2026年10月2日金曜日

【キリスト教史解説】再洗礼派の光と影──過激派ミュンスターの狂気から非暴力メノー派まで

 

再洗礼派(英: Anabaptists、独: Wiedertäufer / Täufer)

【要約】

宗教改革期に現れた急進派のうち、幼児洗礼を無効とし、信仰告白に基づく洗礼(信仰者洗礼・成人洗礼)を行った諸集団の総称。スイス兄弟団、H. フートに始まる南ドイツ・オーストリア系、フーター派、メルヒオル派、ミュンスター再洗礼派、メノー派などが含まれる。これらは幼児洗礼の否定と国家教会体制からの分離という点で共通するが、発生地・教理・組織形態を異にし、相互に影響し合うと同時にしばしば対立した。宣誓・兵役・剣の行使を拒む平和主義的潮流と、熱狂的終末論や武力行使に向かう潮流の双方を含み、フーター派では財産共有が制度化された。カトリック・プロテスタント双方から激しい迫害を受けたが、その系譜はメノナイト、アーミッシュ、フーター派として今日まで存続している。

【本文】

名称

「再洗礼派」(Wiedertäufer/Anabaptist)は、一度限りであるべき洗礼を二度授ける者という意味で、反対派が用いた他称・蔑称である。この呼称は単なる蔑称にとどまらず法的な意味をもった。古代末期のローマ法(テオドシウス法典・ユスティニアヌス法典)はドナトゥス派対策として再洗礼を死罪と定めており、1529年のシュパイアー帝国議会の勅令がこれを援用して、再洗礼を帝国全土で死刑に値する犯罪としたためである。当事者たちは自らを「兄弟」あるいは「洗礼派」(Täufer、蘭 Doopsgezinden)と呼び、幼児洗礼はそもそも洗礼ではない以上、自分たちの洗礼は「再」洗礼ではないと主張した。現在のドイツ語圏の研究では中立的な Täufer が標準的な呼称である。

発生と多元性

かつては、チューリヒのスイス兄弟団を唯一の源流とし、そこから各地へ伝播したとする単一発生説(H. S. ベンダーら)が有力であった。しかし1975年の J. M. ステイヤー、W. O. パックル、K. デッパーマンの論文以降、①スイス、②南ドイツ・オーストリア、③オランダ・北ドイツという少なくとも三つの発生源を認める多元発生説が通説となっている。各潮流は、聖書主義、終末論、神秘主義、農民戦争後の社会的不満など、異なる要素の配合の上に成立した。ただし各派はまったく孤立していたわけではなく、とくにモラヴィアや南ドイツでは指導者の移動を通じて接触・融合・対立が繰り返された。
以下、主要な諸派を挙げる。

スイス兄弟団

ツヴィングリ(Huldrych Zwingli, 1484–1531)によるチューリヒの改革の途上で生まれた集団。指導者のグレーベル(Konrad Grebel, c. 1498–1526)、マンツ(Felix Manz, c. 1498–1527)らは当初ツヴィングリの熱心な協力者であったが、市参事会と協調し、その同意なしには改革を進めようとしない彼の姿勢に失望して離反した。1525年1月21日、マンツの家での集会でグレーベルがブラウロック(Georg Blaurock, c. 1492–1529)に洗礼を授け、ブラウロックが他の者に授洗したのが、再洗礼派の最初の信仰者洗礼とされる。
初期の運動内部には立場の幅があった。ヴァルツフート、のちモラヴィアのニコルスブルクで活動したフープマイヤー(Balthasar Hubmaier, c. 1480–1528)のように、為政者の権威と剣の行使を容認し、都市・領邦単位での洗礼派的教会形成を構想する者もおり(『剣について』1527年)、またドイツ農民戦争と接触して武力行使を肯定する者もいた。しかし1525年以降、チューリヒをはじめ各地で弾圧が本格化するなかで、分離主義・非暴力の路線が明確になる。その表明が、1527年2月24日にシャフハウゼン近郊のシュライトハイムで採択された「シュライトハイム信仰告白」(兄弟の一致 Brüderliche Vereinigung)である。ザトラー(Michael Sattler, c. 1490–1527)の起草とされる七箇条は、信仰者洗礼・戒規(破門)・パン裂き・世からの分離・牧者・剣の否定・宣誓の拒否を定め、公職就任や兵役を含む暴力行使を拒む徹底した平和主義と、世俗社会からの決定的な分離を特徴とする。ザトラー自身は同年5月、ロッテンブルクで処刑された。
弾圧は苛烈であった。マンツは1527年1月5日、チューリヒのリマト川で溺死刑に処され、プロテスタント当局に処刑された最初の再洗礼派となった(グレーベルは1526年にペストで死去)。それでも同団は消滅せず、スイス・アルザス・南ドイツで潜行して存続し、1693年のアマン(Jakob Ammann)による分裂を経てアーミッシュを生み、他はスイス・南ドイツ系メノナイトとして現在に至る。

南ドイツ・オーストリア系(H. フートの流れ)

ドイツ農民戦争(1524–25)に敗れた民衆の絶望的な心理状況を土壌として、フート(Hans Hut, c. 1490–1527)が南ドイツ・中部ドイツからオーストリア、モラヴィアにかけて熱烈な伝道を行い、多数の者に洗礼を授けた。フートを介してミュンツァーの神秘主義思想と急進的な終末論を受け継いだこの流れは、聖書主義的・分離主義的なスイス兄弟団とは性格を大きく異にする。フートは1528年の聖霊降臨祭に終末が到来すると予告したが、1527年12月、アウクスブルクの獄中で火災により死亡した(遺体はのちに焼かれた)。予言の不成就と指導者の死、各地の弾圧によって運動の一部は解体し、他は変質して、その多くがモラヴィアの諸集団に吸収され、のちのフーター派形成の一要素となった。

フーター派

プロテスタント・カトリック双方の当局から迫害された再洗礼派の多くは、比較的寛容な領主のもとにあったモラヴィア(現チェコ東部)に避難し、一時的ながら安全を得た。同地にはフープマイヤー系、フート系、スイス兄弟団系など諸潮流が集まり、互いに対立しつつ影響し合って新たな派を生んだ。財産共有の実践は、1528年にニコルスブルクからアウステルリッツへ移った一団(ヴィーデマン Jakob Wiedemann ら)に始まるが、チロル出身のフーター(Jakob Hutter, c. 1500–1536)が1533年にモラヴィアの諸集会を統合し、使徒行伝に範をとる財産共有と共同生活(ブルーダーホーフ)を制度として確立した。フーター自身は1535年に逮捕され、1536年2月25日、インスブルックで火刑に処された。
同派は思想的にはフート的要素とスイス兄弟団的要素を併せもつ折衷的な性格をもつが、平和主義を徹底し、リーデマン(Peter Riedemann, 1506–1556)の『信仰告白』(1540/45年)によって教理的基盤を得た。ヴァルポット(Peter Walpot)の指導期を中心とする16世紀後半には「黄金時代」を迎え、モラヴィアの他の再洗礼派諸派が途絶えた後も存続した。その後、迫害によってハンガリー(トランシルヴァニア)、ワラキア、ウクライナへと移動を重ね、1870年代に北米へ移住した。2024年の調査では北米に544のコロニー、約5万8千人を数え、その約7割がカナダに居住する。

メルヒオル派

毛皮職人出身の遍歴説教者ホフマン(Melchior Hoffman, c. 1495–1543)に始まる集団。当初ルター派の信徒説教者であったホフマンは、1530年頃から再洗礼派に転じ、帝国自由都市ストラスブール(現フランス、アルザス地方)を拠点として、東フリースラントとネーデルラントを中心に北ヨーロッパで大きな影響力をもった。彼は終末の切迫、その前に起こる迫害、敬虔な都市当局による神の敵の排除、そして神の国の樹立という黙示録的預言を説き、ストラスブールこそ「新しいエルサレム」であり1533年に主が再臨すると予告した。預言は成就せず、ホフマンは同年ストラスブールで投獄され、10年後に獄中で没した。彼のキリスト論(キリストの「天的肉体」論)と終末論は、オランダの平和主義的メルヒオル派と、次に述べるミュンスター再洗礼派の双方に受け継がれた。

ミュンスター再洗礼派

メルヒオル派の急進的一派が、1534年から35年にかけて北西ドイツの司教都市ミュンスターを掌握し、同市を「新しいエルサレム」と宣言して千年王国の実現を図った運動。ヤン・マティス(Jan Matthys)、続いてヤン・ファン・レイデン(Jan van Leiden)の指導下で、財産共有、一夫多妻制、王権の樹立へと急進化したが、司教軍の包囲の末、1535年6月に陥落し、指導者たちは翌1536年1月に処刑された。この事件は再洗礼派全体に「反乱者」の烙印を押し、以後の迫害を決定的に強めた点で、運動史上の分水嶺となった。

メノー派(メノナイト)

ミュンスター陥落後、分散し混乱したメルヒオル派の平和主義的残存勢力を再編したのが、フリースラントのカトリック司祭メノー・シモンズ(Menno Simons, 1496–1561)である。メノーは以前から実体変化と幼児洗礼に疑問を抱いていたが、1535年のオルデクロースター事件(ミュンスター派に共鳴した一団の武装蜂起で、彼の弟とされるペーテルも死亡)に衝撃を受け、1536年1月に司祭職を放棄した。非暴力的なメルヒオル派の指導者オッベ・フィリップス(Obbe Philips)、ディルク・フィリップス(Dirk Philips)に合流し、1537年頃に長老として按手を受けた。彼自身はミュンスター派に属したことはなく、その武力行使を明確に否定する立場から諸集会をまとめ、聖書に基づく非暴力・分離主義の路線を確立した点に歴史的意義がある。メノー派はスイス兄弟団と多くの共通点をもつが、その直接の後継者ではない。同派はオランダ・北ドイツからプロイセン、ロシアを経て南北アメリカへと広がった。
メノナイト諸教会は、信仰者洗礼、非暴力(無抵抗主義)と信徒共同体の相互扶助を特徴とし、伝統的に宣誓と兵役を拒否してきた。メノナイト世界会議の集計によれば、16世紀再洗礼派に連なる諸教会(アーミッシュ等を含む)の受洗信徒は世界87か国に約203万人を数え、地域別ではアフリカが45%で最大、北米が29%を占める。なお、アーミッシュの人口は子どもを含めて北米で約41万人に達している(2025年推計)。

【関連項目】

ツヴィングリ/宗教改革左派(急進的宗教改革)/ドイツ農民戦争/トマス・ミュンツァー/シュライトハイム信仰告白/ミュンスター再洗礼派/メノナイト/アーミッシュ/フーター派/平和主義

【主要文献】

  • Global Anabaptist Mennonite Encyclopedia Online (GAMEO)
  • J. M. Stayer, W. O. Packull, K. Deppermann, "From Monogenesis to Polygenesis: The Historical Discussion of Anabaptist Origins," Mennonite Quarterly Review 49 (1975)
  • G. H. Williams, The Radical Reformation, 3rd ed., 1992
  • C. Arnold Snyder, Anabaptist History and Theology: An Introduction, 1995
  • 田中真造「再洗礼派」『世界大百科事典』(平凡社)

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