2026年9月21日月曜日

同志社 創立の歴史──創立者・新島襄の生涯とキリスト教主義教育思想

以下、動画内での「しめた」という名前の由来の修正、および動画では触れていない内容を付加した、講義用レジュメです。

新島襄 ― 生涯と教育思想
幕末の密出国から同志社創立まで ― キリスト教主義教育の形成過程
天保14年(1843)~明治23年(1890)
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【1】出自と幼少期
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新島襄は天保14年1月14日(1843年)、江戸・神田にあった上州安中藩の江戸屋敷で生まれた。安中藩は現在の群馬県安中市を治めた小藩である。父・民治(たみじ)は藩の右筆(ゆうひつ)、すなわち藩の記録や書状の作成を担う書記役を務めた家柄であった。襄の幼名は七五三太(しめた)という。女子が4人続いた後の長男であり、家族の期待を一身に受けて育ったとされる。
 
 
【2】洋学修学と密出国の決意
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少年期の襄は藩主に選抜され、13歳頃から蘭学(らんがく/オランダ語を通じた西洋学問)を学び始めた。17歳の頃には江戸幕府の軍艦操練所に通い、数学・航海術を学んでいる。この過程で入手した漢訳洋書(『聯邦志略』など)を通じてアメリカ合衆国の存在を知り、次第に海外への強い関心を抱くようになった。
 
当時の日本は鎖国政策の下にあり、海外渡航は幕府によって固く禁じられた重罪であった。それでも襄は元治元年(げんじがんねん/1864年)、21歳のときに藩を離れる決意を固め、沿岸測量に従事しながら箱館(現・函館)へ赴き、渡航の機会をうかがった。
 
【3】渡米とキリスト教入信
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元治元年(1864年)、襄は米国商船「ベルリン号」に乗り込み箱館を出港、上海で米国船「ワイルド・ローヴァー号」に乗り換え、翌慶応元年(1865年)、アメリカのボストンに到着した。同船の船主であったアルフィーアス・ハーディー夫妻の援助を受け、フィリップス・アカデミーに入学。慶応2年(1866年)には同校付属教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。
 
慶応3年(1867年)にはアマースト大学へ入学して理学を修め、明治3年(1870年)に卒業した。これは日本人として初めてアメリカの大学から学士号を取得した事例とされる。卒業後はさらに神学研究を志し、アンドーバー神学校に進んだ。
 
 
【4】岩倉使節団との同行
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明治4年(1871年)に日本を出発した岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とする岩倉遣外使節団がアメリカを訪れると、襄はこれと接触し、案内役・通訳として同行することになった。使節団とともにヨーロッパへも渡り、欧米各国の教育制度を視察する機会を得ている。
 
  ※注
  使節団自体の日本出発は明治4年(1871年)だが、襄が実際に使節団に 合流し随行を始めた時期については明治4年内とする説と、翌明治5年(1872年)とする説とが資料により分かれる。
 
 
【5】帰国と同志社の創立
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明治7年(1874年)、襄はおよそ10年ぶりに日本へ帰国し、郷里・安中で家族と再会した。この帰国を契機に、キリスト教精神に基づく人格教育を行う学校を日本に設立する構想を固める。翌明治8年(1875年)、京都に同志社英学校(現・同志社大学の前身)を設立し、明治10年(1877年)には同志社女学校を開校した。
 
襄が掲げた教育方針は、単なる知識の伝達にとどまらず、信仰に富み高尚な品性を備えた人格の陶冶を基本とするものであった。後年、この理念は「良心(りょうしん)を手腕に運用する人物」の育成という言葉に集約されていく。
 
 
【6】晩年と死、その後の展開
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襄は同志社を基盤としつつ、総合大学(同志社大学)の設立を目指し、各地での伝道と資金募集に奔走した。しかしその夢が実現する前に病を得て、明治23年(1890年)1月23日、神奈川県大磯において没した。享年46。門下からは海老名弾正(えびなだんじょう)、横井時雄(よこいときお)、徳富蘇峰(とくとみそほう)、安部磯雄(あべいそお)ら、後の日本の言論・教育界を担う人物が輩出した。
 
襄自身が見ることのなかった総合大学設立の夢は、没後、同志社大学として結実する。彼が唱えた「良心」を核とする教育理念は、現在の同志社の建学の精神として受け継がれている。
 
 
【7】年表
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天保14年 (1843) 江戸・安中藩邸に生まれる。幼名・七五三太
安政年間 (1856頃)13歳頃より蘭学を学び始める
万延元年頃(1860頃)17歳、幕府の軍艦操練所で数学・航海術を学ぶ
元治元年 (1864) 脱藩、箱館より米国商船「ベルリン号」で出国
慶応元年 (1865) ボストン到着。ハーディー夫妻の援助を受ける
慶応2年  (1866) 受洗、キリスト教徒となる
慶応3年  (1867) アマースト大学入学
明治3年  (1870) アマースト大学卒業。アンドーバー神学校入学
明治4~5年(1871-72)岩倉使節団と合流、案内役・通訳としてヨーロッパへ
明治7年  (1874) 約10年ぶりに帰国、安中で家族と再会
明治8年  (1875) 京都に同志社英学校を設立
明治10年 (1877) 同志社女学校を設立
明治23年 (1890) 1月23日、神奈川県大磯にて病没。享年46

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