説教や聖書研究をする人のための聖書注解
マタイ27:15–26「バラバの釈放とイエスへの死刑判決」
概要
マタイ27:15–26は、ローマ総督ピラトによるイエスの裁判の中心部分です。前段の27:11–14では、ピラトの尋問に対してイエスがほとんど沈黙していましたが、ここでは物語の焦点がイエス自身の発言から、ピラト、群衆、祭司長・長老たちの選択と責任へと移ります。
マタイはマルコ15:6–15を基本的な資料としながら、特にピラトの妻の夢(19節)、ピラトの手洗い(24節)、そして群衆の「その血は、われわれとわれわれの子どもたちの上に」(25節)という言葉を加えています。これらによって、マタイは「イエスの無罪」と「イエスを拒絶する側の責任」を強く前景化しています。
ただし25節は、後世の反ユダヤ主義において極めて深刻な仕方で濫用されてきた箇所です。そのため、この節をユダヤ民族全体に対する恒久的な「神殺し」の責任として読むことは、本文の物語的・歴史的文脈から慎重に区別する必要があります。
27:15
- 原文: Κατὰ δὲ ἑορτὴν εἰώθει ὁ ἡγεμὼν ἀπολύειν ἕνα τῷ ὄχλῳ δέσμιον ὃν ἤθελον.
- 私訳: さて、祭りのたびに、総督は群衆が望む囚人一人を彼らに釈放するのを慣例としていた。
文法解析
- ἑορτήν:ἑορτή「祭り」女性名詞・単数・対格
- εἰώθει:ἔθω「習慣である、慣例としている」動詞・直説法・能動態・過去完了・3人称単数
- ἡγεμών:ἡγεμών「総督、支配者」男性名詞・単数・主格
- ἀπολύειν:ἀπολύω「解放する、釈放する」動詞・現在・能動態・不定法
- δέσμιον:δέσμιος「囚人、拘束された者」男性名詞/形容詞・単数・対格
- ἤθελον:θέλω「望む、欲する」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数
注解
- この節では、過越祭の際に総督が囚人一人を釈放するという「慣例」が物語に導入されます(マルコ15:6も同様)。ただし、過越祭ごとにローマ総督が囚人を一人釈放したという制度については、福音書以外から明確に確認できる史料が乏しく、その歴史的実態については議論があります。一方、ローマ当局が政治的・社会的事情から恩赦や釈放を行うこと自体は知られています。また、ここで決定権を持つのは形式上ピラトです。
27:16
- 原文: εἶχον δὲ τότε δέσμιον ἐπίσημον λεγόμενον Ἰησοῦν Βαραββᾶν.
- 私訳: そのころ、彼らには、イエス・バラバと呼ばれる名の知れた囚人がいた。
文法解析
- εἶχον:ἔχω「持つ、所有する」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数
- ἐπίσημον:ἐπίσημος「著名な、目立った、悪名高い」形容詞・男性・単数・対格
注解
- この節には重要な本文批評上の問題があります。バラバの名前を単に「ばらば(Βαραββᾶς)」とする写本と、「イエス・バラバ)(Ἰησοῦς Βαραββᾶς)とする写本が存在します。
- 「バラバ(Βαραββᾶς)」は一般にアラム語の bar-abbā に由来すると考えられ、「父の子」という意味に理解できます。そうすると物語上、「父の子」と呼ばれるイエス・バラバと神の子であるイエス・キリストという極めて強い対照が生じます。もっとも、マタイ自身がこの語源的対照を意図的に利用しているかどうかは慎重に判断する必要があります。
- 「名の知れた囚人」:文脈によっては「悪名高い」と訳すことができます。マルコ15:7では、バラバが「暴動の際に殺人を犯した者たち」とともに拘束されていたと説明されますが、マタイはその具体的説明を省き、ἐπίσημοςという一語で彼が名の知られた囚人であったと述べています。
27:17
- 原文: συνηγμένων οὖν αὐτῶν εἶπεν αὐτοῖς ὁ Πιλᾶτος· Τίνα θέλετε ἀπολύσω ὑμῖν, Ἰησοῦν τὸν Βαραββᾶν ἢ Ἰησοῦν τὸν λεγόμενον Χριστόν;
- 私訳: そこで、彼らが集まっていると、ピラトは彼らに言った。「あなたがたは、私が誰をあなたがたに釈放することを望むのか。イエス・バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」
文法解析
- συνηγμένων:συνάγω「集める、集まる」動詞・完了・受動態・分詞・男性・複数・属格
注解
- ここでピラトは、群衆に明確な二者択一を提示します。「イエス・バラバ」と「キリストと呼ばれるイエス」です。16節で述べた本文を採用した場合、この場面は「バラバかイエスか」という単純な対比ではなく、「どちらのイエスを選ぶのか」という劇的な問いになります。
- 「キリストと呼ばれている者」:この表現は27:22でも繰り返されます。「キリスト」はギリシア語 Χριστός、ヘブライ語・アラム語の「メシア」に対応し、「油注がれた者」を意味します。マタイ福音書の読者にとって、文学的に言って読者は、群衆がこれから行う選択を、単なる二人の囚人の選択としてではなく、メシアを受け入れるか拒絶するかという選択として読むことになります。
27:18
- 原文: ᾔδει γὰρ ὅτι διὰ φθόνον παρέδωκαν αὐτόν.
- 私訳: というのも、彼らが妬みのために彼を引き渡したことを、彼は知っていたからである。
文法解析
- ᾔδει:οἶδα「知っている」動詞・直説法・能動態・過去完了形・3人称単数
- φθόνον:φθόνος「妬み、嫉妬」男性名詞・単数・対格
- παρέδωκαν:παραδίδωμι「引き渡す、委ねる、裏切る」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称複数
注解
- この節によって、17節におけるピラトの行動の理由が説明されます。
- 「というのも、彼は知っていたからである」:ピラトはイエスを単純にバラバと並べたのではなく、宗教指導者たちがイエスを告発した背後にφθόνος(妬み)があることを見抜いていた、とマタイは描いています。宗教指導者たちは社会的に恵まれた人たちでしたが、それでも妬みは人を支配するという実例です。
- 「引き渡した」という語は、受難物語を貫く鍵となる語です。<ユダ → 宗教指導者 → ピラト → 処刑>という形で、イエスが次々と「引き渡されていく」構造が読み取れます。
- 物語的には、イエスが不当に引き渡されていることを知りながら、最終的には死刑判決を認めたというピラトの責任をかえって際立たせることになります。
ここまでの15–18節では、物語の構図が整えられています。**15節で「釈放の慣例」、16節で「バラバ」、17節で「二人のイエスの選択」、18節で「指導者たちの妬みを知るピラト」**が提示されます。
続く27:19–23では、マタイ独自の「ピラトの妻の夢」が挿入されたのち、祭司長・長老たちが群衆を説得し、バラバの釈放とイエスの処刑を要求する場面へ進みます。さらに24–26節では、「手を洗うピラト」「その血はわれわれとわれわれの子どもたちの上に」という難解な25節、そして鞭打ちと十字架刑への引き渡しを詳しく扱うことになります。
27:19
- 原文: Καθημένου δὲ αὐτοῦ ἐπὶ τοῦ βήματος ἀπέστειλεν πρὸς αὐτὸν ἡ γυνὴ αὐτοῦ λέγουσα· Μηδὲν σοὶ καὶ τῷ δικαίῳ ἐκείνῳ· πολλὰ γὰρ ἔπαθον σήμερον κατ’ ὄναρ δι’ αὐτόν.
- 私訳: さて、彼が裁判席に座っていると、彼の妻が彼のもとに人を遣わして言った。「あなたは、あの義しい人と何の関わりも持たないでください。というのも、私は今日、夢の中で彼のために多くの苦しみを受けたのです。」
文法解析
- Καθημένου:κάθημαι「座る」動詞・現在・中動態/受動態形・分詞・男性・単数・属格
- βήματος:βῆμα「裁判席、審判席、壇」中性名詞・単数・属格
- ἀπέστειλεν:ἀποστέλλω「遣わす、送る」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数
- λέγουσα:λέγω「言う」動詞・現在・能動態・分詞・女性・単数・主格
- ἔπαθον:πάσχω「苦しむ、経験する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・1人称単数σήμερον:σήμερον「今日」副詞
κατά:κατά「〜において、〜によって」前置詞+対格
ὄναρ:ὄναρ「夢」中性名詞・単数・対格
κατ’ ὄναρで「夢の中で」という慣用表現です。
κατ’ ὄναρで「夢の中で」という慣用表現です。
διά:διά「〜のために、〜ゆえに」前置詞+対格
αὐτόν:αὐτός「彼」代名詞・男性・単数・対格
注解
- この節はマタイ独自の挿話であり、マルコ、ルカ、ヨハネにはありません。ピラトの妻がイエスを「あの義しい人」と呼んでいますが、「道徳的に正しい」という意味だけでなく、裁判文脈では「無罪」という意味を帯びます。したがって、ここではイエスの無罪性が、ユダヤ人指導者でも弟子でもなく、異邦人であるピラトの妻によって証言されています。これまで、イエスを取り巻く者たちが次々と彼を拒絶していく一方、意外な人物がイエスの正しさを認識します。ここではその役割をピラトの妻が担っています。
- 「あなたとあの義しい人との間には何もないように」:Μηδὲν σοὶ καὶ τῷ δικαίῳ ἐκείνῳはセム語的な慣用表現で、直訳すれば「その人に関わってはいけません」というとなります。
- 「夢」もマタイ福音書において特徴的な神的啓示の手段です。イエスの誕生物語では、ヨセフが夢によって何度も神の指示を受けています(1:20、2:13、2:19、2:22)。したがって27:19の夢も、単なる心理現象ではなく、神的警告を示唆する物語装置として読むことができます。
27:20
- 原文: Οἱ δὲ ἀρχιερεῖς καὶ οἱ πρεσβύτεροι ἔπεισαν τοὺς ὄχλους ἵνα αἰτήσωνται τὸν Βαραββᾶν τὸν δὲ Ἰησοῦν ἀπολέσωσιν.
- 私訳: しかし、祭司長たちと長老たちは、バラバを求め、イエスを滅ぼすようにと、群衆を説得した。
文法解析
ἔπεισαν:πείθω「説得する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称複数
αἰτήσωνται:αἰτέω「求める、願い求める」動詞・接続法・中動態・アオリスト・3人称複数
ἀπολέσωσιν:ἀπόλλυμι「滅ぼす、殺す、失わせる」動詞・接続法・能動態・アオリスト・3人称複数
注解
- 19節でのピラトの妻の証言とは対照的に、祭司長と長老たちが群衆を動かして、イエス処刑を達成しようとします。よって、マタイ福音書においてはマルコ福音書とやや異なり、群衆の要求は自発的なものとしてではなく、指導者たちの働きかけによって形成されたものとして描かれています。
- イエスとバラバの二者を対照的に配置する文学的技巧が、ここでも見られます。これにより皮肉がもたらされ、群衆は「罪を犯して拘束されている者」を解放し、一方で「義しい者」を滅ぼすことを求めます。不条理の只中に置かれるイエスの姿は読者に対して、例えば迫害のような理不尽な状況にあるとき、イエスの姿を思い起こせと伝えているようです。
27:21
- 原文: ἀποκριθεὶς δὲ ὁ ἡγεμὼν εἶπεν αὐτοῖς· Τίνα θέλετε ἀπὸ τῶν δύο ἀπολύσω ὑμῖν; οἱ δὲ εἶπαν· Τὸν Βαραββᾶν.
- 私訳: そこで総督は彼らに答えて言った。「この二人のうち、どちらを私があなたがたに釈放することを望むのか。」彼らは言った。「バラバを。」
文法解析
- ἀπολύσω:ἀπολύω「釈放する」動詞・接続法・能動態・アオリスト・1人称単数
注解
- ピラトは17節ですでにほぼ同じ問いをしていますが、ここでもう一度、「どちらを望むのか」と問い直します。この反復により、群衆には選択肢が繰り返し与えられながらも、最終的には自ら決断していったことが強調されています。
- 「バラバを。」:ここでは動詞すら省略されていますが、それだけ非常に短い返答であるだけに、群衆の選択の断固たる側面が際立ちます。
- 「この二人のうち」:二人が明確に比較対象として並べられています。16–17節で「イエス・バラバ」という本文を採用する場合、ここでも読者は「二人のイエス」の対比を意識することになります。
- マタイの物語では、群衆はかつてイエスを歓迎していました。21:9ではエルサレム入城の際、「ダビデの子にホサナ」と叫んでいます。しかしここではバラバを選びます。ただし、21章の群衆と27章の群衆が厳密に同一人物集団であると本文が明示しているわけではありません。したがって「同じ群衆が数日で完全に態度を変えた」と根拠が明確でないままに単純化するよりも、マタイが群衆という物語的主体の不安定さを描いている、と理解する方が慎重です。
27:22
- 原文: λέγει αὐτοῖς ὁ Πιλᾶτος· Τί οὖν ποιήσω Ἰησοῦν τὸν λεγόμενον Χριστόν; λέγουσιν πάντες· Σταυρωθήτω.
- 私訳: ピラトは彼らに言う。「それでは、キリストと呼ばれるイエスを、私はどうしたらよいのか。」彼らは皆言う。「十字架につけられよ。」
文法解析
- ποιήσω:ποιέω「する、行う」動詞・接続法・能動態・アオリスト・1人称単数熟議的接続法で、「私はどうしたらよいのか」という問いです。
- Σταυρωθήτω:σταυρόω「十字架につける」動詞・命令法・受動態・アオリスト・3人称単数
注解
- ここでピラトは二つ目の問いを発します。第一の問いは、「どちらを釈放するか」でした。第二の問いは、「では、イエスをどうするのか」です。この問いに対して群衆は、「十字架につけられよ」と答えます。この十字架刑はローマ帝国における極めて苛酷で屈辱的な処刑方法でした。したがって群衆は単に「死刑にせよ」と要求しているのではなく、ローマ的な十字架刑を明示的に要求しています。
- また、ピラトは再びイエスを「キリストと呼ばれる者」と呼びます。この表現は17節と同じです。これによってマタイは、群衆に突きつけられている選択が単なる囚人処遇の問題ではなく、「キリストと呼ばれるイエスをどうするのか」という神学的問いであることを読者に意識させています。
27:23
- 原文: ὁ δὲ ἔφη· Τί γὰρ κακὸν ἐποίησεν; οἱ δὲ περισσῶς ἔκραζον λέγοντες· Σταυρωθήτω.
- 私訳: しかし彼は言った。「いったい、彼はどんな悪いことをしたのか。」しかし彼らはますます激しく叫んで言った。「十字架につけられよ。」
文法解析
- ἔφη:φημί「言う」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称単数
- περισσῶς:περισσῶς「ますます、非常に、激しく」副詞
- ἔκραζον:κράζω「叫ぶ、大声を上げる」動詞・直説法・能動態・未完了過去・3人称複数λέγοντες:λέγω「言う」動詞・現在・能動態・分詞・男性・複数・主格
注解
- ピラトはここで初めて、イエスに対する具体的な罪状を問い返します。「いったい、彼はどんな悪を行ったのか。」これは非常に重要な問いです。これまでイエスは政治的な反逆者であるかのように訴えられてきましたが、ここではピラト自身が、処刑に値する具体的犯罪を見いだせない状態にあります。したがって19節のピラトの妻の「あの義しい人」という証言と、23節のピラト自身の「どんな悪を行ったのか」という問いが対応しています。こうしてマタイは、イエスの無罪性を二重に強調しています
- 群衆は、罪状を提示しません。代わりに、「ますます激しく叫んでいた」と描写されます。前節の「言った」から「叫んだ」へとヒートアップしています。議論が理性的な司法判断から群衆の圧力へと移行していることが示されます。こうしてピラトは、要求から圧力へとエスカレートした群衆の熱狂ぶりに晒されることになりました。
27:24
- 原文: ἰδὼν δὲ ὁ Πιλᾶτος ὅτι οὐδὲν ὠφελεῖ ἀλλὰ μᾶλλον θόρυβος γίνεται, λαβὼν ὕδωρ ἀπενίψατο τὰς χεῖρας ἀπέναντι τοῦ ὄχλου λέγων· Ἀθῷός εἰμι ἀπὸ τοῦ αἵματος τούτου· ὑμεῖς ὄψεσθε.
- 私訳: しかしピラトは、何の効果もなく、むしろ騒動になりつつあるのを見て、水を取って群衆の前で両手を洗いながら言った。「私はこの血について無罪である。あなたがた自身が見るがよい。」
文法解析
ὠφελεῖ:ὠφελέω「益する、役に立つ、効果がある」動詞・直説法・能動態・現在・3人称単数
- θόρυβος:θόρυβος「騒動、騒乱、騒ぎ」男性名詞・単数・主格
- γίνεται:γίνομαι「生じる、なる」動詞・直説法・中動態・現在・3人称単数
- λαβών:λαμβάνω「取る、受け取る」動詞・アオリスト・能動態・分詞・男性・単数・主格
- ὕδωρ:ὕδωρ「水」中性名詞・単数・対格
- ἀπενίψατο:ἀπονίπτω「洗い清める、洗う」動詞・直説法・中動態・アオリスト・3人称単数
- Ἀθῷος:ἀθῷος「無罪の、潔白な」形容詞・男性・単数・主格。εἰμιの補語です。
- ὄψεσθε:ὁράω「見る」動詞・直説法・中動態・未来・2人称複数。慣用的に「あなたがた自身で処理せよ」「あなたがたの責任だ」という意味になります。
注解
- ここでピラトは、イエスを釈放しようとする試みを断念します。その直接の理由として示されるのが、「むしろ騒動が生じつつある」という状況です。θόρυβοςは単なる騒がしさではなく、「騒乱」「暴動」にまで発展しうる社会的混乱を意味する語です。ローマ総督にとって、属州の治安維持は重要な責務でした。したがってマタイは、ピラトが正義そのものよりも、群衆の騒乱を避けることを優先したと描いています。
- ここでピラトは水を取って手を洗います。「彼は両手を洗った」という行為は、象徴的な無罪宣言です。旧約聖書にも、流血の責任からの潔白を象徴する「手を洗う」行為があります。申命記21:6–7では、犯人不明の殺人があった場合、長老たちが犠牲の上で手を洗い、「われわれの手はこの血を流していない」と宣言します。また詩編26:6にも「私は潔白のうちに手を洗う」という表現があります。したがってマタイの描写には、ユダヤ的な潔白宣言のイメージが響いている可能性があります。
27:25
- 原文: καὶ ἀποκριθεὶς πᾶς ὁ λαὸς εἶπεν· Τὸ αἷμα αὐτοῦ ἐφ’ ἡμᾶς καὶ ἐπὶ τὰ τέκνα ἡμῶν.
- 私訳: すると民全体が答えて言った。「彼の血は、私たちの上に、そして私たちの子どもたちの上に。」
注解
- この節は、マタイ福音書の中でも特に慎重に解釈しなければならない箇所です。群衆は、「彼の血は私たちの上に」と答えます。この表現は、聖書においてしばしば流血に対する責任を負うことを意味します。たとえばサムエル記下1:16では「あなたの血はあなたの頭に帰する」という表現が用いられています。したがってここでは群衆が、ピラトが放棄しようとした流血の責任を、自分たちが負うと宣言している構図になっています。
- この表現は歴史上、ユダヤ人全体がイエスの死について永続的・民族的責任を負っているという形で解釈され、反ユダヤ主義や迫害を正当化するために利用されてきました。しかし、そのような読み方は本文を不当に一般化するものです。
- ここで発言しているのは、物語世界の特定の場面に集まったλαόςです。マタイがすべての時代の全ユダヤ人に民族的罪責を宣告している、と読む根拠はありません。特定民族への永久的な呪詛として固定することは、福音書全体の射程とも整合しません。
27:26
- 原文: τότε ἀπέλυσεν αὐτοῖς τὸν Βαραββᾶν, τὸν δὲ Ἰησοῦν φραγελλώσας παρέδωκεν ἵνα σταυρωθῇ.
- 私訳: そのとき、彼は彼らにバラバを釈放した。しかしイエスを鞭打った後、十字架につけられるために引き渡した。
文法解析
- ἀπέλυσεν:ἀπολύω「解放する、釈放する」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数αὐτοῖς:αὐτός「彼らに」代名詞・男性・複数・与格
- παρέδωκεν:παραδίδωμι「引き渡す、渡す」動詞・直説法・能動態・アオリスト・3人称単数
注解
- この節で、バラバとイエスの運命が完全に分岐します。「バラバを釈放した」のに対し、「しかしイエスを引き渡した」と記されます。ここには15節以来の物語が結論に達しています。一人の囚人が解放され、もう一人が死へと引き渡されます。
- 神学的に印象的なのは、罪ある囚人が解放され、義しいイエスがその代わりに死へ赴くという構図です。ただし、本文そのものがバラバを贖罪論の直接的な象徴として説明しているわけではありません。したがって、代償的贖罪との結びつきは説教的・神学的展開としては可能ですが、まずは物語上の逆転として把握する必要があります。
- 「鞭打つ」:φραγελλόω:はラテン語 flagellum に由来する語で、ローマ式の鞭打ちを指します。軽い懲罰ではなく、十字架刑に先立つ鞭打ちは、受刑者の身体を著しく衰弱させる苛酷な処置でした。マタイはその詳細を描写せず、一語で簡潔に記しています。この簡潔さは受難物語全体の特徴でもあります。福音書は身体的苦痛を詳細に描写することよりも、イエスが誰によって、なぜ、どのように拒絶されていくのかという神学的・物語的意味に重点を置いています。
- 「再び引き渡した」:「引き渡す」という動詞が使われます。マタイの受難物語では、παραδίδωμιが繰り返されています。ユダがイエスを祭司長たちに引き渡し、宗教指導者たちがピラトに引き渡し、最後にはピラトがイエスを十字架刑へ引き渡します。つまりイエスは、人間の手から人間の手へと「引き渡され」続けています。
- しかしマタイ福音書全体の神学から見るならば、この人間的な引き渡しの連鎖の背後で、イエスは受難を予告し、自らエルサレムへ進んできました。したがって、イエスは単に事件に巻き込まれた犠牲者ではなく、受難を知りつつ自らその道を歩んでいる人物として描かれています。
27:15–26全体のまとめ
このペリコーペは、「誰を選ぶのか」という問いを中心に構成されています。バラバは釈放され、イエスは十字架へ向かいます。ピラトはイエスの罪を見いだせず、妻もイエスを「義しい人」と呼びます。それにもかかわらず、祭司長・長老たちの働きかけ、群衆の要求、そしてピラトの政治的妥協によって、無罪のイエスに死刑が決定されます。
したがって、この箇所の中心は単純な「ユダヤ人対イエス」という構図ではありません。むしろ、宗教的権力、群衆心理、政治的権力がそれぞれ異なる仕方でイエスの死に関与する場面です。そしてその中心には、「キリストと呼ばれるイエスをどうするのか」(22節)という問いがあります。これは物語中のピラトの問いであると同時に、マタイが読者自身に突きつけている問いとしても読むことができます。
<マタイ27:15-26の注解をもとにしての説教の結びとして>
マタイ27章のこの場面は、単なる歴史的事件の記録ではなく、私たち一人ひとりに向けられた問いとして響きます。ピラトは「キリストと呼ばれるイエスを、私はどうしたらよいのか」と問いました。これは、裁判の場に立つ総督だけの問いではありません。マタイはこの問いを、時代を越えて読む者の胸に置いています。
この物語には、さまざまな人々が登場します。妬みによってイエスを引き渡した宗教指導者たち。説得され、熱狂し、叫び声を上げた群衆。
正しさを知りながら、騒乱を恐れて妥協したピラト。そして、夢によって「義しい人」を見抜いたピラトの妻。それぞれが異なる理由でイエスを拒み、あるいはイエスを見捨てました。しかし、どの人物も「イエスをどうするか」という問いから逃れることはできませんでした。
私たちも同じです。イエスを歓迎する時もあれば、群衆のように別のものを選んでしまう時があります。ピラトのように、正しいと知りながら沈黙してしまう時があります。あるいは、指導者たちのように、自分の立場や思いに固執してしまうこともあります。
この物語には、さまざまな人々が登場します。妬みによってイエスを引き渡した宗教指導者たち。説得され、熱狂し、叫び声を上げた群衆。
正しさを知りながら、騒乱を恐れて妥協したピラト。そして、夢によって「義しい人」を見抜いたピラトの妻。それぞれが異なる理由でイエスを拒み、あるいはイエスを見捨てました。しかし、どの人物も「イエスをどうするか」という問いから逃れることはできませんでした。
私たちも同じです。イエスを歓迎する時もあれば、群衆のように別のものを選んでしまう時があります。ピラトのように、正しいと知りながら沈黙してしまう時があります。あるいは、指導者たちのように、自分の立場や思いに固執してしまうこともあります。
しかし、この物語の中心にあるのは、イエスが「義しい方」でありながら、拒絶され、引き渡され、十字架へ向かわれたという事実です。
罪ある者が釈放され、義しい方が死へと渡される――この逆転は、神の救いの働きがどのように進むのかを示しています。人間の妬み、群衆の熱狂、政治的妥協のただ中で、神の御子は沈黙しつつ、救いの道を歩まれました。だからこそ、マタイの物語は私たちに問いかけます。
「あなたは、キリストと呼ばれるイエスをどうするのか。」
この問いは、私たちの信仰生活の中心に置かれ続ける問いです。イエスを選ぶとは、ただ「信じます」と言うことだけではなく、妬みや恐れや沈黙に支配されそうになる日々の中で、イエスの道を選び直すことです。バラバが釈放され、イエスが十字架へ向かわれたその日、神は人間の不条理のただ中で救いを進められました。今日も同じです。私たちの弱さや迷いのただ中で、主はなお私たちを招いておられます。
「キリストと呼ばれるイエスを、あなたはどうするのか。」
この問いに、私たちが日々応答し続ける者でありたいと願います。
主の十字架の前に立ち、義しい方を選び取る信仰の歩みへと導かれますように。
罪ある者が釈放され、義しい方が死へと渡される――この逆転は、神の救いの働きがどのように進むのかを示しています。人間の妬み、群衆の熱狂、政治的妥協のただ中で、神の御子は沈黙しつつ、救いの道を歩まれました。だからこそ、マタイの物語は私たちに問いかけます。
「あなたは、キリストと呼ばれるイエスをどうするのか。」
この問いは、私たちの信仰生活の中心に置かれ続ける問いです。イエスを選ぶとは、ただ「信じます」と言うことだけではなく、妬みや恐れや沈黙に支配されそうになる日々の中で、イエスの道を選び直すことです。バラバが釈放され、イエスが十字架へ向かわれたその日、神は人間の不条理のただ中で救いを進められました。今日も同じです。私たちの弱さや迷いのただ中で、主はなお私たちを招いておられます。
「キリストと呼ばれるイエスを、あなたはどうするのか。」
この問いに、私たちが日々応答し続ける者でありたいと願います。
主の十字架の前に立ち、義しい方を選び取る信仰の歩みへと導かれますように。
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。