2026年4月8日水曜日
【緊急】トランプ会見の時のウサギはなに!?—「ホワイトハウス・イースターエッグロール」の起源と歴史
2026年4月6日月曜日
【新宗教・新興宗教解説動画】2022年頃から数年間、突如として話題となった「ほんみち」関連情報のまとめ
1. 2022年3月18日 泉南市男子中学生自殺事件
2022年(令和4年)3月18日、大阪府泉南市内の中学校に在学していた当時中学1年生の男子生徒が、自宅近くで自殺した。男子生徒は小学校時代からいじめを受けており、学校や教育委員会にも相談していたほか、自殺する半年前には大阪弁護士会のLINE相談窓口にも相談していたという。また、自殺の背景には、担任からの暴力的指導もあったという。その後、遺族が市の第三者機関の「市子どもの権利条例委員会」を通じていじめの有無などについて検証を求めているにもかかわらず、市側が4ヶ月間にわたり事実上放置していた。
2. 2022年〜2024年 SNS中心に風評の高まり
- 大阪・泉南市の高校進学率が低いことが話題となる。
- 進学レベルの他、各家庭の経済レベルについても。
- X(旧Twitter)で「ほんみち」が急速に話題となる。
- 泉南市の中学生の高校進学率が低い理由として、ほんみち信徒が親の家庭の存在が、SNSの投稿で拡散される。
- ほんみち信徒家庭の進学や生活環境に関する体験談や噂がSNSで投稿される。
3. 2023年〜2025年 風評の過渡期
- 子どもの高校進学率が低い:高校進学は必要ないとする教団からの勧めがあるとか、強制ではないとする証言など
- 大人は半月以上を教団関連の奉仕に費やすという証言
- 避妊具をつけずに自然に任せた妊娠・出産の重視。
- 恋愛結婚が制限されるという声:教団で相手を指定されるとか、強制ではないとする証言など
- 某小学校の児童の3分の一は信徒の子供。
- 生活困窮や自治体の対応不足を指摘する投稿も拡散。
- 中学卒業後、奈良の十津川の教団施設で3年間入所。
ほんみち 花瀬山修道場
当地はほんみち修道場と称し 青年信徒の心身の修養と鍛錬の場としております。天地の理及び生々としてこれを教理の根本とする。ほんみちは、ここに修の聖域として 清浄なる山谷の保全にも力を注いでおります。以上の趣旨を了解の上、この地より奥への立ち入りを御遠慮願います。(詳細は滝川のほんみちへ)宗教法人 ほんみち
4. 2025年前半から後半 風評の終末期
- 天理教からの分派としての歴史を整理
- SNSでの「進学率問題」「労働問題」などの噂を検証
- 実際の生活上の問題点と、ネット上の偏見を分けて説明
2026年4月3日金曜日
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コンテンツリスト一覧
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 目次
その他
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」全12回連載
(『信徒の友』2018年4月号ー2019年3月号所収)
【新約聖書学関連】目次【工事中】
【旧約聖書学関連】リスト
管理人について(大石健一)
大学講師(宗教学、キリスト教学、キリスト教倫理)
運営YouTubeチャンネル
2026年4月1日水曜日
【目次】説教や聖書研究をする人のための聖書注解
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ福音書
22:15-22 22:23-33 22:34-40 22:41-46
23章
23:1-12 23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③23:16-22) 23:13-36(④23:23-24) 23:13-36(⑤23:25-26) 23:13-36(⑥23:27-28) 23:13-36(⑦23:29–36) 23:37-39
24章
24:1-2 24:3-14 24:15-28 24:29-31 24:32-35 24:36-44 24:45-51
25章
28章
マルコ福音書
4章
4:1-9 4:10-12 4:13-20 4:21-25 4:26-29
5章
6章
6:1-6a 6:6b-
ヨハネ福音書
ペトロの手紙二
説教や聖書研究をする人ための聖書注解 マタイ25:31-40
説教や聖書研究をする人ための聖書注解
マタイ25:31-40
概要
注解
- 原文:Ὅταν δὲ ἔλθῃ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἐν τῇ δόξῃ αὐτοῦ καὶ πάντες οἱ ἄγγελοι μετ’ αὐτοῦ, τότε καθίσει ἐπὶ θρόνου δόξης αὐτοῦ·
- 私訳:しかし、人の子がその栄光の中に来るとき、そしてすべての天使たちが彼と共にいる時、その時彼はその栄光の座に座るであろう。
- 新共同訳:「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
文法解析
- Ὅταν(接続詞)「〜するとき」(時を表す接続法)
- ἔλθῃ(動詞・アオリスト接続法能動3単)←ἔρχομαι「来る」
- καθίσει(動詞・未来能動3単)←καθίζω「座る」
注解
- 終末におけるキリストの再臨(パルーシア)が描かれている。
- 「人の子」:ダニエル書の7章を背景にしており、世に審判をもたらす王的存在として降臨する。
- 「栄光」:神の本質が光として表されていること。神の本質とは、例えば完全性、聖性、義、永遠性。キリストが神的栄光を帯びていることは、キリストが神的存在であることを示す。
- 天使:キリストの随伴者。
マタイ25:32
- 原文:καὶ συναχθήσονται ἔμπροσθεν αὐτοῦ πάντα τὰ ἔθνη, καὶ ἀφοριεῖ αὐτοὺς ἀπ’ ἀλλήλων ὥσπερ ὁ ποιμὴν ἀφορίζει τὰ πρόβατα ἀπὸ τῶν ἐρίφων,
- 私訳:そしてすべての諸国民が彼の前に集められ、彼は彼らを互いから分けることになる。ちょうど羊飼いが羊を山羊から分けるように。
- 新共同訳:そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
文法解析
- συναχθήσονται(未来受動3複)←συνάγω「集める」
- ἀφοριεῖ(未来能動3単)←ἀφορίζω「分ける」
- ποιμήν「羊飼い」
注解
- 「すべての民族」:審判の世界性、普遍性。イスラエルに限定されない。
- 羊と山羊の区別はパレスチナの牧畜文化に由来する。それまで混合した状態から、その時が来れば分離が為されることは不可避ということ。
- 「羊を山羊から分けるように」:新共同訳では羊と山羊を分けるとあるが、原文では表示の通り。大勢の山羊の中に羊は紛れているというニュアンス。
マタイ25:33
- 原文:καὶ στήσει τὰ μὲν πρόβατα ἐκ δεξιῶν αὐτοῦ τὰ δὲ ἐρίφια ἐξ εὐωνύμων.
- 私訳:そして彼は羊をその右に、山羊を左に置くことになる。
- 新共同訳:羊を右に、山羊を左に置く。
文法解析
- στήσει(未来能動3単)←ἵστημι「立たせる/置く」
注解
- 右は祝福・名誉を、左は不利・拒否を象徴する。
- 羊と山羊の分離は、祝福と呪いへの分離。
マタイ25:34
- 原文:τότε ἐρεῖ ὁ βασιλεὺς τοῖς ἐκ δεξιῶν αὐτοῦ· Δεῦτε οἱ εὐλογημένοι τοῦ πατρός μου, κληρονομήσατε τὴν ἡτοιμασμένην ὑμῖν βασιλείαν ἀπὸ καταβολῆς κόσμου·
- 私訳:そのとき王は彼の右の者たちに言うことになる、「来なさい、わたしの父に祝福された者たちよ、あなたがたのために世界の基から備えられた王国を受け継ぎなさい。」
- 新共同訳:そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
文法解析
- ἐρεῖ:動詞λέγω(未来能動)「言う」
- Δεῦτε:(命令)「来なさい」
- εὐλογημένοι:εὐλογέω(完了受動分詞)「祝福する」
- κληρονομήσατε:κληρονομέω(アオリスト命令)「相続する」
注解
- 神が王として示され、祝福と救済も王からの褒章的に描かれ、委ねられるものは「王国」と表現されている。それは、天地創造以前から定められ、用意されているもの。
マタイ25:35
- 原文:ἐπείνασα γὰρ καὶ ἐδώκατέ μοι φαγεῖν, ἐδίψησα καὶ ἐποτίσατέ με, ξένος ἤμην καὶ συνηγάγετέ με,
- 私訳:なぜなら、わたしは飢えていた、そしてあなたがたは私に食べるものを与えた。渇いていた、そして飲ませた。よそ者であった、そして迎え入れた。
- 新共同訳:お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
文法解析
- ἐπείνασα:πεινάω(アオリスト)「飢える」
- ἐδώκατε(アオリスト)←δίδωμι「与える」
- ἐδίψησα←διψάω「渇く」
- συνηγάγετε←συνάγω「迎え入れる」
注解
- 挙げられている慈善的行為は、律法の中心であり、イエスも重視した隣人愛の実践項目。
マタイ25:36
- 新共同訳:γυμνὸς καὶ περιεβάλετέ με, ἠσθένησα καὶ ἐπεσκέψασθέ με, ἐν φυλακῇ ἤμην καὶ ἤλθατε πρός με.
- 私訳:裸であった、そしてあなたがたは着せた。病気であった、そして見舞った。牢にいた、そしてあなたがたは私のもとに来た。
- 新共同訳:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
文法解析
- περιεβάλετε:περιβάλλω「着せる」
- ἠσθένησα:ἀσθενέω「弱る/病む」
- ἐπεσκέψασθε:ἐπισκέπτομαι「訪ねる」
- ἤλθατε:ἔρχομαι「来る」
注解
- 本節での隣人愛の実践項目は、訪問系が中心。対象人物との関係性が持続されている。当時、収監された者と会うことは容易で、関係者が囚人の世話をすることはよく行われていた。
マタイ25:37
- 原文:τότε ἀποκριθήσονται αὐτῷ οἱ δίκαιοι λέγοντες· Κύριε, πότε σε εἴδομεν πεινῶντα καὶ ἐθρέψαμεν, ἢ διψῶντα καὶ ἐποτίσαμεν;
- 私訳:そのとき義人たちは彼に答えて言うであろう、「主よ、いつ私たちはあなたが飢えているのを見て養ったでしょうか、また渇いているのを見て飲ませたでしょうか。」
- 新共同訳:すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
文法解析
- ἀποκριθήσονται:ἀποκρίνομαι(未来受動)「答える」
- εἴδομεν:ὁράω(アオリスト)「見る」
注解
- 祝福される側の羊たちが、「義人」と呼ばれている。
- 善行が無意識的に行われたことが焦点であるが、無意識かどうかというよりも、行為の対象がキリストと同化していることを気づかないという構図。あるいは、自己目的なのかそうではないか、ということも重要だろう。相手をキリストと思って善行せよ、というメッセージに繋がる。
マタイ25:38
- 原文:πότε δέ σε εἴδομεν ξένον καὶ συνηγάγομεν, ἢ γυμνὸν καὶ περιεβάλομεν;
- 私訳:いつあなたをよそ者として見て迎え入れたでしょうか、また裸で見て着せたでしょうか。
- 新共同訳:いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
文法解析
- συνηγάγομεν:συνάγω(アオリスト)
注解
- 隣人愛の対象がキリストと同化されている。行為する側は、相手がキリストであることに気づいてないという構図。
マタイ25:39
- 原文:πότε δέ σε εἴδομεν ἀσθενοῦντα ἢ ἐν φυλακῇ καὶ ἤλθομεν πρός σε;
- 私訳:いつあなたが病気であるのを、あるいは牢にいるのを見て、あなたのもとに行ったでしょうか。
- 新共同訳:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
文法解析
- ἀσθενοῦντα(現在分詞)←ἀσθενέω
- ἤλθομεν←ἔρχομαι
マタイ25:40
- 原文:καὶ ἀποκριθεὶς ὁ βασιλεὺς ἐρεῖ αὐτοῖς· Ἀμὴν λέγω ὑμῖν, ἐφ’ ὅσον ἐποιήσατε ἑνὶ τούτων τῶν ἀδελφῶν μου τῶν ἐλαχίστων, ἐμοὶ ἐποιήσατε.
- 私訳:そして王は答えて彼らに言うであろう、「まことにあなたがたに言う、これらの最も小さいわたしの兄弟の一人にしたことは、わたしにしたのである。」
- 新共同訳:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
文法解析
- ἐποιήσατε:ποιέω(アオリスト)「する」
- ἐλαχίστων:(最上級)「最も小さい」
注解
- キリストは「最も小さい者」と同化されている。
- 「兄弟」=弟子(教会内部)
- 「すべての貧しい者」とする普遍的倫理説
2026年3月31日火曜日
【目次】新宗教・新興宗教解説動画
【新宗教・新興宗教解説】ほんぶしんー「ほんみち」の教祖・大西愛次郎の次女・大西玉が創設した分派系教団
【新宗教・新興宗教解説】ほんぶしんー「ほんみち」の教祖・大西愛次郎の次女・大西玉が創設した分派系教団
1. 基本データ
創始者 大西玉 おおにしたま 1916-69年教団内での呼称 みろく、天啓者・みろく
本部 岡山市神崎町
後継者 武田宗真(たけだそうしん)
呼称:甘露台 昭和44年〜
現在 近藤道哉(文化庁登録情報)
創立年 1961年 天理みろく会 ほんみち内に設置
大西玉を天啓者・みろく、とする。
法人化 昭和41年 宗教法人法による法人化
信徒数 90万人(1997年)
名称変遷
1961年 天理みろく会
1962年 ほんぶしん
2. 大西玉と「ほんぶしん」の足跡年表
1916年(大正5年)11月19日、創始者となる大西玉、誕生ほんみちの創始者の大西愛治郎とトヲの次女。
* 元々は天理教徒であった大西愛次郎。天理教の創始者中山みきの言葉「ことしから三十年たちたなら なはたまひめ もとのやしきへ」(『泥海古記』)にちなみ、大正5年に生まれた愛娘に中山みきの魂が宿ると信じて、名を「玉」とした。
* 教団内では「玉姫様」と呼ばれる。教団の発展に寄与。
1947年 大西玉、ほんみち信徒宅(京都)にて教義研究に専念
ほんみちの教義の不滅性を説いた「天啓御教書」執筆。
1958年 大西愛次郎、逝去。
大西玉、天啓者みろくとの自己意識を持つ。
1961年 ほんみち内にて、「天理みろく会」を発足。
大西玉を天理教の教祖中山みきの生まれ変わりとし、
彼女を天啓者・みろくとする「天理みろく会」発足。
大西玉、『宇宙本体論』を発表。
1962年 ほんみち執行部と教義論争が生じ、「ほんみち」から独立
教団名を「ほんぶしん」に改称。
* 当初、ほんみち本部近くの大阪府高石市羽衣の信徒宅に拠点。後、大西玉の健康上の理由により、塩尻市に移転。
1969年、現在の本部がある岡山市神崎町に移る。
信徒の多くが関西在住のため。
1969年、大西玉、心筋梗塞により逝去
同年、天啓者・甘露台とされた武田宗真が後継者に。
本部近くに神山御苑が建立される。一般参拝可能。
1978年 聖地神山開山。人間の生命・誕生の根源である甘露台設置
* 公式HPより「かつて教祖中山みき様は『将来建立される石造りの甘露台は、完全な露天にあり。まわりには参拝所のごとき建物は一切ない。四面見通しの中に立つのである』」
1982年 神山御苑に隣接して、墓苑の神山清浄苑が建設される
1994年 再生殿(於神山清浄苑)ー人間再生の祈りの場、建立
* 長野県塩尻市には、「甘露の里 長野」が建設されている。
* ハワイには、「元点祈りの場」建立。世界の祈り場所のシンボル
3. 教義と実践
* 天理教とほんみち、ほんぶしんの位置付け天理教を道理上の大元。ほんみちは、本家出現までの仮屋。
天理教の教祖中山みきは、ほんぶしんにとっての教祖でもある
* ほんぶしんに祀られている神
月日御両神様(つきひごりょうじんさま)
天地創造時の陰陽二種の力、不滅にして完全な二つの力
* 平和マーク 神山の甘露台の場を象徴したデザイン。「外側の丸い円は、月日御両神様の御心とお働き(火・水・風=十全の御守護)を表しています。」(公式HP)
* 聞行(もんぎょう):聞いて行う、実践的態度を重視
* 善導:自分と人を正しく神の教えに導く
* 勇魂の言霊(ゆうこんのことだま):勇気のある魂が発する霊的に力ある言葉。人を神の教えへと向かわせる奮起の言葉。
* 聞き添え:個々人が抱える悩みについての諭し
* ひのきしん 労働奉仕 ーー天理教と共通
【キリスト教解説】「イースター」(復活祭)—意味、名称由来、移動祝祭日
1. 意味、概要
2. 名称の由来
8世紀のイングランドの修道士・歴史家 ベーダ(Bede) が著書『自然の計算(De temporum ratione)』の中で、 4月は春の女神エオストレの名に因んで古英語でエオストル月と呼ばれ、 キリスト教徒はこの時期の祭りを「Easter」と呼ぶようになったと述べている。
3. イースターの日付の設定法と移動祝祭日
- 最も早い日付:3月22日
- 最も遅い日付:4月25日
- 灰の水曜日(イースターの46日前)
- 受難日(Good Friday)(直前の金曜日)
- 昇天日(39日後)
- 聖霊降臨祭(ペンテコステ)(49日後)
4. 西方教会と東方教会で日付が異なる理由
- 西方教会(カトリック・プロテスタント):グレゴリオ暦
- 東方教会(正教会):ユリウス暦を基準に計算
5. イースターの象徴—卵とウサギ
- 卵=「イースターエッグ」:命の象徴として、中世時代のヨーロッパで広まった。
- ウサギ=「イースターバニー」:ゲルマン系民俗では多産のために生命の象徴とされていたウサギがイースターに転用され、これがアメリカに伝わり流通した。これもまた、異教文化がキリスト教文化と融合した一例である。
【宗教学解説動画】デーモン(Demon)とサタン(Satan)の違い—悪魔学と悪魔論の違い
ーーーレジュメーーー
【宗教学】デーモン(Demon)とサタン(Satan)の違い
1 用語の問題
・用語上、「悪魔」と呼ばれて、一緒くたにされて使われている場合も多いが…
デーモンは、Demon 広く悪魔的、魔物的、悪霊的存在
サタンは、 Satan 聖書に登場するサタン
サタン=神に敵対(シャイターン)する元・天使とよくされる
→サタンは旧約、新約聖書で言及 ーキリスト教概念
旧約聖書に登場 ー旧約を共有するユダヤ教、イスラム概念
・これに伴い、その「学」の呼称、内容についても相違あり
悪魔「学」 Demonology ー広く悪魔的、魔物的存在
悪魔「論」 Satanology
ーキリスト教、ユダヤ教、イスラムにおける「サタン」
*使い分けが意識されていないケースもあり。
2 悪魔(Demon)
・ざっくり、魔物、悪霊、霊的存在、神的存在もろもろ。
・ギリシャ語の「ダイモーン」(神的、霊的存在の意)に由来。
必ずしも人間にとって悪の存在とは限らない。善の働きも。
同様に、天狗も悪的な妖怪的存在である一方、中立的。
・初期キリスト教時代
キリスト教が、ローマや欧州、東方の多様な多神教的世界観の魔物を取り込む。
悪魔の意味合いが、悪的存在へと傾斜していく。
=ラテン語におけるDaemonのニュアンス
・古代時代から中世時代にかけて
聖書的な絶対悪としての存在であるサタンと、デーモンが融合していく。
意味合いの変遷例:1 上級サタンの手下が、下級デーモン
神学者により、悪魔界の序列という世界観形成が進む
→悪魔に関する説を研究する学=狭義の「悪魔論」
3 サタン(悪魔、Satan)
・聖書(旧約聖書、新約聖書)で言及される「サタン」
ヘブライ語で、神に敵対的な意味を持つ「シャイターン」が語源
キリスト教、および旧約聖書を共有するユダヤ教、イスラムに必然的に限定。
・聖書におけるサタン、神学者などの論 =×悪魔「学」 ⚪︎悪魔「論」
神学者の例:エイレナイオス、テルトゥリアヌス、オリゲネス、
アウグスティヌスなど
・上述のように、サタンとデーモンの意味合いの用例的な融合が進む。
サタンがデーモンであったり、デーモンが悪霊であったり…。
4 サタンと悪魔の性質上の違い
・悪魔は基本的には、魔物的で恐怖の存在となっていったが、絶対悪でもない
・サタンは基本、絶対悪。(上記の天狗のように例外的な伝承があるかも)
神に敵対し、人間に誘いをかけ、神から引き離していく存在。絶対悪。
・魔物的な悪魔や悪霊は、人間に直接的(物理的・精神的)な危害を加える
他方、サタンは人間を唆して神から引き離すため、原則、危害は加えない。
ただし、後代の伝承過程で、デーモンとサタンが融合してくと、その限りでなし
【目次】キリスト教史(教会史)関連
【解説動画】
【キリスト教史解説】ヒッポリュトス ー教父、対立教皇、サベリウス主義批判
【キリスト教史解説】聖遺物、聖遺物崇敬ー「聖人の遺物をゲットだぜ」
【キリスト教史】テルトゥリアヌスー最初の西方ラテン教父、三位一体論の祖
【キリスト教史解説】モナルキアニズムー養子説と様態説ー三位一体の否定、キリストの神性否定
【キリスト教史解説】ユグノー戦争(1562 98年)ー宗教戦争の仮面を被った貴族間政治闘争
【キリスト教史解説】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス
ーー初期キリスト教時代ーー
前21頃-後39年 ヘロデ・アンティパス
後30-101年 ローマのクレメンス
ーー古代教会時代ーー
【キリスト教史】新約聖書の正典化と、新約文書の並び順の形成プロセス(動画)
(古代教会における聖書)「正典」の確定 信条の形成 シモニア(聖職売買)
70/82-156/168年 ポリュカルポス 2世紀初期 エビオン派 エビオン派福音書
100頃-163/167年 ユスティノス
?-170 霊的な熱狂的終末論者モンタヌス(モンタノス)とモンタニズム(動画)
2世紀頃 ヒエラポリスのパピアス
?-258 ラウレンティウス
2世紀中葉 モンタヌス・モンタヌス主義 Montanism / Montanus
2世紀中葉 マルキオン
160頃-220年以降 テルトゥリアヌス 130頃-202年頃 リヨンのエイレナイオス
200頃-258年 キプリアヌス 293頃-373年 アタナシオス
240頃-320頃 ラクタンティウス
3世紀前半から中葉 モナルキアニズム
312-14年 ドナティスト論争(ドナトゥス派)
325年 第1ニカイア公会議/原ニカイア信条
カパドキアの神学者たち(翻訳、ヤング『ニケアからカルケドンへ』)
330頃-379 バシレイオス 342頃-420年 ヒエロニムス
ーー中世時代ーー
テーマ的項目
675年頃-749年頃 ダマスコのヨアンネス
1265年頃-1308年 ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス
11世紀-15世紀中葉 十字軍
ーー宗教改革時代ーー
15世紀 人文主義
1482-1531年 エコランパディウス
1483-1546年 マルティン・ルター
1491-1551年 マルティン・ブツァー
1500年代前半以降 再洗礼派
1504-1575年 ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー
1509-64年 カルヴァン
1511-53年 セルヴェトゥス
1515-63年 カステリヨン
1524-25年 ドイツ農民戦争
1534年- アングリカンチャーチ(英国国教会)
1545年- 対抗宗教改革 1555年 アウクスブルク宗教和議
16世紀 改革派教会 Reformed Church
1618-48年 三十年戦争
1618-9 ドルトレヒト会議
1635-1705年 シュペーナー
1836- ディアコニッセ
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ25:1-13
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ25:1-13
マタイ25:1
- 原文: Τότε ὁμοιωθήσεται ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν δέκα παρθένοις, αἵτινες λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας ἑαυτῶν ἐξῆλθον εἰς ἀπάντησιν τοῦ νυμφίου.
- 私訳:そのとき、天の国は十人の処女たちに似せられるであろう。彼女たちは自分たちのともしびを取って、花婿を迎えに出て行った。
- 新共同訳: 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
注解
- ὁμοιωθήσεται(似せられるであろう):未来受動。
- 「おとめ」: παρθένοι:未婚の若い女性。ギリシャ語のこの語は純潔的な意味を持つが、元々のユダヤ的背景では、未婚・結婚前の女性の意。
- 「ともしび」( λαμπάδες):松明型のともしび。油補充が必要。小型オイルランプ( λύχνος)とは別物。
- εἰς ἀπάντησιν:名詞 ἀπάντησις(女性名詞)の対格単数形。語源は ἀντάω/ἀπαντάω(出会う、迎える)。
マタイ25:2
- πέντε δὲ ἐξ αὐτῶν ἦσαν μωραί καὶ πέντε φρόνιμοι.
- 私訳:そのうち5人は愚かであり、5人は賢かった。
- 新共同訳: そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
注解
- 「愚かさ」(μωραί):信仰的な鈍感さ(土台の上の家の例え、7:26を参照)。
- 「賢い」( φρόνιμοι):思慮深い者(7:24を参照)。
- マタイ特有の「賢い/愚か」の対比。未来の予見、日頃の準備が焦点。
マタイ25:3–4
- 原文: αἱ γὰρ μωραὶ λαβοῦσαι τὰς λαμπάδας αὐτῶν, οὐκ ἔλαβον μεθ’ ἑαυτῶν ἔλαιον· αἱ δὲ φρόνιμοι ἔλαβον ἔλαιον ἐν τοῖς ἀγγείοις μετὰ τῶν λαμπάδων αὐτῶν.
- 私訳:愚かな者たちは、ともしびを取ったが、自分たちと共に油を取らなかった。しかし賢い者たちは、ともしびと共に予備器の中に油を取った。
- 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
注解
- 「油」(ἔλαιον):これが何を象徴しているかは複数考えられ、信仰、信仰に基づく生活、聖霊などを挙げ得る。前述の通り、焦点は日頃の備え「いつ来てもいいように」。
- ἀγγεῖον:油の予備容器。
マタイ25:5
- 原文: χρονίζοντος δὲ τοῦ νυμφίου ἐνύσταξαν πᾶσαι καὶ ἐκάθευδον.
- 私訳:花婿が遅れている時、皆はうとうとし、眠った。
- 新共同訳: ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
注解
- χρονίζοντος: 動詞: χρονίζω(遅れる、長引く) 現在分詞・能動態・属格・単数・男性。
- νυμφίος(花婿):属格・単数・男性。 χρονίζοντος と共に独立属格を形成。
- 初期キリスト教時代における再臨遅延問題を反映。
- 全員眠る点が重要で、皆が同じ状況に置かれている中で、決定的な差が生じるという展開。
マタイ25:6
- 原文:μέσης δὲ νυκτὸς κραυγὴ γέγονεν· ἰδοὺ ὁ νυμφίος, ἐξέρχεσθε εἰς ἀπάντησιν αὐτοῦ.
- 私訳:真夜中に叫びが起こった。「見よ、花婿だ。迎えに出よ。」
- 新共同訳:真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
注解
- 「叫ぶ声」(κραυγή):「叫び声」主格・単数・女性 → 主語
- γέγονεν:動詞 γίγνομαι(起こる、生じる)完了形・能動態・直説法・三人称単数。
- 「真夜中」(μέσης νυκτός):夜の只中。予期しない時の突然性を表す。終末の突然性を強調(24:44)。
マタイ25:7–8
- 原文: τότε ἠγέρθησαν πᾶσαι αἱ παρθένοι ἐκεῖναι καὶ ἐκόσμησαν τὰς λαμπάδας ἑαυτῶν. αἱ δὲ μωραὶ ταῖς φρονίμοις εἶπαν· Δότε ἡμῖν ἐκ τοῦ ἐλαίου ὑμῶν, ὅτι αἱ λαμπάδες ἡμῶν σβέννυνται.
- 私訳:そこでそのおとめたちは皆起きて、自分のともしびを整えた。愚かな者たちは賢い者たちに言った。「あなたがたのオリーブ油を少し私たちにください。私たちのともしびは消えかけています。」
- 新共同訳: そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
注解
- ἠγέρθησαν: 動詞ἐγείρω(起こす)。直説法・受動態・アオリスト・3人称複数。
- ἐκόσμησαν: 動詞κοσμέω(整える、飾る)。直説法・能動態・アオリスト・3人称複数。
- σβέννυνται: 動詞σβέννυμι(消す)。直説法・受動態(または中動態)・現在。現在形は現在進行中の意味が強いから「消えつつある」という意。⠀
マタイ25:9
- 原文:ἀπεκρίθησαν δὲ αἱ φρόνιμοι λέγουσαι· Μήποτε οὐ μὴ ἀρκέσῃ ἡμῖν καὶ ὑμῖν· πορεύεσθε μᾶλλον πρὸς τοὺς πωλοῦντας καὶ ἀγοράσατε ἑαυταῖς.
- 私訳: しかし賢い者たちは答えて言った。「私たちにもあなたがたにも足りなくなるかもしれません。売る人のところへ行って、自分たちのために買いなさい。」
- 新共同訳:賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
注解
- Μήποτε:「もしかすると〜しない」否定の可能性の副詞。
- ἀρκέσῃ: 動詞ἀρκέω。接続法・能動態・アオリスト・3人称単数。
- 「オリーブ油」の代理は不可能。再臨を見据えた営みは、人に分け与えることはできない。
マタイ25:10
- 原文:ἀπερχομένων δὲ αὐτῶν ἀγοράσαι ἦλθεν ὁ νυμφίος, καὶ αἱ ἕτοιμοι εἰσῆλθον μετ’ αὐτοῦ εἰς τοὺς γάμους, καὶ ἐκλείσθη ἡ θύρα.
- 私訳:彼女たちが買いに行っている間に、花婿が来た。準備のできていた者たちは彼と共に婚宴に入り、そして戸は閉ざされた。
- 新共同訳:愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
注解
- ἀπερχομένων: 動詞ἀπέρχομαι(去る、離れて行く)。分詞。現在・中動態・属格・女性・複数。
- ἀγοράσαι: 動詞ἀγοράζω(買う)。不定詞・アオリスト・能動態。
- ἐκλείσθη: 動詞κλείω(閉める)。直説法・受動態・アオリスト・3人称単数。受動態なので「戸は閉められた。」時がくれば、自分で開け閉めはできない。終末の不可逆性。
マタイ25:11–12
- 原文:ὕστερον δὲ ἔρχονται καὶ αἱ λοιπαὶ παρθένοι λέγουσαι· Κύριε κύριε, ἄνοιξον ἡμῖν. ὁ δὲ ἀποκριθεὶς εἶπεν· Ἀμὴν λέγω ὑμῖν, οὐκ οἶδα ὑμᾶς.
- 私訳:後になって他の処女たちも来て言った。「主よ、主よ、私たちに開けてください。」 しかし彼は答えて言った。「アーメン、私はあなたがたに言う。 私はあなたがたを知らない。」
- 新共同訳:その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。12しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
注解
- ὕστερον:副詞。「後で」「その後」。
- ἄνοιξον:動詞ἀνοίγω(開ける)。命令法・能動態・アオリスト・2人称単数。
- Κύριε κύριε:7:21「主よ、主よ、と言う者が皆、天の国に入るわけではない」と対応関係。物語中の愚かな女たちと、教会における備えのなかった者が重ね合わせられている。
- οὐκ οἶδα ὑμᾶς:「あなたがたを知らない」関係性の否定。「あなたがたとは関係ない」
- 物語中の「ご主人様」「主」は、再臨のキリストを表している。新共同訳のように「ご主人様」と訳すと、対応関係が見えにくくなる。
マタイ25:13
注解
- γρηγορεῖτε:命令形・現在。継続的覚醒。24:42と対応。終末講話全体の中心主題。
- 「その日、その時を知らない」:これも中心的主題。「時の予知」は不可能、だからこそ、いつ来てもいいように備えを。メッセージ内容は、単純至極。
<この注解に基づく説教の結びの言葉の一例>
遅れて戻ってきたおとめたちは叫びます。「主よ、主よ、開けてください」。しかし返ってきたのは、「私はあなたがたを知らない」という関係の否定でした。ここで語られる「主」は、単なる物語上の主人ではなく、再臨のキリストその方です。だからこそ、この言葉は私たちの胸に重く響きます。神の愛は深いものですが、それに甘えてしまう、「愛ゆえの甘え」には注意したいものです。
説教や聖書注解をする人のための聖書注解 マタイ24:45-51「忠実な僕と悪い僕」
説教や聖書注解をする人のための聖書注解
マタイ24:45-51「忠実な僕と悪い僕」
概要
マタイ24:45
- 原文: Τίς ἄρα ἐστὶν ὁ πιστὸς δοῦλος καὶ φρόνιμος, ὃν κατέστησεν ὁ κύριος ἐπὶ τῆς οἰκετείας αὐτοῦ, τοῦ διδόναι αὐτοῖς τὴν τροφὴν ἐν καιρῷ;
- 私訳: それでは、誰が忠実で思慮深い僕であるか?それは、主人が自分の家の使用人たちの上に任命した、時間で彼らに食物を与える者である。
- 新共同訳: 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。
注解
- πιστός::信仰と訳される語であるが、本来は忠実、信頼を表す語。
- πιστόςと φρόνιμος(思慮深い):この組み合わせは、マタイ10:16「蛇のように賢く、鳩のように純真でありなさい」と似ている。無用に深く考えすぎずに委ねる姿勢と、そうでありながらも思慮深いという、場合によっては矛盾する事柄同士の組み合わせ。
- 「僕(使用人)」:奴隷とも訳される。教会では、「神の僕」という意味から転じて、教会の指導的立場を表す場合もある。
- 「時間で」:「適切な時に」とも訳されるが、ここではおそらく「時間で」一定期間ごとに給料が支払われることを意味すると思われる。
- 「家の使用人たち」:この箇所では、教会指導者によって運営される教会共同体を指すのだろう。
- 教会を表す比喩とすれば、「食物」は霊的な食物、すなわち神の言葉を教えることを表すことになる。
マタイ24:46
- 原文: μακάριος ὁ δοῦλος ἐκεῖνος ὃν ἐλθὼν ὁ κύριος αὐτοῦ εὑρήσει οὕτως ποιοῦντα.
- 私訳:幸いなるかな、そのしもべは。その主人が来た時、そのようにしているのを見出されることになる者は。
- 新共同訳: 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
注解
- μακάριος:山上の説教(5章)の祝福宣言に繋がる言い回し。
- 「来た時」(帰ってきた時):主の再臨の時を表す。その時がいつかは分からないことが繰り返し強調されてきた。それがいつかを知るよりも、「まだ大丈夫」と思うことなく、いつも「忠実」であるべきことが強調されている。
マタイ24:47
注解
- καταστήσει:動詞 καθίστημι(任命する)の未来・3単
- 忠実さは、より大きな委任へと導く。25章のタラント譬えと主題的に繋がる。
マタイ24:48
- 原文: ἐὰν δὲ εἴπῃ ὁ κακὸς δοῦλος ἐκεῖνος ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ· Χρονίζει μου ὁ κύριος,
- 私訳:しかし、もしその悪い僕がその心の中で言うならば——「わたしの主人は遅れている」と。
- 新共同訳: しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、
- κακὸς δοῦλος:悪い僕。「忠実な僕」と対比されている。
- Χρονίζει:「彼は遅れている。」マタイ福音書執筆時の再臨遅延問題を反映している可能性が高い。
マタイ24:49
- 原文:: καὶ ἄρξηται τύπτειν τοὺς συνδούλους αὐτοῦ, ἐσθίῃ δὲ καὶ πίνῃ μετὰ τῶν μεθυόντων,
- 私訳:そして、自分の共なる僕たちを打ち始め、また酔う者たちと共に食べ、かつ飲むならば。
- 新共同訳: 仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。
注解
- ἄρξηται(~し始める):堕落が始まっていく転換点。
- τύπτειν:「打つ」ことで、暴力行為を示す。教会であれば、支配権を濫用し始めることか。
- ἐσθίῃ:動詞 ἐσθίω(食べる)現在接続法・3単
- πίνῃ:動詞 πίνω(飲む)現在接続法・3単
- τῶν μεθυόντων:μεθύω(酔う)の現在分詞・属格複数
マタイ24:50
- 原文:ἥξει ὁ κύριος τοῦ δούλου ἐκείνου ἐν ἡμέρᾳ ᾗ οὐ προσδοκᾷ καὶ ἐν ὥρᾳ ᾗ οὐ γινώσκει,
- 私訳:そのしもべの主人は、彼が予期していない日に、彼が知らない時刻に来ることになる。
- 新共同訳:もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、
注解
- ἥξει:動詞 ἥκω(来る、到着する)未来・3人称単数
- 予期しない時・知らない時は、マタイ24:36「その日、その時は誰も知らない」と対応関係にある。
マタイ24:51
- 原文: καὶ διχοτομήσει αὐτόν καὶ τὸ μέρος αὐτοῦ μετὰ τῶν ὑποκριτῶν θήσει· ἐκεῖ ἔσται ὁ κλαυθμὸς καὶ ὁ βρυγμὸς τῶν ὀδόντων.
- 私訳:そして彼を二つに切り裂き、その分け前を偽善者たちと共に置くであろう。そこでは泣くことと歯の歯ぎしりがあるであろう。
- 新共同訳: 彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
注解
- διχοτομήσει:動詞 διχοτομέω(切り裂く、二つに分ける)未来・3単。「厳罰に処す」の比喩的表現。
- ὑποκριταί:偽善者。マタイに特徴的な用語の一つ。
- ὁ κλαυθμός:名詞「泣き叫び」
- ὁ βρυγμός:名詞「歯ぎしり」、 τῶν ὀδόντων:属格複数「歯の」。マタイ8:12、13:42など、マタイが描く終末的表現。
- 忠実な僕の任命(祝福)と悪い僕の断罪(呪い)の対比で締めくくられる。
<この注解に基づく説教の結びの言葉として>
主が思いがけない時に来られるという事実は、恐れではなく、希望と励ましです。なぜなら、主は私たちの忠実を決して見逃されないからです。だからこそ、私たちは今日も、与えられた場所で、与えられた人々に、与えられた務めをもって仕えていくのです。
主が来られるその日、私たちが「そのようにしている」のを見出されますように。
2026年3月30日月曜日
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ6:1-6a
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マルコ6:1-6a
概要
注解
マルコ6:1
- 私訳:そして、彼はそこから出て行った、そして彼は彼の故郷へ来る、そして彼の弟子たちが彼に従っている。
- 新共同訳:イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。 ⠀
- ἀκολουθοῦσιν:原形:ἀκολουθέω 現在能動直説法3複「彼らは従っている」
- πατρίδα:名詞πατρίς 対格単数「故郷」
- 新共同訳の小見出しでは「ナザレの村」と記されているが、本文はイエスの故郷がナザレの村とは表記しない。イエスを「ナザレのイエス」と呼ぶ伝承から、故郷=ナザレと推定されているにすぎない。ナザレが実在した村かどうかも議論があり、「ナジル人(神に誓願した者)」を指すとする説もある。
- いずれにせよ、ここはイエスが故郷に戻る場面である。名声を得たイエスが故郷に帰るが、そこで起こるのは歓迎ではなく「拒絶」というのが主題である。
マルコ6:2
- 私訳:そして、安息日が起こったとき、彼は会堂の中で教え始めた。そして多くの者たちは、聞きながら驚かされて言っていた、「どこから、この人に、これらは(来たのか)。そして何であるか、この、この人に与えられた知恵は。また、このような力ある業が、彼の手を通して起こっている(とは)。」
- 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。 ⠀
- γενομένου(原形:γίνομαι):アオリスト中動分詞(絶対属格)「〜が起こったとき」
- ἀκούοντες(原形:ἀκούω):現在能動分詞・主格複数「聞いている者たち」
- ἐξεπλήσσοντο(原形:ἐκπλήσσω):未完了中動直説法3複「彼らは驚かされていた」
- 安息日、イエスは会堂で教え始める。ナザレの人々は、教えを語るイエスの知恵(σοφία)と奇跡(δυνάμεις)に驚嘆するが、その反応は信仰に至らない。「どこから(πόθεν)」という問いは、神的起源を認めるのではなく、むしろ疑念を示す。
マルコ6:3
- 私訳:この人は大工ではないか、この、マリアの子であり、ヤコブとヨセとユダとシモンの兄弟ではないか。そして彼の姉妹たちは、ここに、私たちのもとに、いないのではないか。そして彼らは彼においてつまずいていた。
- 新共同訳:この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 ⠀
- ἐσκανδαλίζοντο(原形:σκανδαλίζω):未完了中動直説法3複「彼らはつまずいていた」
- τέκτων:主格単数「大工・職人」
- 「この人は大工ではないか」:マルコを参考にして書かれたマタイ福音書では、「この人は大工の子ではないのか」と言い換えている。おそらく、マルコの時代よりイエスの神性が定着してきたマタイの時代にあって、マタイは神の子イエスを大工とする直裁な表現に躊躇し、婉曲的な表現に切り替えたのだろう。
- 故郷の人々は、イエスの家系や出自、成長の過程などを知っているだけに、これが拒絶の原因となっている。過去の知識、既存のイメージが邪魔をして、新しく起こされた出来事が、素直に見られない人の弱さが露呈している。
- 「マリアの子」という表現は父系ではなく母系で呼ぶ表現であり、当時は圧倒的な父系社会であるから、非常に異例である。イエスの十字架死と復活以降、原始教会に後から母マリアとイエスの兄弟が加わり、対して父ヨセフの存在の痕跡はなく、その事実を前提とした見方からの表現。
- おそらくイエスの父ヨセフは、ある段階で既に亡くなっていた。このことから、ヨセフは高齢でマリアと結婚して寿命に達していたのではないかという推測が生まれ、その後のクリスマスの美術画などでは、ヨセフを高齢の男性として描く慣習が成立していった。
- 「つまずく(σκανδαλίζω)」:信仰的拒絶を意味し、メシア理解の典型的障害を示す。
- 身近さが信仰を妨げる:故郷の人々はイエスを「よく知っている」と思い込んでいた。その思い込みが、神の新しい働きを拒む原因となった。 ・過去の情報により、新たな認識に影響を与えること。=アンカリング ・確証バイアス:自分の信念に合う情報だけを集める傾向
- 過去のデータが現在の神の働きを曇らせる:人は過去の経験に縛られ、神が新しく行われる業を見逃すことがある。
- イエスの受難はすでにガリラヤで始まっている:拒絶はエルサレムだけではない。イエスの道は最初から「理解されない道」であった。
マルコ6:4
- 原文:Καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ὁ Ἰησοῦς ὅτι Οὐκ ἔστιν προφήτης ἄτιμος εἰ μὴ ἐν τῇ πατρίδι αὐτοῦ καὶ ἐν τοῖς συγγενεῦσιν αὐτοῦ καὶ ἐν τῇ οἰκίᾳ αὐτοῦ.
- 私訳:そしてイエスは彼らに言っていた、「預言者は、尊ばれない者ではない。彼の故郷において、また彼の親族たちの中で、また彼の家においてを除いては」
- 新共同訳:イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
注解
- ἄτιμος:形容詞「尊ばれない」
- 旧約時代の預言者に関する格言的な言葉。「故郷・親族・家」という、本来なら血縁関係やふるさと関係にある親しみの籠った場所が、拒絶という反対の結果になるという痛みのある運命。
- 社会や人に対して、真に貢献しようと望む者もまた、覚悟しておくべき事柄。
マルコ6:5
- 原文:Καὶ οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν, εἰ μὴ ὀλίγοις ἀρρώστοις ἐπιθεὶς τὰς χεῖρας ἐθεράπευσεν.
- 私訳:そして彼はそこで、何一つの力ある業を行うことができなかった、ただ少数の病人に、手を置いて、癒したのであった。
- 新共同訳:そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
注解
- ἐδύνατο:原形δύναμαι 未完了中動直説法3単「彼はできた」
- ἐπιθεὶς:原形ἐπιτίθημι アオリスト能動分詞「置いて」
- οὐδεμίαν:否定強調「何一つ〜ない」
- 「奇跡を行うことができなかった」:イエスを御子なる神、全能なる神とする後代のキリスト教神学から見て、神の不可能性という解釈上の問題を伴う箇所。イエスは人々の信仰心がなければ業を行えないのか?という疑問。イエスの悪霊払い、癒しの業を、霊能力と考えればあり得る現象。周囲の人々の疑念や悪意といったネガティブな念が、能力者の力の発揮に作用してしまうというもの。
- この問題を神学的に整理するならば、神の存在や働きについて、疑いではなく信じる信頼をもって、諦めではなく期待をもって、不平不満ではなく感謝をもって待ち望むべき、とすると教会のような文脈では収まりが良い。
マルコ6:6a
- 原文:Καὶ ἐθαύμαζεν διὰ τὴν ἀπιστίαν αὐτῶν.
- 私訳:そして彼は彼らの不信仰のゆえに驚いていた。
- 新共同訳:そして、人々の不信仰に驚かれた。
注解
- ἐθαύμαζεν(原形:θαυμάζω)未完了能動直説法3単「驚いていた」
- 通常の展開では、イエスの教えや業に人々が驚くという構図。ここではそれが逆転している。
- 不信仰(ἀπιστία)はマルコにおいて繰り返される主題。信仰、すなわち、神やイエスに対する人格的な信頼、期待、希望は、より神の働きを大きくする一方、不信仰は阻害するものさえなる。
- この箇所は切ない結末に終わっているが、 一方、宣教活動が拡張されていく橋渡しとなる。それは、イエスや使徒たちの同胞であるユダヤ人への宣教に失敗したが故に、世界宣教、世界の民族への宣教へと繋がっていったように。
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ24:36-44
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ24:36-44「目を覚ましていなさい」
概説(マタイ24:36–44)
マタイ24:36
- 原文: Περὶ δὲ τῆς ἡμέρας ἐκείνης καὶ ὥρας οὐδεὶς οἶδεν, οὐδὲ οἱ ἄγγελοι τῶν οὐρανῶν, οὐδὲ ὁ υἱός, εἰ μὴ ὁ πατὴρ μόνος.
- 私訳: しかし、その日、その時については、誰も知らない。天の御使いたちも知らず、子も知らない。ただ父のみが(知っている)。
- 新共同訳: 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。
注解
- 「しかし、〜については」( Περὶ δὲ):ここは話題の転換点で、24:4–35の「徴の列挙」から、「時の不可知性」へと主題が移行している。
- 「その日」:終末、人の子の再臨が起こる日。
- 「誰も知らない」:再臨の時の不可知性を表す。同時に、実現の時を語る偽預言者や惑わす人がいれば、それは虚偽であることを示す。
- 「子も(知らない)」: 子はキリストを指す。父なる神だけが知る権威があるという、父なる神の主権が強調されている。ただし、「神なるキリストでさえ知り得ないとはどうこうことか?」というキリスト論神学上の問題が生じる箇所で、「受肉した子の知の自己制限」として処理されることが多い。
マタイ24:37
- 原文:ὥσπερ γὰρ αἱ ἡμέραι τοῦ Νῶε, οὕτως ἔσται ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
- 私訳:なぜなら、ノアの日々がそうであったように、人の子の来臨もそのようになるからである。
- 新共同訳: 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
注解
- ノアの洪水の出来事が、人の子の再臨の時の訪れと対比されている。
- 対比の視点は、洪水という事象ではなく、突然に到来するという点。
- 「来臨」(ἡ παρουσία):元々は王の訪問を指す語。この文脈では、キリストの再臨が起こり、神の権威をもっての審判と統治の始まりを指して使われ、後にこの語はキリスト教専門用語として定着した。
マタイ24:38
- 原文:ὥσπερ γὰρ ἦσαν ἐν ταῖς ἡμέραις ταῖς πρὸ τοῦ κατακλυσμοῦ τρώγοντες καὶ πίνοντες, γαμοῦντες καὶ γαμίζοντες, ἄχρι ἧς ἡμέρας εἰσῆλθεν Νῶε εἰς τὴν κιβωτόν,
- 私訳:というのも、洪水の前のあの日々において、彼らが食べ、飲み、娶り、嫁がせていたように、ノアが箱舟に入るその日まで。
- 新共同訳: 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
注解
- τρώγοντες:動詞 τρώγω(食べる)現在・能動・分詞・男性・複数・主格
- γαμοῦντες:動詞 γαμέω現在分詞「(男が)妻をめとる」、 γαμίζοντες:動詞 γαμίζω「(娘を)嫁がせる」 現在分詞なので、この行動をとり続けていたことを含意する。
- 列挙される行為はすべて日常生活上の行為。ノアを通しての警告を無視しての日常生活内の自己完結。
- 「ノアが方舟に入るその日まで」:洪水が始まって手遅れになるまで、彼らが気づくような兆候はなかったということ。
マタイ24:39
- 原文: καὶ οὐκ ἔγνωσαν ἕως ἦλθεν ὁ κατακλυσμὸς καὶ ἦρεν ἅπαντας· οὕτως ἔσται καὶ ἡ παρουσία τοῦ υἱοῦ τοῦ ἀνθρώπου.
- 私訳:そして彼らは悟らなかった、洪水が来て、すべてをさらうまで。人の子の来臨もまた、そのようである。
- そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
- ἦρεν:動詞 αἴρω (持ち上げる、攫う(拐う))のアオリスト能動直説三人称単数
- 「悟らなかった」「気づかなかった (新共同訳)」(οὐκ ἔγνωσαν):逆に言えば、その時になって「悟った」。無知というよりも、理解することを拒絶し続けた結果である。
- 「すべてをさらうまで」:審判の徹底性を表す。その強調的表現。
- 「人の子の来臨もまた」:再臨時の審判がノアの時と同様ということ。すなわち、その突然性と、誰も逃れられない全面性について。
マタイ24:40
注解
- 「取られ……残され」(παραλαμβάνεται / ἀφίεται):受動態。行為の主体は神。すなわち、神が選んだ人を取り、一方でそのままに残す(ほおっておく)。二人は、同時にその場に居合わせるという同一状況にありながら、その時までに「(終末への)備え」があるか否かによって、劇的な差となって現れる。それが露見する時が、再臨であり終末の時。
マタイ24:41
- ἀλήθουσαι: 動詞 ἀλήθω(「挽く、粉をひく」)の現在能動分詞
- 前節の畑の二人と同じ主旨の例え。畑も臼も、なにげない日常生活のひとこま。いつまでもそれが続くと思われる生活が、突如寸断される。また、畑は男性の労働、臼は女性の労働という男女それぞれの在り方が意識されているかもしれない。いずれにせよ、生活の場・時で、終末は到来するということ。
マタイ24:42
- 原文: γρηγορεῖτε οὖν, ὅτι οὐκ οἴδατε ποία ἡμέρα ὁ κύριος ὑμῶν ἔρχεται.
- 私訳: それゆえ、目を覚ましていなさい。あなたがたは、主がどの日に来られるのか知らないからである。
- 新共同訳: だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
注解
- γρηγορεῖτε:動詞 γρηγορέω(「目を覚ましている」「警戒している」)現在・能動・命令法・2人称複数。「目を覚ましなさい」という一回的な命令ではなく、「目を覚ましていなさい」という継続性を求める命令。
マタイ24:43
- 原文: ἐκεῖνο δὲ γινώσκετε, ὅτι εἰ ᾔδει ὁ οἰκοδεσπότης ποίᾳ φυλακῇ ὁ κλέπτης ἔρχεται, ἐγρηγόρησεν ἂν καὶ οὐκ ἂν εἴασεν διορυχθῆναι τὴν οἰκίαν αὐτοῦ.
- 私訳: もし、家の主人が、どの見張りの時に泥棒が来るのを知っていたら、目を覚まして、彼の家に穴を開けさせることは許さなかっただろう。
- 新共同訳: このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。
- εἰ ᾔδειεἰ: 条件節を導く。「もし〜なら」ᾔδει: 動詞 οἶδα(「知っている」)の過去完了・3人称単数。反実仮想(事実に反する仮定) を表し、「もし知っていならば」という意。
- ὁ οἰκοδεσπότης: 名詞「家の主人、家主」
- φυλακῇ: 名詞「見張りの時刻、番の時間」女性・与格・単数
- εἴασεν: 動詞 ἐάω(「許す、放任する」)アオリスト・能動・3人称単数
- 要は、大丈夫だろうと油断して、目を覚さない状態でいるところを突かれることが大変多いから気をつけなさい、ということ。
マタイ24:44
- 原文: διὰ τοῦτο καὶ ὑμεῖς γίνεσθε ἕτοιμοι, ὅτι ᾗ οὐ δοκεῖτε ὥρᾳ ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου ἔρχεται.
- 私訳: こういうわけで、”あなたがた”(強調形)もまた、備えているようにしなさい。あながたが思いもしない時、人の子は来るからである。
- 新共同訳: だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。
注解
- γίνεσθε: 動詞 γίνομαι(「〜になる」)現在・中動態(意味は能動)・命令法・2人称複数。「〜であり続けなさい」「〜になりなさい」
- ἕτοιμοι: 形容詞「準備のできた」男性・主格・複数。
- 「思いもしない時」「思いがけない時」:「いつ」というピンポイント予想は不可能ということの一側面で、予想外の時に来るから、常に「用意していない」ということ。結局、予測ではなく、まして油断的な弛緩でもなく、主末を希望とするキリスト者としての基本的な生きる姿勢を、いつもブレずに保っていなさいということ。
説教の結びの言葉と祈り
祈り
説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ5:1-20
説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マルコ5:1-20「悪霊に取り憑かれたゲラサの人をいやす」
概要
注解
マルコ5:1
マルコ5:2
- ἐξελθόντος:分詞・属格絶対構文。「彼が出ると」
- εὐθύς:マルコが多用する強調副詞「すぐに」
- 「すぐに」:“到着したばかりなのだから”といった甘いことなく、“待ったなし”で事は起きていく。
- 「汚れた霊」:言い換えれば、不浄な霊。禍々しく、触れた者に悪影響を起こす存在に成り下がった霊。日本風土における「穢れ」の概念を思い起こすと理解しやすいが、ユダヤ人の思考においては、汚れとは、神の秩序にそぐわないものとされる。
- 「墓場から」(ἐκ τῶν μνημείων):民数記19章にあるように、ユダヤ人の律法において、墓場は最大級の穢れの場所とされている。
マルコ5:3
マルコ5:4
マルコ5:5
マルコ5:6
マルコ5:7
マルコ5:8節
マルコ5:9
- 「レギオン(Λεγιών)」:ローマの6000千人規模の大隊兵団に割り当てらてられる名称。原語は、「集まる」という意のギリシャ語。軍隊は占領、支配を象徴するから、制圧された状態を暗示するのかもしれない。
- 「大勢だから」:古今東西の世界各地の心霊的な民間伝承などでは、霊体が複数より集まって一つの集合体を作り、一つの人格体を形成している例がたびたび見られる。現に、次の10節で「自分たち」と複数形で翻訳されているところは、原文では単数形の「彼」であり、複数の集合体と個体とが切り替わる。
マルコ5:10
説教の結びの言葉として
1-10節までの要点
- 嵐の湖を渡り切って辿り着いた場所は、ユダヤ人ではない、すなわち異邦人が居住する地域。そこに、悪霊に取りつかれた人がいた。
- 彼は、共同体の外に設けられた墓場を棲み処としていた。社会から疎外された状況を暗示する。
- 人々は彼を鎖で繋ぎとめようとしたが、鎖も足かせも引きちぎられた。超自然的、霊的力の前の、人間の無力さを象徴する。
- 彼はまた、自ら自分の体を傷つけていた。自分で自分をコントロールできず、自分を破壊するという、倒錯した悲惨な状況を示す。
- 彼に取り憑いていたレギオンと名乗る悪霊の群れは、霊的存在であるがゆえに、人は気づくことのないイエスの神的な権威を悟り、イエスに自分たちを滅ぼさず、その地域から追放されないことを願い出る。
マルコ5:11-12
- 原文:11 ἦν δὲ ἐκεῖ πρὸς τῷ ὄρει ἀγέλη χοίρων μεγάλη βοσκομένη· 12 καὶ παρεκάλεσαν αὐτὸν λέγοντες· Πέμψον ἡμᾶς εἰς τοὺς χοίρους, ἵνα εἰς αὐτοὺς εἰσέλθωμεν.
- 私訳:11 そこで、その山の近くに、放牧されている大きな豚の群れがあった。そして彼らは彼に願い求めて言った。12 「我々を豚の中へ送ってください。そこに入るためです。」
- 新共同訳:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
- χοίρων:χοῖρος(豚)の複数形
- ἀγέλη:ἀγέλη(群れ)
- βοσκομένη:動詞 βόσκω(養う、放牧する)の現在分詞・中間/受動態・主格・女性・単数
- 「大きな豚の群れ」(ἀγέλη χοίρων μεγάλη):異邦地域(デカポリス)であることを暗示。
- 「懇願した」(παρεκάλεσαν):マルコの展開のこの段階で、イエスを「神の子」と認識しているのは、悪霊たちのみ。イエスの神的権威を弁えた上で、戦うのではなく服従的に懇願しているということ。彼らの懇願は、霊的世界でのイエスの権威を暗示する。
- 「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」:ユダヤ教において豚は「不浄の動物」とされ、人間が食べることも触れることも避けられていた。そのため、悪霊が豚を“器”として選んだという描写は、「不浄な存在は不浄な器に宿る」という象徴的な意味を帯びる。「悪霊がふさわしい場所へ戻される」という宗教的メッセージとしても読める。
マルコ5:13
注解
- ἐπέτρεψεν ἐπιτρέπω アオリスト・能動態・直説法・3単 許した
- ὥρμησεν:ὁρμάω(突進する、急ぐ)アオリスト・能動態・直説法・3単
- ἐπνίγοντοπνίγω未完了過去・受動態・直説法・3複溺死した、窒息した
- 「イエスがお許しになった」:「許す」というのは、単に「いいよいいよ」と流すことではなく、権威をもって許可するということ。イエスの神的権威を暗示する。
- 「豚の群れが崖を下って湖になだれ込み」:悪霊の破壊的衝動性、自傷性を表していると読める。それまで男に取り憑いていた悪霊たちが、せっかく見つけた自分の居場所に自ら自傷行為へと至らせたように、今度は豚に取り憑いてレミングのような集団自殺へと至らせるという流れは、倒錯と混乱という点で、整合性は取れている。
ここまでの流れをふまえ、14節以降へと続いていく説教風のまとめ
注解
マルコ 5:14
- 原文: καὶ οἱ βόσκοντες αὐτοὺς ἔφυγον, καὶ ἀπήγγειλαν εἰς τὴν πόλιν καὶ εἰς τοὺς ἀγρούς· καὶ ἦλθον ἰδεῖν τί ἐστιν τὸ γεγονός.
- 私訳: それらを飼っていた者たちは逃げ、町々や村々(原語は「畑」)に報告した。人々は何が起こったのかを見るために来た。
- 新共同訳: 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
注解
- βόσκοντες: βόσκω「牧する、飼う」の現在能動分詞・男性・複数・主格
- 近隣の町や村の人々が、イエスと悪霊払いを受けた者との対面を果たすという流れ。
マルコ 5:15
- 原文: καὶ ἔρχονται πρὸς τὸν Ἰησοῦν καὶ θεωροῦσιν τὸν δαιμονιζόμενον καθήμενον ἱματισμένον καὶ σωφρονοῦντα, τὸν ἐσχηκότα τὸν λεγιῶνα· καὶ ἐφοβήθησαν.
- 私訳: 彼らはイエスのもとに来て、悪霊につかれていた者が座り、服を着、正気になっているのを見る。あの「レギオン」を宿していた者を。そして彼らは恐れた。
- 新共同訳: 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
注解
- καθήμενον / ἱματισμένον / σωφρονοῦνταという三重の分詞で「回復」を描写。すなわち、「座る」「服を着る」「正気になっている」であり、「座る」は日常の行為・生活を、「服を着る」は社会性を、「正気になっている」は自己コントロールの回復・正常化を表す。
- 「(彼らは)恐ろしくなった」:本来なら喜ばしい出来事だが、自分たちの理解の範囲を超える出来事であったためか、恐怖が先行した。 ⠀
マルコ 5:16
- 原文: καὶ διηγήσαντο αὐτοῖς οἱ ἰδόντες πῶς ἐγένετο τῷ δαιμονιζομένῳ καὶ περὶ τῶν χοίρων.
- 私訳: そして、見ていた人たちは、悪霊に憑かれた人がどうなったのかについてと、豚のことについて、彼らに説明した。
- 新共同訳: 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
注解
- διηγήσαντο:動詞 διηγέομαι(詳しく語る、説明する)アオリスト・中動態・直説法・3人称複数。
- 見ていた人たちの関心は、悪霊に取り憑かれた人の回復と、豚の死についてであった。
マルコ 5:17
- 原文: καὶ ἤρξαντο παρακαλεῖν αὐτὸν ἀπελθεῖν ἀπὸ τῶν ὁρίων αὐτῶν.
- 私訳: すると彼らは、イエスにその地方から去ることを願い始めた。
- 新共同訳: そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
注解
- παρακαλεῖν: 12節で、悪霊がイエスに願っている時と同じ動詞。悪霊も人間もイエスに願い出るが、両者、まったく質が違うという皮肉が現れている。
- イエスが共にいてくださることがまったく理解されず、あまつさえ「出て行ってくれ」と頼む始末。この対応は、後にイエスを十字架につけて殺せと叫ぶ群衆の姿を先取りしている。同時に、人間のさが。真に人を救う人の辿る運命。
マルコ 5:18
- 原文: καὶ ἐμβαίνοντος αὐτοῦ εἰς τὸ πλοῖον παρεκάλει αὐτὸν ὁ δαιμονισθεὶς ἵνα μετ’ αὐτοῦ ᾖ.
- 私訳: そこで彼が船に乗ろうとすると、悪霊に取り憑かれていた人が、彼と共にいたいことを願った。
- 新共同訳: イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
注解
- ᾖ: εἰμί の接続法・現在・3単。
- 「願った」: 前節で人々がイエスに願ったのと同じ動詞。一方で、イエスがいなくなることを願う人々、もう一方で、イエスと共にいることを願う人々、という皮肉な対照的構図。
- 「一緒に行きたいと願った」: 事実上の弟子志願。 ⠀
マルコ 5:19
- καὶ οὐκ ἀφῆκεν αὐτόν, ἀλλὰ λέγει αὐτῷ· Ὕπαγε εἰς τὸν οἶκόν σου πρὸς τοὺς σοὺς καὶ ἀπάγγειλον αὐτοῖς ὅσα ὁ κύριός σοι πεποίηκεν καὶ ἠλέησέν σε.
- 私訳: しかし、彼は彼に許さず、彼に言った。「あなたの家へひけ、彼らに、主があなたにしたことと、あなたを憐れんだことを告げ知らせるために」
- 新共同訳: イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
注解
- 彼の願いの単純な拒絶ではなく、むしろ弟子のような存在として、彼なりの務めに就かせる招きの言葉。
- ここでの「主」は、直接的には「父なる神」を指すが、「主イエス」も暗示的に含まれると思われる。
- 事実上、異邦人の地における最初の宣教者。
マルコ 5:20
- 原文: καὶ ἀπῆλθεν καὶ ἤρξατο κηρύσσειν ἐν τῇ Δεκαπόλει ὅσα ἐποίησεν αὐτῷ ὁ Ἰησοῦς, καὶ πάντες ἐθαύμαζον.
- 私訳: そうして彼は去り、デカポリス地方で宣教し始めた、イエスが彼にしたことを。すると皆が驚嘆した。
注解
- κηρύσσειν: 教会の宣教を指す動詞が使われている。
- 追い出されたイエスの代わりとなるように、彼がその場で神のことを宣べ伝えるという構図。
<黙想>
<説教の結びの言葉として>
2026年3月28日土曜日
改革派教会 Reformed Church
改革派教会(Reformed Church)
【要約】
宗教改革者であるジャン・カルヴァンの神学的伝統に基づく諸教派の総称であり、「神の言葉(聖書)によって改革された教会」を意味する。教会統治は、会衆によって選出された長老と牧師から構成される長老会(presbytery)によって担われる。制度的には、個別教会を単位とする「小会」、地域的連合体である「中会」、そして全体を統括する「大会(総会)」という三層構造を有する。
【Summary】
A collective term for denominations rooted in the theological tradition of John Calvin. It refers to churches “reformed” according to the Word of God (Scripture). Governance is carried out by a presbytery composed of elders elected by the congregation together with the minister. The system is structured in three levels: the local session, the regional presbytery, and the general assembly (synod).
本文
歴史的経緯
改革派教会の起源は、16世紀宗教改革におけるスイスおよびラインラントを中心とする運動に求められる。特にジュネーヴにおける ジャン・カルヴァン の改革は決定的な影響を与えた。
同時に、以下の人物たちが各地で並行的に改革運動を推進し、改革派の形成に寄与した。
- フルドリッヒ・ツヴィングリ(チューリヒ)
- ヨハン・ハインリヒ・ブリンガー(ツヴィングリの後継者、第2スイス信仰告白)
- マルティン・ブツァー(ストラスブール)
- ジョン・ノックス(スコットランド宗教改革を指導)
- ヨハネス・エコランパディウス(バーゼル)
これら初期指導者の多くは人文主義の影響を受けており、聖書原典への回帰(ad fontes)を重視した点に特徴がある。
信条・信仰問答
改革派教会の神学的特徴は、信条および信仰問答に明確に表れている。代表的なものは以下の通りである。
- 第2スイス信仰告白(1566)
- ジュネーブ信仰問答(1536年・1542年)
- ハイデルベルク信仰問答(1563年)
呼称
改革派教会は文脈に応じて以下のようにも呼ばれる。
- 改革派(Reformed)
- 長老派(Presbyterian)
- カルヴァン派(Calvinistic)
特に、ジョン・ノックス によるスコットランド宗教改革に由来する系統は「長老派」と呼ばれることが多い。
日本での展開
日本における改革派・長老派の伝来は、宣教師 ジェームス・カーティス・ヘボン によって開始された。彼の働きにより日本基督公会が設立され、後の日本基督教会へと発展した。
その後、日本の代表的指導者として以下が挙げられる。
- 植村正久
- 高倉徳太郎
第二次世界大戦後には、国家主導で成立した 日本基督教団 から分離する形で、日本基督改革派教会 や 日本基督教会 が成立した。
猫にもわかる「マタイによる福音書」入門
- 本稿は、「教会学校教案」(福音主義教会連合発行)に2024年4月号から2025年3月号までの期間に掲載された全6回の原稿をもとに再構成したものです。
第1章 「マタイによる福音書は、誰が、いつ、どこで書いたのか」
「マタイによる福音書」の緒論
初回となる今回は、「マタイによる福音書」が、そもそもどのような人によって書かれ、いつ書かれ、どこで書かれたのかについて、お話ししたいと思います。こういった、著者、執筆年代、執筆場所などについての考察を、慣例では「緒論」(「ちょろん」または「しょろん」)」と呼びます。マタイ福音書の内容に踏み込んだ考察や、神学上の特徴といった議論へと広がっていくのに先立つ、その端“緒”となる議論というニュアンスでしょう。横文字では「イントロダクション」、すなわち「導入」のお話となります。
「マタイによる福音書」の本文
聖書の中で福音書と呼ばれる書は、四書あります。新約聖書に配置されている順序では、マタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書、以上です。この中でもマタイ福音書は、二世紀の段階では最も広く読まれた福音書と考えられています。言われてみれば確かに、分量も長く、筆遣いも威風堂々としています。緻密な全体構成に加え、「ほほう」と感心する整然とした全体構想が備わっていて、終始一貫して安定した叙述が際立っています。
「マタイによる福音書」の執筆者
今、「マタイ福音書の著者はマタイに決まっているではないか」と思われている方、きっと少なくないでしょう。教会の正典として定められた聖書でそう記述されているのですから、教会で読む分には、それで差し支えはありません。ただ、学問あるいは科学というものは、よく調べて論理的に考えた場合はどうなのかを問う営みですし、こちらの「特集」記事は、少々学問的な体裁も含むものですので、せっかくなので少しだけ踏み込んでみましょう。
マタイ福音書には今でこそ「マタイによる福音書」という名称が付けられていますが、元々は書名などなく、本文にも著者が誰かという記述は見当たりません。書名は後から付けられたものです。
ここからはちょっと散らかった話になりますが、頭を働かせて読んでみてください。新約聖書二七書が正典として定められる前の古代時代、それでもある程度それぞれの文書はまとめて保持されていたようで、その際、四つの福音書の並び順は、今日のマタイ福音書にあたる福音書が一番先であったことから、「第一福音書」と呼ばれていました。他方、ヒエラポリスの司教であったパピアスという人の言葉に、「マタイはヘブライ語で言葉集を編纂した」とあります。それ以降、恐らくはその記述を参考にして、何人もの司教、神学者が、マタイという人によってヘブライ語の書がしたためられたと書くようになりました。
三世紀前半に活動した教父オリゲネスはこれらの情報を統合し、「第一福音書はかつて徴税人であり、後にイエス・キリストの使徒となったマタイによって書かれ……ヘブライ語で著された」と述べています。なるほど、マタイ九・九以下には、マルコ福音書では「レビ」という名の人物が「マタイ」に書き換えられた形で、収税人であった者がイエスによって招かれて弟子とされた記事が掲載されています。つまりオリゲネスは、【マタイ九・九の収税人マタイ=使徒マタイ=第一福音書の著者】と同定したということでしょう。それ以降、この理解が伝統として根付き、最終的に第一福音書は「マタイによる(福音書)」と名付けられるようになりました。結論として、マタイ福音書の著者は使徒マタイとするのがトラディショナルな見解です。
これで一件落着かと思いきや、この見解には問題点があります。まず、先ほど「ヘブライ語」の書とありましたが、マタイ福音書はコイネー・ギリシャ語で書かれていて、食い違いがあります。また、今日の学術上の一般的な説としては、マタイ福音書の著者はマルコ福音書の現物を読んで、これを大幅に下地にして書いたとされています。そうだとすると、十字架以前のイエスを直接知っているはずの使徒マタイが、直接は知らないで書かれたマルコ福音書を、わざわざ参考にする必要があるのだろうかという疑問が残ります。他にも、細かい点でいくつか問題があります。
以上の通り、【マタイ福音書の著者=使徒マタイ】かどうかは、今となっては検証のしようもありません。ただ、十二使徒のリストでもマタイ福音書はマタイのところに「徴税人」と書き加えてもいますので(一〇・三)、先の九・九以下と併せ、マタイ福音書が「徴税人マタイ」を他の福音書以上に強調していることは、まぎれもない事実です。マタイ福音書の熱い心が、徴税人でありながら弟子とされたマタイに注がれていることを意識しながら読むと、マタイ福音書の説教がより楽しくなるでしょう。
「マタイによる福音書」の執筆年代
まず、マタイ福音書の本文には、本書が執筆された時期について一切明記されていません。ということは、執筆者問題同様、状況証拠から埋めていくしかありません。先ほど、マタイ福音書はマルコ福音書を読んだ上で書かれていると述べました。これが正しければ、マタイ福音書はマルコ福音書の後に書かれたということになります。ところが、マルコ福音書の執筆年代も大いに議論されてきて、紀元六〇〜七〇年としておくのが一般的です。となれば、マタイ福音書はそれ以降であるとひとまずなります。
ところで、例えば坂本龍馬を映画化したものがあったとして、劇中の龍馬の描き方やセリフは、必ずしも当時に忠実ではなく、映画化に際してその時代に発していきたいメッセージが上乗せされる、あるいは反映されるということがよくあります。マタイ福音書もそれと同様で、「執筆時の教会や時代の状況が滲み出ているなあ」と思わせる筆致が読み取れるのです。これらをつぶさに考察していくと、マタイ福音書はどうも、エルサレム神殿の崩壊(紀元七〇年)の後とか(二二・七)、八〇年代中頃にあったユダヤ人によるキリスト教徒追放処分が意識されているとか、言葉のはしばしに感じるところが多々あります。例えば、四・二三で「諸会堂」と訳されている箇所は、原文では「彼らの諸会堂」とあります。「あれ?同じユダヤ人なのに、『彼らの』なんて、まるで他人事みたいな距離感のある言葉遣いだな」と感じます。それで、「そうか、もうユダヤ教とは距離がある状況か」と気付くわけです。これらを丁寧に総合していくと、紀元八〇年代に書かれたと見るのが妥当です。
ちなみに、推定成立年代が百年頃と目されている「ディダケー」などの書が、マタイ福音書の記述を知っているようなので、ということは、マタイ福音書の成立はそれ以前でなければならないとなります。以上、この辺りのものの考え方は、ミステリー小説における犯行推定時刻を推理する探偵のやっていることと、そうは変わりません。
元々はユダヤ人イエスや使徒たちから始まった、ユダヤ教の中でのイエス運動が、迫害を受け、ついに追放処分を受け、そうして分離し、独立したキリスト教が成立するに至った……。その時、マタイ福音書を書いた人、読んだ人たちは、一体どんな闘いをしていたのだろうと、行間からその血と汗を読み取ろうとする営みは、説教を作る際の閃きに繋がっていきます。「『義のために迫害される人々』(五・一〇)って、こういうことか!」といった具合に、聖書の言葉の理解が立体的になります。仕上げに、「そうした迫害との闘いは、現代の私たちにとって、どんな意味があるのだろう」と思い巡らすのです。そうすると、例えば他の箇所での「恐れるな」という主イエスのみ言葉に、「そうか、結局、神以外のものを恐れるなということか」といった閃きが生まれ、み言葉に血と肉が付いていくのです。教会学校向けの説教はともかくとしても、大人向けの立派な説教が、「彼らの」というわずか一言から、自ずと湧き出してくるではありませんか。
そう、私が今ここで述べていることは、神の言葉の立体化、血肉化へと目指すものです。「そんなことはどうでもいいから、手っ取り早く来週の説教のコツを教えて」というのも人情でしょうが、こういった余計とも思える情報の一つ一つの蓄積、そして反芻が、深いメッセージを地中から掘り出す結果へと導いていきます。手っ取り早さから、奥深い説教は生まれません。
「マタイによる福音書」の成立場所
マタイ福音書は、一体どこで書かれたのか。これもまた例により、本文中の記載は一切なく、状況証拠のみからの推理となります。まず、本書は「コイネー・ギリシャ語」で書かれていると先ほど述べました。よって成立場所は、その言語が使われているエリアでなければなりません。次に、マタイ福音書は他のどの福音書にもまさって、律法を重んじています(一例として五・一七「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく……完成するためである」)。同時に、ユダヤ人の慣習に詳しく、その知識を前提としています。ということは、この福音書の読者にはユダヤ人が多く含まれていると。それでいて、イエスが活動されたガリラヤを含むパレスティナの地理の書き方に、知識の乏しさを感じます。その他、本書におけるペトロの重要性の強調や、本書を最初に引用した古代文書の成立場所、初期キリスト教会の教会分布図などを加味すると、「シリア」という説が最も一般的でしょう。
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第2章 マタイによる福音書の神学的特徴
一 はじめに
まずは今回の副題をご覧ください。あえて「神学的」と書いています。素直に「内容的特徴」と書いても事足りはするのですが、せっかくのこういう特集記事ですし、この連載の先もまだまだ長いので、「神学」についてザックリお話ししておきましょう。
一・一 「神学」とは
ある観察対象や現象があった場合、よく「科学的に考察する」などと言ったりします。科学的とは広い意味では「学問的」ということで、学問的とは「論理的」と言っても良いでしょう。信仰をもたない人であれ誰であれ、ロジックで納得のいく説明をつけられることが、科学的という意味です。なお、厳密な定義としては、再現性や反証可能性などが求められますが。
ところが、教会は論証できない神の存在を信じている一方で、世の中にはそうでない人がいます。このままだと教会の学は学問になりません。それでは話が進みませんから、神の存在や啓示された真理は前提とした上で、その上でキリスト教の信仰内容などに関する考察を深めていきましょうという営為こそ、「神学」に他なりません。ちなみに、イスラム教やユダヤ教でも神学と呼ばれ、仏教や神道では教学、宗学と呼ぶのが一般的な慣例です。もう一歩踏み込んで言えば、神学とは私たちの教会という領域の中で、神の真理に関する考察を深めることを指します。この記事の立ち位置は、こちらになります。
一・二「福音書の特徴」という考え方
根本的な話から始めたいと思いますが、そもそも「特徴」というのは、対象が一つだけでは成り立ちません。例えば、今この記事を読んでくださっている「あなた」の「特徴」は、他の誰かと比べた時に初めて際立ってくるものです。もし世界中にあなた一人であったなら、他の生物と比較しての人間の生物学的特徴は出てきても、あなた個人の人格については論じられません。これと同様に、マタイ福音書を教会以外の思想と比較することはできますが、ここで論じていく「特徴」とは、他の福音書と比較した時に明瞭となる、いわばマタイ福音書の人格になります。
ということで、マタイ福音書と比較する書は次の三書、すなわち、マルコ福音書、ルカ福音書、ヨハネ福音書です。ただしヨハネ福音書は、他の三書とは構想からして大幅に異なっていて、独特なおもむきの福音書となっているので、比較対象として触れられることは少なくなります
二 「マタイによる福音書」の神学的特徴
マタイの特徴を細かく挙げていくと、それこそ「枚挙にいとまがない」ので、今年度のカリキュラムで扱う範囲で、皆さんの説教準備に役立つ形で紹介したいと思います。
【一】旧約聖書との繋がりを強調。【二】パウロとも微妙に異なる律法理解と律法重視、<律法の創始者モーセ、律法の完成者イエス>。【三】キリストの弟子としての教会。【四】イスラエルの継承者としての教会。【五】古いイスラエルから迫害を受ける、新しい教会。【六】教会の世界宣教の展望。
「話が散らかって、こんなの頭に入らないよ」という方も多いと思いますが、これらは皆、一本の紐で繋がっているので、いったん頭に入ってしまえば、あとは楽です。
二・一 「教会」
まず、上記の箇条書きでも「教会」という語が何度も現れている通り、マタイ福音書の基本的な特徴は、「教会」が明瞭に意識されていることです。マタイ、マルコ、ルカにおいて、ヨハネを含めても「教会」という語を使っているのはマタイだけです。もっとも、その回数は三回と多くはないのですが、その理由は、福音書の舞台設定が教会誕生以前のイエス時代だからです。にもかかわらずマタイ福音書では、主イエスの口から「教会」という単語が出てくることはとても特徴的であり、意義深いです。ちなみに、ルカ福音書と使徒言行録の執筆者とされるルカは、ルカ福音書では同語を使っていない一方、使徒言行録の方では一転して二〇回以上使っています。切り替えが徹底していてすごいです。
二・二 イスラエルを継承する「教会」
次に、マタイにとって「教会」とは、イスラエルの民、旧約の民に取って代わり、今やその正統性と歴史を受け継ぐべき存在とされています。そして、それは教会の「かしら」であるイエス・キリストから既に始まっていたというのが、マタイの主張です。こうしてマタイは、旧約聖書の言葉を頻繁に引用しつつ、旧約とキリスト、イスラエルと教会との連続性を強調します。そして、旧約の根本要素である預言、律法、イスラエルなどを、新約の福音の光のもとで再定義していきます。さらに、キリストは単なる旧約の継承者に留まらず、モーセによって始まった律法、その完成者として示されます(五・一七「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである)。
二・三 キリストの弟子としての「教会」
十二人の使徒たちも含め、キリストの弟子たちは「教会」とされます。ペトロがその教会の「岩」とされている点も、マタイ福音書の大きな特徴の一つです(一六・一八「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」)。こうして、【新しいイスラエル=教会=キリストの弟子たち】という図式が出来上がります。
二・四 古いイスラエルから迫害される「教会」
前回の「特集」第一回で述べた通り、マタイ福音書の筆致から推察して、当時の教会はユダヤ人からの迫害、追放、そして分離を経験していたようです。いわゆる「山上の説教」(五〜七章)において、主イエスの言葉に「迫害」という語がたびたび現れるのは、そうした状況を反映しているものと考えられます(五・一〇「義のために迫害される人々は、幸いである」、五・一一、五・一二「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」、五・四四)。また、他の福音書と比べて、同語の使用回数も多い傾向にあります。ちなみに、五・一二の「あなたがたより前の預言者たちも」というくだりには、旧約との繋がりが意識されています。また、五・四四(「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」)は、旧約の隣人愛を超えるもの、すなわち旧約の“律法を超えて完成へ”と向かうイエスの教え、という意識が滲み出ています。
二・五 世界宣教へと向かう「教会」
新しきイスラエルとしての教会、キリストの弟子たちとしての教会は、ユダヤ民族という枠を越えて、世界へと羽ばたいていきます。それこそ、かの有名な二八・一八〜二〇のみ言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」復活のイエスが、「山」で弟子たちに語られたものです。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」という、言わずと知れた「大宣教命令」ですが、これまで出てきた旧約、律法、イスラエルの継承、新しき教会、弟子たち…、すなわち、マタイ福音書の全ての伏線が、最後の一節に集約され回収されて大団円を迎えるという、この構成の見事さよ!古代時代のキリスト者が、「第一福音書」と位置付けたのも納得の構成です(四月号収録の「特集」第一回を参照)。構成の素晴らしさもさることながら、今の私たちが、マタイで示された教会、キリストの弟子として、リアルに生きているということに、胸が熱くなりますね。
三 「マタイによる福音書」の弟子論
さて、先ほどのマタイの特徴として挙げた【一】から【六】はロジック上の順番でもあるのですが、同時に、皆さんがただいま辿っているところのカリキュラムの順序も意識したものとなっています。七月のカリキュラムに割り当てられている聖書箇所には、「弟子」について述べられている記事が多く含まれます。しかし、今回の残りの紙面は既に残り少ないです。そこで【一】と【二】のもう少し詳しい解説は次回以降に回し、【三】の弟子論の視点から、七月分のいくつかの箇所を見てみましょう。
三・一 徴税人マタイ
七月七日分の箇所である「主イエス、マタイを弟子にする」は、徴税人であったマタイが主イエスの弟子として招かれるという、いわゆる「マタイの召命」記事のところです。先の「特集」第一回でも述べた通り、マルコ福音書では「レビ」と明記されている人物が、マタイ福音書では「マタイ」と記されているという、マタイ独自の箇所でもあります。マタイにしかない要素ということは、マタイの特徴をよく表してるということです。伝統的な解釈では、【この徴税人マタイ=使徒マタイ=マタイ福音書の執筆者マタイ】と同定されてきましたが、問題点も指摘されていて、マタイ福音書の執筆者が使徒マタイかどうかまでは定かではありません(この点についても「特集」第一回をご覧ください)。しかし、マタイ福音書が、徴税人としての過去を持つマタイを重視していることは間違いありません。忌み嫌われ、神の救いから遠いとされた者が、キリストに招かれ、弟子とされて再生するのだというコンセプトがマタイ福音書にはあるという点は、説教を準備する際いつでも意識しておいて損はありません。
三・二
弟子たちが主イエスによって町や村に派遣されるという七月二十一日分は、内容がほぼ同じの記事が、マルコ福音書、ルカ福音書にも見られます。こういうものを、専門用語で「並行箇所」と呼びます。この箇所のマタイ福音書オリジナルの要素は、五節から八節となるかと思いますが、「イスラエルの家の失われた羊」を筆頭に、「天の国」という表記や旧約を意識した書き方など、マタイの特徴が満載です。
最後に
いかがでしたでしょうか。「頭がパンパンです」という方は、キリストは旧約・律法の完成者で、教会はイスラエルの後継であること、要するに“新約は旧約の続き”という私たちにとって当たり前の事柄が、とてもとても意識して書かれているのだと思っていただければ、とりあえずオーケーです。いっぺんに分かろうとせず、「マタイは旧約との繋がり重視だな、教会重視だな」といった具合に、ふわっと、まるっと掴んでおいてください。
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第3章 共観福音書問題
はじめに
今回は、表題の通り「共観福音書問題」について解説します。成人の方の礼拝説教の中で、例えば「並行箇所のマタイでは……」とか「マルコではこうありますが、マタイではこう書かれています」といったセリフを耳にしたことはないでしょうか。本誌の「テキスト解説」でも、しばしば見られます。そういう時、きっと皆さんの多くは、ピンと来ないまでもなんとなく「マタイやルカでは同じような記事があって、それらを比較しているのだろう」と考えるでしょう。この背後には、通称「共観福音書問題」が横たわっています。そこで今回はこの際、この問題について一から十までまとめてお話ししたいと思います。マタイ福音書だけに関わる問題ではありませんが、「マタイ福音書で説教」となると、結局、マルコやルカとの比較は避けられませんし、そうした違いが生じてくる背景を知ることで理解も深まりますので、最後までお付き合いいただければ幸いです。
一 「共観福音書問題」とは
まず、そもそも共観福音書ってなに?という話からしなければなりません。時は遡って三世紀とか四世紀以降のお話です。マタイ、マルコ、ルカという三つの福音書が書かれ、それらが正式に新約聖書正典として定められる前後の時代から、昔の人たちは不思議に思っていました。「なんか、三つの福音書って似てない?ヨハネは全然違うけど」と。確かに、例えば「嵐しずめ」と呼ばれる有名なイエスの奇跡物語を見比べてみると、ほぼ同じという箇所もあれば、表現が微妙に違ったり、さらには大きく異なる部分もあったりすることに気づきます。それから、三つの福音書の記述を抜き出して並べて、一枚の紙上で見比べられるようにと、「共観表」(「シノプシス」)というものが作られました。「シノプシス」は、「共に(同時に)見る」という意味のギリシャ語に由来します。「(三つの福音書が)共に観られる(一覧)表」ということです。この「共観表」から、三福音書は「共観福音書」と呼ばれるようになりました。
では、いったいなぜ、三つの福音書が互いに似ていると同時に違ってもいるのか、その理由が問題となります。この講座の第一回で、古代時代からマタイ福音書が「第一福音書」と呼ばれていたと述べました。内容も一番とされ、各福音書の並び順も一番目だったからです。そのこともあって、アウグスティヌスなどもそう考えたようですが、きっとマタイが先に書かれて、後からその縮約版としてマルコが書かれ、、他方、アレンジ版としてルカが著されたのだと思われるようになりました。めでたしめでたし、これで疑問も解決とばかりに、それ以降、この問題を深掘りする人はいなくなったのでした。
ところが、時はめぐり、近代化の波が押し寄せるようになった十八世紀後半になると、科学的視点で聖書を分析する動きが生じてきました。そして、長きにわたる眠りから、突如として「共観福音書問題」は目覚めたのです。
二「共観福音書問題」の解決へ
ここで、皆さんは学校の先生になったつもりで、三名の学生のレポートを採点するイメージをしてみてください。一部、ほぼ丸写しの部分が見られることから、レポートの「剽窃」を疑うあなたですが、言葉遣いが異なる部分もあれば、全くのオリジナルの記述もあります。一体、三人はどのように写し合いっこをしたのか。はたまた、四人目のゴーストライターがいるのか。あなたはこの事件の真相をあばくことができるか……共観福音書問題は、そんなミステリーに置き換えることができます。
まず、レッシングとアイヒホルンという人は、当時の言語であるアラム語で書かれた福音書があって、マタイやマルコたちはそれを翻訳したのだ、と考えました。でも、翻訳ならば三人とも、もっと似ていてもよいはずですよね。
次に、シュライエルマッハーは、メモ書きのような断片が散らばっていて、三人はこれらをそれぞれ寄せ集めて福音書を書いたのだ、と考えました。いい線いってそうですが、それにしては三つの福音書の記事を並べて見てみると、記事の並び順が妙に一致しています。それぞれがメモ書きを集めたのなら、もっと順序が違っているはずです。
それならばと、今度はヘルダーとギーゼラーが、当初は口伝えの伝承(口頭伝承)であったものを、翻訳を経て三人が福音書に編纂したのだと推測しました。しかし、これは先のメモ書き説と大して変わりません。やはり、丸写しにしたような逐語的な一致と、記事の並び順の一致から考えると、どうやらメモや口頭伝承の単なる寄せ集めではなく、三者で見せ合いっこ的なことをしたのでは……という推理へと導かれるのです。
そこで現れたのがグリースバッハです。古代の神学者も考えたところの、マタイが最初に書かれてマルコとルカがマタイをアレンジしたという伝統的な説を、近代版に甦らせました。ところが、これにはすぐさまツッコミが入りました。この推理では、マタイにあるとても重要な記事を、マルコやルカがいとも簡単にカットしていることになってしまう、その理由を説明できないからです。
そうして暗礁に乗り上げ、事件の捜査が振り出しに戻ったある日、ラッハマンは三福音書の記事の並び順をしげしげと見ていました。そのとき閃いたのです。「事件はマタイで起こるんじゃない、マルコで起こっているんだ!」と。すなわち、マルコが最初に書かれ、マタイとルカがそれを参考にして福音書を書いたのだろうと。この推理にはヴィルケとヴァイセも同意しました。しかし問題は、マルコにはなく、マタイとルカにだけ見られるキリストの言葉がたくさん存在することです。しかも、記事の配列も双方似ています。「マルコ以外に、もう一つ、未知の書があるはずだ。」
そんな彼らの思いを形にしたのが、ホルツマンです。彼は、マタイとルカが参考にしたプロトタイプマルコの存在と同時に、マタイとルカだけが参考にしたであろう、キリストの言葉集のような資料(通称、Q)の存在を想定しました。今日に至ってなお、その原文も写本も発見されていない全くの理論上の資料で、まるでミスターXのようです。それでもこの仮説には、「真実はいつも一つ。これがそれか」、と巷も騒然となりました。その後、マタイだけ、またはルカだけに見られる記事を別立てとする調整案が、ストリーターによって提唱されました。こうして、ついにこの事件は、九分九厘の解決へと至ったのです。「謎は全て解けた。」現在、学説の大半は、マルコが最初に書かれ、マタイとルカはマルコおよび先の言葉集と共に、それぞれ独自の資料を用いて著したという説に落ち着いています。
マルコ+言葉集+マタイ独自資料 =マタイ福音書
マルコ+言葉集+ルカ独自資料 =ルカ福音書
三 実際に違いを見てみよう
三・一 「嵐しずめ」の奇跡物語をサンプルに
「四資料仮説」とも呼ばれる以上の説は、学問上の仮説に過ぎません。ただ、これまでの講座を通じて述べてきたことの一つは、マタイの特徴をしっかり掴みつつ、マタイをガッツリ語るために、マルコやルカとの違いをしっかり意識することが必要ということです。理由はなんであれ、共観福音書で同じところもあれば、明確に違っているところもあることは事実ですから、ともかくもその事実認識だけは欠かせません。
さて、ここからは実例を取り上げてみましょう。最初に、先ほども触れた「嵐しずめ」を見てみると、マルコ四・三十五〜四十一では劇的に物語られている一方、マタイ八・二十三〜二十七では、ちょっと短くなっています。先の仮説に準じて言えば、マタイはマルコを参考にする際、マルコの尺を短くしたということになります。実際、他の箇所でもマタイは、マルコの物語描写や展開をシンプルにする傾向があります。マタイ先生が「もっとシンプルでいいんだよ……」と呟きながら自分の福音書を書いている姿を想像すると、なんだか笑ってしまいます。
他には、マルコでは弟子たちが「まだ信じないのか」と主イエスに叱られているのですが、マタイ八・二十三〜二十七では、「信仰の薄い者たちよ」、原語のコイネー・ギリシャ語では「信仰のちっちゃい者たちよ」とあります。マルコでは信仰があるかないかの問題で、「まだ」ないとでも言いたそうです。そもそもマルコは白黒つけた考え方や言い方が好みです。他方、マタイでは信仰が量的に表現されていると。それならルカ八・二十二〜二十五ではどうかというと、なんということでしょう、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」となっています。信仰はあるけれども、どっかにすっ飛んでしまっているという理解です。以上の通り、信仰論が三者三様で異なりますから、どの福音書で説教をするかによって、語り口も違ってきますよね。
もう一つ、マルコでは「おぼれ(死んでも)かまわないのですか?」というセリフが、マタイやルカでは「おぼれ(死に)そうです」と書き直されています。私は、「見捨てるつもりですか?」と言わんばかりのマルコのキツい言い回しが好きです。
三・二 「安息日の主」の記事をサンプルに
いかがでしょう。これが「利き酒(ききざけ)」ならぬ、「利き共観福音書」です。マタイだけとは言わず、マルコでもルカでも説教したくなりますよね。さて、紙面もわずかですが、あとちょっとだけコメントして終わりましょう。
マタイ十二・一〜八は、元の箇所がマルコ二・二十三〜二十八で、読み比べてみてください。ところどころ、はしょられているでしょう?しかし最大の違いは、マルコの「安息日は、人のために定められた」が削除されている点です。マルコの言い回しだと、律法軽視に繋がりかねない危険がありますが、マタイはそれを修正して、律法は用済みではなく、キリストによって律法が完成される点を前面に出しています。また、「わたしが求めるのは憐れみであっていけにえではない」という文言も追加されています。
最後に
ここまで読んでいただいてありがとうございます。皆さんがこれからの説教者ライフで、「利き共観福音書」を楽しまれることを願っております。
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