

(3) ローマでの活動と殉教

  • 2世紀半ば、ローマでキリスト教を教え、哲学的に擁護
  • 教会内部の異説とも対決 ― 例:マルキオン(旧約の神とキリストの父なる神を別の神とする説)を批判
  • 165年頃、マルクス・アウレリウス帝治下で殉教
  • 『ユスティノス殉教録』:首都長官ユニウス・ルスティクスの裁判 → 仲間とともに斬首

3. 思想(中心)

(1) 哲学を否定しない

  • 哲学のなかにも真理があると認める
  • その真理をキリスト教との関係で捉え直す
  • ギリシア哲学の概念・言葉でキリスト教信仰を説明した最初期の重要な思想家
  • 結びつけの鍵 = 「ロゴス」

(2) ロゴス

  • ギリシア語で「言葉」「理性」
  • ギリシア哲学:世界を貫く理性、世界秩序の原理
  • ヨハネ福音書1:1「初めに言(ロゴス)があった」
  • ユスティノス:キリスト = 創造に先立って神から生まれたロゴス
  • ロゴスは受肉以前から世界のなかで働いていた

(3) 種子的ロゴス

  • ロゴスはすべての人間に「種」を蒔いている
  • 用語の区別(混同に注意)
用語指すもの
種子的ロゴス(ロゴス・スペルマティコス)種を蒔く側のロゴス
ロゴスの種子人間の側に蒔かれたもの

(4) 部分と全体

  • 哲学者たち(プラトン、ストア派など)も、それぞれの程度に応じて真理の一部を認識しえた
  • 『第一護教論』:ロゴスに従って生きた人は、キリスト以前でもキリスト者 ― 例:ソクラテス、ヘラクレイトス
  • ただし哲学者の真理は部分的 → ロゴスの全体はイエス・キリストにおいて現れた
  • 結論:キリスト教は哲学と対立する一宗教ではなく、哲学者が求めた真理がキリストにおいて完全に示されたもの

(5) 補足

  • 先行者フィロン:聖書の伝統をギリシア哲学の言葉で解釈する試みは、ユダヤ教側にアレクサンドリアのフィロンがいた
  • 借用説:プラトンはモーセから学んだ(哲学の真理は聖書からの借用)という別の説明
    • 歴史的事実ではないが、哲学と聖書を一つにつなげようとする姿勢がうかがえる

4. 著作

(1) 『第一護教論』

  • 150年代半ば、皇帝アントニヌス・ピウスとその息子たちに宛てる
  • キリスト教徒への非難(無神論・不道徳・国家への不忠実)に対する弁明
  • 神、イエス・キリスト、復活、キリスト者の生活を説明
  • 終盤:洗礼・聖餐・日曜日の礼拝の記述 ― 初期キリスト教礼拝の最古の証言の一つ
  • ソクラテスも真理を語ったゆえに迫害された ― キリスト者への迫害も同じ

(2) 『第二護教論』

  • ローマ元老院宛て
  • 独立した書というより『第一護教論』の付録とみる説が有力
  • 13章:種子的ロゴスを語る最も有名な箇所
    • プラトン、ストア派、詩人、歴史家は、種子的ロゴスの分け前に応じて真理の一部を語った

(3) 『ユダヤ人トリュフォンとの対話』

  • ユダヤ人トリュフォンとの対話形式
  • 冒頭:ユスティノス自身の哲学遍歴と回心
  • 本論:旧約の預言がイエス・キリストにおいて成就したことを論証
  • 主題:旧約と新約は神の救いの計画として一つ ― キリスト教にとって旧約聖書のもつ意味
  • 対話の舞台:エフェソス(エウセビオス『教会史』による)

5. まとめ

  • 2世紀を代表する護教家
  • 哲学諸派を遍歴 → 回心 → ローマで教授 → 165年頃殉教
  • ギリシア哲学を否定せず:哲学者の真理は、種子的ロゴスが人間に蒔いた種子による
  • その真理の完全な現れをキリストに見いだす
  • 哲学者であり殉教者 ― 両者は矛盾しない。キリスト教こそ「本当の哲学」だから

主な参照

  • ユスティノス『第一護教論』5; 26; 44; 46; 58–60; 61–67
  • ユスティノス『第二護教論』8; 10; 12; 13
  • ユスティノス『ユダヤ人トリュフォンとの対話』1–8
  • 『ユスティノス殉教録』
  • エウセビオス『教会史』4.18

1-3-1 マタイによる福音書

22章

 22:15-22  22:23-33  22:34-40  22:41-46

23章

23:1-12  23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)  23:13-36(④23:23-24)  23:13-36(⑤23:25-26)  23:13-36(⑥23:27-28)  23:13-36(⑦23:29–36)  23:37-39

24章

24:1-2  24:3-14  24:15-28  24:29-31  24:32-35  24:36-44  24:45-51

25章

25:1-13  25:31-46

26章

26:1-5  26:6-13

26:36-46  26:47-56

27章

マタイ27:45-56「イエスの死」


28章

28:1-10

説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解 マタイ27:45-56「イエスの死」


概要

 本箇所は、マタイ福音書における十字架の死そのものを描く場面です。直前(27:38-44)では、通行人、祭司長・律法学者・長老たち、さらには共に十字架につけられた強盗たちまでが、口々にイエスを嘲笑していました。「もし神の子なら十字架から降りてこい」「神に依り頼んでいるのだから、神が助けたければ助けてもらえばよい」といった嘲りの声が響く中、45節の暗闇がその騒ぎを断ち切るように訪れます。
 全体は四つの部分から構成されます。
(A) 45-50節:暗闇・叫び・死
(B) 51-53節:終末的なしるし
(C) 54節:異邦人の告白
(D) 55-56節:見守る女たち
 第一部では、正午から午後三時までの三時間、全地が闇に覆われます。アモス書8章9節の「真昼に太陽を沈ませる」という審きの預言が背景にあります。その闇の終わりに、イエスは詩編22編2節の言葉「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」を叫びます。マタイ福音書でイエスが神を「父」と呼ばずに祈る唯一の箇所です。周囲の者たちはその叫びを「エリヤを呼んでいる」と誤解し、最後まで理解に至りません。そしてイエスは再び大声で叫び、「霊を放たれ」ます。奪われた死ではなく、自ら渡された死として描かれています。
 第二部では、神殿の垂れ幕が裂け、地が揺れ、岩が裂け、墓が開き、眠っていた聖なる者たちが起こされます。すべて受動態で語られ、その背後に神の働きが示されています。十字架の死が、新しい創造と復活の力をすでに解き放つ出来事として描かれているのです。
 第三部は頂点です。嘲笑者たちが「神の子なら」と条件つきで語った言葉を、ローマの百人隊長が「まことに、この人は神の子であった」と告白します。洗礼(3:17)と変貌(17:5)で神ご自身が宣言した言葉に、人間の側から初めて正しく応答するのが、異邦人の兵士であるという逆転が起こります。
 第四部では、ガリラヤから従い仕えてきた女たちが遠くから見つめています。男の弟子たちが皆逃げ去った後(26:56)、十字架・埋葬・空の墓を一貫して見届ける証人は、彼女たちだけでした。

マタイ27:45

  • 原文: Ἀπὸ δὲ ἕκτης ὥρας σκότος ἐγένετο ἐπὶ πᾶσαν τὴν γῆν ἕως ὥρας ἐνάτης.
  • 私訳: さて第六の時から第九の時まで、闇が全地の上に生じた。

文法解析

  • ἐγένετο:γίνομαι「生じる、なる」第二アオリスト・中動態(形式所相)・直説法・三人称単数

注解

  • 「第六の時から第九の時まで」:ユダヤの時刻法では、日の出(およそ午前六時)を起点として時を数えます。したがって第六時は正午、第九時は午後三時にあたります。マルコ15:25によれば、イエスが十字架につけられたのは第三時(午前九時)でしたから、すでに三時間が経過し、そこからさらに三時間の闇が続いたことになります。三時間という時間の重なりが、この場面に儀式的な均整を与えています。第九時は、神殿で夕の供え物が献げられる時刻でもありました(使徒言行録3:1)。
  • 「σκότος ἐγένετο(闇が生じた)」:動詞 γίνομαι は「〜になる、生起する」の意で、創世記1:3の七十人訳「光あれ。すると光があった(καὶ ἐγένετο φῶς)」を想起させる語です。創造の初めに「生じた」のが光であったとすれば、ここで「生じた」のは闇です。新しい創造の前に、いったん原初の暗闇へと世界が引き戻されるかのような描写です。
  • 旧約の背景:この闇を理解する鍵は、預言者の言葉にあります。最も近いのはアモス8:9です。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」。この預言は、続く10節で「わたしはあなたたちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え……独り子を失ったような悲しみとし、その最期を苦悩の日とする」と続きます。「独り子」を失う悲しみと「真昼の闇」が結びつけられているこの箇所は、十字架の場面に驚くほど適合します。
  • さらに、出エジプト記10:21-23の第九の災い、三日間エジプトを覆った「手で触れることのできるほどの闇」が背景にあります。そこでは闇が裁きのしるしであり、かつ神の民の救出の直前に置かれていました。またヨエル2:2, 31(「主の日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」)は、終末の「主の日」のしるしとして闇を語ります。
  • 自然現象としての日食などが論じられてきましたが、過越は満月の時期であり、天文学的に日食はありえません。砂嵐や火山灰、厚い雲などの説明も決定的ではありません。福音書記者の関心は気象ではなく、この出来事の意味にあります。
  • 「全地の上に(ἐπὶ πᾶσαν τὴν γῆν)」は「全世界」とも「その地方(ユダヤ全土)」とも訳しうる語です。どちらかは断定できませんが、51節以降の宇宙的な現象を考えると、マタイは前者の含みをもたせていると読むのが自然です。
  • 文脈上の機能:直前の38-44節は嘲笑の言葉で満ちていました。この闇は、その騒がしい声を断ち切り、三時間の沈黙をもたらします。人間の言葉が尽きたところに、次節でイエスの叫びが響きます。

マタイ27:46

  • 原文: περὶ δὲ τὴν ἐνάτην ὥραν ἀνεβόησεν ὁ Ἰησοῦς φωνῇ μεγάλῃ λέγων· ηλι ηλι λεμα σαβαχθανι; τοῦτ᾽ ἔστιν· θεέ μου θεέ μου, ἱνατί με ἐγκατέλιπες;
  • 私訳: さて第九の時ごろ、イエスは大きな声で叫んで言った。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜあなたは私をお見捨てになったのか」という意味である。

文法解析

  • ἀνεβόησεν:ἀναβοάω「叫び上げる、大声を上げる」アオリスト・能動・直説法・三人称単数
  • ηλι:ヘブライ語 אֵלִי「わが神」の音写
  • λεμα:アラム語 לְמָא「なぜ」の音写
  • σαβαχθανι:アラム語 שְׁבַקְתַּנִי(語根 שבק「捨てる」)「あなたは私を見捨てた」の音写

注解

  • 「叫び上げる(ἀναβοάω)」は新約聖書でこの箇所にのみ現れる語で、声を張り上げることを表します。三時間の闇と沈黙を破る突然の叫びを、マタイはこの稀な語で描いています。
  • イエスの言葉は詩編22編2節の引用です。マタイの受難物語全体が詩編22編によって編み上げられています。その詩編の冒頭の言葉が、ここでイエス自身の口から発せられています。
  • ηλι はヘブライ語、λεμα・σαβαχθανι はアラム語です。マルコの並行箇所の「エロイ、エロイ」はアラム語で、イエス時代の話し言葉を再現している一方、マタイはヘブライ語聖書からの引用である「エリ、エリ」を採用しています。また、マタイはヘブライ語形を用いることで、次節の「エリヤ」への誤解を自然にしています。
  • 「見捨てる(ἐγκαταλείπω)」:これは強い語で、神が「決してあなたを見捨てない」と約束された(ヘブライ13:5)その正反対のことが、イエスに対して起こっているという衝撃を含んでいます。
  • この叫びの読み方は古来二つあります。①文字どおり見捨てられたと読む立場、②詩編22編全体の祈りとして読む立場。両者は排他的ではありません。確かなのは、これは神に向けられた言葉であり、信仰の叫びであるということです。しかしその問いに答えは返ってきません。マタイはイエスが本当に暗闇の底を通られたことを強調しています。また、マタイ福音書でイエスが神を「父」と呼ばずに祈るのはここだけでもあります。

マタイ27:47

  • 原文: τινὲς δὲ τῶν ἐκεῖ ἑστηκότων ἀκούσαντες ἔλεγον ὅτι Ἠλίαν φωνεῖ οὗτος.
  • 私訳: するとそこに立っていた者たちのうちの何人かが、聞いて言った。「この者はエリヤを呼んでいる。」

文法解析

  • ἑστηκότων:ἵστημι「立つ、立っている」完了・能動・分詞・男性・複数・属格(完了形で現在の状態「立っている」を表す)
  • ἀκούσαντες:ἀκούω「聞く」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • ἔλεγον:λέγω「言う」未完了・能動・直説法・三人称複数
  • φωνεῖ:φωνέω「呼ぶ、呼び求める」現在・能動・直説法・三人称単数

注解

  • 「立っていた者たち」:処刑場に立ち止まって見物している人々です。「エリ」(ηλι) を「エリア」(Ἠλίας) と結びつけていることから、エリヤ伝承を知るユダヤ人と考えるのが自然です。 
  • エリヤは終末に再来すると信じられていましたが、マタイ11:14、17:10-13によれば、すでに洗礼者ヨハネとして来ており、人々はそれを認めませんでした。
  • 45-50節を通じて、周囲の人々の言葉は的外れです。闇を見ても悟らず、叫びを聞いても誤解する。イエスの死の意味を正しく言い当てるのは、この後、地震も含めて見た異邦人の百人隊長だけです。

マタイ27:48

  • 原文: καὶ εὐθέως δραμὼν εἷς ἐξ αὐτῶν καὶ λαβὼν σπόγγον πλήσας τε ὄξους καὶ περιθεὶς καλάμῳ ἐπότιζεν αὐτόν.
  • 私訳: そしてすぐに彼らのうちの一人が走り、海綿を取り、酸いぶどう酒で満たし、葦につけて彼に飲ませようとした。

文法解析

  • δραμὼν:τρέχω「走る」第二アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • λαβὼν:λαμβάνω「取る」第二アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • σπόγγον:σπόγγος「海綿」名詞・男性・単数・対格
  • πλήσας:πίμπλημι「満たす」アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • ὄξους:ὄξος「酸いぶどう酒、酢」名詞・中性・単数・属格(充満の内容を示す属格)
  • περιθεὶς:περιτίθημι「周りに置く、取りつける」第二アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • καλάμῳ:κάλαμος「葦、葦の棒」名詞・男性・単数・与格
  • ἐπότιζεν:ποτίζω「飲ませる」未完了・能動・直説法・三人称単数

注解

  • 「酸いぶどう酒」:はローマ兵や労働者の日常的な飲み物で、渇きを癒す効果が高いとされていました。単なる「酢」と訳すと拷問の道具のように響きますが、実際には処刑場に常備されていた実用的な飲料です。詩編69:22との関連があり、マタイは27章34節で前半を、ここで後半を成就させています。34節の飲み物は麻酔的なものでイエスは拒否しましたが、ここでは拒否が記されていません。この行為の動機は憐れみとも好奇心とも読めます。次節で他の者たちが「エリヤが来るか見てみよう」と言っていることから、イエスを少し生き永らえさせて「見せ物」の結末を見ようとした可能性があります。未完了形の「飲ませようとした(ἐπότιζεν)」は、始められたが完結しなかった行為を示し、次節の制止とも整合します。
  • 「葦」:これは27:29-30で嘲弄の道具として登場しており、ここで再び現れることで読者の記憶を呼び起こします。

マタイ27:49

  • 原文: οἱ δὲ λοιποὶ ἔλεγον· ἄφες ἴδωμεν εἰ ἔρχεται Ἠλίας σώσων αὐτόν.
  • 私訳: しかし残りの者たちは言った。「待て。エリヤが彼を救いに来るかどうか、見てみよう。」

文法解析

  • λοιποὶ:λοιπός「残りの、他の」形容詞・男性・複数・主格(名詞的用法「残りの者たち」)
  • ἔλεγον:λέγω「言う」未完了・能動・直説法・三人称複数
  • ἄφες:ἀφίημι「許す、放っておく、〜させる」第二アオリスト・能動・命令法・二人称単数
  • ἴδωμεν:ὁράω「見る」第二アオリスト・能動・接続法・一人称複数(勧奨の接続法)
  • ἔρχεται:ἔρχομαι「来る」現在・中動態(形式所相)・直説法・三人称単数
  • σώσων:σῴζω「救う」未来・能動・分詞・男性・単数・主格(目的を表す未来分詞)

注解

  • 「待て、見てみよう(ἄφes ἴδωμεν)」は口語的な言い回しで、「〜させてくれ、〜してみよう」という意味です。
  • 未来分詞「救うために(σώσων)」:新約では稀で、マタイではここだけです。丁寧に構成された表現であり、この一言の重みを示します。
  • 「救う(σῴζω)」という語は本章で繰り返されてきました。嘲笑者たちは救い主が自分を救えるかどうかで真偽を測ろうとしました。しかしマタイ福音書の中心的な逆説は、イエスが「自分を救わない」ことによって「自分の民を救う」という点にあります。

マタイ27:50

  • 原文: ὁ δὲ Ἰησοῦς πάλιν κράξας φωνῇ μεγάλῃ ἀφῆκεν τὸ πνεῦμα.
  • 私訳: しかしイエスは再び大きな声で叫んで、霊を放たれた。

文法解析

  • κράξας:κράζω「叫ぶ」アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • ἀφῆκεν:ἀφίημι「放つ、去らせる、委ねる」第一アオリスト・能動・直説法・三人称単数
  • πνεῦμα:πνεῦμα「霊、息」名詞・中性・単数・対格

注解

  • 「再び叫んで(πάλιν κράξας)」は二度目の大声です。マタイはその内容を記しません。ルカやヨハネは別の言葉を伝えますが、マタイは意図的に沈黙し、声そのものの強さだけを残します。
  • 十字架刑は通常、窒息と衰弱による緩慢な死であり、最後には声を上げる力も残りません。マルコ15:44でピラトがイエスの早い死に驚いたのはそのためです。ここでイエスが「大きな声で」叫ぶことは、力尽きての死ではなかったことを示唆します。
  • 「霊を放った(ἀφῆκεν τὸ πνεῦμα)」:これはマタイ独自の表現で、能動態です。イエスの死が奪われたものではなく、自ら渡されたものとして描かれています。ヨハネ10:18の「わたしは自分で命を捨てる」という言葉が、その神学的背景を示しています。

マタイ27:51

  • 原文: Καὶ ἰδοὺ τὸ καταπέτασμα τοῦ ναοῦ ἐσχίσθη ἀπ᾽ ἄνωθεν ἕως κάτω εἰς δύο καὶ ἡ γῆ ἐσείσθη καὶ αἱ πέτραι ἐσχίσθησαν,
  • 私訳: そして見よ、神殿の垂れ幕が上から下まで二つに裂けた。そして地は揺れ動き、岩々は裂けた。

文法解析

  • καταπέτασμα:καταπέτασμα「垂れ幕」名詞・中性・単数・主格
  • ἐσχίσθη:σχίζω「裂く、引き裂く」アオリスト・受動・直説法・三人称単数
  • ἄνωθεν:ἄνωθεν「上から」副詞
  • κάτω:κάτω「下へ、下に」副詞
  • ἐσείσθη:σείω「揺り動かす」アオリスト・受動・直説法・三人称単数

注解

  • 「神殿」:ναός と ἱερόν——ギリシア語では神殿を指す語が二つあります。ἱερόν は境内全体(異邦人の庭を含む区域)を、ναός は聖所と至聖所を含む建物本体を指します。ここでは ναός が使われ、垂れ幕が神殿中心部のものであることを示します。
  • 「垂れ幕」:ヘロデ神殿には外庭と聖所を隔てる幕と、聖所と至聖所を隔てる幕の二つがありました。マタイは特定しませんが、語の選択と神学的文脈から、至聖所の幕とみるのが一般的です。至聖所には大祭司が贖罪の日に年一度だけ入ることが許されていました(レビ記16章、ヘブライ9:7)。
  • 「上から下まで」:裂け目の方向が決定的で、人の手なら下から裂くことになるので、上から始まることで神の行為であることが暗示されています。動詞がすべて受動態(ἐσχίσθη, ἐσείσθη, ἐσχίσθησαν)であるのも同様に、行為者が神である「神的受動態」を示唆します。
  • 垂れ幕の裂けには二つの解釈があります。第一は「開かれた道」としての理解。ヘブライ10章19–20節は「イエスの血によって聖所に入ることができる」と語り、隔てられていた神の臨在への道がイエスの死によって開かれたと読みます。第二は「神殿への審き」としての理解。マタイ23章38節では「あなたがたの家は見捨てられて荒れ果てる」と宣告し、24章2節では神殿崩壊を予告しています。垂れ幕の裂けは神の臨在が神殿を去り、建物の役割が終わったしるしです。マタイではこの二つは矛盾せず、古い秩序の終わりが新しい道の始まりとなります。
  • ユダヤ教の伝承:ヨセフス『ユダヤ戦記』6.5.3は神殿崩壊前に「東門が夜中に独りでに開いた」と記し、タルムード(ヨマ6:3、39b)も贖罪日のくじが吉兆を示さなくなり、聖所の扉が勝手に開いたと伝えます。これらは福音書と直接対応しませんが、神殿終焉の前兆が広く語られていたことを示します。
  • 地震と裂ける岩:マタイのみが伝える要素です(マルコ15:38は垂れ幕のみ)。σεισμός(地震)はマタイの重要語で、8章24節の嵐、24章7節の終末のしるし、28章2節の復活の朝にも使われます。十字架と復活が同じ σεισμός で結ばれるのは象徴的です。旧約では地震は神の顕現のしるし(出エジプト19:18、詩編18:8、ハガイ2:6、ヨエル2:10)。

マタイ27:52

  • 原文: καὶ τὰ μνημεῖα ἀνεῴχθησαν καὶ πολλὰ σώματα τῶν κεκοιμημένων ἁγίων ἠγέρθησαν,
  • 私訳: そして墓が開かれ、眠っていた聖なる者たちの多くの体が起こされた。

文法⁠⁠解析

  • μνημεῖα:μνημεῖον「墓、記念の墓」名詞・中性・複数・主格
  • ἀνεῴχθησαν:ἀνοίγω「開く」アオリスト・受動・直説法・三人称複数
  • πολλὰ:πολύς「多くの」形容詞・中性・複数・主格
  • σώματα:σῶμα「体」名詞・中性・複数・主格
  • κεκοιμημένων:κοιμάομαι「眠る、(婉曲的に)死ぬ」完了・中動/受動・分詞・男性・複数・属格
  • ἁγίων:ἅγιος「聖なる、聖なる者」形容詞・男性・複数・属格(名詞的用法「聖徒たち」)
  • ἠγέρθησαν:ἐγείρω「起こす、よみがえらせる」アオリスト・受動・直説法・三人称複数

注解

  • マタイ独自の記事——52-53節は他の福音書に並行を持たない、マタイだけの伝承です。福音書の中でも解釈の難しい箇所の一つとされます。
  • 「眠る」(κοιμάομαι):死を表す婉曲表現で、初代教会の語彙として定着していました(例:パウロは「キリストは眠りについた人たちの初穂として復活された」(Ⅰコリント15:20)、「既に眠りについた人たちについては…」(Ⅰテサロニケ4:13-15))。「墓場」を意味する κοιμητήριον(英語 cemetery の語源)は、まさにこの語から生まれた「眠る場所」
  • 「聖なる者たち」:οἱ ἅγιοι(聖なる者たち):ここでは旧約の義人たちを指すと理解するのが一般的です。具体的には、族長たち、預言者たち、殉教者たちが想定されます。この描写は、明確に終末的な復活の預言に依拠しています。エゼキエル書37:12-13には「わたしの民よ、見よ、わたしはあなたたちの墓を開き、あなたたちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしがあなたたちの墓を開き、わたしの民よ、あなたたちを墓から引き上げるとき、あなたたちはわたしが主であることを知るようになる」とあります。他、例としては、ダニエル12:2「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」、イザヤ26:19「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え」など。
  • 「起こされた」——原語はἐγείρω の受動態であり、これもまた神的受動です。この同じ動詞・同じ形が、マタイ28:6で天使が語る復活の宣言に用いられます。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ(ἠγέρθη)」。旧約の聖なる者たちの「起こされた」と、イエスの「起こされた」とは、同じ神の力による同じ出来事ということです。
  • 歴史性をめぐる問い——この記事をどう理解すべきかについて、注解者の見解は大きく分かれます。①文字どおりの出来事として受け取る立場。復活の力が先取り的に現れた実際の奇跡と見ます。②黙示文学的・神学的な描写と見る立場。マタイは終末の風景を象徴的な言語で描き、十字架の出来事の終末論的な意味を告げているとします。③両者の中間として、伝承として伝わった出来事をマタイが神学的な枠組みの中に位置づけたと見る立場。判断は読者に委ねられますが、いずれの立場に立っても、マタイの神学的主張は明確です。すなわち、イエスの死は、それ自体すでに死の支配を破る出来事だということです。イエスが息を引き取ったその瞬間に、墓が開き始めています。十字架は敗北の場ではなく、死に対する勝利がすでに始まる場ということが暗示されています。

マタイ27:53

  • 原文: καὶ ἐξελθόντες ἐκ τῶν μνημείων μετὰ τὴν ἔγερσιν αὐτοῦ εἰσῆλθον εἰς τὴν ἁγίαν πόλιν καὶ ἐνεφανίσθησαν πολλοῖς.
  • 私訳: そして彼らは、彼の復活の後に墓から出て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

文法解析

  • ἐξελθόντες:ἐξέρχομαι「出て行く」第二アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • εἰσῆλθον:εἰσέρχομαι「入る」第二アオリスト・能動・直説法・三人称複数
  • ἐνεφανίσθησαν:ἐμφανίζω「明らかにする、現す」アオリスト・受動・直説法・三人称複数(受動で「姿を現す」)
  • πολλοῖς:πολύς「多くの者」形容詞・男性・複数・与格

注解

  • 「彼の復活の後に」(μετὰ τὴν ἔγερσιν αὐτοῦ):この句の位置が、本箇所最大の構文上の難問です。52節では聖なる者たちが十字架の時点で「起こされた」と記されているのに、彼らが墓から出て都に入るのは「彼の復活の後」だとされます。文字どおり読むなら、起こされた者たちは金曜の午後から日曜の朝まで、開いた墓の中にとどまっていたことになります。解決として、次のような読みが提案されてきました。①この句を 「出て行って」にではなく「入った」にかけ、「墓から出た後、復活の後になって都に入った」と読む。②マタイが伝承を編集する際に、神学的整合のために挿入した注記と見る。すなわち、キリストこそが「眠りについた人たちの初穂」(Ⅰコリント15:20)であり、その順序が乱されてはならないという初代教会の考えに準じるよう、聖徒たちの出現を復活の後に位置づけたという理解です。
  • 多くの注解者は②を支持します。マタイの関心は時系列の厳密さではなく、十字架と復活が一つの出来事であることを示すことにあったと考えられます。それゆえ、十字架の場面の中に、すでに復活の朝の出来事を食い込ませているのでしょう。
  • 「聖なる都」(ἡ ἁγία πόλις):エルサレムを指す呼称で、マタイ福音書では4章5節(誘惑の場面)に続いて二度目です。イザヤ書52章1節、ネヘミヤ記11章1, 18節などに由来する伝統的な呼び方です。
  • 証人としての意味:彼らは「多くの人々に」現れました。この出来事が私秘的な幻ではなく、公の証言を伴うものとして描かれています。ただしマタイは、彼らがその後どうなったのか、何を語ったのかを一切記しません。物語はここで唐突に打ち切られ、視点は再び十字架のもとへ戻ります。

マタイ27:54

  • 原文: Ὁ δὲ ἑκατόνταρχος καὶ οἱ μετ᾽ αὐτοῦ τηροῦντες τὸν Ἰησοῦν ἰδόντες τὸν σεισμὸν καὶ τὰ γενόμενα ἐφοβήθησαν σφόδρα, λέγοντες· ἀληθῶς θεοῦ υἱὸς ἦν οὗτος.
  • 私訳: さて百人隊長と、彼と共にイエスを見張っていた者たちは、地震と起こった事々を見て、非常に恐れて言った。「まことに、この人は神の子であった。」

文法解析

  • ἑκατόνταρχος:ἑκατόνταρχος「百人隊長」名詞・男性・単数・主格
  • τηροῦντες:τηρέω「見張る、守る、監視する」現在・能動・分詞・男性・複数・主格
  • γενόμενα:γίνομαι「起こる、生じる」第二アオリスト・中動態(形式所相)・分詞・中性・複数・対格
  • ἐφοβήθησαν:φοβέομαι「恐れる、畏れる」アオリスト・受動態(形式所相)・直説法・三人称複数

注解

  • 「百人隊長」(ἑκατόνταρχος):ローマ軍の下級指揮官で、名目上百人の兵を率います。ここでは処刑の執行責任を担っています。彼は異邦人であり、イエスを十字架につけた側の人間です。マタイ福音書では、8:5-13の百人隊長(「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われた人物)に続く二人目の百人隊長となります。福音書の前半と終わりで、ローマの百人隊長が信仰の証人として立つという構図です。
  • 「彼と共にいた者たち」:マタイはマルコ(15:39、百人隊長のみ)に兵士たちを加え、告白を複数の口によるものとしています。申命記19章15節「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証される」という律法の要請を意識した編集とも考えられます。告白は個人の感想ではなく、複数の証言として提示されます。
  • 「非常に恐れた」:この表現は、マタイ福音書において神顕現への反応を表す定型です。17章6節、変貌の山で神の声を聞いた弟子たちは「非常に恐れた(ἐφοβήθησαν σφόδρα)」と、まったく同じ語句で記されています。したがって、これは神の臨在に触れた者の畏れです。
  • 「まことに、この人は神の子であった」:マタイ福音書の受難物語の頂点です。この句の意味をめぐっては、無冠詞の θεοῦ υἱός をどう訳すかという議論があります。「ある神の子(a son of God)」すなわち異教的・皇帝崇拝的な意味での「神的な人物」と理解すべきか、それともキリスト教的な意味での「神の子」と理解すべきか。文脈上、後者と判断されます。
  • マタイ3:17の洗礼の場面で、天からの声は「これはわたしの愛する子」と宣言しました。マタイ17:5の「山上の変容」でも同じ言葉が繰り返されます。4:3,  6では、誘惑者が「もしあなたが神の子なら」と条件をつけて挑みました。そして27:40では、通行人が「もし神の子なら、十字架から降りてこい」と嘲り、27:43では祭司長たちが「彼は『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と嘲笑しました。しかしこの箇所では、「もし〜なら」という条件が入らず、端的に率直な思いが吐露されています。
  • 異邦人による告白の意味:マタイ福音書は、東方の博士たち(2:1-12)という異邦人の礼拝で始まり、ローマの百人隊長という異邦人の告白で受難物語を閉じ、そして「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:19)という全世界への派遣で終わります。ユダヤの指導者たちがイエスを拒み、弟子たちが逃げ去った場所で、異邦人が真実を言い当てる——この配置は、福音が民族の境を越えて広がっていくという、マタイ福音書全体の主題を凝縮しています。そして特筆すべきは、この告白が十字架のもとでなされたことです。奇跡を見て、癒しを受けて、教えを聞いて告白したのではありません。イエスが最も無力に見える場所、最も神から見捨てられたように見える場所で、「この人は神の子であった」と言われるのです。マタイにとって、イエスが誰であるかは、十字架を抜きにしては分からないのです。

マタイ27:55

  • 原文: Ἦσαν δὲ ἐκεῖ γυναῖκες πολλαὶ ἀπὸ μακρόθεν θεωροῦσαι, αἵτινες ἠκολούθησαν τῷ Ἰησοῦ ἀπὸ τῆς Γαλιλαίας διακονοῦσαι αὐτῷ·
  • 私訳: さてそこには、遠くから見つめている多くの女たちがいた。彼女たちは、ガリラヤからイエスに従い、彼に仕えていた者たちである。

文法解析

  • Ἦσαν:εἰμί「いる、ある」未完了・直説法・三人称複数
  • θεωροῦσαι:θεωρέω「見つめる、注視する」現在・能動・分詞・女性・複数・主格
  • ἠκολούθησαν:ἀκολουθέω「従う、ついて行く」アオリスト・能動・直説法・三人称複数(与格支配)
  • διακονοῦσαι:διακονέω「仕える、奉仕する」現在・能動・分詞・女性・複数・主格

注解

  • ἀπὸ μακρόθεν(遠くから)——μακρόθεν 自体がすでに「遠くから」を意味する副詞ですが、前置詞 ἀπό が重ねられています。七十人訳に見られる表現で、ヘブライ語的な語法です。この「遠くから」には、詩編の響きがあります。詩編38:12(七十人訳37:12)は「わたしを愛する者も友も、災いを避けて立ち退き、隣人も遠く離れて立ちます(ἀπὸ μακρόθεν ἔστησαν)」と歌います。また詩編88:9, 19も、親しい者たちが遠ざかる孤独を訴えます。イエスの死が、旧約の義人の苦難の姿と重ねられていることが分かります。同時に、この「遠くから」は、彼女たちの忠実さをも示しています。彼女たちは十字架のすぐ下には来られませんでした。ローマ兵が処刑場を固めていたのですから、当然のことです。しかし、彼女たちはその場を去らなかったのです。
  • 「見つめていた」:原語のθεωρέω は、ただ目に入るという意味の βλέπω よりも、意識的に注視し、観察するという含みを持つ語です。加えて、現在分詞は継続を表します。彼女たちは、見ることをやめませんでした。
  • 「従い」:この動詞は、福音書において弟子であることを表す専門的な語です。「わたしに従いなさい」はイエスの召命の言葉であり(マタイ4:19, 8:22, 9:9, 19:21)、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16:24)はその核心を語ります。マタイがこの語を女たちについて用いていることは、彼女たちを弟子として描いているということです。そしてその対比は痛烈です。26:56にはこう記されていました。「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。イエスに従うと誓った男の弟子たちは逃げ去り、名も記されぬまま遠くに立ち続けたのは女たちでした。
  • 「ガリラヤから従い」:彼女たちの従いは、ガリラヤでの宣教の段階から、エルサレムまでの行程まで続いてきたものです。これは、当時の社会において容易なことではありませんでした。女性が家族から離れて旅をするというのは、通常の慣習からは外れた行動です。
  • 「使える」(διακονέω):「食卓で給仕する」を原意とし、そこから広く奉仕一般を指す語です。マタイ福音書におけるこの語の用例を追うと、その重みが分かります。4:11では天使たちがイエスに「仕え」、8章15節では熱病を癒されたペトロのしゅうとめが起き上がって「もてなした(διηκόνει)」、25:44では終末の審きの場面で「いつわたしたちは……お世話(διηκονήσαμεν)をしなかったでしょうか」と問われます。そして決定的なのが20:28です。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるため(διακονῆσαι)、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためである」。すなわち、この女性たちは、イエスが自ら定義した「人の子の道」を、そのまま生きていた人々なのです。

マタイ27:56

  • 原文: ἐν αἷς ἦν Μαρία ἡ Μαγδαληνὴ καὶ Μαρία ἡ τοῦ Ἰακώβου καὶ Ἰωσὴφ μήτηρ καὶ ἡ μήτηρ τῶν υἱῶν Ζεβεδαίου.
  • 私訳: 彼女たちの中には、マグダラのマリアと、ヤコブとヨセフの母マリアと、ゼベダイの子らの母とがいた。

文法解析

  • ἦν:εἰμί「いる」未完了・直説法・三人称単数

注解

  • 「マグダラのマリア」——「マグダラの」は出身地による呼称で、マグダラ(Μαγδαλά)はガリラヤ湖西岸の漁業と塩漬け魚の加工で栄えた町です。ルカ8:2は、彼女が「七つの悪霊を追い出していただいた」女性であったと伝えます。マタイ福音書では、そこで初めて名が登場し、以後、27:61(埋葬の場面)、28:1(空の墓)と続き、常に第一に名が挙げられます。彼女は、十字架・埋葬・空の墓という三つの決定的な場面すべてに立ち会った唯一の証人です。初代教会が復活の証言を受け取ったとき、その連鎖の始まりに立っていたのは彼女でした。「マグダラのマリア」が、後の伝承の中で「罪深い女」(ルカ7:36-50)や、ベタニアのマリアと同一視されるようになったのは、教皇グレゴリウス一世の説教(6世紀末)以降のことで、福音書本文にはその根拠がありません。
  • 「ヤコブとヨセフの母マリア」:——マルコ15:40は「小ヤコブとヨセの母マリア」と記します。この二人の名前が、マタイ13:55に記されたイエスの兄弟たちの名前(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)の最初の二人と一致することから、この女性をイエスの母マリアと同定する説が古くから提出されてきました。しかしマタイは、イエスの母をここで「ヤコブとヨセフの母」という回りくどい呼び方で示す理由がないことから、多くの注解者はこれを別人と見ます。私は、そう断定できるかどうかについては否定的な立場です。
  • 「ゼベダイの子らの母」:ゼベダイの子らとは、ヤコブとヨハネです(マタイ4:21)。マルコ15章40節の「サロメ」と同一人物と見るのが一般的な理解です。
  • この女性の登場には、読者の記憶を刺すものがあります。マタイ20:20-21で、彼女はイエスのもとに来てひれ伏し、こう願いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください」。イエスはそれに答えて、「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。そして今、イエスの右と左にいるのは、二人の強盗です(27:38)。「王座」は十字架であり、その左右の座はすでに埋まっていました。母は、自分が願ったものの正体を、この場所で見ることになります。そしてなお、彼女はそこに立ち続けています。
  • 三人の名前という構成——マタイは、多くの女たちのうち三人の名を挙げます。この3という数は、証言の確かさを担保する数です。そしてこの名簿は、27:61(「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓の方を向いて座っていた」)と、28:1(「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」)へと引き継がれていきます。十字架から復活まで、証言の糸は彼女たちによって途切れずにつながれるのです。

<以上の注解をもとにしての説教の結びとして>
 嘲りの声で始まった十字架の場面は、真昼の闇によって沈黙へと変わりました。三時間の後、響いたのは主イエスの叫び──「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。天からの答えはなく、かつて「愛する子」と告げられた御声も聞こえません。しかし主は沈黙の中でも「わが神」と呼び続け、見捨てられたと思える場所で神に向かって叫ばれました。
 その答えは言葉ではなく出来事として示されました。主が息を引き取られた瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで裂け、地が揺れ、墓が開かれました。十字架は敗北ではなく、神への道が開かれ、死の力が崩れ始めた場所だったのです。
 その光景を前に、ローマの兵士は告白しました。「まことに、この人は神の子であった」。奇跡でも教えでもなく、最も弱く見える十字架の姿こそが、イエスの真の姿を示したのです。そして遠くから見つめ続けた女たち──何もできずとも逃げず、目を離さなかった彼女たちのまなざしが、十字架から埋葬、そして復活へと証しをつないでいきました。
 私たちも人生の闇の中で「なぜ」と叫ぶ時があります。祈りが届かないように思える時、主に従うと言いながら遠くからしか見られない弱さを抱える時があります。しかし主イエスはすでにその闇を通られました。私たちの「なぜ」は主の叫びの中に受け止められています。遠くからでも目を離さず十字架を見つめ続けるなら、その場所はやがて空の墓へと続く道となります。
 十字架のもとで、私たちもあの兵士と共に告白しましょう。「まことに、この方は神の子です」。

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