2025年11月17日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26


 25節

新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.

7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。

「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。

「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。


 26節

新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.

「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。

「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。

「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。


 説教の結びの言葉として

 主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。

 私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。

 イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。

 ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。

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説教や聖書研究をする人のための聖書注解

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(『信徒の友』2018年4月号ー2019年3月号所収)

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2025年11月16日日曜日

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

1. 第2パウロ書簡の定義

 第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。

 一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。

  • エフェソの信徒への手紙

  • コロサイの信徒への手紙

  • テサロニケの信徒への手紙二

  • テモテへの手紙一

  • テモテへの手紙二

  • テトスへの手紙


2. 第2パウロ書簡の特徴

1. 語彙や文体、内容の相違
 第1テサロニケ書やロマ書といったパウロ真正書簡の語彙、文体、内容と似てはいるが、異なる点が複数指摘される。

2. パウロ以降の教会の教義や教会構造の反映
 教義内容や教会構造が、パウロの時代よりも後代のものであることが観察される。またその内容は、個々の教会の特別な事情に絡むものよりも、より一般化された内容に慣らされている。
3. 神学的特徴
 内容の神学的特徴としては、発展した教会論、再臨遅延に対する対応(2テサロニケなど)、宇宙論的な救済論(エフェソ、コロサイ)、パウロ的な義認論、ユダヤ人の救済論の後退が


3. 成立時期

  • 第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。



説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」


概要

4:1-9の「蒔かれた種の例え」の直後、4:10で「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」とあった。4:11-12では例え話論が挟み込まれているが、展開としては4:10に直接続くようにして本箇所が展開されている。ここでは、弟子たちの質問に答えるようにして、先の例えの解説が為されていく。

注解

13節

新共同訳 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
原文 καὶ λέγει αὐτοῖς· Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
 理解が及ばない「十二人」に対する叱責の言葉となっている。マルコのいわゆる「弟子の無理解」のモティーフが鮮明な箇所。
  • 「このたとえが分からないのか(Οὐκ οἴδατε...)」:「十二人」は群衆以上に教えまたは啓示を受けられる立場にありながら、理解(γινώσκω「知る」)できないことが叱責されている。否定疑問文によってそれが強調されている。弟子の無理解のモティーフは、彼らを貶めたり、その権威を否定することが目的の批判というよりも、権威を持つ持たないではなく、誰であれ理解していく弟子こそ真の弟子として相応しいということを主張するもの。マルコ福音書の読み手が彼らの役を担っていくように、という意図が込められているのではないか。
  • 「どうして……理解できるだろうか」:未来形の疑問文が使われている。未来における可能性が問われている。

14–15節

新共同訳 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
原文 14 ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει.
15 οὗτοι δέ εἰσιν οἱ παρὰ τὴν ὁδὸν ὅπου σπείρεται ὁ λόγος· καὶ ὅταν ἀκούσωσιν, εὐθὺς ἔρχεται ὁ Σατανᾶς καὶ αἴρει τὸν λόγον τὸν ἐσπαρμένον εἰς αὐτούς.
 蒔かれた種の例えの解説が、本節より開始されている。
  • 「種を蒔く人(ὁ σπείρων)」:「神の言葉を蒔く」、すなわち神の言葉を宣べ伝える弟子たち、宣教者、信徒たちを指す。現在分詞が使われていて、”今も蒔き続けている”というニュアンスを持つ。
  • 「言葉(ὁ λόγος)」:新共同訳では「神の言葉」とあるが、原文では冠詞付きの「言葉」のみ。イエスの言葉、教え、神の国、啓示、福音、これらを総合的に指す。
  • 「サタン(ὁ Σατανᾶς)」:マルコでは「イエスの誘惑」の1:13 他、3:23, 26、またイエスによるペトロ叱責の言葉(8:33)で見られる。人を神から引き離す超自然的な霊的存在。ここでは人々を聴従から引き離す原因としてサタンが挙げられているが、15節以降が示しているように、総じて人々の心掛けが焦点とされている。
  • 「道端のもの(οἱ παρὰ τὴν ὁδόν「道の傍にいる者たち」)」:固く踏み締められた道が種を弾く、すなわち神の言葉を柔らかい土のように受け止めることができない態度を意味する。たとえ聞いたとしても、聞き入れるわけではないということ。
  • 「すぐに(εὐθύς)」:マルコが好む語。事態は急速に変化するゆえに、信仰者は決断も「すぐに」せねばならない。

16–17節

新共同訳 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
原文 καὶ οὗτοι ὁμοίως εἰσιν οἱ ἐπὶ τὰ πετρώδη σπειρόμενοι, οἳ ὅταν ἀκούσωσιν τὸν λόγον, εὐθὺς μετὰ χαρᾶς λαμβάνουσιν αὐτόν·
καὶ οὐκ ἔχουσιν ῥίζαν ἐν ἑαυτοῖς ἀλλὰ πρόσκαιροί εἰσιν, εἶτα γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν λόγον, εὐθὺς σκανδαλίζονται.
 艱難や迫害、つまり試練に対する耐性がなく、挫折するタイプについて述べられている。
  • 「石だらけの所に(ἐπὶ τὰ πετρώδη)」:岩地の上に土層が薄く載っただけの場所。一時的な感情の高まり(「すぐに喜んで(εὐθὺς μετὰ χαρᾶς)」)で「御言葉」を受け入れるものの、それはあくまで一時的で「根(ῥίζα)」を持つものではないために成長せず、「つまずいてしまう」(σκανδαλίζω)事例を表す。
  • 「しばらく(πρόσκαιροί)」:一時的という意味。πρός(前置詞「〜へ、〜に対して」)+ καιρός(時、好機)という語の構造から言えば、「その時へ」、すなわちその時だけの一時しのぎのような意味合い。
  • 「艱難や迫害が起こると(γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν)」:属格絶対構文で、状況的な条件を表す。
  • 「つまずいてしまう」:語源は、人を罠にかけて転ばせる棒。この語はマルコで8回使用されている(4:17; 6:3; 9:42, 43, 45, 47; 14:27, 29)。いずれも信仰の営みが頓挫する事態を意味する。マルコ福音書の執筆時、マルコの教会が経験していた迫害と、信仰からの離反を背景としている可能性が高い。

18–19節

新共同訳 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
原文 18 καὶ ἄλλοι εἰσιν οἱ εἰς τὰς ἀκάνθας σπειρόμενοι· οὗτοί εἰσιν οἱ τὸν λόγον ἀκούσαντες,
19 καὶ αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος καὶ ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου καὶ αἱ περὶ τὰ λοιπὰ ἐπιθυμίαι εἰσπορευόμεναι συνπνίγουσιν τὸν λόγον, καὶ ἄκαρπος γίνεται.
  • 「茨(ἀκάνθη)」:「この世の思い煩い(αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος)」「富の誘惑(ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου)」「その他いろいろな欲望」(αἱ ἐπιθυμίαι)を指すと述べられている。
  • 「御言葉を覆いふさいで(συνπνίγουσιν)」:原語は「窒息死する」という意味合いを持つ。その人の信仰者としての成長を阻み、また生活というライフばかりか、命という意味でのライフをも死に至らせるという主旨。

20節

新共同訳 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
原文 καὶ ἐκεῖνοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν σπαρέντες, οἳ ἀκούουσιν τὸν λόγον καὶ παραδέχονται καὶ καρποφοροῦσιν, ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.
  • 「良い土地(蒔かれた)(ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν)」:倫理的に「良い」ということではない。神の言葉を聞き(ἀκούουσιν)、受け入れ(παραδέχονται)、そして「実を結ぶ(καρποφοροῦσιν)」人たちとされている。成長の3段階が意識されていて、それぞれ「聞く」「受け入れる」「実践」に対応する。また、明記されていることではないが、土地は種を受け止めるのが役割で、実を結ぶ力そのものは種に内包されている。実を結ぼうとする実践は大事だが、種、すなわち神の言葉の力が豊作を実現することを意識したい。
  • 「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」:誇張された文学的表現(参照:創世記26:12)。4章全体の例えの基調である成長する神の国という主題を象徴する文言でもある。

説教の結びとしての言葉

 今日、主イエスがお語りになった「蒔かれた種の例え」は、単なる農夫の物語ではありません。私たちと関係のない人の話でもありません。これは、私たち一人ひとりの心の状態、あるいは信仰的な態度を映し出す鏡のようなものです。
 道端のように固く閉ざされた心、岩地に土が薄く載っただけの浅い心、種々の茨に覆われた心――それらは、神の言葉という種を受けても実を結ぶことができません。しかし「良い土地」とは、御言葉を聞き、受け入れ、そして実を結ぶ心です。
 ここで大切なことは、実を結ぶ力が私たち自身の努力だけにあるのではなく、むしろ蒔かれた「種」そのものにあるということです。私たちはただ、その言葉を受け入れる柔らかな土となるように心を整えるのです。すると、その種は私たちの人生において、三十倍、六十倍、百倍の実を結び、私たちの人生を豊かにし、また周囲の人々をも豊かにします。
今日、私たちが問われているのは――「私の心はどのような土地なのか」ということです。固く閉ざされた道端ではなく、浅い石地でもなく、茨に覆われた心でもなく、神の言葉を受け入れ、育み、実を結ぶ「良い土地」となりましょう。
 「聞く者は聞きなさい」(マルコ4:9)――この呼びかけに応えて、私たちの心を良い土地とし、神の言葉の種を豊かに実らせる者となろうではありませんか。

学術的ノート

(※内容不変。文献名・スペース・句読点などを整形)
  • マルコ4:13 エルサレム教会の系譜に由来する4:11-12の伝承に対して、マルコは4:13をもって批判。弟子の無理解を表す。
     田川建三『マルコ福音書 上巻』292–293頁。
  • 4:13 マタイとルカは、イエスによる弟子たちへの批判を削除。要確認。並行箇所付加。
     マタイは4:13を削除(マタイ13:10-17)。ルカも4:13を削除(ルカ8:9-10)。
  • 4:13 種蒔きの譬えが他の譬えを理解するのに決定的であることを意味するとする。
     Witherington, Mark, 168.
  • 4:13 kai legei autois = 前マルコ伝承。
     Pesch, Markus 1, 241.
     Gnilka, Markus 1, 173.
     一方、Guelich はどちらとも判断し難いとしている(Guelich Mark, 219)。
  • 4:13b 伝承:Pesch, Markus 1, 243。マルコ:Grundmann, 125。
     Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     元々伝承でも、マルコによって構成されている(Guelich, Mark, 219)。
  • ギノースケイン(γινώσκειν)は伝承に見出される:6:38; 13:28f; 15:10, 15
     Schweizer, "Mark's Theological Achievement," 59。
  • 4:13 弟子の無理解が示されているが、4:34 によってマルコの読者は、この問題が解決されていることに思い至るという。
     Tannehill, "The Disciples in Mark: The Function of a Narrative Role," 146。
  • 4:13b Bock によれば、否定疑問文は積極的な意味を持つ応答で、譬えの聞き手がやがて理解するようになることが暗示されているという。だが根拠は明示されていない。
     Bock, Mark, 177。
  • マルコの編集とする説:「神の国を打ち明けられている」(11節)はずの弟子たちが理解できていないという批判。
     川島貞雄『マルコによる福音書』101頁。
  • 比喩や幻が特別な人によって後から解説されるという黙示文学的特色。用語から見て伝承に属する導入句(川島貞雄『マルコによる福音書』98頁)。
     「ひとりに」(κατὰ μόνας)に対して、マルコは通常 kat’ idian。
     尋ねる erōtan に対して、マルコは通常 eperōtan。
  • マルコ4:13
     前マルコ伝承:Pesch 1:241、Gnilka 1:173。
     編集:Räsänen, Parabeltheorie 102–106。
     ダブルクエスチョン:7:18; 8:17。
  • 「この譬えを理解できないのか」
     伝承:Gnilka, Verstockung, 33; Pesch 1:243。
     編集:Grundmann, 125; Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     asunetos, synienai:6:52; 7:18; 8:17, 21(Guelich, Mark, 219)。
  • 4:14-20 の解釈:新約書簡に典型的語。後の教会による解釈。教会の内側にこそ石、茨がある。
     E. シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』82頁。

2025年11月13日木曜日

光の教会【ひとこと説教】

 光の教会【ひとこと説教 23】
「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます」詩編56編4節

 私たちの心には、恐れと神への信頼が同時に存在することがあります。 信仰に生きる人とは、恐れを知らない人ではありません。 むしろ、自分の中にある恐れを認め、それでもなお神に依り頼む人です。
 信仰とは、揺るぎない確信ではなく、揺れ動く心を抱えながらも神に向かう姿勢です。 不信や不安を抱えていることを自覚することこそ、神との真の関係の始まりです。 恐れの中でこそ、私たちは神の力と慰めを深く知るのです。

2025年11月12日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

22:34-40

22:41-46

23:1-12

23:13-36 ①13-15、②16-22)

23:13–16 ③23:23–24

28:1-10


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35

4:1-9

4:10-12「例えで語る理由」

4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」


ヨハネ福音書

15:26-27

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–16(④ 23:23–24)

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ④ 23:23–24


 23節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
原文 Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι ἀποδεκατοῦτε τὸ ἡδύοσμον καὶ τὸ ἄνηθον καὶ τὸ κύμινον, καὶ ἀφήκατε τὰ βαρύτερα τοῦ νόμου, τὴν κρίσιν καὶ τὸ ἔλεος καὶ τὴν πίστιν· ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι.

 イエスは、神への誠実さなど内面的なものこそ、律法における最重要事項であるとする。他方、それを欠いた律法遵守に終始する律法学者、ファリサイ派の人々を批判している。
  • 「十分の一(ἀποδεκατοῦτε)」:薄荷(ἡδύοσμον)、いのんど(ἄνηθον)、茴香(κύμινον)は料理に使う香草類。これらが少量で細々とした物の代表例として挙げられ、彼らはこんな細かな物に至るまで、収入の「十分の一」を神殿に捧げる十分の一税(参照:レビ記27:30)を励行していると指摘。同時に、それが滑稽であるとイエスは批判している。
  • 「正義(κρίσις)、慈悲(ἔλεος)、誠実(πίστις)」:ユダヤ教における三つの徳。ミカ書6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」を起源とする。なお、「誠実」と訳されているπίστιςは「信仰」とも訳される語。
  • 「十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない(κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)」:直訳では「そちらもまたおろそかにするべきではない」。句末の「これこそ行うべきことである。しかも、ほかのこともおろそかにしてはならない」(ἔδει…ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)は、律法廃棄ではなく、価値の優先順位を説く言葉である。イエスは細部の遵守そのものを否定せず、それを律法の核心(神への忠実さと隣人愛)と結びつけるよう求めている。

 24節

新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
原文 ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ διϋλίζοντες τὸν κώνωπα, τὴν δὲ κάμηλον καταπίνουσιν.

 細則にこだわるわりには、本義を見失っていることが指摘されている。誇張された比喩によって、彼らの真理に対する盲目ぶりが描かれている。
  • 「ものの見えない案内人(ὁδηγοὶ τυφλοί)」:先の16節でも使用されていた呼称。自分は見えていると思い込んで人々を導こうとする彼らへの皮肉。
  • 「ぶよ(κώνωψ)」と「らくだ(κάμηλος)」:レビ記11章で汚れた動物とされている。κώνωψは κῶνος(円錐)と ὤψ(顔)の合成語。「ぶよ」は日本語では渓流などに生息する小虫を指すので、「蚊」の方が適切。それが溜めた水やワインにつくため、これらを飲む際には「漉す」必要があった。律法学者やファリサイ派が、蚊を漉すように律法の細部にこだわりながらも、遥かに重大な「正義、慈悲、誠実」をないがしろにする滑稽さが語られている。また、κώνωψは κάμηλος と発音上似ていることから、ギリシャ語テキスト上で語呂合わせが意図されている可能性がある。

 説教の結びの言葉として

 今日、私たちは、イエスが律法学者とファリサイ派の人々に向けて語られた厳しい言葉に耳を傾けました。彼らは律法の細部に熱心でありながら、神が本当に求めておられる「正義」「慈悲」「誠実」を見失っていました。
 イエスは、律法の細かな実践を否定されたのではありません。イエスも仰っている通り、それらもまた大切なことです。しかし、それ以上に、神と人とに対する愛と誠実さ、隣人への思いやり、そして正しい裁きを行う心が、信仰の根幹であると教えておられます。
 「ぶよを漉してらくだを飲み込む」――この誇張された比喩は、私たち自身の姿を映す鏡でもあります。私たちもまた、形式や習慣にとらわれるあまり、神の御心、神の定めの本義を見失ってはいないでしょうか。
 どうか今日から、私たちの信仰が外側の行いだけでなく、内なる誠実さと愛に根ざしたものとなりますように。神の御前において、私たちが真に重んじるべきものを見極め、それを実践する者とされますように。