2026年11月6日金曜日

日本女子大 創立の歴史─牧師・成瀬仁藏と実業家・広岡浅子 #NHK朝ドラ


今回の問い

創立者は牧師なのに、なぜ日本女子大学はキリスト教主義ではないのか。

「キリスト教」と「広岡浅子」の二つの軸で読む。

全体の見取り図:逆向きに進む二つの道

人物出発点到達点
成瀬仁蔵信仰宗派を超えた教育
広岡浅子教育への情熱信仰

二つの道が交わる場所に、日本女子大学がある。

年表

年出来事
1849広岡浅子、京都の出水三井家に生まれる
1858成瀬仁蔵、長州(山口)に生まれる
1877成瀬、大阪の浪花教会で受洗
1890〜1894成瀬、アメリカ留学(アンドーバー神学校、クラーク大学)
1896成瀬、『女子教育』を浅子に手渡し協力を求める
19014月、日本女子大学校が開校
1902大同生命創業(浅子も参加)
1909浅子、胸部の腫瘍摘出手術
191112月25日、浅子が大阪教会で受洗
1912成瀬ら、帰一協会を設立
1918浅子、大阪YWCAの創立委員長に
19191月14日に浅子、3月4日に成瀬が死去
1948新制の日本女子大学として発足

1. 二人の人物

牧師・成瀬仁蔵

  • 同郷の先輩でクリスチャンの澤山保羅の思想に共感し、1877年に受洗
  • 梅花女学校で女子教育に携わる
  • 郡山・新潟の教会で牧師として伝道
  • 1890〜1894年にアメリカ留学、帰国後は梅花女学校の校長

実業家・広岡浅子

  • 17歳で大阪の豪商・加島屋の広岡家へ嫁ぐ
  • 維新後、加島屋の立て直しに奔走
  • 1902年、大同生命の創業に参加
  • 筆名「九転十起生」:九度転んでも、十度起き上がる
  • この時点では、まだキリスト教の信徒ではない

2. 出会いと創立

一冊の本『女子教育』(1896年春)

  • 土倉庄三郎の紹介で、成瀬が浅子を訪問
  • 浅子は3回繰り返して読み、「感涙止まなかった」と伝えられる
  • 二人を結んだのは、信仰ではなく「女性に本格的な高等教育を」という理念

創立への奔走

  • 浅子は発起人として政財界の重鎮に働きかけ、資金集めに奔走
  • 土倉庄三郎とともに活動資金を拠出
  • 目白台の土地は三井家が寄贈

1901年4月 日本女子大学校、開校

学部・科入学者
家政学部84名
国文学部91名
英文学部10名
英語予備科37名

附属高等女学校も同時に開校。

3. 宗派を掲げない学校

建学の理念

  1. 女子を人として教育する
  2. 女子を婦人として教育する
  3. 女子を国民として教育する

背景に、神の前で人は等しいというキリスト教的な人間観(解釈)。

帰一協会(1912年)

  • 渋沢栄一らとともに設立
  • 宗教・思想の違いを超え、東西文明の交流や思想の調和を目指す
  • 加わったことは、成瀬が信仰を手放した証拠にはならない

三つを区別して考える

観点内容
創立者の信仰キリスト教徒であり牧師
建学の理念女子を一人の人間として教育
学校の性格特定の宗派を掲げない

4. 浅子の受洗と晩年

受洗までの流れ

1909年 胸部の腫瘍の手術 → 成瀬の紹介 → 大阪教会の宮川経輝牧師に学ぶ → 1911年12月25日 受洗

学校を通じた布教ではなく、人と人とのつながりのなかで信仰が伝えられた(解釈)。

信仰を生きた晩年

  • 日本YWCAの中央委員
  • 1918年、大阪YWCAの創立委員長
  • 廃娼運動、『基督教世界』への寄稿(家族制度を批判)
  • 御殿場の夏期勉強会を主宰(参加者に市川房枝・村岡花子ら)

まとめ

  • 成瀬は信仰から出発して、宗派を超えた教育へ
  • 浅子は教育への情熱から出発して、信仰へ
  • 浅子は受洗のおよそ15年前から、成瀬の理念を支えていた
  • 創立者の信仰と学校の宗教的性格は、必ずしも一致しない。そのずれのなかに、信仰と教育の豊かな関係が見える


参考資料

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