2024年7月5日金曜日

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管理人について

日本基督教団茨木春日丘教会(礼拝堂の建物名「光の教会」)牧師

関西学院大学非常勤講師


【茨木春日丘教会関連】

建物見学の当面の停止について        Suspension of Building Tours

教会創立50周年記念礼拝説教 全文


【新約聖書学】

史的イエス研究史        

マタイ福音書緒論        マタイ福音書神学           

イスカリオテのユダとは何者か(大学講義レジュメ)

猫でもわかるマタイ福音書講座〜〜第3回「共観福音書問題」        

ガラテヤの信徒への手紙        


事典項目

エルンスト・ケーゼマン        ゲツセマネ(ゲッセマネ)        ゴルゴタ       

サドカイ派    サマリア人        

【旧約聖書学】

ミカ書        


【キリスト教史(教会史)関連】

ーー初期キリスト教時代ーー

コイネー・ギリシャ語                

前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス        


ー古代教会時代ーー

(古代教会における聖書)「正典」の確定        信条の形成        シモニア(聖職売買)

70/82-156/168年 ポリュカルポス        2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書

100頃-163/167年 ユスティノス

?-258 ラウレンティウス        

2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義        Montanism / Montanus

2世紀中葉 マルキオン

160頃-220年以降 テルトゥリアヌス        130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス

200頃-258年 キプリアヌス        293頃-373年 アタナシオス

240頃-320頃 ラクタンティウス        

3世紀後半-4世紀 ミュラのニコラウス

312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)

325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条

カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)

330頃-379 バシレイオス        342頃-420年 ヒエロニムス

381年 第1コンスタンティにポリス公会議/ニカイア信条


ーー中世時代ーー

675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス        

1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス        


ーー宗教改革時代ーー

15世紀  人文主義        

1482-1531年 エコランパディウス        

1491-1551年 マルティン・ブツァー        

1500年代前半以降 再洗礼派        

1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー        

1509-64年 カルヴァン        

1511-53年 セルヴェトゥス        

1515-63年 カステリヨン        

1524-25年 ドイツ農民戦争        

1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)                

1545年- 対抗宗教改革        1555年 アウクスブルク宗教和議        

16世紀 改革派教会        Reformed Church        

1618-48年 三十年戦争        

1635-1705年 シュペーナー        

1705年- ソッツィーニ主義        Sozzinism        

1836- ディアコニッセ        


【組織神学】

神学        マモン        


その他の原稿・読み物など

クリスマスの由来に関する豆知識



『信徒の友』掲載原稿の改訂版



『教会学校教案』の元原稿の改訂版
創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


#旧「大石アーカイブス」

サドカイ派

サドカイ派 Sudducees


 前2世紀頃に発生したと推定される、ユダヤ教内の一派で、貴族層(エルサレム貴族層、地方の貴族層)、地主などの富裕層によって主に構成される。元々は有力な祭司一族のザドク(ツァドク)家の子孫とこれに関連のある者たちに由来するものと思われる(エゼキエル40:46)。なお、ザドク(ツァドク)はソロモン時代の大祭司であった同名の人物から採られたものだろう(列王記上2:35)。


 イエス時代以前から以後しばらく、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)における多数派として、政治的および宗教的支配権を手にしていた。


 文化的にはオープンであったが、自分たちの基盤を揺るがすような改革は望まないため、現状維持には保守的であった。神学的には保守的で、律法理解については旧約における「トーラー」(=モーセ五書)のみを正典と見なし、律法学者やファリサイ派とは異なって、律法から派生した伝統的な解釈の権威を否定した。死者の復活、天使や霊の活動の否定(必ずしも存在自体を否定しているわけではない。この世における活動には否定的)を特徴としている。


 後70年のエルサレム神殿崩壊時、当時の最高議会サンヘドリンの瓦解と共に、事実上その存在は消滅した。


ミュラのニコラウス

ミュラのニコラウス Nicolaus 3世紀後半〜4世紀


 小アジア出身。小アジアのミュラの司教を務めた聖人。祝日は12月6日。船乗り、婦人などの守護聖人。


 生涯については不詳。貧しい3人娘に持参金として金貨の入った袋を部屋に投げ入れた逸話の他、嵐を沈めた話、誘拐されて桶に入れられていた子を復活させた伝説がある。11世紀、彼の遺体はイタリアのバーリに移動された。


 祝日の前夜、子供たちに贈り物が届けられるという言い伝えがオランダ、スイス、ドイツで形成され、米国にはオランダ系プロテスタント移民によって伝えられ、コカ・コーラ社の宣伝効果もあって、今日のサンタ・クロースのイメージが定着していった。


 美術作品においては、東方では白髭の好々爺、西方では冠の司教姿で描かれることが多い。彼の伝説に由来する三つの財布、あるいは金球、錨、船、3人の子どもの入った桶などをアトリビュートとする。    

「クリスマスの由来に関する豆知識」


 元々ユダヤには誕生日を祝う習慣がなく、キリストが誕生した日も定かではないため、初期の教会においてはクリスマスという発想自体がありませんでした。ところが、1世紀から3世紀にかけてキリスト教がローマ社会に浸透していくと、ローマ皇帝等の誕生日を祝う習慣のあった帝国の勢力圏では、キリスト降誕の祝祭日を持ちたいという潜在的ニーズが高まっていったと推測されます。


 他方、ローマ社会においては12月にはお祭りが多く、キリスト教徒が礼拝そっちのけで祭りにかまける事態も深刻視されていきました。そこで、太陽神を讃える祭りの初日に相当する冬至の日、すなわち12月25日をキリスト降誕日と定め、祝うようになったというのがクリスマスの由来です。冬至では日照時間が最短となるものの、その日を境に光の時間が増えていくということも、キリストを「光」になぞらえる聖書の記述と合致するため、教義と文化の両面でスムースにクリスマスが定着していきました。


 元々誕生日を祝おうという発想自体なかったところから始まって、異教の祭事にぶつけるようにしてクリスマスを設け、そして今や、良い意味でも悪い意味でも宗教性を喪失して世界最大の祭事となっているとは、歴史というのは面白いものです。



ーーーレジュメ形式ーーー

 クリスマスの起源


・クリスマスとは、キリストの誕生を祝う祝祭日。

・元々ユダヤには誕生日を祝う習慣がない。

 よって、キリストが誕生した日も定かではない。

・初期の教会においても、クリスマスという発想自体がなかった。

・1世紀から3世紀にかけてキリスト教がローマ社会に浸透。

 他方、ローマ皇帝等の誕生日を祝う習慣あり。

 →キリスト降誕を祝いたいという潜在的ニーズが高まる。

・他方、ローマ社会では異教の神々由来の祭りが多い。

 キリスト教徒も祭りに参加してしまう問題。

・教会側は、太陽神の祭りの初日である冬至に焦点

 →12月25日をキリスト降誕日と定めた

・冬至では日照時間が最短。→その日を境に光の時間が増えていく

 ーーキリストを「光」になぞらえる聖書の記述と合致

 ーー教義と文化の両面でスムースにクリスマスが定着

・まとめ

 元々誕生日を祝おうという発想自体がなかった。

 異教の祭事にぶつけるようにしてクリスマスを設けた。

 今や、良い意味でも悪い意味でも宗教性を喪失して世界最大の祭事に。


2024年6月3日月曜日

ラクタンティウス

ラクタンティウス Lucius Caelius (Caecilius) Firmianus Lactantius, ca. 240-ca. 320


【要約】

「キリスト教のキケロ」とも呼ばれる神学者、護教家。290年頃にローマ皇帝ディオクレティアヌスによりラテン修辞学教師として招聘。300年頃、改宗。後、皇帝コンスタンティヌス1世の息子の教師。著作:『神聖教理』『神の怒りについて』


本文

 3世紀後半から4世紀に掛けて活動した、「キリスト教のキケロ」とも呼ばれる神学者、キリスト教護教家。北アフリカのヌミディア地方のシッカ出身。


 異教徒の家に生まれ、修辞学者となったが、290年頃にローマ皇帝ディオクレティアヌスに評価され、ラテン修辞学教師としてニコメディアに招聘された。


 300年頃にキリスト教に改宗。


 303年のキリスト教大迫害の際、追放処分を受けた。


 313年のミラノ勅令(キリスト教寛容令)以降、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の息子クリスプスの教師に任命された。


 主要著作

『神聖教理』 Divinae institutiones (7巻)

『神の怒りについて』 De ira dei

『迫害者の死について』 De mortibus persecutorum

ラウレンティウス

ラウレンティウス Laurentius, ?-258 CE


【要約】

古代時代における聖人、殉教者。教皇シクストゥスの助祭。皇帝ウァレリアヌス治下の迫害により殉教死を遂げた。金網に横たえられての火炙りによって処刑された。そのため、火に関連する職業の守護聖人とされている。


【本文】

 古代時代における聖人、殉教者。教皇シクストゥスの助祭。皇帝ウァレリアヌス治下の迫害により殉教死を遂げた。


 金網に横たえられての火炙りによって処刑された。そのため、火に関連する職業の守護聖人とされている。


 帝国に教会の財産を寄与するよう命じられた際、貧しい者たちを指して「これが教会の財産である」と返答したため、金網に横たえられての火刑に処せられ、殉教したという伝説がある。


ディアコニッセ

ディアコニッセ Diakonisse, 1836-


【要約】

原語のドイツ語は「奉仕女性」という意。広義は女性の助祭または執事を指す。狭義は1836年、ドイツのカイザースウェルトにおいて、ルター派牧師のテオドール・フリードナーによって創設されたディアコニッセ養成所で育成された女性を指す。


【本文】

 原語のドイツ語は「奉仕女性」という意。


 広義は、女性の助祭または執事を指す。狭義は1836年、ドイツのカイザースウェルトにおいて、ルター派牧師のテオドール・フリードナー(Theodor Fliedner)によって創設されたディアコニッセ養成所で育成された女性を指す。


 その女性たちは未婚女性、生涯独身のクリスチャンであり、施設や教会に派遣されて、奉仕に従事する。