ヨハネ福音書における共観福音書資料の編集意図と神学的修正
序
ヨハネ福音書が共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)を知っていたかどうかについては、古くから議論の対象とされてきた。文献学的には、ヨハネ福音書が共観福音書に直接依存していることを証明するのはほぼ不可能であるというのが、現在の定説である。しかし、物語構造・神学的語彙・人物像の相違を精査すると、ヨハネ福音書の著者が共観福音書の存在と内容を意識しつつ、自身の福音書を構成したと考える方が説得力が高いとする説が、今日では多数派を占めている。
本章の目的は、ヨハネ福音書が共観福音書の物語と神学を意識的に再構成している可能性を明らかにしつつ、ヨハネの共観福音書に対する姿勢が、やや対抗的ではありつつも排除的ではなく、むしろ「協同」的であること――すなわち、共観福音書の伝承を尊重しつつ、それを深化・拡張する形で自身の福音書とその神学を再構築していること――を論証することにある。
この目的のために、本章では、ヨハネ福音書が共観福音書の存在を前提としながら、意図的に神学的・物語的修正を施していると推定される箇所を取り上げ、その特徴と意図を分析する。具体的には、以下の四つの観点から検討を行う。
- 物語配置の修正:出来事の時系列・位置づけを変更、また、記事自体を変更することで、物語全体の神学的焦点を再構成している点を扱う。
- 神学的用語・神学的焦点の修正:共観福音書の概念(例、「神の国」)を別のもの(例、「永遠の命」)に置換するなど、神学的枠組みの再構成を検討する。
- 人物像の修正:主要人物の描かれ方の違いを通して、ヨハネ独自の神学的意図を探る。
1 物語配置の修正
1.1. 宮清め(マタイ21:12-17、マルコ11:15-18、ルカ // ヨハネ2:13-22)
1.1.1 配置の相違:終盤から冒頭へ
共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では、宮清めはイエスのエルサレム入城直後に置かれ、宗教指導者との対立、神殿体制との決別を決定的にする事件として描かれている。すなわち、物語構造上「受難物語の引き金」として機能している。
これに対し、ヨハネ福音書では同じ出来事が公生涯の最初期(2章)に移動している。もしヨハネが共観福音書の伝承を知っていたとすれば、この配置転換は単なる編集上の偶然ではなく、明確な神学的意図に基づく再構成と考えられる。以下では、その意図を考察する。
1.1.2 ヨハネが配置を変えた理由:主要な学説
1.1.2.1 史実としての宮清めはいつ起こったか
かつては「宮清めは二度あった」とする調和的解釈が提唱されたが、現在の研究ではほぼ退けられ、宮清めは1回限りで、受難の前に起こったとする説が一般的である。その主な理由は以下の通り。
・ヨハネ福音書が後発であるため、先行する共観福音書の伝承を知った上で再配置したと考えるのが自然である。
・宮清めの史実が公生涯初期にあったと仮定した場合、体制側との対立が著しく、その後の伝道活動に重大な支障をきたすることになり、現実的ではないこと。
以上を踏まえると、宮清めは史実としては受難直前に起こった出来事であり、ヨハネが神学的意図により冒頭へ移したと理解する方が合理的である。
1.1.2.2. ヨハネの神学的意図:イエスを「真の神殿」として提示する
今日の主流の学説では、ヨハネが宮清めを冒頭に置いた理由は、イエスこそ真の神殿であるという神学的主張を早期に提示するためとされている。
共観福音書では受難物語の中で、イエスを揶揄する証言として登場する「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」というモティーフ(マルコ14:58 ほか)が、ヨハネでは序盤においてイエス自身の言葉として提示される(ヨハネ2:19–21)。すなわち、共観福音書では敵対者の証言として扱われる言葉が、ヨハネでは神学的意味を帯びた啓示として再構成されている。
ヨハネ福音書はもともと、イエスのアイデンティティを物語の冒頭から積極的に開示する傾向がある。「言(ロゴス)」(1:1)、「神の子」(1:34)、「世の光」(1:9)といった称号が早期に提示されるのと同様に、宮清めも「イエスの本質を示す啓示的出来事」として冒頭に置かれていると考えられる。
これに対し、マルコ福音書ではイエスの正体は十字架に至るまで徐々に明らかになる(いわゆる「メシアの秘密」)。ヨハネはこの構造を意図的に反転させ、イエスの本質を早期に提示する物語構造を採用している。
このように、ヨハネは宮清めを単なる「受難の原因」としてではなく、福音書全体のキリスト論的テーマを提示する象徴的出来事として再構成しているということになる。
1.2. 受難死の日付の変更
1.2.1. 受難死の日付をめぐる共観福音書とヨハネ福音書の相違
共観福音書は、イエスが弟子たちと共に過越の食事をとった直後に逮捕され、その翌日に十字架刑に処されたと報告している。これによれば、イエスの十字架死はニサン月15日となる。これに対してヨハネ福音書は、イエスの十字架刑を過越祭の準備の日(ニサン月14日)に位置づける(ヨハネ19:14)。すなわち、過越の小羊が屠られる時刻にイエスが死に至るという構図が描かれる。この日付設定は、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29,36)、すなわち、祭儀犠牲として屠られる小羊として理解するヨハネ神学の中心的主張と一致する。ヨハネ19:36において引用される「その骨は一本も折られない」という記述は、出エジプト記12:46における過越の小羊の規定を想起させ、イエスの死が過越祭儀の成就であることを強調する。
このように、小羊の屠殺時刻とイエスの死の時を一致させる構図は、神殿祭儀の終焉とキリストの犠牲の完成を重ね合わせるヨハネ神学の中心的主題と整合する。
1.2.2. 史実的観点からの検討
史実としては、ヨハネ福音書の年代設定(ニサン月14日)がより妥当であるとする見解が多数派を占める。その理由として以下の点が挙げられる。
・過越祭当日に死刑執行が行われる可能性の低さ
過越祭はユダヤにおける最重要祭儀にして大規模なものであり、ユダヤ当局が祭りの最中に死刑を執行することは、治安維持の観点からも現実的ではない。聖なる祝祭期間中の死刑執行についても同様である。
・共観福音書による過越の食事の新たな意味づけ
最後の晩餐を過越の食事とする描写は、イエスの死を新しい契約の制定と結びつける意図が反映されたものであり、ヨハネの編集的構成と考えられる。ただ、共観福音書の伝承を否定しているわけではなく、最後の晩餐における“イエス自身が与えられる食物(パン)”というモティーフは、「屠られる小羊」と過越の食事という主題にも内包されているし、また、イエスが「命のパン」(6:35, 48)、「天から降って来たパン」(6:41, 50)、特に「私が与えるパンは世を生かすための私の肉」という記述にも織り込まれているように見える。
1.3. 最後の晩餐における聖餐制定語の欠如と洗足記事による置換
1.3.1. 共観福音書における聖餐制定記事
共観福音書における最後の晩餐と聖餐制定語(マタイ26:26–29、マルコ14:22–25、ルカ22:14–20)は、イエスの死を「契約の血」として解釈し、ユダヤ教における過越の食事の後継として、共同体の儀礼的中心に聖餐式を位置づけるものである。
これに対し、ヨハネ福音書は最後の晩餐を完全に欠いている。最後の晩餐に相当する場面であるヨハネ13章には、パンと杯に関する言及が存在せず、代わりに洗足記事(13:1–20)が配置されている。13:1には、「過越祭の前」と場面設定が為されており、イエスの十字架死は過越祭の準備の日(ニサン月14日)であるから、過越の食事そのものが存在しないことになる。
1.3.2. 洗足記事の導入と神学的意図
ヨハネが聖餐制定語を削除し、洗足記事を導入した経緯として、以下のようにまとめられる。
・過越の食事が存在しないことによる物語構造的必然性
上述のように、イエスの死は過越の小羊の屠殺日(ニサン14日)に一致するよう再構成されているため(ヨハネ19:14)、「過越の食事=最後の晩餐」という構図がそもそも成立しない。
・別伝承としての洗足記事の採用
洗足記事(13:1–20)は共観福音書には存在しない独自伝承であり、ヨハネはこれを最後の晩餐の中心的行為として配置したと考えられる。
こうして、聖餐制定語が象徴する「儀礼的・祭儀的要素」に対し、洗足記事は、相互奉仕(13:14–15)、愛の模範(13:1「最後まで愛された」)、共同体倫理の形成(13:34「互いに愛し合いなさい」)というモティーフを導入している。つまり、ヨハネは聖餐の儀礼的側面をこの箇所では廃し、イエスの受難死を倫理的実践(愛と奉仕)として再解釈するという神学的方向性を再構築している。
1.3.3. 結論
ヨハネ福音書は、共観福音書に見られる聖餐制定語を意図的に削除し、代わりに洗足記事を配置することで、最後の晩餐の神学的意味を大きく再構成している。
その背景には、
・過越の食事を欠く物語構造
・独自伝承の採用
・儀礼中心から倫理中心への神学的転換
という複合的要因が存在する。
この編集方針は、ヨハネ福音書がイエスの死を過越の小羊の犠牲として描きつつ、共同体における愛と奉仕の倫理を聖餐制定の代わりに中心に据えるという、ヨハネ的キリスト論並びに教会論を形成するものである。
2. 神学的用語・神学的焦点の修正
2.1. 共観福音書の例え話のヨハネ福音書における不採用――「聞く者」から「信じる者」への転換
ヨハネ福音書は、共観福音書に特徴的な例え話(παραβολή)、すなわち農業など日常的事象を素材とする比喩的教説を、基本的には採用していない。もっとも、比喩表現そのものが完全に排除されているわけではなく、ヨハネ10:1–18(良い羊飼い)、15:1–8(まことのぶどうの木)、6:35–58(命のパン)、8:12(世の光)、11:25(復活と命)に見られるように、ἐγώ εἰμι 宣言を伴う自己啓示的・象徴的講話(παροιμία、10:6)を独自に導入している点は注目に値する。
以上の不採用と導入は、共観福音書、特にマルコ4章に典型的に見られる「聞く者/悟る者」という例え話の受容構造からの意図的転換を示している。ヨハネにおいて一転して中心化されるのは、教えを「理解する」主体ではなく、イエスを「信じる」主体である。すなわち、例え話を通した段階的理解の過程から、啓示に対する信仰の決断への転換が図られている。
この神学的重点の移動は、「信じる/信じない」という二分法的構図として福音書全体に体系的に配置されている。ヨハネ1:12では、信じる者に「神の子となる権利」が与えられ、3:16–18では信じる者の救済と信じない者の裁きが対置される。3:36においては、信仰の有無が命の有無に直結することが明言される。さらに、ヨハネ特有の「しるし(σημεῖον)」の神学も、理解よりも信仰を指向している。2:11では最初のしるしによって弟子たちが信じ、4:48–53では役人がイエスの言葉を信じることによって出来事が成就する。6:29においては、「神の業」が明確に「遣わされた者を信じること」と定義される。これらは20:31――「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスを信じるためである」――において、福音書全体の目的として総括される。
この信仰中心の構図は、イエスとの個人的出会いを軸とする物語群においても顕著である。サマリアの女(4:39–42)、生まれつきの盲人(9:35–38)、マルタの信仰告白(11:25–27)、そしてトマスの告白(20:24–29、とりわけ20:28「わたしの主、わたしの神」)は、いずれも理解の深化ではなく、イエスの人格的な出会いを経て、人格的応答としての信仰告白へと導かれる物語である。
同様の傾向は復活顕現記事にも認められる。共観福音書において強調される集団的顕現に比して、ヨハネではマグダラのマリア、トマスといった個人への顕現が前景化され、信仰の告白へと結び合わせられている。
以上を総合すると、ヨハネ福音書は、
・例え話(聞く/悟る)から、象徴的講話(信じる)へ
・弟子の無理解から、信じる/信じないの二分法へ
・集団への顕現から、個人への顕現へ
という一連の神学的再構成を行っていると言える。結果として、理解と無理解のモティーフは後景化され、信じることと信仰の決断そのものが、ヨハネ福音書全体を規定する原理として前景化されている。
2.2. 共観福音書の「神の国」からヨハネ福音書の「永遠の命」への転換
共観福音書、とりわけマルコ福音書において、イエスの宣教の中心的主題を構成するのは「神の国」である(参照、マルコ1:15)。「神の国」(マタイ福音書では「天の国」)とは、終末論的かつ歴史的次元における神の支配の到来を指し示す概念であり、その実現は将来に属しつつも、イエスの宣教と行為においてすでに開始されているといういわゆる「既に―未だ」の時間構造を特徴としている。
これに対して、ヨハネ福音書においては、「神の国」という表現は例外的で、わずか二回(3:3, 5)用いられるにすぎない。その一方で、「永遠の命」(ζωὴ αἰώνιος)および「命」(ζωή)が頻繁に現れる。「永遠の命」は17回(3:15, 16, 36; 4:14, 36; 5:24, 39; 6:27, 40, 47, 54, 68; 10:28; 12:25, 50; 17:2, 3)、「命」は約36回用いられており、共観福音書における用例数(マタイ3回、マルコ2回、ルカ3回)と比較すると、その差は顕著である。この語彙的偏重は、ヨハネ福音書においてイエスの宣教内容を表現する神学的中心語が、「神の国」から「永遠の命」へと移行していることを示唆している。
さらに重要なのは、ヨハネ福音書における「永遠の命」が、未来に実現される報酬としてではなく、現在においてすでに成立している現実として理解されている点である。ヨハネ5:24において、「永遠の命を持つ」と訳される ἔχει ζωὴν αἰώνιον は現在形で用いられており、信じる者はすでに永遠の命に参与している存在として描かれている。この理解は、ヨハネ3:16において示されるように、神の愛と「独り子を与えた」という神の自己贈与に根差しており、永遠の命が神との関係性そのものとして成立していることを明らかにしている。
ヨハネ福音書における数少ない「神の国」の用例(3:3「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」、3:5「水と霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない」)もまた、共観福音書に見られるような終末論的支配の到来を告知するものではない。これらの箇所では、「神の国」は「新生」というヨハネ的主題のもとで再解釈され、信仰によって成立する存在の変容を表す概念として用いられている。したがって、「神の国」はヨハネ福音書において否定されているのではなく、「永遠の命」という中心概念に吸収され、その意味内容を変容させていると理解することができる。
以上の点から、ヨハネ福音書は共観福音書における「神の国」終末論を単に継承するのではなく、それを関係論的・存在論的枠組みにおいて再構成していると結論づけられる。共観福音書において前景化していた神の支配の歴史介入性は後景に退き、代わって、神の愛と自己贈与に基づく、現在において成立する救済理解が前面に押し出されている。
3. 人物像の修正
3.1.「十二人」像の修正
3.1.1.共観福音書とヨハネ福音書における「十二人」位置づけの相違
共観福音書において「十二人」は、マルコ3:13–19、マタイ10:1–4、ルカ6:12–16に見られるように、イエス自身によって選任されたことが明確に強調されている。イエス運動に追随した弟子集団の中でも、十二人は中核的存在として位置づけられ、悪霊払い、治癒、宣教といったイエスの権威を代理的に行使する集団として描かれている(マルコ6:7–13 ほか)。
一方で、共観福音書は、弟子たちがイエスの正体や意図をしばしば理解できない存在であること、さらには受難時に全員が逃亡すること(マルコ14:50)を描写することにより、いわゆる「弟子の無理解」あるいは「弟子批判」のモティーフを物語の中に組み込んでいる。また、各福音書に差異はあるものの、十二人の中でも特にペトロ、ヤコブ、ヨハネが中心的使徒として前景化され、ペトロは筆頭者、あるいはスポークスマン的存在として描かれる点において、共観福音書はおおむね一致している。ここでの「十二人」は、歴史的・象徴的・権威的・制度的集団として理解されていると言える。
これに対して、ヨハネ福音書では「十二人」への明示的言及は少数にとどまり(例:6:67、6:70–71、20:24)、弟子たちは共観福音書の集団的描写とは異なり、主として個人単位で叙述される。総じて、共観福音書において前面に出ていた「十二人」という制度的・集団的側面は、ヨハネ福音書では相対化されている。
3.1.2.個々の使徒を物語化するヨハネ福音書
このような傾向は、ヨハネ福音書における個々の使徒の描写において、より顕著に確認される。共観福音書では、主として「十二人」の名簿において言及されるにとどまり、ほとんど物語化されない使徒たちが、ヨハネにおいては独自の個性と神学的役割を与えられ、物語の中で具体的に描写されている。以下にその代表例を挙げる。
3.1.2.1.アンデレ
・1:40–42 イエスに従った最初の弟子として登場し、ペトロをイエスのもとへ導く。
・6:8–9 五千人供食物語において、少年をイエスに紹介する。
・12:20–22 ギリシア人とイエスとを仲介する役割を担う。
3.1.2.2.フィリポ
・1:43–46 ナタナエルをイエスのもとへ導く。
・6:5–7 供食物語において現実的な計算に基づく発言を行う。
・12:21–22 ギリシア人の要請を受け、イエスへの取り次ぎを行う。
・14:8–9 「父をお示しください」と願い、イエスから教示を受ける。
3.1.2.3.トマス
・11:16 ラザロ物語において、死をも覚悟する発言を行う。
・14:5 イエスの「道」を理解できないことを率直に表明する。
・20:24–29 復活顕現物語において、疑いから信仰告白へと導かれる。
3.1.2.4.ナタナエル(使徒バルトロマイと同定される場合)
・1:45–51 「いちじくの木の下」での出来事を通して信仰告白を行う。
・21:2 七人の弟子の一人として復活顕現の場面に立ち会う。
他方、ヤコブとヨハネは「ゼベダイの子ら」として簡略的に記されるにとどまる。
3.1.2.5.「イエスの愛しておられた弟子」(使徒ヨハネ説か、無名弟子説かによる)
・13:23–26 最後の晩餐において、イエスの胸元に位置する。
・19:26–27 十字架上のイエスから母を託される。
・20:2–8 ペトロと墓へ走り、最初に内部を見て信じた者として描かれる。
・21:7 復活のイエスを最初に認識する。
・21:20–24 ペトロと対比されつつ、証言者としての権威を示される。
3.2.ペトロ中心の権威構図の相対化
以上の検討から明らかになるのは、ヨハネ福音書においてペトロが依然として重要な位置を占めつつも、他の弟子たちの物語が重層的に配置されることによって、その中心性が相対化されている点である。
たとえば、トマスはヨハネ20:24–29において、復活顕現物語の核心的人物として登場し、「私の主、私の神」(20:28)という同福音書中でも最も明確なキリスト論的告白を担う。この点において、トマスはペトロ以上に前景化されていると評価できる。
また、復活物語においては、「イエスの愛しておられた弟子」がペトロよりも先に墓に到着し、内部を見て信じた者として描かれる(20:8)。さらに、マグダラのマリアは十二人の誰よりも先に復活のイエスに出会い、「行って、わたしの兄弟たちに告げなさい」(20:17)との委託を受ける最初の復活証人、ひいては最初の宣教者として位置づけられている。
確かにペトロもまた、「わたしの羊を飼いなさい」(21:15–17)との委任を受け、重要な役割を保持している。しかし同時に、彼は「この人について、あなたは何を気にするのか」(21:22)との言葉によって、「愛しておられた弟子」への詮索を退けられている。これらの描写を総合すると、ヨハネ福音書においては、復活信仰や宣教の起点が、使徒集団やその代表者であるペトロから、共観福音書では周縁的であった人物たちへと再配置されていることが確認される。
4. 結論
本章の検討から明らかになったのは、ヨハネ福音書が共観福音書の伝承を否定的に乗り越えようとするのでも、単純に補完しようとするのでもなく、それらを前提として意識的に再配置・再定義することによって、独自の神学的総合を提示しているという点である。
宮清めの配置転換、受難死の日付の再構成、聖餐制定語の不採用と洗足記事の導入は、いずれも史実の恣意的改変ではなく、イエスを真の神殿、過越の小羊、愛と奉仕のイエスとして提示するための神学的再編として理解されるべきである。
また、「神の国」から「永遠の命」への神学的焦点の移行、例え話から信仰告白への構造転換は、ヨハネ福音書が救済を、キリストとの関係性において現在的に成立する命として把握していることを示している。
このように、ヨハネ福音書は共観福音書と緊張関係を保ちつつも、それを排除することなく、多声的伝承の中でキリスト理解を深化させる協同的営みとして成立している。この点において、ヨハネ福音書は初期キリスト教における正典形成過程――すなわち、単一基準による選別ではなく、分散的証言の協同的収斂――を最も高度な形で体現する文書の一つであると言えよう。
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