レジュメ
1. 問題の所在
- ボンヘッファーは、しばしば「ヒトラー暗殺計画に加わった牧師」として紹介される。
- そこから生まれる定番の問いが、「平和主義の牧師が、なぜ暗殺に加担したのか」である。
- しかし「暗殺への同意」には段階がある。本レジュメでは、次の4つを区別して検討する。
| 段階 | 問い |
|---|---|
| ① 知っていた | 暗殺を含む計画を知る立場にいたか |
| ② 協力した | 抵抗運動に手を貸したか |
| ③ 承認した | 暗殺を道徳的に是認したか |
| ④ 実行した | 実行計画に直接加わったか |
2. 略年表
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1906年 | ブレスラウに生まれる |
| 1935–37年 | フィンケンヴァルデで告白教会の牧師候補生を指導 |
| 1937年 | 『キリストに従う』刊行 |
| 1940年 | 国防軍防諜部(アプヴェーア)の協力者となる |
| 1942年5–6月 | シグトゥーナ(スウェーデン)でベル主教と会談 |
| 1942年末 | 「十年後に」を執筆 |
| 1943年4月5日 | 逮捕、テーゲル刑務所に収監 |
| 1944年7月20日 | ヒトラー暗殺未遂事件(ボンヘッファーは既に獄中) |
| 1944年9月 | ツォッセン文書の発見により陰謀への関与が露見 |
| 1945年4月9日 | フロッセンビュルク強制収容所で処刑 |
3. 抵抗運動への関与
(1) 防諜部への参加(1940年〜)
- 義兄ハンス・フォン・ドナーニの仲介で、防諜部の民間協力者となる。
- 防諜部は、カナーリス、オスターらを中心とする抵抗派の拠点の一つであった。
- 名目上の「諜報員」として兵役を免れ、国外に出ることも可能になった。
- 留意点:防諜部への参加が、そのまま暗殺計画への参加を意味するわけではない。
(2) シグトゥーナ会談(1942年)
- 英国国教会のジョージ・ベル主教に、国内の反ヒトラー勢力の存在を伝えた。
- 政権転覆後の和平の可能性について、英国政府への打診を依頼した。英国政府は応じなかった。
- 留意点:交渉の目的は、暗殺そのものよりも、政権転覆後の政治的・外交的な見通しにあった。
4. 逮捕の理由(1943年)
- 「作戦7」:ユダヤ人をスイスへ逃がした際の資金をめぐる、外貨法違反の嫌疑。
- 防諜部を通じた兵役免除が「国防力破壊」にあたるという嫌疑。
- 逮捕の理由は、暗殺計画ではなかった。 陰謀への関与は、1944年9月のツォッセン文書の発見で露見した。
5. 暗殺をめぐる証言と史料
(1) ヘフテンの問い
- 1942年ごろ、のちにシュタウフェンベルクの副官となる将校ヘフテンが、「撃つべきか」と相談した。
- ボンヘッファーは、撃つだけでは何も変わらず、政権の転換が伴わなければならない、と指摘したとされる。また、決断は本人が負うべきものだと応じたと伝えられる。
- 史料上の注意:主な出典は、教え子ツィンマーマンの戦後の回想である。会話の時期にも異説がある。
(2) 「狂った運転手」の比喩
- 暗殺を正当化した言葉として広く引用される。しかし、この形での典拠ははっきりしない。
- 近い表現として、1933年の論文「ユダヤ人問題を前にした教会」にある「車輪」の比喩が知られる。ただし、これは国家に対する教会の責任を論じたもので、暗殺を論じたものではない。
- 本人の言葉として断定的に引用することは避けるべきである。
(3) 本人の同時代テキスト
- 「十年後に」(1942年末):抵抗の仲間に宛てて「責任ある行為」を論じた文章。回想ではなく、同時代の一次資料である。
- 『倫理』(1940–43年執筆、未完):「罪の引き受け」を論じる。暗殺への参与を支える神学的枠組みとして読まれてきたが、暗殺を直接論じてはいない。両者を結びつけるのは解釈である。
6. 研究史:通説と異論
| 通説(研究の大勢) | 異論(少数説) | |
|---|---|---|
| 主張 | 計画を知り、支持していた | 証拠の多くは戦後の回想に依存している |
| 代表 | ベートゲの伝記(1967)、マーシュら後続の伝記作家 | Nation ほか Bonhoeffer the Assassin?(2013) |
| 強調点 | 「責任ある行為」としての抵抗 | 平和主義の連続性 |
- 異論は、史料の性格を問い直した点で重要な問題提起である。ただし、通説を覆したとまでは言えない。
7. 大衆的イメージ:2024年の映画をめぐって
- 米国映画 Bonhoeffer: Pastor. Spy. Assassin.(2024)は、彼を「暗殺者」として描いた。これに対し、親族や研究者から批判が出た。
- 次の二つの問題を区別する必要がある。
- 史実の問題:彼は暗殺計画にどこまで関与したか。
- 表現の問題:銃を手にした暗殺者として描くことは妥当か。
- 表現への批判は、関与がなかったことの証明にはならない。
8. 結論
| 段階 | 評価 | 根拠 |
|---|---|---|
| ① 知っていた | ほぼ確実 | 防諜部の中枢と近い関係にあった |
| ② 協力した | 確実 | 国外との連絡役、ベル主教との会談 |
| ③ 承認した | 有力だが異論あり | 根拠の多くは周辺者の回想 |
| ④ 実行した | 証拠なし | 実行計画への直接の関与は確認されない |
抵抗運動への参加は事実として語ってよい。暗殺の承認は、解釈の問題として示すべきである。
9. 考察のための問い
- 「平和主義者がなぜ暗殺に加担したのか」という問いは、そもそも適切な問いか。
- 戦後の回想と同時代の史料を、どのように区別して扱うべきか。
- ボンヘッファーの言う「責任ある行為」とは何だったのか。
文献
邦文文献
- エーバーハルト・ベートゲ『ボンヘッファー伝』全4巻、村上伸・雨宮栄一・森野善右衛門訳、新教出版社、1973–1974年(Eberhard Bethge, Dietrich Bonhoeffer: Theologe – Christ – Zeitgenosse, München: Chr. Kaiser, 1967)。
- ディートリヒ・ボンヘッファー『ボンヘッファー獄中書簡集――抵抗と信従』村上伸訳、新教出版社、1988年(Dietrich Bonhoeffer, Widerstand und Ergebung)。「十年後に」所収。
欧文文献
- Bonhoeffer, Dietrich. Konspiration und Haft 1940–1945. Hg. von Jørgen Glenthøj, Ulrich Kabitz und Wolf Krötke. Dietrich Bonhoeffer Werke 16. Gütersloh: Chr. Kaiser/Gütersloher Verlagshaus, 1996.
- Marsh, Charles. Strange Glory: A Life of Dietrich Bonhoeffer. New York: Alfred A. Knopf, 2014.
- Nation, Mark Thiessen, Anthony G. Siegrist, and Daniel P. Umbel. Bonhoeffer the Assassin? Challenging the Myth, Recovering His Call to Peacemaking. Grand Rapids, MI: Baker Academic, 2013.