2024年2月14日水曜日

光の教会オルガンコンサート 2023年11月5日 プログラムと解説用レジュメ

2023年11月5日

茨木春日丘教会 <光の教会オルガンコンサート>

「J. S. バッハ『ライプツィヒ・コラール集』(第1回/全3回)と、

その他の珠玉のバッハ・オルガン曲」

演奏 臼井真奈

解説 大石健一


プログラム

J. S. バッハ (1685-1750) Johann Sebastian Bach

ライプツィヒ・コラール集 Die Leipziger Choräle Vol. 1


プレリュードとフーガ ハ長調 BWV545 

Präludium und Fuge C-Dur


~ライプツィヒ・コラール集より~

Aus den Leipziger Chorälen 

「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」 Nun komm, der Heiden Heiland


- 2段手鍵盤とペダル (コラールはソプラノ) BWV659 

- トリオ (2重のバスとコラール) BWV660 

- オルガノ・プレーノ (コラールはペダル) BWV661 


フーガ ト短調 BWV578 

Fuge g-Moll


~Pause~


~ライプツィヒ・コラール集より~

「いと高きところにまします神にのみ栄光あれ」 Allein Gott in der Höhe sei Ehr

- 2段手鍵盤とペダル (コラールはソプラノ) BWV662

- 2段手鍵盤とペダル (コラールはテノール) BWV663

- トリオ BWV664


オルガン・コンチェルト イ短調 BWV593 (アレグロ) - アダージオ - アレグロ

Concert nach Vivaldi a-Moll (Allegro) – Adagio - Allegro



演奏者のプロフィール

臼井真奈

国立音楽大学楽理科卒業後、フランクフルト音楽大学オルガン科でエドガー・クラップ氏に師事。同学卒業時にオルガニスト・ディプロマを取得。ピアノをマイヤー・ヘルマン氏、チェンバロ、通奏低音をグレゴー・ホルマン氏に師事した。京都およびドイツ・カッセル市を拠点に、バロック、ロマン派から現代までの幅広いレパートリーを持つコンサートオルガニスト、チェンバリストとして活躍。ヨーロッパ各国で開催される国際オルガン音楽祭でのリサイタル、オーケストラや合唱団との共演などで多彩な演奏活動を展開している。

 2010年にはゲルリッツ市・ペーター教会の「太陽のオルガン」を、2011年、2013年、2017年には南仏アンブルン大聖堂の歴史的オルガンを、いずれも修復以来、初めて日本人オルガニストとして招待されて演奏し、好評を博した。2021年の「カッセルのムジークターゲ2021」では、マーティン教会において20世紀最大の作曲家、O.メシアン晩年の大作「聖体秘跡の書」の全曲演奏しに挑み、その深い楽曲解釈と卓越した技巧が高く評価された。

 CD「こどものためのオルガンリサイタル」、「バッハオルガン曲集」の他、2012年に茨木春日丘教会にて収録、リリースされた「光と風のディアローグ」は「レコード芸術」特選盤に選ばれた。昨年には最新CD「ブラームス・オルガン全曲集」をリリース。日本オルガニスト協会会員。


次回のコンサートのお知らせ

「J. S. バッハ『ライプツィヒ・コラール集』(第2回/全3回)、そして彼を深く敬愛し、熱心に学んだメンデルスゾーンとブラームスの楽曲を合わせて」

開催日につきましては、まだ最終決定ではありませんが、2024年4月7日(日)午後3時開演で計画しております。2024年2月以降、当教会ホームページにてお知らせ・申し込みを開始する予定です。

 今回、ネット上で申し込み手続きをされた方々で、次回の優先案内・申し込みをご希望の方は、今回の申し込み時に当教会牧師より返信されたメールアドレスに、その旨を記載の上お知らせください。


茨木春日丘教会 聖日礼拝について

 毎週日曜日、午前10時30分より行っております。どなたでもご参加できますが、人数を把握した上で実施していますので、ホームページよりお問い合わせと申し込みをしていただければ幸いです。


<レジュメ>

第1セッション

・ライプツィヒ・コラール集とは

・コラール編曲とは  讃美歌(コラール)を編曲した曲

 コラール編曲 = コラール前奏曲  コラール変奏曲

・コラール「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」について

 未来におけるキリストの「再臨」への待望   ← 

 過去におけるキリストの訪れ=クリスマス   ← 二重のキリスト待望


讃美歌21 229番の歌詞

1 いま来たりませ、救いの主イェス、この世の罪を あがなうために。


2 きよき御国を 離れて降り、人の姿で 御子は現われん。


3 みむねによりて おとめにやどり、神の独り子 人となりたもう。


4 この世に生まれ、陰府にもくだり、御父にいたる 道を拓く主。


5 まぶねまばゆく 照り輝きて、暗きこの世に 光あふれぬ。


6 御父と御子と 聖霊の主に、み栄え 今も とこしえまでも。


・BWV659 2段手鍵盤とペダル (コラールはソプラノ) BWV659 

 コラールの旋律 =「定旋律」


・BWV660 トリオ (2重のバスとコラール) BWV660 

 ベースで、キリストが天から降りるかの如き降下が繰り返される。


・BWV661 オルガノ・プレーノ (コラールはペダル!) BWV661

 パイプオルガン前面に見える金属パイプ(プリンシパル族)の音色


第2セッション

・コラールとは。聖歌隊のみの讃美から、会衆全体による讃美の導入へ

 会衆讃美 → キリスト教公認以降、会衆讃美なしに → ナショナリズム

 →宗教改革 ルターによる母国語讃美の導入 → コラールの成立

・単旋律から複旋律(ポリフォニー)の時代へ。

 「対位法」 ----「パレストリーナ対位法」から「バッハ対位法」(長と和音)へ。

・対位法 ---- カノン、フーガなど。


第3セッション

・コラール「いと高きところにまします神にのみ栄光あれ」

・SDG 自律譜の結びにSoli Deo Gloriaと書くバッハ。

・神に栄光を帰す  父なる神・子なる神・聖霊なる神 = 三位一体

・バッハにおける「3」という数字へのこだわり----三位一体の神への崇敬


讃美歌21 37番の歌詞

1 いと高き神に 栄えあれ、とわに。 その慈しみを たたえ、感謝せよ。

 みこころに適う 人々すべてに


2 父なるみ神を ほめたたえ崇めん。み旨に従い 世を治めたもう。

 み国と力と 栄光は常に すべて神のもの


3 主イエス・キリストよ、神の独り子よ、この世の罪咎(とが) あがなう小羊。

 我らを憐れみ、ささぐる祈りを 受け入れたまえや。


4 聖霊の神よ、慰めたもう主よ、 迫り来る悪を 打ち砕きたまえ。

 たえざる悩みと 厳しき試練に 勝たしめたまえや。


・BWV662 2段手鍵盤とペダル (コラールはソプラノ) 

 アダージョ。寛ぐようなゆっくりさ。穏やかで非常に美しい曲。


・BWV663 2段手鍵盤とペダル (コラールはテノール!) 

 「カンタービレ」な華やかさがある。

 3分の2辺りでのテノールの駆け降りと駆け上りは、キリストの天→地→天の動き?


・BWV664 トリオ

  コラール(定旋律)は非常に薄く、終盤のみ。天使の舞い上がりと舞い降りが描写?


第4セッション

・オルガン・コンチェルト イ短調、作品番号593番

 編曲。原曲はヴィヴァルディのコンチェルト、協奏曲、作品番号3-8

 二つの独奏ヴァイオリン、そして弦楽器及び通奏低音のための曲。

 アレグロ、アダージョ、アレグロと続く3楽章構成

 タリタリの繰り返しは、手鍵盤二重を二つで計四重、加えてペダル(部分的に二重)


2024年2月3日土曜日

ディサイプル派

ディサイプル派(ディサイプルス、キャンベル派) Disciples of Christ


【要約】

19世紀初期アメリカの信仰覚醒運動時代、スコットランド系アイルランド人の長老派教会牧師トマス・キャンベルが、息子のアレクサンダーと、アメリカ長老派教会を離脱したバートン・ストーンと共に創設した教派。


【本文】

 19世紀初期のアメリカにおける信仰覚醒運動時代、スコットランド系アイルランド人の長老派教会牧師トマス・キャンベルが、自国の教団がそれ以外のキリスト教徒の陪餐を禁止したことを契機として、息子のアレクサンダー・キャンベル(1788-1866)と、アメリカ長老派教会を離脱したバートン・ストーン(1772-1844)と共に創設した教派。聖書そのもへの回帰を志向し、信条や幼児洗礼の否定、浸礼重視の立場を採る。


 同派は、20世紀初頭に自由主義神学論争によって、柔軟なディサイプル派から厳格なチャーチ・オブ・クライストが分裂し、さらに保守的なクリスチャン・チャーチが袂を分かつことになった。非教派的フェローシップ(Undenominational Fellowship)も存在する。


2024年2月2日金曜日

カステリヨン

カステリヨン Sébastien Castellion, 1515‐63 


 【要約】

宗教改革時代におけるフランスのキリスト教神学者。異端とされてカルヴァンに焚刑に処せられたセルヴェトゥスの処罰を巡って、寛容論争の口火を切った。聖書の真理性の否定ではなく、自分の正当性の絶対化の危険性を説いた。


 【本文】

 宗教改革時代におけるフランスのキリスト教神学者。異端の処罰を巡って、寛容論争の口火を切ったことで知られる。


 宗教改革に賛同し、ジュネーブで活動していたカルヴァンに協力。高等学院にて教育に従事。しかし、旧約の『雅歌』の解釈を巡ってカルヴァンと対立し、1544年、高等学院を辞職。バーゼルに移住。バーゼルでは、カルヴァン派の批判にあいながらも、大学のギリシア語講師等をしながら生活を維持。1555年、フランス語訳聖書を刊行。


 カルヴァンが指導していた改革派都市ジュネーブに、キリストの神性を否定する異端的な神学を唱えるスペイン人医師ミシェル・セルヴェ(セルヴェトゥス)が訪れた際、彼は捕えられ、主張を撤回しなかったことから、異端として焚刑に処せられた(1553年)。神の栄光を汚す異端を処罰する正当性を主張するカルヴァンをカステリヨンは批判して、1554年、『異端者について』を発刊。過去の文献に当たりつつ、権力による異端処刑が誤ったものであるという議論を展開した。これがいわゆる、寛容論争である。


 1562年には、宗教改革に起因する戦争がフランスを揺さぶる状況の中で、個人の信仰の尊厳と相争うことの愚かさ、そして平和と国家統一を説いた『悩めるフランスに勧める』(1562年)を発刊した。


 カルヴァン批判の論点

 カステリヨンは、カルヴァンが異端を排除する際、彼自身が自らを「真の宗教」と自負している点を指摘する。このような自負はどの宗教、教派にも当てはまるものであるし、正統か異端かの相違は、時代や状況によっても変化する相対的なものである。たとえ「神の言葉」に基づくと主張したとしても、それはあくまでその人にとっての真理である。

 そのように考えると、自ずと価値相対主義に陥る問題があるが、彼は聖書の真理性を否定しているわけではなく、自分の正当性を絶対化することによって生じる争いを否定し、キリストの説いた隣人愛を実践して生きるべきと説く。

 以上の点から、国家は宗教的真理に関わるべきではなく、世俗的領域の事柄に留まるべきという、政教分離の思想が導き出される。


 参考文献

セバスティアン・カステリヨン『異端者を処罰すべからざるを論ず』(中央大学人文科学研究所翻訳叢書 9)、中央大学人文科学研究所編、2014年。

佐々木毅『近代政治思想の誕生』(岩波新書)、岩波書店。


ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日掲載)

ルツ記 「ルツ」(2013年9月22日掲載)


 

今回の主題は、『ルツ記』の主人公であり、その書名ともされている「ルツ」という女性です。ルツ記は、旧約聖書における「諸書」という分類における一書で、ユダヤでは過越祭から50日目の五旬節に朗読される書でもあります。内容は士師時代における一家族の物語で、そのスポットライトはルツに当てられています。


 ルツ記の主題

 飢饉という災い、異邦の地への移住という苦渋の決断、エリメレク、息子たちの死という悲しみの経験、ナオミの優しさ、ルツの決断、ボアズの存在、これら一連の出来事が神のご計画の中で一つに結び合わされ、イスラエルを代表する人物である王ダビデの誕生へと至ったという、神の摂理が今回の物語の秘められた主題です。ルツ記において、神がご自身を現され、目に見える形で行動されるということは一切ありませんが、歴史を導かれている主なる神の存在が前提とされています。


 エリメレクの息子との結婚、そして息子たちの死

 ユダのベツレヘム出身でエフラタ族に属し、家長であったエリメレクは、飢饉のためにやむなくモアブという異邦人の地に移住します。しかし、二人の息子マフロンとキルヨンを残して死んでしまいます。残された息子たちはモアブの女性と結婚し、その時に妻となった人こそ「ルツ」に他なりません。ところが、結婚後まもなく、息子たちは死亡します。そこでナオミは、マフロンの妻オルパとルツの二人に、それぞれの実家へ帰るよう提案し、オルパはそれを受け入れます。しかし、ルツは自分の故郷のモアブに留まる選択肢を捨てて、義母ナオミと共に、ナオミの故郷であるイスラエルに移住し、同地で永住することを決意します。その際のルツの言葉は、義母への愛と神への信仰をたたえた実に美しいものです。

「ルツは言った。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」(ルツ記1:16)


 ベツレヘムへの帰還

 ナオミとルツは旅を続け、ベツレヘムに帰還します。その折りにナオミが発した言葉には、彼女の苦悩がにじみ出ています。「ナオミは言った。『どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。』」(1:20)。ナオミには、夫エリメレクの一族で有力な親戚であるボアズという人物がいました(2:1)。ルツは、ボアズの所有する畑で落ち穂拾いをすることにします。ボアズはルツの身の上を耳にして、ルツに好意を示し、親切にします。するとナオミは、ボアズが親戚であり、レビラート法によってルツを妻として迎えることができる人物であることに改めて気づくのです。


 レビラート婚

 当時、レビラート婚(またはレビレート婚・逆縁婚)という慣習がありました。これは、ある妻の夫が死亡した場合、一族の存続や財産の喪失防止のため、夫の兄弟がその妻と結婚するという制度です。ナオミは、この制度によってルツがボアズと結婚できないかと考えます。そして、人々に知られぬよう夜半にボアズのもとを訪れて、今後のことについて彼と相談するよう、ルツに命じるのです。


 ボアズとルツとの結婚

 休んでいる折りにルツの存在に気づいたボアズは、すぐに彼女の意図と誠意を悟ります。ただ、ボアズよりも優先してレビラート婚の責任を果たすべき人物が他にいたために、即答を避けます。ボアズは早速、その優先順位の高い人と交渉し、ナオミの所有する土地の買い上げを打診するという手続きを踏んだ上で、土地の取得と共にルツを妻として迎えることに成功したのでした。かくして、二人は結婚し、ルツはやがて男子を出産し(4:13)、その子はオベドと名づけられました(4:17)。このオベドは、ダビデの父エッサイの父となりました。ダビデへと至るペレツに始まる系図が、4:18-22に記載されています。


 まとめ

 ルツは、神の摂理の中で、ダビデの曾祖母とされました。ルツは元々モアブ人で、イスラエルの民から見れば異邦人です。そんな異邦人のルツの血が、ダビデへと至る血筋に入っているということは、やがて神の救いが異邦人を含む全世界へと展開されていくことを暗示しているようです。狭いイスラエル選民主義に留まってはいけないというメッセージも込められていると思われます。

 「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」(1:16)。この言葉に豊かに表された、ルツという無名の女性の真摯な信仰を主はお用いになって、神の救いの歴史を編み上げられました。私たちも、自分の信仰の決断を大切にしたいと思います。


サムエル記上 1章 「ハンナ」(2013年9月29日掲載)

サムエル記上 1章 「ハンナ」(2013年9月29日掲載)


 序

 士師時代の後半は、人心もすさみ、統治者もなく、闇のような時代でした(参照、士師記21:25「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」)。そうした中、祭司エリの指導力は、高齢による衰えもあって、ごく限られたものでした(参照、サムエル記上3:2)。さらに、エリの二人の息子であるホフニとピネハスは「ならず者で、主を知ろうとしない」者たちで、主の供え物を軽んじ、民が捧げる捧げ者に手を出すという堕落ぶりでした(サムエル記上2:12-21)。

 イスラエルはこの時期、王がおらず、士師や後のサムエルのような祭司が統治していた士師時代末期から、王サウルに始まり王ダビデへと繋がっていく王政時代への過渡期にありました。ダビデにおいて栄華を極めたイスラエル最高の栄光の時代へと続いていく先駆けとなり、その準備をした人物が、サムエルです。そして、そのサムエル誕生のために母とされた人物こそ、今回の主題である「ハンナ」に他なりません。ヘブライ語で「恵み」という意味の名前を持つ「ハンナ」は、神の働きを将来為していくことになる人物の母として選ばれた点の他、その品性と信仰においても、イエスの母マリアと似ています。


 ハンナの悩み

 一夫多妻という慣習の中で、夫エルカナの妻ペニナは子どもに恵まれていましたが、ハンナについては相応しい時が来るまで「主はハンナの体を閉ざしておられた」ため、子を授けられてはいませんでした(サムエル記上1:5)。ペニナはライバル心かあるいは嫉妬心に駆られてか、不妊について執拗にハンナを責めます。また、不妊の女性は神に呪われた者であるといった迷信が彼女を一層苦しめたことでしょう。しかし、その困難と苦悩が、彼女を熱い祈りへと向かわせたのです。時に、苦痛は人を祈りから遠ざけることがあるとしても、神へと向かわせる機会ともなります。

 「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(1:10)。主の前に涙を流す人は、幸いです。その人は慰められるからです。ただ、この時彼女の様子を見ていたエリは、彼女が酒に酔っているのかと誤解し、「いつまで酔っているのか」と語りかけます。事情を知ったエリは彼女に、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」(1:17)と述べて励ましました。祈り尽くした人の爽やかさと言いましょうか、まだ何も状況は進展していない中で、彼女の表情は晴れ晴れとしたものにさえなったようです(1:18「それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった」)。まだ見ぬ明るい将来を、彼女は信仰によって確信したのでしょう。実に、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライの信徒への手紙11:1)とある通りです。その後、ハンナは神の豊かな恵みを得て、男の子を出産しました。それが、「サムエル」(「神の御名」という意味)です(サムエル記上1:20)。


 誓いの通りに

ハンナは、子を授けて下さいと主に祈った時、もし授けられたならば「その子の一生を主におささげする」という誓いを立てていました(一・一一)。サムエルがやがて乳離れすると、誓い通り、ハンナは犠牲の捧げ物と共に彼をエリのもとに連れて行き、彼に預け、そうしてサムエルを主のみ手にゆだねたのです。「『わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。』彼らはそこで主を礼拝した。」(1:27-28)。主に願い、主に約束し、祈りが叶えられ、そして主への約束を果たし、主を礼拝する。この何と爽やかなことでしょうか。


 ハンナの祈り

 続くサムエル記上2:1-11には、「ハンナの祈り」が収録されています。主は一切の決定権を持っておられ、ご自身の権能をもって天地を動かし、歴史をも動かされる方であり、いかなる人間の大きな力をもってしても決して神に対抗できないといった主旨の力強い言葉が綴られています。


 まとめ

 「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(サムエル記上1:10)。イスラエルの歴史上最高の繁栄を極めたダビデ王朝時代へと道を繋いだサムエル。その彼の誕生に際して、ハンナという一人の女性の涙、そして祈りがありました。主は、主の前で涙を流し、悲しみを注ぎ出して祈りを捧げるハンナの願いを聞き届けられ、彼女に後のサムエルとなる赤子を授けられたのです。ハンナもまた、主の恵みに感謝をもって応答し、サムエルを捧げました。

 主なる神は、悲しみに暮れる私たちを顧み、最善の道へと導かれる方です。そればかりか、そのような思いがけない事柄をもって、時に大きな歴史さえ動かされる方です。


2024年1月26日金曜日

日本基督公会

日本基督公会 1872年


 【要約】

日本プロテスタント宣教最初期に設立された教会。ジェームズ・バラに学びキリスト者となった押川方義(まさよし)、篠崎桂之助、吉田信好ら横浜バンドの11名が核となって創立。超教派的合同教会という構想が基調。


 【本文】

 日本におけるプロテスタント宣教の最初期に設立された教会。


 ジェームズ・バラに学びキリスト者となった押川方義(まさよし)、篠崎桂之助、吉田信好ら横浜バンドの11名が核となり、以下の通り教会創設へと至った。


 1872年、第1回宣教師会議の決議において、各地に設立された諸教会を一つの全体教会である基督公会に統合することを決定し、日本側も関係諸教派の枠を超えた無教派的教会の形成を志向して、「横浜公会」が創設された。初代牧師はジェームズ・バラ。


 1874年、京浜と阪神の4つの公会の代表者は日本基督公会条例案を可決、「日本基督公会」とされる。超教派的な福音同盟会の9ヶ条を信条とした。この超教派的規則を教会的信条に再編纂したものが簡易信条主義の萌芽である。


 年表

1875年、会堂建築が為され、横浜海岸教会と改称。

1877年、日本長老会等と合同し、日本基督一致教会となる。

1890年、日本基督教会と改称。

1923年、関東大震災により会堂消失。

1941年、日本基督教団の成立に伴い解消。


2024年1月25日木曜日

シェーカー教徒

シェーカー教徒 Shakers


 17世紀後半のフランスにおけるキリスト教プロテスタントの流れで発生し、後にイギリスに移住した一派。


 終末思想としては千年王国説、組織形態としては共産主義的社会(財産共有)、世俗社会からの分離、独身主義を志向した。


 シェーカーとは「体を振る者」の意で、預言者がそうして預言したと主張している。


 イギリスでクエーカーと合流し、信仰覚醒運動が盛んであったアメリカにも伝播してアン・リーによって創始されたものの、創始者をキリストの第2の受肉と主張して異端視された。工芸や美術で多くの作品を生み出した。