2025年11月9日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイによる福音書 28章1-10節

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイによる福音書 28章1–10節


 1節

新共同訳 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
原文 Ὀψὲ δὲ σαββάτων, τῇ ἐπιφωσκούσῃ εἰς μίαν σαββάτων, ἦλθεν Μαρία ἡ Μαγδαληνὴ καὶ ἡ ἄλλη Μαρία θεωρῆσαι τὸν τάφον.
  • 「マグダラのマリアともう一人のマリア」:後者については27:56において「ヤコブとヨセの母マリア」とされる。当時の社会において、証言者としての地位が低かった女性が、イエスの十字架・埋葬・復活の目撃者とされている点は注目される。マルコでは、彼女たちが墓を訪れた理由を遺体に香料を塗るためとしていたが、三日目にそれを行う不自然さを考慮してか、マタイでは単に「見に行った」と書き換えられている。
  • 「安息日が終わって……週の初めの日(Ὀψὲ δὲ σαββάτων…εἰς μίαν σαββάτων)」:文字通りには「安息日の後」あるいは「安息日の遅く」。日没をもって安息日は終わり、日没後から新しい週の第一日が始まる。
  • 「明け方(τῇ ἐπιφωσκούσῃ)」:ἐπιφώσκω は、接頭辞 ἐπι-(〜の上に、〜に向かって)と動詞 φώσκω(光る、夜が明ける)の複合語。すなわち「夜明けに向かう時」を意味する。地平線の上に太陽の光が差し込み始める情景を描写している可能性がある。並行箇所ルカ23:54でも同様の表現が用いられている。

 2節

新共同訳 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
原文 καὶ ἰδοὺ σεισμὸς ἐγένετο μέγας· ἄγγελος γὰρ κυρίου καταβὰς ἐξ οὐρανοῦ καὶ προσελθὼν ἀπεκύλισε τὸν λίθον καὶ ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ.
  • 「大きな地震(σεισμὸς μέγας)」:神的介入を象徴する典型的事象の一つであり、神の臨在や意志の表れを示す場合がある。27:51におけるイエスの絶命時にも同様の描写がある。
  • 「主の天使(ἄγγελος κυρίου)」:ἄγγελος は「遣わされた者」の意で、「使い」「御使い」とも訳される。マルコでは「白い長い衣を着た若者」(16:5)、ルカとヨハネでは二人の天使が登場するが、マタイでは一人に簡略化されている。
  • 「その上(石)に座った(ἐκάθητο ἐπάνω αὐτοῦ)」:転がされた石の上に天使が座る場面は、不可能に思われる出来事に対する神の勝利を象徴する。

 3節

新共同訳 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
原文 ἦν δὲ ἡ εἰδέα αὐτοῦ ὡς ἀστραπὴ καὶ τὸ ἔνδυμα αὐτοῦ λευκὸν ὡς χιών.
  • 「稲妻のように(ὡς ἀστραπὴ)」:地震と同様、稲妻もしばしば神の介入や栄光の象徴として用いられる(参照:ダニエル書10:6)。
  • 「雪のように白かった(λευκὸν ὡς χιών)」:「白」は神性・聖性・栄光の象徴であり、「雪」はその純粋さを強調する。

 4節

新共同訳 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
原文 ἀπὸ δὲ τοῦ φόβου αὐτοῦ ἐσείσθησαν οἱ τηροῦντες καὶ ἐγενήθησαν ὡς νεκροί.
  • 「番兵たち(οἱ τηροῦντες)」:27:65–66において、ピラトから墓の警備を命じられた兵士たちを指す。マタイ独自の記述であり、キリスト教徒がイエスの遺体を隠したとするユダヤ側の批判への反論的要素を含むと考えられる。
  • 「死人のようになった(ἐγενήθησαν ὡς νεκροί)」:神的出来事を前にした人間の無力さを象徴する。生者が「死人」となり、死人が甦るという対比的構図を形成している可能性がある。

 5–6節

新共同訳
5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
原文 5 ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἄγγελος εἶπεν ταῖς γυναιξίν· Μὴ φοβεῖσθε ὑμεῖς· οἶδα γὰρ ὅτι Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον ζητεῖτε· 6 οὐκ ἔστιν ὧδε· ἠγέρθη γὰρ καθὼς εἶπεν· δεῦτε ἴδετε τὸν τόπον ὅπου ἔκειτο.
  • 「恐れることはない」:原文では「あなたたちは恐れるな」と強調されており(ὑμεῖς)、恐怖に震える番兵との対比が意識されている。
  • 「十字架につけられたイエス(Ἰησοῦν τὸν ἐσταυρωμένον)」:完了分詞が用いられ、婦人たちの認識ではイエスは依然として十字架につけられた存在であるが、神の現実においてはすでに復活しておられる。「ここにおられない」という不在の事実が、復活の証拠として語られている。
  • 「復活なさったのだ(ἠγέρθη)」:アオリスト受動態であり、「神によって復活させられた」という意味を含む。
  • 「かねて言われていたとおり(καθὼς εἶπεν)」:イエスによる受難と復活の予告(16:21、17:23、20:19)を指す。
  • 「さあ、見なさい(δεῦτε ἴδετε)」:直訳では「来て見よ」。遺体なき場所を見ることにより、復活の現実を悟るよう促している。

7節

新共同訳 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。
原文 καὶ ταχὺ πορευθεῖσαι εἴπατε τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ ὅτι ἠγέρθη ἀπὸ τῶν νεκρῶν, καὶ ἰδοὺ προάγει ὑμᾶς εἰς τὴν Γαλιλαίαν· ἐκεῖ αὐτὸν ὄψεσθε· ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν.
  • 「急いで行って(ταχὺ πορευθεῖσαι)」:マルコ神学と同様に、神の出来事に応答する行動の迅速さが強調される。喜ばしい知らせに駆り立てられるようなスピード感も含意される。
  • 「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」:「先に行く」(προάγει)は「導く」の意味もあり、イエスが弟子たちを先導するニュアンスがある。この復活顕現の予告は26:32にすでに述べられている。
  • 「確かに、あなたがたに伝えました(ἰδοὺ εἶπον ὑμῖν)」:直訳すれば「見よ、私はあなたたちに言った」。復活の知らせが確かに伝えられたことを強調している。

 8節

新共同訳 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
原文 καὶ ἀπελθοῦσαι ταχὺ ἀπὸ τοῦ μνημείου μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης ἔδραμον ἀπαγγεῖλαι τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「恐れながらも大いに喜び(μετὰ φόβου καὶ χαρᾶς μεγάλης)」:直訳では「恐れと共に、大きな喜び」。神の臨在に対する畏れと喜びが同時に生起する(詩篇2:11、歴代誌下20:27–29)。
  • 「急いで墓を立ち去り……走って行った」:復活の出来事を知らせる行動が、迅速かつ情熱的に描かれている。

 9節

新共同訳 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
原文 καὶ ἰδοὺ Ἰησοῦς ὑπήντησεν αὐταῖς λέγων· Χαίρετε· αἱ δὲ προσελθοῦσαι ἐκράτησαν αὐτοῦ τοὺς πόδας καὶ προσεκύνησαν αὐτῷ.
  • 「おはよう」:原文では「喜びなさい」(Χαίρετε)。日常の挨拶であると同時に、復活の「喜び」を象徴する言葉となっている。
  • 「足を抱き」:原語は「足をつかんで」。復活のイエスが霊ではなく身体を持つ存在であることを示す。
  • 「ひれ伏した(προσεκύνησαν)」:礼拝を意味する行為であり、イエスを神として崇める教会の信仰を象徴する。婦人たちは最初の「復活の証人」にして、最初の「復活のイエスへの礼拝者」とされた。

 10節

新共同訳 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
原文 τότε λέγει αὐταῖς ὁ Ἰησοῦς· Μὴ φοβεῖσθε· ὑπάγετε ἀπαγγείλατε τοῖς ἀδελφοῖς μου ἵνα ἀπέλθωσιν εἰς τὴν Γαλιλαίαν, κἀκεῖ με ὄψονται.

 マルコ福音書の本文(後代の付加を除く)では、ガリラヤでの顕現記事が欠落しているが、マタイはこれを補完し、28:16–20のいわゆる「大宣教命令」に至る構成としている。
 イエスを見捨てた弟子たちは、再び呼び戻され、宣教の使命を託される。ここに、赦しと再任命の福音的展開が示されている。


2025年11月5日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:13-36(① 23:13-14、② 23:15、③16-22)

 説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ23:13–36(① 23:13-15、② 23:15)

 概要

 マタイ23:13-36には、各部の冒頭にいわゆる「七つの災い(οὐαί)」の宣言が置かれ、律法学者とファリサイ派に対するイエスの批判の言葉が七つ連続して並んでいる。


 ① マタイ23:13–15

 13節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
原文 οὐαὶ δὲ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κλείετε τὴν βασιλείαν τῶν οὐρανῶν ἔμπροσθεν τῶν ἀνθρώπων· ὑμεῖς γὰρ οὐκ εἰσέρχεσθε οὐδὲ τοὺς εἰσερχομένους ἀφίετε εἰσελθεῖν.
  • 「不幸だ」(οὐαί):律法学者とファリサイ派の人々が「偽善者」と呼ばれて断罪されている(23:15、23、25、29)。そのトーンは預言者による神の裁きの宣告である。彼らの言動は「天の国を閉ざす」ものであり、開くどころではない。
  • 「入ろうとする人をも入らせない」:「入らせない」(ἀφίετε εἰσελθεῖν)においては「赦す」と訳される動詞が使われているが、ここでは「妨げる」という意味で用いられている。入らせるのが使命であるはずのユダヤ教の教師が、かえって妨げると言われている点に、痛烈な皮肉が込められている。

 14節

新共同訳 学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι κατεσθίετε τὰς οἰκίας τῶν χηρῶν καὶ προφάσει μακρὰ προσεύχεσθε· διὰ τοῦτο λήμψεσθε περισσότερον κρίμα.
 後代のビザンティン系などの写本には上記の原文が含まれているが、シナイ写本・バチカン写本などには見られない。本文批評上の観点から、Nestle–Aland第28版およびUBS第5版では本文から除外されている。マルコ12:40およびルカ20:47に並行箇所があるため、写本家による付加と考えられる。

 ② マタイ23:15

 15節

新共同訳 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, γραμματεῖς καὶ Φαρισαῖοι ὑποκριταί, ὅτι περιάγετε τὴν θάλασσαν καὶ τὴν ξηρὰν ποιῆσαι ἕνα προσήλυτον, καὶ ὅταν γένηται, ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον ὑμῶν.

マタイ福音書における「偽善者(ὑποκριτής)」
 マタイ福音書に特徴的な用語であり、マタイ神学の中心的柱の一つである。
同語は元来「俳優・役者」を意味し、「演じる」を意味するὑποκρίνομαιから派生した。古代ギリシャ演劇では俳優が仮面を装着して演じたことから、外面は整っていても内面が伴わない様を表す語として定着した。
 マタイはこれを、表面上は敬虔な宗教者を演じながらも、内実は虚栄心と私利私欲にまみれた律法学者・ファリサイ派を批判するイエスの言葉に取り入れている。イエスの時代のこととして語られているが、マタイ自身の時代における宗教的偽善への批判も込められている。
 マタイ福音書における使用回数は群を抜いて多く、とくに本章では「不幸だ」という宣告と共に繰り返し用いられている。主な用例として、人に見せるための偽善的行為(6:2、5、16)、自分の落ち度に気づかず人のそれを取ろうとする行為(7:5)、口先だけの崇敬(15:7)、イエスを陥れようとするファリサイ派への呼びかけ(22:18)などがある。

  • 「改宗者」(προσήλυτος):ユダヤ教に改宗した異邦人を指す。ユダヤ教は閉鎖的な民族宗教ではなく、改宗者を受け入れることにも一定の熱意を持っていた。その様子が「海と陸を巡り歩く」と皮肉を込めて描写されている。ただし、男性の改宗者には割礼が要求された。
  • 「自分よりも倍も悪い地獄の子」(ποιεῖτε αὐτὸν υἱὸν γεέννης διπλότερον):直訳すれば「彼を二倍の地獄の子にする」。彼らよりもさらに悪い偽善者が再生産されることを皮肉っている。
  • 「地獄」(γέεννα)は、ヨシュア記15:8における「ベン・ヒンノムの谷」(גֵּיא בֶן־הִנֹּם, gê ben-Hinnom、「ヒンノムの子の谷」)に由来する。人身供犠が行われた場所として悪名高く(列王記下23:10、エレミヤ7:31–32)、後に発音上の類似から「地獄」を意味する語へと転化した。

 ③23:16–22

 16節
新共同訳 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、「神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 οὐαὶ ὑμῖν, ὁδηγοὶ τυφλοί, οἱ λέγοντες· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ ναῷ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ χρυσῷ τοῦ ναοῦ, ὀφείλει.
 「何かを証人として立てての誓い」については、すでに5:33–37で述べられていた。「誓う」という主題はこの箇所と共通し、内容的にも連なっている。
  • 「ものの見えない案内人」(ὁδηγοὶ τυφλοί):直訳は「盲目の案内者たち」。何が見えていないのかが、以下で明らかにされる。
  • 『神殿にかけて誓えば……だが、神殿の黄金にかけて誓えば……』:「誓う」(ὀμνύω)行為は敬虔な宗教行為の代表であり、基本的には神を証人として立てるもの(参照:レビ19:12、マタイ5:33以下)。イエスの時代にはこれが細則化され、誓いの対象によって次のようなランクづけがなされていた。
  1. 「神の名」による誓い=最高度の義務性
  2. 「神殿の黄金」「祭壇の供え物」による誓い=中程度の義務性
  3. 「神殿」「祭壇」による誓い=低程度の義務性
 総じて、神殿や祭壇といった建物は低く、神そのものが最高位に置かれた。

 17–18節
新共同訳 17 愚かで、ものの見えない者たち。黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。18 また、「祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない」と言う。
原文 17 μωροὶ καὶ τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, ὁ χρυσός ἢ ὁ ναὸς ὁ ἁγιάζων τὸν χρυσόν;
18 καί· ὃς ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, οὐδέν ἐστιν· ὃς δ' ἂν ὀμόσῃ ἐν τῷ δώρῳ τῷ ἐπάνω αὐτοῦ, ὀφείλει.
  • 「愚かで目の見えぬ人たち」(μωροὶ καὶ τυφλοί):ここでは、物事に対する盲目性に加えて愚かさが指摘されている。
  • 「黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか」:イエスは、神殿よりも黄金のほうが価値があるとする論理を逆転させ、神殿が黄金を清めるゆえに神殿のほうが尊いと論じている。ここでの神殿は単なる建物ではなく、神と結びつくものとして位置づけられている。黄金という物質的価値よりも神性のほうが重要であるという基本原則を理解していない彼らの「盲目」を、イエスは指摘している。

 19–20節
新共同訳 19 ものの見えない者たち。供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。20 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。
原文 19 τυφλοί· τίς γὰρ μείζων, τὸ δῶρον ἢ τὸ θυσιαστήριον τὸ ἁγιάζον τὸ δῶρον;
20 ὁ οὖν ὀμόσας ἐν τῷ θυσιαστηρίῳ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν πᾶσι τοῖς ἐπάνω αὐτοῦ.
 論理の構造は先の神殿の黄金の件と同様である。供え物よりも、それを清める祭壇のほうが尊いという論理であるが、根底にある意図は、清める力の源は神にあり、律法学者たちはその点を見失い、数量化された物の比較に目を奪われているということにある。
  • 「祭壇とその上のすべてのものにかけて誓う」:祭壇か供え物か、という議論自体が無意味であると結論づけられている。

 21節
新共同訳 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ ναῷ, ὀμνύει ἐν αὐτῷ καὶ ἐν τῷ κατοικοῦντι ἐν αὐτῷ.
神殿にかけて誓うとは、その神殿に臨在する神に誓うことを意味する。
  • 「住んでおられる方にかけて」(ἐν τῷ κατοικοῦντι):「住む」「居住する」「定住する」を意味する κατοικέω が用いられている。七十人訳聖書の語彙に由来し、旧約において神が住まう場所としては、①イスラエルの民の中(出25:8、29:45)、②聖所・幕屋(出25:8)、③エルサレム(詩135:21)、④いと高きところ(詩113:5)、⑤暗雲(列王上8:12–13)などが挙げられる。
 神殿にかけて誓うとは、すなわち神に誓うのと同じことである。5:33–37における「誓ってはならない」という主題との関連で言えば、何に誓うかをくどくど語るのではなく、事実を直裁に語ればよい、という結論に至る。

 22節
新共同訳 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。
καὶ ὁ ὀμόσας ἐν τῷ οὐρανῷ, ὀμνύει ἐν τῷ θρόνῳ τοῦ θεοῦ καὶ ἐν τῷ καθημένῳ ἐπάνω αὐτοῦ.
 21節と同様、天にかけて誓うとは、すなわち「神の玉座に座しておられる」神に誓うことを意味する。神を証人として立てているという一点に集約される。誓いを立てる者は、それを深く心に留めておくべきであり、神不在の誓いをなさないよう戒められている。

説教の結びの言葉として

 マタイ23章に記されたイエスの言葉は、単なる過去の宗教指導者への批判ではなく、今を生きる私たちへの深い問いかけでもあります。
 イエスは、外見だけの敬虔さや形式的な信仰を厳しく戒め、神の国への真の道を閉ざす偽善を断罪されました。誓いの問題においても、イエスは物質や儀式よりも、神ご自身との関係の本質を見失ってはならないと教えてくださいました。神殿に誓うことは、そこに住まわれる神に誓うこと。天に誓うことは、神の玉座に座しておられる方に誓うこと。つまり、私たちの言葉も行いも、すべて神の御前にあるということです。この一点こそ大切です。
 今日の箇所を通して、イエスは私たちにこう語りかけておられます。「あなたの信仰は、仮面をかぶったものではないか。あなたの言葉は、神の臨在を意識したものか」
 どうか私たちが、外見ではなく心から神を求め、真実に生きる者となれますように。神の国の門を閉ざす者ではなく、開く者として、隣人を導く光となれますように。主の憐れみにより、私たちが偽善から離れ、誠実な信仰者として歩むことができますように。

2025年11月2日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解  マルコ4:1–9「蒔かれた種の例え」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 

マルコ4:1–9「蒔かれた種の例え」

並行箇所:マタイ13:1–9、ルカ8:4–8

 概要

 マルコ4:1–34は例え話集となっていて、最初の「蒔かれた種の例え」のほか、成長する種の例え、からし種の例えが収録されている。同時に、この例え話の解説(4:13–20)および例えを用いて語る理由(4:10–12、4:33–34)も記されている。
種を蒔く人の譬え話は、例えやその解説の中で「土地」に注目されていることもあって、種が蒔かれた土地、すなわち神の言葉を聞いた人々の話として理解されてきた。だが、近年はこの解釈が見直され、種を蒔く側の人々、すなわち神の言葉を宣べ伝える者の労苦を物語る例えとして読む見解もある。
 例えの構造としては、四種類の地面と種の運命が描かれており、4種の土地は神の言葉という種を聞いた4タイプの人間の寓意である。

参考文献(注解書などを除いた研究論文などの一部)

上村静「蒔かれた種のたとえ(マルコ4:3–8)―神の支配の光と影―」『新約学研究』第42巻、日本新約学会、2014年。

 1節

新共同訳 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆がそばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
Καὶ πάλιν ἤρξατο διδάσκειν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ συνάγεται πρὸς αὐτὸν ὄχλος πλεῖστος, ὥστε αὐτὸν εἰς πλοῖον ἐμβάντα καθῆσθαι ἐν τῇ θαλάσσῃ, καὶ πᾶς ὁ ὄχλος πρὸς τὴν θάλασσαν ἐπὶ τῆς γῆς ἦσαν.
  • 「イエスは、再び……」:Καὶ πάλινはマルコに特徴的な接続句(2:13など参照)。複数回にわたり、イエスが弟子たちや群衆に教えられたことを示している。
黙想:人に伝える、教えるということは容易ではない。イエスでさえも繰り返し教えを続けねばならず、失敗も多かったことがうかがえる。
「おびただしい群衆が……集まって来た」:群衆が集まった理由が、イエスの奇跡の業を求めたのか、教えを聞こうとしたのかは判然としない。「おびただしい群衆」(ὄχλος πλεῖστος)は直訳すると「大勢の群衆」であり、冗長的ではあるが、イエスの人気と宣教の影響力を強調する表現である。
  • 「湖のほとりで」:ガリラヤ湖のこと。「再び」という語も暗示するように、イエスの宣教活動の中心地の一つ。
  • 「舟に乗って腰を下ろし」:ユダヤ教におけるラビは講話の際に座して語った。教師としての基本姿勢である。舟上から語る理由としては、①殺到する群衆を避けるため、②湖面の反響を利用して声を届かせるため、が考えられる。象徴的には、舟を教会の象徴、群衆をその言葉を聞く者とみなす解釈も可能である。

 2節

新共同訳 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
καὶ ἐδίδασκεν αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς πολλά, καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ἐν τῇ διδαχῇ αὐτοῦ·
  • 「たとえでいろいろと教えられ」:イエスが例えを用いた理由は後の4:10–12で述べられる。「例え」(παραβολή)は本来「並べて置く」「対比する」の意。身近な事象を通して神の真理を悟らせることが目的である。イエスは日常の出来事を入口として、神の真理を理解させようとした。
  • 「その中で」:直訳では「その教えにおいて」。διδαχή(教え)はイエスの宣教の中核であり、旧約聖書の言葉の解釈や神の愛についての教えであったと考えられる。

 3節

新共同訳「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。』」
Ἀκούετε· ἰδοὺ ἐξῆλθεν ὁ σπείρων σπεῖραι.
  • 「よく聞きなさい」:原文は命令形で「聞け」。話の冒頭における注意喚起であり、この例えの根底にある「神の言葉を聞く」主題にもつながる。
  • 「種を蒔く人」(ὁ σπείρων):ここでは農夫を指すが、象徴的には神の言葉を蒔く者、すなわちイエス、弟子たち、後の宣教者たちを意味する。

 4節

新共同訳「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」
καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν, ὃ μὲν ἔπεσεν παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθεν τὰ πετεινὰ καὶ κατέφαγεν αὐτό.
  • 「ある種は……」:ὃ μὲν… ここから種のそれぞれの運命が描かれる。
  • 「道端に落ち、鳥が来て食べてしまった」:道端は踏み固められており、種が土に入らず外に晒されるため、鳥に食べられてしまう。後の4:15では、この鳥がサタンとして解釈される。

 5–6節

新共同訳「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」
καὶ ἄλλο ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες...
  • 「石だらけで土の少ない所」:直訳は「岩地の上」。パレスチナでは岩地が多く、薄く土が堆積した地形も珍しくない。
  • 「すぐ芽を出した」(εὐθὺς ἐξανέτειλεν):εὐθύςはマルコ特有の語。迅速な行動を意味するが、ここでは「短絡的・持続しない信仰」の暗示。岩盤が熱を保持しやすく、発芽が早いことも背景にある。
  • 「日(ὁ ἥλιος)」:試練や迫害の象徴。「焼けて」(ἐκαυματίσθη)は信仰の試練に耐えられない状態を示す。

 7節

新共同訳「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」
καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας...
  • 「茨」(ἀκάνθαι):複数形。世の思い煩いや富の誘惑(4:18–19参照)を象徴する。
  • 「覆いふさいだ」(συνέπνιξαν):原義は「窒息させる」。信仰の成長を妨げるさまざまな要素を表す。
  • 「実を結ばなかった」(οὐκ ἔδωκεν καρπόν):信仰が人生に実を結ばなかったことを示す。

 8節

新共同訳「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
καὶ ἄλλα ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλὴν...
  • 「良い土地」(τὴν γῆν τὴν καλὴν):καλήνは「良い」「美しい」の意。良い土地とは人間の善悪を指すのではなく、「聞く耳をもつ人」を意味する(9節参照)。
  • 「芽生え、育って」(ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον):マルコ独自の表現。成長が途絶えることなく続いた結果を描く。
  • 「三十倍・六十倍・百倍」:当時の農業収穫の常識を超える値であり、神の恵みの豊かさを象徴する。
 3つの失敗例の後に1つの成功例が示されている。確率的な幸運ではなく、「成長が持続するときに実りは大きい」という教訓として理解されるべきである。豊かな実りは、育てる側と受ける側の双方の継続的な働きによってもたらされる。

 9節

新共同訳 そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。
καὶ ἔλεγεν· ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.
  • 「聞く耳のある者は聞きなさい」:典型的な預言者的警句。「聞く」とは、単に聴くことではなく、聞いたことを行うことを含意する(マタイ7:24–29参照)。
  • 「聞く耳のある者」(ὃς ἔχει ὦτα):類似表現はマタイ11:15、黙示録2:7などに見られる。

 礼拝説教の結びとして

 イエスは、種を蒔く人の姿を通して、神の言葉を宣べ伝える者の労苦と希望を語られました。種が落ちる地面の違いは、私たち一人ひとりの心のあり方を映し出しています。
 道端のように心が閉ざされていると、言葉は根を張ることができない。岩地のように浅い信仰では、試練に耐えられない。茨のように世の誘惑に心を奪われると、実を結ぶことはできない。しかし、良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶとイエスは仰っています。
 私たちの心が神の言葉を受け入れる「良い土地」となるよう、日々整えられていこう。聞く耳を持ち、聞いたことを行う者となることこそ、主の御心にかなう歩みです。

 祈りの言葉

 恵み深い天の父なる神様、
 あなたの御言葉を今日、私たちの心に蒔いてくださったことを感謝します。どうか私たちの心を耕し、あなたの言葉が根を張り、芽を出し、豊かに実を結ぶように、聖霊の働きによって導いてください。
 私たちが世の誘惑や試練に負けることなく、あなたの真理に立ち続けることができますように。宣教する者として、また聞く者として、あなたの御国の働きに忠実に仕える者としてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2025年11月1日土曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:10-12 「例えで語る理由」

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ4:10-12 「例えで語る理由」

並行箇所 マタイ13:10-17、ルカ8:9-10


概要

 4:10-12は、「蒔かれた種の例え」の後に続く位置にあり、イエスが例えを用いて話す理由を内容上の中心とする。場面は、イエスが群衆から離れて「ひとりになられたとき」(4:10)でありつつも、周囲には弟子たちがいて、彼らだけに語られた「神の国の秘密」(4:11)とされている。すなわち、イエスのここでの言葉は、群衆に対して公になされた説教ではなく、弟子たちに限定して語られた言葉であることを念頭に置きたい。すなわち、奇跡目当てに集まっている、必ずしもイエスの言葉を聞くつもりのない人も含む群衆ではなく、聞く耳のある弟子たち、言い換えれば、聞く意志のある人たちを対象とした言葉である。
 イエスが例えをもって語る目的は、端的に言えば、聞こうとする耳を持ち、理解しようとする心を持つ人には神の真理は開かれるが、それを望まない人には閉ざされるということである。この二重性が、イザヤ6:9-10の引用をもって宣言されている。


10節

新共同訳 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。
Καὶ ὅτε ἐγένετο κατὰ μόνας, ἠρώτων αὐτὸν οἱ περὶ αὐτὸν σὺν τοῖς δώδεκα τὰς παραβολάς.

  • 「ひとりに」(κατὰ μόνας)
     公の場面から、私的な場面への転換を示す。マルコでは他に、9:28にも同様の場面転換が見られる。

  • 「十二人と一緒にイエスの周りにいた人」
     十二人の使徒たち以外の弟子たちも含む。イエスの一行は、使徒たち以外の弟子たちもいる集団であった。あるいは、使徒たち以外の弟子=マルコの読者をも含む広い弟子共同体を意識しているのかもしれない。

  • 「たとえ(τὰς παραβολάς、複数形)」
     単に4:3–9における蒔かれた種の例えを指すのではなく、イエスの語った他の譬え全体を網羅する。


11節

新共同訳 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς· Ὑμῖν τὸ μυστήριον δέδοται τῆς βασιλείας τοῦ θεοῦ· ἐκείνοις δὲ τοῖς ἔξω ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται,

  • 「あなたがたには」(Ὑμῖν):人称代名詞が文頭で使用され、強調構文になっている。「外の人々」と弟子たちとの対照が意識されている。
  • 「(神の国の)秘密」μυστήριον:奥義とも。ヘレニズム的には秘儀宗教の「秘儀」を指す語。ユダヤ教では神の計画や啓示を意味する(参照、ダニエル2:18-19など)。

  • 「外の人々には」(τοῖς ἔξω)
     先行箇所の3:31-32では、家の「外」と内とが意識され、家の中でイエスを囲んで教えに耳を傾ける人々が、家族として呼ばれていた(3:34)。初期教会時代では、教会の信徒以外の一般社会を指す用語として定着した(参照、コロサイ4:5)。

  • 「すべてがたとえで示される」
     原語の直訳では「すべてが例えによって生じる」(ἐν παραβολαῖς τὰ πάντα γίνεται)。


 弟子たちや信徒、神の教えに喜んで耳を傾ける者たちには、神の真理が教え示される。一方、外部の人たちにも伝えられないわけではないが、聞く気がある人とない人とで、受容するか拒絶するかの結果がより出やすい「例え」で語られるということ。

12節

新共同訳 それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。
ἵνα βλέποντες βλέπωσιν καὶ μὴ ἴδωσιν, καὶ ἀκούοντες ἀκούωσιν καὶ μὴ συνιῶσιν, μήποτε ἐπιστρέψωσιν καὶ ἀφεθῇ αὐτοῖς.

  • イザヤ書の七十人訳聖書6:9-10からの引用句。ἵνα... μήποτε 構文が使用されていて、通常は<〜するために〜してはならない>という意味だが、ここでは、「してはならない」が結果節として用いられている。

  • 「彼らは見るには見るが、認めず」
     直訳では、「彼らは見るには見て、認識せず」。見ても認識するに至らずという結果に終わるということ。平たく言えば、もしやる気がないならば、その結果がはっきりと出る結果になるということ。私たちにおいても、「聞く気がないなら分かるわけがない」と思うだろう。分からないという結末が、よりはっきりと出るというニュアンス。

  • 「聞くには聞くが、理解できず」
     「見るには見るが」と同様で、繰り返しによって意味合いが強調されている。

  • 「『立ち帰って赦されることがない』ようになるため」
     「立ち帰って」と訳されている語は、「悔い改める」(ἐπιστρέφω)とも翻訳される語。罪の赦しの主題は、マルコ1:4、2:5などにも現れる。
     文字通りに読むと意味不明となるが、私たちにおいても、「聞く気がないならもういい」との思いを抱くことがあるだろう。本人がそのように望んでいるのだから、赦しを得たくなければ赦されない結果となれ、というニュアンス。


まとめ

 聞く意志のない人たちは、当人が聞くことを望まないのだから、望み通り、理解せずに終わる結果となれ、という趣旨のこの宣言は、一種の神の審判の告知である。積極的な審判ではなく、消極的な裁きであると言える。同時に、語られ、聞かれず、理解や信仰に至らず、という一連のプロセスが、神の意志に基づく神の計画として示されていることにも留意するべきである。


 礼拝説教の結びの言葉として

 主イエスの教えや言葉は、すべての人に語られ、同時に、理解と信仰へと開かれています。イエスはその際、例えを用いてお語りになりました。それは、「聞きたい」「もっと知りたい」「理解したい」「そうして信仰を持つようになりたい」、そう願う人たちが、真理へと導かれるようになるためです。
 そして同時に、聞く耳を持たない人、分かろうと望まない人、そうした人たちが、自分たちの望む末路へと至るようになるためです。一言で言えば、白黒がはっきりと出るため、とも言えます。
 しかし、主イエスが今日、このように語られたのは、単にそのように自業自得の結末で終わるためではありません。たとえ聞く気のない人でも、そこで何事かを思い、聞く耳を持つようにと願われてのことです。
 すべての人は招かれており、すべての人に扉は開かれています。しかし、そこを通る人は一部です。通らない人も、神のご計画と相応しい時が来れば、通るようになることも現実にあります。そのように願われ、すべての人に招きの言葉を語られています。
 イエスは今日も、私たちに語りかけておられます。「聞く耳のある者は聞きなさい」(4:9)。

2025年10月29日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ23:1-12

並行箇所: マルコ12:38–40、ルカ11:37–52、20:45–47

 概要

 この箇所では、律法学者とファリサイ派に対する批判が展開されている。その焦点は、彼らの言行不一致(3節「言うだけで実行しない」)にあり、なおかつその遵守を他者に要求する点(23:4)にもある。
 また、律法を形式的に守るだけで内面の誠実さを欠いていること(23:23)、人に見せびらかす姿勢(23:5–7)も問題とされる。これらが総じて「偽善」(23:25、27、29など)と呼ばれている。
さらに、律法学者とファリサイ派に対して、七つの「災い」が宣言されている。

 1節

新共同訳 それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
Τότε ὁ Ἰησοῦς ἐλάλησεν τοῖς ὄχλοις καὶ τοῖς μαθηταῖς αὐτοῦ.
  • 「それから」(τότε)は、前章の論争物語集(22:15–46)との連続性を示す。
  • 「群衆と弟子たち」──イエスの批判が弟子たちだけでなく、一般の人々への警告でもあることを示す。

 2–3節

新共同訳 2 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3 だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」
2 ἐπὶ τῆς Μωϋσέως καθέδρας ἐκάθισαν οἱ γραμματεῖς καὶ οἱ Φαρισαῖοι·
3 πάντα οὖν ὅσα ἂν εἴπωσιν ὑμῖν ποιήσατε καὶ τηρεῖτε· κατὰ δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν μὴ ποιεῖτε· λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν.
  • 「モーセの座」(καθέδρα Μωϋσέως)とは、律法の解釈と教えにおける権威の象徴であり、シナゴーグに実際に設けられていたとされる。イエスはこの権威そのものを否定していない。「彼らが言うことは守りなさい」と命じる一方で、「彼らの行いは見倣うな」と警告している。言行不一致(λέγουσιν γὰρ καὶ οὐ ποιοῦσιν)こそが批判の中心である。

 4節

新共同訳 彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
δεσμεύουσιν δὲ φορτία βαρέα καὶ δυσβάστακτα καὶ ἐπιτιθέασιν ἐπὶ τοὺς ὤμους τῶν ἀνθρώπων, αὐτοὶ δὲ τῷ δακτύλῳ αὐτῶν οὐ θέλουσιν κινῆσαι αὐτά.
  • 「重荷」(φορτία)は、律法やその派生規定を含む。
  • 「人の肩に載せる」は、他者に義務を課す比喩表現。
  • 「指一本貸そうともしない」は直訳で「自分の指を動かそうとしない」。自らは実践せず、人にだけ義務を課す姿勢を示す。

 5節

新共同訳 そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
πάντα δὲ τὰ ἔργα αὐτῶν ποιοῦσιν πρὸς τὸ θεαθῆναι τοῖς ἀνθρώποις· πλατύνουσιν γὰρ τὰ φυλακτήρια αὐτῶν καὶ μεγαλύνουσιν τὰ κράσπεδα.
 行為の目的が「人に見せるため」であることが非難される。
  • 「聖句の入った小箱」(φυλακτήρια)は申命記6:8に基づく信仰具。
  • 「衣服の房」(κράσπεδα)は民数15:38に由来する。どちらも本来は信仰のしるしだが、自己顕示に堕している。

 6–7節

新共同訳 6 宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7 また、広場で挨拶されたり、「先生」と呼ばれたりすることを好む。
6 φιλοῦσιν δὲ τὴν πρωτοκλισίαν ἐν τοῖς δείπνοις καὶ τὰς πρωτοκαθεδρίας ἐν ταῖς συναγωγαῖς,
7 καὶ τοὺς ἀσπασμοὺς ἐν ταῖς ἀγοραῖς καὶ καλείσθαι ὑπὸ τῶν ἀνθρώπων ῥαββί.
  • 「上座」「上席」は社会的名誉の象徴。
  • 「広場(ἀγορά)」は公共空間で、社会的地位が可視化される場所。
  • 「先生(ῥαββί)」と呼ばれることを喜ぶ姿勢は、宗教的権威が自己顕示の手段と化したことを示す。イエスは11節でこの価値観を反転させる。

 8–10節

新共同訳 8 だが、あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9 また、地上の者を「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10 「教師」と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
ὑμεῖς δὲ μὴ κληθῆτε ῥαββί· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ διδάσκαλος, πάντες δὲ ὑμεῖς ἀδελφοί ἐστε.
καὶ πατέρα μὴ καλέσητε ὑμῶν ἐπὶ τῆς γῆς· εἷς γάρ ἐστιν ὑμῶν ὁ πατὴρ ὁ οὐράνιος.
μηδὲ κληθῆτε καθηγηταί· ὅτι καθηγητὴς ὑμῶν ἐστιν εἷς, ὁ χριστός.
  • 「呼ばれてはならない」(μὴ κληθῆτε)は外的行為の全面禁止ではなく、地位による優越感を戒める内面的命令。
  • 「皆兄弟」──神の前では誰もが平等であり、上下関係は存在しない。
  • 「あなたがたの師は一人」──冠詞つきのὁ διδάσκαλοςは特定の存在、すなわちキリストを指す。「父と呼ぶな」「教師と呼ばれるな」も同様に、社会的称号による自己顕示を退ける表現である。

 11節

新共同訳 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
ὁ δὲ μείζων ὑμῶν ἔσται ὑμῶν διάκονος.
  • 「偉い人」(μείζων)とは権威ある者を意味する。しかしイエスは価値観を逆転させ、そうした者こそ「仕える者」(διάκονος)であるべきと説く。20:28では、イエス自身が「仕えるために来た」と述べており、この教えを体現している。

 12節

新共同訳 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ὅστις δὲ ὑψώσει ἑαυτὸν ταπεινωθήσεται, καὶ ὅστις ταπεινώσει ἑαυτὸν ὑψωθήσεται.

 この逆転の論理はルカ14:11、18:14、22:26にも並行する。マリアの讃歌(ルカ1:52)やマタイ20:26–27も同様の思想を表す。神の国の価値観では、謙遜が真の高貴とされる。

 現代的関連

 現代の教会でも、牧師などを「先生」と呼ぶことがある。本箇所のことをしらないわけでもなく、「これは尊敬を込めた言い方だから」「この言葉は我々のそういう慣例とは主旨が違う」などとして、自分たちの間での「先生」という語の使用はよしとされている。役職名(「〇〇牧師」「〇〇神父」)で呼べば済むことだが、そうすると、「〇〇牧師と呼ぶと、なにか呼びつけのような雑な感じがする」などといって、結局、「先生」と呼ぶのを止められない。こうしたややこしい人間の性(さが)というものが、「先生」と互いに呼び合って自尊心をくすぐり合い、真理から離れる原因の一つであろう。

 礼拝説教の結びとして

 イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の偽善を鋭く指摘されました。しかしその批判は、単なる非難ではなく、私たち自身への問いかけでもあります。
 私たちは、神の言葉を語る者・聞く者として、言葉と行いが一致しているでしょうか。人に見せるためではなく、神に仕えるために生きているでしょうか。
 主は言われました──「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と。
 高ぶる者ではなく、へりくだる者こそが神の国で高められる。私たちが互いに兄弟姉妹として歩む時、そこにキリストの御心が現れます。
 どうかこの週も、誠実な心で主に仕え、隣人に仕える者となれますように。肩に重荷を負わせるのではなく、共に担い、共に祈り、共に歩む者となれますように。
 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の御言葉に従い、へりくだって歩みましょう。

祈り

 恵み深い天の父なる神よ。あなたの御言葉によって私たちの心を照らしてくださり感謝いたします。
 主イエスが語られたように、私たちが言葉だけでなく行いにおいても誠実である者となれますように。
 人に見せるためではなく、あなたに仕えるために、へりくだった心をもって歩むことができますように。
 私たちが誰かに重荷を負わせるのではなく、共に担い、祈り、励まし合う兄弟姉妹として生きることができますように。
 あなたの前では私たちは皆平等です。どうか私たちの中の高ぶりを取り除き、仕える喜びを教えてください。

 私たちの教師はただ一人、キリストです。主の教えに従い、日々の歩みの中であなたの光を映す者とならせてください。
 偽善ではなく、真実の愛と謙遜をもって、あなたに栄光を帰す者となれますように。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。

2025年10月22日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:41-46

説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ22:41–46


注解

41節

新共同訳 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
Συναχθέντων δὲ τῶν Φαρισαίων ἐπηρώτησεν αὐτοὺς ὁ Ἰησοῦς,
 大抵の場合、ファリサイ派やサドカイ派といったイエスに批判的な勢力の人々が、イエスに質問する側である(22:15–22、22:23–33)。しかし、ここでは反対に、イエスが彼らに質問する側となっている。しかもイエスが問いを投げかけた対象は、ファリサイ派の集団であった(συναχθέντων「彼らが集まっているとき」)。

42節

新共同訳 あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。
彼らが「ダビデの子です」と言うと、
λέγων· Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ; τίνος υἱός ἐστιν; λέγουσιν αὐτῷ· Τοῦ Δαυίδ.
 イエスの質問内容は、「メシア」が「誰の子」であるか、すなわちメシアの出自に関する事柄であった。
  • 「メシアのことをどう思うか」:直訳では「キリストとはあなたがたにとって誰か」(Τί ὑμῖν δοκεῖ περὶ τοῦ Χριστοῦ;)。
  • 「メシア」:原文では Χριστός。直訳すれば「キリスト」であるが、新共同訳では当時の文脈を考慮して、“油注がれた者”、すなわち“救世主”を意味する「メシア」と訳出している。
  • 「だれの子だろうか」:前述のように、メシアの出自を問う質問である。原文では「ダビデの」(Τοῦ Δαυίδ)とあるのみ。ファリサイ派は、メシアがダビデの家系から生まれるという当時の理解を踏襲し、それをメシアの視点から言い直して「ダビデの子」と答えた。

43–44節

新共同訳
43「イエスは言われた。『では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。』
44『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』」
λέγει αὐτοῖς· Πῶς οὖν Δαυὶδ ἐν Πνεύματι καλεῖ αὐτὸν Κύριον, λέγων·
44 Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου· Κάθου ἐκ δεξιῶν μου, ἕως ἂν θῶ τοὺς ἐχθρούς σου ὑποπόδιον τῶν ποδῶν σου.
 イエスは詩編110:1(LXX 109:1)を引用し、ファリサイ派のメシア理解の矛盾点を突こうとしている。
  • 「霊を受けて」:直訳では「霊において」(ἐν Πνεύματι)。神の霊によってダビデが真理を語ったという趣旨であり、新約時代の神学的言い方をすれば「聖霊に導かれて」となる。すなわち、ダビデが語ったことは神の意志に基づく真理であるという意味である。
  • 「メシアを主と呼んでいる」:44節の詩編引用「主は、わたしの主にお告げになった」(Εἶπεν Κύριος τῷ Κυρίῳ μου)に基づく。ダビデが神の霊により、自分の子孫を「主」と呼んでいることになる。この矛盾をイエスは指摘している。すなわち、メシアは単なる人間的存在ではなく、神的な「主」であることを暗示している。
  • 「主は、わたしの主に」:Κύριος τῷ Κυρίῳ μου
  • 「主」が二度現れる表現で、第一の Κύριος はヤハウェ(神)、第二の Κύριος μου(わたしの主)はメシアを指す。イエスの議論は、「もしメシアが単なる『ダビデの子』であるなら、なぜダビデが彼を『主』と呼ぶのか」という逆説にある。
  • 「わたしの右の座に」(ἐκ δεξιῶν μου)とは、神の栄誉と権威を帯びる座であり、新約文書ではキリストが昇天して着いた座とされている(マルコ16:19、ヘブライ1:3など参照)。

45節

新共同訳
「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
εἰ οὖν Δαυὶδ καλεῖ αὐτὸν Κύριον, πῶς υἱὸς αὐτοῦ ἐστίν;
 イエスの論理上では、メシアがダビデの子という命題は矛盾しているため、改めて「どうして」と問う必要はない。しかし、あえて修辞的疑問文「どうして(πῶς)」を用いることで、聞き手にその命題の妥当性を再考させている。ただし、メシアがダビデの家系から出現すること自体を否定しているのではない。メシアを単に「ダビデの血統の末裔」としてのみ捉える狭い見方を退けている。それは同時に、「メシア=イスラエルをローマから救う政治的・民族的救済者」とする理解の否定でもある。また、この記事ではイエスこそがメシアであり、「わたしの主」であることが暗示されている。

46節

新共同訳
「これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。」
καὶ οὐδεὶς ἐδύνατο ἀποκριθῆναι αὐτῷ λόγον, οὐδὲ ἐτόλμησέν τις ἀπ’ ἐκείνης τῆς ἡμέρας ἐπερωτῆσαι αὐτὸν οὐκέτι.
 マタイ22:15以降、ファリサイ派やサドカイ派との論争物語が連続しているが、本節はその最後であり、この記事の結びであると同時に、論争物語集全体の結語でもある。
  • 「だれ一人……できず」:ファリサイ派でさえ、イエスの知恵を上回ることができず、彼を陥れようとする企てが完全に潰えたことを示す。
  • 「その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」:敵対者たちの攻撃が止んだわけではない。論争を仕掛けることはなくなったものの、イエスを亡き者にしようとする計画へと転じたことが暗示される。すなわち、ユダの裏切りから受難へと展開していく転換点であり、十字架への伏線となっている。
 神学的には、論争や論破によって神の真理が証明される段階から、十字架と復活という啓示の出来事によってメシア性が明らかにされる歴史的転換点である。

黙想

 「誰か」「誰の子か」というメシアをめぐる問いは、人々が抱く普遍的な問いである。人はその問いから始めて真のキリストを知り、三位一体の神を知り、信仰に至る。
 信仰告白は、「誰か?」という問いではなく、「イエスは主です、メシアです、キリストです、神の子です」という告白である。
 人がその告白に至ることができるのは、ダビデもそうであったように「霊によって」、すなわち聖霊の働きによる。イエスを「主」と呼ぶ信仰は、聖霊によって与えられるのである。
 人の狭い見方・考え・思い込みが破綻したとき、人は沈黙を余儀なくされる。その沈黙から神を否定しようとする殺意が生じることもあれば、他方で神の啓示を目の当たりにして、聖霊によって信仰的理解に到達することもある。
 イエスがメシアであるという出来事としての啓示――それが十字架と復活である。

礼拝説教のむすびとして

 今日、私たちはイエスがファリサイ派に投げかけた問いを通して、メシアとは誰かという根源的な問いに向き合いました。人々が「ダビデの子」として期待していたメシア像は、政治的・民族的な救済者でした。しかしイエスは、詩編の言葉をもって、メシアが「主」であることを示されました。すなわち、メシアは単なる人間の子ではなく、神の右に座する方、神の権威と栄光を帯びた存在なのです。
 この問いは、私たちにも向けられています。「あなたにとって、キリストとは誰か」。それは単なる神学的な問いではなく、私たちの信仰の告白を問うものです。イエスは主です。神の子です。私たちの救い主です。この告白に至るためには、聖霊の導きが必要です。ダビデが「霊によって」メシアを主と呼んだように、私たちも聖霊によってイエスを主と告白する者とされるのです。
 ファリサイ派は沈黙しました。彼らの知識や論理では、イエスの問いに答えることができなかったからです。しかし、私たちは沈黙するのではなく、告白する者となりましょう。イエスこそが主であると、十字架と復活によって示された神の啓示に応えて、信仰をもって歩む者となりましょう。
 この週も、聖霊の導きのうちに、イエスを主と告白し、その主に従って歩む者とされますように。


祈りの言葉

主なる神よ、
御子イエス・キリストに沈黙させられたファリサイ派のように、キリストを一面的にしか捉えられない心の狭さに陥らないようお守りください。
むしろ、聖霊の働きによって私たちの理解と心を広げ、神の真理を悟らせてください。
十字架と復活のイエスこそ、神の子、キリスト、主なる方であることを知り、そのことを証しする者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


2025年10月15日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:31–35

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコによる福音書 3章31–35節
並行箇所 マタイ12:46–50、ルカ8:19–21

概要

先行箇所の3:21における身内の訪問が伏線となっている。その箇所では、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」とあり、家族でさえもイエスを理解できない現実が述べられていた。
後述のように、家族が「イエスとは遠くに」または「家の外」に立ち、家族でない者が「イエスのそばに」または「家の中」に座ってイエスの言葉を聞いている。この「外」と「内」という構図が本箇所において明瞭に示されており、同時に前節の伏線回収ともなっている。

注解

31節

新共同訳 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
Καὶ ἔρχεται ἡ μήτηρ αὐτοῦ καὶ οἱ ἀδελφοὶ αὐτοῦ, καὶ ἔξω στήκοντες ἀπέστειλαν πρὸς αὐτὸν καλούντες αὐτόν.
 3:21では「身内」とのみ記されていたが、3:31では「イエスの母と兄弟」と具体的に述べられている。
  • 「イエスの母と兄弟たち」──6:3によれば、イエスの母の名はマリアであり、兄弟は4人で、「ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン」と名付けられている。また6:3には「姉妹たち」の存在も示唆されており、彼女たちは次の32節で言及される。
  • 「外に立ち」──「外」(ἔξω)。32節では「イエスの周りに座っている」、すなわち<家の内>にいてイエスの言葉に耳を傾けている人々が描かれる。ここには明確な象徴的意味があり、「外」と「内」の距離や位置の違いは、単なる物理的なものではなく、信仰的理解の決定的な差異を表している。

32節

新共同訳 大勢の人がイエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
Καὶ ἐκάθητο περὶ αὐτὸν πλῆθος· καὶ λέγουσιν αὐτῷ· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ σου καὶ οἱ ἀδελφοί σου καὶ αἱ ἀδελφαί σου ἔξω ζητοῦσίν σε.
  • 「イエスの周りに座っていた」──原文では「彼の周囲に」(ἐκάθητο περὶ αὐτὸν)。当時、ラビ(教師)が人々に教えを語るとき、ラビは座り、聴衆は立つのが習慣であった。上下関係の中で、上位者が下位者に教える形式である。しかし、やがて聴衆も座るスタイルが広まり、上下関係よりも、共に学ぶ姿勢が意識されるようになった。
 この場面で人々が「座って」いる理由は明示されていないが、イエスと聞き手との距離が近く、親密な関係であることが示唆されている。もしそうであれば、この記事の主題──すなわち「イエスの家族」とは誰か──の象徴的意味がここに込められていると考えられる。
  • 「母上と兄弟姉妹」──ここで再び「姉妹」も含めて言及され、血縁的な家族の概念が強調されている。

33節

新共同訳 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
Καὶ ἀποκριθεὶς αὐτοῖς λέγει· Τίς ἐστιν ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου;
 家族とは通常、血縁関係によって定義されるが、イエスはその関係性を問い直し、新たに定義しようとしている。イエスは「神の国」の接近を宣べ伝えたが(1:15参照)、神の国における信仰者の関係は「家族」であると示した。
 ユダヤ社会では、旧約時代から、親しい関係や同盟関係、同じ信仰共同体の成員同士を「兄弟」と呼ぶ習慣があった。しかし、弟子がラビを「父」と呼ぶ例は稀であり、家族でない者を「父」や「母」と呼ぶことはほとんどなかった。女性的な呼称(母・姉妹・妻など)も用いられることは少なく、神の愛を母にたとえる(イザヤ66:13など)程度である。
 ところがイエスはここで、男性的・女性的な呼称を包括的に扱い、信仰共同体全体を新しい「家族」と見なしている。この点にイエスの教えの革新性がある。後にパウロも、ある女性信徒を敬意をもって「母」と呼んでいる(ローマ16:13参照)。

34–35節

新共同訳 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのである。」
原文: Καὶ περιβλεψάμενος τοὺς περὶ αὐτὸν καθημένους λέγει· Ἰδοὺ ἡ μήτηρ μου καὶ οἱ ἀδελφοί μου. 35 Ὃς ἂν ποιήσῃ τὸ θέλημα τοῦ Θεοῦ, οὗτος ἀδελφός μου καὶ ἀδελφὴ καὶ μήτηρ ἐστίν.
 イエスは、自身の周りに座って神の言葉を聞く人々こそを「わたしの母」「兄弟」と呼び、新しい意味づけを行った。ここでは、イエスの真の家族とは、イエスを通して語られる神の言葉を聞き、それに従って生きる者たちである。
 後にキリスト教会が互いを「兄弟姉妹」と呼び合うようになった神学的根拠は、以下の二点に要約される。
  1. 神が父であり、信徒はその子どもであること。
  2. キリストが父なる神の長子、すなわち長男であり、私たちがその弟・妹であること。

まとめ

 マルコ3:31–35は、イエスが血縁を超えて「神の御心を行う者」を真の家族と呼ばれた場面である。この箇所は、信仰共同体の本質を明らかにする。イエスの周囲に座る者たちは、単なる聴衆ではなく、神の言葉に耳を傾け、心を開き、従おうとする人々である。彼らこそがイエスにとっての「母」「兄弟」「姉妹」であり、神の家族の一員である。
 この教えは、私たちが互いを「兄弟姉妹」と呼び合う根拠であり、教会が血縁や社会的区分を超えて、神の愛によって結ばれた共同体であることを示している。私たちもまた、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾けることで、この家族の中に生きる者とされる。

礼拝説教の結びとして

 今日の御言葉は、イエスが「神の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と語られた場面でした。血縁による家族の枠を超えて、神の言葉に耳を傾け、それに従って生きる者こそが、イエスにとっての真の家族であると宣言されたのです。
 この言葉は、私たちにとって大きな慰めであり、同時に挑戦でもあります。私たちは、神の家族として招かれています。ただ教えを聞くだけでなく、神の御心を行う者として、イエスのそばに座る者となるよう求められているのです。
 教会とは、血縁や立場を超えて、神の愛によって結ばれた共同体です。互いを兄弟姉妹と呼び合い、共に神の言葉に生きる者として歩むとき、私たちはイエスの家族としての喜びと責任を担うことになります。
この週も、神の御心を求め、イエスの言葉に耳を傾け、従う者として歩んでまいりましょう。私たちがどこにいても、何をしていても、神の家族としてのアイデンティティを忘れずに、主にある交わりを深めていけますように。

祈りの言葉

天の父なる神よ、あなたが私たちをキリストにあって一つの家族として呼び集めてくださったことを感謝します。
私たちが血縁や立場を越えて互いを兄弟姉妹として受け入れ、あなたの御心を行う者として歩むことができますように。
イエスの言葉に耳を傾け、心を開き、従う者となるよう、聖霊によって導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。