2026年10月14日水曜日

説教や聖書研究をする信徒のための聖書注解 マタイ27:45-56「イエスの死」


概要

 本箇所は、マタイ福音書における十字架の死そのものを描く場面です。直前(27:38-44)では、通行人、祭司長・律法学者・長老たち、さらには共に十字架につけられた強盗たちまでが、口々にイエスを嘲笑していました。「もし神の子なら十字架から降りてこい」「神に依り頼んでいるのだから、神が助けたければ助けてもらえばよい」といった嘲りの声が響く中、45節の暗闇がその騒ぎを断ち切るように訪れます。
 全体は四つの部分から構成されます。
(A) 45-50節:暗闇・叫び・死
(B) 51-53節:終末的なしるし
(C) 54節:異邦人の告白
(D) 55-56節:見守る女たち
 第一部では、正午から午後三時までの三時間、全地が闇に覆われます。アモス書8章9節の「真昼に太陽を沈ませる」という審きの預言が背景にあります。その闇の終わりに、イエスは詩編22編2節の言葉「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」を叫びます。マタイ福音書でイエスが神を「父」と呼ばずに祈る唯一の箇所です。周囲の者たちはその叫びを「エリヤを呼んでいる」と誤解し、最後まで理解に至りません。そしてイエスは再び大声で叫び、「霊を放たれ」ます。奪われた死ではなく、自ら渡された死として描かれています。
 第二部では、神殿の垂れ幕が裂け、地が揺れ、岩が裂け、墓が開き、眠っていた聖なる者たちが起こされます。すべて受動態で語られ、その背後に神の働きが示されています。十字架の死が、新しい創造と復活の力をすでに解き放つ出来事として描かれているのです。
 第三部は頂点です。嘲笑者たちが「神の子なら」と条件つきで語った言葉を、ローマの百人隊長が「まことに、この人は神の子であった」と告白します。洗礼(3:17)と変貌(17:5)で神ご自身が宣言した言葉に、人間の側から初めて正しく応答するのが、異邦人の兵士であるという逆転が起こります。
 第四部では、ガリラヤから従い仕えてきた女たちが遠くから見つめています。男の弟子たちが皆逃げ去った後(26:56)、十字架・埋葬・空の墓を一貫して見届ける証人は、彼女たちだけでした。

マタイ27:45

  • 原文: Ἀπὸ δὲ ἕκτης ὥρας σκότος ἐγένετο ἐπὶ πᾶσαν τὴν γῆν ἕως ὥρας ἐνάτης.
  • 私訳: さて第六の時から第九の時まで、闇が全地の上に生じた。

文法解析

  • ἐγένετο:γίνομαι「生じる、なる」第二アオリスト・中動態(形式所相)・直説法・三人称単数

注解

  • 「第六の時から第九の時まで」:ユダヤの時刻法では、日の出(およそ午前六時)を起点として時を数えます。したがって第六時は正午、第九時は午後三時にあたります。マルコ15:25によれば、イエスが十字架につけられたのは第三時(午前九時)でしたから、すでに三時間が経過し、そこからさらに三時間の闇が続いたことになります。三時間という時間の重なりが、この場面に儀式的な均整を与えています。第九時は、神殿で夕の供え物が献げられる時刻でもありました(使徒言行録3:1)。
  • 「σκότος ἐγένετο(闇が生じた)」:動詞 γίνομαι は「〜になる、生起する」の意で、創世記1:3の七十人訳「光あれ。すると光があった(καὶ ἐγένετο φῶς)」を想起させる語です。創造の初めに「生じた」のが光であったとすれば、ここで「生じた」のは闇です。新しい創造の前に、いったん原初の暗闇へと世界が引き戻されるかのような描写です。
  • 旧約の背景:この闇を理解する鍵は、預言者の言葉にあります。最も近いのはアモス8:9です。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする」。この預言は、続く10節で「わたしはあなたたちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え……独り子を失ったような悲しみとし、その最期を苦悩の日とする」と続きます。「独り子」を失う悲しみと「真昼の闇」が結びつけられているこの箇所は、十字架の場面に驚くほど適合します。
  • さらに、出エジプト記10:21-23の第九の災い、三日間エジプトを覆った「手で触れることのできるほどの闇」が背景にあります。そこでは闇が裁きのしるしであり、かつ神の民の救出の直前に置かれていました。またヨエル2:2, 31(「主の日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる」)は、終末の「主の日」のしるしとして闇を語ります。
  • 自然現象としての日食などが論じられてきましたが、過越は満月の時期であり、天文学的に日食はありえません。砂嵐や火山灰、厚い雲などの説明も決定的ではありません。福音書記者の関心は気象ではなく、この出来事の意味にあります。
  • 「全地の上に(ἐπὶ πᾶσαν τὴν γῆν)」は「全世界」とも「その地方(ユダヤ全土)」とも訳しうる語です。どちらかは断定できませんが、51節以降の宇宙的な現象を考えると、マタイは前者の含みをもたせていると読むのが自然です。
  • 文脈上の機能:直前の38-44節は嘲笑の言葉で満ちていました。この闇は、その騒がしい声を断ち切り、三時間の沈黙をもたらします。人間の言葉が尽きたところに、次節でイエスの叫びが響きます。

マタイ27:46

  • 原文: περὶ δὲ τὴν ἐνάτην ὥραν ἀνεβόησεν ὁ Ἰησοῦς φωνῇ μεγάλῃ λέγων· ηλι ηλι λεμα σαβαχθανι; τοῦτ᾽ ἔστιν· θεέ μου θεέ μου, ἱνατί με ἐγκατέλιπες;
  • 私訳: さて第九の時ごろ、イエスは大きな声で叫んで言った。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜあなたは私をお見捨てになったのか」という意味である。

文法解析

  • ἀνεβόησεν:ἀναβοάω「叫び上げる、大声を上げる」アオリスト・能動・直説法・三人称単数
  • ηλι:ヘブライ語 אֵלִי「わが神」の音写
  • λεμα:アラム語 לְמָא「なぜ」の音写
  • σαβαχθανι:アラム語 שְׁבַקְתַּנִי(語根 שבק「捨てる」)「あなたは私を見捨てた」の音写

注解

  • 「叫び上げる(ἀναβοάω)」は新約聖書でこの箇所にのみ現れる語で、声を張り上げることを表します。三時間の闇と沈黙を破る突然の叫びを、マタイはこの稀な語で描いています。
  • イエスの言葉は詩編22編2節の引用です。マタイの受難物語全体が詩編22編によって編み上げられています。その詩編の冒頭の言葉が、ここでイエス自身の口から発せられています。
  • ηλι はヘブライ語、λεμα・σαβαχθανι はアラム語です。マルコの並行箇所の「エロイ、エロイ」はアラム語で、イエス時代の話し言葉を再現している一方、マタイはヘブライ語聖書からの引用である「エリ、エリ」を採用しています。また、マタイはヘブライ語形を用いることで、次節の「エリヤ」への誤解を自然にしています。
  • 「見捨てる(ἐγκαταλείπω)」:これは強い語で、神が「決してあなたを見捨てない」と約束された(ヘブライ13:5)その正反対のことが、イエスに対して起こっているという衝撃を含んでいます。
  • この叫びの読み方は古来二つあります。①文字どおり見捨てられたと読む立場、②詩編22編全体の祈りとして読む立場。両者は排他的ではありません。確かなのは、これは神に向けられた言葉であり、信仰の叫びであるということです。しかしその問いに答えは返ってきません。マタイはイエスが本当に暗闇の底を通られたことを強調しています。また、マタイ福音書でイエスが神を「父」と呼ばずに祈るのはここだけでもあります。

マタイ27:47

  • 原文: τινὲς δὲ τῶν ἐκεῖ ἑστηκότων ἀκούσαντες ἔλεγον ὅτι Ἠλίαν φωνεῖ οὗτος.
  • 私訳: するとそこに立っていた者たちのうちの何人かが、聞いて言った。「この者はエリヤを呼んでいる。」

文法解析

  • ἑστηκότων:ἵστημι「立つ、立っている」完了・能動・分詞・男性・複数・属格(完了形で現在の状態「立っている」を表す)
  • ἀκούσαντες:ἀκούω「聞く」アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • ἔλεγον:λέγω「言う」未完了・能動・直説法・三人称複数
  • φωνεῖ:φωνέω「呼ぶ、呼び求める」現在・能動・直説法・三人称単数

注解

  • 「立っていた者たち」:処刑場に立ち止まって見物している人々です。「エリ」(ηλι) を「エリア」(Ἠλίας) と結びつけていることから、エリヤ伝承を知るユダヤ人と考えるのが自然です。 
  • エリヤは終末に再来すると信じられていましたが、マタイ11:14、17:10-13によれば、すでに洗礼者ヨハネとして来ており、人々はそれを認めませんでした。
  • 45-50節を通じて、周囲の人々の言葉は的外れです。闇を見ても悟らず、叫びを聞いても誤解する。イエスの死の意味を正しく言い当てるのは、この後、地震も含めて見た異邦人の百人隊長だけです。

マタイ27:48

  • 原文: καὶ εὐθέως δραμὼν εἷς ἐξ αὐτῶν καὶ λαβὼν σπόγγον πλήσας τε ὄξους καὶ περιθεὶς καλάμῳ ἐπότιζεν αὐτόν.
  • 私訳: そしてすぐに彼らのうちの一人が走り、海綿を取り、酸いぶどう酒で満たし、葦につけて彼に飲ませようとした。

文法解析

  • δραμὼν:τρέχω「走る」第二アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • λαβὼν:λαμβάνω「取る」第二アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • σπόγγον:σπόγγος「海綿」名詞・男性・単数・対格
  • πλήσας:πίμπλημι「満たす」アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • ὄξους:ὄξος「酸いぶどう酒、酢」名詞・中性・単数・属格(充満の内容を示す属格)
  • περιθεὶς:περιτίθημι「周りに置く、取りつける」第二アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • καλάμῳ:κάλαμος「葦、葦の棒」名詞・男性・単数・与格
  • ἐπότιζεν:ποτίζω「飲ませる」未完了・能動・直説法・三人称単数

注解

  • 「酸いぶどう酒」:はローマ兵や労働者の日常的な飲み物で、渇きを癒す効果が高いとされていました。単なる「酢」と訳すと拷問の道具のように響きますが、実際には処刑場に常備されていた実用的な飲料です。詩編69:22との関連があり、マタイは27章34節で前半を、ここで後半を成就させています。34節の飲み物は麻酔的なものでイエスは拒否しましたが、ここでは拒否が記されていません。この行為の動機は憐れみとも好奇心とも読めます。次節で他の者たちが「エリヤが来るか見てみよう」と言っていることから、イエスを少し生き永らえさせて「見せ物」の結末を見ようとした可能性があります。未完了形の「飲ませようとした(ἐπότιζεν)」は、始められたが完結しなかった行為を示し、次節の制止とも整合します。
  • 「葦」:これは27:29-30で嘲弄の道具として登場しており、ここで再び現れることで読者の記憶を呼び起こします。

マタイ27:49

  • 原文: οἱ δὲ λοιποὶ ἔλεγον· ἄφες ἴδωμεν εἰ ἔρχεται Ἠλίας σώσων αὐτόν.
  • 私訳: しかし残りの者たちは言った。「待て。エリヤが彼を救いに来るかどうか、見てみよう。」

文法解析

  • λοιποὶ:λοιπός「残りの、他の」形容詞・男性・複数・主格(名詞的用法「残りの者たち」)
  • ἔλεγον:λέγω「言う」未完了・能動・直説法・三人称複数
  • ἄφες:ἀφίημι「許す、放っておく、〜させる」第二アオリスト・能動・命令法・二人称単数
  • ἴδωμεν:ὁράω「見る」第二アオリスト・能動・接続法・一人称複数(勧奨の接続法)
  • ἔρχεται:ἔρχομαι「来る」現在・中動態(形式所相)・直説法・三人称単数
  • σώσων:σῴζω「救う」未来・能動・分詞・男性・単数・主格(目的を表す未来分詞)

注解

  • 「待て、見てみよう(ἄφes ἴδωμεν)」は口語的な言い回しで、「〜させてくれ、〜してみよう」という意味です。
  • 未来分詞「救うために(σώσων)」:新約では稀で、マタイではここだけです。丁寧に構成された表現であり、この一言の重みを示します。
  • 「救う(σῴζω)」という語は本章で繰り返されてきました。嘲笑者たちは救い主が自分を救えるかどうかで真偽を測ろうとしました。しかしマタイ福音書の中心的な逆説は、イエスが「自分を救わない」ことによって「自分の民を救う」という点にあります。

マタイ27:50

  • 原文: ὁ δὲ Ἰησοῦς πάλιν κράξας φωνῇ μεγάλῃ ἀφῆκεν τὸ πνεῦμα.
  • 私訳: しかしイエスは再び大きな声で叫んで、霊を放たれた。

文法解析

  • κράξας:κράζω「叫ぶ」アオリスト・能動・分詞・男性・単数・主格
  • ἀφῆκεν:ἀφίημι「放つ、去らせる、委ねる」第一アオリスト・能動・直説法・三人称単数
  • πνεῦμα:πνεῦμα「霊、息」名詞・中性・単数・対格

注解

  • 「再び叫んで(πάλιν κράξας)」は二度目の大声です。マタイはその内容を記しません。ルカやヨハネは別の言葉を伝えますが、マタイは意図的に沈黙し、声そのものの強さだけを残します。
  • 十字架刑は通常、窒息と衰弱による緩慢な死であり、最後には声を上げる力も残りません。マルコ15:44でピラトがイエスの早い死に驚いたのはそのためです。ここでイエスが「大きな声で」叫ぶことは、力尽きての死ではなかったことを示唆します。
  • 「霊を放った(ἀφῆκεν τὸ πνεῦμα)」:これはマタイ独自の表現で、能動態です。イエスの死が奪われたものではなく、自ら渡されたものとして描かれています。ヨハネ10:18の「わたしは自分で命を捨てる」という言葉が、その神学的背景を示しています。

マタイ27:51

  • 原文: Καὶ ἰδοὺ τὸ καταπέτασμα τοῦ ναοῦ ἐσχίσθη ἀπ᾽ ἄνωθεν ἕως κάτω εἰς δύο καὶ ἡ γῆ ἐσείσθη καὶ αἱ πέτραι ἐσχίσθησαν,
  • 私訳: そして見よ、神殿の垂れ幕が上から下まで二つに裂けた。そして地は揺れ動き、岩々は裂けた。

文法解析

  • καταπέτασμα:καταπέτασμα「垂れ幕」名詞・中性・単数・主格
  • ἐσχίσθη:σχίζω「裂く、引き裂く」アオリスト・受動・直説法・三人称単数
  • ἄνωθεν:ἄνωθεν「上から」副詞
  • κάτω:κάτω「下へ、下に」副詞
  • ἐσείσθη:σείω「揺り動かす」アオリスト・受動・直説法・三人称単数

注解

  • 「神殿」:ναός と ἱερόν——ギリシア語では神殿を指す語が二つあります。ἱερόν は境内全体(異邦人の庭を含む区域)を、ναός は聖所と至聖所を含む建物本体を指します。ここでは ναός が使われ、垂れ幕が神殿中心部のものであることを示します。
  • 「垂れ幕」:ヘロデ神殿には外庭と聖所を隔てる幕と、聖所と至聖所を隔てる幕の二つがありました。マタイは特定しませんが、語の選択と神学的文脈から、至聖所の幕とみるのが一般的です。至聖所には大祭司が贖罪の日に年一度だけ入ることが許されていました(レビ記16章、ヘブライ9:7)。
  • 「上から下まで」:裂け目の方向が決定的で、人の手なら下から裂くことになるので、上から始まることで神の行為であることが暗示されています。動詞がすべて受動態(ἐσχίσθη, ἐσείσθη, ἐσχίσθησαν)であるのも同様に、行為者が神である「神的受動態」を示唆します。
  • 垂れ幕の裂けには二つの解釈があります。第一は「開かれた道」としての理解。ヘブライ10章19–20節は「イエスの血によって聖所に入ることができる」と語り、隔てられていた神の臨在への道がイエスの死によって開かれたと読みます。第二は「神殿への審き」としての理解。マタイ23章38節では「あなたがたの家は見捨てられて荒れ果てる」と宣告し、24章2節では神殿崩壊を予告しています。垂れ幕の裂けは神の臨在が神殿を去り、建物の役割が終わったしるしです。マタイではこの二つは矛盾せず、古い秩序の終わりが新しい道の始まりとなります。
  • ユダヤ教の伝承:ヨセフス『ユダヤ戦記』6.5.3は神殿崩壊前に「東門が夜中に独りでに開いた」と記し、タルムード(ヨマ6:3、39b)も贖罪日のくじが吉兆を示さなくなり、聖所の扉が勝手に開いたと伝えます。これらは福音書と直接対応しませんが、神殿終焉の前兆が広く語られていたことを示します。
  • 地震と裂ける岩:マタイのみが伝える要素です(マルコ15:38は垂れ幕のみ)。σεισμός(地震)はマタイの重要語で、8章24節の嵐、24章7節の終末のしるし、28章2節の復活の朝にも使われます。十字架と復活が同じ σεισμός で結ばれるのは象徴的です。旧約では地震は神の顕現のしるし(出エジプト19:18、詩編18:8、ハガイ2:6、ヨエル2:10)。

マタイ27:52

  • 原文: καὶ τὰ μνημεῖα ἀνεῴχθησαν καὶ πολλὰ σώματα τῶν κεκοιμημένων ἁγίων ἠγέρθησαν,
  • 私訳: そして墓が開かれ、眠っていた聖なる者たちの多くの体が起こされた。

文法⁠⁠解析

  • μνημεῖα:μνημεῖον「墓、記念の墓」名詞・中性・複数・主格
  • ἀνεῴχθησαν:ἀνοίγω「開く」アオリスト・受動・直説法・三人称複数
  • πολλὰ:πολύς「多くの」形容詞・中性・複数・主格
  • σώματα:σῶμα「体」名詞・中性・複数・主格
  • κεκοιμημένων:κοιμάομαι「眠る、(婉曲的に)死ぬ」完了・中動/受動・分詞・男性・複数・属格
  • ἁγίων:ἅγιος「聖なる、聖なる者」形容詞・男性・複数・属格(名詞的用法「聖徒たち」)
  • ἠγέρθησαν:ἐγείρω「起こす、よみがえらせる」アオリスト・受動・直説法・三人称複数

注解

  • マタイ独自の記事——52-53節は他の福音書に並行を持たない、マタイだけの伝承です。福音書の中でも解釈の難しい箇所の一つとされます。
  • 「眠る」(κοιμάομαι):死を表す婉曲表現で、初代教会の語彙として定着していました(例:パウロは「キリストは眠りについた人たちの初穂として復活された」(Ⅰコリント15:20)、「既に眠りについた人たちについては…」(Ⅰテサロニケ4:13-15))。「墓場」を意味する κοιμητήριον(英語 cemetery の語源)は、まさにこの語から生まれた「眠る場所」
  • 「聖なる者たち」:οἱ ἅγιοι(聖なる者たち):ここでは旧約の義人たちを指すと理解するのが一般的です。具体的には、族長たち、預言者たち、殉教者たちが想定されます。この描写は、明確に終末的な復活の預言に依拠しています。エゼキエル書37:12-13には「わたしの民よ、見よ、わたしはあなたたちの墓を開き、あなたたちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしがあなたたちの墓を開き、わたしの民よ、あなたたちを墓から引き上げるとき、あなたたちはわたしが主であることを知るようになる」とあります。他、例としては、ダニエル12:2「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」、イザヤ26:19「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住む者よ、目覚めよ、喜び歌え」など。
  • 「起こされた」——原語はἐγείρω の受動態であり、これもまた神的受動です。この同じ動詞・同じ形が、マタイ28:6で天使が語る復活の宣言に用いられます。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ(ἠγέρθη)」。旧約の聖なる者たちの「起こされた」と、イエスの「起こされた」とは、同じ神の力による同じ出来事ということです。
  • 歴史性をめぐる問い——この記事をどう理解すべきかについて、注解者の見解は大きく分かれます。①文字どおりの出来事として受け取る立場。復活の力が先取り的に現れた実際の奇跡と見ます。②黙示文学的・神学的な描写と見る立場。マタイは終末の風景を象徴的な言語で描き、十字架の出来事の終末論的な意味を告げているとします。③両者の中間として、伝承として伝わった出来事をマタイが神学的な枠組みの中に位置づけたと見る立場。判断は読者に委ねられますが、いずれの立場に立っても、マタイの神学的主張は明確です。すなわち、イエスの死は、それ自体すでに死の支配を破る出来事だということです。イエスが息を引き取ったその瞬間に、墓が開き始めています。十字架は敗北の場ではなく、死に対する勝利がすでに始まる場ということが暗示されています。

マタイ27:53

  • 原文: καὶ ἐξελθόντες ἐκ τῶν μνημείων μετὰ τὴν ἔγερσιν αὐτοῦ εἰσῆλθον εἰς τὴν ἁγίαν πόλιν καὶ ἐνεφανίσθησαν πολλοῖς.
  • 私訳: そして彼らは、彼の復活の後に墓から出て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

文法解析

  • ἐξελθόντες:ἐξέρχομαι「出て行く」第二アオリスト・能動・分詞・男性・複数・主格
  • εἰσῆλθον:εἰσέρχομαι「入る」第二アオリスト・能動・直説法・三人称複数
  • ἐνεφανίσθησαν:ἐμφανίζω「明らかにする、現す」アオリスト・受動・直説法・三人称複数(受動で「姿を現す」)
  • πολλοῖς:πολύς「多くの者」形容詞・男性・複数・与格

注解

  • 「彼の復活の後に」(μετὰ τὴν ἔγερσιν αὐτοῦ):この句の位置が、本箇所最大の構文上の難問です。52節では聖なる者たちが十字架の時点で「起こされた」と記されているのに、彼らが墓から出て都に入るのは「彼の復活の後」だとされます。文字どおり読むなら、起こされた者たちは金曜の午後から日曜の朝まで、開いた墓の中にとどまっていたことになります。解決として、次のような読みが提案されてきました。①この句を 「出て行って」にではなく「入った」にかけ、「墓から出た後、復活の後になって都に入った」と読む。②マタイが伝承を編集する際に、神学的整合のために挿入した注記と見る。すなわち、キリストこそが「眠りについた人たちの初穂」(Ⅰコリント15:20)であり、その順序が乱されてはならないという初代教会の考えに準じるよう、聖徒たちの出現を復活の後に位置づけたという理解です。
  • 多くの注解者は②を支持します。マタイの関心は時系列の厳密さではなく、十字架と復活が一つの出来事であることを示すことにあったと考えられます。それゆえ、十字架の場面の中に、すでに復活の朝の出来事を食い込ませているのでしょう。
  • 「聖なる都」(ἡ ἁγία πόλις):エルサレムを指す呼称で、マタイ福音書では4章5節(誘惑の場面)に続いて二度目です。イザヤ書52章1節、ネヘミヤ記11章1, 18節などに由来する伝統的な呼び方です。
  • 証人としての意味:彼らは「多くの人々に」現れました。この出来事が私秘的な幻ではなく、公の証言を伴うものとして描かれています。ただしマタイは、彼らがその後どうなったのか、何を語ったのかを一切記しません。物語はここで唐突に打ち切られ、視点は再び十字架のもとへ戻ります。

マタイ27:54

  • 原文: Ὁ δὲ ἑκατόνταρχος καὶ οἱ μετ᾽ αὐτοῦ τηροῦντες τὸν Ἰησοῦν ἰδόντες τὸν σεισμὸν καὶ τὰ γενόμενα ἐφοβήθησαν σφόδρα, λέγοντες· ἀληθῶς θεοῦ υἱὸς ἦν οὗτος.
  • 私訳: さて百人隊長と、彼と共にイエスを見張っていた者たちは、地震と起こった事々を見て、非常に恐れて言った。「まことに、この人は神の子であった。」

文法解析

  • ἑκατόνταρχος:ἑκατόνταρχος「百人隊長」名詞・男性・単数・主格
  • τηροῦντες:τηρέω「見張る、守る、監視する」現在・能動・分詞・男性・複数・主格
  • γενόμενα:γίνομαι「起こる、生じる」第二アオリスト・中動態(形式所相)・分詞・中性・複数・対格
  • ἐφοβήθησαν:φοβέομαι「恐れる、畏れる」アオリスト・受動態(形式所相)・直説法・三人称複数

注解

  • 「百人隊長」(ἑκατόνταρχος):ローマ軍の下級指揮官で、名目上百人の兵を率います。ここでは処刑の執行責任を担っています。彼は異邦人であり、イエスを十字架につけた側の人間です。マタイ福音書では、8:5-13の百人隊長(「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われた人物)に続く二人目の百人隊長となります。福音書の前半と終わりで、ローマの百人隊長が信仰の証人として立つという構図です。
  • 「彼と共にいた者たち」:マタイはマルコ(15:39、百人隊長のみ)に兵士たちを加え、告白を複数の口によるものとしています。申命記19章15節「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証される」という律法の要請を意識した編集とも考えられます。告白は個人の感想ではなく、複数の証言として提示されます。
  • 「非常に恐れた」:この表現は、マタイ福音書において神顕現への反応を表す定型です。17章6節、変貌の山で神の声を聞いた弟子たちは「非常に恐れた(ἐφοβήθησαν σφόδρα)」と、まったく同じ語句で記されています。したがって、これは神の臨在に触れた者の畏れです。
  • 「まことに、この人は神の子であった」:マタイ福音書の受難物語の頂点です。この句の意味をめぐっては、無冠詞の θεοῦ υἱός をどう訳すかという議論があります。「ある神の子(a son of God)」すなわち異教的・皇帝崇拝的な意味での「神的な人物」と理解すべきか、それともキリスト教的な意味での「神の子」と理解すべきか。文脈上、後者と判断されます。
  • マタイ3:17の洗礼の場面で、天からの声は「これはわたしの愛する子」と宣言しました。マタイ17:5の「山上の変容」でも同じ言葉が繰り返されます。4:3,  6では、誘惑者が「もしあなたが神の子なら」と条件をつけて挑みました。そして27:40では、通行人が「もし神の子なら、十字架から降りてこい」と嘲り、27:43では祭司長たちが「彼は『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と嘲笑しました。しかしこの箇所では、「もし〜なら」という条件が入らず、端的に率直な思いが吐露されています。
  • 異邦人による告白の意味:マタイ福音書は、東方の博士たち(2:1-12)という異邦人の礼拝で始まり、ローマの百人隊長という異邦人の告白で受難物語を閉じ、そして「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28:19)という全世界への派遣で終わります。ユダヤの指導者たちがイエスを拒み、弟子たちが逃げ去った場所で、異邦人が真実を言い当てる——この配置は、福音が民族の境を越えて広がっていくという、マタイ福音書全体の主題を凝縮しています。そして特筆すべきは、この告白が十字架のもとでなされたことです。奇跡を見て、癒しを受けて、教えを聞いて告白したのではありません。イエスが最も無力に見える場所、最も神から見捨てられたように見える場所で、「この人は神の子であった」と言われるのです。マタイにとって、イエスが誰であるかは、十字架を抜きにしては分からないのです。

マタイ27:55

  • 原文: Ἦσαν δὲ ἐκεῖ γυναῖκες πολλαὶ ἀπὸ μακρόθεν θεωροῦσαι, αἵτινες ἠκολούθησαν τῷ Ἰησοῦ ἀπὸ τῆς Γαλιλαίας διακονοῦσαι αὐτῷ·
  • 私訳: さてそこには、遠くから見つめている多くの女たちがいた。彼女たちは、ガリラヤからイエスに従い、彼に仕えていた者たちである。

文法解析

  • Ἦσαν:εἰμί「いる、ある」未完了・直説法・三人称複数
  • θεωροῦσαι:θεωρέω「見つめる、注視する」現在・能動・分詞・女性・複数・主格
  • ἠκολούθησαν:ἀκολουθέω「従う、ついて行く」アオリスト・能動・直説法・三人称複数(与格支配)
  • διακονοῦσαι:διακονέω「仕える、奉仕する」現在・能動・分詞・女性・複数・主格

注解

  • ἀπὸ μακρόθεν(遠くから)——μακρόθεν 自体がすでに「遠くから」を意味する副詞ですが、前置詞 ἀπό が重ねられています。七十人訳に見られる表現で、ヘブライ語的な語法です。この「遠くから」には、詩編の響きがあります。詩編38:12(七十人訳37:12)は「わたしを愛する者も友も、災いを避けて立ち退き、隣人も遠く離れて立ちます(ἀπὸ μακρόθεν ἔστησαν)」と歌います。また詩編88:9, 19も、親しい者たちが遠ざかる孤独を訴えます。イエスの死が、旧約の義人の苦難の姿と重ねられていることが分かります。同時に、この「遠くから」は、彼女たちの忠実さをも示しています。彼女たちは十字架のすぐ下には来られませんでした。ローマ兵が処刑場を固めていたのですから、当然のことです。しかし、彼女たちはその場を去らなかったのです。
  • 「見つめていた」:原語のθεωρέω は、ただ目に入るという意味の βλέπω よりも、意識的に注視し、観察するという含みを持つ語です。加えて、現在分詞は継続を表します。彼女たちは、見ることをやめませんでした。
  • 「従い」:この動詞は、福音書において弟子であることを表す専門的な語です。「わたしに従いなさい」はイエスの召命の言葉であり(マタイ4:19, 8:22, 9:9, 19:21)、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(16:24)はその核心を語ります。マタイがこの語を女たちについて用いていることは、彼女たちを弟子として描いているということです。そしてその対比は痛烈です。26:56にはこう記されていました。「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」。イエスに従うと誓った男の弟子たちは逃げ去り、名も記されぬまま遠くに立ち続けたのは女たちでした。
  • 「ガリラヤから従い」:彼女たちの従いは、ガリラヤでの宣教の段階から、エルサレムまでの行程まで続いてきたものです。これは、当時の社会において容易なことではありませんでした。女性が家族から離れて旅をするというのは、通常の慣習からは外れた行動です。
  • 「使える」(διακονέω):「食卓で給仕する」を原意とし、そこから広く奉仕一般を指す語です。マタイ福音書におけるこの語の用例を追うと、その重みが分かります。4:11では天使たちがイエスに「仕え」、8章15節では熱病を癒されたペトロのしゅうとめが起き上がって「もてなした(διηκόνει)」、25:44では終末の審きの場面で「いつわたしたちは……お世話(διηκονήσαμεν)をしなかったでしょうか」と問われます。そして決定的なのが20:28です。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく仕えるため(διακονῆσαι)、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためである」。すなわち、この女性たちは、イエスが自ら定義した「人の子の道」を、そのまま生きていた人々なのです。

マタイ27:56

  • 原文: ἐν αἷς ἦν Μαρία ἡ Μαγδαληνὴ καὶ Μαρία ἡ τοῦ Ἰακώβου καὶ Ἰωσὴφ μήτηρ καὶ ἡ μήτηρ τῶν υἱῶν Ζεβεδαίου.
  • 私訳: 彼女たちの中には、マグダラのマリアと、ヤコブとヨセフの母マリアと、ゼベダイの子らの母とがいた。

文法解析

  • ἦν:εἰμί「いる」未完了・直説法・三人称単数

注解

  • 「マグダラのマリア」——「マグダラの」は出身地による呼称で、マグダラ(Μαγδαλά)はガリラヤ湖西岸の漁業と塩漬け魚の加工で栄えた町です。ルカ8:2は、彼女が「七つの悪霊を追い出していただいた」女性であったと伝えます。マタイ福音書では、そこで初めて名が登場し、以後、27:61(埋葬の場面)、28:1(空の墓)と続き、常に第一に名が挙げられます。彼女は、十字架・埋葬・空の墓という三つの決定的な場面すべてに立ち会った唯一の証人です。初代教会が復活の証言を受け取ったとき、その連鎖の始まりに立っていたのは彼女でした。「マグダラのマリア」が、後の伝承の中で「罪深い女」(ルカ7:36-50)や、ベタニアのマリアと同一視されるようになったのは、教皇グレゴリウス一世の説教(6世紀末)以降のことで、福音書本文にはその根拠がありません。
  • 「ヤコブとヨセフの母マリア」:——マルコ15:40は「小ヤコブとヨセの母マリア」と記します。この二人の名前が、マタイ13:55に記されたイエスの兄弟たちの名前(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)の最初の二人と一致することから、この女性をイエスの母マリアと同定する説が古くから提出されてきました。しかしマタイは、イエスの母をここで「ヤコブとヨセフの母」という回りくどい呼び方で示す理由がないことから、多くの注解者はこれを別人と見ます。私は、そう断定できるかどうかについては否定的な立場です。
  • 「ゼベダイの子らの母」:ゼベダイの子らとは、ヤコブとヨハネです(マタイ4:21)。マルコ15章40節の「サロメ」と同一人物と見るのが一般的な理解です。
  • この女性の登場には、読者の記憶を刺すものがあります。マタイ20:20-21で、彼女はイエスのもとに来てひれ伏し、こう願いました。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、一人は左に座れるとおっしゃってください」。イエスはそれに答えて、「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われました。そして今、イエスの右と左にいるのは、二人の強盗です(27:38)。「王座」は十字架であり、その左右の座はすでに埋まっていました。母は、自分が願ったものの正体を、この場所で見ることになります。そしてなお、彼女はそこに立ち続けています。
  • 三人の名前という構成——マタイは、多くの女たちのうち三人の名を挙げます。この3という数は、証言の確かさを担保する数です。そしてこの名簿は、27:61(「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓の方を向いて座っていた」)と、28:1(「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」)へと引き継がれていきます。十字架から復活まで、証言の糸は彼女たちによって途切れずにつながれるのです。

<以上の注解をもとにしての説教の結びとして>
 嘲りの声で始まった十字架の場面は、真昼の闇によって沈黙へと変わりました。三時間の後、響いたのは主イエスの叫び──「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。天からの答えはなく、かつて「愛する子」と告げられた御声も聞こえません。しかし主は沈黙の中でも「わが神」と呼び続け、見捨てられたと思える場所で神に向かって叫ばれました。
 その答えは言葉ではなく出来事として示されました。主が息を引き取られた瞬間、神殿の垂れ幕が上から下まで裂け、地が揺れ、墓が開かれました。十字架は敗北ではなく、神への道が開かれ、死の力が崩れ始めた場所だったのです。
 その光景を前に、ローマの兵士は告白しました。「まことに、この人は神の子であった」。奇跡でも教えでもなく、最も弱く見える十字架の姿こそが、イエスの真の姿を示したのです。そして遠くから見つめ続けた女たち──何もできずとも逃げず、目を離さなかった彼女たちのまなざしが、十字架から埋葬、そして復活へと証しをつないでいきました。
 私たちも人生の闇の中で「なぜ」と叫ぶ時があります。祈りが届かないように思える時、主に従うと言いながら遠くからしか見られない弱さを抱える時があります。しかし主イエスはすでにその闇を通られました。私たちの「なぜ」は主の叫びの中に受け止められています。遠くからでも目を離さず十字架を見つめ続けるなら、その場所はやがて空の墓へと続く道となります。
 十字架のもとで、私たちもあの兵士と共に告白しましょう。「まことに、この方は神の子です」。

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