ボンヘッファー(1906–1945)― ナチズムに抵抗した牧師・神学者
0. 本日の要点
- 若き神学者の出発 ―『聖徒の交わり』の教会論
- ナチ政権と教会の闘い ― 告白教会と牧師養成
- 帰国の決断と抵抗運動への参加
- 逮捕から処刑まで
- ボンヘッファーが問い続けたこと
1. 基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer) |
| 生没 | 1906年2月4日 – 1945年4月9日(39歳) |
| 出身 | ブレスラウ(当時ドイツ領、現ポーランドのヴロツワフ) |
| 立場 | ドイツの牧師・神学者。ナチ時代は告白教会で活動 |
| 最期 | フロッセンビュルク強制収容所で処刑 |
2. 生い立ちと学び(1906〜1927年)
- 学者の家庭に生まれる。父カールは精神医学者で、のちにベルリン大学教授
- 8人きょうだいの6番目。双子の妹がいる
- 1912年、一家でベルリンへ移る
- 十代で神学の道に進むことを決め、テュービンゲン大学(1923年〜)、ベルリン大学で学ぶ
- 1927年、学位請求論文『聖徒の交わり』を提出。同年12月、21歳で博士号を取得
- ※ 書籍としての刊行は1930年
3. 『聖徒の交わり』の教会論
- テーマは「教会とは何か」
- 教会をキリストにおける人間相互の交わりとして捉える
- 鍵となる定式:「共同体として存在するキリスト」(Christus als Gemeinde existierend)
- キリストは、人と人とが支え合い、責任を負い合う教会の交わりのなかに現に存在する
- 神学に社会学の視点を取り入れて論じた
- カール・バルトは「神学的な奇跡」と評した
- → 教会を具体的な交わりとして見る視点は、その後の歩み全体を貫く
4. ニューヨーク留学と帰国(1930〜1931年)
- 1930年、大学教授資格論文『行為と存在』を完成
- 1930〜31年、ニューヨークのユニオン神学校に留学
- アメリカの神学・教会生活に触れる
- ハーレムの黒人教会(アビシニアン・バプテスト教会)に通い、人種差別のなかを生きる人々の信仰と礼拝に深く触れる
- 1931年に帰国
- ベルリン大学の私講師
- ベルリン工科大学の学生牧師
5. ヒトラー政権の成立と教会(1933年)
- 1933年1月、ヒトラーが首相に就任
- ナチ政権は教会を自らの支配下に置こうとする
- 協力勢力:「ドイツ的キリスト者」
- ユダヤ系の出自を持つ牧師を排除する「アーリア条項」を教会にも導入しようとした
- ボンヘッファーは早くからこれに反対
- 1933年4月、論文「教会とユダヤ人問題」
- → ナチズムによる教会支配と人種主義に、はっきりと批判的な立場をとる
6. ロンドン時代(1933〜1935年)
- 1933年秋、ロンドンへ。2つのドイツ人教会(シデナム、聖パウロ教会)で牧会
- 国際的なエキュメニカル運動に関わる
- 教派や国境を越えて、教会の一致と協力を目指す運動
- 英国国教会のチチェスター主教ジョージ・ベルと出会う
- ベル主教はボンヘッファーを通してドイツの教会の状況を知り、以後も長く彼を支えた
7. 告白教会と牧師研修所(1934〜1940年)
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1934年5月 | バルメン宣言の採択。ナチ政権に協力する教会勢力に対抗する「告白教会」が形成される |
| 1935年 | ボンヘッファー帰国。告白教会の牧師研修所の責任者となる |
| 1935年 | 研修所はツィングストに置かれ、まもなくフィンケンヴァルデへ移転。共同生活をしながら候補生を指導 |
| 1937年 | ゲシュタポにより研修所が閉鎖される |
| 1937〜1940年 | 「集合牧師補制度」の形で非合法に牧師養成を継続(1940年3月に閉鎖) |
- 集合牧師補制度:候補生を名目上は各地の牧師のもとに配属しながら、実際には共同生活を続けた(東ポメルンのケスリン、シュラーヴェ/ジグルツホーフ)
- この時期の経験から、『キリストに従う』(1937年)、『共に生きる生活』(1939年)が生まれた
8. 帰国の決断(1939年)
- 1939年6月、再び渡米。戦争が迫り、兵役の問題も抱えていた彼のために、アメリカの友人たちが活動の場を用意した
- 約1か月で帰国を決断
- ラインホールド・ニーバー宛の手紙(要旨)
この時代の試練を同胞と共に担わなければ、戦後のドイツでキリスト教の生活を再建することに加わる資格はない
- 1939年7月、ドイツへ戻る
- 9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる
9. 抵抗運動へ(1939〜1943年)
- 義兄ハンス・フォン・ドーナーニ(姉クリスティーネの夫)が橋渡し役
- 国防軍情報部(アプヴェーア)
- 組織の一部が、ヒトラー政権の打倒を目指す抵抗グループの拠点になっていた
- ボンヘッファーはアプヴェーアの嘱託となる
- 表向きは情報部の任務として国外(スイス、スウェーデンなど)へ渡航
- 国外の教会関係者を通じて、ドイツ国内の抵抗勢力と連合国側との連絡に関わる
- 1942年5月、スウェーデンのシグトゥーナでベル主教とひそかに会見
- ユダヤ人をスイスへ逃がす救出作戦にも関与
10. 逮捕と獄中(1943〜1945年)
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1943年1月 | マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと婚約 |
| 1943年4月5日 | 逮捕。きっかけは救出作戦の資金の流れなどをめぐる捜査。ベルリンのテーゲル軍刑務所に拘禁 |
| 獄中 | 親友エーバーハルト・ベートゲに多くの手紙を書く |
| 1944年7月20日 | ヒトラー暗殺未遂事件。その後、抵抗運動の関係文書が発見され、関与が明るみに出る |
| 1944年10月 | ゲシュタポ本部(プリンツ=アルブレヒト通り)の監獄へ移される |
| 1945年2月 | ブーヘンヴァルト強制収容所へ移送 |
- ※ 逮捕の段階では、抵抗運動の核心はまだ知られていなかった
11. 最期(1945年4月)
- いくつかの場所を経て、フロッセンビュルク強制収容所へ
- 4月8日、ヒトラーの命令による親衛隊の即決裁判で死刑判決
- 4月9日早朝、処刑(39歳)
- 同日、アプヴェーア長官カナーリス提督らも処刑される
- その後
- 約2週間後、収容所がアメリカ軍によって解放
- 4月30日、ヒトラー自殺
- 5月、ドイツ降伏
- → ナチ体制の崩壊は目前に迫っていた
12. 主な著作
| 著作 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| 『聖徒の交わり』 | 1930年刊 | 博士論文。教会論 |
| 『行為と存在』 | 1931年刊 | 大学教授資格論文 |
| 『キリストに従う』 | 1937年 | 弟子としての生き方。「安価な恵み」批判 |
| 『共に生きる生活』 | 1939年 | フィンケンヴァルデでの共同生活から |
| 『倫理』 | 遺稿 | 戦時中に執筆、未完 |
| 『抵抗と信従』 | 遺稿 | 獄中書簡・獄中で書かれた文章 |
- 『倫理』『抵抗と信従』は、戦後ベートゲが編集・出版
- 特に『抵抗と信従』は世界中で読まれた
13. ボンヘッファーの問い
- 教会はどうあるべきか
- 教会を、人と人との具体的な交わりとして考える
- キリスト者の責任とは何か
- 『キリストに従う』:従うことを求めない恵みを「安価な恵み」と呼んで批判した
- 恵みは、それに応えて生きることと切り離せない
- 国家権力と不正義にどう向き合うか
- 信仰と実践を切り離さない
- ※ 牧師が政権打倒を目指す抵抗運動に加わったことの評価には、現在もさまざまな議論がある
14. まとめ
- 21歳で教会論の博士論文を書いた、早熟な神学者
- ナチ政権の教会支配と人種主義に反対し、告白教会で牧師の養成に力を注いだ
- アメリカに留まる道を捨て、苦難を共にすることを選んで帰国した
- 抵抗運動に加わり、1945年4月9日、戦争の終わりを目前にして処刑された
- その生涯と著作は戦後の神学と世界の教会に大きな影響を与え、信仰と社会的責任の関係について今も問いを投げかけている
略年表
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1906年 | ブレスラウに生まれる |
| 1912年 | 一家でベルリンへ |
| 1923年 | テュービンゲン大学で神学を学び始める |
| 1927年 | 『聖徒の交わり』を提出、博士号取得 |
| 1930〜31年 | ユニオン神学校に留学 |
| 1931年 | 帰国。ベルリン大学私講師、ベルリン工科大学学生牧師 |
| 1933年1月 | ヒトラー、首相に就任 |
| 1933年秋 | ロンドンで牧会(〜1935年) |
| 1934年5月 | バルメン宣言、告白教会の形成 |
| 1935年 | 帰国、牧師研修所の責任者に(ツィングスト→フィンケンヴァルデ) |
| 1937年 | 研修所閉鎖。『キリストに従う』 |
| 1939年 | 『共に生きる生活』。6月渡米、7月帰国。9月、第二次世界大戦始まる |
| 1940年 | 集合牧師補制度の閉鎖。この年からアプヴェーアの嘱託に |
| 1942年5月 | シグトゥーナでベル主教と会見 |
| 1943年 | 1月婚約、4月5日逮捕(テーゲル軍刑務所) |
| 1944年 | 7月20日事件。10月、ゲシュタポの監獄へ |
| 1945年 | 2月ブーヘンヴァルトへ。4月9日、フロッセンビュルクで処刑 |
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。