はじめに:今回の流れ
モーセの生涯と出エジプトの物語を概観したうえで、十戒の内容とその宗教的・倫理的意義を学びます。
| 段階 | 出来事 | 聖書箇所 |
|---|
| 解放 | 出エジプト | 出エジプト記1~15章 |
| 契約 | シナイ山での契約 | 出エジプト記19~24章 |
| 十戒 | 解放された民の生き方の指針 | 出エジプト記20章、申命記5章 |
| 倫理 | キリスト教への継承 | マタイによる福音書5~7章、22章 |
今回のポイント:救いが先、戒めが後。神はまず民を救い、その後で生き方の指針を与えました。
1. モーセとは
1.1 人物像
- イスラエルの民をエジプトから導き出した指導者です。
- ユダヤ教・キリスト教・イスラム教(ムーサー)のいずれでも重要な人物です。
- 神と民の間に立ち、契約を取り次ぐ仲保者として描かれています。
- キリスト教では、キリストを理解する手がかりとなりました。
- 救済の類型:奴隷状態からの解放 → 罪と死からの救済
- 新約聖書での比較:ヨハネによる福音書1章17節、ヘブライ人への手紙3章1~6節
1.2 年代と歴史性
| 説 | 根拠 |
|---|
| 前13世紀頃 | 一般的な見方 |
| 前15世紀頃 | 列王記上6章1節の年代計算 |
※出エジプトの年代も、モーセの歴史的実在も、学問的には確定していません。本講義では、聖書がこの物語をどう語り、信仰の中でどう受け止められてきたかに注目します。
2. モーセの生涯
| 出来事 | 内容 | 聖書箇所 |
|---|
| ① | 迫害 | ヤコブ一族がエジプトに移住。民の増加を恐れた王が強制労働と男児殺害を命じる | 創世記46章、出エジプト記1章 |
| ② | 誕生 | 籠でナイル河畔に置かれ、王女が拾う。姉の機転で実母が乳母に | 出エジプト記2章1~10節 |
| ③ | 逃亡 | エジプト人を殺害し、ミディアンへ。ツィポラと結婚 | 出エジプト記2章11~22節 |
| ④ | 召命 | ホレブの燃える柴。神の名「わたしはある」の啓示。アロンが代弁者に | 出エジプト記3~4章 |
| ⑤ | 十の災いと過越 | 小羊の血を塗った家を災いが「過ぎ越す」 | 出エジプト記7~12章 |
| ⑥ | 葦の海 | 東風で海が分かれ、民が渡る | 出エジプト記14章 |
| ⑦ | 荒れ野の旅 | マナとうずら。岩から水(マサとメリバ) | 出エジプト記16~17章 |
| ⑧ | シナイ契約 | 十戒の授与。金の子牛事件と契約の更新 | 出エジプト記19~34章 |
| ⑨ | 荒れ野の40年 | カデシュのメリバの水。約束の地に入れないと告げられる | 民数記14章、20章 |
| ⑩ | 最期 | ネボ山から約束の地を見て、120歳で死去。指導はヨシュアへ | 申命記34章 |
2.1 押さえておきたい点
- 名前の由来:聖書は「水の中から引き上げた」と説明します(出エジプト記2章10節)。言語学的には、エジプト語の「生まれた」「子」を意味する語との関連が指摘されています(例:トトメス)。
- 「紅海」と「葦の海」:ヘブライ語原文は「ヤム・スーフ」(葦の海)です。「紅海」は七十人訳聖書の訳語に由来します。
- 過越とキリスト:イエスの十字架は過越祭の時期と重なり、キリストは「過越の小羊」と呼ばれます(コリントの信徒への手紙一5章7節)。
- マナと命のパン:ヨハネによる福音書6章で、イエスは自らを「命のパン」としてマナと対比します。
- 約束の地に入れなかった理由:単に「怒ったから」ではありません。「岩に命じよ」との命令に対し岩を二度打ち、神を信じず、民の前で神の聖なることを示さなかったためと記されています(民数記20章12節)。
3. 十戒
3.1 十戒とは
- ヘブライ語聖書では「十の言葉」(出エジプト記34章28節)と呼ばれます。
- 記されているのは、出エジプト記20章2~17節と申命記5章6~21節です。
- 第一声は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。
- 民は十戒を守ったから救われたのではありません。救われた民に、十戒が与えられたのです。
3.2 二つの柱
| 神との関係 | 隣人との関係 |
|---|
| ほかに神を持たない | 父母を敬う |
| 偶像を造らない | 殺さない |
| 神の名をみだりに唱えない | 姦淫しない |
| 安息日を聖別する | 盗まない |
| 偽証しない |
| 隣人のものを欲しない |
3.3 番号の付け方は教派で異なる
聖書本文には番号がないため、教派によって区分が異なります。
| 戒め | 正教会・聖公会・改革派など | カトリック | ルーテル教会 |
|---|
| ほかに神を持つな | 第一 | 第一 | 第一 |
| 偶像を造るな | 第二 | 第一に含む | 第一に含む |
| 神の名をみだりに唱えるな | 第三 | 第二 | 第二 |
| 安息日 | 第四 | 第三 | 第三 |
| 父母を敬え | 第五 | 第四 | 第四 |
| 殺すな | 第六 | 第五 | 第五 |
| 姦淫するな | 第七 | 第六 | 第六 |
| 盗むな | 第八 | 第七 | 第七 |
| 偽証するな | 第九 | 第八 | 第八 |
| 隣人のものを欲するな | 第十 | 第九(妻)・第十(財産) | 第九(家)・第十(妻など) |
※ユダヤ教では、序文「わたしは主、あなたの神…」を「第一の言葉」と数えます。
※本講義では、改革派などの番号に従います。
3.4 各戒めのポイント
| 戒め | ポイント |
|---|
| 第一戒 | 主なる神だけへの排他的な忠誠 |
| 第二戒 | 神を像に閉じ込めない。8~9世紀に東方教会で聖像破壊論争 |
| 第三戒 | 神の名による偽りの誓い、宗教的権威の悪用を戒める |
| 第四戒 | 子ども、奴隷、家畜、寄留者まで、共同体の全員が休む |
| 第五戒 | 家族への責任、世代間の責任 |
| 第六戒 | 「ラーツァハ」は主に共同体内での不当な殺害を指す語 |
| 第七戒 | 婚姻関係における誠実さ |
| 第八戒 | 他者の財産と生活の尊重 |
| 第九戒 | 古代の裁判では、偽証は人の命を左右する重大な罪 |
| 第十戒 | 行為の手前にある「欲する心」に目を向ける |
3.5 出エジプト記と申命記の違い:安息日の理由
| 出エジプト記20章 | 申命記5章 |
|---|
| 根拠 | 天地創造(神は七日目に休まれた) | 奴隷からの解放(だから奴隷も休ませよ) |
| 強調点 | 創造の秩序 | 解放の記憶 |
安息日は宗教的な決まりであると同時に、弱い立場の人にも休息を保障する社会的な制度でした。
4. 十戒とキリスト教倫理
4.1 イエスと十戒
| イエスの言葉(マタイによる福音書22章37~40節) | 旧約聖書の典拠 | 対応する十戒 |
|---|
| 神を愛しなさい | 申命記6章5節 | 前半(神との関係) |
| 隣人を自分のように愛しなさい | レビ記19章18節 | 後半(隣人との関係) |
- 山上の説教(マタイによる福音書5~7章)では、戒めを心の内側へ広げています。
- 「殺すな」→ 怒りや侮辱も問題にする(5章21~26節)
- 「姦淫するな」→ 心の中の欲望も問題にする(5章27~30節)
4.2 信仰教育の柱「三要文」
| 三要文 | 教えること |
|---|
| 十戒 | どう生きるか |
| 使徒信条 | 何を信じるか |
| 主の祈り | どう祈るか |
- 使徒信条と主の祈りは古代から洗礼準備に用いられ、中世後期に十戒が加わりました。
- 宗教改革期にカテキズムとして体系化されました(ルター『小教理問答書』1529年)。
- ハイデルベルク信仰問答(1563年)は、十戒を「感謝」の部に置きます。
4.3 救いと戒めの順序
- 人は自分の努力で救いを勝ち取るのではない。
- 神の恵みによって救われる。
- 救われた者は、その恵みに応えて生きる。
- その生き方の指針の一つが十戒である。
- 出エジプトで得た自由は、他者と共に生きる責任を伴う自由です。
- ※「ユダヤ教は行いで救いを得る宗教」という対比は正確ではありません。ユダヤ教でも、律法は神の選びと契約という恵みへの応答として守られます。
4.4 現代社会と十戒
| 戒め | 現代の問い |
|---|
| ほかに神を持たない | お金・権力の絶対化 |
| 安息日を聖別する | 働き方、休む権利 |
| 殺してはならない | 戦争、死刑、生命倫理 |
| 盗んではならない | 搾取、不公正な経済 |
| 偽証してはならない | 誹謗中傷、虚偽情報 |
| 欲してはならない | 他者と比較し続ける消費社会 |
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