レジュメ
今回の問い
1900年にわずか10人で始まった私塾は、どのように大学になったのか。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1864 | 津田梅子、江戸に生まれる |
| 1871 | 岩倉使節団に同行し渡米(満6歳、女子留学生5人の最年少) |
| 1882 | 帰国(満17歳) |
| 1885 | 華族女学校で英語を教える |
| 1889〜1892 | 再留学(ブリンマー大学、オスウィーゴ師範学校) |
| 1899 | 高等女学校令・私立学校令 |
| 1900 | 7月に職を辞す。9月14日、麹町区一番町に女子英学塾を開校(学生10人) |
| 1902 | 麹町区五番町へ移転 |
| 1904 | 3月 専門学校の認可、9月 社団法人化 |
| 1905 | 英語科教員無試験検定の許可 |
| 1923 | 関東大震災で校舎全焼 |
| 1929 | 8月16日、梅子逝去(64歳) |
| 1931 | 小平村の新校舎へ移転 |
| 1933 | 津田英学塾と改称 |
| 1943 | 理科を新設、津田塾専門学校と改称 |
| 1948 | 津田塾大学として開学 |
1. 創立前史
明治日本の女子教育
- 近代化は進むが、女性の役割には強い制約
- 女性が専門的な学問を究める場はごくわずか
- 女子の高等教育機関は女子高等師範学校のみ
創立者・津田梅子の形成
- 1871年、満6歳で渡米。ジョージタウンのランマン夫妻のもとで育ち、初等・中等教育を受ける
- 1882年に帰国し、女性の地位の低さに衝撃を受ける
- 「男性の真の協力者にして対等の地位に立つ」自立した女性を育てる学校を志す
- 再留学で得たもの
- 学問:ブリンマー大学で生物学
- 教授法:オスウィーゴ師範学校
- 支援の輪:日本女性のための奨学金を設立
2. 1900年の創立
決断
- 1899年の法整備により、女学校の教員を養成する場が求められる
- 1900年7月、梅子は華族女学校と女子高等師範学校の職を辞す
開校
- 1900年9月14日、麹町区一番町の住宅で開校
- 日本最初の私立女子高等教育機関
- 最初の学生は10人
開校式の式辞(教育精神)
- 真の教育は設備より、教師の資格と熱心、学生の研究心
- 個性に応じた少人数教育
- 人として女性として「オールラウンド」であること
支えた人々と資金
- 日本:大山捨松、瓜生繁子(ともに留学生仲間)
- アメリカ:アリス・ベーコン、アナ・ハーツホン(1902年来日)
- 資金:「フィラデルフィア委員会」を通じた、主にアメリカの友人・有志の寄付
- 資金不足は慢性的で、梅子は募金活動に奔走
3. 発展の道のり
- 学生の増加:10人 → 3年後に50人超
- 公的な認可:1904年に専門学校、1905年に英語科教員無試験検定(卒業生は試験なしで英語教員の資格を取得)
- 試練:梅子の病(辻マツが塾長代理)、1923年の関東大震災で校舎全焼、仮校舎で再建(星野あいが後を継ぐ)
- 新たな拠点:1931年に小平へ移転(新校舎建設にハーツホンが尽力)
- 校名の変遷:女子英学塾(1900)→ 津田英学塾(1933)→ 津田塾専門学校(1943)→ 津田塾大学(1948)
まとめ:創立の歴史、三つのポイント
- 創立者の経験:二度の留学と教師としての経験が土台
- 時代の要請:女性教員の養成という社会の必要
- 支える人々:日米の仲間と後継者が志をつないだ
「本当の教育は、立派な校舎がなくてもできる」(開校式辞より)
参考資料
- 津田塾大学「序章 津田塾大学の歴史と特色」 https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/disclosure/assessment/cipsia0000000emz-att/0.jyosyo.pdf
- 国立国会図書館「近代日本人の肖像」津田梅子 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/292
- 国立公文書館「時代を超えて輝く女性たち」 https://www.archives.go.jp/naj_news/07/special.html
- 現代ビジネス(津田梅子資料室談) https://gendai.media/articles/-/48197
- 河合塾 Kei-Net 津田塾大学 沿革 https://search.keinet.ne.jp/2243
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