2025年10月26日日曜日

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日本基督教団茨木春日丘教会(礼拝堂の建物名「光の教会」)牧師

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説教や聖書研究をする人のための聖書注解

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回連載

(『信徒の友』2018年4月号ー2019年3月号所収)

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説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:1-9

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:1-9

「蒔かれた種の例え」

 並行箇所:マタイ13:1-9、ルカ8:4-8


 概要

 マルコ4:1-34は例え話集となっていて、最初の「蒔かれた種の例え」の他、成長する種の例え、からし種の例えが収録されている。同時に、この例え話の解説(4:13-20)、および例えを使って話す理由も記されている。(4:10-12、4:33-34)。

 種を蒔く人の譬え話は、例えやその解説の中で土地について注目されていることもあって、種が撒かれた土地、すなわち、神の言葉を聞いた人々の話として認識されていた。だが、最近はこの解釈が見直され、種を蒔く側の人々についての例え話、つまり、神の言葉を宣べ伝える側の苦労を物語る例えとして見直されている。

 例えの構造としては、四種類の地面と種の運命が描かれている。4種の土地は、神の言葉という種を聞いた4タイプの人間の寓喩である。


 参考文献(注解書などを除いた一部)

上村静「蒔かれた種のたとえ(マルコ 4:3-8)蒔かれた種のたとえ(マルコ 4:3-8)―神の支配の光と影―」、『新約学研究』第42巻、日本新約学会、2014年。



 1節

新共同訳「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」

Καὶ πάλιν ἤρξατο διδάσκειν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ συνάγεται πρὸς αὐτὸν ὄχλος πλεῖστος, ὥστε αὐτὸν εἰς πλοῖον ἐμβάντα καθῆσθαι ἐν τῇ θαλάσσῃ, καὶ πᾶς ὁ ὄχλος πρὸς τὴν θάλασσαν ἐπὶ τῆς γῆς ἦσαν.


「イエスは、再び……」:Καὶ πάλινは、マルコに特徴的な繋ぎの語句(他、2:13など)。複数回にわたって弟子たちや人々に教えられたことが示されている。

黙想:人に伝える、または教えるということは、容易なことではない。イエスでさえも継続的に何回も続けて行わなければならなかったし、失敗も多かったことが窺える。


「おびただしい群衆が……集まって来た」:群衆が集まった理由が、イエスの奇跡の業を求めてなのか、あるいはイエスの教えを聞こうとしたものなのか、判断し難い。

 「おびただしい群衆」は、直訳では「大勢の群衆」(ὄχλος πλεῖστος):群衆は大勢の人たちのことなので、これに「大勢」と加えるのは冗長的表現である。これは、イエスの人気と宣教の影響力が、いかに大きかったかの強調が意図されている。


「湖のほとりで」:ガリラヤ湖のこと。先の「また」という語も暗示するように、イエスの宣教活動の中心地の一つ。


「船に乗って腰を下ろし」:ユダヤ教におけるラビが講話をする時、ラビは座して語った。教師として教える基本的姿勢。船に乗って語る理由として、1 殺到する群衆を避ける。2 湖面を利用して声を反射させ、群衆の耳に行き届かせる。

 象徴的解釈として、舟を教会の象徴とし、群衆はそれが伝える神の言葉を聞く者とすることが可能である。



 2節

新共同訳「イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。」

καὶ ἐδίδασκεν αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς πολλά, καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ἐν τῇ διδαχῇ αὐτοῦ·


「たとえでいろいろと教えられ」:イエスが例えを用いて語った理由については、後続の4:10-12において述べられる。「例え」という語は(παραβολή)、原語自体は元来“並べて投げる”ないし“並べて置く”ことを意味する。類推しやすいものを通して物事を悟ろうとするのが例えの目的である。イエスは、日常的事象を取っ掛かりとして、神の真理を聞き手に悟らせようという目的で例えを用いた。


「その中で」:直訳では、「その教えにおいて」。「教え」と訳されている語はδιδαχή、文字通りの意味。これはイエスの宣教内容の中核であり、その内容はおそらく、聖書(旧約聖書)の言葉の解釈や、神、神の愛についてである。



 3節

新共同訳「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」

Ἀκούετε· ἰδοὺ ἐξῆλθεν ὁ σπείρων σπεῖραι.


「よく聞きなさい」:原文では、命令形の動詞のみで「聞け」。話の開始に際して

聴衆に注意を促す文言ではあるが、同時にこの例えの底流にある”神の言葉ないし教えを聞く“という主題とも一致する。


「種を蒔く人」:ὁ σπείρων 

この例えにおいては農夫を指すが、意味するものは“神の言葉を蒔く人”、すなわち、人々に神の教えを説くイエスや弟子たち、後の宣教する者たち。



 4節

新共同訳「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」

καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν, ὃ μὲν ἔπεσεν παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθεν τὰ πετεινὰ καὶ κατέφαγεν αὐτό.


「ある種は……」:ὃ μὲν... ここから、撒かれた種のそれぞれの顛末が綴られていく。


道端に落ち、鳥が来て食べてしまった:道端に落ちた種は。鳥に食べられる運命にある。他方、踏みしめられた道は硬く、土が種を受け入れないため、種が外に晒されてしまうことになる。そのために、鳥に食べられるという読みも可能。


「鳥」:後述の4:15では、鳥はサタンであると解き明かされる。

 

 5節

新共同訳「5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」

5 καὶ ἄλλο ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες, ὅπου οὐκ εἶχεν γῆν πολλήν· καὶ εὐθὺς ἐξανέτειλεν, διὰ τὸ μὴ ἔχειν βάθος γῆς· 6 καὶ ὅτε ἀνέτειλεν ὁ ἥλιος, ἐκαυματίσθη· καὶ διὰ τὸ μὴ ἔχειν ῥίζαν ἐξηράνθη.


「石だらけで土の少ない所」:原文の直訳では、単に岩地の上(ἐπὶ τὸ πετρῶδες)。パレスチナでは岩地が多く、風に吹かれてある程度堆積した土が浅く盛られている場所も少なくない。

「すぐ芽を出した」(εὐθὺς ἐξανέτειλεν):「すぐ」(εὐθύς)はマルコが好む語。速やかな決断を示す際によく使用されるが、ここでは否定的な意味を含み、「すぐ芽を出した」、すなわち、すぐに信仰的決断に至ったものの、長く持続はしなかったということを暗示している。

 岩地の上の種がすぐに芽を出す理由については、岩盤が熱を持ちやすく、その暖かさで発芽するのが早いことが考え得る。


「日」(ὁ ἥλιος):太陽のこと。試練や迫害を象徴。迫害のない我々の環境であれば、なんとなく行く気が失せてしまうことなども、大きな試練と言える。


「焼けて」(ἐκαυματίσθη):「焼けた」—信仰の試練に耐えられない状態。


 7節

 新共同訳「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」

καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας, καὶ ἀνέβησαν αἱ ἄκανθαι καὶ συνέπνιξαν αὐτό, καὶ καρπὸν οὐκ ἔδωκεν.


「茨」(ἀκάνθαι):原語では複数形。世の思い煩いや、富の誘惑(参照、4:18-19)。


「覆いふさいだ」(συνέπνιξαν):原語は「窒息させる」の意。芽を出した種の成長を阻む、さまざまな試練的な要素を象徴する。


「実を結ばなかった」(οὐκ ἔδωκεν καρπόν):信仰がその人において実りある人生をもたらすことはなかったということ。


 8節

 新共同訳「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』」

καὶ ἄλλα ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλὴν, καὶ ἐδίδου καρπὸν ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον, καὶ ἔφερεν ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.


「良い土地」(τὴν γῆν τὴν  καλήν):「良い地」。「良い」と訳されているκαλήνは、他に「美しい」という意味も持つ。良い土地とは、良い人間や美しい人間を意味するのではなく、次節によれば「聞く耳のある者」、あるいは「良く聞きなさい」という言葉を受けての”よく聞く人”。


「芽生え、育って」(ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον):マルコのみの表現。これまでの事例では頓挫していた成長が、そのまま持続した結果として描かれている。


「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍」:この時代における農業の10倍近くの数値に相当。神の恵みの豊かさを強調する。


 これまで失敗例が3個続いた後、4個目に成功例が挙げられている。4回に1回ほど大当たりがあったという運的要素を読み取るよりも、成長が止まらずに持続した際の実りは大きい、という趣旨として理解するべきである。

 豊かな実りは、持続的な成長を促す育てる側、そしてそれを受ける育てられる側、双方の継続的な営みが大切である。


 9節

 新共同訳「そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」

καὶ ἔλεγεν· ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.


「聞く耳のある者は聞きなさい」:「聞け」という命令は、典型的な預言者的警句である。イエスの文脈では、聞いたことを行うという、実践が重要である(参照、マタイ7:24-29)。


「聞く耳のある者は」(ὃς ἔχει ὦτα)同様の表現として、マタイ11:15、、黙示録2:7など。


 まとめの説教的な言葉として

 イエスは、種を蒔く人の姿を通して、神の言葉を宣べ伝える者の労苦と希望を語られました。そして、種が落ちる地面の違いは、私たち一人ひとりの心のあり方を映し出しています。

 道端のように心が閉ざされていると、言葉は根を張ることができません。岩地のように浅い信仰では、試練に耐えられません。茨のように世の誘惑に心が奪われると、実を結ぶことはできません。しかし、良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。

 私たちの心が、神の言葉を受け入れる「良い土地」となるように、日々整えられていきましょう。聞く耳を持ち、聞いたことを行う者となることこそ、主の御心にかなう歩みです。


 祈りの言葉

 恵み深い天の父なる神様、

 あなたの御言葉を今日、私たちの心に蒔いてくださったことを感謝します。どうか私たちの心を耕し、あなたの言葉が根を張り、芽を出し、豊かに実を結ぶように、聖霊の働きをもって導いてください。

 私たちが世の誘惑や試練に負けることなく、あなたの真理に立ち続けることができますように。宣教する者として、また聞く者として、あなたの御国の働きに忠実に仕える者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2025年10月25日土曜日

光の教会【ひとこと説教】

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光の教会【ひとこと説教 2】過ちを認める年長者のリーダーシップ


「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」「これを聞いた者は、年長者から始まって…一人また一人と立ち去って…」

ヨハネによる福音書 8章7-8節

 これこそ、年長者のリーダーシップではないでしょうか。


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光の教会【ひとこと説教 1】

「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」

コヘレトの言葉 9章7節

 羽目を外しすぎて悪いことにならない限り、食べて飲むくらいは許されています。

2025年10月22日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

  22:34-40

22:41-46


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35


ヨハネ福音書

15:26-27

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46


 注解

 41節

新共同訳「ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。」

Συναχθέντων δὲ τῶν Φαρισαίων ἐπηρώτησεν αὐτοὺς ὁ Ἰησοῦς,


大抵の場合、ファリサイ派やサドカイ派といったイエスに批判的な勢力の人々が、イエスに質問をする側である(22:15-22、22:23-33)。しかし、ここでは反対に、イエスが彼らに質問する側となっている。しかも、イエスが問いを投げかけた対象は、ファリサイ派の集団であった(συναχθέντων「彼らが集まっていると」)。


 42節

新共同訳「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、」

λέγων· Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ; τίνος υἱός ἐστιν; λέγουσιν αὐτῷ· Τοῦ Δαυίδ.


 イエスの質問内容は、「メシア」が「誰の子」かということ、すなわち、メシアの出自に関する事柄であった。


「メシアのことをどう思うか」:直訳では、「キリストとはあなたがたにとって誰か」(Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ;)。

「メシア」:原文ではΧριστός。直訳では「キリスト」となるが、新共同訳聖書では当時の文脈を考慮して、”油注がれた者”、”救世主”を意味する「メシア」と訳出している。


「誰の子か」:前述のように、メシアが誰の子なのかという、メシアの出自を問う質問となっている。


「だれの子だろうか」:原文では、「ダビデの」(Τοῦ Δαυίδ)。ファリサイ派は、メシアがダビデの家系から生まれるという当時のメシア理解を踏襲し、これをメシアの視点から言い直して、「ダビデの子」と回答した。


 43-44節

新共同訳 43「イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。」44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」

λέγει αὐτοῖς· Πῶς οὖν Δαυὶδ ἐν Πνεύματι καλεῖ αὐτὸν Κύριον, λέγων· 44 Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου· Κάθου ἐκ δεξιῶν μου, ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου ὑποπόδιον τῶν ποδῶν σου.

 イエスは詩編110:1(LXX 109:1)を引用し、ファリサイ派のメシア理解の矛盾点を突こうとする


「霊を受けて」:直訳では「霊において」(ἐν Πνεύματι)。神の霊によってダビデが真理を語ったという趣旨だが、新約時代のキリスト教の教義的な言い方をすれば、「聖霊」となる。言うなれば「聖霊に導かれて」となるだろうか。つまり、ダビデがそうして語ったことは、神の意志に基づく真理であることに他ならない、という意。

「メシアを主と呼んでいる」:44節の詩編引用における「主は、わたしの主にお告げになった」(Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου)という文言に基づいている。そうすると、ダビデが神の「霊を受けて」、すなわち誤りなき真理として、彼が自分の子孫を「主」と呼んでいることになる。イエスは、その矛盾を指摘している。これは同時に、メシアが単なるダビデの末裔としての人間的存在ではなく、神的な「主」という存在であることを暗示する。


「主は、わたしの主に」:Κύριος τῷ Κυρίῳ μου 「主」が二重に現れる表現。第一の「Κύριος」はヤハウェ(神)。第二の「Κύριος μου」(わたしの主)は、メシアを指す。

 

イエスの議論は、もしメシアが単なる「ダビデの子」であるなら、なぜダビデが彼を「主」と呼ぶのか、という逆説。

「わたしの右の座」(ἐκ δεξιῶν μου):神の栄誉と権威を帯びる、ナンバーツー相当の座位。新約文書において、キリストが昇天して着いた座とされている。(参照、マルコ16:19、ヘブライ1:3など)。



 45節

新共同訳「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

εἰ οὖν Δαυὶδ καλεῖ αὐτὸν Κύριον, πῶς υἱὸς αὐτοῦ ἐστίν;


 イエスのロジック上では、メシアがダビデの子という命題は矛盾しているので、改めて「どうして」と問う必要はない。だが彼は、あえて「どうして」(πῶς)と問うという修辞的疑問文を用いることにより、聞き手がその命題の妥当性を再考するよう誘導している。

 ただし、メシアがダビデの家系から出現すること自体を否定しているわけではない。メシアをダビデの血統の末裔であるという次元でのみ捉えようとする、彼らの狭い物の見方を退けている。それはまた、<メシア=イスラエルをローマから救うといった政治的・民族的救済者?というメシア理解の否定でもある。

 また、この記事においては、イエスがメシアであり、「わたしの主」であることが暗示されているだろう。



 46節

新共同訳「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」

καὶ οὐδεὶς ἐδύνατο ἀποκριθῆναι αὐτῷ λόγον, οὐδὲ ἐτόλμησέν τις ἀπ’ ἐκείνης τῆς ἡμέρας ἐπερωτῆσαι αὐτὸν οὐκέτι.


 マタイ22:15以降、ファリサイ派やサドカイ派との論争物語が連続しているが、当記事はその最後のものであり、本節はこの記事の結びであると同時に、論争物語集の結語ともなっている。

「だれ一人……できず」:ファリサイ派でさえ、イエスの知恵を上回ることができず、彼を陥れようとする彼らの企みが、完全に潰えたことを示す。


「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」:敵対者たちからの攻撃が止んだわけではない。論争を吹っ掛けることはなくなったものの、イエスを亡き者にしようとする計画へと転換したことが暗示されている。すなわち、ユダの裏切りから受難死へと展開していく転換点であり、十字架への伏線となっている。

 神学的には、論争や論破によって神の真理が論証される位相から、十字架と復活という啓示の出来事によってイエスのメシア性が明らかにされる、歴史的転換点ということになる。


 黙想

  「誰か?」「誰の子か?」というメシアを巡る問いは、一般の人々の問いでもある。人はそうした問いから始めて、真のキリストを知り、そうして三位一体の神を知り、信仰に至る。信仰告白は、「誰か?」と問いではなく、「イエスは主です、メシアです、キリストです、神の子です」という告白に他ならない。

 人が信仰告白へと至ることができるのは、ダビデもそうであったように、「霊によって」、すなわち聖霊の働きによる。実に、イエスを「主」と呼ぶ信仰は、聖霊によってもたらされるのである。

 人の狭い味方、考え、思い込み、それらが破綻した時、人は沈黙を余儀なくされる。その沈黙から、イエスを亡き者にしようとする神殺しの殺意が生じもすれば、他方、神の啓示を目の当たりにして、聖霊によって信仰的理解に到達することもある。

 イエスがメシアであることの出来事としての啓示は、十字架と復活である。


 祈りの言葉

 主なる神よ、 御子イエス・キリストに沈黙させられたファリサイ派のように、キリストを一元的に捉えてしまう物の見方の狭さ、心の矮小さへと至らないようにしてください。そうではなく、聖霊の働きによって私たちの理解と心を広げ、神の真理を悟ることができますように。十字架と復活のイエスこそ、神の子、キリスト、主なる方であることを知り、また、そのことを伝える者とさせてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。


2025年10月15日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:31–35

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:31–35

 並行箇所:マタイ12:46-50、ルカ8:19-21

 

 概要

 先行箇所の3:21における身内の訪問が伏線となっている。その箇所では、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とあり、家族でさえもイエスのことを理解できない現実が述べられていた。後述のように、家族が”イエスとは遠くに”または”家の外”に立ち、家族でない者が”イエスのそばに”または”家の中”座ってイエスの言葉を聞いている。この外と内という構図がこの記事において明瞭に示されていて、同時に、伏線回収ともなっている。


 注解

 31節

新共同訳 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。

Καὶ ἔρχεται ἡ μήτηρ αὐτοῦ καὶ οἱ ἀδελφοὶ αὐτοῦ, καὶ ἔξω στήκοντες ἀπέστειλαν πρὸς αὐτὸν καλούντες αὐτόν.

 3:21では「身内」とのみあったが、3:31では「イエスの母と兄弟」とあるように、より詳細に述べられている。


「イエスの母と兄弟たち」:6:3によれば、イエスの母の名はマリアであり、さらに、兄弟たちの数が4人で、それぞれの名前は「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」である。また、この6:3には「姉妹たち」の存在も示唆されていて、彼女たちについては次の32節で登場している。


「外に立ち」:「外」(ἔξω)。32節の「イエスの周りに座って」、すなわち<家の内>にいてイエスの言葉に耳を傾けている人々と、鮮明なコントラストが描き出されている。ここにはまず間違いなく象徴的な意味が含まれている。双方の距離感やいる場所の相違は単に物理的な状況のみならず、信仰的理解の決定的な違いを表している。



 32節

新共同訳「大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、」

Καὶ ἐκάθητο περὶ αὐτὸν πλῆθος· καὶ λέγουσιν αὐτῷ· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ σου καὶ οἱ ἀδελφοί σου καὶ αἱ ἀδελφαί σου ἔξω ζητοῦσίν σε.


「イエスの周りに座っていた」:原文では「彼の周囲に」( ἐκάθητο περὶ αὐτὸν)。当時、神の教えを語る教師、ラビが人々に教えを垂れる時、ラビは座り、聴衆や門下生たちは立つのが習慣とされていた。上下の格差がある中で、上の者が下の者に教えることを意味する。ただ、聴衆も座るスタイルも徐々に浸透しつつあった時代であり、上位下達の宗教教育から、双方の関係がより同じに近い、双方の共同の研鑽ということも意識されていた。

 この場面において人々が「座って」いる理由は定かではないが、イエスと教えを聞く者たちの距離感が、より親密であることは含意するだろう。こうした含みがあるとすれば、それがこの記事の主題である「イエスの家族」、すなわち家族関係の中で神の言葉を聞くということが象徴されている。


「母上と兄弟姉妹」:ここで再びイエスの「姉妹」も含む「母」と「兄弟」に言及され、血縁的な家族の概念が強調されている。

 


 33節

新共同訳「イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とはだれか』と答え、」

Καὶ ἀποκριθεὶς αὐτοῖς λέγει· Τίς ἐστιν ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου;


 家族とは通常、血縁関係上の定義であるが、イエスはその関係性を聴衆に問いかけ、再定義をしようとしている。イエスは「神の国」の接近を説いたが(参照、1:15)、神の国での信仰者の相互関係は「家族」であると意味づけた。

 ただし、ユダヤ人においては旧約聖書の時代から、例えば親密な関係にある者同士、あるいは同じ民族、同じ同盟関係同士、同じ信仰的共同体のメンバー同士を、「兄弟」などと呼び合う習慣があった。しかし、親しみを込めて弟子がラビを呼ぶ際、「父よ」と呼ぶ事例は希少ながらあるものの、家族でない者を父や母と呼ぶことはなかった。また、母や娘、姉妹、妻などのように、女性的な呼び方もほぼなく、神の愛を母と呼ぶ用例など(イザヤ66:13)、ごく限定的であった。ところがここでイエスは、男性的、女性的な呼び方をひとまとめに扱っているところに、イエスの教えの革新性がある。後に、例えばパウロはある女性信徒について、敬意を込めて母と呼んでいる(16:13)。



 34-35節

新共同訳「周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。』」35「『神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。』」

Καὶ περιβλεψάμενος τοὺς περὶ αὐτὸν καθημένους λέγει· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου. Ὃς ἂν ποιήσῃ τὸ θέλημα τοῦ Θεοῦ, οὗτος ἀδελφός μου καὶ ἀδελφὴ καὶ μήτηρ ἐστίν.


 イエスは、自身の周りに座り、語られる神の言葉に傾聴する人々こそを、「わたしの母」「兄弟」と呼び、新しい意味づけを行なった。この記事のみにおいては、イエスの真の家族はすなわち、イエスを通して語られる神の言葉を聞き、これに従い、これを実践して生きる者たち、となる。後にキリスト教会が、本節などを元にして、互いを同じ神の家族、「兄弟姉妹」と呼び合うにようになった神学的根拠は、次のとおり。

1、神が父であり、信徒たちはその子供であること。

2、キリストが父なる神の長子、すなわち長男であり、 私たちがその弟、妹であること。


 まとめ

マルコ3:31–35は、イエスが血縁を超えて「神の御心を行う者」を真の家族と呼ばれた場面である。 この箇所は、信仰共同体の本質を明らかにする。イエスの周囲に座る者たちは、単なる聴衆ではなく、神の言葉に耳を傾け、心を開き、従おうとする者たちです。 彼らこそが、イエスにとって「母」「兄弟」「姉妹」であり、神の家族の一員である。

 この教えは、私たちが互いを「兄弟姉妹」と呼び合う根拠であり、 教会が血縁や社会的区分を超えて、神の愛によって結ばれた共同体であることを示している。私たちもまた、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾けることで、 この家族の中に生きる者とされる。


 祈りの言葉

天の父なる神よ、 あなたが私たちを、キリストにあって一つの家族として呼び集めてくださったことを感謝します。 私たちが、血縁や立場を越えて、互いを兄弟姉妹として受け入れ、 あなたの御心を行う者として歩むことができますように。 イエスの言葉に耳を傾け、心を開き、従う者となるよう、 聖霊によって導いてください。 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:34-40

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:34-40


 

 直前の記事(22:23-33)において、イエスの返答に返す言葉のなかったサドカイ派の論客の無力さが描かれていた。本記事では、ファリサイ派とサドカイ派が結託することで、イエスに敵対する人々の構図が明瞭とされている。


 注解

 34節

新共同訳「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。」

Ἀκούσαντες δὲ οἱ Φαρισαῖοι ὅτι ἐφίμωσεν τοὺς Σαδδουκαίους, συνήχθησαν ἐπὶ τὸ αὐτό.


「サドカイ派」:直前の記事の22:23-33を参照。ここでの「言い込められた」場面が伏線となっている。

「一緒に集まった」:前述の通り、ファリサイ派とサドカイ派は、政治信条的に競合関係にあるが、敵同士がイエスを陥れるために協働している。詩編2:2における神に逆らうものたちの結束が、ここでイメージされているかもしれない(「支配者は結束して主に逆らい」)。



 35節

新共同訳「そして、そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。」

καὶ ἐπηρώτησεν εἷς ἐξ αὐτῶν νομικός, πειράζων αὐτόν


「律法の専門家」(νομικός):ユダヤ教の教師(ラビ)を指す。

4:1-11における「荒野の誘惑(πειράζω)」における「誘惑(試み、πειράζω)」は、本節での「試そうとして」と同じ動詞。悪魔による試みと、ユダヤ教のラビのそれとが、同列的に扱われているのかもしれない。



 36節

新共同訳「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

Διδάσκαλε, ποία ἐντολὴ μεγάλη ἐν τῷ νόμῳ;


「最も重要な戒め」:ユダヤ教のすべての戒めの中で最も重要なものは、申命記6:4-5における律法、通称シェマー。

シェマー:同箇所の冒頭の言葉「聞け」と訳されているヘブライ語の動詞 שָׁמַעに由来。「聞く」「従う」の意。

申命記6:4-5:聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。


 37-38節

新共同訳「イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な、第一の戒めである。」

ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔφη αὐτῷ· Ἀγαπήσεις Κύριον τὸν Θεόν σου ἐν ὅλῃ τῇ καρδίᾳ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ ψυχῇ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ διανοίᾳ σου. αὕτη ἐστὶν ἡ μεγάλη καὶ πρώτη ἐντολή.


「心を尽くし……主を愛しなさい」:申命記6:5からの引用。ユダヤ人は、これを唱えることを日課としていた。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」:自分の全存在をもって神を愛すること。



 39節

新共同訳「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」

δευτέρα ὁμοία αὐτῇ· Ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν.


「隣人を自分のように……」:レビ記19:18からの引用。いわゆる隣人愛。

「第二も…重要である」:原文の直訳では、「第二もそれを同様」となる。双方は「同様」の重要性を持つものの、「第一」「第二」と序列が設けられていることに留意したい。


 隣人愛については、先のシェマーに直接含まれているものではない。しかし、ユダヤ教ではこれもシェマーと並べて重要なものとされていた。


 40節

新共同訳「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

ἐν ταύταις ταῖς δυσὶν ἐντολαῖς ὅλος ὁ νόμος ἐντέταται καὶ οἱ προφῆται.


「律法全体と預言者」:「律法と預言」は、旧約聖書全体を指す表現。イエスは第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することを、人の生きる道、すなわち倫理とした。


 まとめ

 イエスの返答は、ユダヤ教のラビにとって、基本的なものである。種々の質問に対するイエスの回答は、奇抜なものばかりとは限らない。この記事では、基本中の基本を直裁に語ることによって、最重要事項の本質を示した。


 黙想
 神を愛することと、隣人を愛すること。両者は重要性においては同様としても、二つに順序がある点は、展開のしどころが豊富だろう。例えば、神を愛することによって、人を愛することを知る、とか、神を愛し神に愛されることで、人を愛することが可能になる、など。あるいは、世界は人間が中心ではなく、まずは神があってそれが中心にあり、そこに人間がいるなど、神と人間の存在構図などにも敷衍することが可能だ。
 キリスト教の教義と絡めるなら、人が神と人とを愛することができるようになるために、その人の内面に働く聖霊の力が用意されていることに触れても良い。