2025年10月8日水曜日

ルツ記緒論

ルツ記緒論


 概要

 旧約聖書の〈諸書〉に分類される書の一つ。士師時代のベツレヘムの一家族に光を当てた物語。ルツ記は一見すると一家族の小さな物語であり、信仰者の側面を映し出してはいるものの、神や天使、預言者が現れるわけではなく、あくまで信仰者の物語である。それ故に、旧約を正典化する際に、ルツ記を聖書に含めるか議論されたという。しかし、一つの家族の信仰の物語、しかも元々モアブという異邦人であるルツがダビデの血筋へと繋がっていくという点で普遍性を保持していることが理由になり、最終的に正典に組み入れられた。

 ルツ記は、十二小預言書を除いて、最も短い書でもある。



 ストーリー

 一家の主人のエリメレクは飢饉のため、異教の地であるモアブに移住するが、2人の息子を残して死ぬ。彼らはモアブの女と結婚するが、彼らも子をもうけぬまま世を去る。エリメレクの妻ナオミはベツレヘムに帰る決意する。息子の嫁の一人であるルツは、ナオミからモアブでの再婚の承認を与えられながらも、イスラエルの神の信仰と習慣を受け入れる決心を抱いてナオミと共にベツレヘムへ赴く。

 ルツがエリメレクの有力な親戚であるボアズの畑で落ち穂を拾っていたところ、それがボアズの目に留まる。貧しい者が刈り入れの際の落ち穂を拾うことは認められていたことだが、彼女のナオミへの献身的姿勢を伺い知ったボアズは、ルツに厚意を示す。その後ナオミは、ボアズが親戚であり、同時にエリメレクの家系と不動産を絶やさぬ法的な能力と責任を持つ人物であることを悟り、ルツにボアズの床に入るよう勧める。夜半にルツの訪問を受けたボアズもまた一連の事情を悟り、自分以上に先の法的責任が優先される親戚と交渉する約束をし、ルツをそのまま帰宅させる。

 翌日、ボアズは長老会の場で当の親戚と交渉し、ルツを嫁に迎えること、そしてエリメレク家が所有していた土地を買い戻す法的権利を得る。こうしてルツはボアズと結婚し、子を授かり、やがてその血筋はダビデへと至ることになった。ルツはダビデの曾祖母に当たる(ボアズ→オベド→エッサイ→ダビデ)。



 レビラート婚

 ある夫が死亡し寡婦を残し、かつその寡婦が子を持たない場合、その一族の血筋を存続させ、一族から不動産を初めとした財産の流出を避けるため、夫の兄弟がその寡婦を妻に迎えることをレビラート婚と言う。ユダヤ民族他、他民族や他部族との婚姻が推奨されていない強固な民族的結びつきを持つ世界各地の民族において、同様の慣習が見られる。

 参照、申命記25章5-10節

「5兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、6彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。7もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。「わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。」8町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、「わたしは彼女をめとりたくない」と言い張るならば、9義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、「自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる」と言うべきである。10彼はイスラエルの間で、「靴を脱がされた者の家」と呼ばれるであろう。」



 成立時期

 1,ベツレヘムを「ユダのベツレヘム」と称する表現、また言語上の共通から判断して、『ルツ記』は『士師記』とほぼ同時代に成立したと考える説。

 2,ペルシャによるバビロン補囚からの解放後、エズラは非ユダヤ人との婚姻の解消を命じる政策を採った。一方で、本書においては異邦人との婚姻が好意的に描かれており、これがエズラに対し非ユダヤ人との婚姻を容認する立場を表していると仮定すると、本書はペルシャ時代に書かれたとも考えられる。


説教や聖書研究をする人のための聖書注解 ヨハネ15:26-27

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

ヨハネ15:26–27


注解

26節

新共同訳
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」

原文
Ὅταν ἔλθῃ ὁ Παράκλητος, ὃν ἐγὼ πέμψω ὑμῖν παρὰ τοῦ Πατρός, τὸ Πνεῦμα τῆς ἀληθείας, ὃ παρὰ τοῦ Πατρὸς ἐκπορεύεται, ἐκεῖνος μαρτυρήσει περὶ ἐμοῦ.


「弁護者」

「Παράκλητος」(パラクレートス)。「傍に」「呼ぶ」という語が組み合わさった語で、「傍に呼ばれる存在」を意味する。そこから「弁護者」「助け主」「慰め主」などと訳される。ヨハネ福音書では聖霊を指し、父なる神からキリストを通して信徒に派遣され、信徒の神理解を深め、真理を人々に「証し」して悟らせる働きを担う。


  • 「父のもとから出る真理の霊」:「真理の霊」は聖霊の別称であり、他の用例は以下の通り。

14:17
「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

16:13
「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」


  • 「父のもとから出る」:聖霊の起源が、父なる神にあることを強調する表現。後代、ニカイア・コンスタンティノポリス信条においても、聖霊が父から発出することが西方教会側によって追記され、これが下記のフィリオクエ問題を引き起こした。

聖霊の父からの発出という教義 ― フィリオクエ問題

 6世紀、スペインのトレド公会議において、従来の文言「父から」(qui ex Patre)に「子からも」(Filioque)が西方教会で付加され始め、9世紀のカール大帝時代にはこの形が西方で定着した。1054年の東西教会分裂(Great Schism)の一因となったのは、この西方側による追加である。


  • 「その方がわたしについて証しをなさる」:「証しする」の原語は μαρτυρέω(証言する)。ヨハネ福音書神学を象徴する語であり、イエスの神性や使命を証言する意味で用いられる。主語となるのは、洗礼者ヨハネ(1:7)、イエス自身(5:31–32)、聖霊(15:26)、弟子たち(15:27)である。また、イエスの十字架や復活の目撃者も証しの主体として描かれる(19:35)。すなわち、聖霊がイエスを人に証しすることで人々は真理に導かれ、その聖霊の働きによって人はイエスを証しする者とされる。

27節

新共同訳
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

原文
καὶ ὑμεῖς δὲ μαρτυρεῖτε, ὅτι ἀπ’ ἀρχῆς μετ’ ἐμοῦ ἐστε.

  • 「あなたがたも……証しをする」:弟子たちもイエスの生涯と教えの目撃者であり、聖霊の働きによって聖霊と共に証人とされていく。
  • 「初めからわたしと一緒にいた」:弟子たちはイエスの公生涯の初期から同行し、イエスの活動を直接に体験してきた。その経験と目撃は、彼らの「証」の真実性の根拠となる。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ25:23–33

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイによる福音書 22:23–33

並行箇所:マルコ12:18-27、ルカ20:27-40

概要

サドカイ派との復活論争の記事。マタイはマルコの並行箇所を踏襲しつつ、マルコの「『柴』の個所」などの記述を省略して叙述している。

注解

23節

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
Ἐν ἐκείνῃ τῇ ἡμέρᾳ προσῆλθον αὐτῷ Σαδδουκαῖοι, λέγοντες μὴ εἶναι ἀνάστασιν, καὶ ἐπηρώτησαν αὐτόν
「その同じ日」:その日がいつ始まったのかは定かではないが、21:17-18において宿泊を経て朝からの記述が始まっている。日付の設定というよりは、直前の記事の「ファリサイ派」との論争を意識して、本箇所でサドカイ派との一幕を記すという意識が反映されている。
「サドカイ派」:前2世紀頃に発生したと推定されるユダヤ教内の一派で、貴族層(エルサレム貴族層、地方の貴族層)、地主などの富裕層によって構成される。元々は有力な祭司一族のザドク(ツァドク)家の子孫とこれに関連のある者たちに由来する(エゼキエル40:46)。なお、ザドク(ツァドク)はソロモン時代の大祭司であった同名の人物から採られたものだろう(列王記上2:35)。イエス時代以前から以後しばらく、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)における多数派として、政治的および宗教的支配権を手にしていた。文化的にはオープンであったが、自分たちの基盤を揺るがすような改革は望まないため、現状維持には保守的であった。神学的には保守的で、律法理解については旧約における「トーラー」(=モーセ五書)のみを正典と見なし、律法学者やファリサイ派とは異なり、律法から派生した伝統的な解釈の権威を否定した。死者の復活、天使や霊の活動の否定(必ずしも存在自体を否定しているわけではない。この世における活動には否定的)を特徴としている。後70年のエルサレム神殿崩壊時、当時の最高議会サンヘドリンの瓦解と共に、事実上その存在は消滅した。
サドカイ派は彼らの信仰内容に基づいてイエスを論破しようと試み、質問を投げかけた。

24節

「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
λέγοντες· Διδάσκαλε, Μωϋσῆς εἶπεν, Ἐάν τις ἀποθάνῃ μὴ ἔχων τέκνα, ἐπιγαμβρεύσει ὁ ἀδελφὸς αὐτοῦ τὴν γυναῖκα αὐτοῦ καὶ ἀναστήσει σπέρμα τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ.
レビラート婚(レビラト婚、申命記25:5–10を参照):子供のいない夫妻において夫が死亡した場合、夫の弟が未亡人と結婚し、家系を存続させる制度をレビラート婚という(参照、申命記25:5-10)。これにより、名前の継承、土地の継続的保持が意図されている。
彼らは律法におけるレビラート婚と呼ばれる制度を引用し、復活の教えの矛盾を突こうとしている。

25節

「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。」
Ἦσαν δὲ παρ’ ἡμῖν ἑπτὰ ἀδελφοί· καὶ ὁ πρῶτος γαμήσας ἐτελεύτησεν, καὶ μὴ ἔχων σπέρμα ἀφῆκεν τὴν γυναῖκα αὐτοῦ τῷ ἀδελφῷ αὐτοῦ·
「七人の兄弟」という極端なケースが設定されている。もし復活があるとすれば、「妻」が「七人」全員を夫として持つことになるとして、その教義が理不尽であると主張されている。

26–28節

26「次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。27 最後にその女も死にました。28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
26 ὡσαύτως καὶ ὁ δεύτερος καὶ ὁ τρίτος ἕως τῶν ἑπτά. 27 ὕστερον δὲ πάντων ἀπέθανεν ἡ γυνή. 28 ἐν τῇ ἀναστάσει οὖν τίνος τῶν ἑπτά ἔσται γυνή; πάντες γὰρ εἶχον αὐτήν.
サドカイ派の主張は、復活の教義が婚姻制度と矛盾するという一点に集約される。彼らはまた、復活後も婚姻関係がそのまま継続されるということを前提としている。

29節

「イエスはお答えになった。『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
ἀποκριθεὶς δὲ ὁ Ἰησοῦς εἶπεν αὐτοῖς· Πλανᾶσθε, μὴ εἰδότες τὰς γραφὰς μηδὲ τὴν δύναμιν τοῦ θεοῦ.
サドカイ派もまた律法学者と同様、聖書を読んで独自の解釈を深め、神の力を信じている。しかしイエスは、聖書に対する彼らの無理解、神の力に対する無知を指摘する。
復活後はそれまでの地上の制度とは次元を異にするものであり、他方、サドカイ派は地上と復活後の世界を混同している。

30節

「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
ἐν γὰρ τῇ ἀναστάσει οὔτε γαμοῦσιν οὔτε γαμίζονται, ἀλλ’ ὡς ἄγγελοι ἐν οὐρανῷ εἰσίν.
復活後の人間は、もはや地上の婚姻制度に拘束されることはなく、「天使」のような霊的存在に変容するという。復活は単なる肉体の再生や生き返りではない。新しい次元の生としての新しい誕生であり、創造である。
復活後の人間の形としては、ヨハネの手紙一3:2に「御子に似た者となる」という表現がある。

31–32節

31 「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。」32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
31 περὶ δὲ τῆς ἀναστάσεως τῶν νεκρῶν, οὐκ ἀνέγνωτε τὸ ῥηθὲν ὑμῖν ὑπὸ τοῦ θεοῦ λέγοντος· 32 Ἐγώ εἰμι ὁ θεὸς Ἀβραὰμ καὶ ὁ θεὸς Ἰσαὰκ καὶ ὁ θεὸς Ἰακώβ; οὐκ ἔστιν ὁ θεὸς νεκρῶν ἀλλὰ ζώντων.
イエスは、サドカイ派が根拠の拠り所としている聖書(旧約)の「言葉」を引用して問う。32節の旧約引用は出エジプト記3:6。元々の文脈上の意味から外れるものの、イエスはその文言を、<神がアブラハムらをそのように呼ぶことは、神が今なお彼らと生きた関係性を持っていることを意味する>→<アブラハムらが今なお生きていることの証左>という論理で再解釈している。
この論理が少し納得のいかない読者も多いだろう。その場合は、32節の冒頭が「私(こそ)は、アブラハムの神……である」と現在形で書かれていて、過去形ではない、すなわち、既にアブラハムなどが死んだ人として過去の出来事として扱われておらず、現在進行の事柄として語られていることを意識すると、わかりやすいかもしれない。

33節

「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」
καὶ ἀκούσαντες οἱ ὄχλοι ἐξεπλήσσοντο ἐπὶ τῇ διδαχῇ αὐτοῦ.
群衆はイエスの聖書理解と知恵に驚嘆した。サドカイ派の表面的な理屈ではなく、斬新な解釈がもたらす腑に落ちる感覚に驚きを覚えたのだろう。サドカイ派が敗北したとは明言されていないが、群衆が驚いた事実の報告のみをもって、これ以上彼らが太刀打ちできなかったことが暗示されている。

説教や奨励のための黙想

とかく私たちは、神の教えや聖書の言葉を自分の狭い頭の中で弄り回し、堂々巡りの考えに陥りがちである。自分の理屈に捕らわれてしまうのである。それは、この箇所におけるサドカイ派もそうだった。
イエスは彼らの復活否定の主張に対して、神の力や真理の世界が、我々の次元を超越するものであることを示す。
復活後の夫婦関係について述べれば、死後や復活後も、それまでの夫婦関係が継続されることを望む人も少なくない。それをむげに否定する必要はないとは思うが、地上における夫婦関係以上の関係性が用意されていることを思い、希望と期待を抱いて、復活後の新しい命の次元を待ち望みたい。

祈りの言葉

天の父なる神よ、
あなたの御言葉に耳を傾けるとき、私たちは自らの理解の限界を思い知らされます。サドカイ派の人々が復活を否定し、地上の制度に囚われていたように、私たちもまた、自分の理屈や経験に縛られ、あなたの力と真理の広がりを見失ってしまうことがあります。
どうか私たちの心の目を開いてください。あなたの御力が、死を超え、時を超え、私たちを新しい命へと導くことを信じることができますように。復活の命が、ただの延長ではなく、あなたの創造による新しい次元であることを、希望をもって受け入れられますように。
地上で築いた関係や絆を大切にしながらも、それを超えるあなたの愛と交わりに心を向けることができますように。復活の命において、あなたと共にあることの喜びを、今から味わい始めることができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。

2025年10月6日月曜日

サドカイ派 Sudducees

サドカイ派 Sudducees


 前2世紀頃に発生したと推定される、ユダヤ教内の一派で、貴族層(エルサレム貴族層、地方の貴族層)、地主などの富裕層によって主に構成される。元々は有力な祭司一族のザドク(ツァドク)家の子孫とこれに関連のある者たちに由来するものと思われる(エゼキエル40:46)。なお、ザドク(ツァドク)はソロモン時代の大祭司であった同名の人物から採られたものだろう(列王記上2:35)。


 イエス時代以前から以後しばらく、ユダヤの最高議会(サンヘドリン)における多数派として、政治的および宗教的支配権を手にしていた。


 文化的にはオープンであったが、自分たちの基盤を揺るがすような改革は望まないため、現状維持には保守的であった。神学的には保守的で、律法理解については旧約における「トーラー」(=モーセ五書)のみを正典と見なし、律法学者やファリサイ派とは異なって、律法から派生した伝統的な解釈の権威を否定した。死者の復活、天使や霊の活動の否定(必ずしも存在自体を否定しているわけではない。この世における活動には否定的)を特徴としている。


 後70年のエルサレム神殿崩壊時、当時の最高議会サンヘドリンの瓦解と共に、事実上その存在は消滅した。


2025年10月1日水曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ3:20-30

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マルコ3:20-30


概要

新共同訳聖書が付している表題「ベルゼブル論争」というタイトルは、20節から30節までを区切るのが適切である。ただし、この箇所では、イエスの身内が「気が変になった」と思って取り押さえに来ている一方で、31–35節では、身内でない人たちがイエスから「家族」と呼ばれている。すなわち、前者と後者とで、「家族なのに理解しない者たち」と「家族でないのに理解している者たち」という鮮烈な対比が描かれている。その場合、20–35節をひとまとまりとして、30節までと31節以降に分けるのが適切である。

20節

新共同訳 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
Καὶ ἔρχεται εἰς οἶκον· καὶ συνέρχεται πάλιν τὸ πλῆθος, ὥστε μὴ δύνασθαι αὐτοὺς μηδὲ ἄρτον φαγεῖν.
  • 「家に帰られると」──自分の家ではなく、拠点としていた家のこと。
  • 「群衆がまた集まって来て」──「また」(πάλιν)は、これまでも群衆が押し寄せる事態が繰り返されてきたことを意味する。
  • 「一同は食事をする暇もない」──同様の記述は6:31にも見られる。「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」日常生活すらままならない状況が示されている。イエスの教えを聞きたい人々もいたが、多くは病気の癒しや悪霊払いの奇跡を求めて殺到していた。「安住できる場所もない」といった趣旨の言葉としては、マタイ8:20「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」がある。

21節

新共同訳 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
Καὶ ἀκούσαντες οἱ παρ' αὐτοῦ ἐξῆλθον κρατῆσαι αὐτόν· ἔλεγον γὰρ ὅτι ἐξέστη.
  • 「身内の人たち」──イエスの家族とされる。イエスの風評を耳にした身内が、活動をやめさせ、故郷ナザレに連れ戻すためにやって来た。節の後半では、その理由が述べられている。
  • 「あの男は気が変になっている」──文法上、この「気が変に」と言っている主語(3人称複数形)は特定されていないため、これがイエスの身内なのか、それとも第三者なのかは定かでない。新共同訳は後者と解釈して訳出している。いずれにせよ、「身内」はイエスを取り押さえるという行動に出ているのだから、彼らも少なからずそう考えていたと読むのが自然である。
 神の働きを行う際、聖書にしばしば示されるように、周囲がそれを理解してくれるとは限らない。社会、さらには家族でさえ、同意を得られず反対されることがあることを肝に銘じる必要がある。

22節

新共同訳 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
Καὶ οἱ γραμματεῖς οἱ ἀπὸ Ἱεροσολύμων καταβάντες ἔλεγον ὅτι Βεελζεβοὺλ ἔχει, καὶ ὅτι ἐν τῷ ἄρχοντι τῶν δαιμονίων ἐκβάλλει τὰ δαιμόνια.
  • ベルゼブル(Beelzebul)──新約聖書で悪魔を指す呼称。他にはサタン、ベリアルなどがある。「悪霊の頭」とされている(マタイ12:24参照)。もとはペリシテ人の都市神「バアル・ゼブル」(Baal-Zebul、「崇高なバアル」の意)であったが、ヘブライ語ではこれを蔑称化し「バアル・ゼブブ」(Baal-Zebub、「蠅のバアル」)とした(列王記下1章)。なお、メソポタミアの主要都市神としてはマルドゥク(バビロン)、イシュタル(ニネベ)などが挙げられる。
 イエスは、人々に取り憑いたり病気にさせたりする悪霊を追い出していた。イエスに批判的な人々は、それを神の力による奇跡と認めたくなく、「悪霊の頭の力による」とこじつけて考えた。もしイエスの業が神の権威によるものだとすれば、彼ら自身が神の意志に逆らっていることになり、責めを負う立場になるからである。

23–25節

新共同訳 そこで、イエスは彼らを呼び寄せ、たとえを用いて語られた。「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。」
Καὶ προσκαλεσάμενος αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς ἔλεγεν αὐτοῖς· Πῶς δύναται Σατανᾶς Σατανᾶν ἐκβάλλειν; Καὶ ἐὰν βασιλεία ἐφ' ἑαυτὴν μερισθῇ, οὐ δύναται σταθῆναι ἡ βασιλεία ἐκείνη.
 我々の社会にも、自分の本音を隠しつつ、表面上は正論を掲げて批判する場面がある。イエスは彼らの裏の心を見抜き、その矛盾を明らかにされた。悪魔が悪魔を追い出すというのは自己矛盾であり、国が内部で「争って」(μερίζω=分ける、分裂させる)いては成り立たないという比喩を示された。

26節

新共同訳 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
Καὶ εἰ ὁ Σατανᾶς ἀνέστη ἐφ' ἑαυτὸν καὶ μεμέρισται, οὐ δύναται σταθῆναι, ἀλλὰ τέλος ἔχει.
 すなわち、「サタンの頭が手下のサタンを追い出している」という理屈は筋が通らず、自己矛盾した論理であるとイエスは宣言している。

27節

新共同訳 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれもその人の家に押し入って家財道具を奪うことはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
Ἀλλ' οὐ δύναται οὐδεὶς εἰς τὴν οἰκίαν τοῦ ἰσχυροῦ εἰσελθὼν τὰ σκεύη αὐτοῦ διαρπάσαι, ἐὰν μὴ πρῶτον τὸν ἰσχυρὸν δήσῃ, καὶ τότε τὴν οἰκίαν αὐτοῦ διαρπάσει.
 押入り強盗の常套手段は、まず「強い人」を縛ることである。ここでの「強い人」とは、悪霊を支配するサタンを指す。そのサタンの力を封じなければ悪霊払いはできない。逆に言えば、イエスがサタンさえも封じているならば、それは神の権威によるほかなく、イエスが神の権威を帯びていることを示す。「悪霊の頭の力だ」という批判を逆手に取り、イエスが神の力を帯びる方であることを示す天才的な論理転換がここに見られる。

28節

新共同訳 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪や、どんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。
Ἀμὴν λέγω ὑμῖν ὅτι πάντα ἀφεθήσεται τοῖς υἱοῖς τῶν ἀνθρώπων τὰ ἁμαρτήματα καὶ αἱ βλασφημίαι ὅσα ἐὰν βλασφημήσωσιν·
  • 「はっきり言っておく」──直訳では「アーメン、私はあなたがたに言う」。
  • 「人の子」──この文脈では、一般的な人々を指す。
 人間が犯す罪も、神への冒瀆の言葉も、すべて赦されるという神の赦しの無限の広さがここに宣言されている。しかし次節で、その例外が示される。

29–30節

新共同訳 しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。イエスがこう言われたのは、彼らが「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と言っていたからである。
ὃς δ' ἂν βλασφημήσῃ εἰς τὸ Πνεῦμα τὸ Ἅγιον, οὐκ ἔχει ἄφεσιν εἰς τὸν αἰῶνα, ἀλλὰ ἔνοχός ἐστιν αἰωνίου ἁμαρτήματος· ὅτι ἔλεγον· Πνεῦμα ἀκάθαρτον ἔχει.
 この節は解釈上の難点が多い。
  • 「聖霊」──キリスト教の教義上、父なる神、子なる神キリストと共に三位一体をなす神。マルコにおける用例は、1:8「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」、12:36「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている」、13:11「実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊」であるほか、1:10,12でも“霊”として登場する。これらから、聖霊は人の内面に宿り、言葉や意志を与えて動かすものと理解される。
  • 「聖霊を冒瀆する者」──聖霊の働きを否定する者。この文脈では、聖霊の働きを悪霊の力と揶揄した人々を指す。
 解釈としては、①この言葉を当時の状況に限定し、イエスを揶揄した人々への警告と見る立場、②普遍的に適用し、罪の赦しを拒み続ける者・神の教えを曲解する者を指すとする立場がある。

説教のための黙想

この箇所でイエスを取り巻く人々は、神の働きを自分の目で見ながらも、理解と信仰に至ることができなかった。身内も批判者も、いずれも心を閉ざしていたのである。信仰とは「見たら信じる」という単純な話ではなく、心を開くことが必要である。
イエスは批判者たちの揶揄を通して、かえって神の力の真実を明らかにされた。サタンがサタンを追い出すことはあり得ず、悪の力を退けることができるのは神の権威によるのみである。
イエスのうちに働いていたのは、悪霊の力ではなく聖霊の力であった。その聖霊の力は私たちにも与えられ、信仰と理解を生み出す。イエスを否定することは、神ご自身の働きを否定することにほかならない。
聖霊を冒瀆するとは、神の恵みと真理を自ら拒み、赦しの道を閉ざすことである。聖霊のささやきを疑わず、その導きに耳を傾け、神の力を信じて歩もう。

礼拝説教の結びとして

 今日の聖書の言葉は、イエスを取り巻く人々の反応を通して、信仰の本質を私たちに問いかけています。イエスの身内でさえ、その働きを理解できず、「気が変になった」と言って取り押さえようとしました。律法学者たちは、イエスの奇跡を神の力ではなく、悪霊の頭ベルゼブルの力によるものだと決めつけました。
 しかし、イエスはその誤解と批判に対して、たとえを用いて静かに、しかし力強く語られました。「サタンがサタンを追い出すことはできない」。この言葉は、神の働きを否定する者たちの矛盾を明らかにし、イエスのうちに働く聖霊の力こそが、悪を打ち破る真の力であることを示しています。
 私たちもまた、神の働きを見ながらも、それを疑い、否定してしまうことがあるかもしれません。しかし、聖霊は私たちの内に語りかけ、導き、真理へと招いてくださいます。その声に耳を傾けること、それが信仰の第一歩です。
 聖霊を冒瀆するとは、神の恵みを拒み、赦しの道を自ら閉ざすことです。だからこそ、私たちは心を開き、聖霊のささやきに敏感でありたい。イエスのうちに働いていた聖霊の力は、今も私たちのうちに働いています。神の力を信じ、神の導きに従って歩む者となりましょう。
 この週も、聖霊の導きに信頼し、神の働きを喜びのうちに受け止める者として、主にある歩みを続けてまいりましょう。 

祈りの言葉(祈祷)

恵みとまことに満ちた主なる神よ。
御子イエス・キリストを通して私たちのうちに聖霊を送り、真理と命の光を与えてくださることを感謝いたします。
主よ、私たちはしばしばあなたの働きを理解できず、自分の思いによってあなたの御業を疑います。どうか聖霊の力によって私たちの心の目を開き、あなたを正しく見分ける信仰と謙遜をお与えください。聖霊の声を拒まず、あなたの導きに従う者でいられますように。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マタイ22:15-22

説教や聖書研究をする人のための聖書注解

マタイ22:15–22

並行箇所: マルコ12:13–17、ルカ20:20–26

概要

イエスとファリサイ派との論争物語の一つ。

注解

15節
新共同訳 それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。
15 Τότε πορευθέντες οἱ Φαρισαῖοι συμβούλιον ἔλαβον ὅπως αὐτὸν παγιδεύσωσιν ἐν λόγῳ.
イエスを罠に嵌め、その身を捕えようと意図して、ファリサイ派は謀議した。キリスト捕縛への伏線の一つ。
  • 「イエスの言葉じりを捉えて」──具体的には、律法に対する毀損や神への冒涜的発言を捉えようとしたものである。16節以降でその策略が展開される。新共同訳では「言葉じり」とあるが、原文は単に「言葉において」である。

16節
新共同訳 そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」
16 καὶ ἀποστέλλουσιν αὐτῷ τοὺς μαθητὰς αὐτῶν μετὰ τῶν Ἡρῳδιανῶν λέγοντες· Διδάσκαλε, οἴδαμεν ὅτι ἀληθὴς εἶ καὶ τὴν ὁδὸν τοῦ θεοῦ ἐν ἀληθείᾳ διδάσκεις, καὶ οὐ μέλει σοι περὶ οὐδενός· οὐ γὰρ βλέπεις εἰς πρόσωπον ἀνθρώπων.
「弟子たち」──謀議を企てたのはファリサイ派の上層部であり、下の者たちが実働部隊としてイエスのもとに派遣された。
  • 「ファリサイ派」──律法重視・神中心の立場を取るため、基本的に反ローマ的である。
  • 「ヘロデ派」──親ローマ的傾向をもつヘロデ家の支持者とされる。両者は本来政治的に対立関係にあるが、ここでは共闘してイエスを陥れようとしている点に、人間の闇の深さが示される。
※マタイでヘロデ派が登場するのはこの一箇所のみ(他はマルコ3:6、12:13)。ヘロデ派とは、ユダヤにおけるヘロデ大王家(37 BCE–92 CE)を支持する1世紀の政治的一派を指すと考えられる(Horst Balz & Gerhard Schneider [eds.], Exegetical Dictionary of the New Testament, vol. 2, Grand Rapids: Eerdmans, 1991, 124–125)。
イエスに対する「弟子たち」の発言には敬意が込められているように見えるが、それは偽りである。「真実」「真理」「分け隔てしない」というイエスの特質を群衆に印象づけた上で、次節の罠の質問にイエスが嵌まれば、人々の失望を一層大きくすることを狙っている。この表敬は罠の一部である。

17節
新共同訳 「ところで、どうお思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」
17 εἰπὲ οὖν ἡμῖν, τί σοι δοκεῖ; ἔξεστιν δοῦναι κῆνσον Καίσαρι ἢ οὔ;
  • 「税金」──人頭税(κῆνσος)。紀元6年、アウグストゥス皇帝がユダヤを属州とした際に導入された一人当たりの定額税。成人男子に一律で課され、デナリオン銀貨で納入された。その貨幣にはティベリウス皇帝の肖像と「神の子」との銘が刻まれており、皇帝崇拝を意味することからユダヤ人には忌避感が強かった。
  • 「律法に適っているか」──「適っている」と答えればローマ支配の容認と受け取られ、「適っていない」と答えれば反逆罪に問われる。いずれの答えでもイエスを窮地に追い込むことができる巧妙な二者択一の罠である。政治的問題を宗教的忠誠の問題へと意図的に結びつけている。

18節
新共同訳 イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜわたしを試そうとするのか。」
18 γνοὺς δὲ ὁ Ἰησοῦς τὴν πονηρίαν αὐτῶν εἶπεν· Τί με πειράζετε, ὑποκριταί;
  • 「偽善者」──新約での使用はマタイ13回、マルコ1回、ルカ3回で、マタイにおいて際立って多い。ファリサイ派や律法学者に対する批判の語として用いられ、外面の敬虔と内面の悪意との乖離を指摘する。

19–20節
新共同訳 「税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは言われた。「これは、だれの肖像と銘か。」
19 ἐπιδείξατέ μοι τὸ νόμισμα τοῦ κήνσου. οἱ δὲ προσήνεγκαν αὐτῷ δηνάριον.
20 καὶ λέγει αὐτοῖς· Τίνος ἡ εἰκὼν αὕτη καὶ ἡ ἐπιγραφή;
  • デナリオン銀貨──ローマの人頭税支払いに用いられた標準的貨幣。
イエスは罠の質問を単に回避するのではなく、相手を自らの誘導尋問へと導き、その答えの中に真理を語らせている。

21節
新共同訳 彼らは「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
21 λέγουσιν· Καίσαρος. τότε λέγει αὐτοῖς· Ἀπόδοτε οὖν τὰ Καίσαρος Καίσαρι, καὶ τὰ τοῦ θεοῦ τῷ θεῷ.
  • 「皇帝のものです」──イエスの誘導に自ら答えてしまう彼ら。
  • 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」──皇帝に税を納めること自体は信仰の放棄を意味しない。世俗の義務を果たしつつも、神への忠誠を第一とすることが求められる。二者択一を超え、価値の優先順位を示す言葉である。なお、もし権力が信仰否定を強いるならば、「自分を捨て、自分の十字架を背負って従う」(16:24)の覚悟、すなわち殉教の精神をも含意する(参照:5:11)。

22節
新共同訳 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。
22 καὶ ἀκούσαντες ἐθαύμασαν, καὶ ἀφέντες αὐτὸν ἀπῆλθαν.
「驚き」──「悔しがる」ではなく「驚いた」とあり、反論もなく立ち去った。イエスの言葉に完全に打ち負かされたというよりも、言葉の深みに圧倒され、反論不能となったことを示している。

説教・奨励のためのポイント

  • 世俗の権威への妥協が容認されているのではない。
  • どのような世俗の権威にも最高主権はなく、主権は神にある。
  • 神の主権・忠誠・信仰が侵されない限り、世俗の義務を果たすことは悪ではない。むしろ、信仰生活の維持に必要な場合もある(参照:ローマ13:1–7)。
  • キリスト者は世にありながら、その国籍は天にある(ピリピ3:20)。神と世の二重性の中で、時に対立しつつも両立を模索する姿勢が求められている(参照:ヨハネ1:10–11)。



ヘロデ派 Herodians

ヘロデ派 Herodians


 ヘロデ派とは、一般的には、ユダヤにおけるヘロデ大王家(37 BCE - 92 CE)を支持する、紀元1世紀に活動した政治的一党と考えられている(Horst Balz and Gerhard Schneider (eds.), Exegetical Dictionary of the New Testament (vols. 2; Grand Rapids: William B.  Eerdmans Publishing Company, 1991, 124-5. 川島貞雄も「ヘロデを支持」し「ローマ人に対しても友好的」かも知れない「ユダヤ人」と推測するが、詳細不明としている。川島貞雄『マルコによる福音書―十字架への道イエス』(福音書のイエス・キリスト2)、日本基督教団出版局、1996年、91頁。)。その実体については、資料が乏しいため、殆ど不明である。


 新約聖書で3回言及されている他、ユダヤ人歴史家ヨセフスによっても触れられており、ヘロデの親衛隊もしくは支持者たちに相当するようなグループと考えられる。このようなヘロデ支持者たちがヘロデ大王の時代から存在していたことは、ヨセフスの記述から知り得る(ユダヤ戦記i.319; ユダヤ古代誌xiv. 450; xv. 2)。彼らは、ヘロデ大王に対して特別な敬意を表していたようである。

 しかし、ヨセフスの記述はすべてヘロデ大王時代に限られている。これに対して、新約聖書での用例は、ヘロデ大王以後のものであり、両者は微妙に時代を異にしている。


 新約聖書における三つの用例を挙げる。

「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3:6)

「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。」(マルコ12:13)

「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。」(マタイ22:15-16。マルコ12:13の並行箇所)


 参考として、「ヘロデ」という表記をもって、ヘロデの支持を受けて動くグループを含意して使用されている用例も挙げておく。

「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。』(マルコ8:15)

「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」(ルカ13:31)

「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。」(使徒言行録4:27)


 マタイ22:15-16の用例は、マルコ12:13の並行箇所であるから、用例はマルコを源泉としている。マルコの用例の検討は後述することにして、先にマタイとルカの反応を見てみることにしよう。

 マタイは、マルコ12:13に含まれる「ヘロデ派」を保持しつつも(マタイ22:16)、マルコ3:6の「ヘロデ派」は削除している(マタイ12:14)。他方、ルカは、マルコ3:2を「律法学者たちやファリサイ派たち」(ルカ6:7)と書き換え、マルコ3:6を人称代名詞で書き直している(6:11)。加えて、マルコ12:13の「ファリサイ派とヘロデ派」という記述を、「律法学者たちや祭司長たち」(ルカ20:19)に遣わされた「義人を装うスパイ」に書き直している(ルカ20:20)。つまり、ルカはマルコにおける「ヘロデ派」という記述をすべて削除していることになる。

 従って、マタイ22:16を除けば、基本的にマタイとルカは、マルコの「ヘロデ派」を別のユダヤ人グループに書き換えており、表記を避けていることは確かである。では、マタイとルカは、なぜ避けたのか。1.エルサレム崩壊後の時代のマタイとルカにとって、崩壊と共に消滅したヘロデ派について書き記す必要がなかった、2.彼らはヘロデ派ついて知らなかった等、幾つかの可能性が考えられる。そこで、マルコにおける二ヶ所の用例を詳しく検討してみよう。


 マルコ3:6

 マルコ3:6を含むマルコ3:1‐6のペリコーペは、2:1から続く一連の論争物語シリーズの結びに相当する。3:6は、その最後のペリコーペの結語にあたり、段階的に高まっていくイエスとファリサイ派たちとの軋轢のクライマックスとして、次のようにコメントされている。「ファリサイ派たちは出て行って、すぐにヘロデ派たちと共に、イエスをどのようにして殺害しようかと相談し始めた」。

 2:1‐3:6におけるペリコーペの結集がどの程度まで伝承段階で為されており、マルコの編集作業がどれほど施されているかについては議論がある。ただ、断食問答の記事(2:18‐20)の中でイエスの死を暗示し、その上で3:6でイエス殺害がほのめかされている。ここには、論争物語の範疇を越えたテーマ、しかもマルコに特徴的なイエスの受難のテーマが複数のペリコーペに跨って埋め込まれているため、クライマックス部分も含めた編集構成にはマルコの意図が反映されている可能性が高い。実際、マルコ的な「出て行って」という言い回しも3:6には含まれている(川島貞雄『マルコによる福音書』、91頁。)。よって、3:6はマルコの編集句と見なしてよい。

 ということは、マルコは自ら「ヘロデ派」という語を書いていることになる。ただ、2:1以来登場してきたグループに「ヘロデ派」という名は見られず、この箇所がマルコにおける初出であり、しかも、何の説明も付されていない。マルコは、なぜマタイやルカが避けた「ヘロデ派」を書き入れたのか。


 マルコ12:13

 このように、「ヘロデ派」が「ファリサイ派」と共に併記されている現象は、もう一ヶ所の用例である12:13にも見られる。3:6が編集句である蓋然性が高いことと、この箇所と同様、「ヘロデ派」と「ファリサイ派」が一緒に登場しており、彼らはイエスに敵意を抱いている点で共通していることから、本節は状況設定句としてマルコによって付加されたものだろう。

 マルコ12:13は、ガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスの支持者を指していると見られる。彼は親ローマの政治的立場を採り、その意味で、ガリラヤではサドカイ派のような立ち位置にあった(Horst Balz and Gerhard Schneider (eds.), Exegetical Dictionary of the New Testament (vols. 2; Grand Rapids: William B.  Eerdmans Publishing Company, 1991, 124-5. )。よって、マルコにおける「ヘロデ派」も、アンティパスと同様、ローマとの共存を支持する政治を志向したと推測される。だとすると、政治的な方向性が正反対同士の両者がイエス殺害を一緒にたくらむことに、矛盾と皮相が表されているとする見方も妥当なものだろう。

 両派の者たちを派遣した「人々」が誰であるか具体的には書かれていないが、それまでの受難予告等から(8:31; 9:31(「人々の手に引き渡され」); 10:33)、「長老、祭司長、律法学者たち」、すなわち、ユダヤの最高権力機構であるサンヘドリンに属する者たちを指すことは明らかである。12:13以降、受難物語の中でもヘロデ派は姿を見せることなく、サンヘドリン主導でイエスはピラトに引き渡され、十字架の場面へと入っていく。こうして見ると、伝承段階でもイエスを殺害していく主体は「長老、祭司長、律法学者たち」である。


 ヘロデ・アンティパスによるバプテスマのヨハネの処刑(6:14-29)や、先の「ヘロデのパン種」と関連づけて、状況に流されての不本意な行動はイエスに対する敵対的な行動でさえあることを印象づけるために、敢えて「ヘロデ派」を書き込んだとも考え得るが、推測の域を出ない。


 参考文献

    B. W. Bacon, "Pharises and Herodians in Mark," JBL 39 (1920): 102-12.

    W. J. Bennet," The Herodians of Mark's Gospel," NovT 17 (1975): 9-14.

E. Bickerman, "Les Hérodiens," RB 47 (1938): 184-97.

    C. Daniel,"Les 'Hérodiens' du NT sont-ils des Esséniens?," RevQ 7 (1970): 397-402.

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    H. H. Rowley," The Herodians in the Gospels," JTS 41(1940): 14-27.

    A Schalit, König Herodes (1969): 378-81.