「1890年日本基督教会信仰の告白」注解 第6回
【本文】
「往時の教会は聖書によりて左の告白文を作れり。我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す。」
【現代語訳(私訳)】
「昔の教会は、聖書に基づいて次(後続の「使徒信条」)の(信仰)告白文を作りました。私たちもまた、聖徒たちが受け継いできた信仰の道に従い、讃美と感謝をもってその告白に同意します。」
【牧師、神学的素養のある人向け解説文】
1. 注解
- 「往時の教会は聖書によりて告白文を作れり」:使徒信条、ニカイア信条などは、教会が歴史的教義論争の中で、聖書に基づきつつ教会が形成した規範的文書。よって、信仰告白文(信条)は啓示そのものではないし、聖書と同一の権威を持つものではないが 1、ひいては、聖書における聖霊の働きによる神の啓示を指し示すもので、その信仰内容を要約したもの。
- 「聖書によりて」:ウェストミンスター信仰告白1章の内容と一致する。聖書が信仰と生活における唯一最高の規範であること。
- 「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」:おそらく、ユダ書3節 を背景にもつ表現である。「ひとたび聖徒に伝えられた信仰」(ἅπαξ παραδοθείσῃ τοῖς ἁγίοις πίστει)。
- 「ひとたび(ἅπαξ)」の意味:新しい信仰内容を作り出さないということで、 これは直接的には信仰内容の既・決定性を指す表現であるが、改革派神学においては、そこから正典啓示の完結性が含意されてきた。(→信仰内容の”今更後出し”はない)。同時に、聖書は「正典」(カノン)として既に完結しているので、聖書文書を新たに追加しないことも含意する(同時に、減らしてもいけない、改変してもいけない)。
- 「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる……讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す」:先の「往時の教会」と共に、使徒時代以来、聖書に基づいて信仰を告白してきた公同の教会(普遍教会)との歴史的連なりを示す。自分たちもまたそれに連なることが表明されている。
2. 内容解説
この冒頭文は、信仰告白の内容そのものではなく、「信仰告白する主体と態度」を定義する序文である。 次の三点が強調されている。
- 信仰告白の規範性の根拠は聖書であること
- 信仰告白は歴史的教会との連続性の中で受け取られること
- 信仰告白行為は強制ではなく、神を前にしての主体的な同意——「讃美と感謝」——であること
2.1. (告白の規範性の根拠は聖書であること)について
この箇所の手前の本文において、次のことが述べられていた。
- 聖書は古の預言者、使徒、聖徒たちの手を通して書かれたこと
- 彼らは、聖霊なる神の導きによって、聖書文書をしたためたこと
- 聖書は、信仰上のことについて、最上の権威を持つこと
以上を受けて、聖書は、信仰告白文の源泉であり、同時に内容上の是非を審判するのは、聖書であることが確認されている。
2.2. (告白は歴史的教会との連続性の中で受け取られること)
- 「往時の教会」「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」という表現は、 信仰告白が使徒時代以来の普遍的教会の歴史的連なりの中に位置づけられていることを示す。
- ここで想定されている教会は、特定の時代や地域に限定された教会ではなく、 福音を受け継いできた歴史的・普遍的教会(ecclesia catholica、「エクレシア・カトリカ」今日のカトリック教会の原義)である。
- 信仰告白は、新たな教理を創出する行為ではなく、既に教会において受容・保持されてきた信仰を、自らの信仰として受け取る行為である。
- この理解は、信仰を純粋に個人的・主観的なものとする傾向を抑制し、信仰が本質的に共同体的・継承的性格を持つことを明確にする。
- 「聖徒がかつて伝えられたる信仰の道」という表現は、ユダの手紙3節の「ひとたび聖徒に伝えられた信仰」を想起させ、信仰内容が恣意的に変更されるべきものではないことを示唆する。
- ここでの「伝えられた信仰」とは、教会に託された遺産(traditio)として守られ、解釈され、継承されるべきものである。
- したがって、この連続性の強調は単なる伝統主義ではなく、聖書を規範としつつ、歴史的教会の証言に謙虚に連なる信仰姿勢を表している。
- 個々の信徒や一教派が信仰の最終的裁定者となるのではなく、聖書のもとで、歴史的教会の告白に耳を傾ける態度がここで肯定されている。
小結: これは、日本基督教会が自らを「新宗派」ではなく、「普遍的教会の正統的継承者」として位置づけようとする自己理解を明確に示すものである。
2.3. (告白行為は強制ではなく、神を前にしての主体的な同意——「讃美と感謝」——であること)
- 本文は、信仰告白を「命令」や「強制」としてではなく、神を前にした主体的な応答行為として位置づけている。
- 「同意を表す」という表現は、告白が単なる形式的追認や制度的服従ではなく、理解と承認を伴う意志的行為であることを示す。
- 信仰告白の主体は「我ら」であり、(「我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ」の「我ら」) 教会として共同的に告白する一方で、各信徒が自らの責任において個人的にその告白を引き受けることが前提とされている。
- 「讃美と感謝をもって」という句は、告白が神学的命題の確認にとどまらず、 礼拝的行為、信仰的営為であることを明確にする。
- ここでの「讃美」は、告白される信仰内容の中心が神ご自身に向けられていることを示し、信仰告白が自己表明でも自己完結でもなく、自分から神に向かって為される神中心的行為であることを示唆する。
- 「感謝」は、信仰が人間の自力のみによる達成や選択の結果ではなく、神から与えられ、教会を通して受け継がれた賜物であるという認識を前提としている。
- したがって、信仰告白とは、正統的教理への知的同意である以前に、恵みに対する感謝をもってなされる礼拝的応答である。
- この点において、本信仰告白は、信仰を「信じるか否かの判断」へと還元するのではなく、神との関係における生きた応答行為として理解している。
【信徒向け要約】
1. 「往時の教会は聖書によりて左の告白文を作れり。」
信仰告白文の土台は「聖書」
- 信仰告白は、人間の考えや伝統から生まれたものではなく、聖書に基づいて作られています。
- 教会や信仰告白は、聖書より上に立つことはありません。
- 聖書こそが、信仰と生活の最も大切な基準です。
2. 「往時の教会は聖書によりて左の告白文を作れり。
信仰は、歴史の中で受け継がれてきたもの
- 「左の告白文」:後続の使徒信条全文を指します。
- 私たちの信仰は、突然新しく始まったものではありません。
- 使徒たちの時代から、教会を通して受け継がれてきた信仰があります。
- 私たちは、その長い信仰の歴史の流れに連なっているのです。
3. 我らもまた聖徒がかつて伝えられたる信仰の道を奉じ、讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す。
新しい教えを作り出すのではない
- 信仰の内容は、すでに「ひとたび」教会に与えられています。
- 時代に合わせて勝手に変えたり、付け足したりするものではありません。
- 教会の役割は、信仰を守り、伝え、証しすることです。
4. 讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す
信仰告白は「強制」ではない
- 信仰告白は、無理に言わされるものではありません。
- 一人ひとりが、理解し、納得し、自らの信仰として受け取ります。
- それは、神の前での自由で真実な応答です。
5. 讃美と感謝とをもってその告白に同意を表す
信仰告白は「礼拝の行為」
- 信仰告白は、単なる知識の確認ではありません。
- 讃美と感謝をもって神に向かって告白します。
- 信仰は、自分で作り出したものではなく、神から与えられた恵みだからです。
1: 第二スイス信仰告白第1章では、次の通り述べられている。”Ecclesia non est iudex Scripturae, sed testis; nec facit Scripturam authenticam, sed agnoscit.”「教会は聖書の審判者(上位の権威)ではなく、証言者(聖書に従属するもの)である。そしてまた、(教会は)聖書を権威あるものとするのではなく、認める(受け入れる)のである。」
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