2026年1月28日水曜日

説教者聖書注解をする人ための聖書注解 マタイ24:32-35

説教者聖書注解をする人ための聖書注解

マタイ24:32-35「いちじくの木の教え」


2026年1月24日土曜日

説教や聖書研究をする人ための聖書注解 マルコ2:23-28「安息日に麦の穂を摘む」

説教や聖書研究をする人ための聖書注解

マルコ2:23-28「安息日に麦の穂を摘む」


光の教会【ひとこと説教】




光の教会【ひとこと説教 27】

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」
ヨハネによる福音書 7章37節

 「渇き」は恐ろしいことではありません。渇くからこそ、人は神を求めるからです。
 それよりも恐ろしいのは、渇きを感じなくなるほど慣れきってしまった“惰性の信仰”です。求める心が鈍り、満たされたいという願いすら薄れてしまう時、信仰は静かに力を失っていきます。


光の教会【ひとこと説教 26】
「人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ること…人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは、神の賜物」
コヘレトの言葉 3章12-13節

 キリスト教では、「(酒を)飲み、食う」ことにネガティブな向きもあります。しかし、“「神の賜物」として楽しめ”、というメッセージもあります。
 ただし、ハメを外すのは、また別の話ですが。


光の教会【ひとこと説教 25】
「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました。」
詩編31編8節

 主なる神が私の悩みを知っていてくださる。
 苦しみそのものは無くならないとしても、それだけで人は救われるものです。

光の教会【ひとこと説教 24】
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」マタイによる福音書 1章23節

 「インマヌエル」──「神は私たちと共におられる」という意味です。神は離れたところにおいでになるのではなく、わたしたちと共にいてくださいます。私たちの弱さ、恐れ、苦しみの中に、神は共にいてくださいます。

 光の教会【ひとこと説教 23】
「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます」詩編56編4節

 私たちの心には、恐れと神への信頼が同時に存在することがあります。 信仰に生きる人とは、恐れを知らない人ではありません。 むしろ、自分の中にある恐れを認め、それでもなお神に依り頼む人です。
 信仰とは、揺るぎない確信ではなく、揺れ動く心を抱えながらも神に向かう姿勢です。 不信や不安を抱えていることを自覚することこそ、神との真の関係の始まりです。 恐れの中でこそ、私たちは神の力と慰めを深く知るのです。


 光の教会【ひとこと説教 22】 
「しかし、風の中にも…地震の中にも…火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」列王記上 19章11–12節

 神の存在は、決して派手な現象によって証明されるものではありません。それはむしろ、心の奥に静かに響く、ささやくような声によって感じ取られるものです。





 光の教会【ひとこと説教 9】
「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」
マタイによる福音書 26章38節

 いわゆる「ゲツセマネの祈り」における、弟子たちに対する主イエスの言葉です。主イエスから離れず、共にいること。それが、弟子に最も求められることです。


 光の教会【ひとこと説教 8】老いて失いながら、旅立ちの装いを整え
「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る」
コヘレトの言葉5章14節

 老いていき、すべてを失っていくこと、それは必然ではあるものの、底知れない痛みを伴います。
 ただ、そうして失いながら人は、生まれた姿に戻り、旅立ちの装いを整えます。


 光の教会【ひとこと説教 7】
「神に従う人の道を主は知っていて下さる」詩編1章6節

 その道は辛く、平坦ではありません。
 ただ、茨の道を歩くあなたの辛い気持ちは、神が心に留めてくださっています。


 光の教会【ひとこと説教 6】
「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」ヘブライ人への手紙 11章8節

 信仰とは、「行き先も知らずに出発」することです。


 光の教会【ひとこと説教 5】
「食事をするのは笑うため。酒は人生を楽しむため」コヘレトの言葉 10章19節

 食事や酒は、人と語り合い、共に良き時を過ごすためのもの。
 そこで笑うことは、生きることの原動力です。


 光の教会【ひとこと説教 4】
「指導者に英知が欠けると、搾取が増す。」 箴言28章16節

 二千数百年前の言葉ですが、今も寸分違わず、その通りです。


 光の教会【ひとこと説教 3】
「打ち砕かれた心を包み……」イザヤ書 61章1節

 私たちの心が、時に「砕かれて」散ってしまうようなことが起こります。そんな時、私たちは「なぜこんなことが」と思わずにはいられません。
 しかし神の真意は、砕け散った私たちの思いを一つ一つ拾い上げて、再び一つとなるよう、繋ぎ合わせて下さることです。


 光の教会【ひとこと説教 2】
「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」「これを聞いた者は、年長者から始まって…一人また一人と立ち去って…」ヨハネによる福音書 8章7-8節

 これこそ、年長者のリーダーシップではないでしょうか。



 光の教会【ひとこと説教 1】
「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。」コヘレトの言葉 9章7節

 羽目を外しすぎて悪いことにならない限り、食べて飲むくらいは許されています。むしろ、推奨されています。

2026年1月21日水曜日

説教や聖書注解をする人のための聖書注解 マタイ24:29-31「人の子が来る」

説教や聖書注解をする人のための聖書注解

マタイ24:29-31「人の子が来る」


【小論】「マルコ福音書に対するマタイ福音書の主な修正・改変」

1. マタイ福音書におけるマルコ福音書資料の編集意図と神学的修正——律法理解・イエス像・弟子像を中心に


序論

 マタイ福音書がマルコ福音書を主要資料として用いていることは、資料仮説の枠組みにおいて広く合意されている。しかしながら、マタイはマルコ資料を単純に踏襲するのではなく、叙述の整理、語彙・文体の修正、さらには神学的観点に基づく取捨選択と再構成を通して、自身の福音書を構築している。
 本章は、マルコ福音書に対するマタイの編集操作を詳細に検討することにより、マタイ福音書がいかなる神学的要請のもとでマルコ神学を再解釈し、再構成したのかを明らかにすることを目的とする。とりわけ、律法理解、イエス像、弟子像の三点に注目し、両福音書の神学的方向性の差異を検討する。
 マルコに対するマタイの編集方針は、概ね以下の六点に整理できる。
 1. 記事内容の簡潔化および文体・表現の修正
 2. 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調
 3. ユダヤ教指導者批判の強化
 4. イエス像の修正・補足
 5. 弟子像の修正・補足
 6. 律法理解の修正・補足
  このうち2はマタイ独自の神学的付加を最も端的に示す要素であり、3以下は主にマルコ神学の調整・修正に関わるものである

1. 記事内容の簡潔化および文体や表現の修正(改善、省略、簡略化など)

 マタイは、マルコに特徴的な冗長な描写や感情表現を削減し、叙述を整理する傾向を示す。語彙選択や文法構造の調整を通して、物語の焦点を明確化し、全体として秩序だった叙述を志向している。

1.1. 詳細表現の簡略化

 例えば、マルコ1:32における
「彼らは彼のもとに、悪いところを持つ人々、そして悪霊憑きの全ての人々を運んで来ていた」(ἔφερον πρὸς αὐτὸν πάντας τοὺς κακῶς ἔχοντας καὶ τοὺς δαιμονιζομένους)
という包括的表現は、マタイ8:16では
「彼らは彼のもとに、多くの悪霊憑きの人々を運んで来た」(προσήνεγκαν αὐτῷ δαιμονιζομένους πολλούς)
と簡略化され、叙述の焦点が整理されている。

1.2. 感情表現の簡略化、冗長表現の簡素化

 マルコ4:38における弟子たちの問い

「先生、私たちが滅びても構わないのですか」(Διδάσκαλε, οὐ μέλει σοι ὅτι ἀπολλύμεθα;)
は、マタイ8:25では
「主よ、救ってください」(Κύριε, σῶσον)
という祈願文形式へと転換され、感情的訴えよりも信仰告白的表現が前景化されている。
 同様に、マルコ1:41の「深く憐れんで」という感情描写は、マタイ8:3では削除されている。

1.3. 物語的説明の整理

 マルコに5:8におけるγὰρを伴っての理由説明の挿入は、マタイ8:29では省略され、叙述の流れが単純化されている。また、マルコ5:35–36に見られる会堂長の娘の治癒奇跡における二段階的展開も、マタイ9:23では簡潔に処理されている。他、説明句の削除(マルコ5:23 // マタイ9:18)、場面描写の簡素化(マルコ6:48 // マタイ14:24)などが挙げられる。

1.4. 「εὐθύς」「εὐθέως」の削減

 マルコ福音書において頻出する副詞 εὐθύς/εὐθέως は、神の国の切迫性と即時的応答を強調する重要な語彙である 。しかしマタイは、これらの語を大幅に削減し(マルコ41回に対しマタイ18回)、物語の緊迫性を緩和している。
 例えば、マルコ1:12の
「そしてすぐに霊が彼を追いやった」(καὶ εὐθὺς τὸ πνεῦμα αὐτὸν ἐκβάλλει)
は、マタイ4:1において
「その時、イエスは導かれて」(τότε ὁ Ἰησοῦς ἀνήχθη)
と書き換えられ、即時性よりも秩序だった導きが強調されている。
 その他の例として、マルコ1:10 //マタイ3:16、マルコ1:30 //マタイ8:14などが挙げられる。他方、εὐθύςを保持している箇所としては、例えば弟子たちの召命記事がある(マルコ1:18 // マタイ4:20、マルコ1:20 //マタイ4:22)。

1.5. 供食の記事の削減

 マルコにおける2回の供食の記事(6:30–44, 8:1–10)を、マタイはルカのように1回に削減することなく、双方を保持している(14:13–21, 15:32–39)。しかし、マルコに顕著な弟子の無理解と叱責のモティーフを弱化している 。

2. 旧約引用・成就句の付加によるユダヤ的正統性の強調

 マタイ福音書の最も顕著な特徴の一つは、旧約聖書の引用と「~が成就するためであった」という成就句の反復的使用である。これにより、イエスの生と働きはイスラエルの救済史の連続線上に明確に位置づけられる。

2.1. 旧約引用の付加・長文化・改変

 誕生物語(1-2章)から受難記事に至るまで、マタイはマルコにはない旧約引用を多数付加している。これらは、イエス理解を「聖書の成就」という枠組みに統合する進学的意図を示している 。
 マタイがマルコに対して独自に付加した旧約引用、また、マルコに記載されている旧約引用を長文化、もしくは改変している用例は、以下の通り。
マタイ1:22-23(イザヤ7:14)、2:5-6(ミカ5:1)、2:15(ホセア11:1)、2:17-18(エレミヤ31:15)、2:23(イザヤ11:1、士師13:5?)、マタイ4:14-16(イザヤ8:23-9:1 LXX9:1-2)、8:17(イザヤ53:4)、9:13(ホセア6:6)、マタイ12:17-21(イザヤ42:1-4)、マタイ13:14-15(イザヤ6:9-10、長文化)、21:4-5(イザヤ62:11、ゼカリヤ9:9)、27:9-10(ゼカリヤ11:12-13、エレミヤと表記されている)、27:46(マルコ15:34の詩編引用をアレンジ)。

2.2. 家系や表現などのユダヤ的要素の強化

 系図(マタイ1:1–17)の付加、イエスのベツレヘム誕生の強調(2:1-12)などは、イエスをダビデ的メシアとして位置づけ、教会のユダヤ的正統性を主張する機能を果たしている。

3. ユダヤ教批判の強化

 マタイ23章における律法学者・ファリサイ派への「不幸だ」宣告は、彼らに対するマルコ福音書以上の批判の度合いを示す。また、27:25における群衆の発言(「その血の責任は、我々と子孫にある」)は、イエス殺害の責任をユダヤ人側に集約する叙述となっている。
 これらは、シナゴーグとの緊張関係の中で形成されたマタイ教会の自己規定を反映する論争的言説として理解されるべきである 。

4. イエス像の修正

4.1. 否定的描写の削除

 マルコ3:21における「身内が取り押さえに来た」「正気を失ったと思われた」という記述は、マタイ12:46–50では完全に削除されている。

4.2. 能力制限表現の修正

 マルコ6:5の
「力ある業を何一つ行うことができなかった」(οὐκ ἐδύνατο ἐκεῖ ποιῆσαι οὐδεμίαν δύναμιν)
という表現は、マタイ13:58において
「多くの力ある業をしなかった」(οὐκ ἐποίησεν ἐκεῖ δυνάμεις πολλὰς)
へ修正され、イエスの能力に起因するものではなく、意志的選択として再解釈されている。

4.3. 職業表現の修正

 マルコ6:3におけるイエスを「職人(τέκτων)」と同定する表現は、マタイ13:55では「職人の息子」とされ、イエスの社会的身分に関する直裁な表現があえて避けられている。

5. 弟子像の修正

 マタイは、マルコに顕著な弟子の無理解モティーフを一貫して緩和または削除する。
 マルコ4:13の厳しい二重修辞疑問文(「この譬えも分からないのか?どうして全ての例えを理解できようか?」)は、マタイ13:18では削除されている。
 マルコ6:52の「パンのことを理解せず、心が固くなっていた」という評価も、マタイ14:33では信仰告白へと置換されている。
 さらに、マタイ16:17–19におけるペトロへの祝福と教会建立宣言は、ペトロと弟子団の肯定的再定位を象徴する付加である。

6. 律法観の修正、律法破棄に見える記述の削除

 マルコ7:19における、食物規定を無意味化しかねない急進的発言
「便所に出て行く……全ての食べ物を清いとした」(καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται…καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα)
は、マタイでは回避されている 。
 また、マルコ2:27
「安息日は人のために設けられたのであって、人が安息日のためにあるのではない」(Τὸ σάββατον διὰ τὸν ἄνθρωπον ἐγένετο, καὶ οὐχ ὁ ἄνθρωπος διὰ τὸ σάββατον)
という安息日論争の核心的な言葉を、マタイは物語構造を維持しつつも意図的に削除している。
 一方、離婚規定(マルコ10:11–12)には、「不定の場合を除いて」という例外条項(マタイ5:32; 19:9)が付加されている。この付加は、単に律法の厳格さを緩和するためではなく、むしろ現実的な運用可能性を高めることで、律法遵守を持続させる意図を示唆している。
 決定的なのは、マタイ5:17–20の追加である。
「わたしが律法や預言者を廃するために来たと思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである……律法から一点一画も決して消え去ることはない」
 ここで律法は廃されるものではなく、成就されるべきものとして、明瞭に再定義される。律法を既に廃棄されたもののように扱うマルコの神学的方向性を修正し、律法の有効性を強調している。

7. 結論

 マタイ福音書は、マルコ福音書を主要な資料として用いながらも、叙述の整理・簡潔化と神学的再構成を通して、独自の方向性を明確に打ち出している。とりわけ、旧約聖書引用および成就句の反復的配置は、教会のユダヤ的正統性を強調する機能を担っており、またイエス像および弟子像の修正は、マタイ共同体が志向する権威理解および共同体秩序を神学的に裏づける役割を果たしていると考えられる。律法理解に関しても、マタイはマルコに見られる律法相対化の傾向を一定程度修正し、律法を廃棄の対象ではなく、「成就」という枠組みの中で再定位している。
 このように、マルコ福音書に対するマタイの修正は決して限定的なものではない。しかしながら、マタイが全体構造においてマルコ福音書を基本的に踏襲している以上、その態度をマルコに対する全面的な拒絶と理解することは困難である。仮にマタイが、マルコに類似した福音書を新たに提示することによってマルコの権威を上書き的に消去しようとしたのであれば、マルコの叙述や神学を明示的に否定する表現が、より多く含まれていて然るべきであろう。
 一方で、マタイがマルコ福音書の部分的編集や補足にとどまらず、独立した福音書の執筆に踏み切った理由は、自身の神学的構想のもとでマルコ福音書全体を再構成する必要性を認識していた点に求められる。マタイは部分的にはマルコと競合的な立場を示しつつも、その基盤を維持したまま包括的な改訂を試みており、この点において両者の関係は、対立ではなく「協働的」関係の範疇に位置づけられると結論づけることができる。

2026年1月16日金曜日

【小論】ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的修正

ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的修正


 ヨハネ福音書が共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を知っていたかどうかについては、古くから議論の対象とされてきた。文献学的には、ヨハネ福音書が共観福音書に直接依存していることを証明するのはほぼ不可能であるというのが、現在の定説である。しかし、物語構造・神学的語彙・人物像の相違を精査すると、ヨハネ福音書の著者が共観福音書の存在と内容を意識しつつ、自身の福音書を構成したと考える方が説得力が高いとする説が、今日では多数派を占めている。
 本章の目的は、ヨハネ福音書が共観福音書の物語と神学を意識的に再構成している可能性を明らかにしつつ、ヨハネの共観福音書に対する姿勢が、やや対抗的ではありつつも排除的ではなく、むしろ「協同」的であること――すなわち、共観福音書の伝承を尊重しつつ、それを深化・拡張する形で自身の福音書とその神学を再構築していること――を論証することにある。
 この目的のために、本章では、ヨハネ福音書が共観福音書の存在を前提としながら、意図的に神学的・物語的修正を施していると推定される箇所を取り上げ、その特徴と意図を分析する。具体的には、以下の四つの観点から検討を行う。

  1.  物語配置の修正:出来事の時系列・位置づけを変更、また、記事自体を変更することで、物語全体の神学的焦点を再構成している点を扱う。
  2. 神学的用語・神学的焦点の修正:共観福音書の概念(例、「神の国」)を別のもの(例、「永遠の命」)に置換するなど、神学的枠組みの再構成を検討する。
  3. 人物像の修正:主要人物の描かれ方の違いを通して、ヨハネ独自の神学的意図を探る。

1 物語配置の修正

1.1. 宮清め(マタイ21:12-17、マルコ11:15-18、ルカ // ヨハネ2:13-22)

1.1.1 配置の相違:終盤から冒頭へ
 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では、宮清めはイエスのエルサレム入城直後に置かれ、宗教指導者との対立、神殿体制との決別を決定的にする事件として描かれている。すなわち、物語構造上「受難物語の引き金」として機能している。
 これに対し、ヨハネ福音書では同じ出来事が公生涯の最初期(2章)に移動している。もしヨハネが共観福音書の伝承を知っていたとすれば、この配置転換は単なる編集上の偶然ではなく、明確な神学的意図に基づく再構成と考えられる。以下では、その意図を考察する。

1.1.2 ヨハネが配置を変えた理由:主要な学説

1.1.2.1 史実としての宮清めはいつ起こったか
 かつては「宮清めは二度あった」とする調和的解釈が提唱されたが、現在の研究ではほぼ退けられ、宮清めは1回限りで、受難の前に起こったとする説が一般的である。その主な理由は以下の通り。
・ヨハネ福音書が後発であるため、先行する共観福音書の伝承を知った上で再配置したと考えるのが自然である。
・宮清めの史実が公生涯初期にあったと仮定した場合、体制側との対立が著しく、その後の伝道活動に重大な支障をきたすることになり、現実的ではないこと。
 以上を踏まえると、宮清めは史実としては受難直前に起こった出来事であり、ヨハネが神学的意図により冒頭へ移したと理解する方が合理的である。

1.1.2.2. ヨハネの神学的意図:イエスを「真の神殿」として提示する
 今日の主流の学説では、ヨハネが宮清めを冒頭に置いた理由は、イエスこそ真の神殿であるという神学的主張を早期に提示するためとされている。
 共観福音書では受難物語の中で、イエスを揶揄する証言として登場する「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」というモティーフ(マルコ14:58 ほか)が、ヨハネでは序盤においてイエス自身の言葉として提示される(ヨハネ2:19–21)。すなわち、共観福音書では敵対者の証言として扱われる言葉が、ヨハネでは神学的意味を帯びた啓示として再構成されている。
 ヨハネ福音書はもともと、イエスのアイデンティティを物語の冒頭から積極的に開示する傾向がある。「言(ロゴス)」(1:1)、「神の子」(1:34)、「世の光」(1:9)といった称号が早期に提示されるのと同様に、宮清めも「イエスの本質を示す啓示的出来事」として冒頭に置かれていると考えられる。
 これに対し、マルコ福音書ではイエスの正体は十字架に至るまで徐々に明らかになる(いわゆる「メシアの秘密」)。ヨハネはこの構造を意図的に反転させ、イエスの本質を早期に提示する物語構造を採用している。
 このように、ヨハネは宮清めを単なる「受難の原因」としてではなく、福音書全体のキリスト論的テーマを提示する象徴的出来事として再構成しているということになる。

1.2. 受難死の日付の変更

1.2.1. 受難死の日付をめぐる共観福音書とヨハネ福音書の相違
 共観福音書は、イエスが弟子たちと共に過越の食事をとった直後に逮捕され、その翌日に十字架刑に処されたと報告している。これによれば、イエスの十字架死はニサン月15日となる。これに対してヨハネ福音書は、イエスの十字架刑を過越祭の準備の日(ニサン月14日)に位置づける(ヨハネ19:14)。すなわち、過越の小羊が屠られる時刻にイエスが死に至るという構図が描かれる。この日付設定は、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29,36)、すなわち、祭儀犠牲として屠られる小羊として理解するヨハネ神学の中心的主張と一致する。ヨハネ19:36において引用される「その骨は一本も折られない」という記述は、出エジプト記12:46における過越の小羊の規定を想起させ、イエスの死が過越祭儀の成就であることを強調する。
 このように、小羊の屠殺時刻とイエスの死の時を一致させる構図は、神殿祭儀の終焉とキリストの犠牲の完成を重ね合わせるヨハネ神学の中心的主題と整合する。

1.2.2. 史実的観点からの検討
 史実としては、ヨハネ福音書の年代設定(ニサン月14日)がより妥当であるとする見解が多数派を占める。その理由として以下の点が挙げられる。
・過越祭当日に死刑執行が行われる可能性の低さ
過越祭はユダヤにおける最重要祭儀にして大規模なものであり、ユダヤ当局が祭りの最中に死刑を執行することは、治安維持の観点からも現実的ではない。聖なる祝祭期間中の死刑執行についても同様である。
・共観福音書による過越の食事の新たな意味づけ
 最後の晩餐を過越の食事とする描写は、イエスの死を新しい契約の制定と結びつける意図が反映されたものであり、ヨハネの編集的構成と考えられる。ただ、共観福音書の伝承を否定しているわけではなく、最後の晩餐における“イエス自身が与えられる食物(パン)”というモティーフは、「屠られる小羊」と過越の食事という主題にも内包されているし、また、イエスが「命のパン」(6:35, 48)、「天から降って来たパン」(6:41, 50)、特に「私が与えるパンは世を生かすための私の肉」という記述にも織り込まれているように見える。

1.3. 最後の晩餐における聖餐制定語の欠如と洗足記事による置換

1.3.1. 共観福音書における聖餐制定記事
 共観福音書における最後の晩餐と聖餐制定語(マタイ26:26–29、マルコ14:22–25、ルカ22:14–20)は、イエスの死を「契約の血」として解釈し、ユダヤ教における過越の食事の後継として、共同体の儀礼的中心に聖餐式を位置づけるものである。
 これに対し、ヨハネ福音書は最後の晩餐を完全に欠いている。最後の晩餐に相当する場面であるヨハネ13章には、パンと杯に関する言及が存在せず、代わりに洗足記事(13:1–20)が配置されている。13:1には、「過越祭の前」と場面設定が為されており、イエスの十字架死は過越祭の準備の日(ニサン月14日)であるから、過越の食事そのものが存在しないことになる。

1.3.2. 洗足記事の導入と神学的意図
 ヨハネが聖餐制定語を削除し、洗足記事を導入した経緯として、以下のようにまとめられる。
・過越の食事が存在しないことによる物語構造的必然性
 上述のように、イエスの死は過越の小羊の屠殺日(ニサン14日)に一致するよう再構成されているため(ヨハネ19:14)、「過越の食事=最後の晩餐」という構図がそもそも成立しない。
・別伝承としての洗足記事の採用
 洗足記事(13:1–20)は共観福音書には存在しない独自伝承であり、ヨハネはこれを最後の晩餐の中心的行為として配置したと考えられる。
 こうして、聖餐制定語が象徴する「儀礼的・祭儀的要素」に対し、洗足記事は、相互奉仕(13:14–15)、愛の模範(13:1「最後まで愛された」)、共同体倫理の形成(13:34「互いに愛し合いなさい」)というモティーフを導入している。つまり、ヨハネは聖餐の儀礼的側面をこの箇所では廃し、イエスの受難死を倫理的実践(愛と奉仕)として再解釈するという神学的方向性を再構築している。

1.3.3. 結論
 ヨハネ福音書は、共観福音書に見られる聖餐制定語を意図的に削除し、代わりに洗足記事を配置することで、最後の晩餐の神学的意味を大きく再構成している。
その背景には、
・過越の食事を欠く物語構造
・独自伝承の採用
・儀礼中心から倫理中心への神学的転換
という複合的要因が存在する。
 この編集方針は、ヨハネ福音書がイエスの死を過越の小羊の犠牲として描きつつ、共同体における愛と奉仕の倫理を聖餐制定の代わりに中心に据えるという、ヨハネ的キリスト論並びに教会論を形成するものである。


2. 神学的用語・神学的焦点の修正

2.1. 共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用――「聞く者」から「信じる者」への転換

 ヨハネ福音書は、共観福音書に特徴的な例え話(παραβολή)、すなわち農業など日常的事象を素材とする比喩的教説を、基本的には採用していない。もっとも、比喩表現そのものが完全に排除されているわけではなく、ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)、8:12(世の光)、11:25(復活と命)に見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的・象徴的講話(παροιμία、10:6)を独自に導入している点は注目に値する。
 以上の不採用と導入は、共観福音書、特にマルコ4章に典型的に見られる「聞く者/悟る者」という例え話の受容構造からの意図的転換を示している。ヨハネにおいて一転して中心化されるのは、教えを「理解する」主体ではなく、イエスを「信じる」主体である。すなわち、例え話を通した段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。
 この神学的重点の移動は、「信じる/信じない」という二分法的構図として福音書全体に体系的に配置されている。ヨハネ1:12では、信じる者に「神の子となる権利」が与えられ、3:16–18では信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。3:36においては、信仰の有無が命の有無に直結することが明言される。さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」の神学も、理解よりも信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。6:29においては、「神の業」が明確に「遣わされた者を信じること」と定義される。これらは20:31――「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスを信じるためである」――において、福音書全体の目的として総括される。
 この信仰中心の構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群においても顕著である。サマリアの女(4:39–42)、生まれつきの盲人(9:35–38)、マルタの信仰告白(11:25–27)、そしてトマスの告白(20:24–29、とりわけ20:28「わたしの主、わたしの神」)は、いずれも理解の深化ではなく、イエスの人格的な出会いを経て、人格的応答としての信仰告白へと導かれる物語である。
 同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリア、トマスといった個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び合わせられている。
 以上を総合すると、ヨハネ福音書は、
・例え話(聞く/悟る)から、象徴的講話(信じる)へ
・弟子の無理解から、信じる/信じないの二分法へ
・集団への顕現から、個人への顕現へ
という一連の神学的再構成を行っていると言える。結果として、理解と無理解のモティーフは後景化され、信じることと信仰の決断そのものが、ヨハネ福音書全体を規定する原理として前景化されている。


2.2. 共観福音書の「神の国」からヨハネ福音書の「永遠の命」への転換

 共観福音書、とりわけマルコ福音書において、イエスの宣教の中心的主題を構成するのは「神の国」である(参照、マルコ1:15)。「神の国」(マタイ福音書では「天の国」)とは、終末論的かつ歴史的次元における神の支配の到来を指し示す概念であり、その実現は将来に属しつつも、イエスの宣教と行為においてすでに開始されているといういわゆる「既に―未だ」の時間構造を特徴としている。

 これに対して、ヨハネ福音書においては、「神の国」という表現は例外的で、わずか二回(3:3, 5)用いられるにすぎない。その一方で、「永遠の命」(ζωὴ αἰώνιος)および「命」(ζωή)が頻繁に現れる。「永遠の命」は17回(3:15, 16, 36; 4:14, 36; 5:24, 39; 6:27, 40, 47, 54, 68; 10:28; 12:25, 50; 17:2, 3)、「命」は約36回用いられており、共観福音書における用例数(マタイ3回、マルコ2回、ルカ3回)と比較すると、その差は顕著である。この語彙的偏重は、ヨハネ福音書においてイエスの宣教内容を表現する神学的中心語が、「神の国」から「永遠の命」へと移行していることを示唆している。
 さらに重要なのは、ヨハネ福音書における「永遠の命」が、未来に実現される報酬としてではなく、現在においてすでに成立している現実として理解されている点である。ヨハネ5:24において、「永遠の命を持つ」と訳される ἔχει ζωὴν αἰώνιον は現在形で用いられており、信じる者はすでに永遠の命に参与している存在として描かれている。この理解は、ヨハネ3:16において示されるように、神の愛と「独り子を与えた」という神の自己贈与に根差しており、永遠の命が神との関係性そのものとして成立していることを明らかにしている。
 ヨハネ福音書における数少ない「神の国」の用例(3:3「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」、3:5「水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」)もまた、共観福音書に見られるような終末論的支配の到来を告知するものではない。これらの箇所では、「神の国」は「新生」というヨハネ的主題のもとで再解釈され、信仰によって成立する存在の変容を表す概念として用いられている。したがって、「神の国」はヨハネ福音書において否定されているのではなく、「永遠の命」という中心概念に吸収され、その意味内容を変容させていると理解することができる。
 以上の点から、ヨハネ福音書は共観福音書における「神の国」終末論を単に継承するのではなく、それを関係論的・存在論的枠組みにおいて再構成していると結論づけられる。共観福音書において前景化していた神の支配の歴史介入性は後景に退き、代わって、神の愛と自己贈与に基づく、現在において成立する救済理解が前面に押し出されている。

3. 人物像の修正

3.1.「十二人」像の修正

3.1.1.共観福音書とヨハネ福音書における「十二人」位置づけの相違
 共観福音書において「十二人」は、マルコ3:13–19、マタイ10:1–4、ルカ6:12–16に見られるように、イエス自身によって選任されたことが明確に強調されている。イエス運動に追随した弟子集団の中でも、十二人は中核的存在として位置づけられ、悪霊払い、治癒、宣教といったイエスの権威を代理的に行使する集団として描かれている(マルコ6:7–13 ほか)。
 一方で、共観福音書は、弟子たちがイエスの正体や意図をしばしば理解できない存在であること、さらには受難時に全員が逃亡すること(マルコ14:50)を描写することにより、いわゆる「弟子の無理解」あるいは「弟子批判」のモティーフを物語の中に組み込んでいる。また、各福音書に差異はあるものの、十二人の中でも特にペトロ、ヤコブ、ヨハネが中心的使徒として前景化され、ペトロは筆頭者、あるいはスポークスマン的存在として描かれる点において、共観福音書はおおむね一致している。ここでの「十二人」は、歴史的・象徴的・権威的・制度的集団として理解されていると言える。
 これに対して、ヨハネ福音書では「十二人」への明示的言及は少数にとどまり(例:6:67、6:70–71、20:24)、弟子たちは共観福音書の集団的描写とは異なり、主として個人単位で叙述される。総じて、共観福音書において前面に出ていた「十二人」という制度的・集団的側面は、ヨハネ福音書では相対化されている。

3.1.2.個々の使徒を物語化するヨハネ福音書
 このような傾向は、ヨハネ福音書における個々の使徒の描写において、より顕著に確認される。共観福音書では、主として「十二人」の名簿において言及されるにとどまり、ほとんど物語化されない使徒たちが、ヨハネにおいては独自の個性と神学的役割を与えられ、物語の中で具体的に描写されている。以下にその代表例を挙げる。

3.1.2.1.アンデレ
・1:40–42 イエスに従った最初の弟子として登場し、ペトロをイエスのもとへ導く。
・6:8–9 五千人供食物語において、少年をイエスに紹介する。
・12:20–22 ギリシア人とイエスとを仲介する役割を担う。

3.1.2.2.フィリポ
・1:43–46 ナタナエルをイエスのもとへ導く。
・6:5–7 供食物語において現実的な計算に基づく発言を行う。
・12:21–22 ギリシア人の要請を受け、イエスへの取り次ぎを行う。
・14:8–9 「父をお示しください」と願い、イエスから教示を受ける。

3.1.2.3.トマス
・11:16 ラザロ物語において、死をも覚悟する発言を行う。
・14:5 イエスの「道」を理解できないことを率直に表明する。
・20:24–29 復活顕現物語において、疑いから信仰告白へと導かれる。

3.1.2.4.ナタナエル(使徒バルトロマイと同定される場合)
・1:45–51 「いちじくの木の下」での出来事を通して信仰告白を行う。
・21:2 七人の弟子の一人として復活顕現の場面に立ち会う。
 他方、ヤコブとヨハネは「ゼベダイの子ら」として簡略的に記されるにとどまる。

3.1.2.5.「イエスの愛しておられた弟子」(使徒ヨハネ説か、無名弟子説かによる)
・13:23–26 最後の晩餐において、イエスの胸元に位置する。
・19:26–27 十字架上のイエスから母を託される。
・20:2–8 ペトロと墓へ走り、最初に内部を見て信じた者として描かれる。
・21:7 復活のイエスを最初に認識する。
・21:20–24 ペトロと対比されつつ、証言者としての権威を示される。

3.2.ペトロ中心の権威構図の相対化

 以上の検討から明らかになるのは、ヨハネ福音書においてペトロが依然として重要な位置を占めつつも、他の弟子たちの物語が重層的に配置されることによって、その中心性が相対化されている点である。
 たとえば、トマスはヨハネ20:24–29において、復活顕現物語の核心的人物として登場し、「私の主、私の神」(20:28)という同福音書中でも最も明確なキリスト論的告白を担う。この点において、トマスはペトロ以上に前景化されていると評価できる。
 また、復活物語においては、「イエスの愛しておられた弟子」がペトロよりも先に墓に到着し、内部を見て信じた者として描かれる(20:8)。さらに、マグダラのマリアは十二人の誰よりも先に復活のイエスに出会い、「行って、わたしの兄弟たちに告げなさい」(20:17)との委託を受ける最初の復活証人、ひいては最初の宣教者として位置づけられている。
 確かにペトロもまた、「わたしの羊を飼いなさい」(21:15–17)との委任を受け、重要な役割を保持している。しかし同時に、彼は「この人について、あなたは何を気にするのか」(21:22)との言葉によって、「愛しておられた弟子」への詮索を退けられている。これらの描写を総合すると、ヨハネ福音書においては、復活信仰や宣教の起点が、使徒集団やその代表者であるペトロから、共観福音書では周縁的であった人物たちへと再配置されていることが確認される。

4. 結論

 本章の検討から明らかになったのは、ヨハネ福音書が共観福音書の伝承を否定的に乗り越えようとするのでも、単純に補完しようとするのでもなく、それらを前提として意識的に再配置・再定義することによって、独自の神学的総合を提示しているという点である。
 宮清めの配置転換、受難死の日付の再構成、聖餐制定語の不採用と洗足記事の導入は、いずれも史実の恣意的改変ではなく、イエスを真の神殿、過越の小羊、愛と奉仕のイエスとして提示するための神学的再編として理解されるべきである。
 また、「神の国」から「永遠の命」への神学的焦点の移行、例え話から信仰告白への構造転換は、ヨハネ福音書が救済を、キリストとの関係性において現在的に成立する命として把握していることを示している。
 このように、ヨハネ福音書は共観福音書と緊張関係を保ちつつも、それを排除することなく、多声的伝承の中でキリスト理解を深化させる協同的営みとして成立している。この点において、ヨハネ福音書は初期キリスト教における正典形成過程――すなわち、単一基準による選別ではなく、分散的証言の協同的収斂――を最も高度な形で体現する文書の一つであると言えよう。

2026年1月13日火曜日

【解説】ガリラヤ

【解説】ガリラヤ  ガリラヤという地名は、「ゲリル=アル=ゴイム(Gelil ha-Goyim)」、すなわち「異邦人の地区/異邦人の輪」を意味する呼称に由来する(イザ8:23[MT 9:1])。この名称が示す通り、ガリラヤは古くからユダヤ人と異邦人が混在して居住する地域であり、民...