概要
イエスの死(27:45–56)の直後、場面は十字架から墓へ移ります。アリマタヤ出身の富裕なヨセフがピラトにイエスのからだを求め、それを清い亜麻布で包み、自分のために岩に掘っておいた新しい墓に納めて、入口に大きな石を転がして立ち去ります。マグダラのマリアともう一人のマリアは、墓の向かいに座ってそれを見届けています。
この短い段落は、次の三つの役割を担っています。
- 死の確証 イエスは本当に死に、本当に葬られました(Ⅰコリ15:3–4「葬られたこと」)。「からだ」(σῶμα)という語が三度繰り返されます。
- 墓の同定 「新しい」「彼自身の」墓、「大きな石」、そしてそれを見ていた女性たち。どの墓に納められたかが明確にされ、番兵の配置(27:62–66)と空の墓(28:1–10)への伏線となります。
- 弟子のあり方 十二弟子が逃げ去った(26:56)あとで、それまで表に出ていなかった「弟子」(ἐμαθητεύθη)と女性たちが、主(のからだ)のために仕えます。
共観福音書の中でマタイに特有の要素は、ヨセフが「金持ち」であること、「弟子となっていた」こと、亜麻布が「清い」こと、墓が「彼自身の」ものであり「岩に掘った」ものであることです。他方、マルコにある「議員」という肩書き、ヨセフの「勇気」、ピラトがイエスの早い死を不審に思って百人隊長に確認する場面(マコ15:43–45)は省かれています。
マタイ27:57
- 原文: Ὀψίας δὲ γενομένης ἦλθεν ἄνθρωπος πλούσιος ἀπὸ Ἁριμαθαίας, τοὔνομα Ἰωσήφ, ὃς καὶ αὐτὸς ἐμαθητεύθη τῷ Ἰησοῦ·
- 私訳: さて夕方になったとき、アリマタヤから一人の金持ちの人が来た。名はヨセフといい、彼自身もイエスの弟子とされていた者であった。
文法解析
- Ὀψίας:ὄψιος「遅い」形容詞 女性単数属格(名詞化:「夕方」。ὥρα の省略)
- γενομένης:γίνομαι「なる」アオリスト中動態分詞 女性単数属格(独立属格)
- πλούσιος:πλούσιος「富んだ、金持ちの」形容詞 男性単数主格(限定用法)
- ἐμαθητεύθη:μαθητεύω「弟子となる、弟子とする」直説法アオリスト受動態 3人称単数
本文批評
- ἐμαθητεύθη(受動態)に対し、多くの写本(ビザンチン系を含む)は ἐμαθήτευσεν(能動態・自動詞「弟子であった」)と読みます。意味の差はわずかですが、受動態はマタイ28:19 の μαθητεύσατε(他動詞「弟子とせよ」)との語彙的つながりをより明確にします。NA28 は ἐμαθητεύθη を採用しています。
注解
- 「夕方になったとき」 :申命記21:22–23 は、木にかけられた者の死体を夜通し残してはならず、その日のうちに葬るよう命じています。さらに翌日は安息日であり(27:62「準備の日の翌日」)、日没までに埋葬を終える必要がありました。ヨセフの行動には時間的な切迫がありました。ヨセフスも、ユダヤ人は十字架刑に処された者でさえ日没前に下ろして葬ると記しています(『ユダヤ戦記』4.317)。
- 「金持ちの人」 マルコは「身分の高い議員」(マコ15:43)、ルカは「善良で正しい議員」(ルカ23:50)と記しますが、マタイは「金持ち」とだけ記します。ここにはイザヤ53:9「彼の墓は……富む者とともに設けられた」の成就が意識されていると考えられます。マタイは引用定式を用いていませんが、苦難の僕の歌が受難物語全体の背景にあることを考えると、この語の選択は偶然ではないでしょう。また、マタイ19:23–26 との対照も見逃せません。イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語られました。そして「それは人にはできないが、神には何でもできる」と結ばれました。ここで、その「金持ち」が弟子となり、主の遺体を引き受けます。神にはそれがおできになるということが、受難の極みで示されています。
- 「アリマタヤから」 アリマタヤは、サムエルの故郷ラマタイム・ツォフィム(サム上1:1)と同一視されることが多く、エルサレムの北西に位置したとされます。ヨセフはエルサレムに墓を所有していたことから(60節)、エルサレムに移り住んでいたと考えられます。
- 「イエスの弟子とされていた」:「弟子とする」(μαθητεύω) は福音書ではマタイだけが用いる動詞です(13:52; 27:57; 28:19。他に使徒14:21)。13:52 では「天の国のことを学んだ(弟子とされた)学者」、28:19 では「すべての民を弟子とせよ」と用いられます。受動態は、ヨセフが自分で弟子になったというよりも、神によって弟子とされた者であることを示唆します。そして、この語が復活の主の大宣教命令の中心動詞となることを考えると、ヨセフは、十二弟子が不在となった場面で現れる「弟子とされた者」の先取り的な姿と言えます。
- 「彼自身もまた」(καὶ αὐτός)は、直前に描かれた女性たち(27:55–56「ガリラヤからイエスに従って来て仕えていた」)と並べて、ヨセフもまたイエスに属する者であったことを示します。
マタイ27:58
- 原文: οὗτος προσελθὼν τῷ Πιλάτῳ ᾐτήσατο τὸ σῶμα τοῦ Ἰησοῦ. τότε ὁ Πιλᾶτος ἐκέλευσεν ἀποδοθῆναι.
- 私訳: この人がピラトのもとに来て、イエスのからだを求めた。そのときピラトは、引き渡されるよう命じた。
文法解析
- προσελθὼν:προσέρχομαι「近づく、来る」アオリスト能動態分詞 男性単数主格
- ᾐτήσατο:αἰτέω「求める、願う」直説法アオリスト中動態 3人称単数
- ἐκέλευσεν:κελεύω「命じる」直説法アオリスト能動態 3人称単数
- ἀποδοθῆναι:ἀποδίδωμι「引き渡す、返す」アオリスト受動態不定詞
本文批評
- 多くの写本(ビザンチン系)は ἀποδοθῆναι の後に τὸ σῶμα を補い、「からだが引き渡されるよう」とします。意味を明確にするための補足と考えられ、NA28 は短い読みを採用しています。
注解
- ピラトへの願い出 ローマの十字架刑では、見せしめのために遺体を十字架に放置したり、共同の穴に投げ込んだりすることが珍しくありませんでした。処刑された者の遺体の引き渡しは総督の裁量によるもので、祝祭日に親族へ引き渡された例もあったことがフィロンによって伝えられています(『フラックス反駁』83)。反逆罪(「ユダヤ人の王」27:37)で処刑された者のからだを求めることは、自らをその者と結びつける危険な行為でした。マルコはヨセフが「勇気を出して」(τολμήσας)願い出たと記しますが、マタイはこの語を省き、行動だけを簡潔に描きます。
- 「からだ」の反復:「からだ」σῶμα は58節に一度、59節に一度現れ、59節では代名詞 αὐτό でも受けられます。強調されているのは、イエスが本当に死に、そのからだが実在したということです。仮死説のような解釈をあらかじめ退けると同時に、28章で起こる復活が「からだ」の復活であることを準備しています。また、最後の晩餐でイエスが「これはわたしのからだである」(26:26 τοῦτό ἐστιν τὸ σῶμά μου)と言われた、その「からだ」が、いま裂かれた者として人の手に委ねられています。
- マタイは、ピラトがイエスの早い死を不審に思って百人隊長に確認させる場面(マコ15:44–45)を省いています。
マタイ27:59
- 原文: καὶ λαβὼν τὸ σῶμα ὁ Ἰωσὴφ ἐνετύλιξεν αὐτὸ [ἐν] σινδόνι καθαρᾷ
- 私訳: そしてヨセフはそのからだを受け取り、それを清い亜麻布で包み、
文法解析
- λαβὼν:λαμβάνω「取る、受け取る」アオリスト能動態分詞 男性単数主格
- ἐνετύλιξεν:ἐντυλίσσω「包む、巻く」直説法アオリスト能動態 3人称単数
- σινδόνι:σινδών「亜麻布」名詞 女性単数与格
- καθαρᾷ:καθαρός「清い、きれいな」形容詞 女性単数与格(限定用法)
本文批評
- 前置詞 ἐν は写本によって有無が分かれるため、NA28 では角括弧に入れられています。
注解
- 「受け取り」 λαβών(受け取って)は、最後の晩餐でイエスがパンを「取り」(26:26 λαβών)、杯を「取った」(26:27 λαβών)ことと同じ動詞です。かつてイエスが取って与えたそのからだを、いま弟子が受け取っているという対応は、説教などにおいて味わう価値があるでしょう。
- 「清い亜麻布」 マルコは、ヨセフが亜麻布を「買って」きたと記します(マルコ15:46)。マタイはそれを省き、代わりに「清い」(καθαρᾷ)という形容詞を加えています。これは新品で汚れのない上質の布を指し、ヨセフの富と、イエスへの深い敬意を表しています。王にふさわしい丁重さで葬られていることを暗示しています。
- ユダヤの埋葬の慣習では、遺体を洗い(ミシュナー『安息日』23:5 参照)、香料とともに布で包むのが通例でした。マタイは香料にも洗い清めにも触れていません。安息日を前にした急ぎの埋葬であったことが背景にあると考えられます(ヨハネ19:39–40 ではニコデモが没薬と沈香を持参します。マルコ16:1 では女性たちが安息日明けに香料を携えて墓へ向かいます)。
マタイ27:60
- 原文: καὶ ἔθηκεν αὐτὸ ἐν τῷ καινῷ αὐτοῦ μνημείῳ ὃ ἐλατόμησεν ἐν τῇ πέτρᾳ καὶ προσκυλίσας λίθον μέγαν τῇ θύρᾳ τοῦ μνημείου ἀπῆλθεν.
- 私訳: そして、彼が岩の中に掘っておいた自分の新しい墓の中にそれを置き、墓の入口に大きな石を転がしてあてがって、立ち去った。
文法解析
- ἔθηκεν:τίθημι「置く」直説法アオリスト能動態 3人称単数
- ἐλατόμησεν:λατομέω「(岩を)切り出す、掘る」直説法アオリスト能動態 3人称単数
- προσκυλίσας:προσκυλίω「転がしてあてる」アオリスト能動態分詞 男性単数主格
- ἀπῆλθεν:ἀπέρχομαι「立ち去る」直説法アオリスト能動態 3人称単数
注解
- 「自分の新しい墓」:この墓がヨセフ自身のものであったと明記するのはマタイだけです。ルカは「まだだれも葬られたことのない」墓(ルカ23:53)、ヨハネは「新しい墓」(ヨハネ19:41)と記します。「新しい」ことには二つの意味があります。第一に、他の遺体と混同されることがなく、後に空になった墓がまさにイエスの墓であったことが確実になります。第二に、王の入城の際の「まだだれも乗ったことのない子ろば」(マコ11:2)のように、まだ用いられていないものが主のために聖別されるという含みを持ちます。そして、イザヤ53:9「富める者とともに」の成就がここで完成します。
- 「岩の中に掘っておいた」:当時のエルサレム周辺の富裕層の墓は、石灰岩の岩盤を掘り抜いた横穴式で、内部に遺体を置く棚や壁龕(コーヒーム)を備えていました。遺体が朽ちた後に骨を集めて骨箱(オッスアリウム)に納める二次葬が一般的でした。
- 「大きな石を転がして」 円盤状の転がし石を備えた墓は、第二神殿時代の考古学的発見の中では少数であり、富裕層の墓に限られていたとされます。多くの墓は四角い石で入口を塞ぐものでした。いずれにせよ、「大きな石」という描写は、この墓が容易には開けられないことを強調します。この石は、祭司長たちによる封印と番兵(27:66「石に封印をし、番兵をおいて」)の対象となり、そして復活の朝、主の天使によって「転がされ」(28:2)ます。60節の προσκυλίσας と28:2 の ἀπεκύλισεν は同じ語根 κυλίω を持ち、人が転がして閉じた石を、神が転がして開くという対照をなしています。
マタイ27:61
- 原文: Ἦν δὲ ἐκεῖ Μαριὰμ ἡ Μαγδαληνὴ καὶ ἡ ἄλλη Μαρία καθήμεναι ἀπέναντι τοῦ τάφου.
- 私訳: そこには、マグダラのマリアともう一人のマリアがいて、墓の向かいに座っていた。
文法解析
- Ἦν:εἰμί「いる、ある」直説法未完了過去 3人称単数
- καθήμεναι:κάθημαι「座っている」現在中動態分詞 女性複数主格
- ἀπέναντι:ἀπέναντι「向かいに」副詞(前置詞的用法、属格支配)
- τάφου:τάφος「墓」名詞 男性単数属格
本文批評
- Μαριάμ(ヘブライ語・アラム語形)については、写本によって Μαρία(ギリシア語化形)と読むものがあります。マタイは同じ人物について両形を用いており(27:56 Μαρία ἡ Μαγδαληνή; 28:1 Μαριὰμ ἡ Μαγδαληνή)、本文伝承でも揺れが見られます。
注解
- 二人のマリア:「もう一人のマリア」とは、27:56 の「ヤコブとヨセフの母マリア」を指します。この二人は、十字架を遠くから見守り(27:55–56)、埋葬を見届け(27:61)、週の初めの日に墓を見に行きます(28:1「マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」)。マタイは、同じ二人の女性を十字架・埋葬・空の墓の三場面すべてに置くことで、証言の連続性を保証しています。彼女たちは、イエスが死んだこと、どの墓に納められたか、そしてその墓が空になったことの、途切れのない目撃者です。当時のユダヤ社会では、女性の法廷証言は重んじられませんでした(ヨセフス『ユダヤ古代誌』4.219 参照)。それにもかかわらず、福音書がそろって女性を埋葬と復活の第一証人としているのは、これがフィクションではなく事実である可能性を示唆すると多くの研究者は見ています。
- 「座っていた」 καθήμεναι は現在分詞で、継続している状態を描きます。ヨセフが「立ち去った」(60節)のに対し、女性たちはなお「座り」続けます。それは喪に服す姿であり、もはや何もできない中でなお主のそばにとどまろうとする姿勢です。十二弟子は「皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(26:56)のに対し、女性たちは最後までとどまりました。
- τάφος と μνημεῖον 60節では「墓」に μνημεῖον が二度用いられますが、61節では τάφος に変わります。両者はほぼ同義で、マタイは27:64, 66; 28:1 でも τάφος を用います。μνημεῖον は「記念するもの」(μιμνῄσκομαι「思い起こす」)に由来する語で、死者を記念する場所としての墓を、τάφος は「葬る」(θάπτω)に由来する語です。
<以上の注解をもとにしての説教の結びの言葉として>
イエスの埋葬は、沈黙の場面です。奇跡も、劇的な対話もありません。ただ、主のからだを前にして、ヨセフが「受け取り」、女性たちが「座り続ける」。そこには、弟子とは何かという問いに対する、きわめて具体的で、きわめて静かな答えがあります。
十二弟子が姿を消したその場所に、あまり知られていない女性たちと、これまで表に出てこなかった一人の男が立っています。彼らは語りません。ただ、主のためにできることをし、主のそばにとどまり続けます。神の国に入ることが「人にはできない」その金持ちが、神によって弟子とされ、主のからだを受け取ります。何もできないと思われた女性たちが、主の死と埋葬と復活の連続した証人とされます。ここに、神が弟子を起こされるという事実が、静かに、しかし確かに示されています。
そして、ヨセフが人の手で「転がして閉じた」大きな石を、神は復活の朝に「転がして開かれ」ます。人ができることと、人にはできないこと。その境界線の向こう側で、神は救いの業を完成されます。私たちが主のそばにとどまり、主のためにできる小さなことを忠実に行うとき、神はその小さな従順を、復活のいのちへとつながる道の一部として用いてくださいます。
埋葬の場面は、終わりではありません。ここは、復活の光が差し込む直前の、深い静けさの場所です。ヨセフと二人のマリアが示したように、私たちもまた、この静けさの中で主にとどまり、主に仕える者でありたい。神が弟子を起こし、神が石を動かし、神がいのちを与えてくださる。その確かさの中で、私たちの歩みもまた、復活へと続いていきます。
そして、ヨセフが人の手で「転がして閉じた」大きな石を、神は復活の朝に「転がして開かれ」ます。人ができることと、人にはできないこと。その境界線の向こう側で、神は救いの業を完成されます。私たちが主のそばにとどまり、主のためにできる小さなことを忠実に行うとき、神はその小さな従順を、復活のいのちへとつながる道の一部として用いてくださいます。
埋葬の場面は、終わりではありません。ここは、復活の光が差し込む直前の、深い静けさの場所です。ヨセフと二人のマリアが示したように、私たちもまた、この静けさの中で主にとどまり、主に仕える者でありたい。神が弟子を起こし、神が石を動かし、神がいのちを与えてくださる。その確かさの中で、私たちの歩みもまた、復活へと続いていきます。
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