四福音書のイースター事情〜特にマタイ福音書に注目して
はじめに
こちらの講座、ついに最終回である第六回を迎えました。この原稿を皆様が読まれている現在、一月頃とまだ早めではありますが、来たるイースターに向けて、マタイ福音書における復活を見ていきたいと思います。ただ、サブタイトルに「四福音書」とある通り、前回のクリスマス編と同様、四福音書全体でイースター記事がどう書かれているのかを中心に見ていきます。マタイの復活記事については個別に「テキスト研究」で解説されることになるので、ここではあえて深掘りはしません。基本、他の福音書との比較の中で、「へえ、マタイの復活記事全体ってこうなっているのかあ」というテーストでお楽しみください。
一 四福音書の復活記事
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が収められています。いずれの福音書も、十字架と復活に至るまでのイエス・キリストの足跡にスポットライトを当てた物語となっていて、大筋としてはどれも大差はないように感じられるでしょう。ところが、相違点も少なくなりません。たとえば、前回の特集内容であったクリスマスについては、赤子のイエスが登場するお話はマタイとルカのみで、マルコとヨハネにはありません。ヨハネの冒頭のいわゆる「キリスト讃歌」は、クリスマス礼拝の聖書箇所にされることは多いですが(例えばヨハネ一・一四「ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」)、マルコにおいてクリスマス的な要素は皆無です。
それでは、キリストの復活についてはどうでしょう。「安心してください、ちゃんとありますよ」ただし、相違点は本当に各福音書で多々あり、もうバラバラと言っても過言ではありません。そこで、そうした相違点をこれからザッと見ていく前に、イースターに関連する記事の種類について整理しておきましょう。ただし、マルコ一六・九以下の記事は、後代における写本段階での付加とされているので、ここでの考察からは外しています。
一・一 空の墓復活物語
まず、キリストが葬られた墓を婦人たちや弟子たちが訪れる「空(から)の墓復活物語」が挙げられます。ラインナップとしては(括弧内は登場人物)、マタイ二八・一-八(二人のマリア)、マルコ一六・一-八(三人の婦人たち)、ルカ二四・一-一二(三名の婦人たちと一緒にいた婦人たち)、ヨハネ二〇・一-一〇(マグダラのマリア)。ベースは同じ舞台設定のお話しですが、登場人物が結構バラけていますね。
一・二 復活顕現物語
次に、復活したキリストが婦人(たち)または弟子たちの前に姿を表す「復活顕現物語」です。そのラインナップは、マタイ二八・九-一〇(二人のマリア)、マタイ二八・一八-二〇(十一人の弟子たち)、ルカ二四・一三-三五(クレオパ含む二人の弟子、いわゆるエマオ物語)、ルカ二四・三六-四九(弟子たちへの顕現)、ヨハネ二〇・一一-一八(マグダラのマリアへの顕現)、ヨハネ二〇・一九-二三(弟子たち)、ヨハネ二〇・二四-二九(トマス)、ヨハネ二一・一-一四(七人の弟子たち)、ヨハネ二一・一五-一九(イエスとペトロ)、ヨハネ二一・二〇-二三(イエスの愛しておられた弟子)。こうしてみると、ヨハネの顕現記事の品揃えは豊富ですね。
二 各福音書の復活記事の構成
それでは、四福音書ごとの復活記事の構成を見ていきましょう。マルコ、ルカ、ヨハネの順で、トリをつとめるのはマタイとなります。
二・一 マルコに復活顕現記事がない理由
前述の通り、マルコのオリジナルの結びを一六・八とした場合、その最大の特徴はなんといっても、空の墓復活物語はあっても復活顕現記事がないことです。「え?復活のキリストが現れないまま終わるの?」という感じです。しかもその結びは、婦人たちが恐れによって誰にも何も言わずに沈黙していたところで唐突に閉じられています。これはいまだに解決されない新約聖書学上の大問題の一つで、これまで誰一人として説得力のある回答を示した人はいません。これについての私見になります。前回の特集でも述べたように、マルコはキリストの壮絶な十字架死という劇的物語を書きたい人です。そして、その悲劇性をもって、イエスが神の子であることを浮き彫りにしたい人です。そのため、イエス誕生の記事にも触れず、洗礼者ヨハネの逮捕という意味深なところから始めて、上り調子の前半から転じて、受難の暗雲漂う後半へと突入し、終盤は急転直下、十字架の死へと叩き落としてきます。そこで私は思うのです。「これで最後に長々と復活顕現記事を入れたら、もう復活カラーで十字架色が消されてしまう」と。たとえるなら、讃美歌の「ちしおしたたる」を歌った後は、しばらくはキリストの死のショックに酔いしれたく、「復活はちょっと待ってよ」となるようなものと。その後の展開は読者なら皆がわかりきっていることですから、説明を入れれば入れるほど、文学的にはダサくなる感じがしないでしょうか。他方、そういうマルコがあるからこそ、マタイは自身の福音書の結びに弟子たちへの顕現を持ってきて、いわゆる後述の大宣教命令をもって大団円で閉じるという、マタイの重厚な書きっぷりのすごさを実感するというものです。雑な言い方をすれば、マタイが論述なら、マルコは小説とか劇場。
二・二 やっぱりエマオにつきるルカ
ルカの復活記事の構成は順番に、空の墓、エマオ途上の顕現、弟子たちへの顕現、最後にキリスト昇天、以上です。ルカの復活記事といえば、やはり「エマオ」です。エマオの記事の内容については、言わずもがなでしょう。ただ、ルカの特徴として見逃せないのは、キリスト昇天記事があることです。使徒言行録はルカの作品と見なされ、ルカ福音書と使徒言行録で二巻本構成であることは、有名な話です。ルカの終わり、使徒言行録の初めにおける昇天の場面を通じて、双方が繋がっているというわけです。
二・三 顕現記事のオンパレードなヨハネ
空の墓物語では、ペトロと「イエスが愛しておられた弟子」とが競争するのも印象的である一方、先にもチラッとつぶやきましたが、ヨハネにおける顕現記事の多さとオリジナリティは半端ではありません。空の墓の登場人物はマグダラのマリアだけですし、彼女限定の顕現記事も後に続いています。ヨハネ福音書以外では名前だけ触れられているに過ぎないトマスが登場し、彼のために会いに来られる復活顕現の逸話も、ヨハネ独自の記事です。七人の弟子たちが漁をする場面で現れたかと思えば、ルカの顕現記事のように焼き魚を食べまではしませんが、弟子たちに魚とパンを差し出されています。そして、ペトロに対する三度の「わたしを愛しているか」との問い。締めには、謎の「イエスの愛しておられた弟子」が登場して、最後は後書きで終わるというのがヨハネの構成です。
三 マタイの復活記事の構成と特徴
マタイ福音書の復活記事の全体構成は左記の通りです。
二七・六二-六六 墓を監視する番兵 その一
二八・一-八 空の墓物語(二人の婦人)
二八・九-一〇 二人の婦人への復活顕現
二八・一一-一五 番兵を監視する番兵 その二
二八・一六-二〇 ガリラヤでの復活顕現
三・一 番兵の存在が持つ意味
まず、マタイ独自の要素としては、墓を監視する番兵に関する記事を挙げることができます。要旨としては、祭司長、ファリサイ派、そしてピラトが協議し、弟子たちが死体を盗みに来て、後から「復活した」などと言い出さないよう、番兵を立てたというのが前半。後半は、空の墓物語の中で「震え上がり、死人のようになった」(二八・四)出来事を経て報告を果たしたところ、「弟子たちが死体を盗んだ」ということにしておけと指示され、ワイロまでつかまされたという筋書きです。以前の特集で私が述べたことを覚えていらっしゃるでしょうか。マタイとその教会は、ユダヤ人やユダヤ教の正統派から迫害を受けていて、追放処分を受けているさなかにありました。とすると、正当なユダヤ人の側から、「イエスの復活なんて、でっちあげだ!」と言われ続けていたとしても全く不思議ではありません。この揶揄に対する対抗として、番兵のくだりの記事を挟み込んだのだろうと推測されます。
三・二 大宣教命令と、ガリラヤという場面設定
復活のイエスが弟子たちの前に姿を現され、いわゆる「大宣教命令」を発せられる場面となっています。この舞台設定が特徴的で、その場所は、十字架と墓のあるエルサレムからわざわざ移動しての「ガリラヤ」となっています(二八・一六)。これは、「復活した後・・・ガリラヤへ行く」(二六・三二)という事前予告を受けてのもので、元々はマルコ福音書の筋書き(マルコ一六・七)を踏襲したものです。ただ、前述の通りマルコ先生は、十字架の死の衝撃を維持したまま書き終えたいものですから、「もう書かなくても、皆さんわかるよね」という感じでそこで筆を置いたと。それでマタイ先生は、マルコが書かなかったガリラヤ顕現記事をまとめて、自分なりの味つけも施した上で、自分の福音書の中で描いたのだ、というのが私の推測です。
三・三 溢れ出すマタイの神学
単にマルコの設定を引き継いだだけで終わらないのがマタイのすごさで、まずキリストの権威をバーンと打ち出しています(二八・一八「わたしは天と地の一切の権能を授かっている)。そして、そこからの「すべての民をわたしの弟子にしなさい」、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさい(二八・一九)、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(二八・二〇)という、宣教命令三連発が繰り出されています。私たちの教会の使命と合致するみ言葉が示されて、「我らの教会の源流、ここにあり!」と胸熱の展開です。
そして最後の最後の最終節は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二八・二八)です。思い返せば、クリスマス記事の中の一・二三において、イザヤ書のメシア預言が引用されての「神は我々と共におられるという意味である」という文言の伏線回収ではありませんか。旧約引用、預言成就、それを実現する方としてのキリスト、イスラエルを受け継ぐ教会、これらマタイ神学の伏線の全てが回収され、主イエスと弟子たちの大団円で終わるという、マタイの構成と神学の見事さよ!二〇年前のオリンピック選手の名言、「ちょー気持ちいい!」と叫びたくなる気持ちを胸に抱きつつ、ここで終わりたいと思います。