「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」
(『信徒の友』2018年11月号所収)
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」
(『信徒の友』2018年11月号所収)
(『信徒の友』2018年4月号ー2019年3月号所収)
日本基督教団茨木春日丘教会(礼拝堂の建物名「光の教会」)牧師
大学非常勤講師(宗教学、キリスト教学、キリスト教倫理)
ヨハネ福音書は、共観福音書に特徴的な例え話(παραβολή)、すなわち農業など日常的事象を素材とする比喩的教説を、基本的には採用していない。もっとも、比喩表現そのものが完全に排除されているわけではなく、ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)、8:12(世の光)、11:25(復活と命)に見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的・象徴的講話(παροιμία、10:6)を独自に導入している点は注目に値する。
以上の不採用と導入は、共観福音書、特にマルコ4章に典型的に見られる「聞く者/悟る者」という例え話の受容構造からの意図的転換を示している。ヨハネにおいて一転して中心化されるのは、教えを「理解する」主体ではなく、イエスを「信じる」主体である。すなわち、例え話を通した段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。
この神学的重点の移動は、「信じる/信じない」という二分法的構図として福音書全体に体系的に配置されている。ヨハネ1:12では、信じる者に「神の子となる権利」が与えられ、3:16–18では信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。3:36においては、信仰の有無が命の有無に直結することが明言される。さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」の神学も、理解よりも信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。6:29においては、「神の業」が明確に「遣わされた者を信じること」と定義される。これらは20:31――「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスを信じるためである」――において、福音書全体の目的として総括される。
この信仰中心の構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群においても顕著である。サマリアの女(4:39–42)、生まれつきの盲人(9:35–38)、マルタの信仰告白(11:25–27)、そしてトマスの告白(20:24–29、とりわけ20:28「わたしの主、わたしの神」)は、いずれも理解の深化ではなく、イエスの人格的な出会いを経て、人格的応答としての信仰告白へと導かれる物語である。
同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリア、トマスといった個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び合わせられている。
以上を総合すると、ヨハネ福音書は、
・例え話(聞く/悟る)から、象徴的講話(信じる)へ
・弟子の無理解から、信じる/信じないの二分法へ
・集団への顕現から、個人への顕現へ
という一連の神学的再構成を行っていると言える。結果として、理解と無理解のモティーフは後景化され、信じることと信仰の決断そのものが、ヨハネ福音書全体を規定する原理として前景化されている。
イエスの最後の晩餐および受難死の日付をめぐる記述は、共観福音書とヨハネ福音書の間で顕著な差異を示す。本稿では、両者の相違点を整理し、その背景にある神学的意図を検討するとともに、歴史的観点からどの記述が史実に近いと考えられるかを論じる。
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)は、最後の晩餐を過越の食事(Seder)として描写する。この描写は、イエスがパンと杯を弟子たちに分け与える行為を通して、相互奉仕の精神および自己犠牲的愛の模範を示すという神学的意図を有している。特に、パンと杯の制定は、後のキリスト教共同体における聖餐(エウカリスティア)の起源として理解される。
一方、ヨハネ福音書は、最後の晩餐を過越の食事として描かず、代わりに弟子の足を洗うイエスの姿を強調する(ヨハネ13章)。ここでは、イエスの奉仕の精神が象徴的に示され、共同体倫理の基礎が提示されている。
共観福音書によれば、最後の晩餐は過越の食事としてニサン月15日の夜に行われ、その翌日、すなわち過越祭の最中にイエスは十字架刑に処される。この構図は、最後の晩餐と聖餐の制定を密接に結びつける神学的意図を反映している。
これに対し、ヨハネ福音書は、イエスの十字架刑を過越祭の準備の日(ニサン月14日)に位置づける(ヨハネ19:14)。すなわち、過越の子羊が屠られる時刻にイエスが死に至るという構図が描かれる。この日付設定は、イエスを「屠られる過越の子羊」として理解するヨハネ神学の中心的主張と一致する。
ヨハネ19:36において引用される「その骨は一本も折られない」という記述は、出エジプト記12:46における過越の子羊の規定を想起させ、イエスの死が過越祭儀の成就であることを強調する。
共観福音書は、最後の晩餐を過越の食事として描くことで、聖餐の起源と新しい契約の制定を中心に据える。一方、ヨハネ福音書は、イエスの死を神殿祭儀の完成として位置づけ、神殿犠牲制度の終焉を宣言する神学的構図を採用する。
このように、両者の相違は単なる年代記的矛盾ではなく、それぞれの福音書が有する神学的目的の違いに由来するものである。
歴史的観点からは、過越祭当日に死刑が執行される可能性は低いと考えられる。ユダヤ当局およびローマ当局は、祭りの混乱を避けるため、重大な処刑を祭日中に行うことを避けたと推測される。この点から、多くの研究者は、ヨハネ福音書のニサン月14日説の方が史実に近いと判断する傾向にある。
すなわち、ヨハネは共観福音書の伝承をそのまま踏襲せず、神学的意図に基づいて受難日を再構成し、イエスの死を過越祭と重ね合わせることで、キリストの死を救済史的クライマックスとして描き出したと考えられる。
最後の晩餐および受難死の日付をめぐる共観福音書とヨハネ福音書の相違は、単なる歴史的矛盾ではなく、それぞれの福音書が有する神学的意図の違いに起因する。共観福音書は聖餐の制定を中心に据え、ヨハネ福音書はイエスを過越の子羊として描くことで、神殿祭儀の完成と終焉を強調する。歴史的観点からは、ヨハネの記述がより合理的であると評価されるが、両者の相違は初代教会における多様なキリスト理解を反映するものとして重要である。
以上に見た受難日を巡る相違は、2世紀に顕在化したいわゆる「復活日論争(クァルトデキマン論争)」と深く結びついていると考えられる。小アジアの諸教会においては、ニサン月14日を復活祭日として祝う慣習が広く定着していた。この慣習に従えば、復活祭は曜日に関わらず、毎年ニサン月14日に固定されることになる。一方、ローマ教会をはじめとする多くの西方教会では、ニサン月14日以降に到来する最初の日曜日を復活祭日とする伝統が確立していたため、両者の間に典礼上の齟齬が生じるようになった。
154年頃、使徒ヨハネの弟子と伝えられるスミュルナの監督ポリュカルポスがローマを訪れ、当時のローマ司教アニケトゥスと会談した際、この問題は初めて公的な形で議論された。両者は互いの慣習が使徒的伝承に基づくと主張しつつも一致には至らず、しかしながら交わりを断つことなく相互の伝統を尊重したと伝えられる。この出来事を契機として、復活祭日をめぐる議論は以後数世紀にわたり継続することとなった。
小アジア教会とローマ教会の間に生じた教会論的相違と緊張関係は、単なる典礼日程の不一致にとどまらず、共観福音書伝承よりもヨハネ伝承を濃厚に継承する小アジア側の神学的傾向に由来すると考えられる。すなわち、ニサン月14日を重視する小アジアの伝統は、イエスを「過越の子羊」として描くヨハネ福音書の受難日理解と親和性が高く、これがローマ側の復活中心の典礼理解と対照をなしていたのである。このように、復活日論争は、初期教会における典礼理解・福音書伝承・教会論の多様性が交錯する場として重要な意義を持つ。
第2パウロ書簡とは、パウロ自身が執筆したと判断されている、いわゆる「真正パウロ書簡」とは異なり、パウロの弟子や後継者、あるいはパウロ系の共同体が、パウロの思想を継承しつつ、パウロ書簡を模倣する形で執筆した書簡群を指す学術用語である。
一般的には、以下の6書が第2パウロ書簡とされる。
エフェソの信徒への手紙
コロサイの信徒への手紙
テサロニケの信徒への手紙二
テモテへの手紙一
テモテへの手紙二
テトスへの手紙
第2パウロ書簡はパウロ書簡を元に執筆されるので、パウロ書簡成立以降の成立も考えられるが、通常はパウロの死後からしばらく、早くて60年代後半以降、遅くて牧会書簡(1テモテ、2テモテ、テトス)の成立時期と推定される1世紀末とされる。
レジュメ
新宗教・新興宗教シリーズ【金光教】
種別:幕末期に創唱された新宗教で、教派神道13派の一つ
*教派神道:幕末から明治初期に掛けて成立した神道系の新宗教のうち、第2次世界大戦前、国家公認された教団。(1) 神道大教、(2) 神理教、(3) 出雲大社教、(4) 神道修成派、(5) 神道大成教、(6) 実行教、(7) 扶桑教、(8) 御岳(みたけ)教、(9) 神習(しんしゅう)教、(10) 禊(みそぎ)教、(11) 黒住(くろずみ)教、(12) 金光教、(13) 天理教。
*創始者:赤沢文治(あかざわぶんじ)
教団内での神的呼称:金光大神(こんこうだいじん)
生神金光大神(いきがみ・こんこうだいじん)
位置づけ:教祖。根源神のはたらきの具現化。(天理教の中山みきに対応)
明治16年逝去
*本部:岡山県浅口(あさくち)市金光町大谷
教団名が市町村名に影響を与えた数少ない例
*後継者 金光宅吉 いえよし
明治26年逝去
金光摂胤 せつたね 昭和38年逝去
金光鑑太郎 かがみたろう 平成3年逝去
金光平輝 へいき
昭和21年まで取次者と呼称し、以降は「教主」としている。
現教主:第六代教主 金光弘道(ひろみち)2021年就任
後継者については、血縁による継承が中心だった過去から、現在は選挙による選出も採用されている。
*宗教法人:昭和27年、宗教法人令による宗教法人化
*名称 明治18年 神道金光教
明治33年 金光教
*公称信徒数約 43万人(2000年)
*信仰内容、歴史をざっくり一言
金神(こんじん)を信仰。元々はたたり神的に忌避された神。
1856年に教祖が立教神伝を受け、布教に専心。 金神を「天地の祖神、愛の神たる天地金乃神(かねのかみ)」と説く。 その後、弾圧を受けつつも、西日本を中心に拡大。
本部広前(ひろまえ)会堂にて、以下の神々を祭祀
天地金乃神(てんちかねのかみ)
宇宙根源の普遍神。万物のいのちの源。
生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)
根源神の働きの具現化、世に現れた神=教祖
(天理教における教祖中山みき)
(他方、幸福の科学では、大川隆法自体が神=エル・カンターレ)
1814年 赤沢文治、備中 岡山県西部に生まれる。
1855年 喉の大病を患い、神への非礼を改め、癒やしを得る。
以降、神の意志を知ることができるようになる。
1856年10月21日 立教神伝 啓示ないし召命を受ける。農業の仕事を放棄し、伝道活動を開始。「取次」に専念。
「取次」とは 神の意志を人々に伝え、人々が神に仕えて生きるよう執りなし手となること。金光教における宗教活動の中心。
以降、教勢は拡大。備中、備前、備後に展開。ついで、山口、大阪へ。
1868年 赤沢文治、神号「生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)」
1873年 神名が「天地金乃神(てんちかねのかみ)」とされる。
1883年 赤沢文治(生神金光大神)、逝去
教団が神道事務局(後の神道本局)所属の金光教会となる。
1900年 所属から離れ、「金光教」として独立
佐藤範雄、赤沢文治から聞いた教えを編纂。教義と組織整備。
1912年 管長選任規定が世襲制に変更
取次制度重視の方向性との兼ね合いの問題
後の内部問題の火種に
取次信仰——取次をする人の霊的力量。
他方、運営の力量。どちら優先?
「昭和9年10年事件」1934-35年
国家神道体制下での金光教弾圧事件(内務省、特高警察)
国家神道に対抗する恐れがあるとして
昭和10年 教規規則改正。取次の意義の明文化
昭和16年 金光教新体制確立運動
管長選挙の実施(世襲制からの変更)
金光摂胤(せつたね)が当選
→管長と取次をする祭司的役職が一人に統合
いわゆる、運営の王的職務と、祭司的職務の兼ね合い
昭和22年 教祖伝記奉修所の設置
戦後、信教の自由の回復。研究と、むしろ信仰の実践のため
昭和24年 教制審議会の設置
「生神金光大神取次」の実現のため
御取次成就信心生活運動 上記の流れを継承している
昭和28年 教祖伝記『金光大神』公刊
昭和34年 本部広前祭場 完成
昭和48年 本部広前会堂 完成
昭和55年 布教体制の強化を企図して教規改正
昭和56年 東京布教センター開設
昭和58年 本部総合庁舎 竣工
『金光教教典』公刊
儀式関係の文言や祭服を、金光教独自にものに変更
昭和62年 『金光新聞』創刊
現在 一時の大規模布教活動、教団規模の拡大から、
個人の信仰と密着、寄り添い、導き。地域密着を重視する方法
「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」 (『信徒の友』2018年11月号所収) 今回のエピソードは、エルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を、イエスが激しい振る舞いをもって追い散らしたというショッキングな出来事です(マタイ21・12-1...