2025年12月11日木曜日

コラム 日本基督教会信仰の告白(1890年制定)「啓迪(けいてき)」という語について

コラム 日本基督教会信仰の告白(1890年制定)における「啓迪(けいてき)」という語について

 「啓迪」という語は、明治から昭和初期にかけて、哲学思想文書・教育関連文書・文語的エッセイ・法令、特に宗教関連文書(儒学・朱子学・仏教・キリスト教など)において広く用いられた。意味としては「啓発する」「啓蒙する」「悟らせる」「導く」などに相当するが、とりわけ宗教的文脈では「啓発」よりも神的・霊的な色彩(すなわち啓示的ニュアンス)が強い。内村鑑三や新島襄らキリスト教指導者も、神学用語 “illumination” (聖霊の照明)の訳語としてしばしば「啓迪」を使用していたことが知られる。

 しかし明治後期に入ると、「啓発」「啓蒙」「導き」など、より教育的・合理主義的な語が一般化する。その背景には、明治政府の文明開化政策に伴う教育重視の傾向があり、宗教的・形而上的な語彙が「非科学的」とみなされる啓蒙主義的風潮があった。このため、「啓迪」は古風かつ宗教的響きをもつ語として次第に退潮した。この傾向は日本基督教会にも及び、難解・文語的な用語を改め、用語統一を図る動きが見られたと考えられる。

 また、改革長老主義教会の神学的特徴として、「聖霊の導き(instruction / guidance of the Holy Spirit)」が重視される点がある。これは、個人の内的照明(illumination of the Holy Spirit)よりも、聖霊が信仰者を導く主導的働きを強調する立場であり、その訳語として「教導」という語が好まれた。おそらく、1890年当初の信仰告白制定段階では、旧来の伝統を尊重して「啓迪」が採用された(日本基督教会第17回年会議事録参照)が、大正期以降、「啓迪」を「教導」に置き換える傾向が進んだと推測される。

 ただし、「教導」への改訂を正式に決定した公的記録は現存しない。おそらくは各地の教会で文言調整が行われる過程で自然発生的に「教導」版が用いられるようになり、以後、並存する形で伝承されたものと思われる。

 まとめ

 時代的にも神学的にも、「啓迪」から「教導」への転換は自然な流れであった。しかし、1890年の日本基督教会信仰告白制定時に採用された原文には、確かに「啓迪」が用いられていた。後に「教導」へ変更されたという公的決定は確認されておらず、今日みられる両語の併用状態は、実務的・自然的な文言置換の結果と考えられる。

日本基督教会 信仰の告白〔1890年(明治二十三年)制定〕の注解

日本基督教会 信仰の告白〔1890年(明治二十三年)制定〕の注解


全文

 我らが神と崇(あが)むる主イエス・キリストは、神の独り子にして、人類のため、その罪の救いのために、人となりて苦しみを受け、我らが罪のために、完全(まった)き犠牲をささげたまえり。おおよそ信仰によりてこれと一体となれるものは赦されて義とせらる。キリストにおける信仰は、愛により働きて人の心を潔む。また父と子とともに崇められ、礼拝せらるる聖霊は、我らが魂にイエス・キリストを顕示す。その恵みによるにあらされば、罪に死したる人、神の国に入ることを得ず。古(いにしえ)の預言者使徒および聖人は、聖霊に啓迪(けいてき)せられたり、新旧両約の聖書のうちに語りたもう聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり。往時(いにしえ)の教会は聖書によりて左(さ)の告白文を作れり。我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉(ほう)じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表(ひょう)す。

 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず、我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。即(すなわ)ち聖霊によりてみごもられ、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死して葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死者のうちよりよみがえり、天に昇りて全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審判(さば)きたまわん。

 我は聖霊を信ず。聖なる公同教会すなわち聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。 

2025年12月10日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ福音書

22:15-22

22:23-33

22:34-40

22:41-46「ダビデの子についての問答」

23:1-12「律法学者とファリサイ派の人々を批判する」

23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22)

23:13-36(④23:23-24)

23:13-36(⑤23:25-26)

23:13-36(⑥23:27-28)

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

マタイ23:37-39「エルサレムのために嘆く」

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

28:1-10「復活する」


マルコ福音書

3:20-30

3:31-35

4:1-9

4:10-12「例えで語る理由」

4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

4:21-25「『ともし火』と『秤り』の例え」

4:26-29「『成長する種』の例え」

4:30-32「『からし種』の例え」


ヨハネ福音書

15:26-27


ペトロの手紙二

1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」


説教や聖書注解をする人のための聖書注解 ペトロの手紙二 1:16–21節「キリストの栄光、預言の言葉」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 

ペトロの手紙二 1:16–21「キリストの栄光、預言の言葉」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ24:1-2「神殿の崩壊を予告する」

2025年12月5日金曜日

2025年12月3日水曜日

2025年11月29日土曜日

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コンテンツリスト一覧

説教や聖書研究をする人のための聖書注解


 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回連載

(『信徒の友』2018年4月号ー2019年3月号所収)


【宗教学関連】リスト


【茨木春日丘教会(光の教会)関連】リスト


【キリスト教史(教会史)関連】リスト


【新約聖書学関連】リスト


【旧約聖書学関連】リスト


管理人について(大石健一)

日本基督教団茨木春日丘教会(礼拝堂の建物名「光の教会」)牧師

大学非常勤講師(宗教学、キリスト教学、キリスト教倫理)


運営YouTubeチャンネル

大石アーカイブスー新宗教・新興宗教・宗教学 大学講師

大石アーカイブスーキリスト教学・キリスト教史の解説

茨木春日丘教会 通称・光の教会 牧師・大石健一







説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:26–29 「『成長する種』の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:26–29 「『成長する種』の例え」

概要

 4:1以降、「蒔かれた種」の例えに始まり、「例えで話す理由」「『蒔かれた種』の解説」と続き、その後に「秤の例え」「ともし火の例え」が記されている。本箇所は、その流れを受けて、新たに「神の国」を主題とする例え話が展開されていく。


注解

26–27節

新共同訳

「26 また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』」

原文

26 Καὶ ἔλεγεν· Οὕτως ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ὡς ἄνθρωπος βάλλῃ τὸν σπόρον ἐπὶ τῆς γῆς,
27 καὶ καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν, καὶ ὁ σπόρος βλαστᾷ καὶ μηκύνηται, ὡς οὐκ οἶδεν αὐτός.

解説

  • 「また、イエスは言われた」:蒔かれた種の例え、直前のともし火と秤の例えに続く、一連の流れであることを示している。
  • 「神の国は次のようなものである」:ここで、これが「神の国」の例えであることが最初に宣言される。神の国の例えは、次の記事(4:30–32)でも展開されている。
  • 「人が土に種を蒔いて」:土に種を蒔く行為は、先の「蒔かれた種の例え」と同じ設定である。ただし、この例えでは成長を阻害する要素は登場せず、専ら、種が自然に成長する側面に焦点が置かれている。
  • 「夜昼、寝起きしているうちに(καθεύδῃ καὶ ἐγείρηται νύκτα καὶ ἡμέραν)」:日常生活における反復行動を示す、ヘブライ語的な語法。また、「日常生活の反復」という点で、人がほとんど意識しない間に、種が人知れず成長している側面が暗示されているといえよう。

 すなわち、種を蒔いた人間側の介入なしに、種が自力で芽を出し、勝手に成長していくことが強調されている。人の関与は種蒔きまでであり、その後の種の自発的な成長──すなわち人知れず進む「神の国」の成長・進展・進行──こそが本箇所の主題である。それゆえ、「蒔かれた種」の例えのように受け取り側の問題ではなく、神の働きの神秘がここでは強調されている。

  • 「(どうしてそうなるのか、)その人は知らない(οὐκ οἶδεν αὐτός)」:神の国が陰で進展していくことは、人の理解を超えているということ。


28節

新共同訳

「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」

原文

αὐτομάτη ἡ γῆ καρποφορεῖ, πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα πλήρη σῖτον ἐν τῷ στάχυϊ.

解説

 神の国の自律的な成長について、植物の豊かな表現とともに語られている。核心となる語は「ひとりでに」(αὐτομάτη)である。植物の自律的な成長に例えられてはいるが、その本質は、神が成長を実現するということであり、別の言葉でいえば、人の手を介さずに行われる神の主権的な働きである。

  • 「まず茎、次に穂、そしてその穂(πρῶτον χόρτον, εἶτα στάχυν, εἶτα ... ἐν τῷ στάχυϊ)」:<茎 → 穂 → 実>という段階的な成長を示す。終末の実現のように瞬時に成し遂げられる場合もある一方で、神の国は一足飛びではなく、段階を経て進展する。そこには、「待つことが大事」というニュアンスが織り込まれているかもしれない。


29節

新共同訳

「実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

原文

ὅταν δὲ παραδῷ ὁ καρπός, εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον, ὅτι παρέστηκεν ὁ θερισμός.

解説

「早速、鎌を入れる(εὐθὺς ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:新共同訳の「早速」は、マルコが好んで使用する「すぐに」(εὐθύς)に対応する語である。マルコ福音書では、事態が待ったなしに進行するため、人が即時の決断を迫られることがしばしば示されている。

  • 「収穫の時が来た(παρέστηκεν ὁ θερισμός)」:「収穫」(ὁ θερισμός)は、旧約および黙示文学において、しばしば神の審判を象徴する。

 ここまでの文脈は「神の国の成長」であるが、本節では、神による収穫、すなわち神の審判、あるいは救済の到来、神の支配の完成といった側面が暗示されている。

  • 「鎌を入れる(ἀποστέλλει τὸ δρέπανον)」:直訳では「鎌を送る/派遣する/差し向ける」。実現の時は「待ったなし」であるという緊張感がこもった表現である。


説教の結びの言葉として

 今日の「成長する種」のたとえは、私たちに二つの大切な真理を示しています。

 一つは、神の国の成長は人の理解や努力を超えて進むということです。人は種を蒔くことはできますが、その後の芽吹きや成長そのものは、人の手によるものではありません。神の国も同じように、人知れず、しかし確実に、神の御業によって進展していきます。私たちが見えないところで神は働いておられるのです。それゆえ、私たちには「待つこと」が求められます。成長や進展が見えなくても、背後に神の働きがあることを信じ、信仰的な忍耐が必要です。

 もう一つは、神の国の成長には段階があるということです。茎が出て、穂ができ、やがて実が熟すように、神の国も一足飛びではなく、時を経て完成へと向かいます。私たちはその過程を待ち望み、やはり先と同様に、忍耐をもって歩むよう招かれています。

 そして最後に、収穫の時は必ず来るということです。神の国の完成、すなわち神の裁きと救いの時は、突然に、しかし確実に訪れます。その時、神は「すぐに」鎌を入れられるのです。だからこそ、私たちは今の時を大切にし、神の国のために備え、信仰をもって歩むことが求められています。

2025年11月26日水曜日

説教や聖書注解をする人ための聖書注解 マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

説教や聖書注解をする人ための聖書注解

マタイ23:13-36(⑦マタイ23:29–36)

概要

 7個の災いの宣告の7番目。

2025年11月22日土曜日

【新約聖書学関連】

論文

「パウロの全体教会政治学」(2024年)


『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回

第1回 「イエスの復活」

第2回「イエスの洗礼」

第3回「嵐の中での弟子たち」

第4回「五千人の供食」

第5回「ヤイロの娘とイエスの服に触れた女性」

第6回「エルサレム入城」


事典項目

第2パウロ書簡

史的イエス研究史        

マタイ福音書緒論        マタイ福音書神学           

イスカリオテのユダとは何者か(大学講義レジュメ)

【キリスト教解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?

猫にもわかる「マタイ福音書」入門


『教会学校教案』の元原稿の改訂版

創世記 37章1-11節 「ヨセフ1」(2013年7月7日)
創世記 42-45章 「ヨセフ3」(2013年7月21日)
ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日)


ガラテヤの信徒への手紙        

ヘロデ派    マグダラのマリア    

エルンスト・ケーゼマン        ゲツセマネ(ゲッセマネ)        ゴルゴタ       

サドカイ派    サマリア人        


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」

 『信徒の友』2018年10月号所収、「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第7回「イエスに香油を注いだ女性」

タイトル:イエスに香油を注いだ女性

聖句:「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12:3)

絵画のデータ:シャンパーニュ「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」、1656年頃、musée des beaux arts de nantes。


 序

 今回のエピソードは、ある一人の女性がイエスに香油を注ぎかけた出来事です。この物語は、マタイ26・6-13、マルコ14:3-9、ヨハネ12・1-8において記されています。また、ルカ7・36-50には、女性がイエスに香油を注ぐという点で共通するこのエピソードによく似た記事が見られますが、場面設定や物語の背後に秘められたメッセージ等、相違点も多く認められ、マタイやマルコの記事とは別物として扱われることが多いです。ルカについては後ほどまとめて触れるとして、まずはマタイ、マルコ、ヨハネそれぞれの記述を追っていきましょう。


 場面設定の違い

 マタイ、マルコ、ヨハネは、このエピソードの場所をエルサレムにほど近い「ベタニア」としている点で一致しています。このことから、この逸話は「ベタニアでの香油注ぎ」というように呼び習わされています。ただし、マタイとマルコは香油注ぎの舞台となった家を「重い皮膚病の人シモンの家」(マタイ26・6、マルコ14・3-9)とし、この出来事が生じたタイミングをエルサレム入城以後の受難が間近い頃としている一方で、ヨハネは「イエスが死者の中からよみがえらせたラザロ」とその姉妹であるマリアとマルタが住んでいた村という説明を加え、その時期を「過越祭の六日前」と設定しています(ヨハネ12・1)。ヨハネではエルサレム入城はヨハネ12・12-19に書かれていますから、マタイ、マルコと相違してこの出来事はエルサレム入城“以前”ということになります。さらに、マタイとマルコは香油を注いだ女性のことを「一人の女」と呼んでいますが、ヨハネでは上記の「マリア」と明記しています。

 読者の多くの方々は、今回のエピソードについて「女性がイエスに香油を注いだあの物語・・・」といったように記憶されているでしょう。ところが実は、福音書をそれぞれ見比べてみると、場面設定だけでもこんなにも違うのです。なぜこのようなことが起きるのでしょうか。簡単に言えば、福音書に記されている物語の背後に“伝承”と呼ばれるものがあって、それが異なった場所や時代において流布していく過程で、様々に変化を遂げていったためでしょう。このことを踏まえて、物語の先を読んでいきましょう。

 

 慕情、香り立つ

 イエスが家の中にいると(マルコとヨハネは「食事の席に着いて」いた時としています)、かの女性が「高価」な「香油」を携えて近づいてきました。マルコとヨハネはこの香油について、「純粋」「ナルドの香油」と説明しています(マルコ14・3、ヨハネ12・3)。「ナルド」はインド産の植物で、その根茎からは香料が採取され当時の世界で珍重された他、富裕なユダヤ人女性も愛用したことで知られています。彼女はイエスに香油を捧げるのですが、福音書ごとに香油を注いだ(塗った)箇所が異なります。マタイとマルコは「イエスの頭に(香油を)注ぎかけた」と記している一方、ヨハネは「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(ヨハネ12・3)と書いています。頭に香油を注ぐシーンは、後述の受難死の暗示だけではなく、古代のイスラエルにおける王の任職式の際の油注ぎをも想起させます。“王の王”という暗示的なメッセージと、受難死という対極的な主題との間に、激烈なコントラストが秘められています。他方、足に香油を塗って自分の髪で拭う場面は、足の塵を払う仕事は奴隷でさえも負わなかったという慣習と合わせて考えると、謙遜の極みの姿勢を意味すると同時に、“謙遜”や“親愛”といった単体の言葉では表現できない、愛も悲しみも何もかも入り混じったような複雑で劇的な叙情性をもたらしています。特に、「家は香油の香りでいっぱいになった」という言葉ほど芳しい(かぐわしい)香り立つ表現は、世界中どこを探しても見つけることはできないでしょう。


 ところが、そんな激しいまでの情愛と思慕の世界を粉々に打ち砕く展開が続きます。マタイでは「弟子たち」、マルコでは「そこにいた人の何人か」、ヨハネでは「イスカリオテのユダ」が、「なぜ、こんな無駄使いをするのか」と難癖をつけます。マルコとヨハネで述べられている彼(彼ら)の言葉は正論です。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(マルコ14・5、マタイはこれを要約し「売って、貧しい人々に施すことができたのに」)。上述の通り、ヨハネにおいてこの言葉はイスカリオテのユダによって発せられており、彼の魂胆もまた詳らかにされています。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(12・6)。

 イエスは、こうした批判から彼女をかばいます。「なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(マタイ26・11、マルコ14・6)。そして、マタイ、マルコ、ヨハネは一致して、彼女の香油注ぎを、埋葬時に遺体に塗油する習慣と自身の受難死の予告とに巧みに結び合せています。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」(マタイ26・12)。


 ルカにおける「罪深い女」

 マルコ福音書を参考にして自分の福音書を書いたと考えられているルカは、本来ならルカ22章2節と3節の間に配置されるはずの香油注ぎの記事を採用していません。その代わりに彼は、これと似ている別の記事を、イエスのガリラヤでの活動期に相当する7章に置いています。その記事は、女性がイエスに香油を塗り、居合わせた人が不満を抱くという点では香油注ぎと共通しているものの、場所もタイミングもまるで違う物語となっています(場所は「ファリサイ派の人」の「家」、時期はガリラヤでの宣教活動時代というエルサレム入城より遙か以前)。

 マタイ、マルコ、ヨハネでは、受難を目前にしたタイミングということも相まって、受難死の予兆としての色彩が強い一方で、ルカではこれら三書にはない“愛と赦しの相関関係”という主題が展開されています(ルカ7・47「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」)。また、彼女は「罪深い女」(娼婦を意味するのでしょう)と表記され、ヨハネと同様にイエスの頭ではなく足に塗油して、自らの髪の毛で拭っています。そうして、“多く赦された者は、より深く主を愛する”というテーマが鮮烈に示されています。

 後代、この「罪深い女」は、ルカ8・2の「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」と同一視されるようになりました。実際のところ、「罪深い女」がマグダラのマリアである根拠は何もありません。しかし、いつしかそのような見方が定着し、マグダラのマリアは長い髪を持つ美しい女性というイメージが形成され、やがて荒れ野の女性修道士その他の伝説とも結合して、最終的には、本誌4月号の特集で紹介されたようなマグダラのマリアをモティーフとした多くの絵画が生み出されていったのです。


 今回の一枚


 今回ご紹介する絵画は、17世紀のフランス古典主義時代における画家シャンパーニュが描いた「ファリサイ派シモンの家でのキリスト」です。4月号で紹介した「エマオの食事」以来、シャンパーニュは2回目となります。彼はエレガントで艶っぽい人物表現を得意とし、マグダラのマリアやヨハネ福音書4章の“サマリアの女性”も描いており、この絵でもその才能が遺憾なく発揮されています。イエスとシモンが向き合う構図と明瞭な色彩、そして、それを際立たせるボンヤリとした後景の人物描写が巧みです。

 「エマオの食事」の絵画中には猫が書き込まれていたのですが、こちらの絵では猫ばかりか犬も登場しています。一般的な解釈として、犬は忠実の証で、猫は疑念の象徴です。よって、すがりつく犬はイエスに対する信頼を表し、物陰から顔を覗かせる猫は、愛の欠如と不満の思いを象徴すると解釈されます。ただ、個人的な印象としては、彼自身は犬や猫を素朴に愛していて、こうした象徴論は犬や猫を自分の絵画に描き込むための口実に近く、遊び心の表れのように感じます。他人の真摯な言動に腹を立てぬよう、遊び心を大切にしたいものです。

2025年11月21日金曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ 4:21–25 「『ともし火』と『秤』の例え」

■ 概要

 文脈としては、4:1–20「種蒔く人」の例え話の続きであり、「聞く者」「理解する者」について強調された直後。この箇所では、神の国の秘儀は隠されるべきものではなく、明らかにされるためにあるという主題が提示される。

2025年11月19日水曜日

【茨木春日丘教会(光の教会)関連】リスト

光の教会【ひとこと説教】


【聖日礼拝の動画】

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解07「」2025年6月1日分

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解06「」2025年5月25日分

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解05「洗礼者ヨハネの現れ その2」2025年5月18日分

光の教会【礼拝説教】マルコ福音書講解説教04「洗礼者ヨハネの現れ 1」2025年5月11日分

【マルコ福音書 講解説教】03「マルコ福音書における『神の子』の意味」2025年5月4日分

【マルコ福音書 講解説教】02「キリスト、福音、そして神の子」2025年4月27日分

光の教会【イースター説教】2025年4月20日分「永遠の命には、神様を感じる感受性が大切」

光の教会【礼拝説教】「1890年日本基督教会信仰の告白」の講解説教その1<明治憲法・天皇主権国家・ローマ皇帝神格化と崇拝の強要・マルコ福音書の精神・受難のキリストの提示>

【マルコ福音書 講解説教】01「無名のマルコがもたらしたもの」2025年4月6日

光の教会【礼拝説教】2025年3月30日「ペトロの三度のイエス否認」

光の教会【礼拝説教】2025年3月23日「抜き身の剣を手にした人」

光の教会【礼拝説教】2025年3月16日「主の晩餐」

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年3月9日「イエスに香油を注いだ女性」

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月16日「偉い人は仕える者になりなさい」

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月9日「最も重要な掟」

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年2月2日「神のものは神に」

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年1月26日「祈りの家」

【茨木春日丘教会(光の教会)】聖日礼拝説教 2025年1月19日「エルサレム入城」


光の教会【ひとこと説教】(動画)

光の教会【ひとこと説教 1】真面目腐るか、パーっと生きてみるか


【その他】

【雑談】人を雇って見学業務できない理由/高齢化が著しくて平均年齢70代/ここの信徒たちの苦労/「光の教会は我々に課せられた十字架だ」という声(動画)

建物見学の当面の停止について        Suspension of Building Tours

教会創立50周年記念礼拝説教 全文

「パウロの全体教会政治学ーー茨木四教会伝道会の全国連合長老会への加盟を目指すプロジェクトの神学的基盤ーー」

 「私が着任した当時(2012年)の状況についてーー特に聖日礼拝の様子」

「私が着任した当時(2012年)の茨木春日丘教会(光の教会)その2ーー制限問題」

光の教会【ひとこと説教】

 光の教会【ひとこと説教 23】

「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます」詩編56編4節

 私たちの心には、恐れと神への信頼が同時に存在することがあります。 信仰に生きる人とは、恐れを知らない人ではありません。 むしろ、自分の中にある恐れを認め、それでもなお神に依り頼む人です。
 信仰とは、揺るぎない確信ではなく、揺れ動く心を抱えながらも神に向かう姿勢です。 不信や不安を抱えていることを自覚することこそ、神との真の関係の始まりです。 恐れの中でこそ、私たちは神の力と慰めを深く知るのです。


2025年11月18日火曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–36 ⑥ 23:27–28

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑥ 23:27–28

概要

全7個の「あなたがたは不幸だ」(Οὐαὶ ὑμῖν)宣言の6個目である。


27節

新共同訳

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。

原文

Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι παρομοιάζετε τάφοις κεκονιαμένοις, οἵτινες ἔξωθεν μὲν φαίνονται ὡραῖοι, ἔσωθεν δὲ μεστοί εἰσιν ὀστέων νεκρῶν καὶ πάσης ἀκαθαρσίας.

注解

「白く塗った墓(τάφοις κεκονιαμένοις)」:葬りの時期(アダルの月の15日)に墓跡を石灰で白く塗る習慣があった。これは、巡礼者が墓に触れて穢れを受けることを避けるためである。「白く塗る」という意味の κονιάω という動詞が用いられている。

  • 「似ている(παρομοιάζω)」:原語は「〜に例えられる」とも訳される。
  • 「死者の骨(ὀστέων νεκρῶν)」:最高度の不浄の象徴である。

 穢れた墓を白く塗って外観を美しく整える様をもって、ファリサイ派が内面の醜さを隠し、外面のみを装う滑稽さが痛烈に皮肉られている。


28節

新共同訳

このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。

原文

οὕτως καὶ ὑμεῖς, ἔξωθεν μὲν φαίνεσθε τοῖς ἀνθρώποις δίκαιοι, ἔσωθεν δὲ ἐστε μεστοὶ ὑποκρίσεως καὶ ἀνομίας.

注解

  • 「このようにあなたたちも」:ここで改めて、白く塗った墓の譬えが彼ら自身に適用される。
  • 「正しい(δίκαιοι)」:原語は「義なる人々」「義人」の意。義人として他者には見える彼らの本質が、白い墓の喩えをもって暴かれている。
  • 「不法」(ἀνομίας):律法・法を意味する νόμος に否定辞が付いた語。したがって「非律法的」と取ると、律法を教える教師たちに対するラディカルな否定となる。

 ファリサイ派や律法学者すべてが偽善的であったわけではない。しかし、イエスに批判的・敵対的であった彼らの多くが、外側だけの美しさを保ちながら、内面を顧みることなく細部や外面ばかりに注力していた。その皮肉な様が、白く塗られた墓という強烈なイメージをもって示されている。明示されてはいないが、この皮肉・滑稽さを決定的にしている要素は、彼ら自身がそのことを自覚していない点にある。


礼拝説教の結びの言葉として

 今日の箇所で語られている主イエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではありません。白く塗られた墓の譬えは、私たち自身の心を映す鏡でもあります。外側を整え、正しく見せることは容易ですが、主なる神が見ておられるのは、その内側です。そこに偽善や不法が満ちているなら、いえ、それらが私たちの内面にあるのは必然であるとしても、その事実に自分が気づいていないのならば、どれほど外見を飾っても意味はありませんし、滑稽でしかありません。

 イエスは私たちに、外側の美しさではなく、内側の真実を求めておられます。その真実さ、あるいは誠実さとは、自分のありのままの姿を自覚し、それでも神が愛してくださることを感謝する思いに他なりません。それこそが、真の「正しさ」、すなわち「義」を生み出します。律法を教える者であっても、信仰を語る者であっても、まず自らの内を主に照らしていただくことが必要です。

 ですから、この御言葉は私たちに問いかけます。私たちは人の目にどう見えるかを気にして歩んでいないでしょうか。主の前に正しくあることを第一とし、心の奥にまで福音を染み込ませているでしょうか。

 白く塗られた墓ではなく、内も外も主にあって清められた器として歩む者となりましょう。偽善ではなく誠実を、不法ではなく神の義を、外側の飾りではなく内側の真実を求めるとき、私たちは主に喜ばれる生き方をすることができます。

 旧約聖書には、「人は外の姿を見、主は心を見る」(サムエル記上16:7)という言葉あります。そのように、私たちの日々の営みを主の光に照らしていただきつつ、真実な信仰者として生きる者となりましょう。

2025年11月17日月曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ⑤ 23:25–26


 25節

新共同訳
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。

原文
Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι καθαρίζετε τὸ ἔξωθεν τοῦ ποτηρίου καὶ τῆς παροψίδος, ἔσωθεν δὲ γέμουσιν ἁρπαγῆς καὶ ἀκρασίας.

7つの災いの宣言の5個目。律法学者とファリサイ派における、外側の取り繕いと内側の腐敗のギャップが非難されている。

「杯(ποτήριον)や皿(παροψίς)」:いずれも食卓に置かれるもの。これまでの例えと同様、日常生活から例えが引き出されている。外側が念入りに洗われていても、内側に汚れが残っているというのは滑稽である。そのように、外側は宗教的、あるいは信仰的で綺麗な装いがなされていても、自分自身の人間としての内側が汚れていることに注意を払わない彼らが、皮肉的に批判されている。

「強欲と放縦(ἁρπαγή, ἀκρασία)」:ἁρπαγήは、七十人訳聖書の箴言5:14、ミカ2:2において「略奪」「強奪」を意味する。ἀκρασίαは、語としては節制の欠如を表す。神の前において外面ではなく内面が問われるという、マタイ神学と一致している。


 26節

新共同訳
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。

原文
Φαρισαῖε τυφλέ, καθάρισον πρῶτον τὸ ἐντὸς τοῦ ποτηρίου, ἵνα γένηται καὶ τὸ ἔξωθεν αὐτοῦ καθαρόν.

「ものの見えないファリサイ派の人々(Φαρισαῖε τυφλέ)」:これまでと同様、瑣末なことに宗教的注意を注いでいても、肝心なことには無頓着である態度を示す。

「まず……内側をきれいにせよ」: 「まず(πρῶτον)」は最優先事項を意味する。同様の用例として、マタイ6:33(「まず神の国と神の義を求めなさい」)が挙げられる。

「外側もきれいになる」:「外側」とはこれまでの流れでは、彼らの細かなことに至るまでの律法遵守を指す。「外側」が否定されているわけではないことに注意したい。これらも必要ではあるが、最重要事項が空洞化していては意味がない、というスタンスである。


 説教の結びの言葉として

 主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に向かって、外側ばかりを飾り立て、内側の汚れに目を向けない姿勢を戒められました。杯や皿の外側を洗っても、私たちの内側が強欲と放縦に満ちているなら、それは神の前にあって何の意味もありません。それこそ主がおっしゃっているように、「災い」であります。

 私たちもまた、信仰生活の中で「外側」を整えることに心を奪われがちです。礼拝に出席し、祈りを口にし、奉仕に携わることは大切です。しかし、もし心の内側に自己中心や欲望が支配しているなら——というよりも、自分がそんな状態にあることにすら気づいていないなら——外側の美しさというものは、滑稽なほどに虚しいものとなります。

 イエスは「まず、杯の内側をきれいにせよ」と命じられました。これは、私たちの心を神の前に差し出し、悔い改めと赦しを受けることを最優先にせよという、神の招きです。内側が清められるとき、外側の行いも自然に整えられ、真実な信仰の姿が現れていきます。

 ですから今日、私たちは自分の心の内側に目を向けたいと思います。神の光に照らされ、自らの隠れた面を見つめ直し、キリストの十字架の赦しにあずかりましょう。そのとき、私たちの外側もまた、神の栄光を映し出す器とされます。

2025年11月16日日曜日

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

第2パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistles)

1. 第2パウロ書簡の定義

 第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。

 一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。

  • エフェソの信徒への手紙

  • コロサイの信徒への手紙

  • テサロニケの信徒への手紙二

  • テモテへの手紙一

  • テモテへの手紙二

  • テトスへの手紙


2. 第2パウロ書簡の特徴

1. 語彙や文体、内容の相違
 第1テサロニケ書やロマ書といったパウロ真正書簡の語彙、文体、内容と似てはいるが、異なる点が複数指摘される。

2. パウロ以降の教会の教義や教会構造の反映
 教義内容や教会構造が、パウロの時代よりも後代のものであることが観察される。またその内容は、個々の教会の特別な事情に絡むものよりも、より一般化された内容に慣らされている。
3. 神学的特徴
 内容の神学的特徴としては、発展した教会論、再臨遅延に対する対応(2テサロニケなど)、宇宙論的な救済論(エフェソ、コロサイ)、パウロ的な義認論、ユダヤ人の救済論の後退が


3. 成立時期

  • 第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。



説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:13-20「『蒔かれた種』の例えの説明」


概要

4:1-9の「蒔かれた種の例え」の直後、4:10で「イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた」とあった。4:11-12では例え話論が挟み込まれているが、展開としては4:10に直接続くようにして本箇所が展開されている。ここでは、弟子たちの質問に答えるようにして、先の例えの解説が為されていく。

注解

13節

新共同訳 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。」
原文 καὶ λέγει αὐτοῖς· Οὐκ οἴδατε τὴν παραβολὴν ταύτην; καὶ πῶς πάσας τὰς παραβολὰς γνώσεσθε;
 理解が及ばない「十二人」に対する叱責の言葉となっている。マルコのいわゆる「弟子の無理解」のモティーフが鮮明な箇所。
  • 「このたとえが分からないのか(Οὐκ οἴδατε...)」:「十二人」は群衆以上に教えまたは啓示を受けられる立場にありながら、理解(γινώσκω「知る」)できないことが叱責されている。否定疑問文によってそれが強調されている。弟子の無理解のモティーフは、彼らを貶めたり、その権威を否定することが目的の批判というよりも、権威を持つ持たないではなく、誰であれ理解していく弟子こそ真の弟子として相応しいということを主張するもの。マルコ福音書の読み手が彼らの役を担っていくように、という意図が込められているのではないか。
  • 「どうして……理解できるだろうか」:未来形の疑問文が使われている。未来における可能性が問われている。

14–15節

新共同訳 14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。
原文 14 ὁ σπείρων τὸν λόγον σπείρει.
15 οὗτοι δέ εἰσιν οἱ παρὰ τὴν ὁδὸν ὅπου σπείρεται ὁ λόγος· καὶ ὅταν ἀκούσωσιν, εὐθὺς ἔρχεται ὁ Σατανᾶς καὶ αἴρει τὸν λόγον τὸν ἐσπαρμένον εἰς αὐτούς.
 蒔かれた種の例えの解説が、本節より開始されている。
  • 「種を蒔く人(ὁ σπείρων)」:「神の言葉を蒔く」、すなわち神の言葉を宣べ伝える弟子たち、宣教者、信徒たちを指す。現在分詞が使われていて、”今も蒔き続けている”というニュアンスを持つ。
  • 「言葉(ὁ λόγος)」:新共同訳では「神の言葉」とあるが、原文では冠詞付きの「言葉」のみ。イエスの言葉、教え、神の国、啓示、福音、これらを総合的に指す。
  • 「サタン(ὁ Σατανᾶς)」:マルコでは「イエスの誘惑」の1:13 他、3:23, 26、またイエスによるペトロ叱責の言葉(8:33)で見られる。人を神から引き離す超自然的な霊的存在。ここでは人々を聴従から引き離す原因としてサタンが挙げられているが、15節以降が示しているように、総じて人々の心掛けが焦点とされている。
  • 「道端のもの(οἱ παρὰ τὴν ὁδόν「道の傍にいる者たち」)」:固く踏み締められた道が種を弾く、すなわち神の言葉を柔らかい土のように受け止めることができない態度を意味する。たとえ聞いたとしても、聞き入れるわけではないということ。
  • 「すぐに(εὐθύς)」:マルコが好む語。事態は急速に変化するゆえに、信仰者は決断も「すぐに」せねばならない。

16–17節

新共同訳 16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。
原文 καὶ οὗτοι ὁμοίως εἰσιν οἱ ἐπὶ τὰ πετρώδη σπειρόμενοι, οἳ ὅταν ἀκούσωσιν τὸν λόγον, εὐθὺς μετὰ χαρᾶς λαμβάνουσιν αὐτόν·
καὶ οὐκ ἔχουσιν ῥίζαν ἐν ἑαυτοῖς ἀλλὰ πρόσκαιροί εἰσιν, εἶτα γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν λόγον, εὐθὺς σκανδαλίζονται.
 艱難や迫害、つまり試練に対する耐性がなく、挫折するタイプについて述べられている。
  • 「石だらけの所に(ἐπὶ τὰ πετρώδη)」:岩地の上に土層が薄く載っただけの場所。一時的な感情の高まり(「すぐに喜んで(εὐθὺς μετὰ χαρᾶς)」)で「御言葉」を受け入れるものの、それはあくまで一時的で「根(ῥίζα)」を持つものではないために成長せず、「つまずいてしまう」(σκανδαλίζω)事例を表す。
  • 「しばらく(πρόσκαιροί)」:一時的という意味。πρός(前置詞「〜へ、〜に対して」)+ καιρός(時、好機)という語の構造から言えば、「その時へ」、すなわちその時だけの一時しのぎのような意味合い。
  • 「艱難や迫害が起こると(γενομένης θλίψεως ἢ διωγμοῦ διὰ τὸν)」:属格絶対構文で、状況的な条件を表す。
  • 「つまずいてしまう」:語源は、人を罠にかけて転ばせる棒。この語はマルコで8回使用されている(4:17; 6:3; 9:42, 43, 45, 47; 14:27, 29)。いずれも信仰の営みが頓挫する事態を意味する。マルコ福音書の執筆時、マルコの教会が経験していた迫害と、信仰からの離反を背景としている可能性が高い。

18–19節

新共同訳 18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
原文 18 καὶ ἄλλοι εἰσιν οἱ εἰς τὰς ἀκάνθας σπειρόμενοι· οὗτοί εἰσιν οἱ τὸν λόγον ἀκούσαντες,
19 καὶ αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος καὶ ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου καὶ αἱ περὶ τὰ λοιπὰ ἐπιθυμίαι εἰσπορευόμεναι συνπνίγουσιν τὸν λόγον, καὶ ἄκαρπος γίνεται.
  • 「茨(ἀκάνθη)」:「この世の思い煩い(αἱ μέριμναι τοῦ αἰῶνος)」「富の誘惑(ἡ ἀπάτη τοῦ πλούτου)」「その他いろいろな欲望」(αἱ ἐπιθυμίαι)を指すと述べられている。
  • 「御言葉を覆いふさいで(συνπνίγουσιν)」:原語は「窒息死する」という意味合いを持つ。その人の信仰者としての成長を阻み、また生活というライフばかりか、命という意味でのライフをも死に至らせるという主旨。

20節

新共同訳 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。
原文 καὶ ἐκεῖνοί εἰσιν οἱ ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν σπαρέντες, οἳ ἀκούουσιν τὸν λόγον καὶ παραδέχονται καὶ καρποφοροῦσιν, ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.
  • 「良い土地(蒔かれた)(ἐπὶ τὴν καλὴν γῆν)」:倫理的に「良い」ということではない。神の言葉を聞き(ἀκούουσιν)、受け入れ(παραδέχονται)、そして「実を結ぶ(καρποφοροῦσιν)」人たちとされている。成長の3段階が意識されていて、それぞれ「聞く」「受け入れる」「実践」に対応する。また、明記されていることではないが、土地は種を受け止めるのが役割で、実を結ぶ力そのものは種に内包されている。実を結ぼうとする実践は大事だが、種、すなわち神の言葉の力が豊作を実現することを意識したい。
  • 「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ」:誇張された文学的表現(参照:創世記26:12)。4章全体の例えの基調である成長する神の国という主題を象徴する文言でもある。

説教の結びとしての言葉

 今日、主イエスがお語りになった「蒔かれた種の例え」は、単なる農夫の物語ではありません。私たちと関係のない人の話でもありません。これは、私たち一人ひとりの心の状態、あるいは信仰的な態度を映し出す鏡のようなものです。
 道端のように固く閉ざされた心、岩地に土が薄く載っただけの浅い心、種々の茨に覆われた心――それらは、神の言葉という種を受けても実を結ぶことができません。しかし「良い土地」とは、御言葉を聞き、受け入れ、そして実を結ぶ心です。
 ここで大切なことは、実を結ぶ力が私たち自身の努力だけにあるのではなく、むしろ蒔かれた「種」そのものにあるということです。私たちはただ、その言葉を受け入れる柔らかな土となるように心を整えるのです。すると、その種は私たちの人生において、三十倍、六十倍、百倍の実を結び、私たちの人生を豊かにし、また周囲の人々をも豊かにします。
今日、私たちが問われているのは――「私の心はどのような土地なのか」ということです。固く閉ざされた道端ではなく、浅い石地でもなく、茨に覆われた心でもなく、神の言葉を受け入れ、育み、実を結ぶ「良い土地」となりましょう。
 「聞く者は聞きなさい」(マルコ4:9)――この呼びかけに応えて、私たちの心を良い土地とし、神の言葉の種を豊かに実らせる者となろうではありませんか。

学術ノート

(※内容不変。文献名・スペース・句読点などを整形)
  • マルコ4:13 エルサレム教会の系譜に由来する4:11-12の伝承に対して、マルコは4:13をもって批判。弟子の無理解を表す。
     田川建三『マルコ福音書 上巻』292–293頁。
  • 4:13 マタイとルカは、イエスによる弟子たちへの批判を削除。要確認。並行箇所付加。
     マタイは4:13を削除(マタイ13:10-17)。ルカも4:13を削除(ルカ8:9-10)。
  • 4:13 種蒔きの譬えが他の譬えを理解するのに決定的であることを意味するとする。
     Witherington, Mark, 168.
  • 4:13 kai legei autois = 前マルコ伝承。
     Pesch, Markus 1, 241.
     Gnilka, Markus 1, 173.
     一方、Guelich はどちらとも判断し難いとしている(Guelich Mark, 219)。
  • 4:13b 伝承:Pesch, Markus 1, 243。マルコ:Grundmann, 125。
     Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     元々伝承でも、マルコによって構成されている(Guelich, Mark, 219)。
  • ギノースケイン(γινώσκειν)は伝承に見出される:6:38; 13:28f; 15:10, 15
     Schweizer, "Mark's Theological Achievement," 59。
  • 4:13 弟子の無理解が示されているが、4:34 によってマルコの読者は、この問題が解決されていることに思い至るという。
     Tannehill, "The Disciples in Mark: The Function of a Narrative Role," 146。
  • 4:13b Bock によれば、否定疑問文は積極的な意味を持つ応答で、譬えの聞き手がやがて理解するようになることが暗示されているという。だが根拠は明示されていない。
     Bock, Mark, 177。
  • マルコの編集とする説:「神の国を打ち明けられている」(11節)はずの弟子たちが理解できていないという批判。
     川島貞雄『マルコによる福音書』101頁。
  • 比喩や幻が特別な人によって後から解説されるという黙示文学的特色。用語から見て伝承に属する導入句(川島貞雄『マルコによる福音書』98頁)。
     「ひとりに」(κατὰ μόνας)に対して、マルコは通常 kat’ idian。
     尋ねる erōtan に対して、マルコは通常 eperōtan。
  • マルコ4:13
     前マルコ伝承:Pesch 1:241、Gnilka 1:173。
     編集:Räsänen, Parabeltheorie 102–106。
     ダブルクエスチョン:7:18; 8:17。
  • 「この譬えを理解できないのか」
     伝承:Gnilka, Verstockung, 33; Pesch 1:243。
     編集:Grundmann, 125; Schweizer, ZNW 56 (1965), 6–7。
     asunetos, synienai:6:52; 7:18; 8:17, 21(Guelich, Mark, 219)。
  • 4:14-20 の解釈:新約書簡に典型的語。後の教会による解釈。教会の内側にこそ石、茨がある。
     E. シュヴァイツァー『イエス・神の譬え』82頁。

2025年11月12日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13–36(④ 23:23–24)

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36 ④ 23:23–24


 23節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
原文 Οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι ἀποδεκατοῦτε τὸ ἡδύοσμον καὶ τὸ ἄνηθον καὶ τὸ κύμινον, καὶ ἀφήκατε τὰ βαρύτερα τοῦ νόμου, τὴν κρίσιν καὶ τὸ ἔλεος καὶ τὴν πίστιν· ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι.

 イエスは、神への誠実さなど内面的なものこそ、律法における最重要事項であるとする。他方、それを欠いた律法遵守に終始する律法学者、ファリサイ派の人々を批判している。
  • 「十分の一(ἀποδεκατοῦτε)」:薄荷(ἡδύοσμον)、いのんど(ἄνηθον)、茴香(κύμινον)は料理に使う香草類。これらが少量で細々とした物の代表例として挙げられ、彼らはこんな細かな物に至るまで、収入の「十分の一」を神殿に捧げる十分の一税(参照:レビ記27:30)を励行していると指摘。同時に、それが滑稽であるとイエスは批判している。
  • 「正義(κρίσις)、慈悲(ἔλεος)、誠実(πίστις)」:ユダヤ教における三つの徳。ミカ書6:8「人よ、何が善であり、主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである」を起源とする。なお、「誠実」と訳されているπίστιςは「信仰」とも訳される語。
  • 「十分の一の献げ物もないがしろにしてはならない(κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)」:直訳では「そちらもまたおろそかにするべきではない」。句末の「これこそ行うべきことである。しかも、ほかのこともおろそかにしてはならない」(ἔδει…ταῦτα δὲ ἔδει ποιῆσαι κἀκεῖνα μὴ ἀφιέναι)は、律法廃棄ではなく、価値の優先順位を説く言葉である。イエスは細部の遵守そのものを否定せず、それを律法の核心(神への忠実さと隣人愛)と結びつけるよう求めている。

 24節

新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
原文 ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ διϋλίζοντες τὸν κώνωπα, τὴν δὲ κάμηλον καταπίνουσιν.

 細則にこだわるわりには、本義を見失っていることが指摘されている。誇張された比喩によって、彼らの真理に対する盲目ぶりが描かれている。
  • 「ものの見えない案内人(ὁδηγοὶ τυφλοί)」:先の16節でも使用されていた呼称。自分は見えていると思い込んで人々を導こうとする彼らへの皮肉。
  • 「ぶよ(κώνωψ)」と「らくだ(κάμηλος)」:レビ記11章で汚れた動物とされている。κώνωψは κῶνος(円錐)と ὤψ(顔)の合成語。「ぶよ」は日本語では渓流などに生息する小虫を指すので、「蚊」の方が適切。それが溜めた水やワインにつくため、これらを飲む際には「漉す」必要があった。律法学者やファリサイ派が、蚊を漉すように律法の細部にこだわりながらも、遥かに重大な「正義、慈悲、誠実」をないがしろにする滑稽さが語られている。また、κώνωψは κάμηλος と発音上似ていることから、ギリシャ語テキスト上で語呂合わせが意図されている可能性がある。

 説教の結びの言葉として

 今日、私たちは、イエスが律法学者とファリサイ派の人々に向けて語られた厳しい言葉に耳を傾けました。彼らは律法の細部に熱心でありながら、神が本当に求めておられる「正義」「慈悲」「誠実」を見失っていました。
 イエスは、律法の細かな実践を否定されたのではありません。イエスも仰っている通り、それらもまた大切なことです。しかし、それ以上に、神と人とに対する愛と誠実さ、隣人への思いやり、そして正しい裁きを行う心が、信仰の根幹であると教えておられます。
 「ぶよを漉してらくだを飲み込む」――この誇張された比喩は、私たち自身の姿を映す鏡でもあります。私たちもまた、形式や習慣にとらわれるあまり、神の御心、神の定めの本義を見失ってはいないでしょうか。
 どうか今日から、私たちの信仰が外側の行いだけでなく、内なる誠実さと愛に根ざしたものとなりますように。神の御前において、私たちが真に重んじるべきものを見極め、それを実践する者とされますように。