2026年2月20日金曜日
2026年2月17日火曜日
【動画】政党「チームみらい」と「真如苑」の関係性の「噂」に関する考察
<AIによる内容の客観的説明>
安野貴博氏の経歴と仏教用語との関連性
「チームみらい」の中心人物・安野氏が関わった企業(ベドア/PKSHA Works、PKSHA Technology)の社名に、仏教由来の語が用いられている点を紹介。
真如苑系財団との接点の可能性
真如苑関連団体「ユニベール財団」が、高齢者福祉やAIを活用した傾聴支援などに助成していることを踏まえ、安野氏の事業との共通点を検討。ただし、助成を受けたと断定できる書面などの確証は見つからず。
名称の共通性について
「チームみらい」の“みらい”という表記が、真如苑の活動(未来祭、未来財など)でも使われている点に触れつつ、直接的な関係を示す証拠は確認されていないと説明。
総合的な結論
関係者の中に真如苑の信徒がいる可能性や、思想的影響が社名等に反映されている可能性は否定できないものの、「チームみらい」が真如苑の組織的な“手先”として政治展開していると示す強い証拠は見当たらないと結論づけています。
また、真如苑は福祉的な社会貢献に重きを置く傾向があり、政治的野心は比較的薄いと分析されています。
2026年2月13日金曜日
【キリスト教史解説動画】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家
ケルソス Kelsos 生没年不詳(3世紀頃)
【キリスト教史解説】ケルソス(Celsus)― 最古の反キリスト教思想家
立場:ギリシア系哲学者、初期キリスト教の批判者
主著:『真理の言葉(Λόγος Ἀληθής)』※現存せず
現存最古の体系的なキリスト教批判書である。
思想的立場
-
オリゲネスは彼をエピクロス派と呼んだが、現代研究では否定的。
-
実際にはプラトン主義を中心とする折衷主義的哲学者と考えられる。
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伝統宗教とローマ帝国秩序を擁護する保守的知識人。
-
神観は単純な多神論ではなく、最高神を頂点とする階層的神観(ヘノテイズム的傾向)。
主な批判内容
1.イエス批判
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処女懐胎を否定
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出自を不名誉なものと主張
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奇跡を魔術と解釈
2.教義批判
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受肉思想を非合理とみなす
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復活思想を荒唐無稽と批判
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聖書解釈を恣意的と指摘
3.社会批判
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キリスト教徒が国家祭儀を拒否することを問題視
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軍務・公共義務を回避する態度を非難
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キリスト教を新奇で分裂的な宗教とみなす
史料的特徴
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『真理の言葉』は448年に禁書とされ消失。
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内容はオリゲネスの反駁書から再構成される。
-
オリゲネスの引用は比較的忠実と考えられている。
歴史的意義
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最古の本格的反キリスト教哲学的論駁。
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キリスト教弁証学発展の重要契機。
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キリスト教がローマ知識層からどのように見られていたかを示す一次的証言。
2026年2月11日水曜日
【小論】マルコ福音書における女性たち
【小論】マルコ福音書における女性たち
1. マルコ福音書に登場する女性の総数と実名性
マルコ福音書において言及されている女性は、合計で15名に及ぶ。筆者は、イエスの母マリアと「小ヤコブとヨセの母マリア」とを同一人物と考えるが、本稿では差し当たり別個の人物として数える。 この15名のうち、実名が明示されている女性は以下の5名である。
- イエスの母マリア
- ヘロディア
- マグダラのマリア
- 小ヤコブとヨセの母マリア
- サロメ
このことから、マルコ福音書における女性表象は、大多数が匿名のまま描かれているという特徴を有していると言える。匿名性は、女性たちを個人史的存在としてよりも、物語機能的・神学的役割を担う存在として前景化する効果をもたらしている。
2. 「仕える」女性――ディアコニアのモチーフ
マルコ福音書において、「仕える(διακονεῖν)」という行為を実際に行っている人物として明示的に描かれているのは、シモンの姑と、ガリラヤから従ってきた婦人たちである。 シモンの姑は、癒やしの直後に「彼らに仕えた」と記されており(1:31)、これはイエスの活動開始直後における最初のディアコニアの実践である。一方、十字架記事において言及される婦人たちは、「イエスがガリラヤにいた時に従い、仕えていた」と回顧的に描写される(15:40–41)。 Witherington が指摘するように、これらの婦人たちは単なる観察者ではなく、弟子集団の周縁に位置するもう一つの弟子層として理解されるべき存在である1。
3. イエスの母マリアと「真の家族」主題
マルコ福音書におけるイエスの母マリアへの明瞭な言及は、主として二箇所に限られている。第一は、イエスの身内が彼を取り押さえに来た文脈を引き継ぎつつ、「真の家族」が再定義される場面(3:31–33)であり、第二は、イエスが故郷に帰った際の言及(6:3)である。 特に3章31–35節では、母および兄弟たちが外に立つ一方で、イエスは「神の御心を行う者」こそが自らの家族であると宣言する。この文脈において、マリアは血縁関係のある特権的存在としてではなく、再定義される家族概念の中に位置づけられる存在として描かれている。 なお、イエスの故郷がナザレであることは、すでに1章9節および1章24節において特定されている。
4. マルコ福音書に登場する女性の一覧
以下に、マルコ福音書で言及される女性を登場順に整理する。
- シモンの姑(1:29, 31)
- イエスの母マリア(3:31–32; 6:3)
- ヤイロの娘(5:23, 35, 41–43)
- 長血を患う女性(5:25–34)
- イエスの姉妹たち(6:3)
- ヘロディア(6:17, 19, 24, 28)
- ヘロディアの娘(6:22–28)
- シリア・フェニキアの女性(7:25–30)
- 「やもめの献金」の女性(12:42–44)
- 香油を注いだベタニアの女性(14:3–9)
- 大祭司の邸宅にいた女中(14:66, 69)
- 十字架のもとに立つ婦人たち(15:40–41)
- マグダラのマリア(15:40, 47; 16:1[9])
- 小ヤコブとヨセの母マリア(15:40, 47; 16:1)
- サロメ(15:40; 16:1)
5. まとめ
マルコ福音書における女性たちは、物語の周縁に置かれながらも、癒やし、信仰告白、奉仕、証言、そして受難と復活の場面において決定的な役割を果たしている。とりわけ、男性弟子たちが沈黙や逃亡によって描かれるのに対し、婦人たちは「従い」「仕え」「見届ける」存在として一貫して描写されている点は注目に値する。 このことは、マルコ福音書が描く弟子像が、十二弟子の枠に限定されない、多層的構造を有していることを示唆している。
脚注
1: Ben Witherington III, The Gospel of Mark: A Socio-Rhetorical Commentary, William B. Eerdmans Publishing Company, 2001, p.442.
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」
マタイ24:36
- 原文: Περὶ δὲ τῆς ἡμέρας ἐκείνης καὶ ὥρας οὐδεὶς οἶδεν, οὐδὲ οἱ ἄγγελοι τῶν οὐρανῶν, οὐδὲ ὁ υἱός, εἰ μὴ ὁ πατὴρ μόνος.
- 私訳: しかし、その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも知らず、子も知らない。ただ父のみが(知っている)。
- 新共同訳: 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
注解
- 「しかし、〜については」( Περὶ δὲ):ここは話題の転換点で、24:4–35の「徴の列挙」から、「時の不可知性」へと主題が移行している。
- 「その日」:終末、人の子の再臨が起こる日。
- 「誰も知らない」:再臨の時の不可知性を表す。同時に、実現の時を語る偽預言者や惑わす人がいれば、それは虚偽であることを示す。
- 「子も(知らない)」: 子はキリストを指す。父なる神だけが知る権威があるという、父なる神の主権が強調されている。ただし、「神なるキリストでさえ知り得ないとはどうこうことか?」というキリスト論神学上の問題が生じる箇所で、「受肉した子の知の自己制限」として処理されることが多い。
マタイ24:37
- 原文:ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
- 私訳:なぜなら、ノアの日々がそうであったように、人の子の来臨もそのようになるからである。
- 新共同訳: 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
注解
- ノアの洪水の出来事が、人の子の再臨の時の訪れと対比されている。
- 対比の視点は、洪水という事象ではなく、突然に到来するという点。
- 「来臨」(ἡ παρουσία):元々は王の訪問を指す語。この文脈では、キリストの再臨が起こり、神の権威をもっての審判と統治の始まりを指して使われ、後にこの語はキリスト教専門用語として定着した。
マタイ24:38
- 原文:ὥσπερ γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν,
- 私訳:というのも、洪水の前のあの日々において、彼らが食べ、飲み、娶り、嫁がせていたように、ノアが箱舟に入るその日まで。
- 新共同訳: 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
注解
- τρώγοντες:動詞 τρώγω(食べる)現在・能動・分詞・男性・複数・主格
- γαμοῦντες:動詞 γαμέω現在分詞「(男が)妻をめとる」、 γαμίζοντες:動詞 γαμίζω「(娘を)嫁がせる」 現在分詞なので、この行動をとり続けていたことを含意する。
- 列挙される行為はすべて日常生活上の行為。ノアを通しての警告を無視しての日常生活内の自己完結。
- 「ノアが方舟に入るその日まで」:洪水が始まって手遅れになるまで、彼らが気づくような兆候はなかったということ。
<黙想> 多くの人は、「本当に危機が迫ったら、その時こそ改めよう」と考えがちである。だが実際には、自分が思い描く「いよいよ」という瞬間が訪れた時には、すでに手遅れで、残るのは後悔だけ──それが人生の常である。 だからこそ、「今、この瞬間にその時が来てもよいように」心を整え、希望を抱いて日々を歩むことこそ、キリストの再臨を待ち望む者にとって欠かせない姿勢である。
マタイ24:39
- 原文: καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας· οὕτως ἔσται καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
- 私訳:そして彼らは悟らなかった、洪水が来て、すべてをさらうまで。人の子の来臨もまた、そのようである。
- そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
注解
- ἦρεν:動詞 αἴρω (持ち上げる、攫う(拐う))のアオリスト能動直説三人称単数
- 「悟らなかった」「気づかなかった (新共同訳)」(οὐκ ἔγνωσαν):逆に言えば、その時になって「悟った」。無知というよりも、理解することを拒絶し続けた結果である。
- 「すべてをさらうまで」:審判の徹底性を表す。その強調的表現。
- 「人の子の来臨もまた」:再臨時の審判がノアの時と同様ということ。すなわち、その突然性と、誰も逃れられない全面性について。
<説教の結びの言葉として> ノアの時代の人々は、日々の生活に心を奪われ、神が語られる警告に耳を傾けようとしませんでした。彼らは「悟らなかった」のではなく、「悟ろうとしなかった」のです。自分の生活の安定や楽しみを優先し、神の言葉が入り込む余地を失っていたのです。 主イエスは、再臨の時も同じであると語られます。それは突然であり、誰も逃れることのできない現実として訪れます。ですから、私たちに求められているのは、「いつ来るのか」を知ることではなく、「いつ来てもよい者として生きること」です。 「目を覚ましていなさい」という主の招きは、恐れに身構えることではありません。今日という日を神の前に誠実に生きること、与えられた務めを果たし、隣人を愛し、悔い改めと信仰の歩みを続けることです。主が来られるその時、慌てて取り繕う必要がないように、今を整えて歩むことが求められています。 主は必ず来られます。その時は父なる神だけがご存じです。しかし、その確かさゆえに、私たちは今日を希望をもって生きることができます。
マタイ24:40
原文: τότε δύο ἔσονται ἐν τῷ ἀγρῷ, εἷς παραλαμβάνεται καὶ εἷς ἀφίεται· 私訳: そのとき、二人が畑にいて、一人は取られ、そして一人は残される。 新共同訳: そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
注解
- 「取られ……残され」(παραλαμβάνεται / ἀφίεται):受動態。行為の主体は神。すなわち、神が選んだ人を取り、一方でそのままに残す(ほおっておく)。二人は、同時にその場に居合わせるという同一状況にありながら、その時までに「(終末への)備え」があるか否かによって、劇的な差となって現れる。それが露見する時が、再臨であり終末の時。
マタイ24:41
原文: δύο ἀλήθουσαι ἐν τῷ μύλῳ, μία παραλαμβάνεται καὶ μία ἀφίεται. 私訳: 二人の女が臼を挽いていると、一人は取られ、一人は残される。 新共同訳: 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
注解
- ἀλήθουσαι: 動詞 ἀλήθω(「挽く、粉をひく」)の現在能動分詞
- 前節の畑の二人と同じ主旨の例え。畑も臼も、なにげない日常生活のひとこま。いつまでもそれが続くと思われる生活が、突如寸断される。また、畑は男性の労働、臼は女性の労働という男女それぞれの在り方が意識されているかもしれない。いずれにせよ、生活の場・時で、終末は到来するということ。
マタイ24:42
- 原文: γρηγορεῖτε οὖν, ὅτι οὐκ οἴδατε ποία ἡμέρα ὁ κύριος ὑμῶν ἔρχεται.
- 私訳: それゆえ、目を覚ましていなさい。あなたがたは、主がどの日に来られるのか知らないからである。
- 新共同訳: だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
注解
- γρηγορεῖτε:動詞 γρηγορέω(「目を覚ましている」「警戒している」)現在・能動・命令法・2人称複数。「目を覚ましなさい」という一回的な命令ではなく、「目を覚ましていなさい」という継続性を求める命令。
マタイ24:43
- 原文: ἐκεῖνο δὲ γινώσκετε, ὅτι εἰ ᾔδει ὁ οἰκοδεσπότης ποίᾳ φυλακῇ ὁ κλέπτης ἔρχεται, ἐγρηγόρησεν ἂν καὶ οὐκ ἂν εἴασεν διορυχθῆναι τὴν οἰκίαν αὐτοῦ.
- 私訳: もし、家の主人が、どの見張りの時に泥棒が来るのを知っていたら、目を覚まして、彼の家に穴を開けさせることは許さなかっただろう。
- 新共同訳: このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
注解
- εἰ ᾔδειεἰ: 条件節を導く。「もし〜なら」ᾔδει: 動詞 οἶδα(「知っている」)の過去完了・3人称単数。反実仮想(事実に反する仮定) を表し、「もし知っていならば」という意。
- ὁ οἰκοδεσπότης: 名詞「家の主人、家主」
- φυλακῇ: 名詞「見張りの時刻、番の時間」女性・与格・単数
- εἴασεν: 動詞 ἐάω(「許す、放任する」)アオリスト・能動・3人称単数
- 要は、大丈夫だろうと油断して、目を覚さない状態でいるところを突かれることが大変多いから気をつけなさい、ということ。
マタイ24:44
- 原文: διὰ τοῦτο καὶ ὑμεῖς γίνεσθε ἕτοιμοι, ὅτι ᾗ οὐ δοκεῖτε ὥρᾳ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἔρχεται.
- 私訳: こういうわけで、”あなたがた”(強調形)もまた、備えているようにしなさい。あながたが思いもしない時、人の子は来るからである。
- 新共同訳: だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
注解
- γίνεσθε: 動詞 γίνομαι(「〜になる」)現在・中動態(意味は能動)・命令法・2人称複数。「〜であり続けなさい」「〜になりなさい」
- ἕτοιμοι: 形容詞「準備のできた」男性・主格・複数。
- 「思いもしない時」「思いがけない時」:「いつ」というピンポイント予想は不可能ということの一側面で、予想外の時に来るから、常に「用意していない」ということ。結局、予測ではなく、まして油断的な弛緩でもなく、主末を希望とするキリスト者としての基本的な生きる姿勢を、いつもブレずに保っていなさいということ。
説教の結びの言葉と祈り
今日の主イエスの言葉は、時に油断してしまう私たちの信仰の歩みを、再び目覚めへと呼び戻す招きです。畑で働く二人の男も、臼を挽く二人の女も、どちらも日常のただ中に置かれていました。しかし、その平凡な日々に突然、神の時が差し込むのです。それまでの歩みに油断や驕りがなかったかどうかは、その瞬間に初めて、白日のもとに明らかにされます。 主が求めておられる「備え」とは、特別な行いでも、張りつめた緊張でもありません。主を待ち望む者として、日々を誠実に、基本に忠実に生きる姿勢そのものです。それを難しいと感じるとき、実は私たち自身が、そうした生活から目をそらし、言い訳をしてしまっているのかもしれません。 「目を覚ましていなさい」「備えていなさい」という主の命令は、私たちを縛るためではなく、むしろ自由へと、そして希望へと導く言葉です。私たちは、主がいつ来られるかを知りません。けれども、主が必ず来られることを知っています。それを希望として受け取れないときがあるとすれば、それは今の自分があまりにも「満ち足りている」と感じ、心が緩んでしまっているからかもしれません。 しかし、主の確かな約束があるゆえに、私たちは今日という一日を、主に向かって整えながら歩むことができます。思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の光の中を歩み続ける者とされたいと願います。
祈り
どうか、私たち一人ひとりが、思いがけない時にも揺るがない備えを持つ者として、主の再び来られる日を希望をもって待ち望むことができますように。 主が与えてくださる光の中で、目を覚まして歩み続ける者とされますように。 アーメン。
2026年2月10日火曜日
「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧
「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧
*数値は、週刊ダイヤモンド2018年10月13日号に拠る。 *真如苑の教団成立、教祖、現苑主などについては、概要欄に関連動画のアドレスあり
1. 接心とは
接心とは、語義的には「心と心を接する」ことを意味し、教団指導者または教団教師が信徒と直接対面し、霊的・信仰的な助言や導きを与える宗教的面談行為を指す。 真如苑においては、教団によって霊能者として認定された指導的立場の人物が導き手となり、接心を執り行う。 真如苑接心には複数種類あり、信徒の内面状態や生活上の悩みなどを聞き取る過程を含む種の場合、相互的相談やカウンセリングに類似した形式を部分的に取る場合もある。しかし実際には、信徒側が語る量は限定的であり、指導的人物から示される霊的判断(霊視)や言葉を一方向的に受け取る形態が主流である。したがって接心は、対話的実践というよりも、宗教的権威に基づく指示・告知の場として機能していると理解される。 *宗教学的参考:お告げなど、「非対称的コミュニケーション構造」
2. 接心の種類・内容・時間・冥加料一覧
| 接心の種類 | 内容 | 冥加料 | 所要時間 |
|---|---|---|---|
| 向上接心 | 基本修行となる接心 | 1,000円以上 | 2〜3分 |
| 向上相談接心 | 自らの修行に対する相談 | 2,000円以上 | 3〜5分 |
| 相談接心 | 日常生活での悩み事などの相談 | 3,000円以上 | 15〜20分 |
| 特別相談接心 | 相談接心よりも複雑な案件の相談 | 6,000円以上 | 20〜30分 |
| 鑑定接心 | 病気・結婚・仕事・土地などについて霊能力を使って行う | 8,000円以上 | 30〜40分 |
- 冥加(みょうが):神仏・仏法・超越的存在から受ける加護・功徳
- 冥加料(みょうがりょう):その冥加に対する感謝として捧げる金銭 (料金・報酬ではなく、宗教的献納という位置づけ)
2026年2月7日土曜日
【解説】ユグノー(Huguenot)
ユグノー(Huguenot)
1.定義
2.名称の由来
3.宗教改革とフランス改革派教会の形成
- 改革派教会の制度的枠組みの確立
- 信仰告白としての「フランス信条(Confessio Gallicana)」の採択
4.ユグノー戦争と宗教暴力
5.ナントの勅令と限定的寛容
- ユグノーの信仰の自由(地域限定)
- 礼拝の公的承認
- 一定の政治的・軍事的権利
6.勅令撤回と弾圧の再燃
7.神学史的意義
- カルヴァン主義の教会制度化
- 信仰告白を核とする教会アイデンティティの形成
- 国家権力と教会の緊張関係の先鋭化
- 迫害下における殉教神学と抵抗の神学
【解説】『十二族長の遺訓』
『十二族長の遺訓』
「1890年日本基督教会信仰の告白」注解 第6回
「1890年日本基督教会信仰の告白」注解 第6回
【本文】
「往時の教会は聖書によりて左の告白文を作れり。我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す。」
【現代語訳(私訳)】
「昔の教会は、聖書に基づいて次(後続の「使徒信条」)の(信仰)告白文を作りました。私たちもまた、聖徒たちが受け継いできた信仰の道に従い、讃美と感謝をもってその告白に同意します。」
【牧師、神学的素養のある人向け解説文】
1. 注解
- 「往時の教会は聖書によりて告白文を作れり」:使徒信条、ニカイア信条などは、教会が歴史的教義論争の中で、聖書に基づきつつ教会が形成した規範的文書。よって、信仰告白文(信条)は啓示そのものではないし、聖書と同一の権威を持つものではないが 1、ひいては、聖書における聖霊の働きによる神の啓示を指し示すもので、その信仰内容を要約したもの。
- 「聖書によりて」:ウェストミンスター信仰告白1章の内容と一致する。聖書が信仰と生活における唯一最高の規範であること。
- 「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」:おそらく、ユダ書3節 を背景にもつ表現である。「ひとたび聖徒に伝えられた信仰」(ἅπαξ παραδοθείσῃ τοῖς ἁγίοις πίστει)。
- 「ひとたび(ἅπαξ)」の意味:新しい信仰内容を作り出さないということで、 これは直接的には信仰内容の既・決定性を指す表現であるが、改革派神学においては、そこから正典啓示の完結性が含意されてきた。(→信仰内容の”今更後出し”はない)。同時に、聖書は「正典」(カノン)として既に完結しているので、聖書文書を新たに追加しないことも含意する(同時に、減らしてもいけない、改変してもいけない)。
- 「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる……讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す」:先の「往時の教会」と共に、使徒時代以来、聖書に基づいて信仰を告白してきた公同の教会(普遍教会)との歴史的連なりを示す。自分たちもまたそれに連なることが表明されている。
2. 内容解説
この冒頭文は、信仰告白の内容そのものではなく、「信仰告白する主体と態度」を定義する序文である。 次の三点が強調されている。
- 信仰告白の規範性の根拠は聖書であること
- 信仰告白は歴史的教会との連続性の中で受け取られること
- 信仰告白行為は強制ではなく、神を前にしての主体的な同意——「讃美と感謝」——であること
2.1. (告白の規範性の根拠は聖書であること)について
この箇所の手前の本文において、次のことが述べられていた。
- 聖書は古の預言者、使徒、聖徒たちの手を通して書かれたこと
- 彼らは、聖霊なる神の導きによって、聖書文書をしたためたこと
- 聖書は、信仰上のことについて、最上の権威を持つこと
以上を受けて、聖書は、信仰告白文の源泉であり、同時に内容上の是非を審判するのは、聖書であることが確認されている。
2.2. (告白は歴史的教会との連続性の中で受け取られること)
- 「往時の教会」「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」という表現は、 信仰告白が使徒時代以来の普遍的教会の歴史的連なりの中に位置づけられていることを示す。
- ここで想定されている教会は、特定の時代や地域に限定された教会ではなく、 福音を受け継いできた歴史的・普遍的教会(ecclesia catholica、「エクレシア・カトリカ」今日のカトリック教会の原義)である。
- 信仰告白は、新たな教理を創出する行為ではなく、既に教会において受容・保持されてきた信仰を、自らの信仰として受け取る行為である。
- この理解は、信仰を純粋に個人的・主観的なものとする傾向を抑制し、信仰が本質的に共同体的・継承的性格を持つことを明確にする。
- 「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」という表現は、ユダの手紙3節の「ひとたび聖徒に伝えられた信仰」を想起させ、信仰内容が恣意的に変更されるべきものではないことを示唆する。
- ここでの「伝えられた信仰」とは、教会に託された遺産(traditio)として守られ、解釈され、継承されるべきものである。
- したがって、この連続性の強調は単なる伝統主義ではなく、聖書を規範としつつ、歴史的教会の証言に謙虚に連なる信仰姿勢を表している。
- 個々の信徒や一教派が信仰の最終的裁定者となるのではなく、聖書のもとで、歴史的教会の告白に耳を傾ける態度がここで肯定されている。
小結: これは、日本基督教会が自らを「新宗派」ではなく、「普遍的教会の正統的継承者」として位置づけようとする自己理解を明確に示すものである。
2.3. (告白行為は強制ではなく、神を前にしての主体的な同意——「讃美と感謝」——であること)
- 本文は、信仰告白を「命令」や「強制」としてではなく、神を前にした主体的な応答行為として位置づけている。
- 「同意を表す」という表現は、告白が単なる形式的追認や制度的服従ではなく、理解と承認を伴う意志的行為であることを示す。
- 信仰告白の主体は「我ら」であり、(「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ」の「我ら」) 教会として共同的に告白する一方で、各信徒が自らの責任において個人的にその告白を引き受けることが前提とされている。
- 「讃美と感謝をもって」という句は、告白が神学的命題の確認にとどまらず、 礼拝的行為、信仰的営為であることを明確にする。
- ここでの「讃美」は、告白される信仰内容の中心が神ご自身に向けられていることを示し、信仰告白が自己表明でも自己完結でもなく、自分から神に向かって為される神中心的行為であることを示唆する。
- 「感謝」は、信仰が人間の自力のみによる達成や選択の結果ではなく、神から与えられ、教会を通して受け継がれた賜物であるという認識を前提としている。
- したがって、信仰告白とは、正統的教理への知的同意である以前に、恵みに対する感謝をもってなされる礼拝的応答である。
- この点において、本信仰告白は、信仰を「信じるか否かの判断」へと還元するのではなく、神との関係における生きた応答行為として理解している。
【解説】第二スイス信仰告白
【解説】第二スイス信仰告白
第二スイス信仰告白
第一スイス信仰告白
第二スイス信仰告白の内容の特徴
概要
神論・キリスト論・救済論
教会論
聖礼典
まとめ
2026年2月6日金曜日
【解説】『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)とその悲惨な末路 ーイエスはイスカリオテのユダの裏切りを評価した?
『ユダ福音書』(『ユダの福音書』)概説
要約
本文
1.「チャコス写本」に含まれる文書群
-
『フィリポに送ったペトロの手紙』
ナグ・ハマディ文書に含まれる同名文書とほぼ同一内容。 -
『ヤコブ』
ナグ・ハマディ文書の『ヤコブの黙示録』とほぼ一致する。 -
『ユダ福音書』
-
『アロゲネース』
2.グノーシス主義的思想と『ユダ福音書』
3.反異端文書における『ユダ福音書』の証言
3.1 エイレナイオスの証言
「さらに他の人々は、カインが上なる権威に由来すると言い、…このことを裏切り者ユダもよく知っていたと主張する。彼のみが真理を知っていたため、裏切りの秘儀を成就したのであり、彼によって天上のものと地上のものが解消されたという。彼らはこの種の虚構を作り上げ、それを『ユダの福音書』と呼んでいる。」(『異端駁論』1.31.1)
3.2 「カイン派」に関する他の証言
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テオドレトス『異端者たちの作り話要綱』(1.15)
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偽テルトゥリアヌス『全異端反駁』(2.5–6)
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エピファニオス『薬籠(パナリオン)』(38.1.15)
4.成立年代
5.発見から公開までの経緯
1970年代 エジプト中部ミニヤー県にて、『ユダ福音書』(または『ユダの福音書』)を含む写本が発見される。恐らく盗掘による。
1980年 カイロの古美術商に売却されるが、盗難により紛失。
1982年 カイロの古美術商、ジュネーブにて写本を取り返す。
1983年 カイロの古美術商、大学研究者に300万ドルでの売却を持ちかける。交渉は決裂。
1984年 カイロの古美術商、写本をニューヨークのシティバンク貸金庫に16年間に渡り保管し、写本は劣化。
1999年 古美術商フリーダー・チャコス、カイロの古美術商より300万ドルで写本を購入。エール大学に調査を依頼。『ユダ福音書』と判明。
2000年 アメリカの古美術商ブルース・フェリーニ、写本を購入。一部を売却。残りを冷凍保存。
2001年 フェリーニ、代金支払いができず、チャコスに返却。チャコスにより、マエケナス古美術財団(スイス)に引き渡される。
2006年4月 ナショナルジオグラフィック協会の援助によりコプト語本文と英訳、インターネットで公開。その後公刊。
2006年6月 公刊本の邦訳『原典 ユダ福音書』(R. カッセル、M. マイヤー、G. ウルスト、B. D. アーマン編著)、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年)発刊。
参考文献
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R. カッセル/M. マイヤー/G. ウルスト/B. D. アーマン編著
『原典 ユダ福音書』、日経ナショナルジオグラフィック社、2006年。 -
荒井献
『ユダとは誰か——原始キリスト教と『ユダの福音書』の中のユダ』、講談社学術文庫、講談社、2015年。
【解説】テサロニケの信徒への手紙二 緒論
【解説】テサロニケの信徒への手紙二 緒論
本書簡(以下、2テサロニケ書)の中心的関心は、キリストの再臨(主の日)をめぐる誤解の是正と、それに付随する信徒の生活規範の再確認にある。2:2において示されているように、本書簡は、「霊」や「言葉」、あるいは使徒たちに由来すると称される書簡を根拠として、主の日がすでに到来したと主張する言説に対し、共同体が動揺し混乱することを戒めている。この再臨理解の混乱は、単なる神学的誤認にとどまらず、労働の放棄や無秩序な生活態度と結びついていたと見られ、本書簡はそうした実践的問題に対しても厳しい規律を提示している(3:6)。
1.執筆者・真筆性の問題
2テサロニケ書の著者について、書簡冒頭の挨拶(1:1)に基づき、伝統的には使徒パウロの名が帰されてきた。しかし現代の新約学においては、パウロ自身による著作であるとする見解は必ずしも支配的ではなく、本書を擬似パウロ書簡(Deutero-Pauline Epistle)と位置づける立場が有力である。
その主な理由として、第一に、本書簡の主題・語彙・構成が第1テサロニケ書と顕著に重複している点が挙げられる。この重複は、同一著者による連続的執筆を示すというよりも、むしろ後続文書が先行書簡を参照・模倣している可能性を示唆する。
第二に、終末理解の相違である。第1テサロニケ書が終末の切迫性を強調し、「時と機会」についての言及を回避しているのに対し(1テサロニケ5:1–2)、2テサロニケ書では、再臨以前に生起する出来事が比較的体系的に叙述されている(2:3–12)。このような段階的・プログラム的終末論は、真正パウロ書簡に特徴的な終末理解とは一定の緊張関係を形成している。
第三に、終末における義人と不法な者の峻別、ならびに後者に対する報復的審判の強調(1:5以下)は、パウロ自身の神学というよりも、パウロ以後の教会的文脈において発展した思想と親和的であると指摘されている。
第四に、本書簡は第1テサロニケ書に比して、具体的な人物描写や状況設定に乏しく、抽象化された共同体像を前提としている点でも差異を示す。
もっとも、これらの論点はいずれも決定的証拠ではなく、個別には反論も提示されている。そのため、本書を非パウロ的著作であると断定することは慎重であるべきだが、少なくとも真正パウロ書簡から区別して扱う必要性は、現在の研究状況に照らして十分に認められる。
2.成立年代
著者をパウロとみなす立場では、2テサロニケ書の成立は第1テサロニケ書の執筆直後、すなわち50年代初頭から中葉に位置づけられるのが一般的である。
これに対し、擬似パウロ書簡と理解する立場では、成立年代について複数の可能性が提示されている。とりわけ2:4における「神殿」に関する言及は、エルサレム神殿崩壊以前の状況を反映していると解されることが多く、この場合、60年代中葉が想定される。一方で、使徒教父ポリュカルポスによる本書簡の使用を重視する研究では、2世紀初頭に成立したとする後代説も提唱されている。
3.構成
本書簡の構成は以下の通りである。
1:1–2 挨拶
1:3–12 再臨と報復的審判の神学
2:1–12 終末的混乱と「不法な者」への警告
2:13–17 救いに選ばれた共同体への勧告
3:1–5 使徒団のための執り成しの要請
3:6–15 無秩序な生活に対する規律
3:16–18 結語
【解説】シモニア(聖職売買)
シモニア(聖職売買)
英: Simony
ラテン: Simonia
要約
シモニア(聖職売買)とは、金銭その他の対価をもって、聖職者の位階、秘蹟の授与、教会統治権、あるいは聖職者任命や推薦といった神聖な事柄を意図的に取引する行為を指す。対象は必ずしも「聖職」に限定されず、広く霊的権威一般を含む概念である。
このような行為は、世俗権力や財力による教会支配を助長し、宗教的腐敗を招くものとして、古代教会以来、一貫して強く批判され、教会法的規制の対象とされてきた。
「シモニア」という名称は、聖霊の力を金銭で得ようとした魔術師シモン(シモン・マグス)に由来し、その逸話は『使徒言行録』8章18–24節に記されている。
本文
シモニアとは、金銭やその他の利益を対価として、聖職者の位階、秘蹟、教会の統治権、さらには聖職者人事における推薦や任命といった、神性に属する事柄を故意に売買する行為を指す概念である。この点で、単なる聖職叙任の問題にとどまらず、教会の霊的権威そのものを取引対象とする点に本質がある。
とりわけ、世俗権力が教会支配を掌握しようとする場合、金銭を媒介としてこれらの権限が交換されるならば、教会内部に世俗的利害が深く浸透することになる。また、本来は厳格な宗教的規律が求められる領域において金銭授受が常態化すれば、信仰と制度の腐敗は不可避である。このため、古代教会時代から繰り返し規制が試みられてきたが、献金と賄賂との線引きが困難であることもあり、実効的な取り締まりは容易ではなく、事実上はイタチごっこの様相を呈していた。
さらに中世においては、私有教会制のもとで国王や領主が教会を支配し、配下の聖職者を任命する制度が存在したため、裏取引としての対価の授受が行われても表面化しにくいという構造的問題を抱えていた。
語源
「シモニア(Simonia)」という名称は、『使徒言行録』8章18–24節に登場する魔術師シモン(シモン・マグス)に由来する。彼は、使徒たちが按手によって聖霊を授けるのを見て、その力を得るために金銭を差し出したとされ、この行為が霊的権能を金で買おうとする象徴的事例として、後世の教会における規範形成に決定的な影響を与えた。
歴史
キリスト教会に富と権力が集中するにつれて、古代後期から中世にかけてシモニアは顕在化するようになった。
306年のエルビラ教会会議では、洗礼執行に関する売買が禁止され、451年のカルケドン公会議では、霊的祝福の売買全般が禁じられた。
教皇グレゴリウス1世(在位590–604年)は、シモニアに関与した聖職者を破門する慣行を確立した。
787年の第2ニカイア公会議では、魔術師シモンの名を明示的に挙げつつ、神聖事の売買禁止が再確認された。
また、ヴォルムスのブルクハルトは、自身が集成した教会法においてシモニアを冒涜行為と位置づけた。これに関連して、シモニアによって任命された聖職者が執行するサクラメントの有効性を否定する見解も現れたが、ペトルス・ダミアニは、秘蹟の効力は執行者の道徳性に依存しないとする ex opere operato の原理を擁護し、これに反論した。
1059年には、枢機卿団による教皇選出制度(コンクラーヴェ)が定められ、教皇選挙をシモニアから防衛する制度的措置が講じられた。
さらに教皇グレゴリウス7世(在位1073–1085年)は、いわゆる「グレゴリウス改革」の一環として、俗人による聖職叙任を禁止し、シモニアおよび聖職売買と密接に結びついた叙任権問題に正面から取り組んだ。
16世紀においては、贖宥の発布とそれに伴う金銭授受が、実質的にシモニアに当たるとして、ウィクリフ、フス、ルターら宗教改革者によって厳しく批判され、宗教改革運動の重要な論点の一つとなった。
2026年2月4日水曜日
【解説】ガリラヤ
【解説】ガリラヤ
ガリラヤという地名は、「ゲリル=アル=ゴイム(Gelil ha-Goyim)」、すなわち「異邦人の地区/異邦人の輪」を意味する呼称に由来する(イザ8:23[MT 9:1])。この名称が示す通り、ガリラヤは古くからユダヤ人と異邦人が混在して居住する地域であり、民族的・宗教的に均質な空間ではなかった。
前2世紀のマカバイ時代、ハスモン朝による軍事的拡張とともに、ガリラヤは支配下に組み込まれ、住民に対するユダヤ教化政策が進められた。これにより、制度的にはユダヤ社会の一部として再編成され、以後この地域は単に「ガリラヤ」と呼ばれるようになる。しかしながら、この政治的・宗教的統合にもかかわらず、ガリラヤはエルサレムおよびユダヤ地方から見て、依然として周縁的な位置に置かれていた。
そのため、ユダヤ社会内部、とりわけエルサレムを中心とする宗教的・文化的エリート層からは、ガリラヤの人々はしばしば「田舎者」あるいは「辺境の人々」として軽蔑的に評価された。このような認識の背景には、宗教的中心地からの地理的距離に加え、生活様式や文化的慣習の相違があったと考えられる。
宗教的観点から見ると、ガリラヤの住民は、エルサレム基準の律法理解、特にパリサイ派的な厳格な律法遵守からは一定の距離を置いていると見なされていた。必ずしも律法に無関心であったわけではないが、その実践は中央の基準から見て緩慢である、という評価が広く共有されていたと推測される。
このような社会史的・宗教史的文脈から、新約聖書においてイエスの活動拠点がガリラヤに置かれていることは、宗教的・文化的中心から距離をもつこの周縁的地域を、神の国の宣教が開始される場として描くことによって、救済が中心から周縁へと一方的に流れるのではなく、むしろ周縁から中心を問い返す運動として展開されることを示唆している。
2026年2月3日火曜日
【小論】イエスの旅程「ガリラヤ → エルサレム」構図の共観福音書比較――空間移動としての物語構造と神学的差異
イエスの旅程「ガリラヤ → エルサレム」構図の共観福音書比較――空間移動としての物語構造と神学的差異
共観福音書はいずれも、イエスの活動を「ガリラヤからエルサレムへ」という地理的移動として構成している。しかし、この構図は単なる行程記述ではなく、各福音書の神学的意図を反映した物語的・象徴的枠組みとして機能している。本節では、マルコ・マタイ・ルカの三福音書を比較しつつ、その差異を明らかにする。
1. マルコ福音書
マルコ福音書において、ガリラヤはイエスの宣教活動と弟子育成の場である(マルコ1:14以下)。癒やしと教えが集中的に語られる一方で、弟子たちの無理解もこの地で繰り返し強調される。マルコにおける決定的転換点はマルコ8:27–30(ペテロの告白)であり、これ以降、物語は一転してエルサレム上り(ἀναβαίνειν)として再編成される(マルコ8:31以下)。
エルサレムは、神殿批判(11章)と受難物語が集中する場所であり、イエスが拒絶され、殺される場として描かれる。マルコにおいては、ガリラヤ=宣教と可能性の場/エルサレム=拒絶と十字架の場という鋭い対比が支配的である。他方、復活告知において「ガリラヤで会う」という約束(16:7)が与えられる点は、救済の原点が再び周縁へと回帰することを示唆している。
2. マタイ福音書
マタイは、基本的にマルコの構図を踏襲しつつ、これを成就引用によって神学的に再解釈する。ガリラヤ宣教は、イザヤ預言の成就として位置づけられ(4:15–16)、イエスの活動が最初から神の救済計画に置かれていることが強調される。 エルサレムにおいては、マルコ以上に指導者層との論争が前景化され(21–23章)、イスラエル全体の代表としての宗教エリートの責任が問われる。復活後、弟子たちは再びガリラヤに集められ(28:16)、そこから「すべての民」への宣教命令が与えられる。この構成によりマタイは、ガリラヤ=宣教の起点としての意味を強く打ち出している。
3. ルカ福音書
ルカにおいて最も特徴的なのは、「旅の物語」(9:51–19:27)である。9:51において、イエスは「エルサレムに向かって顔を堅く向けた」と描写され、以後の長大な区間が意図的な上京行程として構成される。 ルカにとってエルサレムは、単なる受難の場ではなく、救済史の中心点である。復活と昇天はエルサレムで完結し(24章)、さらに使徒言行録において、エルサレムから地の果てへと福音が拡張していく。このためルカでは、マルコやマタイのような「ガリラヤへの回帰」は強調されず、むしろエルサレム中心主義が明確に打ち出されている。
4. 比較と総括
以上の比較から、三福音書は共通して「ガリラヤ→エルサレム」という構図を共有しつつも、その神学的意味づけは異なっている。
- マルコ:周縁から中心へ向かうが、中心で拒絶され、再び周縁が再起の場として位置づけられる。
- マタイ:周縁から始まった救済が、最終的に宣教へと開かれる起点としてガリラヤが再定位される
- ルカ:ガリラヤから始まった運動が、エルサレムで完成し、そこから世界へ展開される
このように、「ガリラヤ→エルサレム」という空間的移動は、共観福音書において単なる舞台転換ではなく、それぞれの福音書が描く救済史理解を体現する物語構造として機能している。
【小論】パウロは未婚の独身者か、それとも離婚経験者か
【小論】パウロは未婚の独身者か、それとも離婚経験者か
1.問題の所在
パウロはその宣教活動の最盛期において独身であったことが、真正パウロ書簡の証言からほぼ確実視されている。しかしながら、彼が生涯未婚であったのか、それともかつて結婚しており、離婚あるいは別居の結果として独身状態にあったのかについては、いずれの文書においても明示的な言及が存在しない。本稿は、真正パウロ書簡の関連箇所を検討することによって、この問題について到達可能な推論の範囲を明確化することを目的とする。
2.真正書簡における独身状態の確認
まず確認すべきは、パウロが少なくともコリントの信徒への手紙一執筆時点において独身であったという点である。1コリント7:7において、パウロは次のように述べている。
「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(1コリント7:7)
ここで「わたしのように独りでいて」と訳されている表現は、原文では καθὼς καὶ ἐμαυτόν(「私自身のように」)とあり、文法的には独身を直接指示する語(ἀγάμος)は用いられていない。しかし、1コリント7章全体が結婚・離縁・独身を主題として構成されていること、さらに直後の7:8において「未婚者(ἀγάμοι)と寡婦」に対し自らの立場を事実上重ね合わせていることから、ここで言及されている自己言及は配偶者を持たない状態を意味すると解するのが妥当である。 また、1コリント9:5では次のように述べられる。
「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」(1コリント9:5)
この箇所は一見すると、パウロ自身も妻帯者であるかのような印象を与えるが、ここで語られているのは「信者である妻を伴って巡回する権利(ἐξουσία)」の有無であり、その権利を実際に行使しているか否かについては言及されていない。したがって、本節はパウロが現に妻を有していたことを積極的に証明するものではない。 以上の2箇所を総合すると、コリント書簡執筆時点においてパウロが独身であったこと自体は確実である。
3.未婚の独身者であった可能性
パウロが生涯未婚であった可能性は、第一世紀ユダヤ社会の婚姻慣行を考慮するならば、必ずしも排除されるものではない。確かに後代のラビ文献においては、成人男性の結婚はほぼ義務的に語られることが多いが、これをそのまま第一世紀に遡及させることには慎重であるべきである。 ユダヤ伝承には、男子は18歳以降に結婚可能であるとする規範が存在する一方、家業や経済的基盤が整ってから初めて結婚すべきであるとする考えも併存していた。そのため、特にディアスポラ環境において教育を受け、移動性の高い生活を送っていた者が未婚のまま成人期を過ごしたとしても、不自然とは言い切れない。従って、パウロが回心以前から未婚であった可能性は、社会史的観点から十分に成立しうる。
4.離婚経験者であった可能性
他方、パウロがかつて結婚していた可能性についても検討する必要がある。パウロ自身が「ファリサイ派の中のファリサイ派」(フィリ3:5)と自己規定していることから、仮に結婚していたとすれば、その相手はユダヤ人女性であったと考えるのが自然である。 1コリント7:12–13において、パウロは、非キリスト教徒の配偶者が婚姻継続を望む場合には、信者側から離縁すべきではないと明確に述べている。この原則に照らすならば、ユダヤ人であった妻が婚姻継続を望んでいたにもかかわらず、パウロが一方的に離縁したと想定することは困難である。 しかしながら、同章15節では、信者でない配偶者が自発的に離れていく場合について、次のように述べられている。
「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。」(1コリント7:15)
この規定は、双方合意、あるいは少なくとも相手側の主導による離別を想定しており、理論上は、パウロ自身の過去の経験と整合的に理解される余地を残している。ただし、この箇所を直接的にパウロ自身の婚姻履歴に適用することは、なお推測の域を出ない。
5.別居(事実上の離婚)という可能性
さらに一つの補助的仮説として、法的離婚には至らないまま、別居状態にあった可能性を想定することも理論上は可能である。この仮説は、1コリント9:5において、パウロが自らを含む「わたしたち」が妻帯者と同列に「権利」を語っている点と一定の整合性を持つ。 この場合、問題となるのは、1コリント7章で用いられている ἀγάμος(結婚していない者)という語が、厳密に法的婚姻関係の不存在のみを指すのか、それとも宣教実践上の配偶者不在状態まで含みうるのか、という点である。この点については、現在のところ決定的な結論は得られておらず、本仮説も慎重に提示されるべきものである。
6.結論
以上の考察から導かれる結論は次の通りである。 第1に、パウロが宣教活動期において独身であったことは、真正書簡の証言からほぼ確実である。 第2に、彼が未婚の独身者であったのか、あるいは離婚経験者であったのかを確定することは困難である。 第3に、改宗後、ユダヤ人であった妻との合意的離別、あるいは別居状態に入った結果として独身状態にあったと推測しても、真正書簡の記述と致命的な齟齬は生じない。
2026年2月1日日曜日
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コンテンツリスト一覧
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回連載
(『信徒の友』2018年4月号ー2019年3月号所収)
【宗教学関連】(新宗教解説動画)目次
【新約聖書学関連】目次
【茨木春日丘教会(光の教会)関連】目次
【キリスト教史(教会史)関連】目次
【旧約聖書学関連】リスト
管理人について(大石健一)
日本基督教団茨木春日丘教会(礼拝堂の建物名「光の教会」)牧師
大学非常勤講師(宗教学、キリスト教学、キリスト教倫理)
運営YouTubeチャンネル
2026年1月30日金曜日
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」
(『信徒の友』2018年11月号所収)
主と共に歩む絵画
今回、紹介する絵画は、レンブラントの『神殿から両替人を追い出すキリスト』です(1626年)。レンブラントと言えば、絵画が経年劣化して変色したために誤って「夜警」と呼称された作品や、『キリスト昇架』の傑作で知られる、オランダ絵画黄金時代の巨匠です。 眉間にしわを寄せ、カッと目を見開き、鞭を振り上げる様子には、底知れぬ怒りが滲み出ています。これとは対照的に、ある者は両手で我が身をかばい、またある者は恐れをなして退散しようとしている商売人たちが描き出されています。2026年1月28日水曜日
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」『信徒の友』2018年4月ー2019年3月所収【目次】
『信徒の友』2018年4月号-2019年3月号所収
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 【目次】
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ5:1-20「悪霊に取り憑かれたゲラサの人をいやす」
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ5:1-20「悪霊に取り憑かれたゲラサの人をいやす」
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ーーーレジュメーーー 【真如苑】「接心」について ー霊能者との対面カウンセリング 1 接心とは 霊能力を育成された指導者が、信徒と対面で行う相談的システム。 ・指導者が複数の信徒と行う形式や、一対一で行う形式などあり。 ・「接心」における様々な献立 ーーー以下、一対複数...
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公式HPもなく、情報が限られていて、それでいてネット界隈ではしばしば謎の教団と噂されている「誠成公倫」について、教祖の八島義郎氏と教団の足跡、教義の基本について解説しています。 <再生リスト> 「新宗教・新興宗教」 https://www.youtube.com/playli...
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ーーーーレジュメーーーー 【新宗教】ほんみち(創設者・大西愛治郎、1881-1958年) 1 基本データ 開教年:1913年 種類:天理教から派生した新宗教 創始者:大西愛治郎(おおにしあいじろう、甘露台) 後継者:大西泰彦(おおにしやすひこ、現・甘露台) 信...