2025年5月21日水曜日

【キリスト教史解説】ドナティスト論争

 

ーーーレジュメーーー

【キリスト教史】ドナティスト論争(後312-314 年)


 要約 

 カルタゴ司教としてカエキリアヌスを叙任したフェリクスが背教行為を犯していたことが判明し、フェリクスが行った叙任の有効性を巡って起こった論争。


 1 背景

・ディオクレティアヌス帝による迫害(後303-313年)

・棄教者が多数発生 →やがて迫害は鎮静化

 →棄教者「裏切り者(トラディトール)」の復帰をどう扱う?


 2 経緯

・カルタゴの司教としてカエキリアヌスが選出

・このカエキリアヌスをフェリクスが叙任

・その後、フェリクスにディオクレティアヌス帝時代の背信が発覚

・ヌミディアの司教や司祭ら70人がフェリクスの"叙任の無効性"を主張 →対抗司教としてマヨリヌスを擁立

・312年、マヨリヌスの後継としてドナトゥスを選出

 ←名称の由来

・民衆を巻き込んでの暴動に発展

・314年、コンスタンティヌス帝、教会会議を招集。

 聖職叙任の有効性を決議。その後、事態は沈静化。

・ドナトゥス派はその後、7世紀まで北アフリカに存続。


 3 ポイント

・サクラメント(秘跡)の有効性

 正当な教会の手続きによって執行された業は、執行者の倫理性で無効にならず

 →教会の普遍性は、個人の性質に勝る


ーーー解説テキストーーー

ドナティスト (ドナトゥス派) ドナティスト論争 312-314 CE


 【要約】

カルタゴ司教にカエキリアヌスを叙任したフェリクスが背教行為を犯していたことが判明し、叙任の有効性を巡って起こった論争。70人の反対者が対抗司教マヨリヌス、次いでドナトゥスを擁立。314年の教会会議で有効性承認。


 [Summary]

The Donatist Donatist Controversy 312-314

Controversy over the validity of the ordination of Felix Caechilianus as bishop of Carthage after he was found to have committed apostasy. 70 opponents supported a rival bishop, Mayolinus, followed by Donatus. The validity approved by the Church Council in 314 CE.


 【本文】

 カルタゴの司教としてカエキリアヌスが選ばれた際、彼を叙任したフェリクスは、ディオクレティアヌス帝の迫害時に背信行為を犯していたとして、ヌミディアの司教や司祭ら70人がフェリクスによる"叙任の無効性"を唱え、対抗司教としてマヨリヌスを立てた(311-312年)。312年、マヨリヌスの後継としてドナトゥスが選ばれる。彼はドナトゥス派の名称の由来となった。同派は、非定住民のキルクムケリオネスと呼ばれる修道士や農民を抱き込んで、暴動による混乱は波及していった。同派の特徴である殉教讃美、熱狂主義的終末思想は、モンタヌス派と共通するところが多い。


 コンスタンティヌス1世は暴動の鎮圧を試み、314年に教会会議を招集。この会議において、叙任者の人格如何に関わらず、聖職叙任は有効であるとの決議が為され、カエキリアヌスの叙任の有効性が確認された。


 その後、ドナトゥス派に弾圧が加えられたがさしたる効果はなく、7世紀に至るまで北アフリカに存在し続けた。なお、アウグスティヌスが同派と論争し、彼はサクラメントの有効性を教会法的に論証し、千年王国説を退け、カトリック教会の公同性と普遍性を主張した。


「主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像」第2回 イエスの洗礼

『信徒の友』2018年5月号所収<主と共に歩んだ人たち─四福音書が映し出す群像>第2回「イエスの洗礼に立ち会った人たち」


 序

 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことについては、読者の皆様もよくご存知のことと思います。しかし、よくよく考えてみると、ヨハネが授けていた洗礼とは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」ですから(マルコ1・4)、一体なぜ、罪の赦しを与えるイエスが彼から洗礼を受ける必要があったのか、その理由がわからなくなってしまいます。これは、福音書最大のミステリーのひとつです。そこで今回は、イエスが洗礼をお受けになった箇所を見ていきます。また、ちょうどペンテコステの時期にも近いですので、これと併せて、イエスの上に聖霊が降った箇所も読みたいと思います。


 イエスの洗礼の事実報告をしないヨハネ福音書

 イエスの洗礼に関連する記事は、四福音書すべてにおいて掲載されています。ただし、いずれの福音書の記事にも個性があり、それぞれに独特の音色の響きがあります。まず、マタイ(3:13-17)、マルコ(1:9-11)、ルカ(3:21-22)の三者は、イエスがヨハネから洗礼を受けられた事実を報告している点で一致しています。ところが、ヨハネ福音書だけはこの事実について触れていないのです。否定まではしていませんが、イエスの姿を目にした洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1:29)と語り、その後、ヨハネ福音書は彼の「証」を綴り、洗礼の事実に触れぬままに記事を結んでいます。その代わりに、神の小羊となって贖罪の業を成し遂げたイエスを「神の子」と証言する洗礼者ヨハネの“証”を、ヨハネ福音書は強調しています。


 イエスがヨハネから洗礼を受けたというミステリー

 イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった事実について、マルコは直裁に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(1:9)と記しています。一方、ルカは「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」(3:21)と書いており、しっかりと事実を書き留めるというよりは、民衆が洗礼を受けたという報告に繋げてしまうことで、軽く流していくような筆致となっています。なぜでしょうか。

 冒頭で述べたように、罪の赦しを与えるイエスが、どうして「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」(ルカ3:3)を授けていたヨハネから洗礼を受けなければならなかったのかという大問題と絡んでいます。加えて、普通に考えれば洗礼を授ける人の方が授けられる人よりも上の立場にあって当然ですが、これも反転してしまっています。そうです。イエスの洗礼は、実は解きがたい大いなる矛盾を孕むミステリーなのです。

 書き手とすれば、こういう箇所は書き飛ばしてしまいたいところですが、恐らくイエスの洗礼は確固たる事実として周知されていたために、ルカはそうすることができなかったと推測されます。かといって、ルカとしては初心の福音書読者をむやみに混乱させたくはなかったと思われます。そこで、上記のような流し書きをしたのだと私は見ています。

 ちなみに、イエスが洗礼を授けたという報告は、ヨハネ福音書だけにしか見られません(3:26「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」)。イエスが洗礼を授けたというのなら文句なしに自然だというのに、逆に洗礼を受けられたとは、謎は深まるばかりです。


 マタイが読み解くイエスの洗礼のミステリー

 このミステリーの解決に、果敢に挑戦したのがマタイです。マタイ3:14-15は、マタイ福音書にしか見られない独自の記述となっています。


「ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』しかし、イエスはお答えになった。『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。』そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。」


 こうしたやり取りが史実通りなのかどうかという問題はさておき、このマタイの解釈は皆さんにとっていかがでしょうか。「正しいこと」、すなわち、“神の意志”に服従することをイエスは願い、大いなる矛盾の中に我が身を置いたのだと理解することができます。さらには、イエスのこの決意は、罪を赦す方が罪の裁きを我が身に負うという、いわば“贖罪のパラドックス”を指し示しているかのようです。


 それにしても、思いとどまらせようとしたヨハネの行動は、私たち読み手の側の動揺を代弁しているかのようです。予想外の出来事が神のご計画の中で起こった時、「主よ、どうしてですか?」と問いたくなる時があるでしょう。そう考えると、イエスがヨハネに返した「今は、止めないでほしい。・・・我々にふさわしいことです」という回答は、にわかには受け容れがたい神の意志が示された時、動揺する私たちに向かってイエスから語られている言葉として受け止めることができます。しかもこの時、イエスはヨハネに対して服従を求めている立場ではありますが、同時に、ご自身もまた父なる神の意志に従順であろうとしています。つまりイエスは、“共に”神の意志に従おうではないかとヨハネに促し、そして私たちにもまた、同じくびきを“共に”担おうではないかと声をお掛けになっているのです。イエスの姿に倣って、私たちもまた、あえて身を低くしようではありませんか。あえて損を取り、あえて矛盾のただ中に飛び込もうではありませんか。神のために、そして、隣人のために。


 聖霊が鳩のようにイエスに降る

 イエスの洗礼後、マルコの場合は天が「裂け」(1:10)、マタイとルカの場合は「開いて」(マタイ3:16、ルカ3:21)、聖霊がイエスの上に降ってきたと述べています(霊の降りはヨハネ福音書も触れています。1:33)。また、聖霊の表記は各福音書ごとに異なりますが、「鳩のように」という形容と、「わたしの愛する子」という天からの声は、マタイ、マルコ、ルカで綺麗に一致しています。ただし、ルカは「鳩のように目に見える姿で」と書くことで、それが降りてくる様子のことなのか、それとも聖霊の形がそうであったのか、曖昧な点を明瞭な形に書き直しています。

 天から響く父なる神の声、降りてくる聖霊、そしてイエス。ここには、一つの場面に三位一体の神である父・子・聖霊が同時に現れる、福音書屈指の美しき情景が広がっています。この様子を誰が見たのでしょうか。洗礼者ヨハネは間違いなくその一人です(参照、ヨハネ1:34)。では、群衆についてはどうでしょう。明記はされていませんが、ルカの書き方のように、民衆がこぞって洗礼を受けていく中、イエスはそこに混じるようにして洗礼を受けられたことを考慮すれば、多くの人々がこの世界で最も麗しい光景を目にしたと考えることができます。現に、画家たちの多くは、その場面に立ち会った人々を絵の中に描き込んでいます。その場に居合わせた群衆の中に私たちも立ち、イエスの洗礼と聖霊降りに立ち会うかのような心持ちで、この出来事を改めて受け止めて頂ければ幸いです。


 絵画紹介

 イエスの洗礼を題材とした絵画は数多くあります。例えば、イタリアのルネサンス期の画家でティツィアーノに師事し、官能的な画風を特徴としたパリス・ボルドーネの作品は、イエスと洗礼者ヨハネの筋肉美が目映いばかりです。最も一般に知られている作品は、ルネサンス時代のイタリアの彫刻家であり画家でもあったヴェロッキオのものです(ダ・ヴィンチとの共作)。イエスに洗礼を授けるという畏れ多きことに、厳粛な気持ちでのぞむヨハネの精悍な面持ちと、謙って使命に服するイエスの表情の対比が際立つ絵です。

 今回ご紹介する絵画は、このヴェロッキオの手ほどきを受けたウンブリア派の画家ペルジーノの作品「キリストの洗礼」です。誇張を避けて単純化された群衆の人物表現と、ダイナミックな風景の描写には、ペルジーノらしさがきらめいています。この絵の特徴は、今触れた通り、洗礼を受けに来た無数の人々の姿が描き込まれていることです。イエスの洗礼の目撃者ともなったという設定も兼ねています。群衆をよく見ると、いぶかしげな表情をしているファリサイ派的な人も紛れ込んでいます。また、風景の後方に、イエスとヨハネが説教している場面が左右対称で描かれているように見えますが、だとすればこれは異時同図法と呼ばれる手法で、一つの絵の中に場所や時間が異なる別の場面を差し入れるものです。その他、洗礼方法は浸礼ではなく滴礼・灌水礼です。これは、中世以降の洗礼方法を反映していると考えられます。本文の結びと繋がることですが、画家たちの多くは、自分たちが生きた時代の日常を絵の中に盛り込むことで、まるでそこに居合わせているかのような臨場感を醸し出したのです。

【真如苑】「接心」について ー霊能者との対面カウンセリング的お告げ料金体系やランク

 

ーーーレジュメーーー

【真如苑】「接心」について ー霊能者との対面カウンセリング


 1 接心とは
 霊能力を育成された指導者が、信徒と対面で行う相談的システム。

・指導者が複数の信徒と行う形式や、一対一で行う形式などあり。

・「接心」における様々な献立
 ーーー以下、一対複数名の形式ーーー
 向上接心    基本的なな相談        2-3分
 向上相談接心  修行に関する相談       3-5分
 ーーー以下、一対一の形式ーー
 相談接心    悩み事の相談         15-20分
 特別相談接心  複雑な悩み事相談       20-30分
 鑑定接心    高位の霊能者による易学的鑑定 30-40分

*料金は、1000円以上から段階的に上昇し、鑑定接心は8000円以上。
*平均的信徒の年間の消費金額(お布施)は、4-5万円。

 2 霊能者育成システム
・霊能力者が教祖やごく一部の教師に限定されていない。
・一般信徒も訓練によって霊能者に育成されるシステムが特徴的。
・教団内の霊能者の総数は、約4000人。

 3 修行内容
・1-2ヵ月に1度 1-2時間の「会座」(祈祷を伴う修行)に参加。
・日常生活における修行(三つの歩み)
 1 お歓喜      お布施
 2 お救(たす)け  新規入会者の勧誘
 3 ご奉仕      教団のボランティア活動に参加
            公共の場の清掃、被災地支援など

 4 霊能者のランク
下位  大乗   条件:(お救け、新規入会者1名
中位  歓喜   条件:新規入会者3名
    大歓喜  条件:新規入会者7名
            教団内の智流学院で3年修行
最高位 霊能者  条件:新規入会者8名



2025年5月1日木曜日

【マルコ福音書 講解説教】02「キリスト、福音、そして神の子」2025年4月27日分

 

撮影場所:茨木春日丘教会 礼拝堂(光の教会)

撮影日時:2025年4月26日

想定実施礼拝説教日:2025年4月27日

想定実施礼拝説教場所:日本基督教団茨木春日丘教会


ーーー聖書本文ーーー

聖書箇所:マルコによる福音書 1章1節


ーーー説教本文ーーー

 マルコによる福音書連続講解説教の第2回ということで、今回は、この福音書の1章1節のみを取り上げております。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」

 ということで、この文、主語があって動詞があるという文にはなっておらず、名詞だけが繋がっていますから、いわゆる体言止めになっています。ということは、これは文章のタイトルではないかと。あるいは、序盤の部分の表題的なものではないか、とも推測されます。それならば、一体どっちなのか。この1節は、どこまでを指しているのか、悩み始めると頭が痛くなってきます。

 そうすると、肝になってくる要素が、「福音の初め」とあるところの「初め」になりまして、この「初め」が、マルコ福音書全体をもって「初め」の物語になっているのか、あるいは、マルコ福音書の序盤の部分のみを指しているのか、どちらなのかが問題となります。ある研究者は、この「初め」と訳されている語が、基礎とか基盤という意味を持つとして、この福音書全体を、キリスト教におけるいわゆる「福音」というものの、根底にある物語、基本の物語と位置付けているのだ、としています。一方で、この「初め」という語にそんな意味はないとして、否定する説もあります。このように、研究上でも意見が分かれていまして、正直私も決めかねています。

 既に皆さんの中にも、頭が痛くなってついていけなくなっている方もあろうかと想像しますが、ただ、こういう時はこの問題に限らず、シンプルに考えるところに立ち戻るのがよろしい時というのが、多々あります。そこで改めて考えますと、この1節の後、洗礼者ヨハネが唐突に登場しています。その後、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたり、イエスが試みを受けられたりして後、14節から、キリストの宣教活動が始まっていきます。普通の感覚であれば、14節から序盤が終わっていよいよ本編、キリストの宣教編へ、とするのが真っ当ではないでしょうか。

 

 で、次に参ります。「神の子」については、大トリに回しまして、「イエス・キリスト」についての解き明かしとしましょう。まず、「イエス」は人の名前です。日本語その他の言語では、ヨシュア記の「ヨシュア」と発音を変えて翻訳していますが、本来は同じ名前でありまして、ヘブライ語のヨシュアという人名を、ギリシャ語発音にしたものになります。ヨシュアと同じですから、当時もよく使われていた、ありふれた名前です。ちなみに、この名の意味は、「神は救い」というものです。奇しくも、キリストにピッタリの名前と感じるのは、私だけでしょうか。

 次に、「キリスト」になります。まず、これは苗字ではありません。例えば皇帝とか、国王などといった、「称号」であります。称号であれば、「救世主」という語もそうですが、まさにその意味を表す称号です。この「キリスト」、元々はヘブライ語で「油注がれた者」を表す「メシア」と同義でありまして、かつては、国王や預言者のような、特別に神に立てられる者を任職する際、頭から香油を注ぎ変えるという慣習がありまして、それに因んだものでした。ところが、時代が下っていきますと、非常に困難な時代となりまして、いつか神から特別な者が遣わされて、世を救ってくださるという待望感が出始めました。そうしてメシアという語、もっぱらこの遣わされる方を指して使われるようになりました。さらにその後、キリストが現れて、十字架と復活があって、教会が誕生いたしますと、この「メシア」という語は、教会の専売特許の用語となった次第です。さらにまた、メシアがギリシャ語に翻訳されて、「キリスト」と相なったという次第です。


 次に進みましょう。この「キリスト」が先ほどの「イエス」と合体しまして、「イエス・キリスト」という、我々もよく耳にするフレーズとなっています。イエスとキリストの前後をひっくり変えて、「キリスト・イエス」というパターンも、全体の何分の一かはそうなっています。

 それで、合体したらどうなのだという話になるのですが、「イエス」というのは名前であり、同時に、あのキリストを指す固有名詞でもあるわけですね。それが「キリスト」、すなわちメシア、救世主であると。つまり、<あの歴史上の一人の人間イエスは、救世主なる方である>という意味になるのです。そうすると、イエス・キリストという文言のみで、「イエスこそキリストです」という信仰告白、よく最も短い信仰告白とも呼ばれますけれども、そうなるということなのです。ご存知ない方、「イエス・キリスト」というだけで、信仰告白にもなるということ、覚えてみてください。

 次は、「福音」です。福音についても、解説し始めると本が何冊も書けるものですし、おいおい何度も出てきて語る機会もあるものですので、この場では最小限にとどめておきたいと思います。「福音」とは、元々は、戦いに勝利したことを王宮に伝えてくる伝令、その伝令に手渡される褒美を指していたものです。それがいつしか、吉報、良い知らせを意味するようになったと。この語をキリスト教会が、割と早い段階から使い始めるようになりまして、その指す事柄というのは、いわゆるキリストによる救済の業です。すなわち、キリストが人となって来られて、十字架の死という贖罪の死、罪の赦し、そして復活、永遠の命をもたらされたという、一連の救済の働き、ないし出来事。これを「福音」と呼ぶようになりました。今日では、先のキリストと同様に、これも教会のほぼ独占使用となっております。が、マルコ福音書が書かれた背後の世界では、そうでもありませんでした。なぜなら、ローマ皇帝がいて、例えば皇帝ネロのような暴君もいて、教会は迫害を受けることもありました。そんなローマ社会では、「福音」と言えば、それは例えば皇帝の即位式であったり、皇帝に後継が誕生したりといった知らせを意味していました。そんな状況下で、「キリストが福音だ」と公言したら、どうなるでしょう。ローマに目をつけられて、下手すれば迫害を受けますね。

 ここで、先の「キリスト」「救い主」です。イエス誕生時代のローマ皇帝といえば、皇帝アウグストゥス。彼は、「全世界の救い主」と称賛されていました。もうお察しですよね?そこで「イエス・キリスト」、すなわち「イエスこそ救い主」と告白すれば、どうなるか。……皇帝崇拝に楯突くことになると。

 こうしてお膳立てが整ったところで、大トリに回した「神の子」。「神の子」もまた、というかこれこそ、自分自身を神格化したローマ皇帝が、自ら名乗り、帝国もまたそう呼んだところの、「称号」なのです。ということで、「神の子イエス・キリストの福音」、これだけでも、教会の神学の中だけで、重要な意味を持ちます。信仰告白、という意味合いも含みます。ところが、マルコ福音書の時代背景においては、さらに特別な意味をも持つことにもなるわけです。すなわち、世では「ローマ皇帝こそ、神の子、キリスト、救い主、福音!」と呼ばれていて、これに逆らえば、下手をすれば命はない。にもかかわらず、迫害を耐え忍ぶとしても、真実を語らなければならない。真実に立たなければならない。我々は命を賭して、イエスをキリスト、神の子、福音と告白するのだ、そういう気概が籠ったフレーズということです。

 この1章1節、まだ終わりません。次回、マルコが「神の子」という語に込めた意味合いを、深掘りしていきたいと思います。


「神の子イエス・キリストの福音の初め」

光の教会【イースター説教】2025年4月20日分「永遠の命には、神様を感じる感受性が大切」

 

聖書本文 マルコ10:17-22

17イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

18イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

19『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

20すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

21イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

22その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。


説教本文

 今日は、キリストが復活されたことをお祝いする、教会の祝日です。

キリストが十字架にかかられて亡くなられた時、曜日で行くと金曜日となりますけれども、次の日曜日の朝に復活されたことになります。ですのでよく、「キリストは三日目に甦られた」などとも言われるわけです。

 今回は、キリストが甦られた時のお話ではなくして、「永遠の命」ということについて述べたいと思います。キリスト教では、キリストの復活も大事なことですが、「永遠の命」ということもこれと関連して、大切な事柄として挙げられています。

 では、その「永遠の命」とは一体なんでしょうか。それは、生きていることが永久に続くことではありません。それはもはや、果てしない苦しみです。永久と永遠は、違います。あるいは、輪廻転生して、私の前世はこうだったとか、次はこうなるとか、そういう風に続く命でもありません。全く違います。では、なんでしょう。

 大人の方も子供も含めて、特にキリスト教歴の長い方、簡単に説明できるでしょうか?

 まあ、色々と説明の仕方はあるでしょうけれども、一番簡単で、一番しっくりくるのはこうです。

 永遠の命とは、神様を信じて生きること。永遠の命とは、神様と一緒に生きること。言うなれば、永遠の命とは、神様の子供とされることです。

 神様の子供とされて、神様と一緒に歩む人生は、辛い時もありますが、最も幸せなこととされています。でも、物事には全て、始まりが、終わりがありますよね。万博に行って楽しくても、何かをして楽しくても、楽しい時には「終わり」というものが、つきものなのです。

 でも、神様の子供とされた幸せには、終わりがないのです。生きていても、そしていつか必ず死んでしまうとしても、その楽しさは終わらないのです。だから永遠の命とは、永久の命とは言わずに、永遠の命と呼びますし、それが「永遠」という言葉の意味になります。


 そしてまた、永遠の命の生き方というのは、特別なことをするわけでもありません。普通の生活です。寝る、起きる、ご飯、学校、仕事、趣味、遊び、寝る。以上。普通です。普通のことをするのです。

 ただ一つだけ、一つだけ、必要なことがあります。それは、神様が見守ってくださるのをいつも感じている、思っている。神様が一緒にいるのを、感じている、思っている。これがなければいけません。感受性というものが、とっても大事。

 きっとここで、懸命で熟練の大人の方は、「信仰が大事」と思われる方もあるでしょう。それはその通り。けれども、頑張って信仰信仰といっても、神様を感じられなかったら、それは自分に思い込みを植え付けようという自分の頑張りではないでしょうか。

 ですので、大人も、子供も、神様を感じる感受性を大事にしましょう。今日の聖書でのキリストの言葉、「持っている物を捨てなさい」というのは、豊かさでもって鈍ってしまっている感受性を取り戻しなさい、ということです。

 そうすると、「信仰が大事!」とこめかみに青筋立てて頑張ることも、感受性をかえって鈍らせてしまうことにもなりかねません。

 もっと、素直になること。もっと楽になること。そうして、我が心、我が身を委ねること。それが大事ですし、永遠の命に至る、近道となるでしょう。


【新宗教・新興宗教解説】立正佼成会 ー霊友会からの独立系 庭野日敬、長沼妙佼

 


ーーーレジュメーーー

【新宗教・新興宗教解説】立正佼成会


1 基本データ

系統:日蓮系統の新宗教。霊友会からの独立系

所在地:東京都杉並区


創始者:庭野日敬(にわのにっきょう、会長、教祖、庭野鹿蔵)

    長沼妙佼(ながぬまみょうこう、副会長、脇祖)

     長沼政(まさ)、元天理教徒、霊能力あり


後継者:現会長 庭野日鑛(にわのにちこう、1991年)

    次期会長 庭野光祥(にわのこうしょう)

     祖父:庭野日敬開祖、父:庭野日鑛会長


名称の変更:1938年、大日本立正交成会

      →1960年、立正佼成会


本尊:久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊

   (くおんじつじょうだいおんきょうしゅしゃかむにせそん)


「この世に実在し、真理を説いた釈尊の姿と、法華経に説かれている久遠の本仏を一体化し、目に見える形であらわしたものです。ご本尊に帰依することで、「万人が救われるように」という仏さまの願いを私たち自身の願いとしています」(公式HPより)


経典:法華三部経(ほっけさんぶきょう)

   三部 1 無量義経(むりょうぎきょう)

       妙法蓮華経に先立って釈迦が説いたもの

      2 妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう、法華経)

      3 仏説観普賢菩薩行法経(観普賢経)

      (かんふげんぼさつぎょうほうぎょう)

       妙法蓮華経の最終部を受けて説かれたもの


公称信徒数約:627万人(1996)、180万人(2023)、実質20万人?


関連事業

 株式会社 佼成出版社

 立花産業株式会社

 株式会社 佼成ライフプラン【事業終了】



2 教団の足跡

1938年、霊友会の新井支部副支部長の庭野日敬、および

 霊能者の長沼妙佼、霊友会から脱退

 約30名の同志と東京の中野にて大日本立正交成会を創設

1942年、本部を杉並区に移転。

1950年、機関誌『交成』創刊。


1947年、信徒1万世帯達成

1955年、信徒30万世帯

1952年、佼成病院を開院

 社会活動、平和活動を展開していく

1956年、『交成新聞』(佼成新聞)を創刊

1958年、庭野日敬、「真実顕現」の宣言

 法華経の解釈を中心とした教学の学びを重視

1962年、会員綱領制定

1964年、本部に大聖堂が落慶

1991年、法燈継承式

 庭野日敬:開祖、庭野日鑛:第二代会長とされる。


3 活動

・第二次大戦後に急成長し、一時は創価学会と並ぶように

・長沼妙佼の存命中は彼の霊能力による導きが活動の主体

・戦後の活動主体

  姓名鑑定

  法座 法座主を中心に数名が囲み、互いに語り合う集まり

     別名「佼成会のいのち」

     「先祖供養と心根性の切りかえ」

・長沼妙佼の存命中は、霊能力を用いた教えと活動中心

 逝去後、教学重視の方針へ




【新宗教・新興宗教解説】生長の家 初代総裁 谷口雅春

 


ーーーレジュメーーー

【新宗教・新興宗教解説】生長の家 初代総裁 谷口雅春


所在地:東京都渋谷区神宮前

総本山:長崎県西彼杵郡(にしそのぎぐん)の顕斎殿(けんさいでん)

系統:大本やニューソート、クリスチャン・サイエンスなどの

   影響を受けた神道系新宗教


創始者:谷口雅春(初代総裁)

後継者:第二代総裁 谷口清超(せいちょう)

    現総裁 谷口雅宣(まさのぶ)


法人化:1936年、教化団体に登録

    1941年、宗教団体法による宗教結社

    1952年、宗教法人法における宗教法人化


名称:1930年 生長の家

   1949年 生長の家教団

   1957年 生長の家


国内信徒数:34万人。海外:69万人。(公式HP、2021年時点)

 会費を収めている会員。

 但し、会合に参加するアクティブ会員は1割程度との情報。


機関誌:『精神科学』『理想世界』『白鳩』 (月刊) 

    「生長の家 白鳩会」婦人部的な組織

    読者層に対応させての多種

    文書布教のための株式会社「日本教文社」が戦後に設立


**2 谷口雅春と「生長の家」の足跡**

1893年、神戸市兵庫区(現・兵庫県八部(やたべ)郡)に生まれる


1919年、谷口雅春、大本(教)に入信

1922年、第一次大本事件後、脱会。

 *日本政府が大本に対して実施した弾圧、捜査、逮捕(出口王仁三郎他、幹部)


1922年以降、19世紀アメリカのニューソートやメンタルサイエンス、日本の心霊科学研究会から影響を受け、後の教義の着想を得る。

 *ニューソート、メンタルサイエンス =19世紀後半。思考が現実を実現する的な思想。引き寄せのルーツ。

  心霊科学研究会 =大正から昭和初期にかけての心霊現象の科学的解明

  

1929年、「今起て」との神の啓示を受ける。「生命の実相を知れ」「人間は神の子」「天地一切のものと和解せよ」などの啓示。

 実相:現象や見かけの背後に、唯一根本の実在、神が存在

   人間の物質界は仮の姿(「仮相」)、普遍の実在が「実相」


1930年、練っていた唯神実相哲学を元に、個人雑誌『生長の家』発刊。同年が教団の創立年となる。

1930年から1933年、「万教帰一の神示」(全ての宗教の根は同じ、共有)

     「大調和の神示」「無限供給の神示」を発表。

     『生長の家』の姉妹誌『生命の芸術』発刊。

1934年、本部を東京に移転。

1935年、『生命の教育』(教育活動推進系)発刊。

1936年、婦人組織の白鳩会を組織。

戦後の1945年以降、祖国再建を企図して生長の家社会事業団を設立。

 天皇制の護持、「君民同治」(君主と民の議会が共同統治)を主張。

1950年、聖典や月刊誌の頒布機関の「世界聖典普及協会」設立。

1956年、紀元節復活運動、明治憲法復元運動を展開。

     日本の神道的要素を尊重


1960年、京都府宇治市に別格本山宝蔵神社落慶。

1964年、政治結社「生長の家政治連合」が組織。

1964年、優生保護法改正運動を展開。生命尊重の立場を鮮明にする。

1971年、同山の山頂に神癒の社(しんいのやしろ)

    入龍宮幽斎殿落成 龍宮=実相 龍宮界に直入

1978年、長崎県に龍宮住吉本宮落慶。

      九州別格本山から総本山となる。

1983年、生長の家政治連合の停止の他、政治活動から手を引く。


 **3 宗教思想的変遷**

 実相における命は、まずブッダの教えに現れ、

 西欧ではカント、ヘーゲルに代表される観念論哲学、

 アメリカでラルフ・ウォルドー・エマソンの光明思想(神示重視)

 第2次世界大戦時、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を中心に

 戦後、一時はキリストを中心とするも、再び天皇系神道中心に。

 

 **4 教団の教師から聞くあれこれ**

・大本の分派であるが、クリスチャン・サイエンスの影響大。

 クリスチャン・サイエンス

・実相の神:唯神、唯一、絶対。一神教的。

 悪いことは、「心の影」が引き起こす。(現象は仮の相)

・降霊や霊系の教えは大本から継承したもの。現在はほぼ残存せず。

・対面での勧誘はわずか。本での伝道が推奨されている。

 理由:教義がよく伝わる。