2026年2月6日金曜日

【解説】シモニア(聖職売買)

シモニア(聖職売買)

英: Simony
ラテン: Simonia

要約

 シモニア(聖職売買)とは、金銭その他の対価をもって、聖職者の位階、秘蹟の授与、教会統治権、あるいは聖職者任命や推薦といった神聖な事柄を意図的に取引する行為を指す。対象は必ずしも「聖職」に限定されず、広く霊的権威一般を含む概念である。
このような行為は、世俗権力や財力による教会支配を助長し、宗教的腐敗を招くものとして、古代教会以来、一貫して強く批判され、教会法的規制の対象とされてきた。
「シモニア」という名称は、聖霊の力を金銭で得ようとした魔術師シモン(シモン・マグス)に由来し、その逸話は『使徒言行録』8章18–24節に記されている。


本文

 シモニアとは、金銭やその他の利益を対価として、聖職者の位階、秘蹟、教会の統治権、さらには聖職者人事における推薦や任命といった、神性に属する事柄を故意に売買する行為を指す概念である。この点で、単なる聖職叙任の問題にとどまらず、教会の霊的権威そのものを取引対象とする点に本質がある。

 とりわけ、世俗権力が教会支配を掌握しようとする場合、金銭を媒介としてこれらの権限が交換されるならば、教会内部に世俗的利害が深く浸透することになる。また、本来は厳格な宗教的規律が求められる領域において金銭授受が常態化すれば、信仰と制度の腐敗は不可避である。このため、古代教会時代から繰り返し規制が試みられてきたが、献金と賄賂との線引きが困難であることもあり、実効的な取り締まりは容易ではなく、事実上はイタチごっこの様相を呈していた。

 さらに中世においては、私有教会制のもとで国王や領主が教会を支配し、配下の聖職者を任命する制度が存在したため、裏取引としての対価の授受が行われても表面化しにくいという構造的問題を抱えていた。


語源

 「シモニア(Simonia)」という名称は、『使徒言行録』8章18–24節に登場する魔術師シモン(シモン・マグス)に由来する。彼は、使徒たちが按手によって聖霊を授けるのを見て、その力を得るために金銭を差し出したとされ、この行為が霊的権能を金で買おうとする象徴的事例として、後世の教会における規範形成に決定的な影響を与えた。


歴史

 キリスト教会に富と権力が集中するにつれて、古代後期から中世にかけてシモニアは顕在化するようになった。

 306年のエルビラ教会会議では、洗礼執行に関する売買が禁止され、451年のカルケドン公会議では、霊的祝福の売買全般が禁じられた。
教皇グレゴリウス1世(在位590–604年)は、シモニアに関与した聖職者を破門する慣行を確立した。

 787年の第2ニカイア公会議では、魔術師シモンの名を明示的に挙げつつ、神聖事の売買禁止が再確認された。
また、ヴォルムスのブルクハルトは、自身が集成した教会法においてシモニアを冒涜行為と位置づけた。これに関連して、シモニアによって任命された聖職者が執行するサクラメントの有効性を否定する見解も現れたが、ペトルス・ダミアニは、秘蹟の効力は執行者の道徳性に依存しないとする ex opere operato の原理を擁護し、これに反論した。

 1059年には、枢機卿団による教皇選出制度(コンクラーヴェ)が定められ、教皇選挙をシモニアから防衛する制度的措置が講じられた。
さらに教皇グレゴリウス7世(在位1073–1085年)は、いわゆる「グレゴリウス改革」の一環として、俗人による聖職叙任を禁止し、シモニアおよび聖職売買と密接に結びついた叙任権問題に正面から取り組んだ。

 16世紀においては、贖宥の発布とそれに伴う金銭授受が、実質的にシモニアに当たるとして、ウィクリフ、フス、ルターら宗教改革者によって厳しく批判され、宗教改革運動の重要な論点の一つとなった。

2026年2月4日水曜日

【解説】ガリラヤ

【解説】ガリラヤ

 ガリラヤという地名は、「ゲリル=アル=ゴイム(Gelil ha-Goyim)」、すなわち「異邦人の地区/異邦人の輪」を意味する呼称に由来する(イザ8:23[MT 9:1])。この名称が示す通り、ガリラヤは古くからユダヤ人と異邦人が混在して居住する地域であり、民族的・宗教的に均質な空間ではなかった。

 前2世紀のマカバイ時代、ハスモン朝による軍事的拡張とともに、ガリラヤは支配下に組み込まれ、住民に対するユダヤ教化政策が進められた。これにより、制度的にはユダヤ社会の一部として再編成され、以後この地域は単に「ガリラヤ」と呼ばれるようになる。しかしながら、この政治的・宗教的統合にもかかわらず、ガリラヤはエルサレムおよびユダヤ地方から見て、依然として周縁的な位置に置かれていた。

 そのため、ユダヤ社会内部、とりわけエルサレムを中心とする宗教的・文化的エリート層からは、ガリラヤの人々はしばしば「田舎者」あるいは「辺境の人々」として軽蔑的に評価された。このような認識の背景には、宗教的中心地からの地理的距離に加え、生活様式や文化的慣習の相違があったと考えられる。

 宗教的観点から見ると、ガリラヤの住民は、エルサレム基準の律法理解、特にパリサイ派的な厳格な律法遵守からは一定の距離を置いていると見なされていた。必ずしも律法に無関心であったわけではないが、その実践は中央の基準から見て緩慢である、という評価が広く共有されていたと推測される。

 このような社会史的・宗教史的文脈から、新約聖書においてイエスの活動拠点がガリラヤに置かれていることは、宗教的・文化的中心から距離をもつこの周縁的地域を、神の国の宣教が開始される場として描くことによって、救済が中心から周縁へと一方的に流れるのではなく、むしろ周縁から中心を問い返す運動として展開されることを示唆している。

2026年2月3日火曜日

【小論】イエスの旅程「ガリラヤ → エルサレム」構図の共観福音書比較――空間移動としての物語構造と神学的差異

イエスの旅程「ガリラヤ → エルサレム」構図の共観福音書比較――空間移動としての物語構造と神学的差異


 共観福音書はいずれも、イエスの活動を「ガリラヤからエルサレムへ」という地理的移動として構成している。しかし、この構図は単なる行程記述ではなく、各福音書の神学的意図を反映した物語的・象徴的枠組みとして機能している。本節では、マルコ・マタイ・ルカの三福音書を比較しつつ、その差異を明らかにする。

1. マルコ福音書

 マルコ福音書において、ガリラヤはイエスの宣教活動と弟子育成の場である(マルコ1:14以下)。癒やしと教えが集中的に語られる一方で、弟子たちの無理解もこの地で繰り返し強調される。マルコにおける決定的転換点はマルコ8:27–30(ペテロの告白)であり、これ以降、物語は一転してエルサレム上り(ἀναβαίνειν)として再編成される(マルコ8:31以下)。

 エルサレムは、神殿批判(11章)と受難物語が集中する場所であり、イエスが拒絶され、殺される場として描かれる。マルコにおいては、ガリラヤ=宣教と可能性の場/エルサレム=拒絶と十字架の場という鋭い対比が支配的である。他方、復活告知において「ガリラヤで会う」という約束(16:7)が与えられる点は、救済の原点が再び周縁へと回帰することを示唆している。

2. マタイ福音書

 マタイは、基本的にマルコの構図を踏襲しつつ、これを成就引用によって神学的に再解釈する。ガリラヤ宣教は、イザヤ預言の成就として位置づけられ(4:15–16)、イエスの活動が最初から神の救済計画に置かれていることが強調される。  エルサレムにおいては、マルコ以上に指導者層との論争が前景化され(21–23章)、イスラエル全体の代表としての宗教エリートの責任が問われる。復活後、弟子たちは再びガリラヤに集められ(28:16)、そこから「すべての民」への宣教命令が与えられる。この構成によりマタイは、ガリラヤ=宣教の起点としての意味を強く打ち出している。

3. ルカ福音書

 ルカにおいて最も特徴的なのは、「旅の物語」(9:51–19:27)である。9:51において、イエスは「エルサレムに向かって顔を堅く向けた」と描写され、以後の長大な区間が意図的な上京行程として構成される。  ルカにとってエルサレムは、単なる受難の場ではなく、救済史の中心点である。復活と昇天はエルサレムで完結し(24章)、さらに使徒言行録において、エルサレムから地の果てへと福音が拡張していく。このためルカでは、マルコやマタイのような「ガリラヤへの回帰」は強調されず、むしろエルサレム中心主義が明確に打ち出されている。

4. 比較と総括

以上の比較から、三福音書は共通して「ガリラヤ→エルサレム」という構図を共有しつつも、その神学的意味づけは異なっている。

  • マルコ:周縁から中心へ向かうが、中心で拒絶され、再び周縁が再起の場として位置づけられる。
  • マタイ:周縁から始まった救済が、最終的に宣教へと開かれる起点としてガリラヤが再定位される
  • ルカ:ガリラヤから始まった運動が、エルサレムで完成し、そこから世界へ展開される

 このように、「ガリラヤ→エルサレム」という空間的移動は、共観福音書において単なる舞台転換ではなく、それぞれの福音書が描く救済史理解を体現する物語構造として機能している。

【小論】パウロは未婚の独身者か、それとも離婚経験者か

【小論】パウロは未婚の独身者か、それとも離婚経験者か


1.問題の所在

 パウロはその宣教活動の最盛期において独身であったことが、真正パウロ書簡の証言からほぼ確実視されている。しかしながら、彼が生涯未婚であったのか、それともかつて結婚しており、離婚あるいは別居の結果として独身状態にあったのかについては、いずれの文書においても明示的な言及が存在しない。本稿は、真正パウロ書簡の関連箇所を検討することによって、この問題について到達可能な推論の範囲を明確化することを目的とする。


2.真正書簡における独身状態の確認

 まず確認すべきは、パウロが少なくともコリントの信徒への手紙一執筆時点において独身であったという点である。1コリント7:7において、パウロは次のように述べている。

「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。」(1コリント7:7)

 ここで「わたしのように独りでいて」と訳されている表現は、原文では καθὼς καὶ ἐμαυτόν(「私自身のように」)とあり、文法的には独身を直接指示する語(ἀγάμος)は用いられていない。しかし、1コリント7章全体が結婚・離縁・独身を主題として構成されていること、さらに直後の7:8において「未婚者(ἀγάμοι)と寡婦」に対し自らの立場を事実上重ね合わせていることから、ここで言及されている自己言及は配偶者を持たない状態を意味すると解するのが妥当である。  また、1コリント9:5では次のように述べられる。

「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」(1コリント9:5)

 この箇所は一見すると、パウロ自身も妻帯者であるかのような印象を与えるが、ここで語られているのは「信者である妻を伴って巡回する権利(ἐξουσία)」の有無であり、その権利を実際に行使しているか否かについては言及されていない。したがって、本節はパウロが現に妻を有していたことを積極的に証明するものではない。  以上の2箇所を総合すると、コリント書簡執筆時点においてパウロが独身であったこと自体は確実である。


3.未婚の独身者であった可能性

 パウロが生涯未婚であった可能性は、第一世紀ユダヤ社会の婚姻慣行を考慮するならば、必ずしも排除されるものではない。確かに後代のラビ文献においては、成人男性の結婚はほぼ義務的に語られることが多いが、これをそのまま第一世紀に遡及させることには慎重であるべきである。  ユダヤ伝承には、男子は18歳以降に結婚可能であるとする規範が存在する一方、家業や経済的基盤が整ってから初めて結婚すべきであるとする考えも併存していた。そのため、特にディアスポラ環境において教育を受け、移動性の高い生活を送っていた者が未婚のまま成人期を過ごしたとしても、不自然とは言い切れない。従って、パウロが回心以前から未婚であった可能性は、社会史的観点から十分に成立しうる。


4.離婚経験者であった可能性

 他方、パウロがかつて結婚していた可能性についても検討する必要がある。パウロ自身が「ファリサイ派の中のファリサイ派」(フィリ3:5)と自己規定していることから、仮に結婚していたとすれば、その相手はユダヤ人女性であったと考えるのが自然である。  1コリント7:12–13において、パウロは、非キリスト教徒の配偶者が婚姻継続を望む場合には、信者側から離縁すべきではないと明確に述べている。この原則に照らすならば、ユダヤ人であった妻が婚姻継続を望んでいたにもかかわらず、パウロが一方的に離縁したと想定することは困難である。  しかしながら、同章15節では、信者でない配偶者が自発的に離れていく場合について、次のように述べられている。

「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。」(1コリント7:15)

 この規定は、双方合意、あるいは少なくとも相手側の主導による離別を想定しており、理論上は、パウロ自身の過去の経験と整合的に理解される余地を残している。ただし、この箇所を直接的にパウロ自身の婚姻履歴に適用することは、なお推測の域を出ない。


5.別居(事実上の離婚)という可能性

 さらに一つの補助的仮説として、法的離婚には至らないまま、別居状態にあった可能性を想定することも理論上は可能である。この仮説は、1コリント9:5において、パウロが自らを含む「わたしたち」が妻帯者と同列に「権利」を語っている点と一定の整合性を持つ。  この場合、問題となるのは、1コリント7章で用いられている ἀγάμος(結婚していない者)という語が、厳密に法的婚姻関係の不存在のみを指すのか、それとも宣教実践上の配偶者不在状態まで含みうるのか、という点である。この点については、現在のところ決定的な結論は得られておらず、本仮説も慎重に提示されるべきものである。


6.結論

 以上の考察から導かれる結論は次の通りである。  第1に、パウロが宣教活動期において独身であったことは、真正書簡の証言からほぼ確実である。  第2に、彼が未婚の独身者であったのか、あるいは離婚経験者であったのかを確定することは困難である。  第3に、改宗後、ユダヤ人であった妻との合意的離別、あるいは別居状態に入った結果として独身状態にあったと推測しても、真正書簡の記述と致命的な齟齬は生じない。

2026年1月30日金曜日

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第8回「宮清めの出来事」

(『信徒の友』2018年11月号所収)

 

 今回のエピソードは、エルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を、イエスが激しい振る舞いをもって追い散らしたというショッキングな出来事です(マタイ21・12-13、マルコ11・15-19、ルカ19・45-48、ヨハネ2・13-22)。神殿は、神が礼拝される場所であり、祈りが捧げられるところであって、利得を求める場所ではありません。しかし、神聖な場所でさえも、後述のように金が動くところともなれば、自己利益のために知らず知らずのうちに利用してしまうのが、人間の性分というものです。この腐敗を暴き、罪を指摘し、不正を正し、そうして神殿を清めるのは、預言者の使命でありました(参照、イザヤ20・1-6、エレミヤ13・1-11)。今回のイエスの行動は、そうした預言者と重なると言えるでしょう。  当時のエルサレム神殿は、エルサレムに居住する人々の礼拝の場であっただけでなく、遠方に居住するユダヤ人にとっての巡礼地でもありました。ルカ2:41-52には、少年時代のイエスが両親や同郷の人たちと共に、エルサレム神殿を訪れる物語が綴られています。ここには、当時のユダヤ人の典型的な巡礼の様子が描かれていると言えるでしょう。ユダヤ三大祭りとして数えられ、最大の祭事とされていた過越祭ともなれば、普段のエルサレムの人口を優に越える人々が集まり、大いに賑わいを見せたと言われています。その過越祭を目前に控えた時期に、突如として今回の事件が起こりました。  場面設定については、過越祭の直前という点で四福音書の記述は一致しています。ところが、マタイとルカにおいては、イエスがエルサレム入りした(いわゆる「エルサレム入城」)当日のこととして語られている一方で、マルコにおいては、エルサレム入城の翌日という設定になっています(マルコ11・11)。イエスの公生涯の末期に宮清めがある共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と対照的なのがヨハネで、このエピソードが2章にあることから明らかな通り、イエスの活動期の序盤に配置されています。また、共観福音書ではイエスがエルサレムを訪れるのは基本的に1回のみですが、ヨハネにおいては3度訪れています(ヨハネ2・13、5・1、11・55)。こうした相違の詳細は不明ですが、ひょっとするとヨハネは、共観福音書の記載とは異なるけれども自分が正しいと考えている情報を提供しようとしているのかも知れません。
 「神殿の境内」とは、神殿の敷地内にある「異邦人の庭」と呼ばれている前庭を指します。この領域での商売は禁止されていて不可能だったという主張もありますが、少なくともその外れか一角では、神殿への捧げ物を販売する商人と両替商が陣取って商売をしていたと考えられています(参照、ゼカリヤ書14・21)。巡礼者にとって、神殿に捧げる犠牲の動物を持参することは困難なため、現地でそれを購入することは律法でも奨励されていました(参照、申命記14・24ー26)。「鳩を売る者」(マタイ21・12、マルコ11・15)とは、彼らを相手に犠牲の動物を売る商人を指しています。「鳩」は、規定の捧げ物である小羊等を用意するのが経済的に厳しい人々のために、代わりとして定められている犠牲です(参照、レビ記12・8、ルカ2・24)。こうした背景を受けて、ヨハネは「鳩を売る者」だけではなく、「牛や羊や鳩を売っている者たち」と表記しています(ヨハネ2・14)。また、神殿税として納める金銭として、ユダヤ人にとっては汚れた異教の民の貨幣をもって捧げることは一種のタブーです。そのために、諸外国からやって来ている巡礼者は、外国通貨を両替する必要があったのです。
 イエスが、そこで商売をしていた人々を追い出し始めたという点で、四つの福音書の記述は一致しています。マタイとマルコでは「そこで売り買いしていた人々」と書かれていて、売っていた人たちだけではなく、買っていた人たちをも含んでいます(「そこで売り買いしていた人々」マタイ21・12、マルコ11・15ー19)。なぜ買う側の人たちも追い出されたのかは分かりませんが、巡礼者たちをも標的としたというよりも、商売人たちの追い散らしの巻き添えを食った、ということでしょうか。この疑問点を解消するためなのか、ルカは「そこで商売をしていた人々」(ルカ19・45)と簡略に書くことで、神殿を商売の場所とした商売人の不義を強調しています。 共観福音書には見られないヨハネ2・15の記述は衝撃的です。「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた」。神殿境内での武器の携行は禁止されていますから、恐らくこの鞭はパフォーマンスのためか、動物を追い散らすためのものでしょう。それでも、事前に黙々と鞭を作っているイエスの姿を想像すると、彼の内面に隠されたマグマのような怒りに触れるような思いがします。
 マルコはさらに、「境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」(11・16)と書き加えています。この場所は厳密には神聖な場所とはされていない場であったようですが、かといって神殿の境内ですからまったくの世俗の場というわけでもなく、近道をするための前庭の通り抜けは神殿を汚す行為として禁じられていました。それを人々に守らせることは本来、祭司や神殿警備員の務めであって、それをなし崩しにしていることは彼らの責任でもありました。イエスの批判の眼差しは、こういったところに注がれていたのだと想像します。近道すらも許されないことを厳しいと考える方も多いでしょうが、「聖」という概念は、神事を日常の些事から別にすることを意味します。例えば、何かのついでとか、別の目的があるから礼拝に参加すると聞いたとしたら、きっとおかしなことだと思われるでしょう。礼拝はそれ自体が目的であって、他のための手段ではありません。自分の用事を済ませるために神事を利用する人間の厚かましさを、イエスは鋭く見抜いています。共観福音書がほぼ一致して記している次の言葉には、以上のことが集約されています。
「こう書いていある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
 「祈りの家」の方はイザヤ56・6ー7、「強盗の巣」の方はエレミヤ7・11からの引用です。礼拝の場が人間の利得追求の場とされることで汚されることに対する憤怒を表しています。ヨハネはこの言葉ではなく、次の詩篇69編10節を引用しています。 「弟子たちは『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」(ヨハネ2・17)。  詩篇69編は、イエスの受難を預言する詩篇として受容されてきました。祈りと礼拝の場を思うイエスの熱情を示すと共に、イエスがメシアであることを暗示しています。  物語の結びとして、マルコとルカにおいては、祭司長たちや律法学者たちがイエス殺害を謀りながらも、「群衆」(ルカでは「民衆」)がイエスに行為的であったために手出しできずにいたことが報告されています(マルコ11・18、ルカ19・47ー48)。また、ヨハネの方は、「ユダヤ人」との「神殿」を巡っての論争を記載しています。イエスが次世代の神殿として復活を遂げることで、神殿制度は終わりを告げることが示唆されています。  最後に これはわたしの推測ですが、その場で犠牲の動物や両替をしていた商売人たちもそれほど裕福ではなく、場所代、陣取り、元締め、元締めと金で繋がっている神殿の指導者層、そして、癒着、収賄、汚職等、複雑に絡み合い、腐敗の度合いは頂点に達していたのではないかと思います。イエスの行動に暴力的な要素も含まれ、それがいかなる理由であれ許容されるのかという問題も残されていると思います。ただ、イエスはこういった社会悪に対する憤怒を、信仰に生きようとする人たちのために、あらわされたということは間違いありません。

 主と共に歩む絵画

 今回、紹介する絵画は、レンブラントの『神殿から両替人を追い出すキリスト』です(1626年)。レンブラントと言えば、絵画が経年劣化して変色したために誤って「夜警」と呼称された作品や、『キリスト昇架』の傑作で知られる、オランダ絵画黄金時代の巨匠です。  眉間にしわを寄せ、カッと目を見開き、鞭を振り上げる様子には、底知れぬ怒りが滲み出ています。これとは対照的に、ある者は両手で我が身をかばい、またある者は恐れをなして退散しようとしている商売人たちが描き出されています。




「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧

「真如苑」における「接心」の料金(冥加料)の一覧 *数値は、週刊ダイヤモンド2018年10月13日号に拠る。 *真如苑の教団成立、教祖、現苑主などについては、概要欄に関連動画のアドレスあり 1. 接心とは   接心 とは、語義的には「心と心を接する」ことを意味し、教団指導者ま...