イエスの旅程「ガリラヤ → エルサレム」構図の共観福音書比較――空間移動としての物語構造と神学的差異
共観福音書はいずれも、イエスの活動を「ガリラヤからエルサレムへ」という地理的移動として構成している。しかし、この構図は単なる行程記述ではなく、各福音書の神学的意図を反映した物語的・象徴的枠組みとして機能している。本節では、マルコ・マタイ・ルカの三福音書を比較しつつ、その差異を明らかにする。
1. マルコ福音書
マルコ福音書において、ガリラヤはイエスの宣教活動と弟子育成の場である(マルコ1:14以下)。癒やしと教えが集中的に語られる一方で、弟子たちの無理解もこの地で繰り返し強調される。マルコにおける決定的転換点はマルコ8:27–30(ペテロの告白)であり、これ以降、物語は一転してエルサレム上り(ἀναβαίνειν)として再編成される(マルコ8:31以下)。
エルサレムは、神殿批判(11章)と受難物語が集中する場所であり、イエスが拒絶され、殺される場として描かれる。マルコにおいては、ガリラヤ=宣教と可能性の場/エルサレム=拒絶と十字架の場という鋭い対比が支配的である。他方、復活告知において「ガリラヤで会う」という約束(16:7)が与えられる点は、救済の原点が再び周縁へと回帰することを示唆している。
2. マタイ福音書
マタイは、基本的にマルコの構図を踏襲しつつ、これを成就引用によって神学的に再解釈する。ガリラヤ宣教は、イザヤ預言の成就として位置づけられ(4:15–16)、イエスの活動が最初から神の救済計画に置かれていることが強調される。 エルサレムにおいては、マルコ以上に指導者層との論争が前景化され(21–23章)、イスラエル全体の代表としての宗教エリートの責任が問われる。復活後、弟子たちは再びガリラヤに集められ(28:16)、そこから「すべての民」への宣教命令が与えられる。この構成によりマタイは、ガリラヤ=宣教の起点としての意味を強く打ち出している。
3. ルカ福音書
ルカにおいて最も特徴的なのは、「旅の物語」(9:51–19:27)である。9:51において、イエスは「エルサレムに向かって顔を堅く向けた」と描写され、以後の長大な区間が意図的な上京行程として構成される。 ルカにとってエルサレムは、単なる受難の場ではなく、救済史の中心点である。復活と昇天はエルサレムで完結し(24章)、さらに使徒言行録において、エルサレムから地の果てへと福音が拡張していく。このためルカでは、マルコやマタイのような「ガリラヤへの回帰」は強調されず、むしろエルサレム中心主義が明確に打ち出されている。
4. 比較と総括
以上の比較から、三福音書は共通して「ガリラヤ→エルサレム」という構図を共有しつつも、その神学的意味づけは異なっている。
- マルコ:周縁から中心へ向かうが、中心で拒絶され、再び周縁が再起の場として位置づけられる。
- マタイ:周縁から始まった救済が、最終的に宣教へと開かれる起点としてガリラヤが再定位される
- ルカ:ガリラヤから始まった運動が、エルサレムで完成し、そこから世界へ展開される
このように、「ガリラヤ→エルサレム」という空間的移動は、共観福音書において単なる舞台転換ではなく、それぞれの福音書が描く救済史理解を体現する物語構造として機能している。
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