2025年12月11日木曜日

コラム 日本基督教会信仰の告白(1890年制定)「啓迪(けいてき)」という語について

コラム 日本基督教会信仰の告白(1890年制定)における「啓迪(けいてき)」という語について

 「啓迪」という語は、明治から昭和初期にかけて、哲学思想文書・教育関連文書・文語的エッセイ・法令、特に宗教関連文書(儒学・朱子学・仏教・キリスト教など)において広く用いられた。意味としては「啓発する」「啓蒙する」「悟らせる」「導く」などに相当するが、とりわけ宗教的文脈では「啓発」よりも神的・霊的な色彩(すなわち啓示的ニュアンス)が強い。内村鑑三や新島襄らキリスト教指導者も、神学用語 “illumination” (聖霊の照明)の訳語としてしばしば「啓迪」を使用していたことが知られる。

 しかし明治後期に入ると、「啓発」「啓蒙」「導き」など、より教育的・合理主義的な語が一般化する。その背景には、明治政府の文明開化政策に伴う教育重視の傾向があり、宗教的・形而上的な語彙が「非科学的」とみなされる啓蒙主義的風潮があった。このため、「啓迪」は古風かつ宗教的響きをもつ語として次第に退潮した。この傾向は日本基督教会にも及び、難解・文語的な用語を改め、用語統一を図る動きが見られたと考えられる。

 また、改革長老主義教会の神学的特徴として、「聖霊の導き(instruction / guidance of the Holy Spirit)」が重視される点がある。これは、個人の内的照明(illumination of the Holy Spirit)よりも、聖霊が信仰者を導く主導的働きを強調する立場であり、その訳語として「教導」という語が好まれた。おそらく、1890年当初の信仰告白制定段階では、旧来の伝統を尊重して「啓迪」が採用された(日本基督教会第17回年会議事録参照)が、大正期以降、「啓迪」を「教導」に置き換える傾向が進んだと推測される。

 ただし、「教導」への改訂を正式に決定した公的記録は現存しない。おそらくは各地の教会で文言調整が行われる過程で自然発生的に「教導」版が用いられるようになり、以後、並存する形で伝承されたものと思われる。

 まとめ

 時代的にも神学的にも、「啓迪」から「教導」への転換は自然な流れであった。しかし、1890年の日本基督教会信仰告白制定時に採用された原文には、確かに「啓迪」が用いられていた。後に「教導」へ変更されたという公的決定は確認されておらず、今日みられる両語の併用状態は、実務的・自然的な文言置換の結果と考えられる。

日本基督教会 信仰の告白〔1890年(明治二十三年)制定〕の注解

日本基督教会 信仰の告白〔1890年(明治二十三年)制定〕の注解


全文

 我らが神と崇(あが)むる主イエス・キリストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために、人となりて苦しみを受け、我らが罪のために、完全(まった)き犠牲をささげたまえり。おおよそ信仰によりてこれと一体となれるものは赦されて義とせらる。キリストにおける信仰は、愛により働きて人の心を潔む。また父と子とともに崇められ、礼拝せらるる聖霊は、我らが魂にイエス・キリストを顕示す。その恵みによるにあらされば、罪に死したる人、神の国に入ることを得ず。古(いにしえ)の預言者使徒および聖人は、聖霊に啓迪(けいてき)せられたり、新旧両約の聖書のうちに語りたもう聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり。往時(いにしえ)の教会は聖書によりて左(さ)の告白文を作れり。我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉(ほう)じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表(ひょう)す。

 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず、我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。即(すなわ)ち聖霊によりてみごもられ、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審判(さば)きたまわん。

 我は聖霊を信ず。聖なる公同教会すなわち聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。 

2025年12月10日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

22:34-40

22:41-46「ダビデの子についての問答」

23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」

23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

23:13-36(④23:23-24)

23:13-36(⑤23:25-26)

23:13-36(⑥23:27-28)

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

マタイ23:37-39「エルサレムのために嘆く」

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

28:1-10「復活する」


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35

4:1-9

4:10-12「例えで語る理由」

4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

4:21-25「『ともし火』と『秤り』の例え」

4:26-29「『成長する種』の例え」

4:30-32「『からし種』の例え」


ヨハネ福音書

15:26-27


ペトロの手紙二

1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」


説教や聖書注解をする人のための聖書注解 ペトロの手紙二 1:16–21節「キリストの栄光、預言の言葉」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 

ペトロの手紙二 1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

2025年12月5日金曜日

2025年12月3日水曜日