2025年10月26日日曜日

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:1-9

説教や聖書研究をする人のための聖書注解 マルコ4:1-9

「蒔かれた種の例え」

 並行箇所:マタイ13:1-9、ルカ8:4-8


 概要

 マルコ4:1-34は例え話集となっていて、最初の「蒔かれた種の例え」の他、成長する種の例え、からし種の例えが収録されている。同時に、この例え話の解説(4:13-20)、および例えを使って話す理由も記されている。(4:10-12、4:33-34)。

 種を蒔く人の譬え話は、例えやその解説の中で土地について注目されていることもあって、種が撒かれた土地、すなわち、神の言葉を聞いた人々の話として認識されていた。だが、最近はこの解釈が見直され、種を蒔く側の人々についての例え話、つまり、神の言葉を宣べ伝える側の苦労を物語る例えとして見直されている。

 例えの構造としては、四種類の地面と種の運命が描かれている。4種の土地は、神の言葉という種を聞いた4タイプの人間の寓喩である。


 参考文献(注解書などを除いた一部)

上村静「蒔かれた種のたとえ(マルコ 4:3-8)蒔かれた種のたとえ(マルコ 4:3-8)―神の支配の光と影―」、『新約学研究』第42巻、日本新約学会、2014年。



 1節

新共同訳「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。」

Καὶ πάλιν ἤρξατο διδάσκειν παρὰ τὴν θάλασσαν· καὶ συνάγεται πρὸς αὐτὸν ὄχλος πλεῖστος, ὥστε αὐτὸν εἰς πλοῖον ἐμβάντα καθῆσθαι ἐν τῇ θαλάσσῃ, καὶ πᾶς ὁ ὄχλος πρὸς τὴν θάλασσαν ἐπὶ τῆς γῆς ἦσαν.


「イエスは、再び……」:Καὶ πάλινは、マルコに特徴的な繋ぎの語句(他、2:13など)。複数回にわたって弟子たちや人々に教えられたことが示されている。

黙想:人に伝える、または教えるということは、容易なことではない。イエスでさえも継続的に何回も続けて行わなければならなかったし、失敗も多かったことが窺える。


「おびただしい群衆が……集まって来た」:群衆が集まった理由が、イエスの奇跡の業を求めてなのか、あるいはイエスの教えを聞こうとしたものなのか、判断し難い。

 「おびただしい群衆」は、直訳では「大勢の群衆」(ὄχλος πλεῖστος):群衆は大勢の人たちのことなので、これに「大勢」と加えるのは冗長的表現である。これは、イエスの人気と宣教の影響力が、いかに大きかったかの強調が意図されている。


「湖のほとりで」:ガリラヤ湖のこと。先の「また」という語も暗示するように、イエスの宣教活動の中心地の一つ。


「船に乗って腰を下ろし」:ユダヤ教におけるラビが講話をする時、ラビは座して語った。教師として教える基本的姿勢。船に乗って語る理由として、1 殺到する群衆を避ける。2 湖面を利用して声を反射させ、群衆の耳に行き届かせる。

 象徴的解釈として、舟を教会の象徴とし、群衆はそれが伝える神の言葉を聞く者とすることが可能である。



 2節

新共同訳「イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。」

καὶ ἐδίδασκεν αὐτοὺς ἐν παραβολαῖς πολλά, καὶ ἔλεγεν αὐτοῖς ἐν τῇ διδαχῇ αὐτοῦ·


「たとえでいろいろと教えられ」:イエスが例えを用いて語った理由については、後続の4:10-12において述べられる。「例え」という語は(παραβολή)、原語自体は元来“並べて投げる”ないし“並べて置く”ことを意味する。類推しやすいものを通して物事を悟ろうとするのが例えの目的である。イエスは、日常的事象を取っ掛かりとして、神の真理を聞き手に悟らせようという目的で例えを用いた。


「その中で」:直訳では、「その教えにおいて」。「教え」と訳されている語はδιδαχή、文字通りの意味。これはイエスの宣教内容の中核であり、その内容はおそらく、聖書(旧約聖書)の言葉の解釈や、神、神の愛についてである。



 3節

新共同訳「『よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」

Ἀκούετε· ἰδοὺ ἐξῆλθεν ὁ σπείρων σπεῖραι.


「よく聞きなさい」:原文では、命令形の動詞のみで「聞け」。話の開始に際して

聴衆に注意を促す文言ではあるが、同時にこの例えの底流にある”神の言葉ないし教えを聞く“という主題とも一致する。


「種を蒔く人」:ὁ σπείρων 

この例えにおいては農夫を指すが、意味するものは“神の言葉を蒔く人”、すなわち、人々に神の教えを説くイエスや弟子たち、後の宣教する者たち。



 4節

新共同訳「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」

καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν, ὃ μὲν ἔπεσεν παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθεν τὰ πετεινὰ καὶ κατέφαγεν αὐτό.


「ある種は……」:ὃ μὲν... ここから、撒かれた種のそれぞれの顛末が綴られていく。


道端に落ち、鳥が来て食べてしまった:道端に落ちた種は。鳥に食べられる運命にある。他方、踏みしめられた道は硬く、土が種を受け入れないため、種が外に晒されてしまうことになる。そのために、鳥に食べられるという読みも可能。


「鳥」:後述の4:15では、鳥はサタンであると解き明かされる。

 

 5節

新共同訳「5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。」

5 καὶ ἄλλο ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες, ὅπου οὐκ εἶχεν γῆν πολλήν· καὶ εὐθὺς ἐξανέτειλεν, διὰ τὸ μὴ ἔχειν βάθος γῆς· 6 καὶ ὅτε ἀνέτειλεν ὁ ἥλιος, ἐκαυματίσθη· καὶ διὰ τὸ μὴ ἔχειν ῥίζαν ἐξηράνθη.


「石だらけで土の少ない所」:原文の直訳では、単に岩地の上(ἐπὶ τὸ πετρῶδες)。パレスチナでは岩地が多く、風に吹かれてある程度堆積した土が浅く盛られている場所も少なくない。

「すぐ芽を出した」(εὐθὺς ἐξανέτειλεν):「すぐ」(εὐθύς)はマルコが好む語。速やかな決断を示す際によく使用されるが、ここでは否定的な意味を含み、「すぐ芽を出した」、すなわち、すぐに信仰的決断に至ったものの、長く持続はしなかったということを暗示している。

 岩地の上の種がすぐに芽を出す理由については、岩盤が熱を持ちやすく、その暖かさで発芽するのが早いことが考え得る。


「日」(ὁ ἥλιος):太陽のこと。試練や迫害を象徴。迫害のない我々の環境であれば、なんとなく行く気が失せてしまうことなども、大きな試練と言える。


「焼けて」(ἐκαυματίσθη):「焼けた」—信仰の試練に耐えられない状態。


 7節

 新共同訳「ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。」

καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας, καὶ ἀνέβησαν αἱ ἄκανθαι καὶ συνέπνιξαν αὐτό, καὶ καρπὸν οὐκ ἔδωκεν.


「茨」(ἀκάνθαι):原語では複数形。世の思い煩いや、富の誘惑(参照、4:18-19)。


「覆いふさいだ」(συνέπνιξαν):原語は「窒息させる」の意。芽を出した種の成長を阻む、さまざまな試練的な要素を象徴する。


「実を結ばなかった」(οὐκ ἔδωκεν καρπόν):信仰がその人において実りある人生をもたらすことはなかったということ。


 8節

 新共同訳「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。』」

καὶ ἄλλα ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλὴν, καὶ ἐδίδου καρπὸν ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον, καὶ ἔφερεν ἓν τριάκοντα καὶ ἓν ἑξήκοντα καὶ ἓν ἑκατόν.


「良い土地」(τὴν γῆν τὴν  καλήν):「良い地」。「良い」と訳されているκαλήνは、他に「美しい」という意味も持つ。良い土地とは、良い人間や美しい人間を意味するのではなく、次節によれば「聞く耳のある者」、あるいは「良く聞きなさい」という言葉を受けての”よく聞く人”。


「芽生え、育って」(ἀναβαίνοντα καὶ αὐξανόμενον):マルコのみの表現。これまでの事例では頓挫していた成長が、そのまま持続した結果として描かれている。


「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍」:この時代における農業の10倍近くの数値に相当。神の恵みの豊かさを強調する。


 これまで失敗例が3個続いた後、4個目に成功例が挙げられている。4回に1回ほど大当たりがあったという運的要素を読み取るよりも、成長が止まらずに持続した際の実りは大きい、という趣旨として理解するべきである。

 豊かな実りは、持続的な成長を促す育てる側、そしてそれを受ける育てられる側、双方の継続的な営みが大切である。


 9節

 新共同訳「そして、『聞く耳のある者は聞きなさい』と言われた。」

καὶ ἔλεγεν· ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν ἀκουέτω.


「聞く耳のある者は聞きなさい」:「聞け」という命令は、典型的な預言者的警句である。イエスの文脈では、聞いたことを行うという、実践が重要である(参照、マタイ7:24-29)。


「聞く耳のある者は」(ὃς ἔχει ὦτα)同様の表現として、マタイ11:15、、黙示録2:7など。


 まとめの説教的な言葉として

 イエスは、種を蒔く人の姿を通して、神の言葉を宣べ伝える者の労苦と希望を語られました。そして、種が落ちる地面の違いは、私たち一人ひとりの心のあり方を映し出しています。

 道端のように心が閉ざされていると、言葉は根を張ることができません。岩地のように浅い信仰では、試練に耐えられません。茨のように世の誘惑に心が奪われると、実を結ぶことはできません。しかし、良い土地に落ちた種は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのです。

 私たちの心が、神の言葉を受け入れる「良い土地」となるように、日々整えられていきましょう。聞く耳を持ち、聞いたことを行う者となることこそ、主の御心にかなう歩みです。


 祈りの言葉

 恵み深い天の父なる神様、

 あなたの御言葉を今日、私たちの心に蒔いてくださったことを感謝します。どうか私たちの心を耕し、あなたの言葉が根を張り、芽を出し、豊かに実を結ぶように、聖霊の働きをもって導いてください。

 私たちが世の誘惑や試練に負けることなく、あなたの真理に立ち続けることができますように。宣教する者として、また聞く者として、あなたの御国の働きに忠実に仕える者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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