2024年11月21日木曜日

猫でもわかるマタイ福音書講座〜〜第4回「マタイの教会論」

「マタイが思い描く教会ーマタイ福音書の教会論」


 序 「教会論」ってなに?

 この講座、はや四回目となりました。今回は、「マタイが思い描く教会」です。マタイが持っている「教会とはこういうもの」というイメージ、また、あるべき教会の姿、などなどについてとなります。これらは牧師が使うような正式な表現でいくと、「教会論」となります。

 違う教派や教団の教会にいたことがある方なら、教会や礼拝や信仰、聖書について抱いている感覚が、それぞれの教会や教団でずいぶんと違うことを経験されたことでしょう。そうです、教会のイメージというのは、教派や教団が違えば当然のこと、同じ教団の教会でさえも、結構違っていたりするものなのです。

 これと同様に、四つの福音書、すなわち、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネでも、教会観の多様性が見られます。ただ、福音書は基本、キリストの地上での生涯を時間設定としていますから、教会の成立以前の時代が舞台です。よって、その舞台ではまだ存在しない教会の話は出てこないのが普通です。実際、「教会」と訳されるエクレシアという語は、福音書にはほぼ出てきません。唯一散見されるのが、今回の特集の主題である我らがマタイ福音書なのです。

 しかしそれでも、福音書が書かれたのは教会の時代ですから、言葉の端々(はしばし)から各福音書がどんな教会をイメージしているのかが、じんわりと滲み出ています。そこで、その滲み出たものを具体的に見ていきましょう。まず、おのおの共通する要素から参りますと、教会とは、神によって選ばれて招かれた人たちの集まりとなります。「教会」と訳されるギリシャ語のエクレシアという語も元々、誰かによって呼ばれて集められた人たちという意味を持っています。その語が教会専門用語として使われるようになると、神によって招き集められた人々の集まり、という意味に特化していったというわけです。さらにそれは、キリストによって招かれ、キリストに導かれ、キリストを中心とする“群れ”というニュアンスが織り込まれていきました。


 一 四福音書それぞれの教会のイメージ

 せっかくのこういう機会ですので、私の主観もアリとはなりますが、四福音書それぞれが抱いている教会イメージ、すなわち教会論について、ざっくりと述べておきましょう。まず、マルコは「十字架を背負って主に従う教会」となります。マルコは十字架を前面に出す福音書なので、教会の前身であり、後の教会を暗示する弟子たちは、自分の十字架を背負ってキリストに従う群れとなるわけです(マルコ八・三四)。

 次にルカは、「ルカ福音書」を第一巻として書いた後、「使徒言行録」を第二巻として書いていて、二巻仕立てにしているということが最大の特徴でしょう。ですので、「<地上のイエスの時代>を経て、その後の<教会の時代>を生きていく教会」となるでしょうか。

 ヨハネ福音書については、世の罪を取り除く神の小羊(一・二九)、永遠の命(三・一五)、命の水(四・一四)、聖霊(一四・二六)がキーワードですので、「永遠の命と復活、ほふられた小羊なる御子イエスと聖霊を信じる教会」とでもしておきます。

 最後に今回のマタイとなりますが、この講座をこれまで読んでいただいた方にはもうお馴染みでしょう。マタイと言えば、旧約と律法の完成者イエス、神との契約を継承する神の民としての弟子たち、そして、キリストが共にありつつ、主イエスの大宣教命令(二八・一六ー二〇)に生きる弟子たちが特徴的であることから、「神の民の契約を継ぎ、キリスト共に宣教する教会」とまとめてみました。今回の講座の結論が、早くも出てしまいました。


 二 「マタイの神学」こそ「マタイの教会論」

 前回の講座である第三回では、「共観福音書問題」について述べました。これはもはや信徒のレベルを越えていて、神学者レベル、牧師レベルの専門的内容です。ここから、今回の講座で重要な部分のみを抽出すると、次の一点に集約されます。すなわち、<マタイ福音書は基本、マルコ福音書を参考にして執筆された>という点です。このことがなぜ重要なのかというと、第一に、マルコを参考にしているということは、マタイがマルコの何をそのまま踏襲し、何を書き足し、何を書かずに削除したかが、読み比べればわかるという点に尽きます。そして第二に、とりわけ相違点を挙げ連ねることにより、マタイ福音書の考えの独自性が自ずとあぶり出されてくるという仕組みなのです。素晴らしい!

 こういう発想がイメージしにくいという方は、福音書をコンビニに例えてみてください。共観福音書はセブンイレブン、ローソン、ファミリーマートに例えられ、どれも似ていますよね。でも、それぞれ個性がある。業界では二位のファミマがファミチキ(マルコ福音書)という新機軸の看板商品を出したら、業界一位のセブイレがこれを参考に、ナナチキ(マタイ福音書)を繰り出してきたようなものです。ところが、後発のナナチキが一番美味しいと言われるようになり、第一チキン(第一福音書=マタイ福音書)の座を獲得したというのが、共観福音書の歴史です。

 それはともかく、こうして組み立てられたマタイ福音書の内容的特徴、イコール、「マタイの神学」が、私の組み立てによれば、以下の通りとなります。

 一.旧約聖書との繋がりを強調。二.パウロとも微妙に異なる律法理解と律法重視、【律法の創始者モーセ、律法の完成者イエス】。三.イエスの弟子としての教会。四.イスラエルの継承者としての教会。五.古いイスラエルから迫害を受ける、新しいイスラエルの教会、六.教会の世界宣教の展望。(講座の第二回、マタイ福音書の神学より)

 ただ、これらの特徴は、マルコやルカ、ヨハネには全く見られないという意味ではありません。福音書間で共通して見られる事柄でもあるのですが、マタイは誰よりもこれを前面に打ち出しているということです。マタイがイメージする教会は、当然のこと、以上の神学的特徴を実践する共同体であるはずですから、これがマタイの教会論となるわけで、結果、本章の表題通り、マタイの神学はマタイの教会論でもある、という図式が成り立ちます。


 三 律法の完成者イエスの教えを実践する教会

 これで話の前提が整いました。それでこの章からは、マタイの神学を念頭に置きつつ、具体的な聖書箇所を参照しながら深掘りしていきましょう。

 マルコでは律法の束縛からの自由が強調されていて、その点ではパウロの路線と共通するのですが、マタイはこれにやや修正をかけています。具体的には、律法は廃止されたわけではないことが強調されつつ、律法の一点一画までおろそかにされるべきではないことが、マタイによって新たに書き加えられています(五・一七「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」)。端的に言えば、マルコ福音書やパウロの言葉を行き過ぎて理解して、「律法なんか、もう要らないね!」という主張は、マタイの逆鱗(げきりん)に触れるものだということです。しかも、単純に律法を遵守せよということではなく、(イエス以前は未完成だった)律法を「完成」しつつ、律法を超越するイエスの教え・言葉を実践することが求められています。そうして提示されているイエスの言葉こそ、かの有名な「山上の説教」(五ー七章)というわけですね。


 四 ペトロを筆頭とする弟子たちに由来する教会

 マタイ福音書にしかないオリジナル記事といえば、私なら毒麦の例えや天の国の例えを思い浮かべますが、なにより、ペトロの信仰告白の箇所が挙げられます。ペトロの信仰告白の記事自体は、マルコが掲載しているものですが、マタイはそれにプラスして、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(一〇・一八)という言葉を書いています。

 実はこの箇所は、カトリックとプロテスタント側とで解釈や重んじ方が違ってきて、なおかつそれぞれの教会の正統性の主張が絡んでくるというセンシティブな箇所でもあります。それだけに扱いが難しいのですが、マタイがペトロを重視していることは確かです。他方、ヨハネ福音書はペトロ優位を弱めています。まあ、イエスによって立てられた使徒たちが土台となって、今日の教会へと続いているのだという教会の自己理解は妥当でしょう。


 五 人間関係のトラブルにキッチリ対処する教会

 「仲間を赦さない家来の例え」を導入している「七の七十倍までも赦しなさい」(一八・二二)という言葉もマタイオリジナルで、他方、ルカでは「一日に七回でも赦してやりなさい」とありますから、マタイはこの辺り、徹底して強調していることは明らかです。なにせ七十倍ですから。

 ところで、七の七十倍赦せという言葉、「そんなの無理!」と恐怖心を抱いている方もきっと多いと思いますが、これにはマタイの妥協を許さない性格や、マタイが好む徹底的かつ厳格な言い回しを考慮してもいいように考えています。

 これと共に添えられているマタイオリジナルの箇所が、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」の言葉を含むくだりです(一八・一五ー二〇)。ここから察するに、マタイの教会では人間関係のトラブルがあった際、責任を持つ人が仲介に立って事情を聞いた上で、指導に従わないなら除名処分という手順が定められていたようです。これもまた、教会論と密に関わってきます。


 六 洗礼を授け、キリストの言葉を教える教会

 やはり最後は、アレです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(二八・一九ー二〇)。マタイ福音書を締めくくる、言わずと知れた「大宣教命令」です。「あなたがたと共に」については、クリスマス記事の一・二三「インマヌエル」と呼応関係にあり、マタイの始めと終わりがこれで囲まれていることも、以前に触れたことでした。

 洗礼を授けることも含めたこのような命令は、後代の付加部分と見なされているマルコ一六・九以降を除けば、マタイのみに見られるものです。ただ、ルカは使徒言行録でその旨を物語り、ヨハネでは弟子たちが福音書中で既に実践していますが(四・二)。


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