カノッサの屈辱(1077年)― 王はなぜ、城門の前に立ったのか
0. 本日の要点
- 何が争われていたのか ― 叙任権という問題
- 王はなぜカノッサへ行かなければならなかったのか
- カノッサで何が起き、それをどう評価すべきか
- 事件のあと、王と教皇の争いはどうなったのか
1. 二人の主人公
| ハインリヒ4世 | グレゴリウス7世 |
|---|
| 地位 | ドイツ王(ローマ王) | ローマ教皇 |
| 就任 | 1056年、父の死により5歳で王位 | 1073年 |
| 特徴 | 1084年に皇帝として戴冠 | 教会改革を強力に推進(グレゴリウス改革) |
呼称についての注意
- 「神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世」と呼ばれることが多いが、カノッサ事件(1077年)の当時はまだ皇帝ではない
- 「神聖ローマ帝国」という国号自体も12〜13世紀以降のもので、この時代にはまだない
2. 背景 ― 叙任権とグレゴリウス改革
2.1 叙任権とは
- 司教や修道院長を任命し、その職に就ける権限
- 当時の司教・修道院長は、宗教的職務に加え、広大な所領・収入・政治的権限を持つ
- ドイツ王はオットー朝以来、司教を王国統治の支柱とし、その任命に深く関与(帝国教会政策)
- → 叙任権は単なる人事の問題ではなく、統治そのものの問題
2.2 グレゴリウス改革
- 11世紀の教会改革運動。改革派が特に批判したのは次の二つ
- 聖職売買(シモニア):金銭による聖職の売買
- 聖職者の妻帯(さいたい)(ニコライズム)
- 西方教会では古くから聖職者に独身・禁欲が求められていたが、11世紀には妻を持つ司祭が少なくなかった
- 教会財産が子に受け継がれ、聖職が世襲化するおそれ
- 聖職者は世俗の生活から区別されるべきだという考え
- 弊害の根本に「俗人による聖職者の任命」があると考えた
- 1075年、グレゴリウス7世は俗人叙任を禁じたとされる
- ※ 条文が残らず、存在や内容に議論あり。明確な条文は1078年・1080年の教会会議
3. 対立の始まり(1075〜1076年)
| 年月 | 出来事 |
|---|
| 1075年 | ミラノ大司教の任命をめぐる争い。王が教皇の意向に反して自派の人物を立てる |
| 1076年1月 | ヴォルムス教会会議:王がドイツの司教たちにグレゴリウス7世の廃位を宣言させる |
| 1076年2月 | ローマ教会会議:教皇が王を破門し、臣下を王への忠誠の誓いから解く |
4. 破門の衝撃
- 破門は宗教的制裁にとどまらず、王の政治的基盤を揺るがした
- 背景:ドイツ諸侯のあいだには、もともと王への不満があった(1073年に始まるザクセン人の反乱など)
- 1076年10月、トレブール(トリブール)の会合
- 破門から1年以内に赦しを得なければ、ハインリヒを王と認めない
- 翌1077年2月、アウクスブルクに教皇を招き、王の処遇を決める予定
- → 王は崖っぷちに立たされた
5. カノッサ城の前で(1077年1月)
- 王は教皇がドイツに入る前に赦しを得ようと、真冬のアルプスを越えてイタリアへ
- アウクスブルクへ向かう途中の教皇は、王の意図を測りかね、北イタリアのカノッサ城に身を寄せる
- トスカーナ女伯(じょはく)マティルデの居城。マティルデは教皇の有力な支持者
- 1月25日から3日間、王は城門の前で、裸足に粗末な羊毛の衣という贖罪者の姿で赦しを請い続けたと伝えられる
- 1月28日、教皇は破門を解く
6. 史料をどう読むか
| 史料 | 立場・性格 | 主な記述 |
|---|
| グレゴリウス7世の書簡(ドイツ諸侯宛、事件直後) | 自らの判断を諸侯に説明する目的 | 3日間、裸足、羊毛の衣で城門の前にいた |
| ヘルスフェルトのランペルト『年代記』 | ハインリヒに批判的 | その冬の厳しい寒さを詳しく描写 |
- いずれも同時代史料。ただし、どちらも一方の立場から書かれている
- 劇的な場面ほど、誰が、どんな目的で書いたのかに注意して読む
7. 「屈辱」か、「勝利」か
7.1 伝統的な理解
- 教皇権が世俗権力に勝った象徴的事件
- 「カノッサの屈辱」は日本で定着した呼称。ドイツ語では「カノッサ行き(Gang nach Canossa)」が一般的
- 1872年、文化闘争期のビスマルク:「我々はカノッサには行かない」
7.2 近年の評価
- ハインリヒ側から見れば戦術的な成功だったとする見方が有力
- 破門が解かれ、諸侯は王を廃する根拠を失った
- 教皇がドイツで王を裁くという計画も実現しなかった
- → 頭を下げることで、王は王位を守ったとも言える
8. その後の展開
8.1 対立王と再破門(1077〜1080年)
| 年月 | 出来事 |
|---|
| 1077年3月 | フォルヒハイムで、反国王派の諸侯がシュヴァーベン公ルドルフ(ラインフェルデンのルドルフ)を対立王に選出。ドイツは内戦へ |
| 1080年3月 | 教皇が王を再び破門し、ルドルフを王と認める |
| 1080年6月 | ブリクセン教会会議:グレゴリウス7世の廃位を宣言、ラヴェンナ大司教ウィベルトを対立教皇に擁立(クレメンス3世) |
| 1080年10月 | ルドルフ、エルスター河畔の戦いの傷がもとで死去 → 王はイタリア遠征に注力 |
8.2 ローマの攻防(1084〜1085年)
| 年月 | 出来事 |
|---|
| 1084年3月 | 王がローマに入城、クレメンス3世を即位させる |
| 1084年3月31日 | ハインリヒ4世、クレメンス3世の手で皇帝として戴冠 |
| 1084年5月 | サンタンジェロ城に籠もる教皇を、ノルマン人の指導者ロベール・ギスカールが救出 |
| 1084年 | ノルマン軍によるローマ略奪。市民の反感が教皇に向かう |
| 1085年5月25日 | グレゴリウス7世、サレルノで死去 |
カノッサで王に頭を下げさせた教皇は、ローマを去って生涯を終えた。
9. ヴォルムス協約(1122年)
- 皇帝ハインリヒ5世と教皇カリストゥス2世のあいだで締結
- 叙任権闘争は一応の決着をみる
| 教会 | 皇帝 |
|---|
| 授与するもの | 指輪と杖による叙任 | 笏による世俗的権益の授与 |
| 性格 | 霊的な権限 | 世俗の権限 |
- ただしドイツでは、司教選挙に皇帝が立ち会うことも認められた
- → 世俗権力の関与は、形を変えて残った
10. まとめ
- カノッサの屈辱は、叙任権をめぐる王と教皇の争いの中で起きた出来事
- 王は城門の前で赦しを請い、教皇は破門を解いた
- 教皇権の勝利の象徴として語られてきたが、王にとっては王位を守るための計算された一手でもあった
- 争いはその後も続き、1122年のヴォルムス協約で一応の決着
- カノッサの出来事は、中世ヨーロッパの人々が教会と国家それぞれの権威をどう考えていたのかを映し出す鏡である
略年表
| 年代 | 出来事 |
|---|
| 1056年 | ハインリヒ4世、5歳で王位を継ぐ |
| 1073年 | グレゴリウス7世、教皇に就任。ザクセン人の反乱始まる |
| 1075年 | 俗人叙任の禁止(とされる)。ミラノ大司教問題 |
| 1076年1月 | ヴォルムス教会会議(王による教皇廃位宣言) |
| 1076年2月 | 教皇、王を破門 |
| 1076年10月 | トレブールの会合 |
| 1077年1月25〜28日 | カノッサ。28日に破門解除 |
| 1077年3月 | ルドルフ、対立王に |
| 1080年 | 再破門(3月)、ブリクセン教会会議(6月)、ルドルフ死去(10月) |
| 1084年 | ハインリヒ4世、ローマ入城・皇帝戴冠。ローマ略奪 |
| 1085年 | グレゴリウス7世、サレルノで死去 |
| 1122年 | ヴォルムス協約 |
| 1872年 | ビスマルク「我々はカノッサには行かない」 |
主な参照
- グレゴリウス7世書簡(ドイツ諸侯宛、1077年1月)『教皇登録簿』(Registrum)IV, 12
- ヘルスフェルトのランペルト『年代記』(Annales)1077年の項
- ヴォルムス協約(1122年)皇帝証書・教皇証書
- ビスマルク、帝国議会演説(1872年5月14日)
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