2025年10月22日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46

説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ22:41–46


注解

41節

新共同訳 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
Συναχθέντων δὲ τῶν Φαρισαίων ἐπηρώτησεν αὐτοὺς ὁ Ἰησοῦς,
 大抵の場合、ファリサイ派やサドカイ派といったイエスに批判的な勢力の人々が、イエスに質問する側である(22:15–22、22:23–33)。しかし、ここでは反対に、イエスが彼らに質問する側となっている。しかもイエスが問いを投げかけた対象は、ファリサイ派の集団であった(συναχθέντων「彼らが集まっているとき」)。

42節

新共同訳 あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。
彼らが「ダビデの子です」と言うと、
λέγων· Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ; τίνος υἱός ἐστιν; λέγουσιν αὐτῷ· Τοῦ Δαυίδ.
 イエスの質問内容は、「メシア」が「誰の子」であるか、すなわちメシアの出自に関する事柄であった。
  • 「メシアのことをどう思うか」:直訳では「キリストとはあなたがたにとって誰か」(Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ;)。
  • 「メシア」:原文では Χριστός。直訳すれば「キリスト」であるが、新共同訳では当時の文脈を考慮して、“油注がれた者”、すなわち“救世主”を意味する「メシア」と訳出している。
  • 「だれの子だろうか」:前述のように、メシアの出自を問う質問である。原文では「ダビデの」(Τοῦ Δαυίδ)とあるのみ。ファリサイ派は、メシアがダビデの家系から生まれるという当時の理解を踏襲し、それをメシアの視点から言い直して「ダビデの子」と答えた。

43–44節

新共同訳
43「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。』
44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」
λέγει αὐτοῖς· Πῶς οὖν Δαυὶδ ἐν Πνεύματι καλεῖ αὐτὸν Κύριον, λέγων·
44 Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου· Κάθου ἐκ δεξιῶν μου, ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου ὑποπόδιον τῶν ποδῶν σου.
 イエスは詩編110:1(LXX 109:1)を引用し、ファリサイ派のメシア理解の矛盾点を突こうとしている。
  • 「霊を受けて」:直訳では「霊において」(ἐν Πνεύματι)。神の霊によってダビデが真理を語ったという趣旨であり、新約時代の神学的言い方をすれば「聖霊に導かれて」となる。すなわち、ダビデが語ったことは神の意志に基づく真理であるという意味である。
  • 「メシアを主と呼んでいる」:44節の詩編引用「主は、わたしの主にお告げになった」(Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου)に基づく。ダビデが神の霊により、自分の子孫を「主」と呼んでいることになる。この矛盾をイエスは指摘している。すなわち、メシアは単なる人間的存在ではなく、神的な「主」であることを暗示している。
  • 「主は、わたしの主に」:Κύριος τῷ Κυρίῳ μου
  • 「主」が二度現れる表現で、第一の Κύριος はヤハウェ(神)、第二の Κύριος μου(わたしの主)はメシアを指す。イエスの議論は、「もしメシアが単なる『ダビデの子』であるなら、なぜダビデが彼を『主』と呼ぶのか」という逆説にある。
  • 「わたしの右の座に」(ἐκ δεξιῶν μου)とは、神の栄誉と権威を帯びる座であり、新約文書ではキリストが昇天して着いた座とされている(マルコ16:19、ヘブライ1:3など参照)。

45節

新共同訳
「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
εἰ οὖν Δαυὶδ καλεῖ αὐτὸν Κύριον, πῶς υἱὸς αὐτοῦ ἐστίν;
 イエスの論理上では、メシアがダビデの子という命題は矛盾しているため、改めて「どうして」と問う必要はない。しかし、あえて修辞的疑問文「どうして(πῶς)」を用いることで、聞き手にその命題の妥当性を再考させている。ただし、メシアがダビデの家系から出現すること自体を否定しているのではない。メシアを単に「ダビデの血統の末裔」としてのみ捉える狭い見方を退けている。それは同時に、「メシア=イスラエルをローマから救う政治的・民族的救済者」とする理解の否定でもある。また、この記事ではイエスこそがメシアであり、「わたしの主」であることが暗示されている。

46節

新共同訳
「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」
καὶ οὐδεὶς ἐδύνατο ἀποκριθῆναι αὐτῷ λόγον, οὐδὲ ἐτόλμησέν τις ἀπ’ ἐκείνης τῆς ἡμέρας ἐπερωτῆσαι αὐτὸν οὐκέτι.
 マタイ22:15以降、ファリサイ派やサドカイ派との論争物語が連続しているが、本節はその最後であり、この記事の結びであると同時に、論争物語集全体の結語でもある。
  • 「だれ一人……できず」:ファリサイ派でさえ、イエスの知恵を上回ることができず、彼を陥れようとする企てが完全に潰えたことを示す。
  • 「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」:敵対者たちの攻撃が止んだわけではない。論争を仕掛けることはなくなったものの、イエスを亡き者にしようとする計画へと転じたことが暗示される。すなわち、ユダの裏切りから受難へと展開していく転換点であり、十字架への伏線となっている。
 神学的には、論争や論破によって神の真理が証明される段階から、十字架と復活という啓示の出来事によってメシア性が明らかにされる歴史的転換点である。

黙想

 「誰か」「誰の子か」というメシアをめぐる問いは、人々が抱く普遍的な問いである。人はその問いから始めて真のキリストを知り、三位一体の神を知り、信仰に至る。
 信仰告白は、「誰か?」という問いではなく、「イエスは主です、メシアです、キリストです、神の子です」という告白である。
 人がその告白に至ることができるのは、ダビデもそうであったように「霊によって」、すなわち聖霊の働きによる。イエスを「主」と呼ぶ信仰は、聖霊によって与えられるのである。
 人の狭い見方・考え・思い込みが破綻したとき、人は沈黙を余儀なくされる。その沈黙から神を否定しようとする殺意が生じることもあれば、他方で神の啓示を目の当たりにして、聖霊によって信仰的理解に到達することもある。
 イエスがメシアであるという出来事としての啓示――それが十字架と復活である。

礼拝説教のむすびとして

 今日、私たちはイエスがファリサイ派に投げかけた問いを通して、メシアとは誰かという根源的な問いに向き合いました。人々が「ダビデの子」として期待していたメシア像は、政治的・民族的な救済者でした。しかしイエスは、詩編の言葉をもって、メシアが「主」であることを示されました。すなわち、メシアは単なる人間の子ではなく、神の右に座する方、神の権威と栄光を帯びた存在なのです。
 この問いは、私たちにも向けられています。「あなたにとって、キリストとは誰か」。それは単なる神学的な問いではなく、私たちの信仰の告白を問うものです。イエスは主です。神の子です。私たちの救い主です。この告白に至るためには、聖霊の導きが必要です。ダビデが「霊によって」メシアを主と呼んだように、私たちも聖霊によってイエスを主と告白する者とされるのです。
 ファリサイ派は沈黙しました。彼らの知識や論理では、イエスの問いに答えることができなかったからです。しかし、私たちは沈黙するのではなく、告白する者となりましょう。イエスこそが主であると、十字架と復活によって示された神の啓示に応えて、信仰をもって歩む者となりましょう。
 この週も、聖霊の導きのうちに、イエスを主と告白し、その主に従って歩む者とされますように。


祈りの言葉

主なる神よ、
御子イエス・キリストに沈黙させられたファリサイ派のように、キリストを一面的にしか捉えられない心の狭さに陥らないようお守りください。
むしろ、聖霊の働きによって私たちの理解と心を広げ、神の真理を悟らせてください。
十字架と復活のイエスこそ、神の子、キリスト、主なる方であることを知り、そのことを証しする者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2025年10月15日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:31–35

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコによる福音書 3章31–35節
並行箇所 マタイ12:46–50、ルカ8:19–21

概要

先行箇所の3:21における身内の訪問が伏線となっている。その箇所では、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とあり、家族でさえもイエスを理解できない現実が述べられていた。
後述のように、家族が「イエスとは遠くに」または「家の外」に立ち、家族でない者が「イエスのそばに」または「家の中」に座ってイエスの言葉を聞いている。この「外」と「内」という構図が本箇所において明瞭に示されており、同時に前節の伏線回収ともなっている。

注解

31節

新共同訳 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
Καὶ ἔρχεται ἡ μήτηρ αὐτοῦ καὶ οἱ ἀδελφοὶ αὐτοῦ, καὶ ἔξω στήκοντες ἀπέστειλαν πρὸς αὐτὸν καλούντες αὐτόν.
 3:21では「身内」とのみ記されていたが、3:31では「イエスの母と兄弟」と具体的に述べられている。
  • 「イエスの母と兄弟たち」──6:3によれば、イエスの母の名はマリアであり、兄弟は4人で、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」と名付けられている。また6:3には「姉妹たち」の存在も示唆されており、彼女たちは次の32節で言及される。
  • 「外に立ち」──「外」(ἔξω)。32節では「イエスの周りに座っている」、すなわち<家の内>にいてイエスの言葉に耳を傾けている人々が描かれる。ここには明確な象徴的意味があり、「外」と「内」の距離や位置の違いは、単なる物理的なものではなく、信仰的理解の決定的な差異を表している。

32節

新共同訳 大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
Καὶ ἐκάθητο περὶ αὐτὸν πλῆθος· καὶ λέγουσιν αὐτῷ· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ σου καὶ οἱ ἀδελφοί σου καὶ αἱ ἀδελφαί σου ἔξω ζητοῦσίν σε.
  • 「イエスの周りに座っていた」──原文では「彼の周囲に」(ἐκάθητο περὶ αὐτὸν)。当時、ラビ(教師)が人々に教えを語るとき、ラビは座り、聴衆は立つのが習慣であった。上下関係の中で、上位者が下位者に教える形式である。しかし、やがて聴衆も座るスタイルが広まり、上下関係よりも、共に学ぶ姿勢が意識されるようになった。
 この場面で人々が「座って」いる理由は明示されていないが、イエスと聞き手との距離が近く、親密な関係であることが示唆されている。もしそうであれば、この記事の主題──すなわち「イエスの家族」とは誰か──の象徴的意味がここに込められていると考えられる。
  • 「母上と兄弟姉妹」──ここで再び「姉妹」も含めて言及され、血縁的な家族の概念が強調されている。

33節

新共同訳 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
Καὶ ἀποκριθεὶς αὐτοῖς λέγει· Τίς ἐστιν ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου;
 家族とは通常、血縁関係によって定義されるが、イエスはその関係性を問い直し、新たに定義しようとしている。イエスは「神の国」の接近を宣べ伝えたが(1:15参照)、神の国における信仰者の関係は「家族」であると示した。
 ユダヤ社会では、旧約時代から、親しい関係や同盟関係、同じ信仰共同体の成員同士を「兄弟」と呼ぶ習慣があった。しかし、弟子がラビを「父」と呼ぶ例は稀であり、家族でない者を「父」や「母」と呼ぶことはほとんどなかった。女性的な呼称(母・姉妹・妻など)も用いられることは少なく、神の愛を母にたとえる(イザヤ66:13など)程度である。
 ところがイエスはここで、男性的・女性的な呼称を包括的に扱い、信仰共同体全体を新しい「家族」と見なしている。この点にイエスの教えの革新性がある。後にパウロも、ある女性信徒を敬意をもって「母」と呼んでいる(ローマ16:13参照)。

34–35節

新共同訳 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」
原文: Καὶ περιβλεψάμενος τοὺς περὶ αὐτὸν καθημένους λέγει· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου. 35 Ὃς ἂν ποιήσῃ τὸ θέλημα τοῦ Θεοῦ, οὗτος ἀδελφός μου καὶ ἀδελφὴ καὶ μήτηρ ἐστίν.
 イエスは、自身の周りに座って神の言葉を聞く人々こそを「わたしの母」「兄弟」と呼び、新しい意味づけを行った。ここでは、イエスの真の家族とは、イエスを通して語られる神の言葉を聞き、それに従って生きる者たちである。
 後にキリスト教会が互いを「兄弟姉妹」と呼び合うようになった神学的根拠は、以下の二点に要約される。
  1. 神が父であり、信徒はその子どもであること。
  2. キリストが父なる神の長子、すなわち長男であり、私たちがその弟・妹であること。

まとめ

 マルコ3:31–35は、イエスが血縁を超えて「神の御心を行う者」を真の家族と呼ばれた場面である。この箇所は、信仰共同体の本質を明らかにする。イエスの周囲に座る者たちは、単なる聴衆ではなく、神の言葉に耳を傾け、心を開き、従おうとする人々である。彼らこそがイエスにとっての「母」「兄弟」「姉妹」であり、神の家族の一員である。
 この教えは、私たちが互いを「兄弟姉妹」と呼び合う根拠であり、教会が血縁や社会的区分を超えて、神の愛によって結ばれた共同体であることを示している。私たちもまた、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾けることで、この家族の中に生きる者とされる。

礼拝説教の結びとして

 今日の御言葉は、イエスが「神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と語られた場面でした。血縁による家族の枠を超えて、神の言葉に耳を傾け、それに従って生きる者こそが、イエスにとっての真の家族であると宣言されたのです。
 この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり、同時に挑戦でもあります。私たちは、神の家族として招かれています。ただ教えを聞くだけでなく、神の御心を行う者として、イエスのそばに座る者となるよう求められているのです。
 教会とは、血縁や立場を超えて、神の愛によって結ばれた共同体です。互いを兄弟姉妹と呼び合い、共に神の言葉に生きる者として歩むとき、私たちはイエスの家族としての喜びと責任を担うことになります。
この週も、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾け、従う者として歩んでまいりましょう。私たちがどこにいても、何をしていても、神の家族としてのアイデンティティを忘れずに、主にある交わりを深めていけますように。

祈りの言葉

天の父なる神よ、あなたが私たちをキリストにあって一つの家族として呼び集めてくださったことを感謝します。
私たちが血縁や立場を越えて互いを兄弟姉妹として受け入れ、あなたの御心を行う者として歩むことができますように。
イエスの言葉に耳を傾け、心を開き、従う者となるよう、聖霊によって導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:34-40

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイによる福音書 22章34–40節

 並行箇所:マルコ12:28–34

概要

 直前の記事(22:23–33)において、イエスの返答に返す言葉のなかったサドカイ派の論客の無力さが描かれていた。本記事では、ファリサイ派とサドカイ派が結託することで、イエスに敵対する人々の構図が明瞭とされている。

注解

34節

新共同訳「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。」
Ἀκούσαντες δὲ οἱ Φαρισαῖοι ὅτι ἐφίμωσεν τοὺς Σαδδουκαίους, συνήχθησαν ἐπὶ τὸ αὐτό.
  • 「サドカイ派」:直前の記事の22:23–33を参照。ここでの「言い込められた」場面が伏線となっている。
  • 「一緒に集まった」:前述のとおり、ファリサイ派とサドカイ派は政治信条的に競合関係にあるが、敵同士がイエスを陥れるために協働している。詩編2:2における神に逆らう者たちの結束が、ここでイメージされているかもしれない(「支配者は結束して主に逆らい」)。

35節

新共同訳 そして、そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
καὶ ἐπηρώτησεν εἷς ἐξ αὐτῶν νομικός, πειράζων αὐτόν.
  • 「律法の専門家」(νομικός):ユダヤ教の教師(ラビ)を指す。
 4:1–11における「荒野の誘惑(πειράζω)」の「誘惑(試み、πειράζω)」は、本節での「試そうとして」と同じ動詞。悪魔による試みと、ユダヤ教のラビのそれとが同列的に扱われているのかもしれない。

36節

新共同訳 先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。
Διδάσκαλε, ποία ἐντολὴ μεγάλη ἐν τῷ νόμῳ;
  • 「最も重要な戒め」:ユダヤ教のすべての戒めの中で最も重要なものは、申命記6:4–5における律法、通称シェマー。

シェマー:同箇所の冒頭の言葉「聞け」と訳されているヘブライ語の動詞 שָׁמַע に由来。「聞く」「従う」の意。
 申命記6:4–5:「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

37–38節

新共同訳 イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な、第一の戒めである。
ὁ δὲ Ἰησοῦς ἔφη αὐτῷ· Ἀγαπήσεις Κύριον τὸν Θεόν σου ἐν ὅλῃ τῇ καρδίᾳ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ ψυχῇ σου καὶ ἐν ὅλῃ τῇ διανοίᾳ σου. αὕτη ἐστὶν ἡ μεγάλη καὶ πρώτη ἐντολή.
  • 「心を尽くし……主を愛しなさい」:申命記6:5からの引用。ユダヤ人はこれを唱えることを日課としていた。
  • 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして」:自分の全存在をもって神を愛すること。

39節

新共同訳 第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」
δευτέρα ὁμοία αὐτῇ· Ἀγαπήσεις τὸν πλησίον σου ὡς σεαυτόν.

  • 「隣人を自分のように……」:レビ記19:18からの引用。いわゆる隣人愛。
  • 「第二も…重要である」:原文の直訳では「第二もそれを同様」となる。双方は「同様」の重要性を持つものの、「第一」「第二」と序列が設けられている点に留意したい。隣人愛については、先のシェマーに直接含まれているものではない。しかし、ユダヤ教ではこれもシェマーと並べて重要なものとされていた。

40節

新共同訳 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
ἐν ταύταις ταῖς δυσὶν ἐντολαῖς ὅλος ὁ νόμος ἐντέταται καὶ οἱ προφῆται.
 「律法全体と預言者」:「律法と預言」は旧約聖書全体を指す表現。イエスは、第一に神を愛すること、第二に隣人を愛することを、人の生きる道、すなわち倫理とした。

まとめ

 イエスの返答は、ユダヤ教のラビにとって基本的なものである。種々の質問に対するイエスの回答は、奇抜なものばかりとは限らない。この記事では、基本中の基本を直裁に語ることによって、最重要事項の本質を示した。

黙想

 神を愛することと、隣人を愛すること。両者は重要性においては同様としても、二つに順序がある点は展開のしどころが豊富である。
 たとえば、神を愛することによって人を愛することを知る、あるいは、神を愛し神に愛されることで、人を愛することが可能になる、といった理解ができる。
 また、「世界は人間が中心ではなく、まずは神があり、それが中心にあり、そこに人間がいる」という構図としても考えられる。
 キリスト教の教義と絡めるなら、人が神と人とを愛することができるようになるために、その人の内面に働く聖霊の力が用意されていることに触れてもよい。

説教風の結び

 主イエスが語られた「最も重要な戒め」。その言葉は、私たちにとって新しい教えではないかもしれません。むしろ、信仰の基本中の基本です。しかし、イエスはこの基本を、敵意に満ちた問いかけの中で、揺るぎない真理として語られました。それは、私たちがどんな時代にあっても、どんな問いに直面しても、信仰の中心を見失わないようにとの招きでもあります。
 神を愛すること。それは、私たちの存在の根源に向き合うことです。神がまず私たちを愛してくださったからこそ、私たちは神を愛し返すことができるのです。そして、その神の愛に生かされている私たちは、隣人をも自分のように愛するようにと招かれています。
 この二つの愛は、決して切り離せるものではありません。神を愛することによって、私たちは隣人を愛する力を与えられます。そして、隣人を愛することによって、私たちの神への愛もまた深められていくのです。
 この週、私たちが出会う一人ひとりに、神の愛を映し出す者として歩んでいけますように。神を愛し、隣人を愛するという、この信仰の中心に立ち返りながら、日々の生活を歩んでまいりましょう。

2025年10月9日木曜日

論文 「パウロの全体教会政治学」

 「パウロの全体教会政治学」


 序 「全体教会政治学」とは

 「教会政治学」とは通例、教会の統治や運営方法、または統治が為される組織の構造に関する学を指す用語である。そして、その統治形態として長老制や監督制、会衆制などが挙げられ、それぞれの教会政治の仕組みが他の教会政治と比較されながら議論されるといった形が多い。また、国家という既存の支配体制、そしてそれが行う政治の状況にあって、教会政治がいかに行われてきたのかを考察する学として、教会政治学が位置づけられているのが通例だ。

 しかし本稿では、単に「パウロの教会政治学」とはせず、「全体教会政治学」とした。この名称は二重の意味合いを含む。まず一つ、例えば一方で異邦人教会、他方でエルサレム教会という、両者統治形態も文化も神学も異なる教会群を包括する全体を一つの教会として捉え、一つの全体教会としての統合を企図したグランド構想が、パウロの全体教会観には観察される。さらに、例えば異邦人教会とエルサレム教会との関係について、分裂しかねない両者の関係性を維持するために採用された経済支援策といった、パウロの政治的手法が観察される。ここには、「政治」という語が持つニュアンスの一つ、すなわち指導的存在が統治する対象全体に施す施策という意味が含まれている。そしてもう一つ、一方の果てはスペイン宣教に象徴される異邦人宣教、もう一方の果てはエルサレム教会を足がかりにしてのユダヤ人伝道という、パウロが抱いていた壮大な宣教・伝道の全体構想には、当時の文化やローマ皇帝による政治を見据えつつ、その支配の影響圏にある政治的状況・社会環境にこれを最適化させようという戦略性が認められる。こうした国家の権力作用の影響範囲においては、国家の利害と福音の原理が衝突することは必然である。こうした軋轢を未然に調整しようという意味での政治という意味もまた、「全体教会政治学」に含まれる。こうした理由から上記の二つを総合し、本稿のタイトルを「パウロの全体教会政治学」とした。

 

 1. 初めから共同体として存在していた「家」の教会

 教会の草創期からして既に、教会は複数名の者たちによって共同で信仰生活が営まれていた。これこそ教会の原初の姿であるという認識を、ルカも述べている(使徒2:46「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし……」)。パウロがフィレモン個人に宛てた書簡を見ても、彼が「家」の教会に連なっていたことは明らかだ(フィレ1:1-2「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」)。教会史においては、例えばアントニオスによって個別修道制が考案されたが、彼は終生弟子たちの指導に努めて105歳を生き切った、とアタナシオスは伝えている(Vita S. Antoni『アントニオスの生涯』)。厳格な個別修道制でさえ、共同性は決して失われていなかったのだ。マタイがイエスの言葉として語っている通り、信仰生活とは一人で営むものではなく、共同で営むものであり、その中にキリストが立つものとして認識されていたのである(マタイ18:20「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」)。

 そうした複数名の弟子たちによってコミュニティが形成されて営まれ、礼拝も捧げられていた。但しその場所は、建築物としての教会でも礼拝堂でもない。初期のキリスト教会は、古代時代に現れるカテドラル(司教座聖堂)のような巨大な専用建築物を持たず、有力な信徒たちの「家」において、礼拝、祈り、聖餐式の原型的な儀式、会議など、教会として機能するための必要な営みを為していたというのが定説である。また、そうした「家の教会」の多くは、フィオレンツァが指摘しているように、女性が指導的役割を担っていたことも興味深い(「クロエの家の人たち」(一コリ一・一一)、「ニンファと彼女の家にある教会」(コロ四・一五))。


 2. 初期段階から地域教会として存在していた教会

 教会の最初期時代に誕生した最初にして単一の教会共同体は、やがてその規模を大きくしていく。単一の家の教会は、「家」という建築上の制限、すなわち収容人員の制限を伴う。よって、信徒の数が増すにつれ、当該地域に複数の家の教会が形成されていくことは必然である。例えばローマの教会は、パウロがスペイン伝道の橋頭堡にしようと考えていたことから推測して、それを実現するに足る規模、人員、そして経済力を有していたことになる。この点の他、巨大な都市人口を誇るローマという地理的要因を考慮しても、ローマの教会がたった一つの「家の教会」であったとは考えにくい。現にローマの信徒への手紙16章を見ても、プリスカとアキラ、そしてその家に集まる信徒たちに挨拶した後、彼らと並ぶような関係者の名前を次々と挙げ、それぞれの家の指導者に挨拶をしていっている。つまり、「家の教会」が複数あったということだ。その数はパウロによる他の真正書簡における言及数と比しても相当多く、さすがはローマといった感がある。まとめると、地域に誕生した単一の教会は、やがて地域に複数の教会を展開することになり、それらはネットワークを保ちつつ、「地域教会」として存在していった。


 3. 地域教会から複数地域間教会へ

 「家の教会」が単一教会より始まり、その地域での伝道活動の種蒔きが実りを結び、やがて地域に複数の家の教会を展開するようになった。そうして成立した地域教会共同体は、遠隔地に出向いての宣教活動によってその地に単一教会を生み出し、その単一教会がまた増加しつつ各個教会同士でネットワークが構築され、同地で地域教会を形成していった。こうした連鎖反応が地域から地域へと及び、初期キリスト教会はその勢力を拡大していった。そして、複数の地域教会同士が互いに繋がり合うことにより、そこに「複数地域間教会」というインターリージョナルな大ネットワークが誕生する。

 こうした複数地域間教会の具体的モデルとして、ヨハネ系統のそれを挙げ得る。ヨハネ黙示録は、「アジア州にある七つの教会」(黙1:4)、つまり広域地域に含まれる複数の地域教会へ送られたものであり、各地域における基幹的な教会を拠点に、さらに周辺の各個教会へと回覧されたものと推定される。本書が複数地域を含む広域地域レベルで共有されていたことは、「七つの教会」において広大なネットワークが構築されていたことの証左である。そこでは、共通のヨハネ系統の神学や福音理解が共有されていたということになる。

 複数地域間教会が生まれていくムーブメントは、パウロおいてはさらに明瞭に認められる。パウロの最初の伝道旅行は、バルナバと共にアンティオキア教会によって派遣される形で着手された。ルカの証言によれば、その二人に対し礼拝時に聖霊によって神意が示された後、教会に祈られ、手を置かれ、そうして任職されて出発したという(使徒13:1-3)。第二次宣教旅行もまた、使徒言行録の記述ではパウロの発案という形にはなっているものの(使徒15:36以下)、アンティオキア教会の同意と協力があったことは、「兄弟たちから主の恵みにゆだねられて」(使徒15:40)という記述から明らかだ。パウロが従事した宣教・伝道は、決してパウロの独壇場ではなかったのである。

 当初、第二次宣教旅行の目的は、第一次宣教旅行の際に建てられた諸教会の様子を見るためのものであった(使徒15:36)。第一次の際に形成された諸教会の相互で自発的に連携がとられていたかどうかまでは定かではないが、他の教会の営為を別の地域の教会でも称賛するのが常であったパウロの行動から推察して、”彼を介して”それらの教会が繋がりを保っていた可能性は高い。少なくとも、パウロを仲介しつつアンティオキア教会をセンター教会として、ある程度の教会間ネットワークが構築されていたことは間違いない。

 第二次伝道旅行においてパウロは、既に創設されたデルベ、リストラを訪問し、その過程でテモテもメンバーに加えられた。ところが、当初の計画と想定外の事態が生じた。著名な「聖霊による禁止」である。これによりに宣教旅行は変更を余儀なくされ、ガラテヤ、フリギアを経由して、マケドニア州に到達することになった。そうして、第二次並びに第三次宣教旅行が、キリキア、ガラテヤ、フリギア、マケドニア、アカイアという、長径千キロは越えるであろう楕円形の領域で展開されることになったのだ。各地域では、創設された単一教会を拠点に伝道が為され、周辺に複数の教会が誕生して地域教会が形成され、これが別の地域でも生じることにより、各地域に地域教会が複数形成されるに至った。その後、各地の教会、地域教会は、後述するように互いに情報共有や支援を交わし合うことにより、複数の地域教会同士が連携し合うようになっていく。複数地域間教会という、インターリージョナルな教会の成立である。

 ここまでの結論として、表題の通り、教会はその初期時代より複数地域間教会として存在していた。情報共有があれば、そこには互いの状況を思い巡らしての祈りが生まれる。祈りはまた、愛に根ざす行動を生み出す。実際、祈りと献金を中心にしての愛の働きがもたらされた。


 4. 地域教会・複数地域間教会のネットワーク化

 これまで、単一教会から地域教会、そして複数地域間教会へという拡大のプロセスを見てきた。この実現には、既に幾度か本稿に現れているキーワードである「ネットワーク化」が必須である。本パートでは、パウロがいかなる方法によって地域教会並びに複数地域間教会の実質化を推し進め、教会間のネットワーク化が形作られていったのかについて、パウロの全体教会政治的な戦術も含めて述べたい。焦点は主に以下の三つに絞られる。1、訪問・派遣と書簡を通じての指導と助言。2、励ましと祈りを通しての教会間の結束強化。3、献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築。


 4.1. 訪問・派遣と書簡を通じての指導

 4.1.1. 自らの訪問と弟子の派遣による指導

 パウロが自ら現地の教会に出向き、顔と顔とを合わせての指導に努めていたことは、先に述べたところの第二次宣教旅行における当初の目的からも明らかである(使徒言行録一五・三六)。自らが赴くことができない場合には、彼は弟子たちを地域教会に派遣した。実例としてはテモテ(一コリ四・一七、一テサ三・二、フィリ二・一九)、テトス(フィリ二・二二、テト一・五)が挙げられる。パウロが派遣するのとは逆に、教会側がパウロに助け手を派遣し、その人をまた返すというケースもある(エパフロディト、フィリ二・二五以下)。以上、訪問と派遣による指導が、人を仲介としての人と教会、並びに教会間、地域教会間のネットーワーク化に寄与したことは確かである。


 4.1.2. 書簡を通しての共通福音理解の指導

 次は書簡を通じての指導である。ローマ、コリント、ガラテヤ、フィリピなど、パウロが複数の地域教会に書簡を送り、福音理解、生活上の指導、勧告、励ましを行なったことは、パウロ書簡が一様に物語っていることである。一般に書簡とは、特定の個人または集団に対して、特定の事情を背景に特定の目的をもって書き送られるものである。しかし、回覧されるスタイルの書簡となると事情は違ってくる。例えばフィレモン書のようにフィレモン個人とその関係者、さらにフィレモンが所属する家の教会にも宛てて書かれた書簡もそうなるが、ある地域教会に送られた書簡がその地域に点在する各個教会にも回覧されていたであろうことは、かねてより有力な説として知られている。古くはシカゴ学派の新約聖書学者であるジョン・ノックスにより”Philemon Among the Letters of Paul”において、フィレモン書がフィレモン個人にのみ宛てたものではなく、彼の家の教会で読まれ、複数の教会で回覧されることを前提に執筆されたものであることが提唱された。パウロの真正七書簡には含まれない「偽名書簡」になるものの、コロサイの信徒への手紙にはオネシモに言及されている点から、諸説あるがフィレモン書とコロサイの教会との関係性が示唆されている。加えて、コロサイ四・一六には「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください」と記されている。したがって、少なくともパウロの書簡が模倣されるようになった時期には、パウロ書簡が複数教会で回覧されるようになっていたことは確実であり、上述のパウロ真正書簡のフィレモン書から推測しても、おそらくはパウロの時代から書簡の回覧が行われ始め、パウロもまたある程度それを前提に手紙をしたためたということになる。ということは、書簡を通じての指示や指導によって、複数の教会に共通の指示、あるいは共通の福音理解を根付かせようという全体教会政治的戦術が認められることになる。そう考えると、パウロがガラテヤやテサロニケの教会、コリントの教会に対して、時に懇切丁寧に、時に手厳しく福音理解の修正を指導したのも、教会間で共通の福音理解が保持されるようにとの意図から執られた行動であるとの洞察が導かれる。


 4.1.3. ロマ書における全体教会政治の戦略性

 パウロのこのような戦略に基づく行動は、彼の管轄下にある教会だけに留まらない。その代表例が、既に2Aで触れているところのローマの教会である。ローマ一五・二二に「イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います……イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです」と書かれている通り、パウロはローマをスペイン宣教の足がかりとしたいと考えていた。察するに彼は、ガラテヤやコリントの教会における福音理解の齟齬という苦い経験から、それまでの書簡における福音に関する論述を綜合させ、一つの書でもって福音の全容を提示しようと企図したのであろう。従来の書簡の中でも最大規模にして、なおかつ最も内容的に整備された大書簡を完成させた。それこそ、ローマの信徒への手紙である。その論述は深遠ではあるものの、順序立てて整然と整えられたその様は、さながら「福音入門書」である。この「入門書」という体裁こそ、個別の教会への指導における各個教会という限定範囲を越えた、地域教会レベル、複数地域間教会レベルでの共通の福音理解を目指す戦略性の表れであろう。


 4.2. 励ましと祈りを通しての教会間の結束強化

 パウロは自らの訪問、弟子の派遣によって、あるいは書簡によって、他の教会の情報を別の教会へと知らせ、教会の信仰と愛の業に関する情報共有を行なった。例えば、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」(一テサ一・六-八)とあるように、テサロニケの教会の奮闘がパウロを介して諸教会に知らされることにより、祈りと励まし、信仰と愛と希望(一テサ一・三)とによる教会間の結束が強化された。


 4.3. 支援や献金を通じての複数地域間教会同士の関係構築

 フィリピの教会は、パウロの宣教活動を支援することを介して結果的に諸教会を支援した(フィリピ四・一五-一六「もののやり取りでわたしの働きに参加した教会……テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして……」)。エフェソの教会は、同地におけるパウロの二年以上に及ぶ長期滞在活動を支援した(使徒一九・一以下)。ガラテヤの教会もまた、パウロが病を患っていた時、彼を手厚く看病した(ガラテヤ四・一三-一四)。これらの地域教会は、パウロの活動を支えることを通じて持てる力を他の教会に捧げ、教会相互の愛の交わりに自身を置いていたのだ。教会のこうした支援を書簡の中で言及することによって、各個教会、地域教会、複数地域間教会の全てを一つの教会として繋げようとするパウロの全体教会構想と、それを達成するための全体教会政治的戦略を読み取ることができる。

 地域教会や複数地域間教会が他系統の地域教会を献金によって支えようとする実例は、何と言ってもエルサレム教会支援プロジェクトであろう。パウロはマケドニア州やアカイア州の地域教会群に働きかけ、エルサレム教会のための献金を実に積極的に促した(二コリ八・一以下「自分から進んで聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出た」、ローマ一五・二六-二七「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」)。このプロジェクトについてパウロは、「異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ一五・二七)と述べてはいるものの、この理由だけに留まるものではあるまい。パウロの全体教会のグランド構想において、エルサレム教会は決して欠くことのできないものであり、それゆえに、無理にでも異邦人教会とエルサレム教会との関係性を維持しようと努めたのだろう。このテーマについては、後述の5Aで個別に扱うものとする。


 5. エルサレム教会

 パウロがエルサレム教会のために、広域の複数地域間教会に献金を呼びかけたことは彼の書簡が物語るところである。その目的として当然、災害や飢饉、あるいは恒常的な貧困といった困難の渦中に、エルサレム教会がおかれていたからであろう。ただ、それだけでもないように思われる。先ほど引用したロマ書の箇所には、エルサレム教会が霊的なものをもたらし、異邦人教会が肉のものをもって応えるという主旨の文言が綴られていた。ここから察するに、彼はエルサレム教会を全教会の霊的なルーツ、歴史的なレガシーとして、なくてはならないものと見なしていたという見方が導かれる。

 それでいて、ファリサイ派のエリートであったあのパウロが、紙数に限りがあるため詳述は避けるが、おそらくは今後の異邦人宣教・伝道を熟慮してのことにしても、その大きな障害となると予測される割礼を、異邦人の律法遵守事項から外したことは衝撃だ。その着想には、非ユダヤ人にとどまりながらもユダヤ教信仰を持つ、通称「神を恐れるものたち」、ゴッドフィアラーの現状を見ての経験則と、割礼が今後の異邦人宣教にとって大きな障害となるだろうとの予測が影響した可能性がある。律法の最重要事項にしてユダヤ人のアイデンティティであり気高き誇りである割礼を、メンバーシップ必要要件から除外するなど、私でさえ信じがたい大ナタ捌き、入会規定に関する神学上のコペルニクス的転回である。なおかつエルサレム教会に乗り込み、いわゆる「エルサレム会議」で合意を取りつけようなど、無謀にも程がある。それでも彼は、その場で合意をもぎ取ったのも驚きだ。その会議の際にも多額の献金をエルサレム会議の議員たちの目の前に積み上げ、政治的豪腕でもって交渉を成功させたのではあるまいか、とさえ下衆の勘ぐりをしてしまう。さすがにそれはないとしても、異邦人伝道というビジョンを抱き、これほどまでの信仰的・神学的豹変ぶり、そしてその大胆な行動、政治的駆け引きには、尋常ならざるものがある。

 こうしたパウロの一連の言動が、彼の全体教会のグランドビジョンに起因するというのが私のテーゼである。エルサレム教会の少なくとも一部からは、強烈に嫌われもし、反対もされもし、嫌がらせまで受けもしていたパウロであれば、早々にエルサレム教会に見切りをつけてもいいはずである。にもかかわらず、彼はエルサレム教会と是が非でも関係を維持しようと粉骨砕身し、文字通り複数の州を股にかけて東奔西走して支援プロジェクトを達成しようとしたのだ。 

 特筆すべきは、彼の奔走と祈りは、エルサレム教会というユダヤ人キリスト教徒のみに向けられてはいないという点である。ロマ書の九-一一章において、パウロは長々と非キリスト教徒のユダヤ人の救済を論じているし、終生、ユダヤ教徒の救済を諦めることはなかった。パウロの全体構想において、ユダヤ人の救済もまた欠かすことのできないものであったのだ。推測の域を出ないが、異邦人伝道の橋頭堡にローマの教会を選んだように、ユダヤ人伝道のために、ユダヤ人には定評のあったエルサレム教会を足がかりとしようと企図していたのではないか。これを失えば、元よりユダヤ人から迫害を受けていたパウロは、ユダヤ人伝道の取っ掛かりを完全に失うことになる。よって、ユダヤ人キリスト教徒との一体のためにも、そしてユダヤ人伝道の展開のためにも、エルサレム教会は彼にとって必要不可欠なものだった可能性がある。とすると、パウロの全体教会のグランド構想は、異邦人を果てしなく教会に抱き込み、かつ、全イスラエル(ユダヤ教シナゴーグ)を包含するものである。発想の実像としては、ユダヤ教から完全分離して独自存在となったキリスト教が、ユダヤ教に伝道のモーションをかけていくという一般的構図よりも、むしろユダヤ教の正統後継者となるべきユダヤ教の亜種であった教会が、旧来のユダヤ教をも巻き込むことで、イスラエル全体の刷新が図られるというものだ。この構想は、自らの教会こそイスラエルの真の正統継承者という自己理解を持つマタイと似ている。尤もマタイは、パウロの時代よりもユダヤ教からのキリスト教会の分離が進行した時代にあったし、パウロ系とは若干の距離を置いているようにも見えるが。

 もう一つ、彼のグランド構想で特筆すべき点は、既にエルサレム会議に持ちかけた彼の提案に示されているように、入会必要要件として、一方で異邦人は割礼なしとし、他方でユダヤ人の割礼文化は否定せず、というダブルスタンダードを導入していることだ。ダブルスタンダードが、律法に関する彼の神学と馴染んでいるとは思えない。その理由は、双方の文化上の特性を考慮し、グランド全体教会の中で双方の住み分けを保とうという全体教会政治的判断があるからではないか。住み分けの乱立はカオスを招来するから、住み分けに伴うダブルスタンダードの背後には、グランド全体教会を貫く公同的な基準を必要とする。

 以上が、「パウロの全体教会政治学」という主題に関する私のテーゼである。この5章については詳細を書き切れず、私としても論述の組み立て途上にあるが、この視点をもって改めてパウロの宣教・伝道活動の意図を再構築する学問的余地はあるように思える。


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

 「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第6回「エルサレム入城」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 今回取り上げている福音書の場面は、イエスのエルサレム入城の際に多くの人々が迎え出て歓呼の声を上げたという出来事です。四つの福音書すべてにおいて記されている共通のエピソードの数は限られていますが、今回の記事はそうした数少ない中の1つです(マタイ21・1-11、マルコ11・1-11、ルカ19・28-40、ヨハネ12・12-19)。また、今日の教会では、復活祭の1週前、エルサレム入城の出来事を記念する礼拝が行われるのが通例です(多くのプロテスタント教会では「棕櫚の主日」、教派によって「枝の主日」「受難の主日」「聖枝祭」と呼ばれています)。


 ガリラヤからついにエルサレムへ

 ガリラヤを中心に、時には周辺の異邦人世界にまで足を延ばして活動されたイエスと弟子たちは、ついに十字架と復活の場所となるエルサレム入りを果たします。互いに共通している点が多いために”共観福音書”と呼ばれているマタイ、マルコ、ルカにおいては、イエスの活動はガリラヤから始まってエルサレムに至るという流れになっていて、エルサレム入りする回数は1回限りです。ところがヨハネにおいては、イエスがエルサレムに上って行ったことが3回記されています(ヨハネ2・13、5・1、11・55)。多くの研究者は、イエスは実際には数回に渡ってエルサレムへと赴いたであろうと考え、ヨハネの記述の方が史実を反映していると見なしています。マタイとルカはマルコを参考にしてそれぞれ自分の福音書を執筆したというのが定説ですから、ガリラヤからエルサレムへの1回限りの旅程はマルコに由来するということになりますが、その動機については様々に議論されています。筆者自身は、エルサレムへと至る道、すなわち受難死へと繋がる道をイエスが決意をもって歩んでいったことを劇的に描き出すために、マルコがそのような物語構成にしたのではないかと考えています。


 真の王として即位したイエス

 物語の進行順に従って見ていくと、まず、マタイ、マルコ、ルカが、「オリーブ山」のふもとにある「ベトファゲとベタニア」に一行が差し掛かった時のことを述べています(マタイ21・1-6、マルコ11・1-6、ルカ19・28-34)。その後の展開である「子ロバ」のエピソードに目が行きがちですが、オリーブ山からエルサレムへと近づいていく行程は重要です。その理由は、旧約時代、エルサレムで即位する新王は、オリーブ山からキドロンの谷を下ってギホンの泉で王となる油注ぎを受けて、そこからまた上ってエルサレムへ入っていったからです(参照、列王記上1・28-40)。

 エルサレム入城には、かつてのダビデを想起させるような戦勝後の凱旋をイメージすることが多いでしょうし、実際、このエピソードはエルサレムへの勝利の入城とも呼び習わされています。これと共に、この物語のルーツとして考えられるもう一つの主題が、王の即位です。イエスは即位した王としてエルサレム入りを果たされたということが、エルサレム入城の物語に被せられていると思われます。


 「子ろば」の意味

 マタイ、マルコ、ルカは一致して、「二人の弟子」がイエスによって派遣され、「ろば」を連れて来るよう命じられたことを記しています。「子ろば」についても一致しており、ゼカリヤ書9・9の記述が意識されています。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」


 「子ろば」には預言の成就も意図されていますが、やって来る新しき「王」が「高ぶる」ことのない柔和な方であることも暗示されています。他方、マルコとルカには「だれも乗ったことのない(子ろば)」、「なぜ、そんなことをするのか」(マルコ)、「なぜほどくのか」(ルカ)等の言葉が含まれていますが、自分が主張したい以外の事は物語からカットする傾向のあるマタイでは省かれ、その代わりに、マルコとルカが書いていない預言の言葉を明記しています(ヨハネ12・15でも引用されています)。

「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」(マタイ21・4)

この言葉は基本的には先ほどのゼカリヤ書9・9の引用ですが、イザヤ62・11等と混合されて内容が改変されています。さらにマタイは、ゼカリヤ書の引用に符合するように、「雌ろば」を登場させています(マタイ21・7)。こうした旧約聖書における預言との一致を強調する点は、マタイに見られる顕著な特徴です。

 また、「荷を負うろばの子」という表現に、勇壮な軍馬が象徴する戦いや勝利ではなく、平和のイメージを感じ取ることが出来ます。戦いでの勝利の凱旋と聞くと、凱旋門を思い起こすのではないでしょうか。著名な凱旋門の1つ、パリのエトワール凱旋門は、ナポレオン・ボナパルトの命により建築されましたが、彼が生きてその門をくぐることはありませんでした。それが実現したのは、彼の死後、パリに移葬された時でした。ナポレオンとは対照的に、イエスは勇猛と勝利に代えて、平和を実現する柔和な王であることが示されています。

 エルサレム入城の際、イエスを迎えた多くの人々が採った行動は、各福音書で小さな相違はあるものの、概ね一致しています。すなわち、「自分の服を道に敷き」(マタイ、マルコ、ルカ)、「枝を切って道に敷き」(マタイ、マルコ)、人々は「ダビデの子にホサナ」(マタイ)、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」(マルコ)と叫びました。人々が棕櫚の葉を振っているイメージは、ヨハネ12・13における「なつめやしの枝を持って迎えに出た」という言葉に由来しています。


 ヨハネとルカの独自部分

 ヨハネの後半部分では、後に弟子たちがエルサレム入城をゼカリヤ書9・9の預言の成就として悟ったという事後談が付記され、群衆が参集した理由がラザロの甦りと結び付けられて説明されています(ヨハネ12・16-19)。この箇所には、「栄光」「しるし」「証し」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。同時に、この箇所には、「栄光」 「証し」「しるし」というヨハネに特徴的な用語が含まれています。ヨハネ福音書の読者に復活の出来事を改めて想起させることで、イエスが復活の力を持つ、神と等しい方として入城を果たしたことを「証し」しているのでしょう。

 ルカにのみ見られる記述が、「お弟子たちを叱ってください」というファリサイ派からの要求に対してイエスが返答した「もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」という言葉と(ルカ19・39-40)、エルサレム神殿崩壊預言です(ルカ19・41-44)。前者は、主を褒めたたえる声を誰も封じることはできないということです。後者は、紀元70年、ローマ軍によってエルサレムが破壊された出来事を指しています。当時、イエスを王として迎えて歓喜に沸いた美しき都エルサレムが、40年後には破壊の限りを尽くされたことを思うたびに、運命の悲哀を感じてやみません。


 絵画紹介

 今回紹介する一枚は、19世紀のフランスの画家ジャン=イッポリ・フランドラン(1809ー64)による『エルサレム入城』(1842年)です。彼はフランスの新古典主義の継承者であるジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの弟子で、彼自身も新古典主義の道を踏襲しています。フランドリンは肖像画や宗教画を多く手掛け、アングルが裸婦像を多く描いたのとは対照的に、男性の裸体画を好む傾向があります。

 『エルサレム入城』を一見して驚くのは、とても19世紀の絵画とは思えないことです。平面的な構図とフレスコ画のような配色、そして真横からのイエスの描画が特徴的で、まるでゴシック時代の絵画を見ているかのようです。“新古典主義”の彼はルネサンスやバロック風の宗教画も描いているので、ゴシック画を意識していることは明らかで、また、イエスの真横からのアングルは、彼の手による男性の裸体画や肖像画にも見られる手法です。静謐で一見単調な絵の中には、ひざまづく者、手を合わせて祈りの姿勢を取る者、乳児を高く挙げる者といった歓迎する人々が画面の右側に展開している一方で、左側のやや暗い空間は、いぶかしげな表情で隣の人に意思表示する者や硬い表情を浮かべている人等、歓迎ムードとは程遠い様相を呈しています。これぞまさに、イエスを囲む人々の“群像”と言えます。


『エルサレム入城』1842年 ヒポリット・フランドリン Entry into Jerusalem, Hippolyte Flandrin

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第4回「五千人の供食」

「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第4回「五千人の供食」

(『信徒の友』2018年7月号所収)


 はじめに

 今回の場面は、主イエスを通して備えられたパンによって、数千人が恵みに満ち足りたという供食の奇跡物語です。ここで描き出されている“群像”は、この大いなる出来事を目撃した弟子たち、群衆、そして、ヨハネ福音書だけが記している「五つのパンと二匹の魚を持つ少年」です。四福音書のすべてが書き留めているエピソードは大変限られているのですが、これはその一つです(マタイ14・13-21、マルコ6・30-44、ルカ9・10-17、ヨハネ6・1-14)。


 定説では、マルコ福音書が一番先に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にして自分たちの福音書を執筆したとされています。マルコは一行が船に乗ってやって来た場所を「人里離れた所」と記し(マルコ6・32)、マタイもそれを踏襲して「(イエスは)人里離れた所に退かれた」と述べています(マタイ14・13)。マルコとマタイが書き留めた「人里離れた所」と訳されている語はとても滋味豊かな苦みのある言葉で、元の原語は「荒れ野」です。そう、かつてモーセが神からの召命を受けた場所であり(出エジプト記3・1)、モーセに率いられたイスラエルの民が神から与えられたマナを口に含んだ地であり(出エジプト記16・1)、主イエスの到来を叫ぶ洗礼者ヨハネの声が響き渡った所、それが「荒れ野」に他なりません。荒れ野は人が生きることを拒む場所ですが、同時に、神がご自身と恵みを示される聖なる所でもあります。

 今、読者の皆さんが立たされている場所は、人生の「荒れ野」であるかも知れません。それが、生きる力を根こそぎ奪い取るものであることに変わりはありませんが、しかし、その荒れ野こそはまた、神からのマナ、そして、キリストからのパンと魚を味わい知る所に他ならないと、聖書はあなたにささやいています。

 殺到する群衆としばし距離を取るために「退いた」と明記しているのがマタイとルカです。そんな一行を群衆がなおも追ってきた事実について、四福音書は口をそろえて証言しています。殺到する群衆は確かに危険な凶器とさえなり得ますが、我が身を振り返るならば、助けを一途に求めるゆえの彼らの必死な行動を責めることはできません。ヨハネはそうした事情について「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と説明しています(ヨハネ6・2)。

 渇き切った大地にうるおいをもたらす清水のような一言を、マルコとマタイが書き残しています。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を“深く憐れみ”、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)。「深く憐れみ」と訳されている語は、我が身をふるわすような激情の湧きいずる場所と考えられていた内臓に由来します。五臓六腑で感じるほどの「飼い主のいない羊」に対する愛情のほとばしりは、今回の大いなる奇跡の源泉にほかなりません。実に神の愛は、不可能を可能にします。


 状況を冷静に見ていた弟子たちはイエスに、群衆が各自で食料を調達できるよう彼らをすぐに解散させることを提案します。ところがイエスは、何のためらいもなく弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物(原語では「パン」)を与えなさい」と言い放ちました(マタイ14・16、マルコ6・37、ルカ9・13)。弟子たちは人の世界を見ていましたが、イエスは神の世界を見ていたのです。マタイだけが述べている「行かせることはない(直訳では、「彼らが立ち去る必要はない」)」というイエスの片言隻句には、身も心もしびれてしまいます。信仰が現実の壁を跳躍していくような突き抜けた世界が示されているからです。

  これと対照的なのが、なお目に見える現実に縛られ続ける弟子たちの言葉です。「わたしたちには、パン五つと、魚二匹しかありません」(ルカ9・13)。私たちの普段の営みの中で、これと同じ次元の言葉を、いったい何千回唱えていることでしょうか。確かに、「男が五千人」(マルコ6・44)とあっては、そんなものなど「何の役にも」(ヨハネ6・9)立ちません。けれども、イエスはわずかなパンを手にしつつ「天を仰いで」「賛美の祈り」(マタイ、マルコ、ルカ)または「感謝の祈り」(ヨハネ)をささげました。ここでも、イエスの眼差しは天という神の世界に注がれています。

 四福音書間で細かい記述の違いはあるものの、「パン屑」が最初にあったパンの量よりも遙かに多くなっていること、しかも「十二の籠(十二使徒の「十二」と合致)」という点で一致しています。加えて、パンと魚がどのようにして増えたのかについても、四福音書は口を閉ざしています。なぜ何も語らないのでしょう。誰もが抱くこの不可思議について、一言だけ述べておきます。パンに象徴される“必要”が満たされる方法は色々あります。方法が奇跡的かどうかは大した問題ではありません。何であれ必要が満たされたという事実と、そのことを感謝することこそ肝要です。


 供食の奇跡が二つあるマタイとマルコ

 マタイとマルコには、この供食の奇跡物語とよく似た記事がもう一つ書かれています(マタイ15・32-39、マルコ8・1-10)。前者の「五千人の供食」に対して、後者は「四千人の供食」と呼ばれることもあります(ただし、これらの数字は男性だけの数ですので適切な言い方ではありません)。マルコを参考にして書いたマタイは、それほど気にすることなくマルコが書いている通りを踏襲したように見えます。一方、ルカはマルコにおける2回の供食を不要と思ったのか、1回に省略しています。何よりマルコの個性が際立っていて、8・1の「また」という言葉添えの他(「また」同じ状況なのに弟子たちは同じ失敗を繰り返す)、詳述は紙幅の関係でできませんが、弟子たちが何度奇跡を目の当たりにしても、いくらイエスから特別な教えを受けても、少しも向上のきざしさえ見られないという、弟子の無理解があらわにされています。その意図については無数の学説が出されていて未だ決着はついていません。ただ言えることは、人知を越える大きな奇跡を見たところで信仰の足しには必ずしもならない、ということです。海が割れるところやマナの奇跡を体験したイスラエルの民もそうでした。よって、信仰的な体験がないことを恥じる必要なまったくありません。恥じるべきは、信じて一歩を踏み出すことをためらうことです。


 ヨハネ福音書における少年の存在

 ヨハネの方に含まれているたった1節の言葉が、このパンと魚の奇跡を不動の物語として確立させたと言っても過言ではありません。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、何の役に立たないでしょう」(ヨハネ6・9)。アンデレに「役に立たない」とバッサリ評されながらも、恐らくは持てるものすべてをイエスに差し出した少年の行動。後代のキリスト者たちは、この小さき少年の決意に、信仰者として踏み出すべき無限に大きな一歩を見て取りました。自分がどれだけ持っているかというメンツなど捨ててしまいましょう。大切なことは、持っているものをすべて、主なる神にささげられるかどうかです。


 ー 絵画紹介 ー

 今回ご紹介する絵画は、ティツィアーノやヴェロネーゼと共にヴェネチア派を代表するイタリアの画家ティントレットの『パンと魚の奇跡』(1545-50年)です。供食の奇跡物語を題材とした絵画は、聖母子像やキリストの十字架、あるいは聖人たちを主題としたものと比べると、かなり数は限られています。しかし、例えばイエスが行った種々の癒しの奇跡物語やカナの婚礼などといった福音書でお馴染みのエピソードの一つとして描かれることは、古代教会時代からたびたびありました。例として、イタリアのラヴェンナにあるサンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂にあるモザイク画(6世紀後半)や中世時代の修道院の壁画、近代では、ルネサンス期のオランダの画家ランバート・ロンバード、そして、彼の孫弟子であるブルーマールトの作品を挙げることができます。

 ティントレットは、少なくとも1545-50年と1580年頃に、同じ主題で二枚描いています。いずれの絵にも、パンと魚をイエスにささげた少年の姿が描き込まれています。現実に捕らわれてイエスに抗弁する弟子の姿も見られます。これらがどんなメッセージを持っているか、改めてここで語るまでもないでしょう。