【キリスト教史解説】宗教改革者ジャン・カルヴァンとその生涯
1. 生い立ちと学生時代
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1509年7月10日 | ピカルディ地方ノワイヨンに生まれる |
| 1523年頃 | パリへ。ラ・マルシェ学寮 → モンテーギュ学寮で学ぶ |
| 1528年頃 | 法学へ進む(オルレアン → ブールジュ)、学位取得 |
| 父の死後 | 再びパリへ。コレージュ・ロワイヤルで聖書言語を研鑽 |
- 父ジェラール:聖堂参事会の公証人
- 息子の高等教育のため聖職禄を確保
- ※聖職禄=教会職に付随する収入制度。中世以降は腐敗化
- パリ時代:教会改革の動き、人文主義者の宗教批判に触れる
- 進路変更:神学志望 → 父と聖堂参事会の関係悪化により法学へ(本人の希望は神学)
- ブールジュ=人文主義的法学研究の中心地
- 聖書言語の研鑽 → 人文主義的教会改革運動への確信を深める
2. 「突然の回心」
- カルヴァン自身の回想:長年カトリックの教えに固執 → 思いがけない回心により信仰が一変
- 回心の正確な時期は不明
- 回心後:さらなる信仰の深化を求め、宗教改革運動へ深く関与
- 1534年:ノワイヨンの聖職禄辞退を申し出る → 決意の固さが周囲に知られる
3. ニコラ・コップ事件(1533年)
- 友人ニコラ・コップがパリ大学総長就任演説を実施
- 内容にルター・エラスムスの影響が濃厚
- カルヴァンが原稿作成に関与したとの噂 → 騒動化
- 身の危険を感じパリを脱出 → アングレームの友人ルイ・デュ・ティエ宅に潜伏
- 蔵書を読み込み数ヵ月を過ごす → 後の『綱要』の土台に
4. 檄文事件とバーゼル亡命(1534年)
- 1534年10月 檄文事件
- ミサを攻撃する扇動文書がパリほか各地に貼られる(国王の居所にも)
- 国王フランソワ一世が激怒 → 改革派8人を火刑
- カルヴァン、ストラスブール経由でバーゼルへ亡命
5. バーゼル亡命生活と『キリスト教綱要』
亡命が執筆に有利に働いた要因
- 有力な印刷業者・書籍商との出会い
- ラテン語を介した人文主義者の国際ネットワークへの接続
執筆の背景
- フランスでの改革派火刑のニュース → ドイツで反発
- 迫害を正当化する虚偽の小冊子が流布
- カルヴァン:沈黙は怠慢・不実にあたると判断
『キリスト教綱要』執筆の動機(初版1536年)
- 誹謗への反論
- 殉教した同胞の名誉回復
- 諸外国からの同情喚起
- 中傷された人々の信仰の弁護
6. ジュネーヴでの活動
ファレルの勧誘(1536)
↓
ジュネーヴ教会改革に着手
↓
市議会と対立 → 追放(1538)
↓
ストラスブールで改革指導
↓
サドレートのカトリック復帰工作 → カルヴァンが収拾
↓
ジュネーヴへ召還(1541)- ギヨーム・ファレルの熱心な勧誘 → ジュネーヴ教会改革に生涯を捧げる
- 枢機卿ヤコポ・サドレートによるジュネーヴのカトリック復帰工作 → 市の混乱をカルヴァンが収拾
- 1541年 『教会規則』に基づく改革開始
- 晩年まで『綱要』の改訂を継続
- 説教・聖書解釈・後進育成に尽力
- 教育の場(ジュネーヴ・アカデミー、1559年)→ のちのジュネーヴ大学
7. 死去
- 1564年5月27日 死去
- 本人の希望により、翌日、墓標のない墓に埋葬
年表まとめ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1509 | ノワイヨンに誕生 |
| 1523頃 | パリで学ぶ |
| 1528頃 | 法学へ(オルレアン・ブールジュ) |
| 1533 | ニコラ・コップ事件 → パリ脱出 |
| 1534 | 聖職禄辞退/檄文事件 → バーゼル亡命 |
| 1536 | 『キリスト教綱要』初版/ジュネーヴへ |
| 1538 | ジュネーヴ追放 → ストラスブール |
| 1541 | ジュネーヴ帰還、『教会規則』 |
| 1559 | ジュネーヴ・アカデミー設立 |
| 1564 | 死去 |
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。